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愚民からの脱却~それ以外に私たちが生き残る術は無い

私たちが、愚民から脱却する以外、私たち自身、そして未来の子供たちを救う術は無い

先日、2歳の男の子が海水浴に行く途中で、自宅へ一人で引き返す中、行方不明となり、大捜索の末、68時間ぶりに発見された事件があった。
地元の人々をはじめ、多くの警察官、そしてヘリコプター、ドローンなどを駆使して大捜索するもなかなか発見することができない中、行方不明となって68時間が経過した早朝、一人の男性ボランティアによって、彼の捜索開始から1時間もしないうちにあっけなく無事発見された。

この事件は連日様々な報道機関が報じ、発見された際にも大きく報道され、その発見した78歳の男性も、彼がそれまでも全国各地の被災地などでボランティア活動されていたこともあってスーパーボランティアとして時の人となった。そうした報道で言われていたことは、男性の生き方やボランティアについてであった。

今、世界を見渡せば、米中貿易摩擦、北朝鮮核問題、イギリスEU離脱問題、イエメン内戦、ロヒンギャ難民問題、アフガニスタン問題、異常気象による災害問題、日本国内においても与野党党首選、障害者雇用水増し問題などありとあらゆる様々な問題が起きている。

そうした中で、冒頭に述べた一つの事件は、それらに比べて一見ほんの小さな事件にすぎないかのように思えるが、その小さな事件の中に、今、私たちが、世界で、日本で生じているあらゆる事象に対する上で必要不可欠なもの、学ばなければならないもの、根元的なものが存在している。混とんとした現代社会の中で、この事件が、今という時に起きたことは、ある意味で、決して偶然ではない。

この事件で私が思いだすのは、老人と海、白鯨などの文学作品である。
いずれの作品も一人の男が自然と向き合い、心の交流を描いた作品である。場所は、海に対して山であったこと、カジキや鯨に対して一人の2歳の男の子であったことなどの違いはあるが、不思議と私はこれらの作品を思い出し、それらと共通のものを感じた。
それは現代社会の多くの人々が失ってしまった自然との共存の世界であり、自然との共通感覚に他ならない。

今回の救出劇に関して、先にも述べた様に、多くの国民は、78歳の彼自身の生き方、ボランティア活動に注目しているが、今回の救出劇が私たちに示しているのは、彼自身の生き方にあるのではなく、思考停止した私たち自身の生き方に対する警鐘であり、砂漠を彷徨う私たち愚民にとっての羅針盤でもある。

今回の救出劇は、二つのことを私たちに教えている。

一つは、自然との共通感覚の重要性である。
人は、元来、自然と向き合って生活する中で、五感に加えて、自然との共通感覚を有していた。そしてそれは自然を恐れ、神を恐れる感覚にも通じるものである。
ルネサンス以降、人は、人間中心主義の中で、自然を予測し、コントロールできると過信し、科学の発展こそが善であると信じてきたし、自然が断末魔の雄叫びを上げている中でも、無数の人災が生じている中でも信じ続けようとしている。経済至上主義の中で、たかが手段にすぎないお金や物と人類を含む生物にとってかけがえのない自然とを引き換えようとしている。一時的な欲望のために人間は何にも代えがたい自分たちの生きる基盤たる自然を引き換えようとしている。

自然を人間と相対する対象とする中で、人は自然との共通感覚を喪失してゆく。人工頭脳や自動運転を開発、使用する中で、人は考え思考することを止める。
人類は道具や言語などの手段を考え、試行錯誤することで、動物一般が持つ古い脳(脳幹部など)以上に新しい脳(前頭葉など)を発達させてきた。そしてそれらを結びつける伝導路、シナプスを多数形成してきた。

認知症に関して、前頭葉を鍛えることが盛んに行われているが、前頭葉は、短期記憶以外にも空間認識や物事を論理的に考えたり、社会性の形成機能を有しており、人が思考を止めることは、新しい脳の機能低下すなわち社会性、他者との協調、共生機能の低下を意味する。
結果として、古い脳の機能である動物の持つ本能的機能、個体の防御反応、情動反応の抑制が機能不全に陥り、本能的な怒りや、攻撃的行動へと人を導く。
現在、世界中で沸き起っている数多くのテロや、内戦、貿易摩擦、人権弾圧、領土をめぐっての争い、軍備の拡大、自国ファースト主義、経済的格差拡大、人種、性差別、障害者差別、説明責任の放棄、社会的弱者への弾圧等々、それらすべては、その証左に他ならない。

今回の救出劇の中では、警察や、消防、地域住民が、ヘリコプター、ドローンなどありとあらゆる科学的手段を使い2歳児の発見に68時間も費やしたが、発見できなかった。その一方で、何の科学的手段を持たない一人の男性が、子供は上に上がるとの判断(自然との共通感覚に近いもの)でただ山道をひたすら上がり、1時間もしないうちに無事、子供を発見した。
私は、如何なる科学的手段が存在していたとしても、自然との共通感覚を失い、思考停止した中での人間社会の果てしないもろさを感じた。

発見後も、その男性は母親との直接手渡すとの約束を盾に、警察関係者による法的根拠を理由(本当にあるのか私にはわからないが)とした子供を引き渡せとの要求を拒否した。男性は子供の元気度を見極めた上で、そういった行動をとったのであって決して無謀なものではない。私はそこにも規則という道具に縛られた思考停止した現代社会を垣間見た。

