その昔、一人の少女に出会った。長い間使い古した黒い携帯ケースを大切にする、無邪気に砂浜に小枝で名前を書き、潮の香りも聞き分けられる本当に純粋な瞳をした少女だった。
私がブログを通して述べている手段の目的化が人類滅亡の危機の原因であり、特に前回のブログの中で貨幣、経済という手段の目的化による経済至上主義すなわち、大量生産、大量消費社会が最たる原因であることを述べたが、セルジュ・ラトゥーシュが、その著作の中で言っていることは私も同感であり、興味深いので、それらを交えながらお話ししようと思う。
デカルト以降の近代世界の問題点についてはこれまでもいくつか述べてきたが、近代以前は世界には生命が満ちており、ローカルな特殊の知恵に基づく世界であった。それがデカルトによる心身二元論により数学的普遍的知識に基づく世界へと変貌する。
その世界は自然界と人間界が分離された世界である。
動物的身体や自然は、人間の精神とは分離されて、生命なき死んだ物質の世界となり、それを人間は通常の自然と考え、その中で生命を例外的存在と考えるようになってしまう。そこは人間とその周辺の環境との有機的なつながりを失った世界である。一方、人間の精神、理性も数学的普遍的知識に基づく世界の中で、結果を計算する能力とされ、すなわち、理性の計算合理性への服従がなされる。
それでは自然界と人間界が分離してしまったその要因であるが数学的普遍的知識に基づく世界への変貌の中での共通感覚すなわち第六感の喪失である。これは動物的五感を統合する感覚であり、人間界と自然界を結び付けていたものであり、ローカルな特殊の知恵でもあったと思う。
デカルトの我思うゆえに我ありという中で共通感覚は思索する人間、すなわち我の中の内部の能力になり下がってしまったのだと思う。そうした結果、理性の計算合理性への服従の中で人間は共通感覚のない、計算能力のある動物以上のものではなくなってしまう。
確かに、近代科学は発達したが、経済における経済理論の数理化のみが推し進められ、社会政策においても具体的な生活世界の現実との乖離が生じてしまった。
人工的なリアリティを作ることはできるようになったが、物に対する想像力を失ってしまい人間は以前より強力に自分自身の精神の牢獄に閉じ込められ、人間自身の作り出したパターンの中に閉じ込められてしまうようになった。以前だと人間は自分自身にないもののリアリティを経験できたがそれが不可能になってしまった。たとえば、現代科学が扱っている宇宙も実験の中に現れる自然に合わせて解釈され、作業上のリアリティに技術的に解釈できる原理そのものに合わせて解釈されているだけである。
人間がそれについてイメージできないもの、例えば魂など、それは確かに以前からあったのだが、人間が非物質的なものを考えるとき、見たり表現できる物質的なものを背景に考えてしまう中で、人間は非物質的なものだけでなく、物質的なものさえも想像できなくなってしまった。
その結果として、人間の万能を示すとされた科学が、人間の生存の基盤たる生態系の破壊を行うという現在の大量生産、大量消費社会に内在する倫理的欠陥を生じさせている。
古くは水俣病をはじめとする世界中で起こってきたし、現在も新たに起こっているであろう公害問題、エイズの血液製剤混入をはじめとする薬害、データ改ざん問題、原子力による放射能汚染問題、科学の発達の中で起こる戦争による大量殺戮、核、化学兵器、無人機による殺戮、格差社会の中での貧困、餓死、異常犯罪、テロによる殺戮、難民問題それらすべてが倫理的欠陥から生じている。
セルジュ・ラトゥーシュはそうした中、贈与の否定、思考欠如という観点からさらに考えを深めているが、私自身全く同感だと思う。
人間は、私的所有、個人の生活の安全保障の重視から他者との共存の否定、一次の社会性である贈与の次元を否定するようになり、地球や社会に対する負債の返済を拒否し、他者に対して一切の責任を負わない想像上の合理的経済人を作り出した。
そして民主制のもとでユダヤ人の大量虐殺が行われたナチスを例に挙げ、何故、普通の一般的な人々がそういったことをなしえたかという点で、思考欠如を取り上げている。ナチス政権下では、軍人のみならず、子供を愛し、家庭を愛したごく普通の人々が思考欠如に陥ってしまった。その渦中にいたとき人は自分自身が思考欠如に陥ってしまっていることに気づけないのだと思う。私には現代社会における一般常識のあるとされる有権者たち、社会的に能力のあるとされる企業戦士たち、いずれもが思考欠如に陥っていると思う。
彼らには一般常識があり、企業の中での処理能力、社会的能力はあるけれど、共通感覚がないか、もしくは贈与の否定をしているのだ。そうした中では思考が停止し欠如してしまうのだと思う。
私が、このブログを立ち上げ、その中で訴え続けていること、国を相手に訴訟を起こし続けていること、先日の選挙で訴え続けたこと、それは私たち今を生きている人間が失った共通感覚を取り戻してほしいこと、ただそれだけなのです。
そうすることで自然の中での人間としての存在を再認識することができ、本来人間が持つ想像力を回復し、贈与に対する返済ができる、数学的普遍的知識に基づく合理的経済人のような作り上げられたものでない具体的、現実的な社会としっかり向き合うことのできる社会人に、学校教育、企業教育の中で陥ってしまった思考欠如を解除できるのだと思う。
そしなければ、必ず人類、文明は滅びてしまうし、選択の余地と時間はもうないと思う。私たちは科学の発達が引き起こした様々に起こる問題を、更なる新たな科学の力で問題が解決できると盲信している、異常気象であれば、更なる気象予測、早期の通報、非難技術、防災ダムなどの防災技術で解決しようと図り、原子力で言えば、凍土などによる凍結などの技術で解決しようと図り、新たな疾患、慢性疾患で言えば生活を見直すのではなく新たな新薬開発で解決を図ろうとしている。科学の発達によって、科学の発達が原因で引き起こしてしまった事象を決して解決することはできない。蓋し自然界と人間界は有機的につながっているのだから。
だから、私たち人間が、今、しなければならないことは、共通感覚を取り戻し、自然の中での人間のあるべき姿を取り戻すことである。そして、贈与の否定、思考欠如を解除して、他者を含む自然に対する負債に対する返済のできる自分を取り戻すことだと思う。
冒頭にあげた純粋な瞳を持っていた少女も、まだしっかりと共通感覚が残っているのだから、それを研ぎ澄まし、現代の学校、企業教育の中で培われた贈与の否定、思考欠如を解除してその純粋な瞳を再び輝かせてほしいと願ってやまない。そしてできることならもう一度再び輝きを取り戻したその瞳に出会ってみたいと思う。
いかに謎に満ちていようとも、生命は素晴らしい贈り物なのだから
平成28年9月11日 文責 世界のたま