Monthly Archives: 2月 2020

契約民主主義について(落合様)

メールがうまくいかないので投稿にて連絡させていただきます。
連絡いただきありがとうございます。
御返事遅くなって申し訳ございません。
落合さん難しすぎます(笑)
契約民主主義含めて読ませていただきました。正直申して、私のようなアナログ人間にとってわかりにくい点も多々あり、落合さんが言おうとしていることがどこまで理解できているのかわかりませんが、多少思うところを述べさせていただきます。

1)私自身、常々、形骸化した政党政治、現在の代表民主制に関して、その改善を模索し、訴えている点において、落合さんの述べる審議による意見投票は、一つの民主主義制度として興味深く思います。例えがずれているかもしれませんが、日本の裁判員制度のようなものだとも思えました(専門職の裁判官と任意に選ばれた裁判員による判決)。アメリカの陪審員制度のような専門家を入れない点、理解力テストを経ている点で、異なっているのだと思います。専門家に決議権はないのだと思いますが、裁判員制度と違った面白い点だといえます。
2)憲法の位置づけについては、審議による意見投票によって、改憲が可能であると思われますが、これはイギリスの不文憲法に近く、審議、提案による変更の集積、現在の判例の集積に近いものと思われます。
憲法が、国民に近くなるという点で、面白いですが、基本的人権保障、特に精神的自由権への侵害のリスクが危惧されます。
3)私自身、ブロックチェーンという言葉は知っていましたが、読ませていただいても今だもってはっきりしませんが、私が常日頃から考えている個の中に全体がある、そんなもののような気がして親近感は持ちます。原理的には非常に興味深く感じます。
法律の解釈変更、その流れ、それらに対する言い逃れ、現在の政権の持つ発言に対する責任回避、それらを含めた民主主義におけるもっとも重要な説明責任において有意義な仕組みかもしれませんね。
4)落合さんのこの提案は、民主主義制度に関するものではありますが、憲法や、世界を視野に入れるとするならば、私は、これらの仕組みのベースには自然との接点が不可欠だと思います。
人間そのものが、自然の一部に過ぎないという立ち位置をベースに入れない限り、如何なる仕組みももろく、壊れやすく、可塑性がありません。
5)正直なところ、落合さんの民主主義システムが、実現可能なのかわかりません。私自身理解できていない点が多々あると思いますし、ただ言えることは、今、世界にある民主主義制度は、破綻しており、自然との兼ね合いにおいても限界に達しています。残された時間もそんなにないと思っております。
最終的には、個々人の中にある公的な部分、それらをいかに引き出すのかにかかっていると思います。しかし、現在のお粗末な脳育の中で、形成される理性は真の意味での理性には程遠く、真の想像力を人々は失ってきています。
そうした中で、落合さん契約民主主義の提案は十分に検討に値すると考えます。

       2020年2月27日  文責  玉田憲勲

新型コロナウイルス(自然)が、私たち人類に伝えようとしていること

新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている。そうした中で、中国での生産が急速に減少し、サプライチェーン化したグローバル化世界経済は急速に減速し、ニューヨーク市場はもとより、東京市場でも連日ダウは大幅に下がっている。

また世界各国で、中国、韓国、日本など主要感染国への渡航制限が拡大し、結果的に、観光客は減少し、航空産業をはじめとする輸送産業、ホテル、旅館などの宿泊産業等々、様々な業種への経済的影響を及ぼしてきている。

私は、これまでもグローバル化した経済至上社会が人類にもたらすリスクを述べてきたが、今回の新型コロナウイルスに関しても述べておきたいと思う。

1) 自然と人間について
私たちが、まず認識しないといけないことは、今回のコロナウイルスの問題は、私たち人類と、自然との関係の問題であるということです。すなわち、私たち人類が対峙しているのは、コロナウイルスではなく、自然であるということです。
その上で、さらに私たちが忘れてはならないことは、私たち人類も、自然の一部に過ぎないということです。言い換えれば、所詮、ウイルスも人類も自然界においてどちらも優劣のないそれぞれが対等な一生物に過ぎないということです。

そうした中で、今回の新型コロナウイルスについて、私が思うことをいくつか述べておきたいと思う。

私たちはこれまでも新たなウイルスが出れば、新型という名をつけては検査、診断、治療を進めてきたが、これから先もこれらの新型ウイルスは、加速度的に発生すること、一方で、その診断、治療には限界があることを知らなければならない。
何故なら、私たち人類が、生物の進化の過程の中で最終的な生産物であるとするならば、生物が本来持つ多様性、可塑性に関して言えば、進化に半比例して極限にまで小さく弱くなってしまった生物に他ならないからである。
私たち人類が、その多様性、可塑性において、ウイルスに勝つことは原理的に不可能である。

