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安全保障とは(戦争はなぜ起こるのか)

しばらく提言を書いていませんでした。というより書けなかったのです。

この間、ずっと、一つの問題について考えていました。

いまだに結論は出ませんが今の考えを提言したいと思います。

 

私は、幼いころから何故人は争い、殺しあうのか、いつも不思議でたまらなかった。

そして20歳のころから多くの現実を知り、その中で、人間とは何なのかをずっと考え続けてきました。

今回このホームページを立ち上げたのもそれが理由です。

 

戦争はなぜ起こるのか、安全保障とは何なのかを今回は考えてみましょう。

 

歴史をさかのぼってみると第一次世界大戦後、国際連盟が作られるが、結果的に第二次世界大戦が起こってしまい、規範や制度が国家間の選考順位や行動を規定するとするリベラル理論への批判としてリアリズム理論が洗練されてきた。

 

戦争の原因を考えるうえでまづ分析すべき対象が国際システムなのか、国家なのか、意思決定者たる人なのか、いずれのレベルで分析すべきかという分析レベルのディレンマがあるが。

 

なぜ戦争が起きたのかという議論の多くはリアリストによる国際システムに関する議論であるため、リアリストの国際システムにおける考えを見てみましょう。

 

リアリストの最大の課題は戦争がなぜ起こるのか、言い換えれば国家の安全はいかにすれば守られるのかということです。

 

その答えは国際体系の構造がアナーキー(国家を超える権力は存在しない)であるという前提から出発している。

 

従って国家がそれぞれの安全に第一次的責任を負い、最終意思決定も国家が行う。

 

その際、国家を一個人の人格であると仮定する。

 

そして自衛の体系が、アナーキーの必然的帰結であると考え、それと同時に、国家は相対的利得を求める存在であると考える。

 

その結果として自国の安全強化に優先順位が置かれる。

 

そのため、国家間の相互不信が生じる。

 

そして、安全強化と不安のパラドックスが生じる。(すべての国家が相手より余分の安全を得ることは不可能であるから自国の安全は相手国の不安を、相手国の不安は翻って自国の不安となる、いわゆるセキュリティディレンマを生じる。)

 

国家は優位に立っても今ある安全を失うという不安、弱い国家は格差の拡大におびえ、安全を求めるあくなき努力と不安の悪循環に陥る。

 

リアリストはそれを防ぐため、振りかざす理念や敵国への怒り、恨みではなく冷静な利害計算に立った外交、軍事政策の重要性、ブルーデンス(慎慮)を強調する。慎重に事を運ぶという手段の妥当性ではなく目的の妥当性を考える。

 

国際社会が安定するためには有利な立場にあるものがその有利さを優越に変えず、不利な立場にあるものがあえて挑戦しないことが必要であると考える。

 

勝者となっても奢らず、敗者となっても焦らないことが重要であると説く。

 

リアリストは国内政治と国際政治を峻別し、国内では法が、権力闘争を支配するのに国際社会では権力闘争が法を支配すると考える。

 

ところでリアリストの言うアナーキーとは何なのだろう。

 

一般的に国内社会では国家不在の自然状態を言い、国際社会では国家より上位の権威、権力のない状態を言う。

 

リアリストは、アナーキー状態を物的な意味での力の分散状態と考え、力の分散は力の競争を産み、力の競争は力の格差を産む。結果として国際社会は不安定化すると考える。

 

しかし他方、力の分散あれば、ある国の安全が脅かされても安全確保のため対抗勢力が自然と形成され不安がバランスされ一種の安定を確保することもできるとも考える。

 

国際社会では相互主義が欠如してセキュリィティジレンマ、セキュリティパラドックスの原因となる。

 

形式面では政府がなく、国際社会では複数の正義が存在すると考える。

 

法的な観点では国際社会においては主権者が存在せず、どの国も命令をする立場にも服従をする立場にもないため、力関係が結果を産むことになると考える。

 

国際社会にたとえパワーの独占、強力なリーダーシップがあるとしても中央政府には成り得ず、国際社会はどこまで行ってもアナーキーである。誰が強く、誰が弱いかを明らかにするだけで何が正しく、何が正しくないかを意味しないと考える。

 

勢力均衡という状態が良いのか、覇権の存在は必要なのか。

 

一般的に勢力均衡は戦争をするためのものではないが、その維持は同盟、外交、軍事戦略の運営を通じて行われるため、動的に考えると国際社会の変化の中で、国家の不平等な成長が戦争の引き金になることもある。

 

覇権の存在に関してもその存在が国際秩序の条件だとする見方もある。

 

安全保障とは国民が共有する価値を守ることであるが、豊かさが人の幸せを保障しないのと同様に、国家の大きさや強さが安全を保障するとも限らない。

 

9.11後のアメリカは、政策を誤ると強大な覇権であること自体が安心ではなく不安を産むことを証明した。

 

安全強化に努めれば努めるほど不安になってしまう、安全保障の逆説、セキュリティパラドックスが起こってしまう。

 

二か国もしくはそれ以上のアクター(行為主体)が彼ら自身の安全保障を強化しようとして、彼らの言葉と行動が相互の緊張を高め、意図的ではなくても相手にとって自分が敵なのか味方なのか疑心暗鬼になり、結果的にはすべてのアクターの安全保障が弱まってしまうセキュリティディレンマの延長線上にセキュリティパラドックスはある。

 

ただ、セキュリティパラドックスからだけで戦争が起こっているわけでないことも事実である。

 

 

たとえば、2003年のアメリカによるイラクへの侵攻はアメリカとイラク間のセキュリティディレンマから生じたものではなかった。

 

1989年の冷戦の終焉、1991年のソ連の崩壊によりアメリカが全能の幻想を抱き、奢ってしまった結果、ブッシュ政権の対外認識の誤りと失敗を招いてしまった。

 

結果としてアメリカとその同盟国の安全保障は強まったというよりより弱まってしまった。

 

世界の核戦略を考えてみるとき、そのセキュリティパラドックスが明確に表れる。

 

核兵器を持った国が核を持つがゆえに持つ不安がある。核を持つそのことによって安全が増える面と相手の先制攻撃を受けるかもしれない不安に襲われてしまう。

 

