私は3年前から我が国における現代立憲民主主義の崩壊について、ブログを立ち上げ、こうして世論に訴え、また、裁判を通じて、司法の違憲審査権によりその是正を促そうと今現在も戦っています。今年の参議院総選挙に立候補させていただいたのも、主権者である国民としての唯一の、そして最強の権力的契機としての権利を行使することによってその是正を図ろうとしたからです。
私個人としては可能な限りの努力をしていますが、我が国における立憲民主主義の崩壊は日々音を立てて進んでいます。我が国だけでなくこの傾向は世界中で見られてきています。ただ我が国においては、歴史的に国民自らが作り上げた立憲民主主義ではないため、崩壊するときは早いのです。この崩壊する音は私だけでなく多くの国民にも聞こえているはずなのですが、先週の補欠選挙を見ても、何故かそれに対する反応は見られない。
一昨日も核兵器禁止条約の制定に向けて来年から交渉を始めるという決議が123か国の多数の賛成の下、国連総会で可決されたが我が国は核保有国を含む38か国とともに反対した。私はこのこと一つをとっても我が国における立憲民主主義の崩壊の一場面であると思う。
我が国の現代立憲民主主義が崩壊していることについては、今までのブログの中でも幾度か述べてきたところであるが、今回、二つの原因を述べさせていただき、その立て直しのために私たちが何をしなければならなないかを考えてみたいと思う。
一つは根本的な問題なのですが、現代立憲民主主義国家であるためには、まずその前提として、独立国家である必要があります。そうした点で私は、今の日本が独立国家であるかというとアメリカの属国である、いわゆるアメリカの飼い犬ポチ(アメリカの一つの州)に過ぎないと思っています。確かに前回のブログの中でも日本は1952年に主権国家となったと書いたし、一般的にはそう思われていると思う。しかし、現代立憲民主主義国家としての独立した国家かと問われたなら否と答えるしかないと思う。安倍総理は4月28日を主権回復の日として、沖縄を切り離したが、実はその逆で、その日を境に日本本土はアメリカの属国となったのであり、一方、外見上はアメリカの統治のもとに置かれてしまったが、前回のブログで書いたように、沖縄の住民はその日から自らの力で人権を勝ち取ろうと立ち上がったのだと思う。
安倍総理はアメリカの両院議会で演説をして茶番の拍手喝采をもらったことがあったが、私は、あの時ほど自分が日本人であることが恥ずかしかったことはなかった。最近のブログの中でおバカさんという表現をすることが多くなったが、本当のところ、私自身使いたくはない。しかし、彼ほどのおバカさんは今だかつていなかったと思う。
その演説の中で2015年夏までに安保法制法案を仕上げると断言した。しかし、閣議決定、国会への提示もない状態で総理として発言することは許されることではない。大きく二つの理由があるが、一つには、そのことが我が国の立憲民主主義国家としての否定だからである。ブログの中で何度も言っていることであるが国権の最高機関は国会である。国民の権利、義務、生存権に関わる法律に関して、閣議、国会に図る前にその法律の制定をアメリカの議会という場所で総理大臣が断言することは、国際公約と同じようなものだ。行政の長が立法も兼ねているという独裁国家にほかならず、三権分立、国民主権を規定している日本国憲法に反する立憲民主主義国家の否定である。
もう一つは安倍総理がアメリカのポチであるということを世界に宣言しているということにある。確かに、ペリーによる開国以来、日本は外圧に弱く、特に安倍総理は戦犯であった祖父を救ってもらい総理という要職に復帰させてもらったというアメリカに対して頭が上がらないということもわかる。しかしそれは彼個人の問題であって、彼自身はアメリカの奴隷でいいかもしれないが、日本という国家をわざわざポチのままでいさせてくださいと自ら喜んで差し出す権利を私たちは彼に与えた覚えはない。彼は売国奴に他ならない。そして国際関係の中における国家主権、国家の独立という点からみても、日本国憲法に違反した行為、すなわち立憲民主主義の否定に他ならない。
