昨年は私自身について言えば、できる限りのことはしたつもりであるが、結局、我が国のほぼ崩壊しつつある立憲民主主義、その流れを止めることができなかった。
おバカな総理を筆頭に、おバカな政権、国会議員、官僚そしておバカな私たち主権者たる国民、我が国を覆うおバカ現象の中で見るも無残に立憲民主主義は崩壊の危機を迎えている。
ところで、私が総理をはじめ、主権者たる国民に向かっておバカということに関しては、昨年の参議院選挙に立候補した際にも有権者の方から、あなたはそんなに偉いのですかとおしかりをいただいたことではあるが、現在の日本社会を覆っている空気はナチズムが吹き荒れたヨーロッパにおける、それらに賛同まではしなくとも従った国民、戦前の日本でもお国のためだと真意とは別に、非国民と言われないために従った国民、どちらも贈与を否定した思考停止した国民で溢れかえっていた時代、その時代に流れていた空気と同様のものを感じる。
私は決して私自身が偉いなどと思ってはいない。あらゆる人たち、組織が思考停止している中、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると訴え続けているだけである。即ち、現在の国会を構成する違憲状態の国会議員、そしてそんな彼らから指名された違憲状態の総理、政権は間違っており、日本国憲法上、彼らにその正当性はなく法律を制定し、執行する能力はないと正直に訴えているだけなのです。
それはあたかも裸の王様という物語に出てくる男の子と同じことが言えると思うのです。その男の子は多くの大人が王様の権力を前に、誰一人として正直に王様が裸であるということが言えない中、その男の子だけが王様が裸であるという事実を指摘した。
私自身も本来、現在立憲民主主義国家においては、間違った国家政策は選挙を通じた民主制の中で是正が図られるべきでありそういった意味で選挙によって選ばれる組織でない裁判所、即ち、非民主的な機関たる司法は消極的な判断能力しか持ちえないというその原則は理解できる。
しかし、私が訴えていることは民主制の根幹をなす選挙制度自体の問題である。選挙という民主制の過程そのものの是正に関しては原理的に考えてみても、民主制の中では解決できない。
少数者に関わる人権問題もたとえ民主的な機関である議会であっても、特に、絶対多数を占める現国会、内閣のように説明責任、議論を放棄した人たちを相手にその権利の保護は不可能である。蓋し、私たちは単なる民主的な世界に生きているのではなく、日本国憲法に基づいた立憲民主主義的な世界に生きているのである。立憲民主主義的な世界の中においては違憲な組織(国会、総理を含む内閣)は何らの意味を持ちえないのだから
民主制の根幹にかかわる選挙などの民主制度の過程にかかわる問題、少数者の人権にかかわる問題は現代立憲民主主義国家においては、司法が積極的にかかわらずして、それらを守ることは不可能である。蓋し、憲法に反する機関であっても形式的には有効な組織である以上、法律の制定、執行権限が与えられており、国民のみならず司法も個別的にはそれらに拘束されてしまうのだから
そのことは、現代立憲民主主義国家であるはずのアメリカなどでも、トランプ政権下で現在起きていることを考えれば、また今後世界中で必ず起こってくることを考えたとき、同様なことが言える。
現在の安倍政権、自民党などを現代立憲民主主義的に考えて見たとき、これらの日本国憲法上の権限を持つことが疑われる組織(このことは自らの国会議員としての正当性に何の疑問を持たないおバカな野党にも言えることである)は大企業からの政治献金を復活させたように、富の集中に深くかかわっているというより、それらを支えにしている。
その結果、前回のブログにも書いたように、富の集中は民主政治にとって最も必要である説明責任を否定することにつながりやすく(昔から金に物を言わすということわざがあるように、抜本的な選挙制度改革を行うことなく違憲状態の選挙制度を継続することで、多数を維持し、数の力で、金の力で政治を行っている。)そんな中で必然的に説明責任は果たさず、議論を避け、真摯な議論を茶化し、強行採決を行っている。主権者たる国民を愚弄し、バカにしているのである。確かに私たち主権者もおバカであるが、おバカな総理、政権からバカにされる筋合いはない。おバカであろうと私たちはおバカである前に主権者であるのだから
