麻薬中毒患者になり果てたおバカな政治屋、官僚、企業家と消費中毒患者となり果てた主権者たる国民、そんな現実の中でどうやってこの消費中毒社会を解毒して、そこから脱出して、人類の滅亡の危機を乗り越えてゆけばいいのだろう。
この問いに対しては果たして人類の滅亡がそんなに悪いことなのか?という問題もある。地球環境にとって、人類以外の生物にとって、人類ほど不要な存在はないであろう。そういった意味で危機を乗り越える必要はないという考えも私自身否定はできない。
このまま何もしなければ勝手に、自然災害、飢餓、疫病、戦争、放射能汚染などで人類の滅亡は間違いなく成就されることであろう。
ただ一方で、私自身含めて教育、社会の中で植え付けられた近代以降の人間中心主義という考え方を否定する考え方にたどり着くことができるならば、人類が存在する意味はあるとも思える。
結局、人類の危機を私たちが乗り越えることができるとするならば、そのこと自体、人類が生き残る価値があったという証左なのだから
冒頭の問いであるが、前々回のブログ(1)で書いたが消費中毒社会の結末、そして前回のブログ(2)で書いた消費社会中毒の原因、それらの結末と原因をしっかりと認識することが大前提であるが、その上で私たちがどうすべきなのか私自身の考えを述べておこうと思う。
大きく分けて政治、経済、教育について述べておく。その中での順番であるが、すべて関連性があり、基本的に分けて考えることは不可能なことであり、どれが重要というものではない。全てが一つなのだから。ただその中で源流として経済から述べなければならないと思う。
経済関連についてであるが、まず貨幣、経済はそれ自体全く何ら価値があるものではなく、私たち主権者たる国民の生存を確保するうえでの単なる手段にすぎず、それ以下でも、それ以上のものではない、決してそれらを目的としてはならないという価値観を共有しなければならない。そして経済成長は、私たちが豊かに暮らしてゆくうえで全く必要がないものであること、手段としての貨幣、経済がありさえすればよいこと、それがすべての大前提であり、この前提を抜きに考えることはできない。
その大前提のもとで現在の社会を見直してみることから始めるべきだと思う。
そうしたとき、私たちが最も価値を置かなければならないのは、手段としての貨幣、経済を取り除けば、空間としての自然の豊かさ、時間としての自分が自分自身のために生きる時間、そして物質的な物ではなく精神的な人間関係であることに気づかされる。
それらを、大切に守ってゆくためには何が必要であるかと考えたとき、自然の豊かさのためには地球温暖化、大気、海洋汚染、砂漠化を防がなければならない、そのためにはエネルギー消費の削減が不可欠である。まずは、不必要な経済成長はやめて、過剰な生産、消費をやめることである。現実的に我が国日本を考えても多量の食料が廃棄処分されている現実は誰もが知っていることである。
政策的には現在進められているグローバリゼーションという考え方は消費エネルギーから考えたとき非効率であり、ローカリゼーションへの政策転換が不可欠である。なるべく小さな規模、組織内での物流にすることで莫大な物資の輸送のための消費エネルギーの削減が可能となる。24時間営業なども考え直すことで過剰な消費の抑制につながると思われる。
前回のブログでも述べたが、消費中毒社会を強化させる媒体としてのコマーシャル、宣伝についても過剰消費があって初めて成り立つものであり、過剰消費を様々な形で無くしてゆく中で必然的に消退してゆくであろう。
過剰消費がなくなる中で産業構造も変化してゆくことになるであろう。自然エネルギーを中心とする産業構造への変革、特にローカリゼーションの中で輸送の媒体としての地球温暖化の大きな要因である自動車産業を縮小してゆくことは変革の中心となるであろう。
労働環境についても個々人が経済という呪縛から精神的にも肉体的にも開放されて自分自身の時間を持てるような社会を目指すべきであろう。産業構造のローカリゼーションの中で人々の人としての新たなつながりも出てくるであろう。
政治的には、私自身が、ブログや、訴訟や、選挙活動の中で訴えてきたし、今もこうやって訴え続けているのではあるが、私たち主権者が失ってしまった立憲民主主義を取り戻すことが可能になるであろう。
貨幣、経済が目的化され、特に1980年代以降、経済至上主義、新自由主義の中で、企業がロビー活動、特に政治献金を通じて、政治的影響力を増し、国権の最高機関たる議会への影響力を行使して、有利な税制度、経済政策を推し進めてきている。2000年代に入ってもアメリカの連邦裁判所判決において、無制限の企業献金を認める判決が下されるなど、その勢いは止まることはない。
わが国においても多数を背景に、政党助成金と引き換えに一度は禁止した企業による政治献金の再開、それにとどまらず、議員による企業からの賄賂としか言いようのない裏金の授受、特にTPP交渉担当の甘利元大臣の金銭の授受など、企業により議会制民主主義が捻じ曲げられ、言わば乗っ取られているともいえるであろう。貨幣、経済が手段化される中で、本来の議会制民主主義の回復も可能となってくるであろう。
政治構造的にも、ローカリゼーション産業構造の中で、中央集権国家から、地方分権国家への転換が図られなければならない、現在中央政府、中央議会が有する様々な権力も可能な限り地方へ分権化し、国防、外交以外は基本的に地方へ権限移譲して、中央はその全体調整役に回ることになるであろう。
地方分権化することで、憲法上は、全国民の奉仕者である国家議員が現実的には出身地方や選出元の団体にいかに予算を持ってくるかに終始している現状を打破して、真の意味での立憲民主主義に基づいた国家のための、主権者のための国政を行うことができるであろう。
地方から見たときには地方分権により、地域の自然、環境に基づいた政治、経済、教育政策を行うことができ、政治責任論的にも現在の権限あって責任なしと言ったおバカな政治屋、官僚政治から脱却することが可能となるであろう。
教育についても、貨幣、経済を目的とする産業、政治構造の変革、地方分権化の中で、真にその一人一人の能力にあった教育環境の提供され、その教育目標、子供たちの能力評価指標も貨幣、経済からの呪縛が解かれて様々な評価指標が取り入れられてゆくであろう。
自然環境の回復の中で、自然とともに共生することの大切さ、ローカリゼーション化の中で人と人とのつながり絆の大切さ、譲り合い、助け合いの心の回復が教育の中で育まれてゆくのだと思う。
そして、そうした教育を受けた子供たちの心の回復が、地方から、日本全国へ、そして世界の人々の心の回復を成し遂げ、世界のすべての人たちが自然の中で共生できる社会へとつながってゆくことができるのだと私は確信している。
平成28年8月31日 文責 世界のたま