たとえば拳銃を持って対峙した二人が恐怖心を抱くのはそれぞれが相手を倒せる能力があるからで、つまり、相手だけでなく自分も拳銃を持っているからである。もし自分に相手を撃つ能力がなければ相手が自分を早く撃たなければならない理由はないからその分、結果手的には恐怖心は小さくなるはずである。

 

米ソの核戦争に双方が恐怖心を抱くのは、単に相手の持つ核が問題なのではなく、自分に大量の核兵器があるからに他ならない。

 

皮肉にも米ソ双方が抱いた恐怖心のゆえにブルーデンス(慎慮)が生じ、相互の力の抑制、MAD(相互確認破壊)が提案された。

 

MADは政策ではなく意図せざる結果としてできた制度であるがゆえに強い拘束力を持っている。

 

9.11の持つ意味について考えてみましょう。

 

アメリカがどの時代、どの社会に比べてもより堅固な安全保障体制を作り上げているのに9.11によって、その安全保障体制はほとんど役立たないということを世界に知らしめた。

 

今日の安全保障政策が大国間の大規模核戦争を抑え込むことができたにしても内戦、内乱、それに伴うテロに対しては十分に対応できないということが明らかになってきている。

 

現在、アメリカを中心としてこのテロにつき様々な政策が行われているが、その際に考えておかなければならないことがある。

 

戦争対処とテロ対処は本来は異なる次元の問題であるが主権国家がテロ組織に対してテロ組織のようにふるまうようになれば両者の戦いは国際政治を野蛮な時代に逆戻りさせる危険性を持っている。

 

テロ集団に対する政府がテロ集団化する危険だけではなく、主権国家同志の戦いも野蛮なものにする可能性を秘めていることを認識しなければならない。

 

現在の国際状況を考えてみるとき、アメリカがイラク進攻以後、対テロ、ミサイル防衛に重点を置いた安全保障政策を強化すればするほどアメリカ国民の安心感は失われ、国際社会もアメリカへの信頼と安心感を失っている。いわゆる、セキュリティパラドックスが起こっている。

 

ミサイル防衛についても、一見、安全保障に役立ちそうですが、防衛されることで相手国は更なるセキュリティパラドックスに陥ってしまいそれが自国に跳ね返ってきてしまうのです。

 

イラク進攻の意思決定が米ソ冷戦の勝利が生んだ奢りのなせる技なのか、9.11がもたらした焦りからなのか、両者双方によるものなのかわからない。

 

それでは、セキュリティディレンマ、セキュリティパラドックスからの悲劇や愚行からどのようにして逃れればいいのであろう。どうしたら戦争やテロを回避できるのでしょう。二つのことが考えられる。

 

  1. 敵対国をはじめとする国々との関係を疑心暗鬼を生む関係から共通の利益を追求する協力関係、信頼できる関係に変えてゆくことである。これについては国際政治は、相対的利益を得るための競争とみるリアリストは悲観的であり、協力した方が戦争回避や経済的利益など絶対的利益を得られると考えるリベラリストは楽観的である。
  2. 対外関係だけではなく国内に目を向けて国際環境が戦争を引き起こすのではなく国内の焦りや奢りが国力の過信や状況判断の錯誤を生んで引き起こしてしまうということも考えなければ行けない。

 

私は思うのだけれど、世界の提言の中で述べているように、結局は一人一人の人間が国家や、国際連合、民族、宗教のとらえ方を、変えてみるしかないと思う。

 

それぞれの人にとってそれらの組織、考え方、思想は本当に大切な物であり、命に代えてでも守りたいものかもしれない。

 

過去、侵略を受け、多くの子孫の命を失い、弾圧を受けた歴史があるかもしれない。

 

しかし、あえて、私は世界中の人々に伝えたいのです。

 

人という種が本当の意味で地球上で最も進化した最終的な生物であるならばすべての生物が持つ縄張り意識、自己防衛意識を、自然淘汰以外で、抑制できる唯一の生物であると信じたい。

 

今現在、地球規模で人間に対する自然からの様々な自然災害という形での自然淘汰が進んでいると思う。

 

人の人に対する抑制のみならず、自然への敬愛する心を、今こそ私たちは持たなければならないと思うのです。

 

そのことが何度も私が述べている個の中に全体を見る心なのです。

 

最後になりましたが安全保障という人類の歴史が始まったその日から考えなければならなかった、そして歴史は繰り返すという言葉で代表されるように、今現在も解決のめどが立たない難しい人類最大の困難な問題について、いろいろ御教授いただき、多くの内容をこの提言の中で紹介させていただきました安全保障の国際政治学を執筆された土山實男先生にはこの場をお借りしまして厚くお礼申し上げます。

 

平成26年12月8日  文責 世界のたま           sign

 

 

 

 

 

 

 

 

 

租税について考える

今回、国会が解散され総選挙になりましたが、解散の屁理屈ではあるのだけど、消費税の問題があります。8%なのか10%なのか、いつ引き上げるのかなど様々な問題点が提起され論じられています。

他の提言、「何故借金大国になってしまったのか」の中で述べているように、我が国はヨーロッパなどとは違って戦後、租税は低くして個人、企業の貯蓄を増やし、その貯蓄をもとに世界でも類をみない経済発展を成し遂げたのは事実です。

ただ、1970年代からの社会保障費の増大、高度成長の終焉とともに本来であれば租税、社会保障体系を変えていかなければいけなかったのにそれを避けて通ってしまい今日に至っているのです。

今、国会議員が消費税についてああだこうだと、相も変わらず自分たちの国会議員としての身分の継続のためにいろいろ都合のいい、国民受けのいい適当な話をしています.

