過去のブログの中で、私は製薬メーカー主催の説明会、勉強会にほとんど出席することはないと書いたことがあり、その中で、久しぶりに勉強会に出席してさわやかな気持ちになったことをお話したことがあったが、先日、医院を訪ねてきたあるメーカーのMRがEPAに関する勉強会を開催することを話した。
元来不勉強で、学習意欲が低い私であるが、何故か、以前出席した勉強会もそうであったが何とも言えない興味がわいた。何がというわけではなかったのだが、その詳細も何もわかっていた訳ではなかったのだが、久しぶりに出かけて行く気になり出席させていただいた。
内容的にはメーカー主催の勉強会であり一歩引いて客観的に考えないといけない上での感想であるが少しお話してみようと思う。
まず、冒頭から面白かったのが、講演されたのは某大学の内科教授であったが、第一声で、自分には失うものは何もないという一言であった。その上で、誰にも遠慮せず、普段診療されている心構えである目の前の患者さんにとってベストの治療法を選択して行うということを臨床医に伝えたい、他の臨床医にもそうであってほしい、そういった思いの中で常日頃講演されていること、今回の来広は座長である公立病院の先生から何度も依頼され4回目であることをお話しされた。
今思えば、私自身がこの先生の冒頭での突っ込みにひきつけられたのは、私自身と共通の匂いを感じたせいであろう。
私自身、三年前にこのブログを立ち上げると同時に、何度も違憲訴訟を起こし、何度棄却されようとも、そして今現在も訴訟し続け、昨年度は参議院選全県区に立候補したのも私自身何も失うものはないと思っているからである。
私自身がそうであるからよくわかるのであるが、人が何も失うものはないと思ったとき、そこにあるのは無であり、個である。無であるということは無限大であることでもあり、個であるということは、過去のブログで何度も言っていることであるが全体でもある。
言い換えれば、自分自身を無の境地に追い込むということで人は無限大なものを感じ取ることができ、私の経験からするとそれはブラックホールに似ていてありとあらゆるものを吸い込む力によってあらゆる事象を、対象が何であったとしても、感じ取ることができるのだと思う。そして自らを個というものに追い込むことは、その個の中に全体が存在していることが認識可能となり、真の意味で全体を見渡せることができる。この感覚は自らをそういった状況に追い込んだときはじめて体感できるものであろう。
話を講演に戻すが、EPAというものが、医療用医薬品としても、健康食品的なものとしても、現在テレビでも盛んに取り上げられており、数多くの方がそれを含む薬剤、健康食品材として経口摂取している。
そのEPAについての講演であったが、細かなことは省いて結論を言えば、EPAを含んだ動脈硬化予防物質として盛んに推奨している薬剤、健康食品の多くがそれらに含まれる濃縮された成分量としては効果発現にとって不十分であり、一方でダイオキシンを含む不純物の取り除きが一部の医療用薬品に比べて不十分であり、その効能効果においてもいい加減な宣伝をしているという事実であった。またDHAについても認知症予防としての根拠があいまいなまま、よっぽどあるかのように意図的に宣伝されている事実であった。
講演会の演者、座長共に第一線の臨床医であり、直接的な発言はなかったが、こういった講演会自体を行う意味から言っても、健康食品レベルでの誇大広告は一歩譲って多少大目に見るにしても、私たち臨床医に対してそういった効果不十分なものを意図的なMR情報操作によって売りつけることは、詐欺的行為である。以前のブログでも同様に、企業、MRの社会的責任の欠如、そのあきれた無知さ加減について述べたことがあったが、同じ企業が同様な手口で、相も変わらず同じようなことを繰り返していることにはあきれ返って開いた口が塞がらない。
確かに何度も同じ手口で騙される私たち臨床医にも問題がありはするが、その臨床情報操作のずる賢さはある意味で磨きがかかっているのも事実である。
私は以前取り上げたケースでも思ったのだが、こういった悪意のある、患者の生命、治療に対する悪質な行為に加担するMRは確かに、多くが無知であり、多少高額な給与をエサに、ある者は故意で、ある者は無知に起因する愚かなMR活動をし続けているのであるが、確かに、哀れな無知な人間として哀れみ、同情はするが、それらの薬剤を服用させられる、しかも慢性疾患の場合、長期にわたって服用させられるのであり、それらの患者様にとっては、とんでもない悪質な人間にすぎない。
