Monthly Archives: 2月 2015

日本国に生まれて(3)

日本国に生まれた私たち

 

時間というものを考えてみましたが、今、この時間に生を授かった私たち

 

日本国に今という時間にいる私たちは何をしてゆけばいいのでしょう。

何をしないといけないのでしょう。

 

手段を手段として考え、時間を立体的に捉えて今の世の中を見てみると本当に滑稽なことだらけであることに気付かされる。

 

国会での国会議員と閣僚、総理との意味のない言い争い、NHK会長と国会議員とのくだらない喧嘩、手段と目的をはき違え、直線的な時間軸でしか物事を考えることができない人間の典型的な行動です。

 

ただ、これらの行動が今までの時代では、まかり通ってきたことなのです。

 

道徳的に小学生以下の低次元の人達ばかりが今の日本国を動かしているのです。以前にもお話したことがありますが法を定立し、執行するためにはそれによって規制される人たち以上の道徳が必要です。

 

道徳的に低次元の彼らは、不思議にも社会的にはそれなりの地位にある人たちとされており、我が国の法律を作り、法律を施行していっているのです。

 

愚かな彼らを選んでいるのが私たちであるということを、今という時間を生きている私たちはしっかりと再認識しなければいけないのです。

 

何度も言いますが、まず、私たち一人一人が変わらないといけないのです。

 

先日の国会で、日銀の黒田総裁が会合で話したとされる日本国債のリスクについての話が取り上げられていました。返済するめどもない国債のリスクをリスクゼロの評価をしている今の金融当局の考え方がおかしいに決まっているのに、今後世界の格付け会社が日本国債をリスク評価されると問題が生じる可能性があるとの発言には驚いてしまいます。

 

国債という国家の債務である以上、国内資本が有していようが、外国資本が有していようが借金は借金です。そんなこと誰でも最初から分かっていることです。それを国民の財産などと都合のいいすり替えでごまかしてきただけのことです。この期に及んで、国債に対する世界の評価に左右されるなど、今の日本国の金融政策がいかに何も考えていないかが一目瞭然です。

 

ある省庁では数兆円もの使い切れない余ってしまう予算をつけるでたらめな国家予算を執行している日本国債を今後誰が買い支えてくれるのでしょう。

 

貨幣という手段に溺れてしまい本来の目的を失ってしまった国家こそが今の日本国なのです。

 

そんな世界にも例のない無駄なお金を使い、借金することでしか国家予算を作れない恥ずべき国家の総理でしかないのにアメリカ議会での演説を考えているというニュースを聞いたが、日本国も本当の意味で、地に落ちたとしか言いようがない。

 

そんな自分の外遊パーフォーマンスに無駄な税金と時間を浪費したいなら、そんな暇があるなら、総理を辞して海外旅行でも何でもすればいいのです。真剣にこれからの世代の子供たちのことを、日本国、世界のことを考えたならばそんな無駄で愚かななことはできるはずがないのです。

 

私は思うのですが、落ちるところまで落ちてしまった日本国ですが、今の時代に生きている私たち主権者一人一人こそが本当の意味でもう一度、手段と目的を取り違えることなく、立体的な時間の中ですべての事象を見つめ直さなければならないのです。

 

今の立憲民主制を顧みない政権や国会議員に踊らされることなく真の意味での誇りを持った日本国を作ってゆかなければならないのです。

 

そのことが立体的な時間の中で世界中の貧困や飢餓や戦禍の中で苦しむ人々を救うことつながるのです。

 

世界でもまれにみる豊かな心、団結力、寛容さ、そして人権、民主、平和を重んじる日本国憲法をもっている物質的にも恵まれている日本国で生きている私たちだからできることなのです。そして私たちでないとできないことなのです。

 

2015年2月22日  文責  世界のたま                         sign

日本国に生まれて(2)

提言の中で、世界で起きているいろんな事象を取り上げてきました。

 

経済的には世界中の先進国含めた国々で生じている格差問題があります。

それぞれの国内での個人間での格差もあれば、国家間での格差もあります。いわゆる先進国と言われる国々と発展途上国との格差もあれば、EU内でのギリシャなどの国のような問題もあります。

 

そしてイスラム国を中心としたテロ問題、ウクライナなどの民族独立紛争問題など解決のめどのつかない紛争問題が世界各地で毎日のように起きて多くの人々がなくなられています。

 

ホームページの冒頭の主権者への提言の中でも述べていますが、これらの多くの事象の原因は、資本主義経済の下での行き過ぎた貨幣を代表とする「物」への人々の執着、個人の人権保障のための手段としての民族、国家を含めて、言い換えると手段を目的にしてしまった結果です。

