平成の時代は終わり、令和の時代がやってくる。
しかし、それで何かが変わるものではない。
今、世界は揺れている
2011年チュニジアから始まったアラブの春、その後も、春を迎えたかに見えた多くの国々において、混乱は続き、より一層混迷を深めている。EUでは、イギリスの脱退を巡り多くの問題を抱えたままである。そしてそのイギリスにおいては、北アイルランドで記者殺害というかつての悪夢を思い出させる問題が勃発している。一方、EU各国においても経済格差、難民問題を中心とした各国の利害が対立する中で、国家主権が台頭してきている。
中東においてもパレスチナ問題や、イランを巡る問題に関して、周辺国やロシア、アメリカとの間で駆け引きが世界を巻き込んだ形で行われている。
スーダンやベネズエラなどの国々においても権力を巡っての争いが行われている。
そうした中で、スリランカで先日、爆弾テロが起こされ、数多くの人の命が失われてしまった。
平成の時代を振り返った時、一言で言えば、それは、経済至上主義グローバルの時代であり、格差社会の時代であった。平成と同時に、ベルリンの壁が崩壊し、続いてソビエト連邦が崩壊し、世界中で、アメリカ化、特に、パソコンが普及し、ネット社会が到来したことにより、一挙に世界は、経済至上主義グローバル化の波に飲み込まれた。
ロシアや中国では、それまでの計画経済に市場経済を取り入れ、欧米のグローバル企業が数多く参入し、ヨーロッパにおいては、ドイツ、フランスを中心とした経済統合、通貨統合が行われた。
平成の時代、確かに、経済至上主義の下でのグローバル化によって、世界各国での生活水準をある程度上げることに成功したが、経済至上主義の下でのグローバル化は、富の蓄積や、環境破壊を招いてしまっている。しかし、このことは必然であって偶然ではない。蓋し、経済至上主義の下でグローバル化を推し進める経済主体は、所詮グローバル企業にすぎないのだから
そして、これまでも述べてきたが、EUがそうであったように、経済、通貨統合それだけで、国際的な関係において、関係国の国民にとって最終的な平和、安定した生活が来ることは決して有り得ない。所詮、全ての国の国民は、国家を捨てることができないのだから
国内的にも、全ての国民にとって、最終的な平和、安定した生活が来ることも決して有り得ない。蓋し、国家を捨てることのできない経済至上主義の下でのグローバル化の下では、民主主義は、存在しえないのだから
そうした中で、必然的に、欧米諸国が民族や、宗教を顧みることなく過去に行った植民地支配の中で勝手に引いた国境線や、経済至上主義の下でのグローバルのつけが、民族、宗教を通じた形で一挙に世界中で噴出してしまっている。
私は、それが平成という時代であったと思う。
そして、令和と年号を変えてみたところで、現在の経済至上主義の下でのグローバル化を阻止しない限り、何一つ変わることは決して有り得ない。それどころか、何度も言ってきたように最終的には、私たち人類の終末を、私たちは見届けることになるであろう。
先日、ブラックホールをとらえた画像が世界中を駆け巡ったが、私は、時間も含めたありとあらゆるものを飲み込むブラックホールの奥底に、私たちの住む地球があると思う。私は、あの画像を見ながら稚拙な世界に生きる私たちの愚かさを見た気がした。
所詮、そこにあるのは川面に映る自分の姿にすぎない。私たちは、ブラックホールを見たと喜んでいるが、実際は、錯覚しているだけで、何一つ見えていやしない。
平成が終わろうとしている今、私が思うことは、科学主義のもつ還元主義、すなわち、木を見て森を見ずという思考を、私たちは修正しなければならないということだ。
還元主義的思考は、どうしても短期的な視野でしか物事を判断できなくしてしまう。現在、世界、そして我が国で行われている国家政策は、ほとんどと言っていいほど将来の人類を見据えたものでは決してない。
