前回のブログで、仮想社会に救いはないと書いたが、それでは仮想でない現実の中で生きるとはどういうことなのであろうかということについて触れておこうと思う。
先日、アメリカの学校で銃乱射事件が起こり、学校に通っている学生が犠牲になってしまった。何度も繰り返されている中で、今回も事件後、多くの生徒たちが、何故、教育を受けるために通う学校で殺されなければならないのかという単純な問題についてプラカードを掲げて訴え続けていた。
おそらく今回は違うといった意見もあるが、憲法の規定、全米ライフル協会、それらから政治資金を受けている政治家などにより、何一つ変わることはないであろう。
それではそれを変えるためには何が必要なのかということであるが、私が思うのは、銃所持を禁止することに対して、一人一人の国民が真の現実を理解することでしかないと思う。
多くの国民は歴史的にも自分や家族の身は自分たち自身が持つ銃によって守ってきたという自負、そして現実的に何億丁も存在している銃社会が現実であり、銃を捨てることは自殺行為であり、それが現実であると思っている。
私はそれが真の現実ではないということが断言できる。何故ならば、今回の事件もそうなのだが銃が生き物を殺傷すために作られた道具でしかないからだ。
銃が存在する目的は生き物を殺傷させることであってそれ以外の道具としての目的は存在していない。それが唯一の事実であり、それ以外の現実は存在していない。それ以外の事実は現実ではありえない。
銃によって犯罪が抑止できるという発想は決して事実ではなく単なる妄想に過ぎず、現実からの逃避である。
このことは銃乱射事件だけではなく、先日アメリカが発した核兵器の小型化にも同様なことが言える。過去のブログの中でも何度も話したことがあるが、現代の安全保障において、その対象は国家ではなく個人であり、それを認識したうえで安全保障論議をしてゆかなければならないと私は考えているが、そうした中で言うと、核兵器の小型化は、個人の保有、使用を可能とするものであり、安全保障を根底から崩すものでまったく稚拙で愚かで馬鹿げた論理である。その論理に間髪入れず賛同する日本の政府、政治家は輪をかけた大ばか者であり、無知の極みである。
地球温暖化について考えて見よう。
、経済至上主義の中で、環境破壊も顧みず物質的欲求を求め続ける私たち自身に原因があり、それらを考え直さない限り温暖化を止めることができないことは事実であるが、それらを前提としたうえで、原子力発電が温暖化防止にとって役立つという考え方があの福島原発事故の後でも言われ続け、再稼働の一つの大きな理由に使われているが、その現政府の論理も無知の極みに他ならない。
蓋し、スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島、それらから私たちが学んだことは、たしかに津波や、地震、台風などの自然災害も恐ろしいが、それ以上に恐ろしいものが放射能汚染などの自然界に存在しない物質に他ならない。それらは自然の力をもってしてもその回復が非常に困難であるからに他ならない。
地球温暖化防止のためのその手段としての原子力は有り得ないのである。何故ならば、自然界に存在しない物質は、温暖化防止のその大前提となる地球環境そのものを破壊してしまうからである。地球環境の存在しない温暖化防止など、目的の存在しない手段に他ならず、そこにはまったく何の意味も存在しない。それが事実であり真の現実である。
共謀罪について考えて見よう。
あれだけすったもんだして強行採決によって成立、執行された法律である。私自身、その執行停止、無効確認について現在最高裁第一小法廷に上告、特別抗告しているところであるが、その立法事実としてもパレルモ条約の締結のため、テロ防止のためと変遷した。
私自身が、最高裁に訴えている理由の一つが、共謀罪という法的手段でテロが予防できるとは思えないからである。というより、テロ防止にはならないからである。
世界で起きているテロの現実を見ればわかるが、その多くは民族、宗教的対立である。しかし、それらの多くは表面的な事実であり、私はその根底に、経済至上主義における格差によって生じた貧困、学校教育を受けられない子供たち、武器の売買や資源をめぐる利得が複雑に絡み合っている事実があり、それらが現実であると思う。
今回執行されている共謀罪、その前になされている刑事訴訟法改正による立会人なしでの盗聴、犯人情報提供による起訴猶予などの司法取引の合法化などと合わせて、政権の国民の監視強化、国民同士の監視強化が着々と進んでおり、そういった意味で特定秘密保護法と合わせて共謀罪がとどめてあったともいえる。
私が最高裁に上告している最大の理由である日本国憲法に反した立法、執行行為、その中でも日本国憲法の基本原理である基本的人権の尊重、さらにその中でも中核たる前国家権利たる思想、良心含めた内心の自由である精神的自由権への侵害である。
内心の自由は主権者たる国民の基本的人権であるとともに、民主制にとっても不可欠な権利でもある。それらがほんのわずかでも侵害されたとき、もはや全ての国民は自由にものを考え、行動することはできなくなってしまうのです。
テロのない社会を作るために私たちがなさねばならないことは、まず何故テロが起こるのか、その真の事実、現実を考えなければならない。
表面的な事実だけを考えれば、共謀罪、刑事訴訟法の改正は一見役立つように考えやすいが、それは単なるごまかしにすぎない。
行き過ぎた経済至上主義社会の中での格差社会の拡大、その格差社会の中での少数者の切り捨て、子供たちの教育の機会の不平等、強行採決含めた社会的強者による説明責任の放棄などが真の事実、現実であると思う。
それらの現実を考えたとき、共謀罪含めた国民同士の監視社会、分断、内心の自由の制限は少数者の発言、討論、行動の自由を奪い取り、間違いなくテロをなくす方向ではなく、結果的には新たなテロを生じさせてしまうであろう。
私たちは、多くの事実の中から何が真の事実であるかを純粋な無垢な瞳で見つめ続けなければならない。
それが現実に生きるということでないかと私は思う。
平成30年2月18日 文責 世界のたま