戦後70年を迎えて思うこと

今までもブログの中で何度か取り上げてきていることであるが、戦後70年を迎えて改めて私が思うことをいくつか述べてみようと思う。

 

安倍さんが昨日の談話の中で述べていたように、過去、植民地支配、ブロック経済の下で結果として世界大戦が起き、数多くの人達が亡くなった。

 

彼はその事実を話しながら、戦争体験のない人たちへの提言として、謝罪をし続けることは必要ないと語った。

 

結局、彼の談話は、先の大戦から離れることができない、先の大戦の正当化をしようとしたいだけだと思う。

 

あれだけ、世界を注目させたわりに、だらだらと言い訳ばかりで、自分が本当に言いたいことをごまかしたために、まったく何が言いたいのかわからない、本当に意味のない、くだらない稚拙な談話となってしまった。

 

あんなくだらない談話であるのなら、何もしなかった方がよっぽどましであった。国際的にも意味のない恥ずべき談話だったと思う。

 

最近の彼の政治姿勢と同じで、何の将来的な展望も、希望もない、ただ過去に縛られた自分というものから離れられないおろかな談話であった。

 

私は思うのだが、敢えて戦後70年ということで何か考えるべきものではない。昨年、69年であっても、考えなければならなかったし、来年71年であっても考えないといけないものである。人間というものは確かに忘れやすい生き物であり、結果として、歴史を繰り返してきた。

 

二度と過ちは繰り返しませんという言葉はその代表である。

 

そのため、確かに節目節目で振り返ることは大切なことなのではあるが、得てしてその振り返ること、そのものに目が行き過ぎて、節目が終われば何事もなかったかのように忘れてしまうことも事実だと思う。今回の談話がそうであったように。

 

節目が大切なのではなくて、振り返るというきっかけとしては大事であるというだけのことだ。本当に重要なのはそこで何を考えるかである。

 

今回の彼の談話はそういった意味で、全く意味のないものであった。

 

結局、歴史を繰り返しましょうと、声高々に宣言したに過ぎない。

 

先ほども述べたが、彼自身は過去の歴史に囚われずに新たな時代を進まなければならないと宣言したつもりであろうが、結局、過去に囚われているのは彼自身である。

 

彼自身、かつてA級戦犯であった身内である岸元総理のことなどから離れることができないのであろう。そんな個人的なくだらない感情など、どうでもいい話だ。

 

私は思うのだが、今、世界は歴史を繰り返そうとしている。

 

他のブログでも書いたが、いま日本が進めているTPPもいわば、ブロック経済化に他ならない。しかもその中身は各国それぞれ、格差社会の中で勝ち残っている富ある一部の者たちがより多くの富を求めて、交渉しているに過ぎない。

 

確かに彼らの理屈はたぶん、富あるものの下で働く多くの国民の所得となり、国家全体の収益にもなると言いたいのだと思う。しかし、一見そう考えやすいが、単なる詭弁である。

 

現実を見ればわかる。結局、国内的にはさらなる格差社会は進み、国際的にはさらなる南北問題は進むだけのことだ。

 

それらが何を意味するかといえば、国内的には民主主義は崩壊し、国際的には緊張が高まり、歴史を繰り返す結果となるであろう。

 

今までも何度も訴えてきているが、世界の根本的な問題は、資本主義社会の生き詰まりの中で、私たちは新たな道を選択して、突き進まなければならないということなのです。

 

資本主義という手段としては優れた制度であったが、それ自身を目的にしまっている現代社会を私たちは変えていかなければならないのです。

 

それしか道はないと思う。

 

そういった中で、日本国という国は本当に世界を変える起爆剤としてはもっともすぐれたふさわしい国家なのです。

 

皆さんにはまだわからないかも知れませんが、私にははっきり見えているのです。

 

そんな中で私が昨年度からブログを立ち上げ、もう1年になりますが、我が国の現在行っている財政、金融政策に対する提言をもう一度改めてしておこうと思う。

 

長引いた、世界にもまれにみる長期のデフレの中で日本は、ケインズ理論の下、減税、公共事業などの財政政策を行い、金融政策としてゼロ金利政策を行うもデフレ脱却できなかった。ゼロ金利の下では財政政策は何もなしえないとし、量的金融緩和の必要性が少しずつ叫ばれる中、あくまで金融政策は補完的なものであるという立場を変えなかった。

