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おバカな国会議員の改革の緊急性(おバカな国民からの離脱)

参議院選挙が間近にせまっている。先日書いた政党を介した間接民主制制度の限界というブログの中でも言ったことであるが、現在存在する与野党すべての政党は本来の意味での現代立憲民主主義にとって弊害となりはしても益にはならない組織となってしまっている。

しかし、そもそもその原因は何かといえばそれを構成する国会議員がおバカさんであるからに他ならない。そしてそのことは私を含めた日本国民のおバカさ加減の表れであり、国会議員は、言わばおバカな日本国国民の代表であり、今や国会はおバカさん大会になってしまっている。

このブログを書いている今日は伊勢志摩サミット2日目を迎えている。最初から分かっていたことであったがまったく意味のない無駄な集まりであったことを露呈している。

その中でも目立つのが主催国日本のおバカさんぶりである。とりわけ、おバカさん大会優勝者の違憲状態首相のおバカさんぶりが際立って日本国民として多くの人が情けなく思ったのではないかと思う。

財政規律を優先するまともなドイツ、イギリスからみて、借金大国日本が盛んにさらなる財政出動を世界に訴える姿は、本当にみじめで、哀れな姿であった。また違憲状態首相以上に、国民の預貯金、年金を担保に、現在将来の国民のことを何も考えていないおバカさん首相、国会議員を持った日本国民をさぞかし哀れんだのではないかと思う。

伊勢志摩サミットのためだけに30億円かけて作ったプレスセンターを3億円かけて終わり次第、解体する事実。東京都知事のおバカな支出。招致活動からロゴマーク、メインスタジアム、関連施設全てにおいて金にまみれた汚れた東京オリンピック。今、世界を見渡してみたらいい、一日を生きるために必死な人々が、子供たちが何億人いるのか。

安全保障における戦争の原因として、驕りと焦りが言われることがあるが、おバカな我が国の景気浮揚対策に名を借りた財政支出は、経済戦争の中での驕りであると同時に焦りに他ならない。我が国のバカさ加減をみてもらうにはサミットがちょうどよい機会ではあったが、財政規律を主張するまともな各国首脳に対して恥ずかしげもなく同席できるおバカな首相のおバカさ加減は世界中の笑いものであろう。ここまで無能なおバカな国家になったことについては私自身本当に情けなく思っている。

私が2年前にこのブログを立ち上げたときに最初に書いた主権者への提言の冒頭に述べたことだが、こんなおバカさん国家を立て直していくために不可欠なものが、おバカな国会議員の改革だと思う。

おバカな国会議員を改革することで、ひいてはおバカな総理含めた改革につなげてゆくことができる。

私が思う国会議員改革であるが、先のブログで述べたように、まず国会議員選挙における政党の排除である。基本的に政党を排除した小選挙区制度の中で、個の中に全体を見ることができる人物重視での選挙を行うことである。言うまでもないが一票の格差のない選挙区制度が前提となる。(一票の格差について言えば、個の中に全体を見ることができる候補者でありさえすれば最終的には、一票の格差はあまり問題とする必要はないのであるが、候補者、選挙人ともに現在の政治感覚を前提にすれば、当面、厳密な意味での一票の平等、すなわち絶対的な格差の是正、一対一は必要であろう)

国会議員選挙における政党の排除については日本国憲法上での結社の自由との兼ね合いがあり政党を作ること自体は否定できないであろう。しかし企業献金の禁止、政党助成金制度の廃止、小選挙区制度の中での時間をかけた公開の選挙討論会などでの本人重視の選挙は可能であろう。

そして個の中に全体を見れる国会議員の選出、ひいては個の中に全体を見れる内閣総理大臣の選出、そして少数派が多数派になる可能性のある日本国憲法をしっかりと理解した立憲民主主義に基づく真の国会を再構築するためには上記にあげた政党を排除した小選挙区選挙制度以外に大きく二点での改革が必要と思う。

まず第一に、国会議員自体に関する改革である。個の中に全体を見れる人物であるためには今までの選挙区への単なる利益誘導は排しなければならない。そのためには二世代議員などについては立候補選挙区の制限が必要であろう。また、国会議員の罷免に関しても現在の日本国憲法における国会の議決による罷免以外に、立候補した選挙区以外の選挙区の国民による罷免制度を新たに新設することも考える必要がある。

