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常識が壊れた社会に未来はない~国会の集中審議、内閣総辞職に何の意味もない

森友問題で、今朝から国会集中審議がなされている。
財務省文書改ざん問題が明らかになって以降、多くの政治家、評論家、ジャーナリストが連日、様々な意見を述べ、テレビや、ネットで数多く取り上げられていた。

そうした中で、加計学園においても公文書改ざん、前川元文科省事務次官の公立学校での講演についての文科省による脅迫じみた問い合わせ、それに関わる政治家の関与などの問題も報じられ、これらについても様々な形で議論されている。

結果的に、現時点では新聞各社の世論調査では内閣支持率は低下し、そうした状況をある意味で利用することで、与党においては、財務大臣、総理大臣の辞職、それがなくても今年中には行われる総裁選での次期総理を巡っての駆け引きが始まっている。
一方、自民党以外の政権与党、野党においては、如何に自らの政党へのダメージを減らすか、もしくは今回の件を利用して政治的立場を強くし、議席を増やすことにつなげるか、いずれにしても相も変わらない政治ショーが繰り広げられている。

私自身が、この間の様々な出来事の中で思い、考えることを述べておきたいと思う。

私は、このブログのテーマにも挙げているように、今回の国会での集中審議、そしてたとえ、財務大臣が辞職しようと、内閣が総辞職しようと何の意味もないと思っている。
たしかに一時的には、現在の政権が持つ強権的な態度は多少減ることは予想され、そういった意味で意味があると考える人達がいるとすれば、おそらく、現在の与野党の多くの国会議員、官僚はそうなのではないかと思うが、そのレベルの人にとっては、その人なりの意味があるであろう。
しかし、結局は単なる自己満足、保身のレベルでしかない。現在、将来の主権者たる国民、子供たちにとって根本的には何の解決にもならず、一昨年、昨年の国会議員選挙立候補時にも述べた様に、問題を先送りするだけで、時間の無駄にすぎない。その際にも述べたが、私たちにはもう時間がないのです。

私にとって、今回の森友、加計学園に関する公文書改ざん、そして文科省による学校教育への政治的干渉などは、起こるべくして起こっている単なる一つの事象にすぎないのです。
問題の根幹は、一昨年度の参議院選挙立候補時に有権者の方々に訴えた憲法違反の国会議員、内閣、そして、昨年の衆議院選挙立候補時に訴えた我が国の学級崩壊状態、すなわち、現代立憲民主主義の否定にあります。

今回の件で、様々な国会議員や、評論家が民主主義の根幹を揺るがす事態だと盛んに語られている方々がいるが、私がこのブログを始めた時から、すでに我が国に限らず、世界中の現代立憲民主主義の崩壊が始まっています。だからこそ、私自身、ブログをはじめ、国会議員に立候補する形で有権者に訴え続け、裁判でも戦ってきたのです。彼らはあまりにもその認識が遅すぎるのです。遅いということは時間的に遅いというだけでなく、その根本的な原因についての認識すらも未だしていないことを意味しています。

そういった意味で、今回の公文書改ざん問題で、たとえ、財務大臣を辞めさせたり、内閣総辞職させることで(支持率の低下があり決して解散総選挙にはならない)、公文書管理の徹底、政府からの学校教育不干渉を約束することで、根本的原因を理解していない彼らは、政治的保身、政党的レベルで満足するのかもしれないが、根本的問題である現代立憲民主主義の崩壊、学級崩壊社会に関しては何ら解決もしないままで、もっと大きな悲惨な形で現在、将来の主権者たる国民に災いが降りかかってくることを想像、予測することができないでいる。
誤解を恐れずに言えば、今回問題となっているお友達のためなら、政治的便宜を図り、公文書改ざん、国会での嘘の答弁、権力を使っての逮捕の取り消しなどしている現政権と基本的にはなんら違いはないと思う。強欲さが大きいか小さいかの違いにすぎない。
彼らには真の意味での想像力が欠如している。言い換えれば真の意味での他者との共存の心が欠如している。