私は思うのですが、私たち主権者にとって実際問題、本当に真剣に考えなくてはいけない時なのです。選挙などどうでもいい話です。

他の提言でも述べていますが私たちにはそんなに時間がないのです。

消費税を考えるとき、物事はすべてそうなのですが、私が提言の中でよく述べているように個の中に全体があります。

消費税も租税の中の一つであるということを忘れてはいけないのです。

消費税を考えるときに消費税だけを考えて景気がどうなるだとか国会議員のように考えて行動すると来年には又ああだこうだと無駄な時間を費やすだけになってしまうのです。

これだけ1970年以降、借金大国になっている現実の中で学習能力の低さにはあきれ返ってしまうばかりです。

消費税を考えるということは租税体系全体を、後から述べますが社会保障含めた国家財政全体を考えないといけないのです。

そういった意味で租税とは何なのかからお話ししてゆきましょう。(以下、現代租税の理論と実践に沿ってお話しするので詳しくはそちらをご覧ください)

租税とは国家にとって国民に対して様々なサービスを行ったり、海外から我が国を防衛したり、海外の困っている人々にサービスを提供したりするための財源として国民から強制的に徴収する税収という意味があります。

憲法30条でも納税の義務として定められています。

租税の持つ本質的機能として上に上げたいわゆる税収としての機能のほかに大きなものとして国民の所得の再分配機能というのがあります。

世の中には貧困の格差がいつの時代にもあり、昨今、格差社会の拡大が問題となっていますが、そういった意味で格差社会是正のための再分配機能としての租税も考えないといけないのです。

そういった観点から租税を考えていってみましょう。

租税には所得税や法人税などの直接税と消費税などの間接税があります。

我が国においては1989年に一般消費税が導入されましたが、所得税、法人税についてはリーマンショック前を除けば1990年以降税収は下降の一途をたどっています。

税収が下降していっている原因としては当然、バブル崩壊などの原因もありますが政府が幾たびも行ってきた減税政策も大きな要因となっています。

最高限界税率(所得税法上の最高税率)の引き下げ(1989年には76%から65%へ、1999年には65%から50%へ引き下げる)、配当などの資本所得が労働所得に対して10%と低い軽減税率だった。(2014年度から20%)、給与所得控除など数多くの控除措置がなされた。

これらの減税措置は特に高額所得者に対して有利に働いたと言えます。

我が国の租税の流れをまとめてみると、もともと、企業、個人への租税を減らして貯蓄を増やす政策の上に、高度成長期終焉、国会議員の保身のために国民受けのいい様々な減税措置を行った。

結果として税制の最大の目的である税収は減っていった。

法人税の軽減、所得税のフラット化の一方で社会保険料の増大、付加価値税(消費税)の増大などを行い、税制の大きなもう一つの目的である所得の再分配機能も低下していった。

世界の税制の流れの中をみても付加価値税と社会保険料の重要性が増している一方で所得の再分配機能の低下が盛んに言われるようになってきている。

それでは次に付加価値税(消費税)について考えてみましょう。

消費税の利点として課税ベースが広い。経済活動に与える歪みが少ない。税収調達能力が高いことなどがあげられます。

一方、欠点としては逆進的な性格が強い(低所得者に不利)などが言われています。そのため多くの国では、一部のものについてはゼロ税率、軽減税率、非課税処置を行っています。

イギリスでは1973年に消費税が開始され、2011年には税率20%になっていますが非課税品などが多いため課税ベースが狭くなってしまっています。

一方、1980年以降に導入した第二世代付加価値税導入国であるニュージーランドは単一税率で行っています。

消費税率に関して、我が国でも、複数税率が昨今言われていますがどちらが良いのでしょう?

低所得者対策という意味合いで複数税率が言われることが多いと思われますが、一見、正論のように見えますが複数税率に対する批判を見てみましょう。

  1. 逆進性対策としての公平性目的というが、生涯賃金の変動を考慮していないのではないか。人は一生涯同一の所得ではないのだから、良いときがあれば悪い時もある。
  2. 高所得者は食料品などについて言えば絶対額としては大きく高所得者に恩恵がいってしまう。
  3. 何を軽減化、非課税にするかなど基準があいまいでロビー活動など複雑化し行政コストもかかる。
  4. 非課税、軽減税率により租税の本来の機能である税収調達能力が落ちてしまう。

 

私は思うのですが基本的には租税の本来の目的である税収目的を考えた時、基本的には単一税率が良いと思う。

ただ、その際、考えておかないといけないのは、まづ消費税そのものが逆進性の性格をもつものだということです。

ニュージーランドやデンマークにおいて単一税率でやっていけているのも国民の合意のもと所得税や社会福祉システムで逆進性税制をカバーしているからです。

近年のOECDやIMFレポートも単一税率を採用した上で所得税や社会保障での再分配を主張しています。

今度は、税制度全体で見てみましょう。

所得税がいいのか消費税がいいのか?

世界的な流れとしては所得税などの直接税から消費税などの間接税への流れがあります。

二つを比べてみた時、効率性、行政コストからみたらどちらかはっきりしません。再分配機能から見た時には所得税でしょう。また、富に課税するというのであればやはり所得税でしょう。

近代国家の租税の歴史を鑑みてみると国家の課税権と私有財産制度との矛盾の中で試行錯誤されてきたと思う。

近代国家の租税を考えるうえでのポイントとして

  1. 民主主義の視点 民主主義のすべての権力は説明責任を持つが私的権力は説明責任を持たない。
  2. 平等の視点 資本主義社会では貨幣が支配的な財で貨幣を持つものが他の分野でも権力を蓄積しやすいためそれを阻止するためには機械的な平等の意味で単純な自由ではなく複雑な自由が必要である。
  3. 所得課税を通じた再分配が限界を持つことも仕方ないが消費税が富の蓄積に対して無力であることは明らかである。

 

現在のように資産家が使い切れない資産を保有する資本蓄積が進展している世界の中で貯蓄を延期された消費と観念することはできないと思う。

蓄積された富は社会的、政治的な権力と結びつきやすく民主主義社会では私的権力の過剰な蓄積を抑制しなければならないと思う

 

そうした観点から我が国の税制度を見た時、私は、消費税をいつ、いくら上げるかということよりも1000兆円を超える国家債務、増え続ける社会保障費、より拡大している格差社会すべてを考えた税制度を根本的に見直さないといけないと思うのです。