それでは、そうした中で、私たち人類はどうしてゆくべきなのか。
上記に述べたように、多様性、可塑性において勝ち目のない人類が、取るべき手段は一つしかない。
それは共生である。共生以外、私たちがとるべき術はない。

普段の日常診療の中で、私が感じるのも、ウイルスに関して言えば、その種を残そうとするその生命力であり、その多様性、可塑性である。

インフルエンザウイルスに関して言えば、年々、そのウイルスの型は別にして、その診断、治療は困難になってきている。それは決して抗ウイルス剤が効きにくくなったり、ウイルスの引き起こす症状がひどくなっていることを言っているのではない。その逆である。ウイルスがその姿をわかりにくくしているのである。それは様々な生物が擬態して自らの命を守ろうとするのと同じことである。
年々ウイルスは、その発症様式を変え、最近は、高熱を出さない、それどころか平熱状態で発症、経過することも多くなってきている。又、咽頭痛、咳、痰などの呼吸器症状が主体であったが、下痢,嘔吐の消化器症状を呈するものも多くなってきており、季節性もなくなり夏場でも発症するケースも出てきている。
これらは全て、ウイルス自らが、その生命維持を一日でも多く図り、増殖する時間稼ぎをしているとしか私には思えない。

そうした点で、今回の新型コロナウイルスを考えてみた時、その発症様式もほとんど一般的な感冒症状と区別がつかない。そして人体での潜伏機関、罹病機関も今までの一般的ウイルスと違って長くなっていると思う。私見であるが、おそらく1週間から4週間はあるのではないかと思う。
そのため治療者からいうと、診断つけにくく、尚且つ治癒証明しにくい。例えば、今までの例でいえば、小学生が38度の発熱をして受診したケースであれば、発熱日から5日間、最終発熱日から2日間の条件をクリアすれば登校可としていたが、これらが不可能になったことを意味している。
風疹、はしか、おたふくかぜなど、インフル含めた今までのウイルス性疾患は5日間をその罹病期間、発熱などの症状継続期間と考えていたが、それらの公式が当てはまらくなってしまったことを意味している。
そして発症された中国や日本の一部の患者さんにおいてはいったん改善、陰性化した人が、再燃化されるケースも出てきていることを考えた時、その診断、治療、感染拡大予防は、困難を極めるであろう。
重篤化例が、高齢者を中心とした多疾患合併例、免疫力低下例を中心としていることは、幼小児などにとっては朗報ともいえるが、このこと一つとっても、ウイルスがその生命維持を図ろうとした結果であると思う。蓋し、宿主が死んだらウイルスにとっても死を意味するからである。

それらのことを考えた時、ウイルスは、彼らが持つ多様性、可塑性を最大限発揮してその生命維持を図ろうとしてきている。

そしてウイルスがその多様性、可塑性を最大限発揮させるきっかけを作っているのは、私たち人類、特に先進諸国の人間に他ならない。

今回の新型コロナウイルスに関しても中国の一地域を主たる発生源として瞬く間に世界中に広がっている。本来は地域の風土病として片付けられていたかも知れない。(一部の報道に細菌兵器との関連性を言っているものがあるが、所詮、核兵器と同様に殺傷という点のみを科学的に追求した科学の持つ善悪などの価値を伴わない人間の愚かさの点において何らその評価に変わりはない。)

グローバル化した社会の中で、多くの中国の人々が世界中を駆け回っている。また世界中の人々も中国を訪れている。その移動手段も今回の豪華客船などがよい例であるが、数千人単位での限られた閉鎖空間での移動である。
ウイルスからいえば、自らが移動したわけではない。人間によって、特に先進国の資産をある程度持った人々によって移動させられたわけである。

私たち人間は、他の生物に関しては、生態系バランスが崩れると称して、外来種が紛れ込むことを拒み、入ってきた外来種に関しては徹底的なせん滅を図る。しかし、入ってくる外来種の多くは、コロナウイルスと同様に人間が運んだものである。その責任は私たち人間にある。

私たち人間は、他の生物に対しては、自然淘汰を推し進めるが、自分たち自身については、人間中心主義の中で、自然淘汰にあらがおうとしている。私たち人間も所詮は自然界における一生物に過ぎないということを忘れてしまっている。所詮稚拙な道具でしかない科学という幻の中で錯覚している。

