Monthly Archives: 1月 2015

自己責任について

今回の人質事件の中で自己責任という問題が取り上げられている。

 

普段の日常生活の中で、一般的な自己責任を考えていく上で、まず考えておかなければならないのが自己責任を問う以上、前提として、個人の自己実現、自己統治が保障されていることが必要です。

 

個人が自己実現、自己統治できて初めて、個人の自己責任を問うことができるからです。

 

一般的な意味での自己責任はさておいて、今回の人質事件での自己責任問題ですが、正直なところ、私自身は自己責任としての部分が大きいと思う。

 

戦場含めた危険地域での報道経験もあり、自ら進んでイスラム国に赴いた事実、他者のアドバイスもあった上で、実際に自ら、誰にも責任もなく自分自身にあると言われている事実。

 

現状認識のあるうえでの行動であり、たとえそのことによってどんなことがあろうとも自己責任の世界であると思う。

 

一方で、戦争、飢餓、暴力、圧政から逃れ、虐げられている人たち、弱者の報道という社会的ニーズに誰かが答える必要性もあるのだが、その問題と自己責任の問題とは基本的に別問題であって混同してはならないと思う。

 

人情論として、そういった社会的ニーズに命を張って出かける人たちの命が救われることを望むが、もし失われることがあったとしても、致し方ないことかとも思う。

 

蓋し、世の中には彼以外にも、数多くの命を張って仕事につかれている人は多い。

 

身近でいえば警察官、消防士の方々がいる。彼らは、実際は違うのかもしれないが、職務規律上は自分の命を懸けて国民の命を守ることを任務としている。

 

もし彼らが国民をほっておいて自らの命を守ったとしたなら非難されるであろう。逆に言えば、殉死しても基本的には彼らは自分自身で選んでしたことなのだからと言われるだけであろう。

 

世界でこの人質問題、イスラム国のテロの非情さ、残酷さが盛んに取り上げられているが、一方で考えなければならないことがあると思う。

 

イスラム国含めたテロ組織の行動は非難されるべきことであることは間違いないが、アメリカを中心とした多国籍軍による空爆によって一般の市民の被害が出ていることも事実である。

 

その中には幼い子供もいるであろう。そういう人たちもそれぞれに一つの命であることには変わりがない。

 

今回人質となっている一人と同じ一人なのである。

 

彼らは何の予告、取引も許されることなく、世界のだれからも助命活動されることもなく静かにその命を終えている。

 

私は、全世界の人たちがもう一度、今回の事件をきっかけに、私たちが今、行っていることの愚かさについて考え直さなければならないと思う。

 

その中でも、富のある、豊かな人々こそが、冷静に、真剣に考える、より大きな責任を負っているのではないかと思う。

 

2015年1月29日   文責   世界のたま     sign

 

 

これからのEUについて思うこと

ギリシャの経済破たん、そしてEU全体を覆うデフレをきっかけにしてEUの存続が危ぶまれています。

 

EUという経済統合は、世界にとっても、国家を人が生きるための手段としか考えない私にとっても、壮大な実験であったし、今現在も試されている。

 

現実問題としては私が考えるにこのままいけばEU解体の確率が高いと思われる。

 

私は世界の先進国を見渡したところでドイツの考え方が最も今後の世界の在り方を考えた時、正しい方向だと思っています。

 

日本がアベノミクスにおいて、日銀の黒田総裁が大規模な金融緩和に踏み切ったときもドイツの財務大臣が批判したのを覚えている。

 

今回、EUの中央銀行が同じく大規模な金融緩和に踏み切り、多量の国債の購入を決定した際にも、ドイツのメルケル首相はそれを批判している。

 

私はドイツのメルケル首相の発言は正しいと思っている。道理に合っているからです。

 

ドイツは、ギリシャの負債を多くかぶってまでギリシャの緊縮財政を推し進め、EUに残る条件としたがギリシャが反発し今回の選挙で緊縮財政への見直しがされようとしている中、おそらくドイツ自身もこれ以上、ドイツがギリシャの債務を負担することに対しての国民の理解は得られず、実際問題として限界であったのだろう。

 

一方でギリシャ含めEUからの離脱への動きがイギリス、フランスでも見られ、そうした動きの中でドイツとしては今回の中央銀行の決定につき同調せざるを得なかったのだと思う。

 

ドイツの目指す財政、金融政策が私は本来あるべき姿だと思っている。

 

