Monthly Archives: 12月 2014

これからの日本の在り方について(4)(租税)

違憲選挙後、税制度の議論がされていますが、予想通りの案が様々出てきています。法人税減税、富裕層向けの資産の贈与税非課税枠の設置、商品券ばら撒き案、公共事業に加えて、従来通りのばら撒き案には、まったく開いた口がふさがりません。

 

彼らは結局、景気浮上、GDPの底上げを狙っているのですが、本当に超短期的な効果しか持ち得ません。自分たちの政権時代のみの短期間の景気浮上、GDPの上昇が何の意味があるのでしょう。

 

自分たちがデフレ脱却を成し遂げた事実が欲しいのだと思うけれど、今私たちは、今の時代、日本のことだけを考えるのではなく、子供たちの時代、世界、地球レベルで物事を考えてゆかなければならないのです。

 

今彼らが考えていることは今まで彼ら、私たちがしてきて失敗してきたことばかりです。無謀な金融政策に、締まりのない財政政策。

 

根本的な考え方が間違っているうえに、特に今回の問題点は法人税の減税、資産家向けの贈与税の非課税枠の設置です。

 

法人税減税により企業の投資の増加、労働者の賃金上昇をねらっているのでしょうが私はそんなことはあり得ず、企業の内部留保が増えるだけだと思う。今の企業が労働者の賃金を上げるわけはないのです。

 

政府自らが一方で非正規労働者を増やしておいて企業が何で労働者の賃金を上げる政策をとり得るのでしょうか。それはあり得ないのです。

 

あり得るとすれば政治家への企業献金の増額か天下り官僚の増加でしかないのです。

 

資産家向けの1000万から3000万円までの子や孫への学費、住宅、結婚資金贈与の非課税化、多くの国民にとって縁がない話だと思われます。誰が考えたのか知らないけれど、これだけ税収がないときに、しかも消費税増額先送りの中で、経済対策の一環でもあるとしているが根本的に租税の在り方を取り違えている。

 

租税について考えるという他の提言の中でも述べていることであるが、租税を考えるうえで3つの観点から考えなければならない。

一つが民主主義の観点からであり、もう一つが平等の観点からであり、最後に考えなければならないのが租税の目的の一つである所得の再分配機能である。

 

彼らは租税というものをあまりにも安易に考えすぎている。今回の贈与税非課税も1~2年の短期の処置であり、国民の租税への信頼を損ねることはあっても何のメリットもない。一時的な経済効果では取り返しもつかない大きな国民の税への信頼の損失という代償を払うことを彼らはまったく気づいていないのです。

 

その原因が何かというと、彼らはどこまで行っても治者であり、被治者との同一性という観点で国家政治を考えたことがないからだと私は確信している。

 

所得税、相続税は所得の再分配の大きな柱であり、世界中で起きており、我が国でも昨今生じてきている貧富の格差拡大の解消のための必要、不可欠の税制度なのです。

 

彼らには所得配分配の税制度の目的が何なのかがわかっていない。民主主義の観点から言えば、説明責任のいらない私的権力を排除して民主主義を守ることが一つの大きな目的だと私は考えています。

 

安易に短期間の思い付きの目的のために変更するようなものではないのです。

 

もうすぐ今後の消費税の在り方も決まってゆくことでしょう。

租税について考えるという他の提言の中でも述べていますが、複数税率は避けるべきです。何を非課税、低税率品目にあげてゆくのかおそらくロビー活動が活発化して、そこに政治家への企業献金、官僚の天下りが発生し、行政コストは肥大化し、肝心の税収は減ってしまう本末転倒の結果が目に見えています。消費税の先進国であるイギリスを見れば誰もがわかることです。

 

食品など多くの非課税、低率の物品を誰が多量に消費するかと言えば結局、金がない人より金がある人であり、結局多くの資産家への減税にもつながってしまうだけのことです。

 

消費税とは本来逆進性の税であることを理解した上で、しっかりと消費税としての税収をあげたうえで、社会保障などの形で社会的弱者に対して生活保障すべきことなのです。

 

2014年12月30日    文責  世界のたま                sign

 

これからの日本の在り方について(3)(財政、金融政策)

