Monthly Archives: 2月 2017

日米首脳会談で日本が失ったもの(2)(世界が失ったものと心の汚染)

前回のブログでも述べたように現在の日本はもはや立憲民主主義国家ではなくなってきていることを国際的にも露呈してしまっているが、私は今回の首脳会談、いや、それ以前に大統領就任前に、安倍氏が訪米し、トランプ氏宅に金のゴルフクラブを持って訪ねた光景を見て、日本という国家としての独立性、言い換えれば真の意味での国家主権そのものを本当に失ってしまったとつくづく思い知らされた。

私は国際関係において真の意味で最終的に不可欠なものは、グローバル化された民主主義であり、最終段階においては国家主権の存在はもはや意味をなさないものと考えている。

しかしながら、立憲民主主義が世界において確立していない、それどころか失われつつある現代社会においては国家主権の存在は立憲民主主義を守ってゆくうえで依然として不可欠であると思う。

そういった意味で、我が国がアメリカに対して行っている現在の外交は朝貢外交以外何者ではなく、我が国には国家主権は存在していない。この間の他国の首相のトランプ氏に対する対応を見てみても一目瞭然である。その真意は別にしても

トランプ氏が大統領に就任後、ドイツのメルケル首相はその電話での首脳会談において、世界の首脳として唯一トランプ氏に対して民主主義、基本的人権の尊重を敢えて取り上げることで苦言、警告を発した。

イギリスのメイ首相はトランプ氏との直接の首脳会談の席上、トランプ氏を横目に敢えてアメリカの7か国からの入国を禁じた大統領令に対しての批判、苦言を呈した。

メキシコのペニャニエト大統領は国境の壁問題でトランプ氏との首脳会談を中止した。

カナダのトルドー首相はトランプ氏との会談の中でトランプ氏を横目に移民の受け入れ、多様性こそが発展の源であることを発した。

私がここで国家主権について口を酸っぱくして述べるのは最終的な個々の基本的人権の尊厳の確保にとって手段としての国家主権の存在が当面、不可欠であるからに他ならない。

ただここで間違ってはいけないのが、自国民のみの人権を優先させる意味での国家主家と、国際的な社会的弱者との共存を前提とした国家主権を決して混同してはならないということだ。現在の世界を覆っている空気、国家主権を強調する空気は前者の意味での、かつて先進国が行った植民地政策を思い起こさせる。私たちは資本主義経済の行き詰まりの中で、真の意味でのグローバル化とは何なのか、真の意味での国家主権とは何なのかを思考し、想像することもなく、歴史の中に閉じこもり、その歴史を繰り返そうとしている。

今、私は世界中で環境はもちろん、世界中の人々の心の中に汚染が広がり、悪臭が漂っているのを感じる。

トランプ氏のアメリカは自国中心の経済至上主義を唱え、ロシアを上回る核兵器の保有、世界一の誰をも有無を言わさない世界最大の兵力の保有を進め、このことが軍需産業の活性化につながり、第二次世界大戦後、世界中の金の保有を独占し、世界の金融、経済の中心であったアメリカの再現を夢見ている。

そんな中で安倍氏の日本も、違憲である安保関連法の強行採決後、スーダンへの自衛隊派遣、兵器の輸出解禁、原子力発電所の輸出し、世界中の環境に対して、世界中の人々の心の中に物理的、精神的汚染の拡散を図っている。

兵器を経済至上主義的な観点から軍需産業の生産物としてとらえる限り、世界中から兵器はなくなることはない、戦争もなくなることはない。蓋し、より多くの経済的利益を上げるためにはその需要たる戦争は起きてもらわなければ困るのだから、かつてソ連がアフガン侵攻したとき、9.11を引き起こしたビンラディンに対して軍事的支援を行い、悪の枢軸としたイランにかつては軍事基地を作り、イラン・イラク戦争当時はイラクに対し軍事支援を行い、中東最大の軍事力をつけさせ、9.11以後はそのイラクに対して、多国籍軍を率いてありもしない大量破壊兵器を理由として軍を侵攻させた。

日本においても、日本が今日、経済大国になりえたのも朝鮮戦争、ベトナム戦争による特需が大きく寄与していることは歴史的事実である。

グローバル化の流れの中で、国家間の直接的な戦争はなくなりはしたが経済至上主義が世界を覆う中で、格差は拡大してきており、その中で世界中で人々の不満は増大している。

世界中で9.11以降、テロには屈しない、テロとの戦いという言葉が各国の首脳から聞かれる。確かに世界中で民族、宗教の違いによる武力衝突やテロ事件が起きているのも事実だ。

それでは何故、それらがなくならないのだろうと考えたとき、私は先に述べた経済至上主義による格差、貧富の拡大が一つの大きな理由だと思う。

そして巨大な軍需産業の存在だと思う。軍需産業も経済活動の一つとしてとらえるならばテロとの戦いだと国民に排外主義を焚き付け、世界中の軍事費、防衛費を増大させ、実際のテロとの戦いの中で莫大な武器、弾薬を使用している。言い換えればテロとの戦いがなくなってしまうことは軍需産業にとって好ましいことではない。自らの需要がなくなってしまうことを意味しているのだから