そういった意味で税制度全体の見直しの提言をまとめておこうと思います。

  1. 再分配機能強化としては税制度の中では所得税の再認識、最高限界税率の引き上げ、
  2. 控除の見直し。
  3. 貨幣の権力抑制のための、所得、消費、資産の課税ベースの見直し、相続税などの引き上げなど。
  4. 国家債務、社会保障費用などを考え、税収入の確保のためには消費税の単一税率と税率の引き上げ。
  5. 基本的には税制度の中だけでの再分配は限界があり、社会保障において調整をはかることが不可欠であり、その際には所得中間層からの不満も考慮して普遍的社会サービスの提供が貧困層への選別的主義的な現金給付より格差、貧困解消に効果があると思われる。

 

我が国にはそんなに時間がありません。

選挙などのんきにやっている暇はないのです。特に民主制を否定しているような選挙はもってのほかだと思う。

そんな彼らだから、そしてそんな彼らを選んでいる私たちもそんな人たちだから、このような世の中になってしまっているのです。

他の提言でも言っていますが資本主義という手段を有効に用いて餓死のない、便利な社会を作り上げられたことはよかったとは思います。

ただ、私たちが忘れてしまったことは所詮、貨幣とは手段にすぎず、目的にはならないということです。

他の提言でも述べているように確かに憲法29条で財産権は保障されています。ただし公共の福祉による制限も受けています。

私は思うのですが私有財産制度は原則として守られるべきことだと思う。生物の本能であると思うから。

ただ、一方では格差社会の中で富が富を生み、それが国民一人一人の機会の平等を侵害してきていると思う。

そうした中で税制度を考えてみると単に消費税だけ考えても全く意味のないことなのです。

低所得者への再分配機能のため、所得税の累進課税、最高限界税率の引き上げは不可欠で所得税は現代においても中心となる祖税であると思う。

法人税についてもグローバル化の中で資本の呼び込みのため税率競争となっていますが我が国においては特に大企業においては賃金に回らず企業の内部留保に回ることが多いと思われ税制度上も検討が必要と思われる。

消費税については単一税率で課税ベースも可能な限り広げるべきだと考えます。租税とは何かという原点を考えた時、これしかないと思う。

ただし、再分配機能としての社会保障、福祉政策があっての上です。そのためには国民の合意が不可欠である。

そして、国民の合意を得るためには何が必要かというと、

租税制度を決める国民の代表者たる国会議員の良識です。

己の欲を捨てた他者のために生きる代表者としての誇りです。

私が他の提言で今、私たち国民が苦難に堪えなければいけないと言っていることとはそういうことなのです。

これからの我が国の租税制度を考えていくとき、必要なことはたった一つなのです。

私たち、一人一人の中に、個の中に全体があるという認識です。

ただそれだけのことなのです。

最後になりましたが租税についての考えに共鳴し、多くのことを学ばせていただき提言の中にも引用させていただいた「現代租税の理論と思想」を執筆された先生方にこの場を借りてお礼申し上げます。

 

2014年11月24日  文責 世界のたま  sign

国会の解散について

国会の解散が盛んにニュースのトップニュースになってきているが、今回は国会の解散について考えてみましょう。

そもそも国会の解散権が誰にあるのか

憲法上は憲法第7条の天皇の国事行為の一つとして、内閣の助言と承認に基づく衆議院の解散と、第69条の内閣の不信任決議に対しての衆議院の解散であるが、第69条に関しては主語がなく衆議院が解散されなければと書いてあるだけで誰が解散するのか条文上でははっきりしていない。

結局、最近では憲法第7条により解散するということで、今回の解散についての国会議員の発言を聞いていても解散は内閣総理大臣の専権事項と言っている。

ただ、それでは勝手に総理大臣の気分で解散できるのか

今までは、議会と内閣が対立して妥協ができなくなってしまったケースか、新たに国民の信を問わなければならない大きな問題が生じた時、だいたいこの二つのケースで解散できるとされてきていた。

今回のケースを考えてみると、自民党一党支配のもと内閣と議会との対立はあり得ず、先に上げた二つ目の理由、新たに国民の信を問わなければならない新たな問題として、消費税増税の延期をすることの是非のための解散とこじつけた理由を付けているが、消費税増税については来年の10月とはなっているものの、延期することも可能とされており、別段、解散で国民の信を問う必要はない。

結局、自分たちの政権の延命のための理由づけにされていることは誰しもわかっている。

他の提言でも述べているように、一時的なごまかしのアベノミクス、黒田日銀総裁とのタッグを組んだ金融緩和政策の化けの皮が剥げないうちに多少の議席の減少は覚悟しても過半数以上は今なら確保できそうなため、彼らの国会議員としてのさらなる4年間の期間の延命を図るためだけの解散に過ぎない。

彼ら現国会議員のくだらない意図はどうでもいいのだけれど

ただ、今回の解散のニュースを見ていて私が感じたことは、今まで、数多くの解散があったが今回ほど、私自身もそうなのだが、すべての国民が本当の意味で冷めた解散はないと思う。

私自身そうなのだけど、かなりの国民は立ち止まって冷静に見ている。

立ち止まったらよくわかるのだけれど、国会議員たちだけが騒いでいる。

国会議員たちだけが大騒ぎしている舞台を遠くから主権者である国民があきれて見ている感じだ。

見え透いたおもしろくもない筋書きの舞台を。

しかも、800億円という選挙費用という入場料を支払って。

本当に不思議な感覚である。

主権者である国民は自分たちだけで勝手に馬鹿騒ぎしている国会議員たちを冷めた目で見ている。こんなに主権者である国民と国会議員が乖離した解散劇は今まで見たことはない。

おそらくこの感覚は私だけではないと思う。

本当の意味で我が国の立憲民主国家としての制度も国家財政とともに崩壊していっているのだなと実感する。

現国会議員や現政党がどうなるかではなく、我が国を支えてきた立憲民主主義そのものが音を立てて崩れていくのを私たちは目の当たりにしている。

これも一つの歴史なのだとは思う。

そういった歴史的事実の中で

今、私たちは与野党問わず彼ら現国会議員とこのまま共に行動してゆくのか決断しないといけないと思う。

彼ら現国会議員は、どこまでもいっても国会議員という本来の意味を理解できていない。

国会議員とは主権者たる国民の代表者であり、言い換えれば主権者である国民の基本的人権を守り、国民の幸福追求権を実現する一つの手段に過ぎない。

手段であるべき国会議員が自らを目的化してしまい

自らの国会議員としての地位、政党の維持、拡大を目的として国会の解散権を行使しようとしている。

本来、国会の解散とは、主権者たる国民の幸福の実現のためだけに許されているのです。

治者と被治者の同一性のためだけに許されているのです。

 

