フランスでのテロについて思うこと

今回のフランスでのテロについて、いろんなことを考えさせられた。

 

一つには表現の自由の問題だ。

 

我が国においても日本国憲法第21条において表現の自由は、精神的自由の中の中心的権利として手厚く保障されている。

 

そもそも表現の自由は人としての自己実現、自己統治にとって不可欠な権利であって思想、良心の自由に次いで保障されるべきものである。

 

ただし、思想良心の自由のような内心の自由に比べて表現の自由は他者との関係において問題を生ずることがある。

 

日本でも、プライバシーとの関係において問題となることがある。

 

いわゆる個人の人権のぶつかり合いだが、表現内容が公的な内容なのか、真実なのかなどいろんな観点から調整が図られることが多い。

 

私は思うのだが、基本的な考え方としてまず表現に自由は保障されるべきことが第一であるとは思う。ただし、その内容によっては名誉棄損、侮辱罪などにあたり、思想、良心の自由に比べて、その自由は絶対ではないとも思う。

 

今回のフランスでの風刺画が信仰する人にとって名誉棄損、侮辱に値するかについて正直なところ私にははっきりしないが、信仰する人たちの心を傷つけた可能性があるのではないかとは思う。

 

ただそれがすぐさまテロによる生命を奪うに値するかと言えば、そこには問題があるとは思う。

 

しかし、その後の新たな風刺画などを見るにつけ、一連の行動全般から考えた時、表現の自由としてどこまでも保護するには思いやりが欠けているようにも思える。

 

もう一つ考えさせられたのがテロについてだ。

 

今回のテロの背景にはいろんな要素があると思われ詳細については私などでは理解できない。

 

ただ言えることは各国で、テロ対策として軍事、警察的対策が取られているがそれだけでは難しいと思う。というより、それでは解決にはならないと思う。

 

今や世界中の国が資本主義的経済発展を遂げてきて物は豊かに、そして便利になり、おいしいものを食べられるようになってきている一方で、格差社会は進み、富める者はより富んで、社会的権力を握り、それが固定化してきているように思える。

 

そういった経済的格差社会の中で、民族や、宗教というものが相まって複雑な問題を引き起こしているように思える。

 

安全保障についての提言の中でも述べたことであるが、現在、世界各地で起こっている戦争やテロは、軍事力という力だけでは解決できない。

 

我が国においても非正規雇用者は増え続け、金融、財政政策においても格差社会をより増大させる方向にいっており、沖縄辺野古の基地問題においても、総選挙同様、数の力で少数者、力の弱い者を押しつぶそうとしている。

 

私は思うのだけれど、先に述べた表現の自由の問題にしても、テロの問題にしても、最終的には他者への思いやりだと思う。特に権力を持った者の社会的弱者への思いやり、配慮だと思う。

 

テロを防ぎ、皆が平和の中で生活してゆくためには、強大な軍事力が必要なのではなく、国際社会において、貧困、飢餓、差別をなくし、国内においても格差社会是正のための金融、財政、社会保障政策への転換が不可欠であると思う。

 

そのためには憲法を尊重した民主主義政治が行われることが絶対的な前提条件なのです。

 

何度も言いますが、国境、民族、宗教を超えた他者への思いやり、個の中に全体が見れる考え方こそが、今、人類にとって必要な時なのです。

 

2015年1月18日  文責  世界のたま    sign

 

 

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