他の提言の中でも今までの日本の財政史を紹介し、その中でも指摘したことであるがこの2年間行われた安倍政権での財政、金融政策は根本的なところで間違っていると思われる。正確にいうと、間違っているというより私が現代日本財政史の中で日本が間違った選択枝を選んでしまったと指摘した1975年そして1990年と同じ過ちをしようとしているのです。

 

私が思う過去の過ちと違った今回の最大の過ちは過去2回の過ちはまだ国民の債務がGDPに対してまだ小さかったが今現在はGDPの2倍を超えてきているという事実、そして国家債務は増え続け、一方、GDPは減少傾向であるという事実を認識しているのにもかかわらず馬鹿みたいに過去と同じ政策を押し進めようとしていることです。

 

もう本当の意味で後がない現実を認識しながら見て見ぬふりをして時間稼ぎをしていることです。それはちょうど今年、韓国で起きた多くの修学旅行生を失った船の転覆事故に似ている。

 

船長含めて、船員は専門知識と今起こっている事実の中でこれから起こるであろう結果を認識していたはずで、そうだったからこそ自分たちだけは早々と生徒たちを置いて逃げてしまったのだが。

 

現在の政府、官僚、多くの国会議員も、自分たち自身や現社会で地位や財産を築いている人たちのことしか考えていないと思う。はっきり言って彼ら以外のこれからの子供たちや多くの現社会で取り残された人たちのことを真剣には考えてはいない。

 

韓国の船員たちが、じっとしていればどうにかなるという言葉を生徒たちに残して、自分たちだけが助かるためだけに貴重な残り少ない時間を使ってしまったのと同じように、彼らも私たちにとって大切な時間を無駄に、そしてより最悪なシナリオに向かって突き進もうとしている。

 

自分たちだけは安全を確保した上で。

 

今の日本を見ていて私はよく思うのだが今の日本はちょうど命の灯が消えかかっている患者さんに似ている。そうした患者さんを目の前にして、どう治療をして、どのような精神的なサポートをしてゆくのか、私は今の日本にはそれが問われているのだと思う。

 

実際の医療の現場では、いろいろな考え方があり、ケースバイケースであると思う。ただ真の意味で患者さんが成人であり、理解能力にも問題なく、まだこれから何かしなければならない人であったとするならば、私はいつも思うのだが確かに現実を受け止めることは非常につらく、告知する人にとっても告知される人にとっても大きな残酷な事であるが、基本的には真実を伝え、その中で自分がどういった治療法を選択し、どういった生き方を選ぶのか決めるべきだと思う。

 

その際に最も重要なことは事実を事実としてきちっとと伝えることだ。自分の価値観を加えてはならない。

 

先日、たまたま東京に在住の経済の専門家とお話をさせていただく機会をいただいたのだが、その際に彼がお話ししてくださったことの中で一つ印象に残ったことがあった。経済学者のケインズが言っているとのことだが、財政金融政策においては一部の優秀なスタッフに委ねるべきだということだ。

 

実際にイギリスにおいては伝統なのかプライドともいうべきなのか社会的責任というべきなのかはっきりしないが給与、所得ではない価値観に基づいて一部のいわゆるエリートたちが財政、金融政策を主導しているとのことだ。

 

私はつい性格もあって国家、政府を疑ってかかる癖がある。基本的には間違っていないし現実的に今の日本国、政府、議会に関してはそういったレベルの機関でしかないと思っているが、ただ、これからの日本を考えてみた時、彼のその話は単純にそうだったのだけれど改めて自分自身に気付かされたのです。

 

世の中には公務員であれ、私企業人であれ、ただ一人の人間として給与ではなく、地位でもなく黙々と自己を顧みずとまではなくても他者のこと、全体のことを見据えて仕事されている、生活されている人は多いいと思う。

 

ことは意外と簡単なのだと思う。要はそういった人たちをいかにして引き出して能力のまま発揮させてあげられるかだと思う。

 

日本の場合に限らないが1975年ころから政治家主導で財政政策が推し進められてきた。確かに憲法上、財政民主主義ということで当たり前のことなのだけれど、国債発行をきっかけに族議員が誕生し、派閥、政党中心で国家の祭りごとが行われた。

 