2014年11月13日 文責 世界のたま    sign

 

資本主義から社会福祉主義へ

先日、借金大国 日本の終焉を提言させていただいてから、本当に、加速度的に安倍政権、並びに黒田日銀総裁は、日本の終焉への道を突き進んでいます。

日銀による、量的、質的異次元の金融緩和でもなかなか国内消費の冷え込みは変わらないため、国民の大切な年金基金の株式への投資を増大させ表面的な株価の上昇を行っています。

これが消費につながって結果として財政再建につながるわけがありません。

年金基金の株式への投資は海外の投資家も巻き込んで株価の上昇という一時的な現象を巻き起こすことはでき、企業の内部資産の増大、含み資産増大に伴う金融機関の表面的な黒字決算には役立ちますが、あくまでもこれは帳簿上の問題です。

先日、訪問した取引先の地銀の融資担当も、黒字とはいっても株価上昇に伴う含み益の増加によるもので、実際の貸し出しによる利益では赤字であるので喜べないと話されていたのを思い出す。

私は仕事上、いろんな中小企業で働いている人たちと話する機会が多くありますが以前と違って、儲けているのは大企業、親企業だけだといっておられます。一次下請けの方でも最近は仕事が忙しくても経営的にはしんどいと言われておられます。

これだけの財政ファイナンスと言っていい手段を用いての金融緩和を行い、円安誘導も行っても貿易収支は改善せず、国内消費も伸びない。

それでもかと今度は国民の厚生年金に目を付けて(自分たち公務員にはどうなろうと関係のない厚生年金だからできるのですが)

それを株式に投じて株価を上げているのです。

なぜ日本が借金大国になってしまったのかⅠ~Ⅳの提言の中でも述べていますが日本のGDPの2倍以上の国債残高がある中で、財政再建については何もせず、

ただ赤字国債を発行し続け、その受け皿として国民の貯蓄である郵便貯金も使い果たし、市中銀行を隠れみのにして日銀が国債を無制限に買い支え、

ついに最終的に、国民にとって最後の財産である将来的な生活費である年金までリスクの高い債券投資に使ってしまうという愚行を行っているのです。

年金の運用についてはある程度の必要性があるのも事実です。

ただし、この原資は官僚、公務員を除いた多くの厚生年金受給者の掛け金です。

過去にも多くの掛け金が箱ものに使われたり、投資に失敗したりで失われてきました。誰一人そのことで責任取ることもなく、当事者はちゃっかり共済年金を受け取っているのです。

今回のようにあらゆる金融政策を行っても、消費は伸びず、円安の中でも貿易収支は改善しない中で、実体経済が全く好転していない中でする政策ではありません。

本来、年金の運用は実体経済自体による株価上昇の中であくまで手段として運用されなければならず、株価を上げるための手段として用いることは決してあってはならないことです。

私は財政、金融の専門家ではありませんが、これだけは間違っていると言えるのです。

何故なら、道理に合ってないからです。

どんな、分野にもかかわらず、どんな状況に関わらず、必ず言えることがあります。

道理に合わないことは決して成就することはないのです。

今回の年金投資についても大きな国民の代償を伴うでしょう。

おそらく、円安を契機に輸入品価格の上昇、物価の上昇、消費の冷え込み、実体経済の悪化、金利の上昇、消費税増税の躊躇、増税したらしたで消費の落ち込み、国家歳入の減少、国債金利利払いの増大、国債発行が困難になり歳出削減、消費のさらなる冷え込み、実体経済の悪化、株価の急落、年金基金の減少、年金受給額の削減と負の連鎖となってしまうでしょう。

今回の一連の国の対応に関して思うことは、なぜ日本が借金大国になってしまったのか第Ⅱ部で提言したように、第二のボールが投げられたときの状況に似ています。安易な道を選ぶのか、茨の道を選ぶのか、私たちは同じ過ちをしてはいけないと思う。

 

道理はまづは財政政策が先なのです。たとえ、その先にどんな困難が待ち受けていようとも

 

金融政策はあくまでも補完的な手段です。今は手段が目的化してしまい、手段のための手段ばかり行っているのです。

国会議員自体の歳費、無駄な意味のない政党助成金、文書交通費はもとより、無駄な国会議員自体の定数削減、自分たちだけでできる財政削減すらもできない国民の代表者たる国会議員として無能な人たち、与党も野党もありません。

財政政策せずして金融政策頼み。

額の問題ではないのです。

政策を行う国民の代表者としての自覚を問っているのです。個を省みることができないものに全体は見えないものです。

己を捨ててこそ国民の協力が得られるのです。

個の中に全体はあるのだから。

 

私は思うのです。これ以上国家債務を無駄に増やしたり、国民の財産を無駄な政策に使うことをやめるべきです。

 

それではどうするのかと言われると思います。

 

他の提言でも述べていますがはっきりどうすべきか悩むときは原則に戻るべきです。

 

道理に沿って行動すべきです。

 

私たちには、幸いにして国民、企業の貯蓄があります。私は何らかの方法で累積国債との相殺をして、同時に歳出抑制を行い、基本的には小さな政府、地方分権を行うべきです。

 

国会議員、地方議員などの削減、給与減額は大前提ですが、国民自らも年金の減額、医療費、介護自己負担増大、失業含めて多くの苦難があるとは思います。

 

ただ、私は思うのです。

 

今しかないのです。

 

それしかないのです。

 

資本主義を乗り越えた社会福祉主義への道を歩み始めるべき時なのです。

 

注) 社会福祉主義とは私が作った概念で決して大きな政府を意味するのではなく、どちらかというと中福祉中負担に近い考え方で、地域社会、福祉社会(環境含めた)に重点を置いた社会のことです。このことについては改めて提言させていただきます。