オリンピックに関しても私見ではあるが、中止すべきであると思う。
世界各国への感染の拡大を招く恐れがあるということ。確かに、オリンピックにかけた予算、それに伴う、海外、国内旅行客による経済効果の損失は、大きいとは思う。それらによって恩恵を受ける人々、国家の税収入のことを考えれば強行したい気持ちも理解はできる。

しかし中途半端な気持ちで事を進めること以上の愚かさはない。
以前から申し上げているが、今回の東京オリンピックはロゴに始まり、招致での接待贈収賄疑惑、会場設置のおける設計、開催地含めた様々な問題、疑惑の塊である。平和の祭典ではなく、お金、利権をめぐる悪の祭典以外の何者ではない。

本来、オリンピックとは、前回の東京オリンピックがそうであったように、その経済効果を狙うのであれば、発展途上国などが経済発展の起爆剤として用いるべきものであり、もはや経済発展した先進国が開催すべきものではないと思う。
又、オリンピックが真の平和の祭典であるならば、実際の紛争地域で開催すべきものであろう。難民に対する経済効果、戦後の復興、世界中の人々が紛争国を知るまたとない機会となるはずである。
現在のリビアが象徴的であるが、経済至上主義の下での武器輸出合戦に先進国がこぞって参加する稚拙なことを止めそうした地域でのオリンピック開催をもくろむべきである。

2) コロナウイルス感染と、法の支配、民主主義の破綻~高等検察庁検事長の定年延長事件
今回の新型コロナウイルスの各国の対応もさまざまである。
我が国に関して言えば、日本国政府、現政権にとって、今何が最も重要であるかといえば、オリンピック開催による経済効果がすべてである。それまで何とかごまかしてでもやり過ごそうとする作戦である。オリンピック開催に向けて世界中の国から渡航制限が出ることを恐れている。
そのためには、感染者が多数出てもらっては困るのである。感染者が増えること、厳密にいえば、世界に公表しなければならなくなる検査陽性の感染者が増えることを極力抑えようとしている。現政権にとって実際の感染者数などある意味どうでもよいのである。

先日のニュースの中でも取り上げられていたが、何故、日本政府は検査に消極的であるのか、意図的にそうしているとしか思えないと解説されていたが、まさしくその理由は、そこにあると私は考えている。
桜の会、森友加計学園などで明らかになっている現政権の公文書廃棄、改ざん、その延長線上で考えた時、検査して多数の陽性者が出た場合、改ざん、虚偽答弁するしかない。だから、はなから検査自体をしないことに方針を決めていると思える。検査しない限り公文書破棄、虚偽答弁のような問題が生じることもないのだから

私は、検査しないこと自体は、必要なケースに限って迅速にしさえすればよいとは思う。片っ端から検査したところで、国民の不安を仰ぎ、パニックになりかねないとも思う。上記に挙げた長期にわたる潜伏期、罹病期間を考えた時、検査自体にあまり意味がなくなっている。意味があるとすれば、ワクチンであろう。又、医療費負担の問題もある。自己負担、国民の税負担それらを合わせて考えた時、ありとあらゆるケースで検査することに意味はあるとは思えない。
しかし、その前に、そうした理由を国民にはっきりと述べなければならないと思う。そうした上で、我が国の方針はこうであると伝えるべきである。

民主主義にとって最も重要なことは何度も述べてきたが説明責任である。説明責任のない社会において、たとえその少数意見が正しかったとしても多数になりうる可能性はない。ありうるとすれば、軍事力、経済力を用いた上での少数者が多数者を封じ込めるしかないが、それはもはや民主主義とは遠い世界である。

森友加計学園問題での公文書偽造、破棄、国会の虚偽答弁、究極の説明責任の放棄した国会の冒頭解散、そして桜の会においても同じことを繰り返しているが、今回のコロナウイルスに関しての対応、問題そのものをなかったことにする手法は、説明責任の放棄を、通り越した完全なる民主主義の否定に他ならない。

森友学園問題で逮捕された籠池氏が保釈されたが、大阪地裁判決は、補助金詐欺のみで、大元の安倍総理夫妻が関与した国有地払い下げに関しては一切触れていない。逮捕当時、国策捜査であると述べられていたが、今まさに、我が国において法の支配が完全に破壊されようとしている。

