これからの日本の在り方について(2)(教育)

最近、教育に関してニュースになったもので私が気になったものが二つあります。

 

一つは憲法上で子供たちが教育を受ける権利として保障されている学校教育に関するもので財務省が小学校、及び中学校1年生に関して現在の35人学級を国家予算削減のため学校教員を削減して40人学級にするというものだ。結果的に選挙を気にしてか、現場などの反対のせいか定かではないが、つい先日、撤回している。

 

もう一つは憲法上、学問の自由の中で保障されている大学の自治に関して、大学構内への公安警察の無段の立ち入り、調査活動でいわゆる第二のポポロ事件だ。

 

どちらもこれからの日本の在り方について大きな問題を提示してくれていると思った。

 

私がこれらのことで、まず思ったのは現在のわが国には長期的な国家的政策がないということです。言い換えれば日本という国家に何の未来もないであろう。

 

私は世界への提言でも述べていますが国家とは所詮、個のための手段としかとらえていません。ただ、手段としての現在の国家なくして個の自己実現は著しく困難なのです。

 

私はいつの時代でも、いかなる場所(国家)でも、自己実現、自己統治のために必要不可欠なことが教育だと思っています。いかに貧しくとも教育がありさえすればそこに希望があります。

 

そういった意味で今回取り上げた事柄は日本政府が何も考えていないことを露呈しています。

 

最近、政府を中心に愛国心教育が叫ばれていますが、私は考え方、優先順位がずれていると思う。

 

私は学校医をしている関係で毎年、小学校で喫煙防止授業をしています。そのときいつも思うのですが、子供たちに学んでほしいことは単なる喫煙防止ではなく、自分の頭で考えて自分の身を守るということなのです。その中の一つがたまたま喫煙防止であっただけのことなのです。

 

私は教育の中で特に小学校で教えないといけないといけないのは第一に自分の身を守ることだと思う。その中で自分の身を守るためにはどうしないといけないのか、自分の頭で考え、自分が判断する力を身に着けることこそ一番最初に、学ばなければならないことなのです。

 

誘拐事件、交通事故、自然災害での被害、韓国でも多くの修学旅行生がなくなられた事件もつい最近のことです。

 

まず、子供たちが小学校などで学ばないといけないのは生物の命の大切さ、いかにしてその大切な命の一つである自分の命を守るべきなのか。

 

そのためにはたとえ子供であっても最終的には自分自身がその場の状況を判断し、いろんな知識を生かし最終的には直感も含めて自分自身の行動を決定しなければならないこと、

 

その中で真に自分の身を守るためには、周りの友人、家族、自然を守らないと自分の身は守ることはできないのだということを学んでほしいのです。

 

今年にさせていただいた喫煙防止教室の中で印象的だったのはある一人の小学校6年生の男の子が手を挙げて私に質問してきました。何を質問してきたかと言うと、

 

「先生、タバコは地球上の木などの自然にも害があるのですか?」

 

私はこの子の発想が面白くて、つい良い質問ですねと答えました。

そして続けて私が彼に答えたのは

 

「タバコは人間に害があるということは今日、皆さん学びましたよね?つい人間は忘れてしまうのだけれど人間自身も木やサルや海と同じ自然の一部なのです。人間に悪いということはいろんなすべての自然にも悪いことなのです。」

 

一応聞いていた生徒たち全員、わかりましたとは答えていたが本当の意味での理解は難しかったかもしれない。

 

私は友人を、家族を、自然を守ってゆくことが最終的に自分自身を守ることなのだということを一人の子供でもいいから気づいてもらえたらといつも思う。

 

自分の身を守るという意味で、今まで述べたことは生命的な、肉体的な面であるが、精神面での自分の身を守る点において、他の提言でも述べていることであるが、今の日本国での教育の中で最も欠けていることは憲法の学習と、現代社会の知識だと思う。

 

憲法は国家、政府にとっては自らを制限するいわば国民を統治するうえで都合の悪い、じゃまなものであると考えがちで、それを教えることを避ける傾向があるが、国民からすれば、精神的な意味で、わが身を守る最後の砦です。

 

立憲民主主義国家にとって憲法は基本であり、憲法を大切にしない、尊重しない国家、国民は衰退、滅びてしまうことは明らかである。

 

現在の学校教育は本当に難しくなってきていると思う。情報化社会、格差社会、いじめ問題、登校拒否問題、体罰問題、教育委員会問題など、数えたらきりがない。

 

そんな中で先生方とたまに話す機会があるが、その中で35人学級の話が出て、もし40人学級になったら大変だ。5人は大きいと言われていたのを思い出す。

 

予算削減が理由であるとすれば優先順位が間違っていると思う。

 

国民にとって、教育とは先にも話したように自己実現、自己統治にとって基本であり、格差社会の中で塾などに行けない子供たちにとって学校教育が最初で最終の学習の場である。

 

おそらく国会議員、官僚の方々の多くが格差社会のいわゆる底辺の人々の生活の経験はないと思う

 

現在の社会構造を考えてみた時、教育の機会均等、自己実現の機会均等はないと思っています。

 

そして、私は国民の自己実現、自己統治の保障、国家の真の意味での発展、そして国際貢献のためには個々の国民の多様性が不可欠であると思う。

 

多様性がないところに自己実現、社会の発展、進歩はないと思う。

 

たとえば私企業を考えてみても指示待ち人間、上司の命令に従うだけの企業、天下りを受け入れ優遇を受けている企業は社会の発展にとって、害あって利はない。社会的な存在価値はない。

 

そういった意味で今回取り上げた二つの事柄は今の社会の縮図ともいえる。

 

無難に右に倣えという社会は面白くもないし、何の将来性もないと思う。

 

私は、教育こそ国の宝だと思う。義務教育の充実、格差のない教育の保障がまず、予算的にも最優先されるべきであり、違憲状態の国会議員の数の削減、歳費の削減、議員宿舎などどうでもよい施設などの民間への払い下げなどいくらでも削れるところはあるはずで、公共事業、高齢者の医療、介護費用よりも優先されるべきである。

 

そういった意味で予算支出全体のシーリングなどによる削減ではなく、優先順位による予算作成がなされなければならない。

 

学問の自由、大学の自治はいかなる時代でも守られなければならない。

 

社会の多様性の中でこそ個々の国民の自己実現、自己統治も可能となるのです。

 

2014年12月14日  文責 世界のたま    sign

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