2014年11月5日  文責 世界のたま    sign

企業(会社)とは

世の中には数多くの企業があり、そこで数多くの人たちが働いている。また、多くの若い学生が毎年、就職活動のために、多くの企業を訪れていることでしょう。

今回は、皆さんが働いている、または、働こうとされている企業について考えてみたいと思います。

最近のニュースでも派遣労働者に関しての法改正が問題になっています。

派遣労働者についての改正ですが派遣社員について一定の派遣雇用期間が経過しても人が変われば引き続き派遣雇用が継続できるというものです。

賛否両論言われており雇用の機会を増やすことができる反面、派遣の固定化につながり企業サイドに立ったものだとも言われています。

 

私はこれらの議論をみていて思うことは、表面的な派遣社員の在り方がどうであるかと考える前に、現代社会における企業そのものを在り方がどうあるべきなのか、もっと言えば企業とは何なのかを考てみる必要があると思います。

 

企業を取り巻く問題には派遣問題以外でも、食品偽装問題、自動車などの製造業のリコール問題、ブラック企業問題、製薬会社における治験欺罔問題や薬剤副作用問題、電力会社における原子力汚染問題、電力買い取り問題など数多くの問題が生じています。

一つ一つの問題をみると一見それぞれ違った問題に見えますが、根源的な問題は企業の社会的責任だと思う。それはつまり企業の在り方、企業とは何なのかが、今、問われているのだと思う。

 

企業とは何かを考えた時、多くの人の答えは、日々の生活費を稼ぐところ、そして、自分自身のやりたいことを実現するところといったところでしょうか。

確かに現実的にはそういった理由で働かれている方が多いいと思います。

 

企業の成り立ちを考てみると、個人で生産するだけでは限界があり、人が集まり分業して効率的に多くのものを生産する中で物が豊かになり社会が発展し、企業という形が形造られ、それと同時に雇用者と被雇用者という関係、企業が巨大化する中で、経営者と株主という関係が生じたのだと思う。

従って、もともと企業という組織は社会が豊かになる必要な手段として生じてきたものだと思う。

財政の現代史に関する提言の中でも述べているが日本社会においても当初、企業は終身雇用制のもとで国の社会保障制度の一役を担っており、企業で働くことで多くの勤労者、その家族は安心して生活を送り、社会が発展できたのだとは思う。

そうした中で企業も巨大化し、現代社会においては、本来、社会、国民のための手段としての企業が、企業のための企業に、言い換えれば、手段としての企業が目的化してしまっている。

 

資本主義という考え方は確かに社会を物質的に豊かにし、飢餓や、貧困を減少させたという点では手段としては間違っていなかったと思うし、合理的で必要だったとは思う。

その中で企業の果たした役割は大きかったと思う。

 

ただ、今の世界、特に日本社会を考えた時、私は思うのです。

 

主権者諸君へ、世界への提言の中でも述べているのですが果たしてこれ以上の手段としての便利さは社会にとってそんなに必要なのか?

 

手段としての企業の利益のために私たち社会が振り回され、利用されているだけではないのか?

 

私が、世界、日本社会を直視した上で、立ち止まって考えた時、これ以上の便利さが世界の人々の豊かさ、特に心の豊かさ、言い換えれば人間らしさにとって必要かと問われたなら

 

否と答えると思う。

 

1年10ヶ月前くらいだったか滅多に行かないのだが製薬メーカーの勉強会に招かれて話をさせてもらったことがあるが、その時に思ったことは、勉強会の内容ではなく、席の配置だった。

私が一番前の席に製薬メーカーのスタッフに向かって一人で座っていたのだが、一列に私に向かって座っている製薬メーカーのスタッフたちから離れた一番後ろの会議室の入り口のドアのそばに子会社の卸業者のスタッフがたった一人でぽつんと居心地悪そうに座っていたのを今でもはっきりと覚えている。

その当時の私の担当のメーカーのMRは常日頃、卸業者とは二人三脚でお互いに助け合って上下関係はないと言っていたが現実を垣間見た気がした。

おそらくメーカーのMRは認識していないのだろうが、こうした積み重ねが、製薬メーカーの奢りを生じさせているのだと痛切に感じ、皮肉ではないが、その時にその製薬会社が海外で訴訟を起こされている薬剤(日本国内でも製薬会社が、緊急の注意喚起、患者への発がん性についての説明義務を指示していた)に絡めて、エイズ混入血液製剤事件を取り上げたが、一方で、このスタッフたちでは、おそらく被害者患者の痛みは理解できないだろうと痛切に感じたのを今でもはっきり覚えている。

その後、MRと訴訟を起こされている薬剤について話した際、MRが裁判では勝っているという話をしたとき、私が「発がん性があるかもしれないが裁判では勝っているという張り紙をしてあるフレンチ料理を君は食べるの?」と聞いたら黙って何も答えなかった。最近、アメリカで80億程度の上訴審賠償判決が出ていた。陪審員判決から相当、額が減ったから多分その企業は安堵しているのだろう。

ただ、私は思うのだけれど企業の本来の存在理由を考えた時、本当は訴訟の勝ち負けではなく、その額でもない。

訴訟を起こされたこと自体が問題だと思う。たとえアメリカが訴訟好きな国としても。

一歩譲ってそんなに安全性に自信があるのであれば何故、日本国内で緊急の注意喚起、患者へ発がん性の説明義務をするのかが理解できなかった。

特に、製薬メーカーであれば健康被害については謙虚さが必要であると思う。

そしてかかったと思われる多額の訴訟費用、賠償金もその一部は、我々日本国民の医療費としての税金が使われているのということも認識すべきで、その意味でもいくら莫大な利益を上げ、給与が良いとしても、社会的存在価値の低い企業としか言いようがない。

 

医療に関わるものにとって最も大切なものは何かと問われたなら、

 

いかなる理由があろうとも、どこまでも、相手に寄り添う姿勢であり、気持である。

 

世界の財政政策を見ても分かるように、EU、アメリカ、日本ともに行き詰まってきており中央銀行が、国債、債券を買い取る、金融緩和を推し進めざる負えない状態に追い込まれてきている。