今回の決定はドイツのメルケル首相と同様、私自身、残念としか言いようがない。なんとか踏ん張ってもらいたかったのだが。

 

そういった中で思うことだが、EUという国家の統合の難しさを強く感じる。

 

ただこの壮大な実験はまだ続けられているわけであり、私は日本こそがドイツのその思いを継いで行ける国なのではないかと思うし、継がなければならないと思う。

 

EUという縛りの中で一生懸命に頑張っているドイツを見るにつけ、今の日本の現状を考えた時、情けなくなってしまう。

 

私は、今こそ日本がドイツとともに緊縮財政、脱原発含め、世界に先駆けて社会福祉主義国家への道のりを歩む時だと思う。

 

2015年1月25日   文責   世界のたま         sign

 

イスラム国日本人人質事件について思うこと

まず初めに、人質事件にあわれた二人の日本人、及びご家族の方々の心中を察するに本当に悲しく、心を強く持たれることを願ってやみません。と同時に事件が無事早期に解決されることを祈っております。

 

この事件を聞いて私が考えることがいくつかあります。

 

一つ目が他の提言の中でもお話していますが、これからのテロに関して、その解決には強大な軍事力はほとんど役立たないことを改めて証明していることです。

 

いかに強大な軍事力を持つアメリカですらできるのは情報収集、テロに屈しないという大統領の非難声明ぐらいです。

 

これも他の提言の中や、主権者諸君への中でもお話していますが、最終的な解決方法、再発予防は何なのかと言うと、個の中に全体を見る私たち自身の心、気持なのです。

 

今回の日本政府も盛んに我が国の資金提供は人道援助だと伝えていますが、本当の意味で普段平素から、そういった行動をとっていなければ伝わらないのです。そういった意味で今回の政府の声明が相手側に伝わっているかと言えば、答えは否です。

 

私ですらうわべだけの安倍首相の声明に何の思いを抱くことがないのですから、相手にとってまったく気持ちのない声明は何の意味もありません。馬鹿にされるのが落ちです。

 

その例が数日前、日本滞在中のシリアから逃れて生活されている一人のシリア人男性の子供と、妻に対し緊急に日本政府がビザを発給し、感動的な三人の再会がニュースで報道されていましたが、今まであれだけ難民認定申請を却下した上、ビザの発給を拒んでいたのに、今回の事件が起き、解決が困難とみるやいなや、シリア人の顔色をうかがう見え透いた、安っぽい日本政府の対応にはうんざりしてしまいます。

 

日本人の被害がシリアで起きなければ今もビザの発給はされてはいなかったでしょう。

 

私が言いたいのは普段からの日本国としての思いやりを持った対応があれば、こういった事件は起きにくいし起こってもその対応は違ったものになると思うのです。

 

見え透いたその場しのぎの対応をいつまでも続けてはいけないのです。

 

今回、私がホームページを立ち上げているのも日本国、日本人皆が今までの価値観を少し変えて物や、お金や、便利さではなく、人への思いやり、他者の尊重に価値を置くべきことを伝えたかったからにほかなりません。

 

今回の事件を通じて、もう一つ思うことはイスラム国と言う実体は国家の体をなしていないかとも思われるが、どうであれそういった国が作られたことの持つ意味は、ウクライナのクルミア問題、イギリスのスコットランド問題を見ても分かるように、国家とは所詮、人が、人として生きていくうえで一つの手段にしかすぎないということを明らかにしているのだと思う。

 

世界への提言の中でも言っていますが、私たちは今、国家とは何なのか、イスラム国と言う一つの事象を通じて問われているのだということも認識しなければならないと思う。

 

2015年1月25日  文責  世界のたま   sign

 

フランスでのテロについて思うこと

今回のフランスでのテロについて、いろんなことを考えさせられた。

 

一つには表現の自由の問題だ。

 

我が国においても日本国憲法第21条において表現の自由は、精神的自由の中の中心的権利として手厚く保障されている。

 

そもそも表現の自由は人としての自己実現、自己統治にとって不可欠な権利であって思想、良心の自由に次いで保障されるべきものである。

 

ただし、思想良心の自由のような内心の自由に比べて表現の自由は他者との関係において問題を生ずることがある。

 

日本でも、プライバシーとの関係において問題となることがある。

 

いわゆる個人の人権のぶつかり合いだが、表現内容が公的な内容なのか、真実なのかなどいろんな観点から調整が図られることが多い。

 

