自己責任について

今回の人質事件の中で自己責任という問題が取り上げられている。

 

普段の日常生活の中で、一般的な自己責任を考えていく上で、まず考えておかなければならないのが自己責任を問う以上、前提として、個人の自己実現、自己統治が保障されていることが必要です。

 

個人が自己実現、自己統治できて初めて、個人の自己責任を問うことができるからです。

 

一般的な意味での自己責任はさておいて、今回の人質事件での自己責任問題ですが、正直なところ、私自身は自己責任としての部分が大きいと思う。

 

戦場含めた危険地域での報道経験もあり、自ら進んでイスラム国に赴いた事実、他者のアドバイスもあった上で、実際に自ら、誰にも責任もなく自分自身にあると言われている事実。

 

現状認識のあるうえでの行動であり、たとえそのことによってどんなことがあろうとも自己責任の世界であると思う。

 

一方で、戦争、飢餓、暴力、圧政から逃れ、虐げられている人たち、弱者の報道という社会的ニーズに誰かが答える必要性もあるのだが、その問題と自己責任の問題とは基本的に別問題であって混同してはならないと思う。

 

人情論として、そういった社会的ニーズに命を張って出かける人たちの命が救われることを望むが、もし失われることがあったとしても、致し方ないことかとも思う。

 

蓋し、世の中には彼以外にも、数多くの命を張って仕事につかれている人は多い。

 

身近でいえば警察官、消防士の方々がいる。彼らは、実際は違うのかもしれないが、職務規律上は自分の命を懸けて国民の命を守ることを任務としている。

 

もし彼らが国民をほっておいて自らの命を守ったとしたなら非難されるであろう。逆に言えば、殉死しても基本的には彼らは自分自身で選んでしたことなのだからと言われるだけであろう。

 

世界でこの人質問題、イスラム国のテロの非情さ、残酷さが盛んに取り上げられているが、一方で考えなければならないことがあると思う。

 

イスラム国含めたテロ組織の行動は非難されるべきことであることは間違いないが、アメリカを中心とした多国籍軍による空爆によって一般の市民の被害が出ていることも事実である。

 

その中には幼い子供もいるであろう。そういう人たちもそれぞれに一つの命であることには変わりがない。

 

今回人質となっている一人と同じ一人なのである。

 

彼らは何の予告、取引も許されることなく、世界のだれからも助命活動されることもなく静かにその命を終えている。

 

私は、全世界の人たちがもう一度、今回の事件をきっかけに、私たちが今、行っていることの愚かさについて考え直さなければならないと思う。

 

その中でも、富のある、豊かな人々こそが、冷静に、真剣に考える、より大きな責任を負っているのではないかと思う。

 

2015年1月29日   文責   世界のたま     sign

 

 

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