第二に、これが根本的な問題であるが、国会そのものの在り方を見直すことが緊急、不可欠な課題である。まず、先のブログの中でも述べたことであるが、地方分権を強力に推し進めることが不可欠である。税源移譲含めたほとんどといっていいくらいの分権化がなされなければならない。医療、介護、教育すべての領域での分権化をして、我が国が失ってきた多様性、多元性を取り戻す必要がある。私は多様性、多元性こそがこれからの日本、世界にとって最も必要なものであると信じている。

1990年代、日米構造協議もあって国は地方への交付税との引き換えに多額の地方の負債を増大させ、その責任を地方へ押し付けた。無論、地方にも責任がなかったわけではないが、私は地方が国に騙されたと思っている。私は税源含めた、きちんとした地方分権に基づく多様性、多元性の回復が不可欠であり、その中にしか日本の未来、子供たちの未来はないことを確信している。

結果的に、国会での審議、議決は、外交、防衛などいわゆる国家的な問題に限定することで審議、議決に時間をかけ、その中身も充実し、少数が多数になり得る本来の意味での立憲民主主義国家を取り戻すことが可能になると思う。

私は、これらの改革を行うこと以外に、今、日本のみならず世界が陥っている立憲民主主義の危機、地球環境における人類のみならず生命を持つすべての生き物の生存の危機から脱する道はないものと確信している。

  平成28年5月29日   文責  世界のたま

政党を介する間接民主制制度の限界(私たちは政党中心の政治をやめるべきである)

現在、多くの国々は立憲民主主義国家であり、政治体制を別にすれば多くの国々が形式的には国民が代表者を選んで、それらの代表者を通じて政治を行ってゆく間接民主制、代表民主制度を採用している。

以前、他のブログの中でも書いたこともあるが、間接民主制、代表民主制度を採用している理由は、いくつかあるが、その最も重要な理由は、討論の場の確保である。

私は現在の我が国の政治状況を鑑みたとき、このことは世界の政治状況についても言えることでもあるが、特に日本の場合、現在の政党を中心とした間接民主制制度については残念ながら百害あって一利なしだと思う。

そもそも政党とは主権者たる国民の意見を集約し、政治に反映させるための単なる手段、媒体として考え出されたものである。それが今は政党自身が目的化され、与野党問わず、いかに当選議員を増やすのかが最大の関心事である。議員サイドからみれば自分が当選するためにはどこの党に所属したほうが有利なのか不利なのかで離党、新党設立を繰り返している。ここでも他のブログで書いているような手段の目的化が起こっている。

手段の目的化が起こると必ず本来の目的は忘れられ、手段のためにおバカさんたちは必死になる。(ここで言うおバカさんとは国会答弁で内閣総理大臣が立法府の長であると答弁し、そのことの重大さを理解せず、聞き流す与野党すべての国会議員たちのことである。三権分立や憲法尊重擁護義務を理解していない国会議員はおバカさん以外の何者でもない。)

おバカさんたちにとって手段たる政党に公認されることがすべてであり、彼らにとって政党の本来の役割や国民への公約など二の次なのです。金の亡者となった甘利元特命担当大臣、舛添東京都知事などをみれば誰でもわかっていることだ。政党は政党でなりふり構わず政治献金という合法化された賄賂を集め続け、これも合法化された公金横領、窃盗と言える政党助成金を国家から盗み出し続けている。そんな現在の政党において党内民主主義など存在しえないのです。党議拘束により自由な議員活動もできなくなった目先の自己利益しか考えていないおバカさんたちの集まりに過ぎない。

 私自身、今でも本来の目的を持った政党でありさえすれば、日本国憲法下での代表民主制にとって役立つものと考えてはいる。

 しかし現在の日本、世界の潮流の中で政党が本来の目的を思い出せるのかといえば、私は否と答えるしかない。それどころか現在の政党中心政治、政党国家化現象の中で、党内民主主義は踏みにじられ、議会制民主主義も否定され、立憲民主主義すらも否定されてきている。
 具体的な例を挙げればきりはないのだが、現在の違憲状態選挙における小選挙区制度と政権与党の総裁権限により公認権が総裁にあるため、議員は公認を得て、政党がかき集めた賄賂や盗み取った税金の分け前をもらうためには総裁にたてつくことはできない仕組みになっている。結果的に総裁選でも見られたように立候補の自由すらない。どこに党内民主主義が存在しえるのか。