私は思うのだが、基本的な考え方としてまず表現に自由は保障されるべきことが第一であるとは思う。ただし、その内容によっては名誉棄損、侮辱罪などにあたり、思想、良心の自由に比べて、その自由は絶対ではないとも思う。

 

今回のフランスでの風刺画が信仰する人にとって名誉棄損、侮辱に値するかについて正直なところ私にははっきりしないが、信仰する人たちの心を傷つけた可能性があるのではないかとは思う。

 

ただそれがすぐさまテロによる生命を奪うに値するかと言えば、そこには問題があるとは思う。

 

しかし、その後の新たな風刺画などを見るにつけ、一連の行動全般から考えた時、表現の自由としてどこまでも保護するには思いやりが欠けているようにも思える。

 

もう一つ考えさせられたのがテロについてだ。

 

今回のテロの背景にはいろんな要素があると思われ詳細については私などでは理解できない。

 

ただ言えることは各国で、テロ対策として軍事、警察的対策が取られているがそれだけでは難しいと思う。というより、それでは解決にはならないと思う。

 

今や世界中の国が資本主義的経済発展を遂げてきて物は豊かに、そして便利になり、おいしいものを食べられるようになってきている一方で、格差社会は進み、富める者はより富んで、社会的権力を握り、それが固定化してきているように思える。

 

そういった経済的格差社会の中で、民族や、宗教というものが相まって複雑な問題を引き起こしているように思える。

 

安全保障についての提言の中でも述べたことであるが、現在、世界各地で起こっている戦争やテロは、軍事力という力だけでは解決できない。

 

我が国においても非正規雇用者は増え続け、金融、財政政策においても格差社会をより増大させる方向にいっており、沖縄辺野古の基地問題においても、総選挙同様、数の力で少数者、力の弱い者を押しつぶそうとしている。

 

私は思うのだけれど、先に述べた表現の自由の問題にしても、テロの問題にしても、最終的には他者への思いやりだと思う。特に権力を持った者の社会的弱者への思いやり、配慮だと思う。

 

テロを防ぎ、皆が平和の中で生活してゆくためには、強大な軍事力が必要なのではなく、国際社会において、貧困、飢餓、差別をなくし、国内においても格差社会是正のための金融、財政、社会保障政策への転換が不可欠であると思う。

 

そのためには憲法を尊重した民主主義政治が行われることが絶対的な前提条件なのです。

 

何度も言いますが、国境、民族、宗教を超えた他者への思いやり、個の中に全体が見れる考え方こそが、今、人類にとって必要な時なのです。

 

2015年1月18日  文責  世界のたま    sign

 

 

今後の介護保険制度の在り方について

高齢化に伴う要介護者の増大の中で介護費用は増加の一途を続けており、介護サービス事業者への介護報酬の減額が行われようとしています。

 

ただ、こんなことをしたところで焼け石に水で来年度もまた減額なり、利用者負担の増額などつぎはぎだらけの出たとこ勝負的な政策をしてゆくことになるだけで、今後の顛末は簡単に予想がつきます。

 

他の提言の中でも簡単に述べたことですが、いつまでもサービス事業者への介護報酬額を減額したり、自己負担をちまちま上げていったところで時間の無駄です。そんな方向で時間稼ぎしたところで、どうせ行き詰ってしまうのですから。

 

もう少し現在の介護保険制度を全体から見つめ直さないといけないのです。

 

私が現在の介護の現場で思う問題点をまとめて述べてみたいと思います。

 

まず考えないといけないことは大きく二つあります。

 

この二つが今後の介護サービスを考えていくうえで柱になります。今の介護保険制度のように破綻している制度を前提として変えていったところで先に述べたように、いくら変えたところで無理なのです。ただ単に時間の無駄なのです。

 

上手く行かない時にはまず、制度自体を考え直すべきなのです。

 

現在の介護保険制度は介護度によって一か月の介護サービス利用の上限が決められています。介護度は要支援1、2と要介護1から5までに分けられており、介護度が高いだけ介護保険上、多くのサービスを保険内で受けることができます。

 

結果的に介護度が高い人ほど当然医療面での多額のケアが必要で介護、医療両面での国家負担は大きくなり介護度5であれば総額一人当たり一か月で50万円以上にもなるケースがほとんどではないかと思われます。

 

