貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(1)(その先に待ち受けているもの)

全国的に猛暑日の続く今までにない暑い夏、8月が終わろうとしている。
今月も世界を見渡してみても明るい話題はない。シリアでは相変わらずロシア、アメリカなどの国々が爆撃を続けて数多くの子供たちがその犠牲になっている。トルコでもテロ事件が相次ぎ、イタリアでは地震による数多くの犠牲者が亡くなられ、その数は増え続けている。

私がこのブログを立ち上げ、立憲民主主義に反する日本国政府、議会を司法に訴え続け、参政権を行使して、国民に訴えたのも、私たち人類の生存の危機がもうそこまで来ており、時間が残り少ないからであるが、世界でも同様に考えている有識者たちの予想では、人類の終焉が2060年頃であるとする予測、英国王立天文学者である「最後の世紀」の著者は、人類が21世紀を生き残る確率は二分の一であるとしている。生態学者である「ガイアの逆襲」の著者はその中で、文明の生存するチャンスはほとんどないとしている。

2060年ごろまでに人類の終焉が来るという予想に関しては私自身、どうかと思ってはいたが、実際のところ最近ではあながちないわけではないと感じている。

2年前、このブログを立ち上げたときに書いた冒頭の主権者への提言の中からずっと言い続けていることであるが、人類の滅亡への道を突き進んでいる原因は、手段の目的化である。

近代以降、人々は貨幣を媒介とした交易を盛んにして経済社会を作りあげてきた。その中で人々はより便利なものを開発して、より多くの物質的な富を蓄積しようとしてきた。特に資本主義社会においては企業の利益が最優先され、アダムスミスが言うように、企業の利益が上がることで万民が最終的に豊かになるという、今でいうトリクルダウンが信じられてきた。

人間社会の中で物のやり取りを含めた交流は不可欠であり、そういった意味で経済活動は手段としては不可欠なものであったが、貨幣含めた経済活動そのものが目的化されてしまい、企業利益を上げることが社会的な善とされ、自然は破壊された上、生き残った生物、環境そのものもその希少性ゆえに重宝がられ、その希少性そのものを、経済活動の中で利用するという世の中のすべての物を金銭的な尺度でしか評価しない社会になっている。

貨幣、経済そのものは、手段として人間が作り出したものであり、どこまでいっても本質的には目的にはなりえない。

一部のものによる富の蓄積、その更なる蓄積のために、貨幣、経済が目的化されてしまっている。一方で人々が生活し生きてゆくためにも最低限度の手段としての貨幣、経済は不可欠なものであり、結果的に目的化した人たちによる手段として生きる人々に対する支配、所得格差、貧富の差が生じる。

それでは富あるものが幸福であるかというと、彼らが幸福と錯覚しているものは所詮、それ自体は全く価値のない単なる貨幣、経済の蓄積である。それらを価値あるものとし続けるためには貨幣、経済の目的化が不可欠なのです。貨幣、経済が本質的に何の価値もないものと認識されれば自分たちの優越性が消失してしまうのだから。

そういった意味で富あるものも、貨幣、経済という麻薬に毒された重度の中毒患者でありそれらに利用されているGDP、株式相場というそれ自体意味のない空虚なものに踊らされおバカな国民に更なる消費を促すおバカな安倍総理を筆頭とするおバカな政治屋、おバカな日銀の黒田総裁も重症な中毒患者である。

そして私たち主権者たる国民も、かけがえのない自然という空間、そして本来は自分自身のために使うべきかけがえのない時間と引き換えに、家や、車や、洋服、食べ物、貴金属というエサにつられて彼らと同様に、結局、貨幣、経済という麻薬に毒され、消費中毒患者への道を歩み続けている。

そして、貨幣、経済という麻薬に毒された多数を占める消費中毒社会が向かう行き先に待っているもの、それは、人類の終焉であり、文明の消失である。

    平成28年8月29日   文責  世界のたま

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です