安全保障とは(戦争はなぜ起こるのか)

しばらく提言を書いていませんでした。というより書けなかったのです。

この間、ずっと、一つの問題について考えていました。

いまだに結論は出ませんが今の考えを提言したいと思います。

 

私は、幼いころから何故人は争い、殺しあうのか、いつも不思議でたまらなかった。

そして20歳のころから多くの現実を知り、その中で、人間とは何なのかをずっと考え続けてきました。

今回このホームページを立ち上げたのもそれが理由です。

 

戦争はなぜ起こるのか、安全保障とは何なのかを今回は考えてみましょう。

 

歴史をさかのぼってみると第一次世界大戦後、国際連盟が作られるが、結果的に第二次世界大戦が起こってしまい、規範や制度が国家間の選考順位や行動を規定するとするリベラル理論への批判としてリアリズム理論が洗練されてきた。

 

戦争の原因を考えるうえでまづ分析すべき対象が国際システムなのか、国家なのか、意思決定者たる人なのか、いずれのレベルで分析すべきかという分析レベルのディレンマがあるが。

 

なぜ戦争が起きたのかという議論の多くはリアリストによる国際システムに関する議論であるため、リアリストの国際システムにおける考えを見てみましょう。

 

リアリストの最大の課題は戦争がなぜ起こるのか、言い換えれば国家の安全はいかにすれば守られるのかということです。

 

その答えは国際体系の構造がアナーキー(国家を超える権力は存在しない)であるという前提から出発している。

 

従って国家がそれぞれの安全に第一次的責任を負い、最終意思決定も国家が行う。

 

その際、国家を一個人の人格であると仮定する。

 

そして自衛の体系が、アナーキーの必然的帰結であると考え、それと同時に、国家は相対的利得を求める存在であると考える。

 

その結果として自国の安全強化に優先順位が置かれる。

 

そのため、国家間の相互不信が生じる。

 

そして、安全強化と不安のパラドックスが生じる。(すべての国家が相手より余分の安全を得ることは不可能であるから自国の安全は相手国の不安を、相手国の不安は翻って自国の不安となる、いわゆるセキュリティディレンマを生じる。)

 

国家は優位に立っても今ある安全を失うという不安、弱い国家は格差の拡大におびえ、安全を求めるあくなき努力と不安の悪循環に陥る。

 

リアリストはそれを防ぐため、振りかざす理念や敵国への怒り、恨みではなく冷静な利害計算に立った外交、軍事政策の重要性、ブルーデンス(慎慮)を強調する。慎重に事を運ぶという手段の妥当性ではなく目的の妥当性を考える。

 

国際社会が安定するためには有利な立場にあるものがその有利さを優越に変えず、不利な立場にあるものがあえて挑戦しないことが必要であると考える。

 

勝者となっても奢らず、敗者となっても焦らないことが重要であると説く。

 

リアリストは国内政治と国際政治を峻別し、国内では法が、権力闘争を支配するのに国際社会では権力闘争が法を支配すると考える。

 

ところでリアリストの言うアナーキーとは何なのだろう。

 

一般的に国内社会では国家不在の自然状態を言い、国際社会では国家より上位の権威、権力のない状態を言う。

 

リアリストは、アナーキー状態を物的な意味での力の分散状態と考え、力の分散は力の競争を産み、力の競争は力の格差を産む。結果として国際社会は不安定化すると考える。

 

しかし他方、力の分散あれば、ある国の安全が脅かされても安全確保のため対抗勢力が自然と形成され不安がバランスされ一種の安定を確保することもできるとも考える。

 

国際社会では相互主義が欠如してセキュリィティジレンマ、セキュリティパラドックスの原因となる。

 

形式面では政府がなく、国際社会では複数の正義が存在すると考える。

 

法的な観点では国際社会においては主権者が存在せず、どの国も命令をする立場にも服従をする立場にもないため、力関係が結果を産むことになると考える。

 

国際社会にたとえパワーの独占、強力なリーダーシップがあるとしても中央政府には成り得ず、国際社会はどこまで行ってもアナーキーである。誰が強く、誰が弱いかを明らかにするだけで何が正しく、何が正しくないかを意味しないと考える。

 

勢力均衡という状態が良いのか、覇権の存在は必要なのか。

 

一般的に勢力均衡は戦争をするためのものではないが、その維持は同盟、外交、軍事戦略の運営を通じて行われるため、動的に考えると国際社会の変化の中で、国家の不平等な成長が戦争の引き金になることもある。

 

覇権の存在に関してもその存在が国際秩序の条件だとする見方もある。

 

安全保障とは国民が共有する価値を守ることであるが、豊かさが人の幸せを保障しないのと同様に、国家の大きさや強さが安全を保障するとも限らない。

 

9.11後のアメリカは、政策を誤ると強大な覇権であること自体が安心ではなく不安を産むことを証明した。

 

安全強化に努めれば努めるほど不安になってしまう、安全保障の逆説、セキュリティパラドックスが起こってしまう。

 

二か国もしくはそれ以上のアクター(行為主体)が彼ら自身の安全保障を強化しようとして、彼らの言葉と行動が相互の緊張を高め、意図的ではなくても相手にとって自分が敵なのか味方なのか疑心暗鬼になり、結果的にはすべてのアクターの安全保障が弱まってしまうセキュリティディレンマの延長線上にセキュリティパラドックスはある。

 

ただ、セキュリティパラドックスからだけで戦争が起こっているわけでないことも事実である。

 

 