自民党副総理である麻生さんがよく引き合いに出したがるアドルフ・ヒットラーの流れでいえばまさに国会焼き討ち事件を引き起こし、多くのユダヤ人をガス室に送り込んだ先兵たる親衛隊員に例えることが可能であろう。
彼らは自分自身が客観視できないがゆえに、起こしてしまった行為すら企業や、企業のトップ、それらを認可した天下り元などのせいに責任転嫁することによって、自らの心の目を閉ざし、自らの行為については仕方なかったものとして自らに言い聞かせて、被害にあっている患者さん、だました臨床医、薬剤師、診療報酬の支払元、最終的にはその原資たる税金の支払元である国民に対する謝罪の気持ちを心の中から追い払ってしまっている。
彼らには贈与の心、他者との共存の心が欠けている。
誰のために、何のために生きるのか、表面的には他者の為に生きていると思っているのであろうが、所詮は自分たち社員、家族の為だけに、生きているに過ぎない、個の中で、じっくりとことん自分自身を見つめた経験がないため、いつも自分を趣味や酒でごまかし、同じ仲間でたむろして、お互いの傷をなめ合って生きているだけだ。
最終的に企業や組織と自分を切り離して自分自身と相対したことがないのだと思う。確かにそうすること、そういった仲間、組織から離れて個になって、自分自身を見つめなおすことは恐ろしいことだと思う。しかし、それをしない限り、ナチスの親衛隊と同じで、最終的には、仲間や、家族をも裏切ってしまうことも理屈をつけていとも簡単におこなってしまうものだと思う。彼らは否定するであろうが、平時に他者のことを考えられない人間が、他者の命と引き換えに犠牲になることなど決してありはしない。悲しいかなとことん個を見つめていない人間にはそのことすらも理解することは困難であろう。
言いすぎているかもしれないし、戦後の経済至上主義の中で、経済成長、企業利益の追求が善とする学校、企業教育のにおいては若き彼らはある意味で被害者かもしれない。しかしそれらの限界が現実的になり、環境破壊含めた我々の生存が脅かされている時代の中で、自戒も含めて敢えて言わせていただいていることはわかってもらいたいと思う。
いつも面会しにくるいろんな製薬会社のMRにいうことがある。それは企業を信用してはいけない。いつも企業と一歩離れた視点を持つ必要性だ。最近彼らは自分たちMRがこの先リストラされることをよく話してくる。私はそんな時、彼らに言うのだけれど、真の意味での本来の企業を超えた患者と医師とメーカーとの橋渡しになるのであれば、逆にもっと必要になるはずだと。
しかし、上記にあげた自分たちの利益しか考えないMRである限りもう数年もすれば急速なリストラが製薬業界を襲うであろう。このことは医療、介護の現場を見ていなければわからないが確実に加速度的に起こってくることは間違いのない事実である。おそらく毎日会っているMR自身が考えるよりも早い段階で起こるはずである。正規のMRが急速に減る中で派遣MR、ネットMR、卸MRなどにとってかわるであろう。
現実的に薬剤師資格を持ったMRが増えている側面もあるが、このことは、MR自身からみて、企業から見ても将来来るべきリストラの嵐に対する布石のように感じてならない。
そうであるが故、若いMRには本来持っていた瞳の輝きを取り戻してくれることを望んでならない。
あのキラキラ輝いた瞳を
最後になるが、私自身、3年前から様々な形で将来の世代にどんな社会を渡すべきかという日本国憲法前文や97条における国民としての責務について考え、行動しているところであるが、テロ等準備罪に名を借りた共謀罪につき、6/16に広島地裁に違憲訴訟を提起すると同時に、6/19に広島地裁に執行停止の仮処分請求を求め、6/22の仮処分請求の棄却決定を受けて、6/23に広島高裁に即時抗告させていただいた。しばらく決定がなされなかったが、その間の7/1に安保関連法に関する違憲訴訟において、控訴審である広島高裁からの棄却判決が特別送達された。違憲判断の前に個人的な具体的な権利侵害がないとのいつもの棄却理由であった。特定秘密保護法の違憲訴訟の際に、最高裁に上告したが棄却されたこともあり、安保関連法に関しては、残念ながら上告を断念した。
そうしているうちに8/23に広島高裁からテロ等準備罪ついての執行停止仮処分請求に対する即時抗告の棄却決定が送達された。
そんな時、その日の夜に今回ブログで取り上げた講演が行われた。確かに何の法曹資格もない私ごとき、たった一人で何ができるかとやや落ち込んでいたので、この講演の演者の私には何も失うものはないという言葉に出会えたのも何かの縁なのかもしれないと思った。
私は、H29/8/28最高裁へ特別抗告した。
平成29年8月30日 文責 世界のたま