 

時間と言う観点から考えてみると、現代社会は時間に振り回されているといえる。

 

資本主義社会の中では基本的に早いことが、価値があることとして重要視されることが多い。

 

移動時間など含めて早く済むことをありとあらゆるサービスで要求され、あらゆるサービスを含む商品の新たな開発も早さを求められる。結果として遅いということは能力がないものとされ時代の中で評価されることはなく置いて行かれてしまう。

 

ここでいう時間は、一般的な意味での時間だが、私は、これらの時間は人間が作りあげた時間であって、本来の意味での時間ではないと思う。結局、自分たちが作った時間の中で自分たち自身が時間によって追いつめられているのが現代社会であると思う。

 

それでは本来の時間とは何なのであろうか。

 

時間とは何かという意味での本質ではないが

 

時間というのものを考えるとき、立体的に捉えないといけないと思う。

人間を考える際も同じことだが、主観面(意思)と客観面(行為)と立体構造的に捉えることが不可欠であると私はいつも思っている。

 

先に上げた一般的な時間は直線的な捉え方であって、立体的に捉えるということはまず面として時間を捉えなければならない。人間で言えば主観的な捉え方と言える。自分自身の個としての時間ではなく、地球上のありとあらゆる生物全体としての時間として、時間を捉えるということなのです。

 

そしてさらに時間を立体的に捉えるためには客観的側面としての縦軸的な捉え方が必要でそれが歴史的な捉え方だと思う。歴史とは平面的な時間の積み重ねである。

 

時間と言うものを立体的に捉えるということはいわば自然の流れに身を委ねることにつながる。

 

他の提言でもあげたが、無為に耐えたるは強しということも、時間を立体的に捉えることで理解できる。

 

己自身を立体的な時間の中に同化させた時、先にあげた世界で起きている数々の事象も解決できると思う。

 

石油などの天然資源に恵まれない日本国に生まれた私たちだからこそ、手段を手段としてしっかり認識し、決して目的化することなく、さらに、立体的な時間の捉え方をすることによって初めて世界に起きている様々の事象を解決できるのではないかと思う。

 

 

2015年2月18日   文責  世界のたま     sign

 

 

日本国に生まれて(1)

私はときどき思うことがある。

私は何故人間というか、人になったのであろう。

すべての物質は人を含めた生物含めて元素、原子の組み合わせでしかない。

何故、私は私であるのか。私であらなければならなかったのか。

 

私が人であり日本で生まれたこと、日本国籍を持った日本人であること

偶然でしかない元素の組み合わせなのかもしれないが、もしそれが必然であったならばそこに何か意味があるのであろうか。

 

私がこのホームページを立ち上げて以降、その中で、個の中に全体があると問い続けているが、個とは一人一人の人であり、さらにもっと言えば人を形造る細胞であり、元素である。いわば元素の中にすべての事象があると思う。

 

科学が発達して小さな原子、素粒子の世界まで考えることができるようになったが、人が人である限り個と全体との関係は解明できないと思う。

 

解明できない理由の一つが時間である。私は昔から時間とは何なのか、普段は忘れてしまっているのだが、考えることがよくある。

 

時間と言えば一日24時間、一年365日であるのだけれど、本当にそうなのかと思う。時間と言うものを私自身が考えるのは私が生きていて時間を認識しているからであるが、樹齢千年の木々にとって、寿命の短いセミにとって時間をどのように考えているのであろうか。

 

私たちが人間の中でしか時間を考えられないように彼ら自身も彼らの中でしか考えられないとは思う。ただ、一般的に人は、樹齢千年の木々を見て人はすごいなあと感心し、セミの短い一生をかわいそうと思いがちである。ただそうなのであろうか。

 

私たちは時間を一分60秒の世界で考えがちだが本当の時間は恐らくそうではないであろう。

 

私は短命を嘆き、一日、一か月、一年でも長く生きることが正義として、医療の目的とされている風潮があるがきっとそれは間違いなのではないかと思う。

 

時間とはいったい何なのか、感覚的には最近分かってきているのだがきっと理解できることはないだろうと思う。

 

私が人である限り。

 

2015年2月16日    文責  世界のたま                sign

 

 

 

後藤健二さんが教えてくれたもの

シリアの地で亡くなられたと思われる後藤健二さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 

私が後藤健二さんの殺害のニュースを知り、思ったことが二つあります。

 

一つは先日取り上げた自己責任についてです。

 

