1)アメリカのトランプ大統領によるイラン軍指揮官殺害事件、中東和平案提示
先日、トランプ大統領が、イラク国内でイラン軍指揮官をドローンを使って爆殺したことを認めた。
この事件は、現代社会において、テロと国際法上の戦争行為との区別がつかなくなっていることを意味している。すなわち国家による戦争を、テロに対する正当な行為としている。
9.11後、ブッシュ大統領は、テロとの戦いを宣言した。それ以降のビンラディン殺害のための、アフガン侵攻、結果的に存在しなかった大量破壊兵器を理由としたイラン侵攻、そしてその後のイスラム国との戦い、そうした一連の流れの中で国家による戦争行為とテロ行為との区別がなくなっている。言い換えれば、国家とテロ組織との区別がつかなくなってしまっている。
先日カタールのアルジャジーラのニュースの中だったと思うが、ガザ地区に住む住民が、イスラエル軍は、24時間いつでもガザ地区を空爆できると語っている。
イスラエルは、パレスチナを国家として認めず、ヨルダン川西岸地区で入植地を拡大させる一方で、ガザ地区に対して国家としての軍事力を行使し続けている。
そうした中、トランプ大統領は、大統領選を控え、弾劾裁判中であることもあり、イスラエルとパレスチナに対して新たな中東和平提案を行った。しかしその内容は、パレスチナ国家を認める代わりにヨルダン川西岸地区の入植地をイスラエル領にすること、エルサレムを不分割のイスラエルの首都とすることなどとしており、パレスチナのアッバス議長は、エルサレムは売り物ではないと和平案を一蹴している。
2)日産事件でのゴーン被告のレバノンへの不法入国事件
私には、この事件は明らかに不可解としか思えない。
実際、どこまでの国家間、個人間の取引があったかは別にして、何らかの暗黙の了解が、日本、フランス、ゴーン被告の間であったとしか思えない。
かつて後に韓国大統領となった金大中氏が都内ホテルから韓国に拉致された事件があったが、あの事件も日本政府は、その事実を知っていた上で見逃し、容認していたといわれている。
今回の事件も元グリーンベレーが関与していたなどとされているが、私は、日本政府は黙認していたのではないかと思う。
黙認の最大の理由は、日本の司法、司法行政に対する国際的な批判の回避だと思う。未決拘留中での家族、弁護士含めた面会の制限、弁護士の立ち会わない取り調べ、自白の強要、未決拘留中の代用監獄制度などの不当性、又、今回の事件とは直接関係はないが、先進国の中では、一部のアメリカの州以外で廃止されている死刑制度などに対する国際的な批判である。
そして、もう一つは、そもそも今回のゴーン被告が日産から排除された日産とルノーとの間の主導権争い、それに関しては、私は間違いなく、日産という企業と、日本政府との連携があったと思う。
世界中で明らかになってきている資本主義社会の行き詰まり、限られたパイの奪い合いの中での権力闘争の一環に過ぎないと思っている。
そうした国際的な批判、裏事情などを総合的に勘案した上での判断ではなかったかと思う。裁判が継続された場合、長期化することは避けられず、森友加計学園問題、桜の会問題で明らかであるように、国内においてすら説明責任能力の欠如した現政権が国際社会の批判の中で、上記に挙げたゴーン被告や日本の司法制度に纏わる様々な問題に対して、世界が見守る裁判上でまともな反論ができるわけがない。
私には、アメリカのケツについてゆくしか能力のない現政権にとってゴーン被告を逃亡犯にした上で、すべての責任をゴーン被告に押し付けるのが得策と判断したとしか思えない。
3)郵政事業3社の社長の交代問題
高齢者に対する詐欺まがいの契約の押し付け、不法収益の責任を取って引責辞任した郵政事業3社の社長は、すべて民間出身者であったが、新たに任命された社長はすべて官僚出身である。
郵政民営化は、かつての小泉内閣が自民党をぶっ潰すと豪語し、全国の選挙区に刺客を送り込んだ劇場型選挙によって獲得した議席をもってなされたが、それは、その前のレーガン大統領、サッチャー首相、中曽根首相らが唱えた新自由主義路線が布石になっていたと思う。
金融の自由化などを柱とする政府の民間への関与の排除、規制緩和の流れの中で行われたものであったが、結果的に急速な正規雇用から派遣型雇用変更の流れを招き、非正規雇用の増大する中での派遣切り、それは、経済至上主義社会の確立を意味していたし、格差社会への急速な転換でもあったと思う。
そうした結果としての今回の官僚出身社長への交代劇は、結局、新自由主義路線、経済至上主義社会の行き詰まり以外の何者ではないし、高齢者含めた社会的弱者に対する国家的詐欺、弱肉強食社会に他ならない。
国家の存在意義が、国民の幸福追求のための手段であるとするならば、現在の日本社会、世界の流れは誤りである。