 

昨日のニュースでも日銀の黒田総裁は70兆からさらに10兆円の金融緩和の上積みを行い、年80兆円としたが、本当に日本財政、金融政策の限界だと感じた。ただそれを決めた金融政策委員9人のうち反対が4人いたことがほんのわずかであるが救いだった。

 

他の提言で述べようとは思うが、言わば、世界は資本主義経済の限界に差し掛かっていると思われる。

 

現実的にいくら日銀が金融緩和しても大企業のみが利益を上げ内部留保を増やし、中小企業含めた勤労者は賃金は上がらず、完全に経済の流れ、貨幣の流れは行き詰まっている。

日本の基本法たる憲法を振り返ってみたとき、憲法上、資本主義を認めている条文というと29条の財産権の保障、22条の職業選択の自由であるのだが、共に、自由を認める一方、その自由は公共の福祉による制限を受けている。

憲法上、具体的権利の中で公共の福祉による制限を受けている条文は他にはない。

 

私は思うのだが、日本国憲法は資本主義経済の限界を予定しているのだと思う。

 

今回の提言の企業とは何かということで言えば

 

企業とは、社会の心の豊かさを創造する媒体、手段だと思う。

 

多くの方はおそらく理想の考え方で現実的ではないと言われると思う。

 

それは私も含めて資本主義的な考え方で教育を受け、資本主義社会の中で生活してきたからです。その中では現実的ではないとしか思えない。

 

世界への提言、主権者諸君への中でも言っているように、資本主義社会の行き詰まりの中で資本主義を超えた 新たな価値観が必要な時なのです。

 

 

平成26年11月1日  文責 世界のたま   sign

 

第Ⅳ部 借金大国 日本の終焉(最終章)

私は、政治や経済の専門家ではありません。

 

そんな私がホームページを立ち上げ、その中で今回、借金大国、日本についての提言をしようとしたのは、もう私たちにとって時間がないからです。

 

裏返せば、今が最後のチャンスだと思っています。今ならなんとか間に合うと思うからです。

ただし、私たち国民皆が相当の痛みを我慢しなければなりません。

 

現在、政治家を信用している人はほぼいないと思われますが、その一方で、世の中には政治、経済の専門家がおり、大企業の経営者、投資家がいるのだから何か日本経済がひっくり返るようなことがあればニュースにでもなるだろうと思っておられる方が大多数だと思います。

 

ただ、私はある日気づいたのです。こんな借金大国がどう考えてももつわけはないと。

 

しかし、テレビなどの世の中の情報は、二人の馬鹿な大臣なのか犯罪者なのかわからないような人間の辞任などの脳天気な、くだらないレベルのニュースばかりです。

 

気づいている人はいるのですが、多くの国民は本当の意味では知ってはいない。

 

ニュースで取り上げない以上、はっきり言って財政史など今まで個人的にはまったく興味はなかったのですが、これからの国の在り方を考える上で避けて通れず、自分の目で日本の現代の財政史を振り返って過去の事象を客観的に分析して自分なりの結論を出すことにしたのです。

 

政治家、官僚含めた他人の分析はこういう場合あてにはならないし、あてにしてはいけないのです。

 

当然ながら安倍首相、黒田日銀総裁、多くの上級と呼ばれている官僚は知っています。

日本国財政が現実的に、破綻していることを。

 

10月20日だったか安倍首相が世論調査で消費税増税反対が70~80%だったことに関して、上げないリスクを考慮して検討するような発言の記事が出ていたがリスクという表現を皆さんはどう感じたかもしれないが、私は日本が本当に危ないのだなと直感しました。

 

今の日本の政治、財政状況はいろんな意味で第Ⅱ部の中で取り上げましたが第二次世界大戦末期の社会情勢に似ていると思っています。

 

一見、自由があって全く違うよと笑われる方が多いと思いますが私には本質的な部分が似ていると思えてならない。皆さん、実際に自由があることと、自由があるように見えていることとは全く違うことなのです。

 

実際、累積の国債残高はGDPの二倍を超えてきているのに、それでも財政的に何も問題がないかのような社会の雰囲気

 

そして、アベノミクスや日銀による異次元緩和金融政策などの多少の延命効果しかない財政、金融政策をさも根本的な解決につながるかのように、錯覚させられている私たち国民は、ちょうど大本営発表に騙され続けた当時の国民と重なっている。

 

折しも、他の提言でも反対し、現在広島地裁民事部にその執行停止を訴えている特定秘密保護法案が12月に施行されようとしています。

 

これはおそらく、日本のこれからの財政破たん後のことも見据えていると思われます。

現実的に破綻が生じれば軟着陸を試みるとは思いますが、かなり日本経済、国民生活が混乱することが予想され、国民への情報管理を徹底したいことの付箋だと思っています。

 

それではなぜ破綻しているのか見てゆきましょう。

 

1999年 セロ金利政策(景気回復のため)

2001年 QE(量的金融緩和)の開始(日銀の当座預金残高を政策目標に置く)

日銀当座預金残高は5兆円から35兆円まで段階的に引き上げられ、日銀保有長期国債残高も50兆から100兆に積みあがってゆくことになる。

しかし、ゼロ金利政策、QEによるマネタリーベースの拡大もデフレ脱却に至らなかった。

2006年 CPI(消費者物価指数)が前年比0%以上の安定期に入ったとしてQE解除、無担保コールレートの引き上げ

2008年 日銀保有長期国債残高100兆円から63兆円へ減少

リーマンショック

日銀は無担保コートレートを0.5%から0.3%に引き下げる。

補完当座預金制度(日銀当座預金の所要準備金を超える部分につき0.1%の利息を付ける。)

2009年 長期国債買入れ額を年額21.6兆円ベースに引き上げると同時にオペレーション対象となる国債の種類を拡げたり、金融商品を日銀が直接購入する政策も行う。

2010年 包括的金融緩和政策の導入

1.無担保コールレートの引き下げで0~0.001%へ誘導

2.物価安定までのゼロ金利政策の持続(時間軸効果)