今の医療、介護両面から制度を考えてみた時、そして、現在、両現場で行われている実際のケアを考えてみた時、今後加速度的に、重度の要介護、要医療が必要な人は増えてくると思われます。

 

両制度は消費税増税をしたところで、現在の国家債務状況や、今年度の国家予算を考えてみてもすでに破綻しています。

 

現実を前にしてどうしたらいいかと考えてみた時

 

介護、医療面での計画的な国家予算計画を立てるうえで必要なのは両制度利用額が総額でいくらになるのかをはっきりさせることなのです。

 

そこで私が考えるべき柱の一つが他の提言でも述べていますが介護保険と医療保険を何らかの形で一本化すべきで、なおかつ制度内で上限を設けるしかないと思います。

 

私は医療、介護保険利用を各自の生き方の選択の中で利用していく方向がベストであると思います。

 

そしてもう一つの柱として制度的に考えていかなければならないのは医療、介護制度の根本的な目的意識の徹底であり確立だと思う。

 

そもそも介護保険導入時、社会的入院の排除、医療、介護の分離のため、基本的には在宅介護、いわゆる自宅での介護サービスを中心に考えたはずなのですが、結局、施設型介護が中心となってしまい、良い悪いは別にして施設での徹底的な医療、介護面でのケアのため結果的には重度の要介護、要医療必要者が増える結果となっています。

 

私は医療、介護制度の目的は、国民の社会的生活、言い換えれば人が人として生きてゆくための国家的なサポートだと思う。

 

それでは人が人として生きてゆく社会的生活とは何なのかと言えば私はあくまで在宅生活であると思う。

 

私が医療、介護現場でよく経験することだが一人暮らしされておられる方でかたくなに他人のサポートを拒否される方がいる。

 

たまにニュースでも一人暮らしの孤独死として悲しいニュースとして報道されているのを見ることがあるが、はたして当人にとって本当に悲しかったことなのか疑問に思うことがある。

 

私は孤独死をされた方の多くは自分でそういった終焉を選択されたのではないかと思う。かたくなに他人のサポートを拒否される方と同様に。

 

隣家などへの延焼など社会的問題がない限り、私は決して孤独死とは悲しいものではなく一人で好きなように旅立たれ、誰にも迷惑かけず、自己完結された死として尊いものではないかと思うのです。

 

他の提言でも取り上げていますが、人にとって、生きているとは、ただ単に心臓が動いて呼吸していることではないのです。自己実現こそが生きているということだと思う。

 

自己実現、自己完結してこそ、生を全うしたことになるのだと思う。

 

そういった意味で介護保険制度においても、在宅介護が基本であり、今までの日本の介護保険制度のように基本的な考え方がぶれることがあってはならない。社会経済学的にも選択の余地はないのです。

 

私は二つの基本的な柱を中心としてもう一度日本の介護保険制度を作り直すべきだと思う。

 

さらに、現介護保険制度についての問題点を述べると、介護保険サービスを実際に利用しようとしたとき居宅介護サービス事業所を通じて毎月サービス計画書の作成が義務付られる。

 

介護支援専門員が最終的には計画書を作成するのだが、私自身多くの計画書の作成を実際に作成してみて感じるところなのだが、あまりにも形式的で、現実的ではない。

 

事業所の行政監査にも何回も立ち会ったが基本の計画書自体に無理があると思うことが多い。

 

80歳、90歳の高齢者にとって日常生活動作の改善目標の設定、その成果を計画書の中で作成し、実際のサービスでどこまで達成されたかなどを記載することになっているが、私は寝たきりの高齢者にとって酷な話だと思う。

 

確かに現実的には書類上の問題で多くの施設ではどこまで計画書に沿って行われているかわからないが、人も生物である以上老いは避けられず食事もとれなくなって褥瘡もできて当たり前であってそれが自然なことなのです。

 

私は介護とは何かと考えた時、その核心は、その人の自然の生き方、裏返すと死に方を尊重して寄り添うこと、ただそれだけだと思う。

 

医療における終末医療も同様だと思う。

 

私自身、介護保険制度開始時から、数多くの主治医意見書を作成し、介護度判定委員として何回も判定会議に出席し、介護支援専門委員として居宅訪問調査、サービス計画書を作成し、数多くの終末期の人々を看取ってきた純粋な現場の意見として述べさせていただきました。

 

人は生きて死んでゆく。生とは何なのか、死とは何なのか。

 

もう一度、考えてみてください。

 