森友加計学園、海外に派遣した自衛隊の日報問題、桜の会問題などで明らかになった公文書の改ざん、隠匿、国会における虚偽答弁は、民主主義国家の否定であると同時に、もはや文字を発明し、文字によって歴史を残そうとした文明社会の否定以外の何者ではない。
近代文明の特徴である科学主義という点においても、科研によるスタップ細胞事件で論文の盗用、捏造が行われ自殺者まで出している。文書の正当性のない科学は、社会に何らの意味をもたらさない。
誰もが不信感を持つ社会、基本的な理念、信念のないうわべだけの薄っぺらい社会は、もはや国家の体をなしてはいない。
自然との関連でいえば、現在、世界中で問題となっている新型コロナウイルスが、ここまで問題となった理由は、グローバル化のために短時間で、数多くの人が世界中を行き来してウイルスを拡散させ、元来、風土病として扱われた疾患が、人間の責任によって世界的な問題を引き起こすようになったに過ぎない。裏返せば、コロナウイルスや自然に何ら責任はない。
そして最も重要な問題は、人間による環境破壊が、種の多様性を喪失させてきていることである。多くの生物は、行き場をなくしており、特に、宿主に寄生することでしか生きられないウイルスにとっては、致命的である。
今回問題となっているコロナウイルスも本来、人間以外の動物に寄生していたウイルスである。人間によって引き起こされている生物の多様性の喪失の中で、結果的に、彼らは、生き残るために仕方なく人間への寄生を、開始しているに過ぎない。言い換えれば、ウイルスという自然によるヒトという種の自然淘汰に他ならない。人間による自然破壊が加速度を増す中で、ウイルスという自然もその変異のスピードを上げるのも必然である。
多くの方から怒られることを覚悟して言えば、そうした中での感染治療対策、ワクチンなどの感染予防対策は、根本的には無意味なことであり、何らの解決をもたらすものではない。
何故ならば、ウイルスによるヒトへの侵害は、自然破壊し続ける人間を、淘汰しようとする試み、ウイルスが生き残ろうとする試みは、自然現象として正当なものであり、言い換えれば、人間が行っている感染治療、予防対策は、自然の一部である人間が、決して消すことのできない自らの影を一生懸命消そうとしている影踏みに他ならないからである。
私たちは、オーストラリアの森林火災や、東日本大震災、西日本豪雨災害と、今回のコロナウイルスを全く別なものと考えているが、自然を破壊する人間に対する自然による自然淘汰という点においては、まったく同じ現象である。
カジノ含むIRで問題となっている収賄罪、おバカな河合夫婦による公職選挙法事件、どちらも経済至上主義社会がもたらした申し子である。
特に、おバカな河合夫婦による公職選挙法事件では、公職選挙法の上限を超えた2倍の報酬の支払い、すなわち彼らが言う河合ルールに則た報酬の支払い、又、先日明らかにされた自民党本部からの1億5000万円もの選挙前の振り込み、これは他の一般の自民党議員の10倍もの選挙資金であるが、その原資の多くは、国民が負担している政党助成金、すなわち我々の税金である。
1億5000万円もの振り込みに関して、おバカな河合杏里氏は、国会内のぶら下がり記者取材に対して、受け取ったが違法ではないと語った。
私は、常々、おバカな安倍首相含めた与野党国会議員が、国会答弁の中でも、自慢げに違法ではないという言い方をする時、いつも思うのだが、そもそも彼ら国会議員が自慢げに言えるものなのかということである。
違法とは、法律に反することであり、法律とは狭義の意味では、国会で定立された法のことを指す。それは、誰が決めるのかと考えたとき、国会を構成している彼ら国会議員自らが決めたことである。間接的には国民が決めたことであるが、直接決めたのは彼ら自身なのだ。
間接的にしか関与していない国民が違法ではないと言うのならまだしも、自らが決めた国会議員が違法ではないという言い訳は通らない。彼らにとって、守って当たり前のことであり、疑われることすら許されないということが理解できていない大バカ者なのである。
そして疑われるだけではまだしも、検察に家宅捜索までされながら、おバカな河合夫婦は、関係者が迷惑でも何でもないと言っているにもかかわらず、捜査に支障が出るとして説明責任を放棄している。国会議員の最大の使命は、国民の権利、義務に関わる法律を作ることである。彼らが、違法でないという言い訳をしたいのであれば、法を作る側から、守る側に代わるべきである。すなわち、議員辞職するのが道理である。違法でないという言い訳をするおバカな彼らなどに立法能力は微塵のかけらもない。
ましてや、おバカな河合夫婦が問題となっている事件は、公職選挙法に関わる事件である。国会議員という国民の代表の正当性に関わる事件であり、違法性を超え、日本国憲法にも反している。
ロシアのプーチン大統領は、国民との直接対話の中で、強い大統領を中心とした政治が必要で、議会中心の政治手法は正しいとは思わないと述べていた。