私がこのブログを立ち上げて4年近くになるが、この間、ブログを書き、広島地裁、高裁、最高裁裁判所に幾度となく訴え、国会議員に立候補して思うことは、主権者たる国民の基本的人権を守るべき国家機関たる現在の内閣、国会、司法、それぞれのその構成員にあるのは驕りだけであり、本来、彼らが最も必要とすべき謙虚さや、想像力がないという事実。
そしてその構成員のそれらの能力の欠如を補完し、その乱用を防ぐための国家機関の相互の抑制たる日本国憲法上、定められている三権分立の機能がまったく機能していない事実です。

今、私たちが問題としなければならないのは、我が国が学級崩壊していることを、国民一人一人が認識しなければならない。
学級崩壊しているその原因は、これまでも幾度となく述べ、このブログの基本的理念である日本国憲法の順守がなされていないことにある。具体的には、特定秘密保護法による知る権利たる表現の自由への侵害、安保関連法における憲法に反する集団的自衛権の容認、共謀罪(テロ等準備罪)における前国家的権利であり、民主主義にとって不可欠な権利たる内心の自由への侵害である。

上記に述べた様に、本来であれば、主権者たる国民が、政治的無関心、思考停止していても国会、内閣、司法がその三権分立という人権保障機能の中で、国民の人権は守られるはずなのであるが、先程も述べた様に、そこが全く機能していない。
今回の集中審議も、その結果としての財務大臣辞職、内閣総辞職、また、公文書管理体制の徹底、公教育への権力の介入防止などをしたところで、三権分立による人権保障機能不全、日本国憲法の順守がなされない中では、全く意味をなさないのです。もはや時間の問題で、もっと大きな悲惨な形で私たち国民の人権が侵害されることは火を見るより明らかなことです。

知る権利の妨害、平和的生存権への侵害、そして内心の自由への侵害、この4年間で、急速に私たちの人権は侵害されており、その結果として今までにはありえなかった国権の最高機関たる国会への偽造公文書の提示、国会でのねつ造された答弁、もはや我が国は、国家として成り立っておらず、こんな状態で私たち国民の人権が守れるわけがないのです。

この4年間、私自身、個人的には可能な限りのことはしてきたつもりですが、昨年10月の衆議院選挙立候補時に皆様にお伝えした学級崩壊状態がいよいよ明らかになってきています。選挙後のブログでのあいさつの中で、最終的な問題、責任は、私たちおバカな国民にあるとお話ししました。
たしかに、昨年の衆議院選において党利党略、自己保身の中で右往左往した政治的判断能力、想像力の欠如した与野党すべての国会議員にその最大の原因があることは事実です。彼らは国民の代表者たる国会議員なのだから。
しかし、先にも述べた様に、現在、国家権力を構成するすべての三権は、個々に、我が国の、世界の真の将来を想像し、あるべき世界を描き、実現する想像力、政治的能力を持ち合わせていません。さらに悪いことには、その三権の人権保障のための抑制と均衡する能力すら持ち合わせていないことが、この4年間ではっきりしています。

私は、衆議院選で述べたことを、もう一度皆様にお伝えしなければならないと思う。
私たち主権者は、自分たちの人権は現在の代表者ではなく私たち自らが守るしかないのです。
私たちは今までのような、おバカな国民、思考停止した国民であってはならないのです。
もし、あなた方が自分たちの子供、家庭を大切に思うなら、おバカな国民から卒業しなければならない。合理的無知や、合理的非合理性の中で、何も考えず、棄権したり、単に党員だからという理由だけで、所属政党に一票を投じ続けることから卒業しなければならない。

