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参議院選挙を終えて~自分の身は、自分で守り、何とか生き抜いてください

今回の参議院再選挙において、御支援していただいた方々に、この場を借りまして、改めて感謝申し上げます。

今回の再選挙は、私にとりまして、皆様方のご家庭の子供さん、お孫さんの30年後を考えた時に、彼女、彼らを含むすべての人類にとって、ぎりぎりのタイミングであるとの認識のもとに立候補させていただきました。
一方で、自然による人類の淘汰、言い換えれば、ヒトという種が存在するに値するかを自然から試されているとブログで述べましたが、そのためのリトマス試験紙とも考えておりました。

私自身、ヒトという種で生まれた以上、ヒトという種に愛着はあり、皆様方のお子さん、お孫さん含めた人類の生存を、心から願ってはおりますが、おそらく、街頭演説で何度も述べさせていただいたように、私自身が、ヒトという種の結末を見ることができるという確信を強く持つことができました。

私自身にとって、その覚悟を持つための場とさせていただいたことに、改めて感謝申し上げます。

今回の街頭演説中に、声をかけていただいた方々、お母さんと娘さん、IT起業家の方、弁護士先生、御同業のお医者さん、ご婦人、そしてむすびのむさし弁当を差し入れてくれた方、レインコートを差し入れてくださった方、多くの皆様方の御支援のおかげで無事、選挙戦を終えることができました。
本当にありがとうございました。

最後になりますが、ブログで、街頭演説で、そして、公報、マスコミの取材の中で、何度も述べさせていただいたように、間違いなく、真の民主主義というブレーキのない現代社会は、これから急転直下、人類絶滅の方向へ、ジェットコースターのように突き進んで行きます。

過去の自然災害、今回のコロナ感染の比ではなく、その規模、スピードにおいて、想像もつかない私たち人類にとっては、災い、ヒト以外の種、言い換えれば、自然界全体にとっては、救いとなる人類の共食いも含めた様々な事象が、際限なく、連鎖的に発生します。

ヒトという種が絶滅するまで

今回のコロナ感染が、示唆していますが、生物は、最終的には、自分自身の命は、己で、守り抜くしかないのです。

私自身が早く生まれすぎたのか、遅すぎたのか、単なるおバカなのか、おバカであることを願っていますが、残念ながらそうではないでしょう。

歴史は繰り返すという言葉、如何にヒトという種は、愚かであるかということ、しかし、そのことは、裏返せば、人類が、ヒトという自然界での生物の一種にすぎないという証左なのかもしれません。
かつてフロイトが語った、理性とは幻想にすぎない。確固たる自我などあり得ないといった言葉が、私の心に染み渡る。

皆様方におかれましては、原理的には不可能なのですが、同じヒトという種として、無事に生き抜いてくださることを切に願って、御礼に代えさせていただきます。

本当にありがとうございました。

2021年4月26日 文責 玉田憲勲

参議院再選挙告示日を迎えて~最初の街頭演説を終えて思うこと

 街頭演説予定(毎日13時頃 八丁堀福屋前交差点付近 14時頃 紙屋町本通り入口付近 なお、4/23日は学校検診のため中止させていただきます)

私が、今回の再選挙において、最も訴えていることは、おバカな有権者の政治責任である。
(今回の再選挙の直接的な原因は犯罪者河井案里、政治的共犯者自民党であることは明らかであるが、その彼らを選んだのは、おバカな有権者に他ならない。政治責任とは、結果責任である。おバカな有権者自身が、犯罪者を生み出したことは明白な事実である。)

私が何故そこにこだわるかというと、一人一人のおバカな有権者が、その政治責任を鑑みて投票行動を行わない限り、真の民主政治(少数が多数になりうる政治、説明責任のある政治)はあり得ず、現在世界中で起きている経済、科学の暴走を止めることは困難である。(経済においては、現在、世界は、資本主義経済であり、資本主義経済の原則である拡大再生産においては、自己抑制は困難である。科学も科学の持つ性質である物を物としてしか評価しない性質によって、これもまた自己抑制は困難である。)

ブレーキのない歯止めの利かない結果として、30年後の人類の絶滅は不可避である。
政党政治が機能していると勘違いしている記号化された他の候補者は、当面の、多くの政策提言をするかもしれないが、まったく無意味である。
何故ならば、まず一つには、記号化された立候補者は、自らの言葉を持っていない。彼らが国会に行ったところで、自らの言葉を持たない者が、何一つ変えることは不可能である。
もう一つは、真の民主主義が確立していない国会において何万時間審議したところで、そこから生み出される政治、経済、科学に関する結論が向かう先は、ブレーキの利かない人類の生存基盤たる自然破壊以外の何者ではない。待ち受けているのは、30年後の人類の滅亡、自然による淘汰である。