国会の議決においても先の安保関連法特別委員会採決も、議場が混乱している中で採決が強行され、誰が賛成なのか反対なのかわからない状態で可決とみなされた。結局、委員の所属政党の数で判断されたと思われるが、少数が多数になりうるという議会制民主主義の本来の意味が完全に否定されてしまったのに何事もなかったように時間は流れている。

 現代立憲民主主義の危機に関しては、現在、私自身が広島高裁に控訴していることでもある。最高裁判決での違憲状態という判決を受けながら、党利党略のために違憲国家行為を繰り返している。憲法学者の多くが違憲としている安保関連法を法制局長官の首を変え、特定秘密保護法案の強行採決、NHK会長の強引なすり替えなど諸々の言論統制をしたうえで強引な強行採決を行った。これらの事実をみて私は世界の歴史の中で中国で起きた毛沢東と四人組による文化大革命、その流れを受けたカンボジアでのポルポト政権による死者何百万といわれた国民に対する迫害を思い浮かべた。それらの時代に共通して言えるのは自分たちに都合の悪い知識人に対する迫害だ。憲法学者は憲法について人生をかけて研究されている方々だ。そして将来国家の司法制度の一役を担う人材を育成されている方々だ。それらの研究のために国は大学に対して補助金も支出している。

 国会に参考人として自分たちが呼んだ憲法学者の意見すらも都合が悪くなれば、最終的に決定するのは最高裁裁判官であり学者ではないと官房長官は言い放った。それこそが現代立憲民主主義の否定であることにおバカさんたちは気が付いていないのです。日本国憲法において国権の最高機関は国会である。選挙によって選ばれていない裁判官は基本的には国会の議決を尊重する。裁判所が違憲判断をするのはよほどのことでよほどのおバカさんでない限り違憲判断をされるような国家行為はしない。

 それではなぜ裁判所が国会を尊重するのかといえば、国会が民主的な国家機関であるからに他ならない、民主的な国家機関であるということはどういうことなのでしょう。

 現代立憲民主主義国家である我が国において民主的な国家機関であるということは、まず第一にその国家機関の存在自体が憲法を尊重した、憲法に反しない国家機関であるということだ。そして第二にそれらの国家機関が行う国家行為も憲法を尊重した行為を行いうる能力のある国家機関であるということに尽きると思う。

現在の政党は最高裁の違憲状態判決を出されても真摯に受け止めることもなく、党利党略のため違憲状態である自分たちの存在を顧みることなく、選挙、すなわち違憲な国家行為を繰り返している。

私は現在の日本における政党は、もはや民主的な国家機関としての国会であるための障害になりはしても手段とはなりえないものだと思う。

私は今後の国会の在り方としては政党を排除した間接民主制、代表民主制を行い、税源移譲含めた地方分権を強力に一挙に推し進めて、政治に地方における直接民主制を幅広く取り入れることが不可欠であると思う。

言わば外交、防衛などを中心とした分野に関しては政党を排除した個の中に全体が見れる国会議員に委ね、時間をかけた少数が多数になりうる本来の議会制民主主義を取り戻すことが最も必要なことであると思う。

   平成28年5月24日   文責  世界のたま
 

 

経済至上主義(経済奴隷)からの離脱

私たちはいつまで、バカの一つ覚えのような、経済成長、GDP600兆円などの言葉に踊らされて生活し続けてゆくのですか?

 経済成長の先に何が待っているのですか?何のための、誰のための、経済成長なのですか?

 今までの経済成長で私たちは何を得て、何を失ったのですか?