真の意味で、自分自身を愛し、家族を愛し、日本国民を愛し、同様に世界中の平和を求める人々を愛する人に、私たちが、どう考え、何を為すべきかを伝えておこうと思う。

1.現在の我が国が、現代立憲民主主義国家としての体を成していない学級崩壊状態である共通認識を持たなければならない
2.その原因は、現在の国会の代表者が、政治的能力が欠如した、真の国家、国民のことを考える代表者でない以上、私たち国民にそのすべての責任があることの自覚を持たなければならない
3.私たち全ての国民は、政党や様々な組織人である前に主権者であることを、決して忘れてはならない
4.現在の説明責任を放棄するだけではなく、私たち国民の権利、義務に関わる法律を制定する国会に対して公文書改ざん、虚偽の答弁をする政府、それを容認してきた国会、裁判所、それらの根本的な原因は、バカの一つ覚えのように改正のことばかり訴え、現実に存在している日本国憲法を守らない、守らせないことにあるという認識を持たなければならない
5.民主主義とは、少数意見が多数意見になりうる可能性であり、そのためには議論、説明責任が不可欠である。正確な公文書、嘘偽りのない答弁のないところに議論は成り立たず、民主主義は存在しえない。
6.あらゆる民主主義を大切にする組織は、説明責任を必要とするが、現在の経済至上主義の中での富の蓄積、格差社会においては説明責任を必要としなくなってきており、今回の一連の出来事もその延長線上にある。私たちが民主主義を取り戻すためには、経済至上主義を見直し、格差社会を是正するしかその術は無い。このことは世界中で起きている現実でもある。
7.国会議員選挙権の平等については、今回の一連の出来事でも明らかなように、選挙で大勝したら、次の選挙直前まで、選挙民のことなど考えないレベルの全国民の代表者とは程遠いのが現実である。私は選挙権とは選定権であると同時に、罷免権であるべきだと思う。特に衆議院議員選挙においては、直ちになされなければならない。そうした中で、立候補選挙区とは別の選挙区民による罷免制度などを導入すべきであり、そうした罷免権という点から選挙権の平等を考えたとき、その差は1:1に近づけなければならない。
最高裁の判断を仰がなければ自分たちの身分すら判断できない政治的レベルの低いおバカな現在の国会議員の制度改革を優先的になさねばならない
8.私たちは真の民主主義を取り戻して、日本国憲法にも謳われているように、他国、特にアメリカに追従するのではなく、国際社会に対して名誉ある地位を得なければならない。

最後になりますが、現在の我が国は、志半ばで自殺され、無念の死を遂げられた近畿財務局の職員が言い残された、常識が壊れてしまったという一言に尽きると思う。しかし、常識が壊れたのは、彼ではなく、政府、国会議員、裁判所を含めたそれらを許している私たち社会である。

自殺された近畿財務局職員をはじめ、財務省本省で亡くなられた方々も含め、この場をおかりして、ご冥福をお祈り申し上げます。

私たち主権者たる国民は、彼らを含めて、現在声をあげられず人権侵害で苦しんでおられる方々、現在の未成年者、未来の子供たちのために、政治的圧力で教育をゆがめるのではなく、真の意味で彼らのためになさねばならぬこと、それが何かを真剣に考え、直ちに行動しなければならない。私たちにはもうそんなに時間は残されていないのだから

そして、それが正義である。

  平成30年3月19日   文責  世界のたま

オセロゲームと現代社会~コーナーの白い石となれ

世界情勢を見まわした時、現代社会は一枚のオセロゲーム磐である。
地球という限られたゲーム磐の上で世界中の国々が黒や白の石を置いている。それぞれの国の政治的状況において国民の思想、良心、表現の自由などを中心とした基本的人権が守られ、尊重されている国家を白石、虐げられている国家を黒石とするならば、現在のオセロゲーム磐上には黒石が、急速にその数を増やしている状況にあると言える。
アメリカのトランプ政権によるアメリカファースト主義、ロシアにおけるプーチン大統領選再選によるプーチン独裁体制、中国における習主席の独裁体制、フィリピンにおけるドゥテルテ大統領、北朝鮮の独裁体制をはじめ、現在紛争が起きているシリア、南スーダン、イエメン、パレスチナなどその黒の濃さの程度は別にして、ゲーム磐全体として、黒石が広がっている。
その大きなゲームの流れの中で、思うことを述べておきたい。
このオセロゲームの流れの行く末である。

何度もブログの中で述べているように、根本的問題は、私たち人間の自然との乖離、人間中心主義、その結果としての、経済至上主義にある。科学とは自然から見れば稚拙な単なるお遊びにすぎないということに気付きもしないでそれこそが万能であると考えている。愚かな人間であるという自覚の喪失。
そうした中で私たち愚かな人間は歴史を繰り返し、お互いを殺し合い、傷つけ合い、自分たちの存在基盤たる自然環境すら破壊していることに気付きもせず、たとえ気付いたとしても当面の自己満足のために見て見ぬふりをしている。愚かさの極みである。