その中で、これからの医療、介護保険制度を根本から見直してみるべきではないかと思う。

 

2015年1月17日   文責  世界のたま           sign

 

我が国の今後の医療の在り方

他の提言の医療保険制度の行き詰りの中でも触れていることだが、少子高齢化社会の中で我が国の今後の医療の在り方が問われている。

 

私がまず思うことは、一般的には少子高齢化社会の中でますます医療費負担が増大して大変になると言われているが、ここで考えないといけないのは少子高齢化が医療費の増大を引き起こしたのではなく、医療費を際限なく増やしてきたから結果として少子高齢化の結果を招いているということです。

 

少子高齢化の原因については女性の社会進出などいろいろあげられてはいますが私は医療費の際限ない増大化が最も大きな原因ではないかと思う。

 

政治的に見ても政治家にとって高齢者、医師会、製薬企業など現在ではそれほどの影響力はなくなっているとは思うが最も政治的な意味で重要視されるべき対象だったことは言うまでもないと思う。

 

その中で結果として医療技術、治療薬が開発され、それが生物学的な寿命を延ばし続けたと思う。

 

私が言いたいのは、今後の我が国の医療を考えていくうえでまず第一に考えないといけないのは、10年後に高齢化がどうなっているかではないのです。

 

多くの医療問題の話の中で、高齢化社会が大前提となっていて、そのためにどうするかが議論されている。

 

そもそも出発点が問題だと思う。

 

私たちが今考えなくてはいけないのは結果として高齢化社会になっている今までの社会の在り方、今現在の高齢化社会での高齢者自身、それを支える家族、社会にとって、事実として本来、人が人として生きるふさわしい社会になっているのか?

 

言い換えれば、私たちがこれからの我が国の医療を考えてゆくとき、本当にまず第一に考えなくてはいけないことは医療費をどう抑制すべきかということではなくて今の医療の在り方で人が人として生きるにふさわしい社会が形成できるのかと言うことなのです。

 

もし仮に、このままの医療の在り方でよいとすれば消費税含めて財源論を推し進めてゆけばいいだけのことです。

 

ただ、私は今の医療の在り方、というより、社会の在り方は間違っていると思う。

 

本来の生物の一つの種としての人間の生き方、生を考えてみるとき、私たち現代社会はあまりにも自然から離れてしまった、ある意味では傲慢な生き方をしていると思う。

 

現実的な医療の現場から考えてみた時、4つの点で基本的な考え方の転換が必要と思う。

 

一つは他の提言の中でも取り上げていることであるが生ある者には寿命が必ずある。基本的には自然の寿命の尊重である。尊厳死はもとより、ある程度の年齢以上の生命のむやみな延長は生命の尊重の観点からも社会経済的な観点からも避けるべきだと思う。

 

もう一つは年齢以外で問題となるのが多くの成人病においてかなりの部分、自己責任があるということだ。確かに遺伝的な体質の問題も関与している部分もあるのは事実だが、先天的な疾患を除いてやはり自己責任という考え方を医療保険の中で取り入れていかないと、怠惰な生活をしている者ほど税の恩恵を受けるということになりかねない。健康はお金で買えないという事実は間違いのないことではあるが。

 

もう一つは、医療保険制度自体の問題だ。いくつかの問題があるが、薬価の問題は大きいと思う。いわゆる薬代だが、成人病疾患においてはいくつもの似たような薬剤がいくつもの製薬会社から出される。実際にそれぞれの製薬会社で研究費を費やして開発されたものだが、よく考えてみるとそれらの研究費用は薬価として国の医療保険の中で結果的には支払われることとなる。

 

確かに民間の製薬会社が競って新薬開発をすることによる大きな利点がありそうではあるが、医療費負担の観点から言えばムダ金ともいえる。過当競争の中で不正データ改ざんなどの事件もあったのも記憶に新しい。新薬から10年経過して特許が切れてジェネリック販売が認められているが、副作用、効能効果、医療機関への情報提供などの問題からジェネリックへの移行がなかなか進まない現状がある。先発メーカーの子会社を通じてのオーソライズジェネリックという全く先発品と同じものがここ1~2年の間にいくつか出てきている。様々な問題があると思われるが結局はそれに尽きる気もする。

 

