横綱日馬富士による傷害事件とそれに伴う処分について、このところ毎日のように取り上げられ、同時に国会における森友加計問題に対する質疑応答も同様に取り上げられていた。
この二つの問題は片や相撲、片や政治と全く違う世界で起きたことであり、関係ないことのように思われやすいが本質的にその問題となる点においては同質であると思う。
相撲協会理事長がスポーツ庁を訪問した際に長官が理事長に注意したとされる社会に対する説明責任をきちんと果たすようにというその言葉である。現政権下の大臣であるお前が言うのかと唖然とした言葉であったが、そうなのだ、社会に対する説明責任なのである。
被害者とされる貴の岩の師匠である貴乃花親方は相撲協会をはじめ、報道関係者に一切を語らず、黙秘を貫き、各方面から非難も浴びていた。彼が何故、黙秘を貫きすべて警察に任せるとしたのか、その真意はわからないが、私には閉鎖された相撲界、理事会、横綱審議委員会に対する不信感以外の何者でもないように思う。
おそらく貴の岩の負った傷の程度もうやむやにできるレベルで無かったこともあろうが、過去にもそれらの閉鎖された社会の中で多くの事柄がうやむやにされてきたのではないかと思う。今回もおそらくそうした閉鎖された社会の中で解決を図れば、何事もなかったかのように終わることを危惧したのではないかと思う。
だからこそ審判部長でありながらまず警察に連絡したのだと思う。それに対して審判部長でありながら警察の前に理事会などへの報告すべきであるとしてその義務違反を問う声もあった。しかし敢えて警察に連絡したのは閉鎖された相撲界を知り尽くしていたからに他ならないと思う。
私は全国いたるところで起こっている子供のいじめ、そして学校関係者、教育委員会の隠ぺい体質、それらも同様のことが言えると思う。
私は相撲の取り組み中の事故などであれば、それらは別として、今回のようなプライベートな時間に起きた傷害事件はその程度は別にして、まず第一に問われなければならないのは一般社会人としての責任であると思う。そういった意味で今回ここまで複雑な問題となること自体が理解できない。貴乃花がとった態度がごく当たり前の社会人としての対応である。
スポーツ庁長官が理事長にいった社会に対する説明責任とは、彼らがどういう思いでその言葉を発し、受け止めたかは知らないが、私が思うのは、社会は社会でも一般社会に対する説明責任である。
結局、日馬富士の横綱引退という結果を生じたが、それも致し方のないことである。逆に言えば当たり前のことであろう。
一方、森友加計問題における質疑の中でも、会計検査院の値引きの根拠は不明確であるとの指摘に関して、真摯に対応するとは言うものの、総理の妻をはじめとする当時の関係者の証人の招致に関しては拒絶、値引きに関する資料の隠滅に関しても何らの責任を取ろうとも思わない、納税者である主権者たる国民に対して真摯な説明責任を果たそうとするかけらもない。
日馬富士問題、森友加計問題に共通なのは、彼らがそれぞれのお友達社会の中でことを納め、一般社会に対しては何ら説明責任を拒絶して、自分たちの利権を守り続けようとする姿勢である。その裏には相撲界で言えば満員御礼の状態を壊したくない相撲界の収益であり、ひいては理事長はじめとする高額な報酬であろう。政治で言えば官僚、政治家、企業家たちの利権である。
その根底にあるのは経済至上主義に他ならない。彼らが住む社会には、一般社会の道理や、最低限の社会人が守らねばならない法律すら存在していない。
相撲界はまだ国技として一定の税金が投入、免除されているとしても庶民の娯楽の一つにすぎないが、国会は国民が守るべき法律を制定し、内閣はそれらを執行するのである。
衆議院選挙中にも述べたことではあるが、もはや我が国は学級崩壊している。その是正のために必要なものが今回の日馬富士問題では相撲界ではない一般社会のルールである法律の順守であり、森友加計問題における国家機関においては、法律を制定する立場としての法律以前の道徳観であり、国家機関をも拘束する日本国憲法の順守に他ならない。
そうした中で彼らは子供たちに道徳教育科目を必須化させようとしている。
子供たちに教える道徳が彼らのどこにあるというのか
道徳観のかけらもない政治家、官僚により作られた道徳教育を教える教員、おバカな国家日本としか言いようもない
教員は、現在の自分たち大人社会には子供たちに教える道徳が全く存在していないことをも合わせて教えなければならない
平成29年11月30日 文責 世界のたま