実際に国際関係の中で緊張関係を高めているのは軍需産業を経済成長の柱の一つとする経済至上主義国家そのものに他ならないと私は確信している。

言わば消防士が火をつけて回っているようなものではないかと私は思う。

私は皆さんに問いたい、真に平和の中に生きることを望む者は、今、何をしなければならないのか

私は思う。
歴史に目を閉ざしてはならない。
歴史の中に閉じこもってはならない。
思考停止してはならない。
他者との共存を否定してはならない。 
排外主義に陥ってはならない。
真に平和を望む者は経済至上主義に陥ってはならない。
経済至上主義に陥っている私たち自身こそが真の平和を害する根源なのだと気付かなければならない。

最後に、アウシュビッツ収容所で生き残り、その後館長を務めた今は亡きアウシュビッツ博物館館長の言葉をあげておこう

ただ涙を流すのではなく考えてください。

  平成29年2月27日   文責   世界のたま

日米首脳会談で日本が失ったもの(1)(安倍とトランプの相似性)

先日、安倍氏とトランプ氏との日米首脳会談が行われた。そのことに関しては様々な意見が聞かれている。

今回の日米首脳会談で私は、我が国がいくつかの大切なものを失ってしまったと思う。一部の野党が言うようなただ単に日本がアメリカに対してスネ夫になってしまったというような表面的なことではなく、我が国が本質的な部分で失ってしまったものが何なのか、そしてそんな中で私たちは何をどう考えてゆかなければならないのかをお話ししておこうと思う。

まず今回の日米首脳会談で我が国が本当の意味で失ってしまったものが何なのかであるが、立憲民主主義そのものだと思う。このことは今まで何度もブログの中で取り上げてきたことなのであるが、今回の会談を通じて如何に今までのわが国がうわべだけの立憲民主主義国家であったのかということ、そして我が国における立憲民主主義が風前の灯火であるということを世界中に露呈してしまったということなのです。

現在、トランプ政権と言えば、世界中で、そして我が国においても7か国からの入国を禁止した大統領令が問題とされやすく、実際に大統領令に対しては国内のみならず世界中で多くの批判がなされている。確かに飛行場での搭乗を拒否された人々の映像が繰り返し流されるたびに思い出されるのは、かつてドイツの遠洋汽船、セントルイス号に乗ったヨーロッパから迫害されたユダヤの人々が自由の地アメリカを目前にしつつも入国を拒否されヨーロッパに送り返されたあの光景、それはアメリカのみならず、あの当時、世界中のあらゆる国で見られた光景であった。そしてそれは現代におけるミャンマーのラカン州でのロヒンギャ族も同様である。ミャンマーはロヒンギャ族を国民と認めておらず、彼らに対して武力を含めた弾圧を行い、多くのロヒンギャ族の難民が発生している。国連が一応その対応に乗り出してはいるもののある者は船に乗って周辺国への入国を目指している。それに対し多くの周辺国は食料を与えても上陸を拒否し、漂う棺桶とも言われている。アウン・サン・スー・チー氏のもとでも状況は変えることはできないでおり、まさに行き先もない漂う難民そのものである。

そんな中、私が思うことは、確かに大統領令の中身自体も問題なのだけれども、それ以上に問題だと思っているのは、その手続きとしての過程である。私は民主主義とは手続きであると思う。結果以上に大切なことはその過程としての手続きである。蓋し、結果は手続きによって生じているのにすぎないのだから。

まともな民主主義国家が、たとえ時間がかかり面倒でも手続きを大切にするのは、そうすることが重大な過ち、すなわち人権侵害を防ぐことにつながり、最終的に国民の国家への信頼につながってゆくからに他ならない。それはそのまま世界に対する信頼へと直結してゆくのだと私は確信している。

今回の大統領令の最大の問題点はまさにその手続きにある。大統領の一存で猶予なく出されているのである。前回のブログでも述べたようにトランプ氏は経済界の代表者であり、経済がよくなれば、特にアメリカ経済さえよくなればよいといった人間である。

以前、安倍さんや橋本さんの政治手法であるトップダウンについてのブログの中でも話したことがあるが、現代の思考停止した総サラリーマン化社会の中で、自分自身で決定することなく上からの命令にすべてを委ね、その中に身を置くことはサラリーマンにとって楽であり、一見物事がスピーディーに解決できそれが政治の上でも正しいように企業教育の中で錯覚させられているが、それはあくまで企業社会の中での話である。そして昨日明らかになったように、東芝問題がよい例であるが判断を見誤ると数多くの従業員の生活があっという間に脅かされてしまうのである。取り返しがつかないのである。当事者にとって会長の辞任だけでは済まされる問題ではない。会長は辞任したところで生活に困ることはないが、従業員は失業の中路頭に迷うだけである。企業であればそれでも失業保険や生活保護制度があるが国家ではそうはゆかない。国家が道を誤ればその先はないのである。

