核心的なもの

新年を迎えて思うことは何故、人間は新年を祝う習慣を昔から続けてきたのだろう。

 

私が一番追い求めているものは何かというと、他の提言の中でも様々な違った表現で書いているのだが、一言でいうと、純粋さだ。

 

大自然もそうだし、子供のきらきらと輝いた瞳もそうだし、小説でいうと、そんなにいろんな小説を読んだ人間ではないが高校生のころから三島由紀夫の文章が好きだったし、彼の壮絶な死も惹きつけられるものを感じた。

 

人間は自分自身含めておそらく精子、卵子、受精卵というシンプルで単純なものから、言い換えれば純粋なものから、細胞分裂を繰り返し、人間が形成される過程の中で、さらに母体から社会に生まれ出た新生児から、大人になるにつれて細胞レベルでも時に誤った細胞が作られ、排除される過程の中で精神的にも純粋さを失ってゆくものだと思う。

 

私自身、身体的、精神的に純粋さを失ってゆく中で、時に純粋な人間に出会うこともある。そんな時間は本当に嬉しいものだ。

 

多くは子供が多いいのだけれど滅多にないが大人で純粋な瞳を持った人間に出会うことが幾度かあった。本当に美しい時間の中に自分の身をゆだねるようで、本当に心地よいものだ。

 

ただ現代社会の中で自分自身を純粋な形にとどめておくことは至難の業だ。意図的には決してできるものではないとも思う。

 

誰しもが何かに集中している時間、逆に言えば無心な精神状態になっている時間、その瞬間は本当に純粋になっている時間だと思う。

 

言わばその時間の中に自分自身を入り込ませ、時間そのものを自分自身にさせた時、生そのものが純粋になれるのだと思う。

 

結果として純粋なものはすべてのものを包み込み、飲み込んでしまう力を持つこととなる。

 

純粋なものとは言わば物事の核心である。

生物で言えば細胞、自然で言えば海、憲法で言えば自然権であろう。

 

私が今まで生きてきて求め続けているものは何かと言えばその核心的なものなのだと思う。

 

昨年、このホームページを立ち上げて様々な提言の中で求めているもの、訴えているもの、それはその核心的なものなのだと思う。

 

冒頭の何故人間は新年を祝うのだろうということだが、人間は愚かで弱いものだから単なる偽りでしかないのだが純粋な自分を取り戻した錯覚を起こさせるには簡単な方法だからだと思う。

 

20歳のころ、アルバイトをしていて、いろんなことを学んだが、その中に出会った言葉の中に、無為に耐えたるは強しと言う言葉を言われたことがあった。あの頃は漠然としか理解できなかったが、今はその通りだと思う。

 

真に核心的なものへの道は、何かと言えば、無為に耐えることなのだと思う。

 

2015年1月5日   文責  世界のたま                    sign

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