たとえば、2003年のアメリカによるイラクへの侵攻はアメリカとイラク間のセキュリティディレンマから生じたものではなかった。

 

1989年の冷戦の終焉、1991年のソ連の崩壊によりアメリカが全能の幻想を抱き、奢ってしまった結果、ブッシュ政権の対外認識の誤りと失敗を招いてしまった。

 

結果としてアメリカとその同盟国の安全保障は強まったというよりより弱まってしまった。

 

世界の核戦略を考えてみるとき、そのセキュリティパラドックスが明確に表れる。

 

核兵器を持った国が核を持つがゆえに持つ不安がある。核を持つそのことによって安全が増える面と相手の先制攻撃を受けるかもしれない不安に襲われてしまう。

 

たとえば拳銃を持って対峙した二人が恐怖心を抱くのはそれぞれが相手を倒せる能力があるからで、つまり、相手だけでなく自分も拳銃を持っているからである。もし自分に相手を撃つ能力がなければ相手が自分を早く撃たなければならない理由はないからその分、結果手的には恐怖心は小さくなるはずである。

 

米ソの核戦争に双方が恐怖心を抱くのは、単に相手の持つ核が問題なのではなく、自分に大量の核兵器があるからに他ならない。

 

皮肉にも米ソ双方が抱いた恐怖心のゆえにブルーデンス(慎慮)が生じ、相互の力の抑制、MAD(相互確認破壊)が提案された。

 

MADは政策ではなく意図せざる結果としてできた制度であるがゆえに強い拘束力を持っている。

 

9.11の持つ意味について考えてみましょう。

 

アメリカがどの時代、どの社会に比べてもより堅固な安全保障体制を作り上げているのに9.11によって、その安全保障体制はほとんど役立たないということを世界に知らしめた。

 

今日の安全保障政策が大国間の大規模核戦争を抑え込むことができたにしても内戦、内乱、それに伴うテロに対しては十分に対応できないということが明らかになってきている。

 

現在、アメリカを中心としてこのテロにつき様々な政策が行われているが、その際に考えておかなければならないことがある。

 

戦争対処とテロ対処は本来は異なる次元の問題であるが主権国家がテロ組織に対してテロ組織のようにふるまうようになれば両者の戦いは国際政治を野蛮な時代に逆戻りさせる危険性を持っている。

 

テロ集団に対する政府がテロ集団化する危険だけではなく、主権国家同志の戦いも野蛮なものにする可能性を秘めていることを認識しなければならない。

 

現在の国際状況を考えてみるとき、アメリカがイラク進攻以後、対テロ、ミサイル防衛に重点を置いた安全保障政策を強化すればするほどアメリカ国民の安心感は失われ、国際社会もアメリカへの信頼と安心感を失っている。いわゆる、セキュリティパラドックスが起こっている。

 

ミサイル防衛についても、一見、安全保障に役立ちそうですが、防衛されることで相手国は更なるセキュリティパラドックスに陥ってしまいそれが自国に跳ね返ってきてしまうのです。

 

イラク進攻の意思決定が米ソ冷戦の勝利が生んだ奢りのなせる技なのか、9.11がもたらした焦りからなのか、両者双方によるものなのかわからない。

 

それでは、セキュリティディレンマ、セキュリティパラドックスからの悲劇や愚行からどのようにして逃れればいいのであろう。どうしたら戦争やテロを回避できるのでしょう。二つのことが考えられる。

 

  1. 敵対国をはじめとする国々との関係を疑心暗鬼を生む関係から共通の利益を追求する協力関係、信頼できる関係に変えてゆくことである。これについては国際政治は、相対的利益を得るための競争とみるリアリストは悲観的であり、協力した方が戦争回避や経済的利益など絶対的利益を得られると考えるリベラリストは楽観的である。
  2. 対外関係だけではなく国内に目を向けて国際環境が戦争を引き起こすのではなく国内の焦りや奢りが国力の過信や状況判断の錯誤を生んで引き起こしてしまうということも考えなければ行けない。

 

私は思うのだけれど、世界の提言の中で述べているように、結局は一人一人の人間が国家や、国際連合、民族、宗教のとらえ方を、変えてみるしかないと思う。

 

それぞれの人にとってそれらの組織、考え方、思想は本当に大切な物であり、命に代えてでも守りたいものかもしれない。

 

過去、侵略を受け、多くの子孫の命を失い、弾圧を受けた歴史があるかもしれない。

 

しかし、あえて、私は世界中の人々に伝えたいのです。

 

人という種が本当の意味で地球上で最も進化した最終的な生物であるならばすべての生物が持つ縄張り意識、自己防衛意識を、自然淘汰以外で、抑制できる唯一の生物であると信じたい。

 

今現在、地球規模で人間に対する自然からの様々な自然災害という形での自然淘汰が進んでいると思う。

 

人の人に対する抑制のみならず、自然への敬愛する心を、今こそ私たちは持たなければならないと思うのです。

 

そのことが何度も私が述べている個の中に全体を見る心なのです。

 

最後になりましたが安全保障という人類の歴史が始まったその日から考えなければならなかった、そして歴史は繰り返すという言葉で代表されるように、今現在も解決のめどが立たない難しい人類最大の困難な問題について、いろいろ御教授いただき、多くの内容をこの提言の中で紹介させていただきました安全保障の国際政治学を執筆された土山實男先生にはこの場をお借りしまして厚くお礼申し上げます。

 

平成26年12月8日  文責 世界のたま           sign

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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