 私たちは1980年以降、レーガン大統領、サッチャー首相、中曽根首相時代からの新自由主義、経済自由主義の下で何が起きてしまっているのかをきちんと知っておかなければならない。加速度的に世界中で所得格差が生まれ、現在もそれは拡大し続けている。かつてキング牧師が語った「私には夢がある」といった時代ははるか遠く、それこそ夢になってしまっている。
 
 冒頭に述べた現政権が盛んに訴える経済成長の先に何があるのかといえば、そこにあるのはさらなる格差社会、それに伴う、国内での治安の悪化、政治の腐敗、国際関係においてはテロの拡大、難民の増大、最終的には国家間での戦争状態すら起きてしまうであろう。

 そして誰のための経済成長なのかといえば、現在、経済的な意味で豊かである人々である。先程述べた新自由主義の下でのトリクルダウン(金持ちをより金持ちにすることが結果的にその恩恵が貧しきものへも生じてくる)というバカげた考え方を信じている人がいるとは思わないが、今の与野党の国会議員含めて相当のおバカさんが多いいので、ひょっとしたらいるのかもしれない。
 
万が一、それが多少でも言えるとしても1960年代の高度成長期の日本における企業の終身雇用の制度の下でしかない。2000年代以降の終身雇用制度が破たんしている現在においてトリクルダウンのためと称していかに大企業に補助金を与え、優遇税制、その他諸々の便宜を図ったところで社員、下請け企業にとって何のメリットもなく、内部留保、株主配当、役員報酬が増えるだけのことである。

 たちが悪いのは現政権がそれらを理解した上でそれらのことを行っていることである。いわゆる確信犯なのである。

 それでは私たちは何を得たのでしょう?

 私は思うのですが、奴隷としてではあるが、当面生きておられるという事実だけです。昔から百姓は生かさぬように、殺さぬようにということが言われていましたが、まさにその状態です。

 奴隷の最終段階は奴隷が自らを奴隷と思わなくなることであると言われている。

 私は今の日本の現状はそうなってきていると思う。経済成長は、そもそも私たちみんなの生活が物質的にも、精神的にも豊かになるための手段であったはずです。それが今はどうなっているのでしょう。手段であったはずの経済成長のために、それを目的として、経済成長のために私たちはサービス残業をして、私たちの命を削っているのです。

 経済成長という言葉に私たちは騙されているのです。手品といっしょで手段を目的にすり替えられてしまっているのです。私たち人間は今や、石油、鉄鉱石などの資源と同様に単なる資源の一つになってしまっているのです。

 様々な休むことのない広告、宣伝の嵐の中で、ある時は、政府による、エコ減税や、ありとあらゆる補助制度の誘惑の中で、まだ使える携帯や、パソコンや、車などを経済成長のためになるのだと買い替えされられている。それらの新商品、オリンピックなどの一時的な興奮と引き換えに、一瞬の間、奴隷である自分たちを忘れることができる餌を私たちは与えられ続けているだけのことなのです。

 そろそろ私たちは自らが奴隷であることに気づかなければならない。無駄な買い替えをしたところで、決して私たちの本当の意味での生活は豊かになることはないということに気づかなければならない。無駄な買い替え、消費をすることで加速度的に地球温暖化は進み、インチキなお金を使ったオリンピック招致活動、インチキなロゴマーク、施設の選定、ドーピング問題など

それらすべてのことに対して耳を塞がず、目をしっかり見ひらいて目をそらさず、しっかりとその一つ一つの事実を私たちの胸に刻まなければならない。

 現在、高収益を得ている企業、団体、組織、個人は決してそれらを手放すまいと必死の抵抗を試みて、私たちに、経済成長のない世界はデフレで失業者のあふれる恐ろしい世界であることをさかんに宣伝することは間違いない。それは洗脳された人が目を覚ますのを邪魔する行為そのものである。

 私は決して恐ろしいものではないと思っている。環境に優しくない産業、他者に健康被害を与えても何ら自らを省みることなくお金で済ませると思っている社会的価値のない企業を社会から一掃して、意味のない消費行動をやめて環境に優しい、人に優しい社会に作り変えてゆくだけのことなのです。

 確かに今までのような無駄な消費を私たちはやめなければならないため、現在の物にあふれた生活に慣れ切っている私たちにとってそれは一見、物足りなく不便さを感じるかもしれない。しかし、今より多少、不便であるとしても結果的には、自然豊かで、労働時間が少なくなった余暇を楽しめる社会への転換が図れるはずであるし、そうしなければならない。持続可能な経済成長など、有限の世界の中であり得るはずがないのです。

私たち人間がこの限られた有限の地球という中で生きてゆくにはそれしかないのです。

そして私たちに残された時間も限られているのです。

   平成28年5月20日   文責   世界のたま