私たちに投げかけているもう一つのことは、個の中に全体を見出だす感覚、言い換えれば自然との同化である。
確かに子供を救った男性は自分自身も語っているようにボランティアとして現地に赴き、結果的に子供を発見したのであるが、彼の言動を見聞きした中で、私が感じたことは、彼自身と、2歳児、家族、そして2歳児がいなくなった山を含めた彼を取り巻くすべての自然が彼と同化していたことであった。それは彼が自然との共通感覚を有していた裏返しでもある。

自然と人間の同化、すなわち個の中に全体を見るためには、己を捨て去る気持ちがなければできないことである。私がかつて通った高校で盛んに繰り返されていた「己に徹して人のために生きよう」という校訓は、今思えばこういうことだったのかと今の自分だからこそ初めて理解出来る。

私は思う。今私たちに必要なのは、理屈などではない。
自然との共通感覚の中で、一人一人が個の中に全体を見出だすこと。自然との共存、自然との同化の認識、そしてその中での個の確立。
そうした時、初めて他者を含む自然の中で、空間的、時間的な意味における無限の想像力が得られるのだと思う。

最近、日本国内で明らかになった障害者雇用促進法に基づく各省庁の障害者雇用6900人余りの半数3500人余りが偽りの水増しであった事実などみてもわかるが、そこにあるのは省益か個人的利益しかない、障害者と共に築く社会という本来の目的などもはや存在していない。現在の政府、各省庁の役人、そして国会議員には、個の中に全体を見出だす想像力などひとかけらもない。個の中に個しか見えていない。そこにあるのは、所詮、省庁、政党という狭い世界の中での個でしかない。
おバカな首相、大臣、官僚、国会議員が起こした森友加計学園問題をはじめとした数々の問題、そして、日大、東京医科大、ボクシング団体が起こした様々な問題、そして投票率の低さが物語っている思考停止した私たち主権者たる国民、全てに共通しているのは、個の中に個しか見ることのできない哀れな想像力の欠如した世界である。

このことは個人的レベルだけではなく、国家的レベルでも同様なことが言える。
先にあげた世界で現在生じている様々な問題は、多くの為政者たちを筆頭に、それぞれの国の多くの国民自身も自然との共通感覚を失い、人間を含む自然との共存を否定してしまった結果必然的に生じている事象にすぎない。

今、私たちに必要なのは、理屈ではない。科学的知見でもない。
個の中に全体を見出だす力であり、その中での個の確立に他ならない。
過去を学び、未来を想像する中での絶対的核心を持った心
私たち一人一人がその心を持たない限り、愚民から脱却しない限り
現在を生きる私たち自身、そして世界中の未来の子供たちが生き延びる術は何処にも無い

    平成30年8月28日  文責  世界のたま

追記)
 今日8月30日経産省が、誰が何を発言したかを議事録に記録しないように指示を出したこと、一部の議事録については即日廃棄指示を出したことを明らかにし、経産省自体その事実を認めた。
 このことは、自分たちが責任をとり、非難されることを避けるための典型的な利己的行為に他ならない。個の中に個しか見ていない。
 確かに彼らは、いわゆる偏差値が高く、お勉強はできるのかもしれないが、私からしてみれば、人としては、おバカな中でも最もたちの悪い最低のおバカであるとしか思えない。何故ならば、彼らがとっている行為が、彼ら自身にとっては、たいしたこともない自己保身の行為と考えているのかもしれないが、それらの行為が、彼らが忠誠を誓った日本国憲法の基本理念である立憲民主主義に反しており、彼らの為した行為が、現在、将来の主権者たる国民に如何なる災いをもたらすのかという想像力が決定的に欠如しているからである。
 そもそも公文書、議事録などは、法律、規則で如何に定めてあろうと、すべてその所有権は主権者たる国民にある。何故なら、今回の件もそうであるが、彼らは保身のためであれば、必ず例外を作り、全てを骨抜きにしてしまうことは彼らの常とう手段であり、そうした悪だくみに関しては呆れるほど持ち前の能力を発揮するからである。
したがって、彼らには、それらを利用する権利はあっても、その改ざん、処分する権利は一切ない。
民主主義にとって公文書、議事録や政府、官僚、国会議員の答弁、言い換えれば説明責任は、欠くことのできないものである。公正な公文書、議事録、虚偽のない答弁に基づく国会審議がなされることが、国会や内閣の正当性の根拠だからである。
現在、私が広島高裁に控訴しているのも現在の内閣、国会にその正当性がないからに他ならない。
私には、現在の内閣、国会に日本国憲法上の正当性があるとは思えない。
 私たちは、私たち自身のために、将来の子供たちのために、個の中に全体を見ることのできる想像力をもった日本国憲法で謳っている正当性のある代表者を選ばなければならない。そして、それは日本国民としての責務であると思う。
そのためには、私自身、あなた方一人一人が、所属する政党や、宗教を超えて考え、行動しなければならない。
私たちは、思考停止から、合理的無知や合理的非合理性から卒業しなければならない。
私自身、あなた自身が変わらない限り、何一つ変えることはできない。
私自身、あなた自身が変わることで、日本を変え、世界を変えることができるのだから
私自身、あなた自身の中に、全てが存在しているのだから
我が国、日本の中に、世界が存在しているのだから

     平成30年8月30日   文責   世界のたま