思考停止したサラリーマン化した者たちよ、立ち上がれ!(自然法による支配)

TPP衆議院採決が立ち止まっている。
日銀の黒田総裁による消費者物価上昇2%目標も行き詰っている。
豊洲市場移転問題も暗礁に乗り上げている。
オリンピック競技会場問題も同様に暗礁に乗り上げている。

これらすべてに共通することはすべて金がらみだ。
お金という単なる交換価値しか有しないものを最大の目的としてしまった者たちの見るに堪えない醜悪至極の行為のなれの果てである。

昨夜のニュースの映像の中に、安倍総理が同期の議員たちと料亭で酒を飲み赤ら顔で、車に乗り込もうとしている映像があった。おバカな総理を、おバカな大臣たちが取り囲んでいた。

まったくおバカな能天気な人たちだと思う。彼らが料亭で飲み食いしている同じ時間に、多くの国民は仕事に追われ、スーダンでは自衛隊員が、アフガニスタンでも多くの支援団体が、その他、世界中で医師団、ボランティア含めて様々な団体が命を懸け活動をしている。

自分たちだけは安全なところにいて、料亭でおいしいお酒を飲み、国民には日本も集団的自衛権のもとで国際協力しなくてはいけないなどと調子のいいことを、法律という権力を振りかざさして強行しようとする。

たとえ、戦闘やテロなどで誰が亡くなろうと、彼らは何の感情も抱くことはないであろう。自分たちは安全なところで美味しいお酒を飲み続けているであろう。かつて多くの玉砕した兵士や、特攻隊で散っていった若者や、沖縄で崖から冷たい海に飛び込み、洞穴の中で自爆した民間人を尻目に、東京の地下壕で庶民が口にすることもできなかった美味しいものを食べていた戦争指導者たちのように

もし、彼ら自身の命が現実的にかかっていたとしたら彼らは決してそのようなことはしないであろう。というよりそんな強い精神力や思想は持ち合わせていない。所詮、志も何もないつまらない人間たちの集まりである。権力や、くだらない名誉、何の価値もないお金のために生きているだけの人たちなのだから

憲法が何なのかを理解していないおバカな総理、大臣室でポケットに賄賂を入れるしょうもない元経産省大臣、農水省に明日来たらいいことがあるなどとほざいている農水大臣等々、おバカさんのオンパレード、否、もはや国家的犯罪者のオンパレードだと思う。

歴史を振り返り、彼らを見て思い出すのは、1966年から中国の毛沢東が行った文化大革命、そして毛沢東が亡くなり、文化大革命が終焉を迎えるころに始まったカンボジアでのポルポト派による恐怖政治である。

文化大革命では紅衛兵という本当にまだ幼い無知な子供たちが、武器を持って権力の擁護の下、中国全土で知識人、文化人の粛清を行い、書物を焼き捨て、多くの人々が殺害された。

ポルポト派による弾圧でも文化大革命をお手本に、医者や、弁護士、学者など知識人を中心に何百万人の人が殺害され、国中に無数の地雷が埋められた。その際にも何も知識を持たない操りやすい子供たちが利用され、何の医学的知識のない子供医者などが存在していたと言われている。

前回のブログなどでも書いたが、今のおバカな総理や国務大臣を支えているのもやはり憲法なども知らない無知なスポーツ、経済などの専門バカか、しょうもないちっぽけな名誉欲、金欲を持った国会議員たちである。

彼らには以前ブログで書いた共通感覚が欠如しており、そして贈与の否定もしている人たちである。その結果として思考欠如に陥っている人たちであり、文化大革命の紅衛兵であり、ポルポト派の子供医者なのである。彼らには社会的なモラル、思いやりはなく、権力を背景に自分を大きく見せているだけで中身は何もない。空っぽな人間である。紅衛兵や子供医者がそうであったように長くはもたない。権力がなくなったとき、そこにいるのはただの無知な愚かな人間である。

私はサラリーマン化した現代の人たちに問いたい。彼らに自分たちの未来を、子供たちの未来を、このまま預け続けるのですか

企業で働くサラリーマンたちよ、企業という小さな社会の中だけで生き続けるのですか?
公務員たちよ、組織という小さな社会の中だけで生き続けるのですか?
自分たちの社会の外にはもっと大きな世界があり、そこは立体的以上の時間的空間が開けているというのに

私は司法を信じている。というより、法の支配を信じている。ここで私が言っている法とは自然法である。したがって自然法による支配を信じているといったほうが適切であろう

確かに多くの人たちは、特に有識者と呼ばれる人たちは司法も所詮は権力側でしかないという人たちも多い。事実、最高裁判事は内閣が任命するのだから、権力側に組みすると考えやすい、常識からすればそうかもしれない。

ただ私が違憲訴訟にこだわり、地裁に提訴し、それでもだめなら高裁に控訴し、それでもだめなら最高裁に上告し続けるのは、裁判官の独立を信じているからに他ならない。

歴史を振り返ってみると日本の裁判史上でもいくつかの裁判官の独立を守ろうとした裁判は存在している。

裁判官の独立という意味ではないが、私にとって印象的な裁判は水俣病患者に対する最高裁裁判である。多くの水俣病患者、弁護団含めた支援団体が長い闘争の中で、勝ち得たと思われた国との和解に応じたが、それには応じず、最高裁で闘った水俣病患者たちがいた。
まさかと思う患者勝訴の最高裁判決がなされた。それがきっかけとなってより多くの未認定だった患者さんが救われた。最終的には認定申請期限が区切られたことで、認定漏れの人たちが未だに多くおられることはこれから解決しなければならない課題だと思うが、誰もが予想しにくかった本当に大きな印象的な最高裁判決であった。

私は、人類が本当に進化の過程での最終の種であるとするならば、それが作り出す最終的ないわゆる文明社会は、現代社会のような共通感覚のない、贈与の否定をする、思考を停止した思考欠如した社会ではないと思う。

法、すなわち自然法に支配された社会こそが本当の意味での文明社会だと思う。

歴史を振り返ったとき、そして歴史を繰り返さないために、私がたどり着いた考え、唯一の答えが、自然法による支配、それ以外には考えられないのです。

  平成28年11月3日  文責  世界のたま

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