 

そうした中でデフレは脱却できず、リーマンショックが起き、アメリカ、イギリスの中央銀行での量的金融緩和、その後、日本銀行による、量的金融緩和政策が行われ、さらに、質的金融緩和が行われ、現在に至っている。

 

私自身も、赤字財政政策、量的質的金融緩和政策がデフレ脱却のための政策として理論的には理解できる。

 

市場に量的に貨幣を供給し、一方で日銀が市場から国債を買い入れる。かつて財政ファイナンス的だとして禁じ手だったこれらの質的金融緩和もある意味で、国債の金利上昇を抑える意味もあり、一石二鳥として一定の効果があることも理解できる。

 

累積の借金が1050兆円を超えGDPの二倍を超えてきているが、通貨の発行権限のないギリシャと違うことも理解できる。だからこそ、今行っている、量的、質的金融緩和政策が実行できたのではあるが。

 

確かにリーマンショック後、ギリシャ危機が起こり、EU内で行われた緊縮財政政策で、結果的にデフレが生じてしまい、ドイツの反対の中で、EUにおいても、量的金融緩和政策への転換が行われた。

 

現在、日本において、市中銀行の国債保有は減っている中で日銀がもつ国債は200兆円を超えてきているが、ある意味で日銀、日本国政府全体として見た時、中央政府内の問題であるとも言える。様々な意見のある中で、そう簡単にハイパーインフレ化することはないとも言われている。

 

私はこの間の世界の財政、金融政策を見ていて、当面の手段としては理論的には新たなケインズ理論としても理解はできる。

 

ただ、それは、当面の今の富が集中する資本主義体制の維持をするための理論としてであって、そういった意味で、手段としては正しいかもしれないが、目的としては間違っていると思う。

 

そこには、民主主義や地球温暖化含めた、地球環境の問題、南北経済格差問題は考慮されていないからである。

 

緊縮財政が否定される中で、現実的に我が国で起こっていることは、案の定、財政規律があまりにもでたらめになってきている。赤字財政主義、多少の財政ファイナンスもデフレ脱却のためには問題ない、そう簡単にハイパーインフレは起こらないという、奢りの下で。

 

公共事業もそうであるし、オリンピック関連予算もあまりのでたらめさにどこに財政民主主義があるのか開いた口がふさがらない。

 

そんな中でオリンピックのロゴマーク問題も生じてきている。

 

それぞれ違った問題のように思えるが、私はすべて同じ問題だと思う。

 

今回の総理談話と同じで、薄っぺらい、核心のないものだということなのです。

 

今、私たちは、金融資本家の考え方に流されることなく、財政中心の政策を、考えてゆかなければならないと思う。確かにそれは厳しい道のりであることは事実です。

 

税制面では、所得再分配(格差社会の中で、資産あるものが一番嫌うことで、政治資金の大元なのでなかなかてごわいですが)の是正

 

社会保障の面では、年金の一元化(これも共済保険など既得権者の問題あってなかなかてごわいですが)、医療介護一元化(これも高齢者問題あってなかなかてごわいですが)、その上で、税制度全体の中で消費税を考えてゆくべきだと思う。

 

安易に消費税ありきではだめなのです。

 

今、私たちは財政、金融政策面で大きな岐路に差し掛かっているのです。安易な金融政策でごまかし続けることは、結果的に大きな代償を払うことは間違いないのです。

 

それは環境破壊による多くの自然災害であり、格差社会、南北経済格差問題の中での、多国間の紛争、テロ含めた戦争でもある。

 

最終的に私たちが求めるものは何なのか、私たちが後世代の人間に何を残さなければならないのか。

 

私は思うのです。

 

私たちが大切にしなければならないもの、残さなければならないもの。

 

それは、自己実現する機会です。憲法13条で言う幸福追求権です。

 

そのために最も大切なことが何かといえば、財政民主主義も含めた立憲民主主義なのです。

 

私たちが過去の先人たちからもらったもの、後世の人達に伝えていかなければならないものそれが立憲民主主義なのです。

 

2015年8月16日   文責  世界のたま            sign

 

 

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