日米関係でいえば、1972年2月アメリカのニクソン大統領が冷戦下の中、電撃的な訪中を果たしたが、当時の佐藤栄作内閣には直前まで知らされなかった。このニクソンショックの巻き返しに日本は発足したばかりの田中角栄総理が同年9月に訪中、周恩来首相と会談し、日中共同声明を発表し、アメリカに7年先んじて国交を回復したが、当時のアメリカのキッシンジャー補佐官から絶対に許さないと言われ、田中総理は、結局放逐されてしまった。
戦後、戦犯であった岸信介を釈放し、総理にまで仕立て上げたのもアメリカの後ろ盾があってのことだと思うし、国会の審議、決議もないまま自衛隊の前身である警察予備隊を創設したのも、国会議事堂内でのデモの中、東大生であった樺美智子さんが機動隊員に撲殺された日米新安保条約の改定も岸総理の総辞職と引き換えになされた。第4次中東戦争の際、中東諸国がイスラエルを支持する国への禁油処置をとった際には、当時の三木副総理を中東に派遣して下手外交に接して功を奏しているが、それもおそらくアメリカのお伺いを立てた後にしたのではないかと私は思う。
経済面でも1990年代においては貿易不均衡是正のため日米構造協議により430兆円の公共投資(アメリカの貿易に悪影響を与えない分野)を約束させられ、1994年には10年間で630兆円規模に増額させられた。アメリカのドルを買い支え、その買い支えたドルはアメリカの中央銀行で管理され、アメリカの許可がない限り売ることもできない。
アメリカのポチであり続けるために、アメリカが日本に望むことは日本の政府が何も熟慮せずただひたすらアメリカの国益のために動いてくれることである。そのためにアメリカの奴隷である安倍総理にとって何を望んでいるかと言えば、国会が熟慮しないことだ。すなわち、一人でもおバカでちんけな出世欲を持った何も考えずイエスマンである思考停止した国会議員、そして大臣だ。
現在、小選挙区制度の下、一党独裁が完成しつつあり、先日の総裁任期延長もその一端である。私がブログを立ち上げて以降、特定秘密保護法での行政行為の不可視化、NHK会長の今までの慣習を破っての衆参国会の同意のないままの任命行為、NHK理事の会長派過半数確保誘導、それらを含めた報道機関への政治的圧力、沖縄県を含めた地方自治体に対する政治的、訴訟を通じての圧力、安倍総理自らが国会内で述べた「立法府の長」発言や麻生副総理がいみじくも述べた「ナチスの手口をまねればいい」発言は彼らの本音である。
しかし、前回のブログでも述べたが、思考停止に陥っているのは私たち国民自身であることを私たちは認識しなければならない。実は私たち自身がアメリカの言うことを聞いておけばどうにかなるという、属国マインドを個々人が内面化してしまっているのではないかと思う。例えば猫も杓子もアメリカ留学したがるが、特に政治学、経済学においてはアメリカ留学していわゆるグローバル経済を学んで日本国内の主要ポストに就く、アメリカの国益を最大化することでキャリアパスが開ける。しかしこれらはアメリカから見れば植民地支配における基本中の基本のやり方である。
熟慮させない、国会での審議時間、公聴会での審議時間を彼は無駄と考えている。それは国会での彼の言動、態度を見て、ほとんどの国民が感じていることだと思う。
安保法制についても二言目には中国が離島を占拠する、ロシアが攻めてくるかもしれない、北朝鮮がミサイルを撃ってくるなど危機感を訴え、民主的に国会で審議している時間はないと強行採決をちらつかせ、実際に行ってきている。今秋もTPPに関して行おうとしている。
この独裁的なやり方の先に待っているものは、自民党の憲法改正草案の中での緊急避難にたどり着く、これはこれが宣言されてしまうと憲法は一旦停止し、内閣がつくる政令が法律を代行することになるため、国民の権利義務が内閣のみによってどうにでもなってしまう、100日ごとにその法律を継続するかどうか国会の議決が必要であるが思考停止した国会議員が過半数を占めている限り継続され続けるであろう。
そういった意味で私は我が国が独立した主権国家、すなわち現代立憲民主主義国家であるとは、とても思えないのです
そして、我が国が現代立憲民主主義国家でなくなってしまっている二つ目の理由は、日本社会全体がサラリーマン化した社会になってしまっていることだ。
実際に現代社会において企業に勤めるサラリーマンの数の問題もあるが、彼らが日常的に当たり前として何の疑問も持たないトップダウン的な考え方がその元凶なのである。