政党中心も本来の国民の媒体としての意味があればよいのだけれどそれぞれの国会議員の身分保障に近い形での保身的な団体としての政党に成り下がってきており、そこには本当の意味での国家政策を推し進めるための組織の意味合いはない。

 

今回の衆議院選挙がそうであったように国民に真剣に国家の今後の方針を問うものではなく、いかなるタイミングで自分たちの議席を増やすかが解散の目的になってしまっている。

 

命の灯が消えかかっている国民、国家にとって今、財政、金融政策を行っていくうえで一番必要なことは、細かな具体的な政策についていろいろ思うことはありますが、その前提として先に述べたような意識レベル、志を持った国民の代表者である国会議員、そしてエリート官僚が必要なのです。

 

そのためには私たち国民自身が価値観を変えた選択をしてゆかなければならないのです。

 

今の財政、金融政策は今までの資本主義的な考え方の上でごり押ししてゆこうと思っています。世界の資本主義的な流れは行き詰まってきています。手段としての資本主義が良い結果を産まなくなっている現実を私たちは直視しなければならないのです。

 

他の提言でも述べていますが手段としての資本主義を評価しつつ、結果としての矛盾を調整すべき時期に差し掛かっているのです。それを私は敢えて社会福祉主義といっています。

 

今、日本社会、世界社会は資本主義の中で成長を遂げ、物質的には豊かになったけれど結果の不平等が、機会の不平等を引き起こし、それがすべての事象の根源になってきていると思う。

 

日本自身もいつまでも現実的ではない、経済成長、GDPの上昇が続くという夢のような絵空事を描くのではなくつらいけれども今ある国家債務、少子高齢化社会を直視しないといけない。

 

治療でもそうであるがいつまでも、騙して麻薬を打ちつづけたところで意味はない。緩和ケアという観点では意味があるがその一方で事実を告知してこれからのことを真剣に考える時間を持つことが最も大切なことなのです。いつまでも減税、公共事業、商品券などのばらまきをしたところで、一時的な時間稼ぎにすぎないのです。

 

残された時間をいかに有意義に使ってゆくのか、今それが問われているのです。

 

いつまでも今までの価値観の中での成功体験にすがっていたところで意味がないことに私たちは気づかなければならない。

 

真の意味で国家、国民、世界のために財政、金融政策を行っていける国民の代表者たる国会議員、そして彼らと運命を共にして真の意味で己を顧みず、国家、国民、世界のために働く真のエリートである官僚を私たち国民が選び、育ててゆかなければならないのです。

 

2014年12月30日  文責  世界のたま        sign

これからの日本の在り方について(2)(教育)

最近、教育に関してニュースになったもので私が気になったものが二つあります。

 

一つは憲法上で子供たちが教育を受ける権利として保障されている学校教育に関するもので財務省が小学校、及び中学校1年生に関して現在の35人学級を国家予算削減のため学校教員を削減して40人学級にするというものだ。結果的に選挙を気にしてか、現場などの反対のせいか定かではないが、つい先日、撤回している。

 

もう一つは憲法上、学問の自由の中で保障されている大学の自治に関して、大学構内への公安警察の無段の立ち入り、調査活動でいわゆる第二のポポロ事件だ。

 

どちらもこれからの日本の在り方について大きな問題を提示してくれていると思った。

 

私がこれらのことで、まず思ったのは現在のわが国には長期的な国家的政策がないということです。言い換えれば日本という国家に何の未来もないであろう。

 

私は世界への提言でも述べていますが国家とは所詮、個のための手段としかとらえていません。ただ、手段としての現在の国家なくして個の自己実現は著しく困難なのです。

 

私はいつの時代でも、いかなる場所(国家)でも、自己実現、自己統治のために必要不可欠なことが教育だと思っています。いかに貧しくとも教育がありさえすればそこに希望があります。

 

そういった意味で今回取り上げた事柄は日本政府が何も考えていないことを露呈しています。

 

最近、政府を中心に愛国心教育が叫ばれていますが、私は考え方、優先順位がずれていると思う。

 

私は学校医をしている関係で毎年、小学校で喫煙防止授業をしています。そのときいつも思うのですが、子供たちに学んでほしいことは単なる喫煙防止ではなく、自分の頭で考えて自分の身を守るということなのです。その中の一つがたまたま喫煙防止であっただけのことなのです。

 