その理由として挙げたのが、ロシアが、多民族国家であること。欧米の現在の政治の現状、すなわち、アメリカでいえば、民主党、共和党の相いれないまでになった対立、イギリスでいえば、EUをめぐる離脱賛成、反対での長期にわたる決めきれない政治空白、それらを例に挙げて述べている。
先日発表された世界終末時計は、20秒早まり、100秒になった。これは、1947年に刻まれだして最も短くなったことを意味している。
短くなった理由として、二つ挙げており、一つは、アメリカによる中距離核戦略撤廃条約からの離脱、イラン、北朝鮮の核兵器開発などによる核兵器の脅威の増大、そしてもう一つが、地球温暖化による自然破壊である。
近代がもたらした法の支配、市場経済、科学の発展、そのバランスは崩れ、市場経済の行き着いた先の経済至上主義が猛威を振るい、法の支配からお金による支配へ、人間にとって有益な科学の発展から核兵器、化学兵器、細菌兵器を生み出してしまっている。
そして最終的に人間の生存基盤たる自然破壊をもたらし、破壊された自然の中で、生き残った自然をも、観光資源として、売り出している。その結果として世界中から観光客が押し寄せ、その交通手段としての航空機により、地球温暖化に拍車をかけ、観光地として、数少ない自然も観光客の土足によって踏みにじられてゆく。
私たちは、自然破壊することによって、何とか生き残っている貴重な大自然を、経済至上主義社会の中で、その経済的価値を高めさせる中で、結果的には破壊するという自然破壊の悪循環を繰り返している。
国家の意思の決定方法に関して考えた時、先のプーチンの話は、ある意味で当たっていると思える。
確かに、ユーゴスラビア内戦、リビア内戦、アフガニスタン内戦、イエメン内線、シリア内戦等々、歴史を振り返った時、その中身がどうであれ、非民主的であったとしても、独裁者であったとしても、恐怖政治の中でも、国家としてある意味でまとまっていたかもしれない。
我が国においても、与野党が拮抗する中での、決めれない政治からの脱却の中で、現在の安倍政権が生まれたとも思える。おバカな安倍さんがよく言う決めれる政治である。
国際社会においても、最終的に発言力が大きいのは、軍事力のある軍事大国、経済力のある経済大国である。
力のあるものによる政治、しかし、それでは単なる歴史の繰り返しに過ぎない。
歴史を振り返ってみればいい。
現在の世界の覇権国家であるアメリカ自身も、元をたどればイギリスとの独立戦争を経て独立国家となったに過ぎない。その後、ヨーロッパ諸国、アメリカが、世界中に植民地を作り、我が国日本もそれに続いて、韓国、満州国を植民地化していった。そうした後に、第二次世界大戦後、植民地となっていた東南アジア諸国、アフリカ諸国は、独立を果たし、ソ連も冷戦の終結とともに崩壊し、多くの独立国家が作られた。
現在の世界は、いくつかの強国が、世界中の人々を支配していた時代を経てたどり着いた世界である。今や、多数の独立国家が世界を構成している。歴史を繰り返さないようにするため国際連合や、EUなどを作り、共存可能な社会を図ってきた。
しかし、経済至上主義の中で、空気や水などの自然や、石油などの天然資源も限界があり、残されたパイを巡って、人類にとって最終段階に入ってきている。
現状の世界は、歴史の経緯を忘れてしまい、各国、各民族、各宗派が、それぞれの主義主張を繰り返し、自国、自民族、自宗教中心主義へと向かっている。
自国、自民族、自宗教中心主義へ向かっているその要因は、何度も話しているが、経済至上主義による格差社会の中で、富ある者が、権力持つ者が、パイが小さくなっている中で、その富の拡大、維持を図ろうとしていることに尽きる。
私たちは、歴史を繰り返してはならない。
もし強い大統領が、強い国家が、すべての権力を持って、政治を行えば、うまくいっているのであれば、現在のような多くの独立国家が形成されることはなかったであろう。
今の私たちに必要なものは、全世界を束ねる覇権国家ではない。
今の私たちに必要なものは、世界を構成する一つ一つの国家自らが、全世界のために存在する国家となることである。
全体を個にするのではなく、個の中に全体を見出さなければならない。
個の確立以外、その術はない。
我々、人類の生存にとって必要なのは、覇権国家などではなく、他国を思いやれる国家である。
他国を思いやれる国家にとって必要なのは、経済至上主義国家ではなく、自然との共存を図れる、法の支配に基づいた民主主義的な国家である。
そしてそのような国家にとって必要なものは、個の中に全体を見ることのできる、自己を犠牲にしてでも他者を思いやることのできる人間である。
国家とは何のために存在するのか。
国家とは、世界中のすべての国々を、他国を思いやることができる国家へと自国を導き、すべての国民を他者を思いやることができる国民に導くための手段、媒体に過ぎない。
しかし、その媒体なくして、世界平和、人類の生存はあり得ない。
2020年1月30日 文責 玉田 憲勲