特に憲法に関わる違憲問題を扱う違憲訴訟は、憲法が成文化される人類の歴史の中で消えていった人民の抵抗権に他ならない。国家権力と人民との争いの中で、数多くの尊い命が失われ、その中で国民が英知をしぼって作り出した権利に他ならない。
私たちは小学生の時から今まで何度も三権分立という制度を学んできた。
三権はお互いに、抑制と均衡を図りながら権力の行使を行うことが義務付けられている。ただ忘れてはならないことは、三権は単なる手段にすぎないということだ。手段としての三権の目的は国民の基本的人権の保障である。特に日本国憲法下においては世界平和への貢献も求められている。
現代民主主義国家である我が国において三権の関係の中では司法消極主義が原則である。このことは他の二権が選挙という方法によって直接、間接的に選ばれているからに他ならない。(歴史的にもヨーロッパでは君主と裁判所が国民の人権を抑圧した歴史があり、議会への信頼が高かった)また、砂川事件での最高裁判決の中でも裁判所自らが語っていることでもある。
それでは日本国憲法上の司法の存在意義はいったい何であろう。
一般的には他の二権が定めた法律の解釈適用をするのが司法であるということになるであろう。
ただ私は、本当の意味での司法の存在意義は、現代立憲民主主義の崩壊を防ぐ、そのことに尽きるのではないかと考えるのです。民主制の根幹をなす民主制の過程である選挙制度にかかわる問題、少数者の人権が絶対多数の形骸化された民主制の中で、その回復が困難になったときこそ、形骸化された民主制の外にあるがゆえに司法の存在意義が意味あるものになるのだと思う。まさにそれは、主権者たる国民の成文化された抵抗権としての司法である。
最近の世界を見渡してもイギリスにおいてEUからの離脱が国民投票で決まったが、その執行につき議会の承認が必要との判断が裁判所によってなされた。裁判所は司法という独立した立場から冷静に判断したものと思う。
現在の日本のように違憲状態の国会議員で構成される国会、そしてその違憲状態の国会議員が指名した総理大臣のもとで、特定秘密保護法、安保関連法など国民の基本的人権への侵害をなす法律が制定、執行されている。違憲状態の組織であるがゆえになのか甘利元大臣や文科省の天下りなど見ればわかるが、富の蓄積、数の力により生じやすい説明責任を果たさず、議論を回避した中で権力が行使され続けている。
日本国憲法に基づき国会議員による臨時国会の召集の議決がなされた時も、外交日程を理由に通常国会まで開かれることがなかった。
今のわが国はもはや現代立憲民主主義国家であるとは言えないと思う。今のわが国には形式的には国家の基本法たる憲法典は存在しても実質的な意味での憲法は存在していないのだと思う。(イギリスにおける形式的な憲法典は存在しなくても実質的な憲法が存在していることの真逆である)
私には、もはや司法積極主義だとか消極主義だとか考える次元はすでに過ぎ去ってしまっており、我が国において司法が存在しているのかが問われているのではないかと思う。
民主制制度を守るための主権者の抵抗権としての最後の砦としての司法権の行使がなされるにしても、私はタイミングが重要だと思う。
例えばヒットラーが率いるナチスが共産党を追い込み政権を掌握するきっかけとなった共産党員によるとされたでっち上げの国会議事堂焼き討ち事件について最終的に裁判所は無罪判決を下している。そのタイミングがどうだったのか定かではないが、歴史の流れが確定してからでは遅いのである。
そういった意味で、私は今の段階がギリギリであると思っている。自民党の改憲草案がよい例であるが、万が一緊急条項を含むような憲法が作られてからではもはや司法は何もすることができないのである。
私たち主権者自身が歴史に流される民であってはならないと思う。己自身で自己実現、自己統治が図れる民であらねばならないと思う。ただ、そのためには自己実現を図るための手段としての自己統治を図るためには本来の意味での立憲民主主義制度が不可欠なのです。その制度が破たんしたとき、おバカであるが主権者たる民にとって不可欠なもの
それこそが司法なのです。
平成29年1月30日 文責 世界のたま