結局、真の民主主義による科学、経済に対するブレーキのみが唯一、30年後の人類の滅亡を回避できる可能性のある手段である。
しかし、おバカな有権者を脱却しない限り、この事実の理解は困難である。

コロナ感染を鑑みた時、我々には時間が残されてはいない。(前回の参議院選挙においても我々に残された時間は少ないとお話ししたが、おバカな有権者であるがゆえに理解されることがなかった。そして、結局、挙句の果ては、今回のコロナ感染である)

今回のコロナ感染が人類の滅亡を引き起こすわけではない。コロナ感染は、自然からの単なる警告に過ぎない。今回のコロナ感染を考えれば、わかることであるが、その滅亡の日は、予告もなしに突然やってくる。

特に自然との共通感覚を失っている現代人にとって、その予測は不可能である。

今回のコロナ感染一つとっても、多くの専門家、政治家は、大きな勘違いをしている。
一つは科学の持つ性質である二項対立思考である。政治家、専門家は、さかんにコロナと闘うと表現する。コロナを敵と表現する。これは、近代以降の、人間中心主義と相まった誤った考え方である。コロナは人間と同じ生き物である。そしてコロナを広めたのは人間の経済至上主義にともなうグローバル化によって世界中にまき散らされたのであって、コロナが勝手に移動したわけではない。

もう一つが、科学の持つ還元主義的思考である。これは、今回のコロナを見てもわかるが、細かな遺伝子解析などを行う反面、全体が見えてないというより見ようとしないのだ。
1990年以降のグローバル化社会において世界中で起こっている多くの人間が自然災害と呼ぶ一連のダイナミックの全体の動きの中でコロナ感染をとらえることが困難なのだ。
私から見れば、この一連の流れで見た時に、例えば我が国で起こった1995年の阪神淡路大震災、2011年に起こった東日本大震災、これら二つを考えてみてもわかるが、自然が、単なる震災では飽き足らず、人類の科学、経済の暴走、自然から見れば、自らを破壊しようとする科学、経済の暴走に対しての警告、それが、福島原発事故だった。
あれだけ反省したかと思われた原発事故にも飽き足らず、人類は喉元過ぎればといった感じで、更なる暴走をしたために、今回のコロナ感染である。
コロナ感染は、偶然ではなく起こるべくして起こった必然である。

先ほどの科学の持つ盲点である還元主義的思考を取り除けばわかるのであるが、一連の流れを考えた時、馬鹿でもわかることである。今回のコロナ感染の特徴は、完全なグローバル化経済の停止である。これは、自然からしてみれば、東日本大震災の原発破壊という科学の暴走に対する警告を超えた、世界グローバル化経済の暴走に対する警告である。

根本的な自然による人類の淘汰、それが迫っている中で科学の力でコロナを抑え、新たなるグローバル経済への試みは100パーセント失敗に終わるであろう。
ニューノーマルといった言葉も聞かれるが、私から見れば、戦前の我が国でよく使われた後退を転進と表現しごまかしていたことを思い出す。ある人が言っていたが、資本主義の内面化が起こっているのだと思う。人類が資本主義の中でしか考えられなくなっている、というより1パーセントの人間が99パーセントの人間を抑え込む経済至上主義による民主政治の否定、犯罪者河井案里事件がその典型である。お金による民主政治の根幹である選挙の支配、もはや世界に民主政治は存在しえなくなってきている。それらを科学を駆使した監視社会が補強している。科学の暴走の一面でもある。

何度も言うが、現在の利益集団化した政党政治は民主政治を崩壊させることはあっても、科学、経済の暴走を止める自然からの人類淘汰の阻止するブレーキになることはない。
真の民主政治のない状態のままでのあらゆる国会での、国連での政治的、経済的、外交的政策、審議は、何の意味もない。30年後の真実が見えない者たちに未来はない。
そこに待っているのは、ただ一つ30年後の人類の絶滅だけである。
それは何度も言うが、コロナと同様にある日突然やってくる。
きっと歴史が証明するであろう。

唯一残っている手段が、おバカな有権者が、おバカから脱して、真の有権者となり、真の国民の代表者を選ぶことである。まず今回の選挙で、私を選ぶことである。そのために私の街頭演説に出向くことである。
私は、たった一人でも明日から選挙前日まで街頭演説を続けます。
一人でも多くの有権者が、おバカから脱して、政党政治の呪縛の中から解き放たれることを、自己の内部に存在している公的側面を選挙の投票行動につなげてくれることを望んでやまない。

2021年4月8日  文責 玉田のりたか