私は最近の製薬会社を見ていて思うのだが薬価として認める製薬会社を絞ることも考えるべきだと思う。規模ではなく、薬剤そのものの副作用含めた評価、薬剤の副作用などに対して真摯に対応している企業なのかどうかなどすべてを評価して国民の健康にとって害のある製薬メーカーは薬価から排除することも考えるべきだと思う。

 

最後になるが医療機関そのものの問題だ。そもそも多くの病院は保険医療機関であり医療機関の医療機器、土地、建物の原資は国民の医療費、すなわち税金だ。そして医師資格そのものも医学部で学ぶ費用にも税金がつぎ込まれている。

そういう意味で医師は医師法において診療拒否ができないことになっているゆえんとも思うが、私は本来、設立医師が医師をやめるとき医療施設などを、国庫に返納するのが道理にかなっているとも思う。

ただ、現実的には診療収入は物や、家族の資産等に代わっていることが多いいいと思われるので、結局は診療収入を出来高ではなく公務員化して給与として一定額にするのがわかりやすいと思う。

 

人が医療行為に携わるとき、それが医師であれ、薬剤師であれ、製薬会社であれ、税金が原資であるという以前の問題として、本来、それは他者に寄り添う気持ちであり、サービス精神だと思う。

 

今後の医療を考えることは、今後の日本社会の在り方そのものを考えてゆくことだとつくづく思うし、ただ単に今までのような薬価改定、診療報酬改定などで解決するとは思えない。抜本的なダイナミックな改革が不可欠である。

 

このことは、医療だけではなく他の分野でも同様なことがいえると思う。

 

私たちの今までの価値観を塗り替えていかなければならない時なのです。

 

2015年1月13日   文責  世界のたま   sign

核心的なもの

新年を迎えて思うことは何故、人間は新年を祝う習慣を昔から続けてきたのだろう。

 

私が一番追い求めているものは何かというと、他の提言の中でも様々な違った表現で書いているのだが、一言でいうと、純粋さだ。

 

大自然もそうだし、子供のきらきらと輝いた瞳もそうだし、小説でいうと、そんなにいろんな小説を読んだ人間ではないが高校生のころから三島由紀夫の文章が好きだったし、彼の壮絶な死も惹きつけられるものを感じた。

 

人間は自分自身含めておそらく精子、卵子、受精卵というシンプルで単純なものから、言い換えれば純粋なものから、細胞分裂を繰り返し、人間が形成される過程の中で、さらに母体から社会に生まれ出た新生児から、大人になるにつれて細胞レベルでも時に誤った細胞が作られ、排除される過程の中で精神的にも純粋さを失ってゆくものだと思う。

 

私自身、身体的、精神的に純粋さを失ってゆく中で、時に純粋な人間に出会うこともある。そんな時間は本当に嬉しいものだ。

 

多くは子供が多いいのだけれど滅多にないが大人で純粋な瞳を持った人間に出会うことが幾度かあった。本当に美しい時間の中に自分の身をゆだねるようで、本当に心地よいものだ。

 

ただ現代社会の中で自分自身を純粋な形にとどめておくことは至難の業だ。意図的には決してできるものではないとも思う。

 

誰しもが何かに集中している時間、逆に言えば無心な精神状態になっている時間、その瞬間は本当に純粋になっている時間だと思う。

 

言わばその時間の中に自分自身を入り込ませ、時間そのものを自分自身にさせた時、生そのものが純粋になれるのだと思う。

 

結果として純粋なものはすべてのものを包み込み、飲み込んでしまう力を持つこととなる。

 

純粋なものとは言わば物事の核心である。

生物で言えば細胞、自然で言えば海、憲法で言えば自然権であろう。

 

私が今まで生きてきて求め続けているものは何かと言えばその核心的なものなのだと思う。

 

昨年、このホームページを立ち上げて様々な提言の中で求めているもの、訴えているもの、それはその核心的なものなのだと思う。

 

冒頭の何故人間は新年を祝うのだろうということだが、人間は愚かで弱いものだから単なる偽りでしかないのだが純粋な自分を取り戻した錯覚を起こさせるには簡単な方法だからだと思う。

 

20歳のころ、アルバイトをしていて、いろんなことを学んだが、その中に出会った言葉の中に、無為に耐えたるは強しと言う言葉を言われたことがあった。あの頃は漠然としか理解できなかったが、今はその通りだと思う。

 

真に核心的なものへの道は、何かと言えば、無為に耐えることなのだと思う。

 

2015年1月5日   文責  世界のたま                    sign