現代社会にとってトップダウンによる経営は時代の流れの中である面仕方ないことと言えなくもないが、トップダウンの問題は、トップ以外が特にサラリーマン社会においてはサラリーマン自身、一人一人が何も考えることなく、何も疑うことなく、疑ったところで何もできはしないとあきらめの中で、思考停止に陥っていることである。逆に言えば何も考えることなく責任は他者に転嫁する生活に慣れきってしまい、それが社会における最適な仕組みと勘違いしていることである。
そのトップダウンの仕組みが企業のみならず、大学でいえば法人化され、教授会には何の権限もなくなり学問の府としての大学の自治も風前の灯火となっている。教育の現場でも教職員間も、序列化、管理された教育現場になってきており個々の教師における教育の自由もなくなってきている。教育委員会も解体され、権限が知事に一元化してきている。
そして最悪な状況になってきているのが、国権の最高機関たる国会である。個々の国会議員が小選挙区制度の中で、与野党すべてにおいて政党という組織の中で党議拘束という縛りの中でしか活動できなくなってきている。必然的に個々の国会議員も無知で、主体性のない名誉欲、自己顕示欲の強いものだけが政党によって推薦され、そのこともサラリーマン化した国民は違和感なく受け入れてしまっている。
具体的に言えば、橋本元大阪府知事が「民間ではありえない」とトップダウンによる政治運営の中でよく話されていたが、私はおバカではないかと思う。府行政は、所詮、企業ではない、民間ではないのだから当たり前の話だ。民間が好きならば府知事になるべきではない。確かに無駄な事、仕事の能率の問題があったかもしれない、しかし、それは個々人の府民に対する公務員意識の問題であって、行政目的そのものは住民の安全、福祉、教育などを扱うところで、元々、採算性に合わないからこそ行政がしているのである。トップダウンや懲罰で解決できるものではない
最大野党の民主党でも中心となる国会議員に松下政経塾出身者がいるが、政治ではなく政治経営をしようと考えているのではないかと思う。しかし、政治とは利益を追求するものではない。
2000年以降、小泉内閣のころから、日本の政治の質が変わってしまったと思う。長いデフレの中、国民の救世主にすがりたい気持ちも相まって、小選挙区制を背景にした小泉劇場に酔ってしまったのだと思う。トップダウン政治の中で、規制緩和の名のもとに、財界の力が政治を動かすようになり、自分たちに都合のいいようにルールを変え、そのルールのもとで小利口に利益を上げる人間が評価され、真面目に正直に生きる人たちにとって呼吸をすることがしにくい社会となってしまった。
私は、我が国における現代立憲民主主義の崩壊の原因として、我が国が未だに独立した主権国家でないこと、そしてサラリーマン化した他人任せした日本社会、その二つを挙げたが、この二つに共通することは結局、主権者たる国民の思考停止に他ならない。
私たちは、今後どうしてゆくべきなのであろう。
私が思うことは、これまでも何度も述べてきたことであるが、私たちは価値観を変えなければならない。個の中に全体があるのであって、全体の中の個のままであってはならないのです。たとえ大企業のサラリーマンでも、大企業という鎧がなくなったとき、思考停止した裸の自分を誰一人として相手にしないということに気付かなければならない。
主権者としても、そのサラリーマン的な思考停止の解除をしなければならない。国家は企業ではない、企業のように当期利益を追っかけるのではなく、30年、50年先のこと、次世代のことを中心に考えなければならない。
サラリーマンにとってたとえ企業がなくなっても、国家がある。主権者であることには変わりないのだ。しかし、国家の場合、国家がなくなれば国家を持たない難民である。そう言った意味でアメリカという私たち日本人が潜在意識の中で持っている後ろ盾がなくなることは恐ろしいことではあり、誰もが恐怖心を持つ。しかし、これからの時代を見据えたとき、それは避けては通れないことなのだ。
国民一人一人が企業や、政党などという組織人としてではなく、主権者としての自覚を取り戻し、そして思考停止を解除することしかこれからの日本の未来は存在しえない。そして地球上で人間が存在することもできないであろう。
平成28年10月31日 文責 世界のたま