私は教育の中で特に小学校で教えないといけないといけないのは第一に自分の身を守ることだと思う。その中で自分の身を守るためにはどうしないといけないのか、自分の頭で考え、自分が判断する力を身に着けることこそ一番最初に、学ばなければならないことなのです。

 

誘拐事件、交通事故、自然災害での被害、韓国でも多くの修学旅行生がなくなられた事件もつい最近のことです。

 

まず、子供たちが小学校などで学ばないといけないのは生物の命の大切さ、いかにしてその大切な命の一つである自分の命を守るべきなのか。

 

そのためにはたとえ子供であっても最終的には自分自身がその場の状況を判断し、いろんな知識を生かし最終的には直感も含めて自分自身の行動を決定しなければならないこと、

 

その中で真に自分の身を守るためには、周りの友人、家族、自然を守らないと自分の身は守ることはできないのだということを学んでほしいのです。

 

今年にさせていただいた喫煙防止教室の中で印象的だったのはある一人の小学校6年生の男の子が手を挙げて私に質問してきました。何を質問してきたかと言うと、

 

「先生、タバコは地球上の木などの自然にも害があるのですか?」

 

私はこの子の発想が面白くて、つい良い質問ですねと答えました。

そして続けて私が彼に答えたのは

 

「タバコは人間に害があるということは今日、皆さん学びましたよね?つい人間は忘れてしまうのだけれど人間自身も木やサルや海と同じ自然の一部なのです。人間に悪いということはいろんなすべての自然にも悪いことなのです。」

 

一応聞いていた生徒たち全員、わかりましたとは答えていたが本当の意味での理解は難しかったかもしれない。

 

私は友人を、家族を、自然を守ってゆくことが最終的に自分自身を守ることなのだということを一人の子供でもいいから気づいてもらえたらといつも思う。

 

自分の身を守るという意味で、今まで述べたことは生命的な、肉体的な面であるが、精神面での自分の身を守る点において、他の提言でも述べていることであるが、今の日本国での教育の中で最も欠けていることは憲法の学習と、現代社会の知識だと思う。

 

憲法は国家、政府にとっては自らを制限するいわば国民を統治するうえで都合の悪い、じゃまなものであると考えがちで、それを教えることを避ける傾向があるが、国民からすれば、精神的な意味で、わが身を守る最後の砦です。

 

立憲民主主義国家にとって憲法は基本であり、憲法を大切にしない、尊重しない国家、国民は衰退、滅びてしまうことは明らかである。

 

現在の学校教育は本当に難しくなってきていると思う。情報化社会、格差社会、いじめ問題、登校拒否問題、体罰問題、教育委員会問題など、数えたらきりがない。

 

そんな中で先生方とたまに話す機会があるが、その中で35人学級の話が出て、もし40人学級になったら大変だ。5人は大きいと言われていたのを思い出す。

 

予算削減が理由であるとすれば優先順位が間違っていると思う。

 

国民にとって、教育とは先にも話したように自己実現、自己統治にとって基本であり、格差社会の中で塾などに行けない子供たちにとって学校教育が最初で最終の学習の場である。

 

おそらく国会議員、官僚の方々の多くが格差社会のいわゆる底辺の人々の生活の経験はないと思う

 

現在の社会構造を考えてみた時、教育の機会均等、自己実現の機会均等はないと思っています。

 

そして、私は国民の自己実現、自己統治の保障、国家の真の意味での発展、そして国際貢献のためには個々の国民の多様性が不可欠であると思う。

 

多様性がないところに自己実現、社会の発展、進歩はないと思う。

 

たとえば私企業を考えてみても指示待ち人間、上司の命令に従うだけの企業、天下りを受け入れ優遇を受けている企業は社会の発展にとって、害あって利はない。社会的な存在価値はない。

 

そういった意味で今回取り上げた二つの事柄は今の社会の縮図ともいえる。

 

無難に右に倣えという社会は面白くもないし、何の将来性もないと思う。

 

私は、教育こそ国の宝だと思う。義務教育の充実、格差のない教育の保障がまず、予算的にも最優先されるべきであり、違憲状態の国会議員の数の削減、歳費の削減、議員宿舎などどうでもよい施設などの民間への払い下げなどいくらでも削れるところはあるはずで、公共事業、高齢者の医療、介護費用よりも優先されるべきである。

