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世界を覆う暗雲(経済至上民主主義)と、その末路

連日、北朝鮮をめぐる問題、特に来月開かれるとされているアメリカと北朝鮮との首脳会談についてのニュースが流れている。
南北朝鮮を中心として、中国、アメリカ、そのそれぞれの国の思惑の中で駆け引きがなされている。

北朝鮮問題に関して、一見、核や、ミサイルがその中心であるかのように、一般的に考えられているが、最近の世界の流れを見ていて、私は、それが本質ではないと思う。
以前からお話ししているように、私は、現在の安全保障は、その対象は、もはや国家ではなく、個人であると思っている。

それが証拠に、決して北朝鮮が、本気で現実的に他国相手に国家としての戦争を起こすことは有り得ない。たしかに、北朝鮮の指示命令系統がどこまで機能しているのかがわからないために、偶発的な武力衝突は一部で否定はしないが、国家としての戦争を仕掛けることはない。

このことは、中国、ロシア、EU諸国をはじめ世界中の国家間で言えることだ。
その理由は、国家間で戦争するメリットが何一つ存在しないからに他ならない。

私が、従来の国家を対象とした安全保障政策は、ほとんど何も功を奏しないとしているのは、何度も申し上げているように、現代の安全保障はその対象は、国家ではなく個人だからである。ここで私が言う個人とは、個人的なテロもそうであるけれど、国境を越えた民族、宗教含めたレベルのテロ、戦闘であるということだ。そこでは、もはや国家を対象とした安全保障政策はほとんど機能しない。

それでは、現代における安全保障政策はどうしてゆけばいいのかということであるが、まず現実の世界で起きていることを見つめなおさなければならないと思う。
現在、世界中の国々で起きていることをよく見て見ると三つの共通の特徴がある。

一つは政権の長期政権化である。ロシアのプーチン、中国の習、フィリピンのドゥテルテ、そして日本の安倍もそうであろう。これらは、国民が望んでいるというより、本人を含めた一部のそれらの政権を支えている人たち、それらの政権によって多くの利益を得ている人たちが望んでいるだけであり、憲法を変え、法律を変え、国民を錯覚させて、その政権の維持を図っている。

もう一つの特徴は、経済至上主義である。お金、物をたくさん持つこと、GDPを増やすことが、その唯一の目的である経済至上主義の中で、必然的に国の体制に関わらず世界中の国々で経済的格差、貧富の差は拡大しており、中間層が減って貧困層が増え続けている。現代社会において、貧困家庭に生まれた子供たちには貧困になる自由しか残されていない。かつてキング牧師が語った「私には夢がある」は遠い昔のことで現代社会においては「私には貧困しかない」のが現実である。

上記にあげた二つの特徴は密接に関連している。長期政権を維持し、現在富あるものがその富を維持し、減らさないためには、中間層、貧困層の人たちが夢をもってもらっては困るのです。ただひたすら彼らのために働く、何も考えない働きアリであり続けてもらわなければならない。
そのためには何が必要か。
そうです。富あるものが権力を握り続けるためには、資産あるものが社会で強者であり続けるためのお金、物が最も生きてゆく上で重要であり、価値のあるものだということを国民に錯覚させる社会的な仕組みである。

経済的には、コマーシャルなどを利用して、子供たちを含めた国民により多くの消費を刺激し、企業が利益を上げることがすべての労働者に利益をもたらすというトリクルダウンというインチキな理論で人々を錯覚させ、そのためにも消費が美徳であるという価値観を植え付け続ける。

政治的には、政治献金などを通じて、資産を持つものは、その資産を維持することを図り、政治献金や天下りを通じて、政治的権力あるものは、その政治的権力の維持を図っている。このことは、一応民主主義国家とされている日本や、アメリカにおいて明らかである。我が国日本においては、一時期禁止された政治献金を復活させ、禁止する代わりに設けた政党助成金もそのまま国民からちょろまかし続けている。アメリカにおいては連邦裁判所の判決において、政治献金の限度額規制を撤廃させ、莫大な企業献金によって政治が動かされてきている。最近、アメリカ国内で立て続けに起こっている銃による犠牲の中、高校生などの反対運動にもかかわらず銃規制がなされないのもその典型例である。
そして政治的個人レベルにおいては、国民にお金や物の消費に興味を集中させ、政治的関心を削ぎ、貧困層を増やすことで、政治など考える余裕を削いでいる。
現在開かれている国会で議論されている働き方改革法案など、あんな自分たちの都合のよい調査方法、でたらめの調査結果を見ればわかるが、労働者を人権を有する国民とはもはや考えていない。

たしかにお金や物はある程度は人が生きてゆく上で必要であるが、それは経済至上主義でいう至上の目的ではない。単なる手段にすぎない。

そして世界を取り巻く三つ目の特徴であるが、先にあげた二つの特徴の結果でもあるが、多くの人は、特に経済的な貧困層の人たちは、所属する宗教に、民族にその救いを、更なる救いを求めているのではないかと私には思えてならない。結果として国家を超えた宗教間、民族間の争いが激化しているのだと思う。

そうした三つの特徴を持った現代社会の中での安全保障をどう考えてゆくかであるが、安全保障を他国からの侵略などととらえる安全保障政策を見直すことである。このことは、政治体制に関わらず言えることであるが、現在権力を有する勢力による多くの国民を錯覚させるだまし以外の何者ではないと私は思う。
特に、政権の維持が難しくなったとき、古今東西、歴史的にも時の政権がその維持を図るために国民のその関心を国外に仕向ける常とう手段に他ならない。
現在のロシア、中国、日本、アメリカを考えて見たらいい、すべての国で言えることだ。
そしてこれも特にアメリカで言えることであるが、経済至上主義の中で、実際の国家間の戦争は別にしてその脅威がなくては困るのだ。イランとの核合意の破棄、エルサレムへの大使館移転などはその典型例である。案の定、その脅威の中で、サウジアラビア、日本をはじめアメリカから莫大の兵器を購入し、アメリカの兵器産業をしっかり支えているのをみればバカでもわかることだ。

そうした中で、私たち日本人は、これからどう考えてゆくべきなのか。
私は思うのだけれど、たしかに経済発展して、世界の中でも最も経済的には豊かな国の一つになったとは思うし、そのこと自体を否定するつもりはない。
しかし、先にあげた三つの特徴を持つに至った現代社会において、私たち日本人はもう一度、民主主義とは何なのかを問い直さなければならないと思う。

今、世界を覆っているのは、民主主義は民主主義でも、立憲民主主義ではなく経済至上民主主義であることに、私たちは気付かなければならない。

経済至上民主主義の行く末に待っているものは、決して一人一人の人権が尊重される世界ではない。真逆の人権のない世界以外の何者でもない。有限の地球資源の中で、世界中の人々の無限の欲望を満たすことは原理的に不可能である。そこにあるのは力で資源を奪い合う争いの絶えない世界でしかない。

そして、前回のブログでも書いたように、たとえ勝ち残ったとしても、もはや勝ち残った者が生存しうる地球環境も存在してもいないのに

最後になりますが、私自身、今週予定されている公判の中で可能な限り、現在のそして将来の国民のために、我が国の立憲民主主義の重要性を訴えてゆこうと思う。

     平成30年5月20日   文責  世界のたま