現在、国会やマスコミで取り上げられている高等検察庁検事長の定年延長事件である。今月初めに定年を迎えた高検検事長を半年間閣議で延長を決定し、現在の検事総長が退官するであろう今年8月まで無理やり延長させ、お友達検事を検事総長にしようとしているというのである。

私がこの問題で最も危惧しているのは、森友学園で公文書改ざん指示、国会で虚偽答弁したおバカな佐川理財局長を国税庁長官に抜擢した人事、公職選挙法違反したおバカな河合杏里を公認し、その片棒を担ぎ200キロ以上のスピード違反もものともしないその夫であるおバカな河合克行を法務大臣に抜擢するなどのお友達を重要閣僚にするなどの人事も問題であるが、それ以上の問題は、我が国における法の支配の崩壊である。

法の支配の崩壊という点で、二点問題となると思う。

まず一つが、高検検事長の定年延長の法的根拠の問題である。今回の定年延長には法的根拠がない。検事は検察庁法によって検事総長は65歳、それ以外の検事は63歳とその定年が定められている。したがって今までその例外はなかった。
しかし、今回の定年延長は、閣議によって国家公務員法を解釈適用することを根拠になされた。これまでの政府見解では、検察に国家公務員法の適用はないものとしてきていた。
当たり前である。検察庁法に定年が盛り込まれているということは、国家公務員法とは別であるということを最初から想定している。私は、検察庁法はいわば、国家公務員法の特別法であると思う。法律の世界では、特別法は一般法に勝つという原則があるが、この原則を、一時の政権が、お友達のために破っているのである。その破り方も彼らが言う解釈変更すらも文書化されておらず口頭での解釈変更である。開いた口が塞がらない、子供の世界でも通用しないおバカなことをしている。
このようなことが許されるなら、単なる口頭での解釈変更で済むのであれば、無数にある他の特別法の法的効力が解釈によって否定されてしまうことを意味している。

もう一つが、この事案が検察庁という権力からの独立が最も要請されるべき準司法機関であるということです。検察は司法に準じて司法の一部である捜査、起訴をする機関である。如何なる事件も起訴されない限り、法的にはその事件は存在しなかったことにできる。
特に、行政府に対しては、総理大臣含めた国務大臣、そして立法府に対しては国会議員の起訴、拘留もできる力を持っている。逆に言えば、起訴されない限り、法的にはどんな悪事を働こうが、許されるということを意味している。

今回の人事は、検察のトップに絡んでおり、全国の検察官の人事に影響を及ぼし、例えば、おバカな河合夫婦の事件を担当する広島地検などへの影響も必至である。おバカな安倍さんの下で無数に行われている忖度人事、それがいよいよ司法にも及んできたことを意味している。出世をもくろむおバカな検察官は、おバカな安倍さんを忖度して起訴すべき人を不起訴にし、政権にとって邪魔な人間は、何らかの理由で起訴し、拘留できる時代に突入したことを意味している。

今回のおバカな政権によるコロナ感染対応と同様、説明責任を果たさないのではなく、説明すべき事案をなかったことにしようとしている。

今回の新型コロナウイルス感染問題は、私たち人類に多くのことを伝えようとしている。
前回のブログでも述べたことだが、自然は、人類が自然との調和の中で、生活することを要請している。

年々増え続け、世界中で巻き起こる自然災害は、多くの人の命、経済的損失を招いてきている。
そうした中で、今回のウイルス感染によっても多くの人がその命を奪われ、健康を侵害され、交通が遮断され、産業界を含め、日常生活、あらゆる経済活動の停止を余儀なくされている。
しかし、このことはあくまで、私たち人間から見た景色でしかない。

自然から見た時の景色は全く違うものである。
自然の一部でしかない私たち人間が、犯している経済至上主義の中での多くの自然破壊、他の生物に対する多様性の破壊、そうした中での、今回の新型コロナウイルス感染に伴う交通遮断、渡航制限に伴う人の行き来の停止、経済活動の停止は、自然から見れば、正当防衛的行為に他ならない。

人間は、これらの事象を前にしても、自らを省みることもなく、どこまでも幻の豊かさを追い求め続け、経済至上主義の暴走を許し、加速しようとしている。

近代以降、人間が作り上げた一人一人の人間のための手段としての法の支配、科学主義、それらを経済至上主義が破壊してしまっている。

私たち人類は気が付かなければならない。
自然からの警鐘、それは、自然の一部である人類を救うための警鐘に他ならないことを

   2020年2月27日  文責  玉田 憲勲