 

そういった意味で予算支出全体のシーリングなどによる削減ではなく、優先順位による予算作成がなされなければならない。

 

学問の自由、大学の自治はいかなる時代でも守られなければならない。

 

社会の多様性の中でこそ個々の国民の自己実現、自己統治も可能となるのです。

 

2014年12月14日  文責 世界のたま    sign

これからの日本の在り方について(1)(政治)

いくつかの提言をさせていただきましたが、これからの日本社会の在り方について考えてみましょう。

 

日本の政治の在り方ですが、このことは今回の選挙をみてもわかるように、現在の日本の政治は立憲民主主義政治が腐った状態になっています。

 

その大きな原因は、安全保障の提言の中でも取り上げたが、国内レベルではあるけれど、政府、国会議員、国民すべての人たちの奢りに他らないと思う。

 

一言で奢りとはいっても単なる優越感的なものだけではなく、どうにかなるだろうとか、自分一人が考えたところでどうしようもないなどの無責任的なものも含めてだが。

 

今回の選挙に関してもおそらく与党の策略通り投票率は下がるであろう。

 

そもそも今回の選挙自体無効な違憲選挙でありそれに参加することに反対でそうした意味で抗議としての意思表示として投票に行かれない人もおられるかとも思う。

 

しかし、すべての人々に選挙権が認められた選挙権獲得の歴史を鑑みた時、棄権はするべきことではないと思う。

 

あくまでも投票に行って白紙投票なり、自分の名前を記入して投じることをしてほしいと思う。

 

こんな時代だからこそ、私たちはもう一度原点に返って立憲民主主義とは何なのか、今こうして私たちが世界の中でも平和で恵まれた生活ができているのはどうしてなのか。

 

今一度、立ち止まって、振り返ってみませんか。

 

憲法97条を思い返してほしい、

 

「この憲法が国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 

現時点で私が思う、我が国が、政治的に改革しなくてはいけないことをまとめてみました。

 

  1. 選挙制度の違憲状態の改善

物事はすべて同じだと思うけれど、基本、過程がすべてであり、根本的な部分が間違っているとすれば、その上にいかなる物を立てたとしても脆く崩れてしまうのものだと思う。そういった意味で我が国が立憲民主主義国家であるということを再認識して日本国憲法に基づいた政治がなされるべきで、憲法に反する国家行為の是正が図られるべきであり、特に、立憲民主主義政治の過程での間違いは確実に国民の基本的人権の侵害につながってしまうことは歴史が証明している。

2.今回の総選挙後の国会議員の立法行為の制限

違憲状態での選挙に関しては基本的に無効であり、本来は国会議員としての資格はなく、立法行為は不可能であるが、最高裁判決により、前回の国会議員までは議員資格は認められていた。今回の総選挙後の国会議員に議員資格が認められるかどうか定かではないが、事情判決が出るとしても、違憲状態の選挙による国会議員であり、国民の基本的人権にかかわる立法行為に関しては不可能である。600億円以上の選挙をしながら無駄で意味のないことでばかげていると思われる方が多いと思いますが、私は民主主義とは無駄で時間のかかるものだと思う。だからこそ貴重なもので大切にしなければならないし失ったときその大きさに気付くのだが、その時には遅いのです。

3.議会中心主義の復活

福祉国家、グローバル化の中で行政処理事務が膨大となり、結果的に行政国家化現象が生じている。立法行為に関しても多くが政府からの提出法案で、法律の具体的内容についても行政に対して白紙委任に近いものも増えてきていると思われる。議会の在り方についてもう一度原点に立ち返って、国権の最高機関としての国会を見つめ直さなければならない。そのためには一人一人の国会議員がいったん選出された以上、全国民の代表者としての自覚を持った議員活動が不可欠であり、党利党略などはもってのほかである。世界への提言をはじめ、安全保障の提言の中でも述べているが己を捨て、個の中に全体を見ることが必要であるが、それができるのか、乗り越えられるのか、そのことが歴史を再び繰り返すのか、新たな世界へ一歩を踏み出すか、そこにすべてがかかっているのです。

 

