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市民主義~市民として生きてゆく

新年を迎えて、日本国内、世界中で、今年も様々な問題が起きている。

日本国内においては、厚生省による毎月勤労統計の不正調査問題を筆頭に、東京オリンピック招致に関する不正疑惑、沖縄辺野古基地埋め立て問題、日ソ間における領土返還問題、日韓間における自衛隊機に対するレーダー照射や戦時下における徴用工問題、日仏間における日産とルノーとの問題などの様々な問題
海外においても、イギリスのEU離脱問題、米中間での貿易摩擦問題、イエメン内戦問題、シリア問題、北朝鮮問題、米ソ間における米のINF全廃条約からの離脱問題、フランスでの黄色いベスト運動、ベネズエラにおける内政問題などの様々な問題

上記にあげた様々な問題を考えた時、即ち、何故それらの問題が生じてきたのか、どうやって私たちは、それらを解決していかなければならないのかを考える時
現在の私たち人間が行い、そして行なおうとしていることは、後者の解決しようとすることだけだと思う。
何故それらの問題が生じてきたのかということには目を背けている。複雑な要因、過去のいきさつ、歴史、それらを前にして、人間は考えることをあきらめている。もしくは、様々な要因を合理的に、科学的に関連づけ、現実に起こっていることを、その因果の結果として仕方なかったものとしている。
そうした中では、歴史を繰り返すだけで、決してそれらの問題を解決することは永久にできない。それどころか、2019年現在の世界終末時計は、今年も2分で一応は止まっているが、私たち人類にとってもはや時間はないのです。

これらの様々な問題を前にして、私は、今、市民主義を考えている。
市民主義という言葉が言われて久しい
市民主義とは、一人一人の個人が持つ二つの側面、私的側面と、公的側面において、より公的側面を意識した人間の生き方、在り方である。

厚生省による毎月勤労統計の不正調査問題は、入国管理法改正国会審議資料、働き方改革国会審議資料、障害者雇用における資料の捏造、そして私自身が最高裁に上告している森友学園問題における国会審議資料、会計検査院提出資料の捏造、それら全てに共通している。
それは、現代立憲民主主義の否定である。
私は、今まで何度も述べてきたように、民主主義とは、少数が多数になる可能性であると思っている。多数の意見を尊重するのが民主主義であるとか、少数者の意見を尊重するのが民主主義であるとか、いろいろ言われているが、私は、それらは所詮、結果であって、そこに何の意味はないと思う。民主主義とは過程であり、結果ではない
即ち、民主主義の過程、少数者が多数になる可能性こそが、民主主義なのである。そのためには、何が必要かと言えば、その討論の前提たる資料の正当性である。資料の正当性無くして、議論は何の意味もなさない。そこに、民主主義は、決して存在しえない。
私が、最高裁に上告している理由も、そこにあるのです。捏造した国会資料、会計検査院報告に基づいた国会審議、国権の最高機関たる国会への説明責任の究極の放棄たる冒頭解散、それらを前提になされた総選挙は、主権者たる国民の権力的契機たる選挙権、被選挙権への侵害であり、正当な選挙を保障する日本国憲法への侵害でもあり、現代立憲民主主義の否定以外の何者ではない。

それでは、ここで問題です。
そうした状況の中で、私たち主権者たる国民は、どうやって近代以降、私たちが作り上げてきた民主主義を守ってゆけばいいのでしょう。
選挙を通じて、守ってゆけばいい。多くの国民はそう答えるであろう。しかしそれは無理な話です。現在の選挙制度は、政党選挙になっており、その上、小選挙区制、党首の公認権、それらを通じて、多くの立候補者は、国会で多数を占める与党の長、すなわちそれは、行政府の長でもある内閣総理大臣が指名するのであり、立法府たる国会が国権の最高機関とする日本国憲法の条文は、もはや死文化している。総選挙の時期も総理の専権事項とされており、主権者たる国民の選挙権、被選挙権の自由など、もはやそこには存在していない。そうしたあきらめの中で、国民は政治不信に陥り、投票すらもしないという思考停止に陥っている。

それでは、日本国憲法上、違憲審査権を有した人権保障のための最後の砦である裁判所が、民主主義を守ってくれるのでしょうか。
それは、現実的には否です。
基本的には裁判所も統治機構の一組織にすぎないのです。そのことは、私自身裁判を通じて身に染みています。司法の独立とは、あくまでも日本国憲法上のきれいごとであり、最高裁裁判官は、内閣総理大臣が、指名、任命するのであり、下級裁判官は、最高裁裁判官にその人事権を握られているのだから

