世界情勢を見まわした時、現代社会は一枚のオセロゲーム磐である。
地球という限られたゲーム磐の上で世界中の国々が黒や白の石を置いている。それぞれの国の政治的状況において国民の思想、良心、表現の自由などを中心とした基本的人権が守られ、尊重されている国家を白石、虐げられている国家を黒石とするならば、現在のオセロゲーム磐上には黒石が、急速にその数を増やしている状況にあると言える。
アメリカのトランプ政権によるアメリカファースト主義、ロシアにおけるプーチン大統領選再選によるプーチン独裁体制、中国における習主席の独裁体制、フィリピンにおけるドゥテルテ大統領、北朝鮮の独裁体制をはじめ、現在紛争が起きているシリア、南スーダン、イエメン、パレスチナなどその黒の濃さの程度は別にして、ゲーム磐全体として、黒石が広がっている。
その大きなゲームの流れの中で、思うことを述べておきたい。
このオセロゲームの流れの行く末である。
何度もブログの中で述べているように、根本的問題は、私たち人間の自然との乖離、人間中心主義、その結果としての、経済至上主義にある。科学とは自然から見れば稚拙な単なるお遊びにすぎないということに気付きもしないでそれこそが万能であると考えている。愚かな人間であるという自覚の喪失。
そうした中で私たち愚かな人間は歴史を繰り返し、お互いを殺し合い、傷つけ合い、自分たちの存在基盤たる自然環境すら破壊していることに気付きもせず、たとえ気付いたとしても当面の自己満足のために見て見ぬふりをしている。愚かさの極みである。
自然環境含めた資源には限界がある。オセロゲーム磐にサイズがあるように、しかし、人間の欲望には際限はない。
経済至上主義の中で、富の蓄積は進行し続けている。現在世界で起きていることは、先程も述べたように、必然的に蓄積した富を有する者は、その保全、更なる拡大を求めて、独裁体制の継続を図ろうとする。
それを可能とするのは、何度もブログの中で述べてきていることであるが、あらゆる民主的組織においては要求される説明責任が、富の蓄積の中では必要ないからだ。富こそが資本主義経済社会にとって善であり、それに対して何の反論も意味はなく、正論は無力である。
現実に、現在、我が国に起こっている事実を見て見ればいい、森友加計問題における情報の秘匿、自衛隊日報隠し、平気で国権の最高機関である国会において虚偽答弁、証拠改ざんをして、ニヤニヤ笑みさえ浮かべている。説明責任などかけらもない。
彼らにとって、財政民主主義、自衛官の生命の尊重などの最低限の憲法規範を守ろうとする心など持ち合わせてはいない。
臨時国会召集義務の無視、何の説明もせず、国会議員の一言の発言も許さない冒頭解散、すべて説明責任の否定、すなわち民主主義の否定である。
アメリカ、中国、ロシアを初めとして、世界中で広がっている経済至上主義の中での、グローバル化、自国中心主義の強化(国家中心主義)そうした中では、民主主義は生き残れない。オセロゲーム磐は、黒石で埋め尽くされてしまうであろう。
安全保障とは、一見、国家間同士の防衛論であると考えやすいが、獲得した富に対する脅威の不存在という定義からすると、国家を考えなければ、富を蓄積した者における脅威を取り除くことであって、世界中の大多数の富を持たない人間に対する保障制度では決して有り得ず、富を持たない人間のことなど端から安全保障の対象ではない。
そうした中で、オセロゲームは最終的に、おそらくただ単にゲーム磐が黒石で埋め尽くされるだけで終えることはないであろう。並べられた多数の黒石がゲーム磐から飛び散るか、ゲーム磐自体が破壊されてしまうであろう。
そうした中で、今、私たち一人一人の日本人がなさねばならないこと、日本がしなければならないこと、それは一枚の白石であり続けること、それも世界というオセロゲーム磐の中でコーナーの白石であり続けることである。
今、オセロゲーム磐上では、数多くの白石が、黒石に裏返されている。しかし、彼らは、個々の人間の基本的人権を保障するための民主主義を持っていない。すなわち決してコーナーの黒石には成り得ない。ゲーム磐中央での石の取り合いをしているだけである。
私たち日本人が、日本が、コーナーの白石であり続ける限り、決してその色を、誰をもってしても変えることはできない。
私たちがコーナーの白石であり続けるためには、私たちは、まず白石であり続けなければならない。
私たちが白石であり続けること、それは今、私たちの国が失おうとしている現代立憲民主主義を取り戻すことに他ならない。
平成30年3月8日 文責 世界のたま