4.司法判断の尊重

司法、裁判所というところは民主政治制度の中で最も主権者たる国民から遠い存在である。というより最も遠い存在にしてあるといった方が正解であろう。最高裁判所裁判所裁判官は内閣によって指名、任命される。今回の総選挙などでの国民審査以外で主権者たる国民との接点はない。なぜそうなっているかだが、裁判所というところは最終的に法律含めた国家行為が違憲かどうか判断する最終決定者である。世界の歴史を見てもかつてのナチスが圧倒的な国民の支持を得ている中で、どのようにして少数者の人権を守ってゆけるのかを考えた時、主権者たる国民の判断はもはやその状況の中では期待できず、最も民主制度から離れた存在である裁判所だからこそできることがそこにあるのです。民主制の過程が破壊され、その修復が困難であるときにこそ裁判所の存在意義があるのです。いわば司法、裁判所は少数者の人権、健全な民主制度を守るためにのみに存在しているといっても過言ではないのです。

5.政党制度の見直し

他の提言の中で政党の在り方について提言したが、今回の総選挙を見ていても政党の在り方が強く問われている。政党が主権者たる国民のためではなく、国会議員のための手段となっており、そのモラルも著しく低下している。政党助成金に関してもいったん廃止し、もっと有意義な税金の使い方に変えるべきであろう。今のままではドブに金を捨てているに等しい。小選挙区制での中での二大政党制に関しても我が国ではそもそも対決して物事を決してゆく考え方は馴染まないのだと思う。中選挙区制度と比例代表制度が風土的には合っているのだと思う。

 

以上、違憲な総選挙を前にして私が考えることを述べてみたが一人一人の主権者たる国民の皆様がいろんな意味で考えてくださることを願ってやみません。

 

平成26年12月12日   文責 世界のたま   sign

 

安全保障とは(戦争はなぜ起こるのか)

しばらく提言を書いていませんでした。というより書けなかったのです。

この間、ずっと、一つの問題について考えていました。

いまだに結論は出ませんが今の考えを提言したいと思います。

 

私は、幼いころから何故人は争い、殺しあうのか、いつも不思議でたまらなかった。

そして20歳のころから多くの現実を知り、その中で、人間とは何なのかをずっと考え続けてきました。

今回このホームページを立ち上げたのもそれが理由です。

 

戦争はなぜ起こるのか、安全保障とは何なのかを今回は考えてみましょう。

 

歴史をさかのぼってみると第一次世界大戦後、国際連盟が作られるが、結果的に第二次世界大戦が起こってしまい、規範や制度が国家間の選考順位や行動を規定するとするリベラル理論への批判としてリアリズム理論が洗練されてきた。

 

戦争の原因を考えるうえでまづ分析すべき対象が国際システムなのか、国家なのか、意思決定者たる人なのか、いずれのレベルで分析すべきかという分析レベルのディレンマがあるが。

 

なぜ戦争が起きたのかという議論の多くはリアリストによる国際システムに関する議論であるため、リアリストの国際システムにおける考えを見てみましょう。

 

リアリストの最大の課題は戦争がなぜ起こるのか、言い換えれば国家の安全はいかにすれば守られるのかということです。

 

その答えは国際体系の構造がアナーキー(国家を超える権力は存在しない)であるという前提から出発している。

 

従って国家がそれぞれの安全に第一次的責任を負い、最終意思決定も国家が行う。

 

その際、国家を一個人の人格であると仮定する。

 

そして自衛の体系が、アナーキーの必然的帰結であると考え、それと同時に、国家は相対的利得を求める存在であると考える。

 

その結果として自国の安全強化に優先順位が置かれる。

 

そのため、国家間の相互不信が生じる。

 

そして、安全強化と不安のパラドックスが生じる。(すべての国家が相手より余分の安全を得ることは不可能であるから自国の安全は相手国の不安を、相手国の不安は翻って自国の不安となる、いわゆるセキュリティディレンマを生じる。)

 

国家は優位に立っても今ある安全を失うという不安、弱い国家は格差の拡大におびえ、安全を求めるあくなき努力と不安の悪循環に陥る。

 

リアリストはそれを防ぐため、振りかざす理念や敵国への怒り、恨みではなく冷静な利害計算に立った外交、軍事政策の重要性、ブルーデンス(慎慮)を強調する。慎重に事を運ぶという手段の妥当性ではなく目的の妥当性を考える。

