日本国に生まれて(2)

提言の中で、世界で起きているいろんな事象を取り上げてきました。

 

経済的には世界中の先進国含めた国々で生じている格差問題があります。

それぞれの国内での個人間での格差もあれば、国家間での格差もあります。いわゆる先進国と言われる国々と発展途上国との格差もあれば、EU内でのギリシャなどの国のような問題もあります。

 

そしてイスラム国を中心としたテロ問題、ウクライナなどの民族独立紛争問題など解決のめどのつかない紛争問題が世界各地で毎日のように起きて多くの人々がなくなられています。

 

ホームページの冒頭の主権者への提言の中でも述べていますが、これらの多くの事象の原因は、資本主義経済の下での行き過ぎた貨幣を代表とする「物」への人々の執着、個人の人権保障のための手段としての民族、国家を含めて、言い換えると手段を目的にしてしまった結果です。

 

時間と言う観点から考えてみると、現代社会は時間に振り回されているといえる。

 

資本主義社会の中では基本的に早いことが、価値があることとして重要視されることが多い。

 

移動時間など含めて早く済むことをありとあらゆるサービスで要求され、あらゆるサービスを含む商品の新たな開発も早さを求められる。結果として遅いということは能力がないものとされ時代の中で評価されることはなく置いて行かれてしまう。

 

ここでいう時間は、一般的な意味での時間だが、私は、これらの時間は人間が作りあげた時間であって、本来の意味での時間ではないと思う。結局、自分たちが作った時間の中で自分たち自身が時間によって追いつめられているのが現代社会であると思う。

 

それでは本来の時間とは何なのであろうか。

 

時間とは何かという意味での本質ではないが

 

時間というのものを考えるとき、立体的に捉えないといけないと思う。

人間を考える際も同じことだが、主観面(意思)と客観面(行為)と立体構造的に捉えることが不可欠であると私はいつも思っている。

 

先に上げた一般的な時間は直線的な捉え方であって、立体的に捉えるということはまず面として時間を捉えなければならない。人間で言えば主観的な捉え方と言える。自分自身の個としての時間ではなく、地球上のありとあらゆる生物全体としての時間として、時間を捉えるということなのです。

 

そしてさらに時間を立体的に捉えるためには客観的側面としての縦軸的な捉え方が必要でそれが歴史的な捉え方だと思う。歴史とは平面的な時間の積み重ねである。

 

時間と言うものを立体的に捉えるということはいわば自然の流れに身を委ねることにつながる。

 

他の提言でもあげたが、無為に耐えたるは強しということも、時間を立体的に捉えることで理解できる。

 

己自身を立体的な時間の中に同化させた時、先にあげた世界で起きている数々の事象も解決できると思う。

 

石油などの天然資源に恵まれない日本国に生まれた私たちだからこそ、手段を手段としてしっかり認識し、決して目的化することなく、さらに、立体的な時間の捉え方をすることによって初めて世界に起きている様々の事象を解決できるのではないかと思う。

 

 

2015年2月18日   文責  世界のたま     sign

 

 

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