利益を追求する企業におけるトップダウン的な思考は、国民の基本的人権を守り、幸福追求を目的とする政治手法としてはそもそも相いれないものである。政治において間違いは許されないのである。しかもその中で可能な限り少数者、経済的、社会的弱者を守ってゆかなければならないのである。

安倍氏もトランプ氏も所詮、経済成長しさえすれば世界が良くなると信じているおバカさんか、ペテン師だと思う。企業社会での思考をそのまま正しいと考え、トップダウン的な思考を善と考え、それゆえ安倍氏が国会での議論や、公聴会での議論を避けたがる。何度も違憲状態選挙を繰り返し、議論の必要のない絶対多数の確保に奔走する。以前のブログでも書いたが経済優先社会は説明責任の放棄を許してしまう。

説明責任のない社会には議論は必要ではなく、一方的な大統領令の発令、ツイッターでの発言、国会での強行採決につながる。経済優先社会、経済至上主義をとなえる安倍氏とトランプ氏はその点で相似性があり世界的な様々な非難の中、世界中で苦しんでいる多くの難民を横目に政府専用機で快適な旅行をして、ゴルフに夕食会に興じることができたのも弱者との共存を否定し、共通感覚をなくし、思考停止したそのおバカさ、それらの相似性があったからに他ならない。

ここで勘違いしてはならないのは、あくまでも安倍氏とトランプ氏との相似性であるということである。日本とアメリカとの相似性ではないことを私たちは認識しなければならない。

アメリカにおいては今回の大統領令に対して、合衆国憲法に反しているとの党派を超えた世論が巻き起こり、州知事がその執行停止を裁判に訴え、州地裁が全米でその執行を止めてしまった。その後高裁も州地裁の判断を支持し、トランプ氏の司法批判に対してもトランプ氏自らが現在の空席である最高裁判事に指名した保守派のゴーサッチ氏すらも失望したとの批判を表明している。

私は現在の経済至上主義的なアメリカに対しては否定的であるが、今回の大統領令に対する様々な動きに関しては、現代立憲民主主義的な意味において、あくまでも合衆国憲法に反していることに対しては党派を超えて、リベラルであろうが、保守的であろうが批判し、その是正を最終的には司法の独立において早急に図ると同時に司法の独立を違憲審査という観点から死守しようとする姿勢は、相似性はなく、それどころか我が国とは対極にあると思う。

我が国においては私が違憲訴訟を起こし、このブログを立ち上げ、参議院選挙に立候補して訴え続けているが、我が国には現代立憲民主主義的観点から見たときに、国民主権により主権者が自らの力で、三権分立という権力の抑制と均衡という憲法保障の力で、自らの基本的人権を守ろうという気概が全く存在していない。

我が国はもはや現代立憲民主主義国家ではなく、我が国には立憲民主主義的意味での憲法は存在していない。そんな国には基本的人権も存在し得ず、残っていたとしても遅かれ早かれ国家という大義名分の下に奪われ、それを守る術もなくなっている。

我が国において、安保関連法の強行採決で明らかになったように大学において憲法学を研究し学ぶ意味はまったくない。蓋し、いくら学んだところで、国会で参考人招致された学者がいくら国会で審議されている法案が違憲であると主張しても、おバカな大臣、国会議員によって最終的に判断するのは学者ではなく最高裁だと一蹴され、大学において学び、司法試験では憲法を守ることを書いてその資格を得たであろう裁判官すらもが違憲判断ができないのであれば。

今の我が国は、過去のブログで述べたように書物が焼かれ、知識人の人格が否定された文化大革命の中国、ポルポトが支配したカンボジアと同じだと思う。時の政権に都合の悪い事実はすべて否定するのである。たとえそれが国民の基本的人権に関わる重要な問題であったとしても

このことはもはや我が国が国家としての体をなしていないことを意味している。ある意味で我が国とイスラム国と現代立憲民主主義国家であるかという点では違いがないと思う。どちらも現代立憲民主主義国家ではないのだ。

私は思う。何のための戦後の民主主義教育であったのか。平和教育であったのか。我が国にとって歴史とは単なる空虚な時間に過ぎなかったのではないか

私は、現代立憲民主主義という手続きは木で例えれば幹のようなもので普段外部からは見えにくいものだと思う。GDPを無理やり押し上げ、株価を押し上げたところで、一見外見上は太い木のように装ったところで幹は確実に蝕まれ腐り続け、木の内部は悪臭が漂い、近い将来一瞬で倒れてしまうであろう。そして幹が腐りきった木がそうであるように、ある程度腐食が進んでしまった木はいかに優秀な樹木医をもってしてもその回復は困難である。

私は今、自分自身に問いかけている。そして、あなた方一人一人に問いかけたいのです。

私たちはこのまま愚民として生き続けるのですか、それが果たして人が生きているという意味なのですか

  平成29年2月16日  文責  世界のたま