 

国際社会が安定するためには有利な立場にあるものがその有利さを優越に変えず、不利な立場にあるものがあえて挑戦しないことが必要であると考える。

 

勝者となっても奢らず、敗者となっても焦らないことが重要であると説く。

 

リアリストは国内政治と国際政治を峻別し、国内では法が、権力闘争を支配するのに国際社会では権力闘争が法を支配すると考える。

 

ところでリアリストの言うアナーキーとは何なのだろう。

 

一般的に国内社会では国家不在の自然状態を言い、国際社会では国家より上位の権威、権力のない状態を言う。

 

リアリストは、アナーキー状態を物的な意味での力の分散状態と考え、力の分散は力の競争を産み、力の競争は力の格差を産む。結果として国際社会は不安定化すると考える。

 

しかし他方、力の分散あれば、ある国の安全が脅かされても安全確保のため対抗勢力が自然と形成され不安がバランスされ一種の安定を確保することもできるとも考える。

 

国際社会では相互主義が欠如してセキュリィティジレンマ、セキュリティパラドックスの原因となる。

 

形式面では政府がなく、国際社会では複数の正義が存在すると考える。

 

法的な観点では国際社会においては主権者が存在せず、どの国も命令をする立場にも服従をする立場にもないため、力関係が結果を産むことになると考える。

 

国際社会にたとえパワーの独占、強力なリーダーシップがあるとしても中央政府には成り得ず、国際社会はどこまで行ってもアナーキーである。誰が強く、誰が弱いかを明らかにするだけで何が正しく、何が正しくないかを意味しないと考える。

 

勢力均衡という状態が良いのか、覇権の存在は必要なのか。

 

一般的に勢力均衡は戦争をするためのものではないが、その維持は同盟、外交、軍事戦略の運営を通じて行われるため、動的に考えると国際社会の変化の中で、国家の不平等な成長が戦争の引き金になることもある。

 

覇権の存在に関してもその存在が国際秩序の条件だとする見方もある。

 

安全保障とは国民が共有する価値を守ることであるが、豊かさが人の幸せを保障しないのと同様に、国家の大きさや強さが安全を保障するとも限らない。

 

9.11後のアメリカは、政策を誤ると強大な覇権であること自体が安心ではなく不安を産むことを証明した。

 

安全強化に努めれば努めるほど不安になってしまう、安全保障の逆説、セキュリティパラドックスが起こってしまう。

 

二か国もしくはそれ以上のアクター(行為主体)が彼ら自身の安全保障を強化しようとして、彼らの言葉と行動が相互の緊張を高め、意図的ではなくても相手にとって自分が敵なのか味方なのか疑心暗鬼になり、結果的にはすべてのアクターの安全保障が弱まってしまうセキュリティディレンマの延長線上にセキュリティパラドックスはある。

 

ただ、セキュリティパラドックスからだけで戦争が起こっているわけでないことも事実である。

 

 

たとえば、2003年のアメリカによるイラクへの侵攻はアメリカとイラク間のセキュリティディレンマから生じたものではなかった。

 

1989年の冷戦の終焉、1991年のソ連の崩壊によりアメリカが全能の幻想を抱き、奢ってしまった結果、ブッシュ政権の対外認識の誤りと失敗を招いてしまった。

 

結果としてアメリカとその同盟国の安全保障は強まったというよりより弱まってしまった。

 

世界の核戦略を考えてみるとき、そのセキュリティパラドックスが明確に表れる。

 

核兵器を持った国が核を持つがゆえに持つ不安がある。核を持つそのことによって安全が増える面と相手の先制攻撃を受けるかもしれない不安に襲われてしまう。

 

たとえば拳銃を持って対峙した二人が恐怖心を抱くのはそれぞれが相手を倒せる能力があるからで、つまり、相手だけでなく自分も拳銃を持っているからである。もし自分に相手を撃つ能力がなければ相手が自分を早く撃たなければならない理由はないからその分、結果手的には恐怖心は小さくなるはずである。

 

米ソの核戦争に双方が恐怖心を抱くのは、単に相手の持つ核が問題なのではなく、自分に大量の核兵器があるからに他ならない。

 