自然環境含めた資源には限界がある。オセロゲーム磐にサイズがあるように、しかし、人間の欲望には際限はない。
経済至上主義の中で、富の蓄積は進行し続けている。現在世界で起きていることは、先程も述べたように、必然的に蓄積した富を有する者は、その保全、更なる拡大を求めて、独裁体制の継続を図ろうとする。
それを可能とするのは、何度もブログの中で述べてきていることであるが、あらゆる民主的組織においては要求される説明責任が、富の蓄積の中では必要ないからだ。富こそが資本主義経済社会にとって善であり、それに対して何の反論も意味はなく、正論は無力である。

現実に、現在、我が国に起こっている事実を見て見ればいい、森友加計問題における情報の秘匿、自衛隊日報隠し、平気で国権の最高機関である国会において虚偽答弁、証拠改ざんをして、ニヤニヤ笑みさえ浮かべている。説明責任などかけらもない。

彼らにとって、財政民主主義、自衛官の生命の尊重などの最低限の憲法規範を守ろうとする心など持ち合わせてはいない。
臨時国会召集義務の無視、何の説明もせず、国会議員の一言の発言も許さない冒頭解散、すべて説明責任の否定、すなわち民主主義の否定である。

アメリカ、中国、ロシアを初めとして、世界中で広がっている経済至上主義の中での、グローバル化、自国中心主義の強化(国家中心主義)そうした中では、民主主義は生き残れない。オセロゲーム磐は、黒石で埋め尽くされてしまうであろう。

安全保障とは、一見、国家間同士の防衛論であると考えやすいが、獲得した富に対する脅威の不存在という定義からすると、国家を考えなければ、富を蓄積した者における脅威を取り除くことであって、世界中の大多数の富を持たない人間に対する保障制度では決して有り得ず、富を持たない人間のことなど端から安全保障の対象ではない。

そうした中で、オセロゲームは最終的に、おそらくただ単にゲーム磐が黒石で埋め尽くされるだけで終えることはないであろう。並べられた多数の黒石がゲーム磐から飛び散るか、ゲーム磐自体が破壊されてしまうであろう。

そうした中で、今、私たち一人一人の日本人がなさねばならないこと、日本がしなければならないこと、それは一枚の白石であり続けること、それも世界というオセロゲーム磐の中でコーナーの白石であり続けることである。

今、オセロゲーム磐上では、数多くの白石が、黒石に裏返されている。しかし、彼らは、個々の人間の基本的人権を保障するための民主主義を持っていない。すなわち決してコーナーの黒石には成り得ない。ゲーム磐中央での石の取り合いをしているだけである。

私たち日本人が、日本が、コーナーの白石であり続ける限り、決してその色を、誰をもってしても変えることはできない。

私たちがコーナーの白石であり続けるためには、私たちは、まず白石であり続けなければならない。

私たちが白石であり続けること、それは今、私たちの国が失おうとしている現代立憲民主主義を取り戻すことに他ならない。

     平成30年3月8日   文責  世界のたま

現実の中で生きる

前回のブログで、仮想社会に救いはないと書いたが、それでは仮想でない現実の中で生きるとはどういうことなのであろうかということについて触れておこうと思う。

先日、アメリカの学校で銃乱射事件が起こり、学校に通っている学生が犠牲になってしまった。何度も繰り返されている中で、今回も事件後、多くの生徒たちが、何故、教育を受けるために通う学校で殺されなければならないのかという単純な問題についてプラカードを掲げて訴え続けていた。
おそらく今回は違うといった意見もあるが、憲法の規定、全米ライフル協会、それらから政治資金を受けている政治家などにより、何一つ変わることはないであろう。

それではそれを変えるためには何が必要なのかということであるが、私が思うのは、銃所持を禁止することに対して、一人一人の国民が真の現実を理解することでしかないと思う。
多くの国民は歴史的にも自分や家族の身は自分たち自身が持つ銃によって守ってきたという自負、そして現実的に何億丁も存在している銃社会が現実であり、銃を捨てることは自殺行為であり、それが現実であると思っている。

私はそれが真の現実ではないということが断言できる。何故ならば、今回の事件もそうなのだが銃が生き物を殺傷すために作られた道具でしかないからだ。
銃が存在する目的は生き物を殺傷させることであってそれ以外の道具としての目的は存在していない。それが唯一の事実であり、それ以外の現実は存在していない。それ以外の事実は現実ではありえない。