短期的な視野で物を見続ける限り、どうしても場当たり的な対応にならざるを得ず、結果として更なる問題を引き起こす。世界の市場経済における株式、為替相場では、一日、一分単位での思考が不可欠であり、政治的にもアメリカの大統領選挙、インドの選挙、インドネシアの選挙、イスラエルの選挙、お互いに織り込み済みであったとしても、その場限りの、場当たり的発言、軍事行動も含めた対応を行っている。それらを的確に行うことが科学的には、優秀であるとして評価される。私には、これらの思考は、おバカな愚行としか思えない。
即ち、現代社会では、短期的な視野での判断を即時にできるものが科学的で、優秀であると評価される。何故なら基本的に国民に、政治的に、長期的視野で物事を考えてもらっては困るのだ。そして、経済的には、目新しい商品を開発、生産し続ける。それは、社会全体が至上主義経済の下で、拡大再生産をし続けることが、正しいと錯覚させられているからに他ならない。限られた資源、パイの中で、世界中で経済至上主義が広がってゆく中で、その利益に与るためには、富を得たものが、その富を守り続けるためには、富なき者が新たに富を得ようとするためは、誰かを蹴落として、守り続け、這い上がるしかない。特に富を得ているものは、それを守り続けてゆくためには、経済至上主義が正しいものと全ての国民を錯覚させ続けなければならない。コマーシャルを流して、全てのものを記号化して、全ての国民に無駄であったとしても、環境を破壊することがわかっていたとしても消費を促し続けなければならない。一方で、勤労者に対しては、彼らの富を増やさないようにしながら、一方でニンジンをぶら下げて、働き方改革と称して、その労働力を安く買いたたき続ける。
それが現実である。
国際的にも、現在、我が国が行っている北方領土に関するロシアとの交渉、拉致問題における北朝鮮との交渉などにおいて長期的な視野など存在していない。安倍首相自身や政権与党の成果を上げたいだけの単なる行き当たりばったりに過ぎない。プーチンや、トランプ、金正恩などと対等に渡り合っていると思っているのは本人だけで、バカにされているだけにすぎない。実際は哀れな彼らのポチにすぎない。
国内的にも、消費税の導入に関しても未だに延長などを考え、内容的にも非課税品目の導入、その税の支出など全てに関していい加減である。又、消費税に絡めて党利党略のための衆議院解散をちらつかせたり、国民の年金基金を適当に株式投資に投入する一方で受給開始年齢を70歳以上への引き上げることを検討し、保育のみの無料化を行うなど、全ての政策は、財政健全化含めて短期的な行き当たりばったりの中途半端な政策でしかない。
安倍総理含めた大臣、政権与党、そして野党の国会議員全てに言えることであるが、彼らには確固たる信念がない。言い換えれば、所詮彼らは、命を懸けていないのだ。
近代以降、科学主義の中で、人は、市場経済の中で、経済的には一部であれ豊かになり、医学の発展の中で寿命は延び、政治的には、人の支配から法の支配になった。
特に政治的に、近代立憲主義から現代立憲主義へとその歩みを進めた。
私自身、科学の発展を否定するものではないが、市場経済においては、経済至上主義が暴走し、医学においても自然の摂理、倫理に反してきている。そうした中、ただ一つ、歩みを進めたはずの現代立憲民主主義が後退している。
私は、今、日本にとって、世界にとって最も為さなければならないことが、経済至上主義グローバルから現代立憲民主主義グローバルへの転換であると確信している。
裏返せば、それなくして人類の未来は存在しえないと確信している。
確かに、世界が経済至上主義の下でのグローバル化をしている中で、転換してゆくことは至難の業である。
世界の中で、我が国だけがある意味で孤立するかもしれない。
しかし、私は敢えて言いたい、孤立をも恐れてはならない。
私たちは、信念をもって、生きてゆかなければならない。ブラックホールが私たち自身であるように、私たち一人一人の中に全ての世界が存在するのだから
平成31年4月29日 文責 世界のたま