皮肉にも米ソ双方が抱いた恐怖心のゆえにブルーデンス(慎慮)が生じ、相互の力の抑制、MAD(相互確認破壊)が提案された。

 

MADは政策ではなく意図せざる結果としてできた制度であるがゆえに強い拘束力を持っている。

 

9.11の持つ意味について考えてみましょう。

 

アメリカがどの時代、どの社会に比べてもより堅固な安全保障体制を作り上げているのに9.11によって、その安全保障体制はほとんど役立たないということを世界に知らしめた。

 

今日の安全保障政策が大国間の大規模核戦争を抑え込むことができたにしても内戦、内乱、それに伴うテロに対しては十分に対応できないということが明らかになってきている。

 

現在、アメリカを中心としてこのテロにつき様々な政策が行われているが、その際に考えておかなければならないことがある。

 

戦争対処とテロ対処は本来は異なる次元の問題であるが主権国家がテロ組織に対してテロ組織のようにふるまうようになれば両者の戦いは国際政治を野蛮な時代に逆戻りさせる危険性を持っている。

 

テロ集団に対する政府がテロ集団化する危険だけではなく、主権国家同志の戦いも野蛮なものにする可能性を秘めていることを認識しなければならない。

 

現在の国際状況を考えてみるとき、アメリカがイラク進攻以後、対テロ、ミサイル防衛に重点を置いた安全保障政策を強化すればするほどアメリカ国民の安心感は失われ、国際社会もアメリカへの信頼と安心感を失っている。いわゆる、セキュリティパラドックスが起こっている。

 

ミサイル防衛についても、一見、安全保障に役立ちそうですが、防衛されることで相手国は更なるセキュリティパラドックスに陥ってしまいそれが自国に跳ね返ってきてしまうのです。

 

イラク進攻の意思決定が米ソ冷戦の勝利が生んだ奢りのなせる技なのか、9.11がもたらした焦りからなのか、両者双方によるものなのかわからない。

 

それでは、セキュリティディレンマ、セキュリティパラドックスからの悲劇や愚行からどのようにして逃れればいいのであろう。どうしたら戦争やテロを回避できるのでしょう。二つのことが考えられる。

 

  1. 敵対国をはじめとする国々との関係を疑心暗鬼を生む関係から共通の利益を追求する協力関係、信頼できる関係に変えてゆくことである。これについては国際政治は、相対的利益を得るための競争とみるリアリストは悲観的であり、協力した方が戦争回避や経済的利益など絶対的利益を得られると考えるリベラリストは楽観的である。
  2. 対外関係だけではなく国内に目を向けて国際環境が戦争を引き起こすのではなく国内の焦りや奢りが国力の過信や状況判断の錯誤を生んで引き起こしてしまうということも考えなければ行けない。

 

私は思うのだけれど、世界の提言の中で述べているように、結局は一人一人の人間が国家や、国際連合、民族、宗教のとらえ方を、変えてみるしかないと思う。

 

それぞれの人にとってそれらの組織、考え方、思想は本当に大切な物であり、命に代えてでも守りたいものかもしれない。

 

過去、侵略を受け、多くの子孫の命を失い、弾圧を受けた歴史があるかもしれない。

 

しかし、あえて、私は世界中の人々に伝えたいのです。

 

人という種が本当の意味で地球上で最も進化した最終的な生物であるならばすべての生物が持つ縄張り意識、自己防衛意識を、自然淘汰以外で、抑制できる唯一の生物であると信じたい。

 

今現在、地球規模で人間に対する自然からの様々な自然災害という形での自然淘汰が進んでいると思う。

 

人の人に対する抑制のみならず、自然への敬愛する心を、今こそ私たちは持たなければならないと思うのです。

 

そのことが何度も私が述べている個の中に全体を見る心なのです。

 

最後になりましたが安全保障という人類の歴史が始まったその日から考えなければならなかった、そして歴史は繰り返すという言葉で代表されるように、今現在も解決のめどが立たない難しい人類最大の困難な問題について、いろいろ御教授いただき、多くの内容をこの提言の中で紹介させていただきました安全保障の国際政治学を執筆された土山實男先生にはこの場をお借りしまして厚くお礼申し上げます。

 

平成26年12月8日  文責 世界のたま           sign