それでは、誰が現代立憲民主主義を守れるのか。
国家でもなく、立法府でもなく、行政府でもなく、司法府でもありません。
市民主義に基づいた主権者たる国民一人一人しかいないのです。
自分一人で何ができるのかと思考停止に陥るのではなく、まず自分一人が市民主義に基づいた一市民に変わるしかないのです。
このことは、選挙民としての国民だけでなく、国会議員、大臣、裁判官、捏造した公務員を含めた全ての公務員こそが、日本国憲法において定められているように、全体の奉仕者である彼等こそが率先して変わらなければならない。蓋し、日本国憲法に基づいた主権者たる国民として、大多数の国民が、市民主義に基づいた一市民に代わることなくして、もはや民主主義を守る術はどこにも存在していないのだから
そうした意味において、今週明らかとなった従前たる党利党略に基づいた野党第一党を争う国民民主、自由党、立憲民主、社民党による数合わせなど何の意味もない。単なる稚拙な歴史の繰り返しにすぎず、おバカな捏造を繰り返す与党とおバカな数合わせを繰り返す野党による相も変わらないコップの中のくだらない政争にすぎない。
残り少ない世界終末時計の針を進めるだけの意味しか持っていない。

同様に、日ソ間における領土経済問題、日仏間におけるルノー問題、日韓間における様々な問題、EUとイギリスの問題、それらすべてに共通することは、1990年以降のグローバル化の中での、結果としての国家主権の台頭に他ならない。

私自身、確かに郷土愛や、愛国心は、人間にとって心のよりどころであることは理解できる。しかし、グローバル化の中での過度の郷土愛や愛国心は、歴史が証明しているように、行き着く先は、国家間の争い、国民への弾圧、即ち、現代立憲民主主義の否定でしかない。

このことは、ロヒンギャ問題、パレスチナ問題、イエメン問題、全ての民族、宗教紛争でも同じことが言える。
現在、世界中で生じている国境、民族、宗教問題は、グローバル化と絡み合って非常に複雑化している。複雑化している最たる原因は、グローバル化が、経済至上主義に基づいているからに他ならない。サウジアラビアへのアメリカ、フランスによる莫大な武器輸出など、その典型である。
また現在生じているファーエイ問題もグローバル化した経済進出と、国家による情報管理、個人への人権侵害、最終的には、現代立憲民主主義の否定につながる問題である。
結局、これらの問題を、解決できる唯一の術は、国家でもなく、グローバル化でもなく、制度としての民主主義でもなく、宗教でも、民族でもない。

その唯一の術は、国家や、宗教、民族を超えた個々人の公的側面である市民主義である。
1991年にソビエト連邦が崩壊して、資本主義が共産主義に勝利したが、それは、手段としての資本主義の勝利であって、一つの過程にすぎなかった。
今、世界はグローバル化経済の中で、結果的に歴史を繰り返そうとしている。しかしその先に待っているのは、二分後に待ち構えているのは、もはや二度と繰り返すことのできない世界終末に他ならない。

近代以降の科学主義に基づいた二項対立の中で、人間は、人間の存在そのものが自然であるにもかかわらず、自然と対峙してきた。核開発、ゲノム操作などの自然の摂理に反した行為、不必要な経済活動は、必然的に自然を破壊する。それは所詮自然の一部にすぎない人類の滅亡を意味している。

亡きホーキンズ博士が述べていた人類の地球からの脱出、それを現実的にいち早く行おうとしているのが中国による宇宙開発であり、月面での居住空間の建設なのであろう。当面ある程度の数の人類を運ぶとすれば月以外にはないであろう。そういった意味で中国含めた先進国の富を蓄積した者たちは、もはや地球の温暖化抑止など考えておらず、地球を見捨ててしまっている。

私自身、不必要な消費を促し、地球環境を破壊する経済至上主義、自然に反した、倫理に反したゲノム操作、それらが人類の発展に寄与すると洗脳されてしまっている現代社会の中で、それらを阻止し、人類が自然あふれた青い地球で生活し続けることは至難の業であるとは思う。

しかし、私たちは可能な限りの努力を為さねばならないと思う。
国家、民族、宗教を超えた自然との共存を図る生き方、市民主義に基づいた生き方のみがそれを可能とするであろう。
それ以外には術は無い。

    平成31年1月27日   文責   世界のたま