思考停止社会 ③ 天皇の生前退位について思うこと

先日、今上天皇が生前退位につき意見を述べられ、その後、そのことについて波紋を呼んでいる。私自身は戦後生まれでもあり天皇については、憲法上日本国の象徴であり、国事行為のみを行い、国政に関与できないという程度のことしかわからないし、それ以上のことを知りたいとも思わない。

今回の生前退位の発言についても、私自身は、今上天皇が言われることは本当に理に適っていることであり天皇自らがそう思われているのであれば単純にそうしてあげればと思う。
私はそんなに複雑に考える必要は全くないと思う。蓋し、天皇自らが心境を吐露し、望まれているのだから。

しかし、どうもことはそう簡単ではないらしい。生前退位を認めてしまうと、今後、天皇に即位することを拒否したりなど天皇制度の存続にかかわるのではないかなどの意見もあるらしく、安倍総理自らも、専門会議で慎重に検討を図ってゆくと述べていたが、特定秘密保護法、安保関連法、TTPでは見られなかった対応をしている。

今回の今上天皇の発言を聞いて私がまず思ったことは今上天皇の人柄だ。戦後間もない幼少のころから敗戦という時代背景のもと、アメリカ人の家庭教師の下でいろんなことを学ばれ、そしてその後の人生の中で培われたものであろうが、先に述べたように、今回天皇が述べていることはごく当たり前の考え方にすぎず、国民と同じ目線で考えておられ、また、考えてほしいという要望に他ならない。

戦後間もない1946年1月1日に天皇の人間宣言がなされた。この人間宣言については文言上、人間宣言という文言が全くないために様々な考え方がなされているが、私は、この天皇の人間宣言の持つ意味は、通説では法律学的に革命があったとされている明治憲法から現在の日本国憲法への主権者の変更、欽定憲法から民定憲法への変更を、形式的には明治憲法の改正手続きとして処理されたその法律上の問題は別にして、国民の精神的な落差を緩和させる緩衝材として天皇が発したと考えている。

上記のような私の考え方から、今回の今上天皇による発言こそ私には人間宣言に思えてならないのです。

日本国憲法において天皇は象徴である。今回の発言の中でもそのことに盛んに触れられて象徴としての公務に支障がきたさないように配慮してほしいとの気持ちを述べられている。

しかし、私には今上天皇の一連の行動、発言を見たとき、天皇は象徴というより、人間としての良心に従った行動をとり、発言をされてきたとしか思えないのです。

今上天皇がA級戦犯の合祀されている靖国神社を参拝されないことは天皇の意思であり、戦後50年(平成7年)には天皇のたっての希望で広島、長崎、沖縄、東京下町へ慰霊の旅をされた。また友好親善ではなく慰霊が目的での訪問は前例がなかったが、南太平洋への慰霊の旅を熱望され、戦後60年(平成17年)にはサイパンへの慰霊の旅、戦後70年(平成27年)には激戦地パラオへの慰霊の旅をされ、同年の8月15日には深い反省という言葉で太平洋戦争を振り返り表現されている。

安倍総理の薄っぺらな歴史認識に基づく継ぎはぎだらけの70年談話、靖国参拝などの行動や発言を見たとき、私には人間としての良心の差をまざまざと感じる。

今回の今上天皇の発言は、ある意味で一人の人間としての発言として思われ、私にはその思いがすっと心の中に自然に伝わってきたのです。

天皇に即位することを拒否することが将来でてくるのではないかという心を持った人としての天皇を考える前に制度としての天皇を考え、天皇の国事行為に政治的な意味合いを持たせようとしたり、自民党の憲法改正草案のように、憲法尊重擁護義務者の中から天皇を削除したり、それらの行為は、今上天皇が一人の人として望んでいることとは全く真逆のことであり、私には天皇を道具として政治的に利用しようとしているとしか思えない。

私には彼らが、純粋な瞳をした少女と合理的経済人という過去のブログの中で述べた、贈与の否定をした思考停止した人間としか思えない。思考停止した彼らは悲惨な歴史をただ単に繰り返すだけで、決して何一つ為すことはできないであろう。

最後になるが象徴としての重責を担われた今上天皇が、良心を持った一人の人間として今上天皇自身が望まれる一生を過ごされることを願ってやまない。

 平成28年10月31日  文責  世界のたま

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