私は、安倍さんが言っている積極的平和主義という言葉について全く逆の意味でそうだと思う。
平和と言う言葉を考えた時、何をもって平和と言うかという問題がある。
たぶん安倍さんは基本的な考え方として戦争状態でない状態を平和と考えているのだと思う。
確かに戦争がない状態が平和である一つの要素であるとは思うのだが、一党独裁制の下で表面的な争いがない状態が平和であるかといえば、私はそうではないと思う。
私は本当の意味での平和とは、何度も言っていることだが、個人が個人として、人として尊重される、自己実現の機会のある、自己統治ができる状態であると思う。
安倍さんが言う平和と、私が思う平和、どちらにしても言えることなのだが平和であるためには積極的な行為が必要である。
これも何度も言っていることだが、人間とは所詮、自然界における生物の一種でしかない。自己を守り、種を保存しようとする本能から逃れることはできない。そのために、歴史的にも数多くの血が流されてきたのも事実であり、これからも何もしなければその歴史を繰り返してゆくだけであろう。
そういった意味で、自己の生存を確保するためには、必ず積極的な行為を必要とする。
平和という概念をただ単に戦争状態がない状態、生命的な意味での生存が確保できる状態ととらえると、平和のための積極的な行為として何が必要であるかと言うと、要は相手より武力的に強ければよいということになる。
基本的に安倍さんの言う積極的平和主義は、この延長線上にあると思う。相手より、いかに武力的に強くなるか、そのための一つの手段が集団的自衛権である。ただ、そこで言えることは、たとえそれが成功して平和、すなわち、戦争状態がない世界が築けたとしても、そこには、自己実現の機会、自己統治ができる状態、それを保障する立憲民主主義は存在しない。
その結果として、もう一つ言えることは、そういった平和状態は長続きしない。
私が思う積極的平和主義とは、平和という概念を、自己実現の機会のある、自己統治される状態と考える。そのためには、手段としての立憲民主主義が欠かせないのです。
安倍さんの言う、立憲民主主義に基づかない平和は、結果的には何の意味のない、無駄な時間だけ消費されることとなってしまうであろう。過去の歴史をみれば誰でもわかることなのだけれど。
私は、集団的自衛権という、もはや、歴史的遺物でしかない手段は捨て去るべきだと思う。
他の提言の中で言っているが、世界の平和を追求しようとしたとき、日本国が、最も中心となるべき、なりうる国家であるというのは、世界に誇れる日本国憲法があるからです。世界の平和と言う観点からは第9条です。
防衛という観点から考えた時、自衛権は第9条で否定されていないと思うし、本来的意味で自衛権は行使されるべきだと思う。ただし、集団的自衛権は行使すべきではない。
私は、日本国が今、なすべきことは、立憲民主主義、すなわち、日本国憲法に基づく憲法第9条、立憲平和主義をたとえ一国主義となろうとも守り抜くことだと思う。
現実的な領土、領海、領空は可能な限りの自衛力強化で守り抜き、一方、軍事的な意味での集団的自衛権は行使せず、私は、当面、難民対策を行うことだと思う。特に、弱者である子供たちの難民への支援、受け入れを行い、教育の機会を提供することだと思う。ある程度の教育の後、母国へ帰るなり、少子化の日本で働かれるのもいいと思う。
武力により、決して世界平和は築かれない。それは歴史が証明している。
教育を通じて人は自己実現、自己統治が可能となる。
国家を追われた難民の子供達だからこそ、教育の機会が不可欠なのです。国家とは手段であって目的ではないのです。国家を前提とした集団的自衛権で解決することは、最初から論理的に無理なのです。
たとえ一国主義と言われようとも、どんな苦難があろうとも、国際協調主義、平和主義を憲法に掲げている日本国だからこそできることであり、しなければならない国際的使命を持っているのです。
教育の機会を提供することで、国家を追われた子供たちが自己実現、自己統治の機会を得ること、そのことが、結果的に私たちも含めた世界の人達が平和に暮らせる唯一の方法なのです。
それが人類の歴史を振り返った上での積極的平和主義であると思う。