インターネットを通じた彼の言葉は本当の意味での彼の言葉ではないと思う。彼自身、ものすごく納得がいかなかったのではないかと思う。

 

彼も人間であり、旅立つ前に何が起きても責任は自分にありシリアの人を恨まないで下さいと話しておられたが、捕まって、実際には、死の恐怖の中で怖かったと思う。

 

生まれたばかりの子供を残して死ななければならなかったことはさぞかし無念だったと思う。

 

最後に一目でも家族と会いたかったとも思う。

 

私は、彼が旅立つ前に言っていたように、本当は、生きて帰りたかったと思う。

 

ただ、それらのことを含めても、私は思うのですが、彼は死の淵まで、自分のためにヨルダンの人たちや、いろんな関係者の人たちに迷惑をかけることを望まなかったのではないかと思う。

 

そういった意味で、交換がうまくいかなかったことを、内心はほっとしておられた気もする。彼自身が、生きて帰れないことや、湯川さんを救えなかったことについては無念だったには違いないが、彼自身の生き方の中では納得された最期だったのではないかと思う。

 

彼は、ジャーナリストとしても、人としても自己責任を貫徹されたのだと思う。

 

今の時代、特に、現在の日本社会の中で、自己責任をきちんと取れる人は少ない。

 

私は思うのだけれど、彼は日本人、私たちに自己責任とは何なのかを、命を懸けて教えてくださったのではないかと思う。

 

もう一つは、彼が殺害されたニュースが流れて以降、様々の報道番組、政府の記者会見を見ていて思ったことだが、彼が死をもって伝えたかったことが伝えられていないと思う。

 

安倍首相を筆頭に、政府関係者すべてがテロとの戦いに屈してはいけないとか、ヨルダンの協力に感謝するとかに終始しており、報道機関もイスラム国の脅威含めた、これからのテロとの戦いはどうなってゆくのかなどの専門家の話に終始している。

 

私は思うのだが、彼が死をもって伝えたかったことは、誰をも恨むなと言うことだと思う。

 

イスラム国がどうだとか、ヨルダンがどうだとか、今後のテロとの戦いをどうして行くだとか、彼にとってどうでもいいことなのではないかと思う。

 

彼が死をもって伝えたかったことは政府や、専門家が考えるようなことではなくて、単純に、誰をも恨むな、それだけなのではないかと思う。

 

彼自身の生き方が、相手がシリアであれ、アフガンであれ、政府要人であれ、難民であれ、金持ちであれ、貧しい人であれ、最終的にはイスラム国のテロリストであれ、彼にとっては同じ一人の救わなければいけない、報道しなければならない人間に過ぎなかったのではないかと思う。

 

たぶん、死の淵まで彼は人を恨むことはしなかったのではないかと思う。

 

私が彼の死を通じて思うこと、教えられたことが何かと言うと

 

己自身を捨てたところにしか、己の命をも捨て去る覚悟がなければ、真の平和は築けないということだ。

 

それは私自身がこのホームページで常に訴え続けている、個の中に全体があるということだと思う。

 

世界中で掲げられた、I am KENJI 彼の中に世界全体を見た瞬間だったように思う。

 

彼の死を通じて日本政府はアメリカと同様、軍事、警察権力で対テロ対策を声高に訴えている。このことは彼の死を、彼の生き方を否定するものに他ならないのです。

 

多くの人たちは私みたいな考え方は甘いとか、現実的ではないとか言われると思う。

 

しかし、現実を見てどうなのでしょう。

 

今までアメリカを中心とした軍事中心で、テロがなくなっているのですか。

 

無人機による無差別的な攻撃とテロとどう違うのですか。

 

安全保障の提言の中でも述べましたが、いくら軍事力、警察権力を強めたところで何の意味もないのです。国家が相手ならまだ軍事力が有効な局面もありますが、それでも強めれば強めるだけ、セキュリティジレンマ、セキュリティパラドックスなどが生じてしまうのです。

 

ましてや、テロ組織相手では、軍事力、警察力は所詮、無力なのです。

 

それが現実なのです。

 

後藤健二さんの死が教えてくれたもの

 

個の中に全体を見ることの非情さだと思う。

 

でも、それを乗り切らないと真の平和は来ないというも教えてくれた。。

 

己を捨てて人のために生きる。

 

そのことの中にしか解決方法はないのです。

 

己を守ることばかりしていても何の意味もないのです。

 

彼が命を懸けて私たちに教えてくれたことなのです。

 

2015年2月1日    世界のたま             sign