銃によって犯罪が抑止できるという発想は決して事実ではなく単なる妄想に過ぎず、現実からの逃避である。

このことは銃乱射事件だけではなく、先日アメリカが発した核兵器の小型化にも同様なことが言える。過去のブログの中でも何度も話したことがあるが、現代の安全保障において、その対象は国家ではなく個人であり、それを認識したうえで安全保障論議をしてゆかなければならないと私は考えているが、そうした中で言うと、核兵器の小型化は、個人の保有、使用を可能とするものであり、安全保障を根底から崩すものでまったく稚拙で愚かで馬鹿げた論理である。その論理に間髪入れず賛同する日本の政府、政治家は輪をかけた大ばか者であり、無知の極みである。

地球温暖化について考えて見よう。
、経済至上主義の中で、環境破壊も顧みず物質的欲求を求め続ける私たち自身に原因があり、それらを考え直さない限り温暖化を止めることができないことは事実であるが、それらを前提としたうえで、原子力発電が温暖化防止にとって役立つという考え方があの福島原発事故の後でも言われ続け、再稼働の一つの大きな理由に使われているが、その現政府の論理も無知の極みに他ならない。
蓋し、スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島、それらから私たちが学んだことは、たしかに津波や、地震、台風などの自然災害も恐ろしいが、それ以上に恐ろしいものが放射能汚染などの自然界に存在しない物質に他ならない。それらは自然の力をもってしてもその回復が非常に困難であるからに他ならない。
地球温暖化防止のためのその手段としての原子力は有り得ないのである。何故ならば、自然界に存在しない物質は、温暖化防止のその大前提となる地球環境そのものを破壊してしまうからである。地球環境の存在しない温暖化防止など、目的の存在しない手段に他ならず、そこにはまったく何の意味も存在しない。それが事実であり真の現実である。

共謀罪について考えて見よう。
あれだけすったもんだして強行採決によって成立、執行された法律である。私自身、その執行停止、無効確認について現在最高裁第一小法廷に上告、特別抗告しているところであるが、その立法事実としてもパレルモ条約の締結のため、テロ防止のためと変遷した。
私自身が、最高裁に訴えている理由の一つが、共謀罪という法的手段でテロが予防できるとは思えないからである。というより、テロ防止にはならないからである。
世界で起きているテロの現実を見ればわかるが、その多くは民族、宗教的対立である。しかし、それらの多くは表面的な事実であり、私はその根底に、経済至上主義における格差によって生じた貧困、学校教育を受けられない子供たち、武器の売買や資源をめぐる利得が複雑に絡み合っている事実があり、それらが現実であると思う。
今回執行されている共謀罪、その前になされている刑事訴訟法改正による立会人なしでの盗聴、犯人情報提供による起訴猶予などの司法取引の合法化などと合わせて、政権の国民の監視強化、国民同士の監視強化が着々と進んでおり、そういった意味で特定秘密保護法と合わせて共謀罪がとどめてあったともいえる。
私が最高裁に上告している最大の理由である日本国憲法に反した立法、執行行為、その中でも日本国憲法の基本原理である基本的人権の尊重、さらにその中でも中核たる前国家権利たる思想、良心含めた内心の自由である精神的自由権への侵害である。
内心の自由は主権者たる国民の基本的人権であるとともに、民主制にとっても不可欠な権利でもある。それらがほんのわずかでも侵害されたとき、もはや全ての国民は自由にものを考え、行動することはできなくなってしまうのです。
テロのない社会を作るために私たちがなさねばならないことは、まず何故テロが起こるのか、その真の事実、現実を考えなければならない。
表面的な事実だけを考えれば、共謀罪、刑事訴訟法の改正は一見役立つように考えやすいが、それは単なるごまかしにすぎない。

行き過ぎた経済至上主義社会の中での格差社会の拡大、その格差社会の中での少数者の切り捨て、子供たちの教育の機会の不平等、強行採決含めた社会的強者による説明責任の放棄などが真の事実、現実であると思う。
それらの現実を考えたとき、共謀罪含めた国民同士の監視社会、分断、内心の自由の制限は少数者の発言、討論、行動の自由を奪い取り、間違いなくテロをなくす方向ではなく、結果的には新たなテロを生じさせてしまうであろう。

私たちは、多くの事実の中から何が真の事実であるかを純粋な無垢な瞳で見つめ続けなければならない。
それが現実に生きるということでないかと私は思う。

    平成30年2月18日   文責   世界のたま