3.APP(資産買入れ等の基金)を日銀のバランスシート上に創設

国債などの金融資産買入れのための基金だが上限枠が徐々に引き上げられ101兆円まで増枠されたり、日本銀行券発行ルール(日銀の長期国債保有を銀行券発行残高量までとする内規)が適用されない問題点があった。

 

結果として日銀の国債保有額は増大し、リーマンショックにより金融機関がリスク債券からの逃避資金を長期国債に流れ込ませたこともあって長期金利は低下する。

 

2012年 第二次安倍内閣発足(自民党の政権への返り咲き)

1ドル77円

2013年4月4日 黒田日銀総裁が量的、質的金融緩和政策の導入の発表

マネタリーベース(市中通貨量)135兆円になる  年60~70兆円の拡大計画

5月 1ドル103円

2014年3月 マネタリーベース209兆円になる

 

2013年に導入された量的、質的金融緩和政策とそれまでの量的金融緩和政策との違いを見てみましょう。

1.それまでの金融政策の特徴

1.市場に金利政策という規律を失わせないように模索していた。

APPに関しても当初は長期国債の買入れは極力避けていた。

補完当座預金制度についても金利のつかない超過準備が多額に積み増されると、その資金がオーバーナイト市場に大量に流出する可能性があり結果としてオーバーナイト金利が政策金利を下回り名目金利0という短期金融市場の崩壊に直結する可能性があり、補完当座預金制度で超過準備に0.1%の金利を付けることでオーバーナイト金利が0.1%を下回ると、その資金が金利裁定行動により日銀当座預金に還流することを利用してオーバーナイト金利を0.1%以上に保とうとした。

2.金融システム安定のための政策

日銀が民間金融機関の保有資産を買い取る制度によって金融システムが銀行破綻から機能不全に陥ることがないように意図したものであった。

 

2013年以前の金融政策は単に金融緩和を狙ったものではなくいかに限られた政策を有効に保ちながら市場に対して金利という規律の維持、金融システム不安を顕在化させることなく許容可能な緩和目標を達成するかの試行錯誤の過程だった。

換言すれば、ゼロ金利政策とQEによる顕著な効果が上がらない中で日銀の複合的な政策目標は財政ファイナンス(国債の貨幣化)に陥ることなく、金融システムの安定性と秩序を保つことにあった。

そのためには国債金利を低めつつ、流動性を供給することで金融機関の経営の健全性を確保する必要性があり、これが積極的に金融緩和を推し進める一つの要因となっていた。

 

2.2013年以降、安倍政権の下で行われている量的・質的金融緩和のもつ危険性

 

1)2013年4月4日導入された量的・質的金融緩和の概要

1.消費者物価の前年度比上昇率2%を2年程度で実現する。

 

2.マネタリー・ベース(市中通貨+日銀当座預金通貨)を年間60~70兆円ベースで増加させる。(実際H25/3には135兆円だったマネタリーベースがH26/3には209兆円で74兆円増加しています。ただしこの間、日銀当座預金通貨が47兆円から118兆円と71兆円増加しており、市中へはほとんど流れていない。)

3.買入れ対象国債を全期間の国債として買入れの平均残存期間を3年弱から国債発行残高の平均並みの7年程度に延長する。

4.APPが行ってきた金融資産買入を年間1兆円ベースに増額する。

 

2)それまでの金融政策とは異なった危険性とは

1.日銀券発行ルール停止による長期国債大量購入

単なる内規に過ぎなかったが、日銀にとっては金融政策の規律を求めるもので、それによって日銀はQE、APPの創設を経ても長期国債の引き受けに関しても節度ある姿勢を示すことができたが、

このルールの停止を受け、日銀は無制限かつ無秩序な金融緩和を行うことが可能となり、限度なき日銀の国債の買い支えを可能とし日銀が国債の消化基金に陥る危険性をはらんでいる。

2.国債、財投債の引き受け構造の変化(日銀が唯一の国債の引き受け手への転換)

2006年までは郵便貯金が126.5兆円の国債、財投債を吸収していたが2007~2012年間での増加額は1兆円まで激減した。

これは郵貯が財政投融資預託金の引き出し額のほぼ全額を国債・財投債転換し終えたことが原因だった。(要はもう買えなくなってしまったということ)

したがって郵貯に代わって次に、買い支えたのが国内銀行だった。

2011年までに国内銀行は政府発行の国債、財投債の増加分の60%を引き受けている。

この原因は金融危機が顕在化するなかでリスクの低い安全資産である国債に投資先をシフトさせたことが誘因であった。

日銀の低金利政策、国債購入は預金という負債を貸し出しに用いることができない国内銀行を国債投資に集中、促進させ、かつ金融危機下の民間金融機関に対して安全資産を提供するという意味があった。

一方、日銀から見れば低金利を維持しながら日銀以外の金融機関に国債を安定的に保有させる補完的な役割を担っていた。

財政融資資金預託金の縮小を日本政府が国債、財投債の発行によって賄い、それを民間金融機関が買い支える移行過程を円滑にしていた。

そして結果として日本政府は国債の低利で安定的な発行、借り換えを行うことができていた。

しかし、日銀による2012年末以降の多額の買いオペレーションは、仮に民間金融機関が国債を貨幣化した資金を貸し出しなどで転用できない状態が顕在化し再び国債を購入するスパイラルに陥ると国債の市中消化は形式的なものにとどまり、結果として財政ファイナンスに陥る危険性が高い。

3.インフレターゲットの持つ危険性

量的・質的金融緩和政策導入以前、日銀は明確な物価指数目標を明らかにしてこなかったが2013年初めて対前年比2%以上の物価上昇という目標をあげた。

このことの持つ意味は一つには物価上昇が顕著になるまで日銀が国債を買い支えることを公言したことになってしまい、増税、国債発行の漸減などの財政規律是正の障害になってしまう危険性をはらんでいる。

仮に2%の物価上昇率が達成されるのであれば、長期国債金利も上昇している可能性が高く、累積し、長期化した国債の借り換え、償還に政府財政が耐えれなければ、日銀による財政ファイナンスが拡大してゆくことになる危険性が高い。

 

まとめ)

最後に、私たちが今、しないといけないこと、今しかできないことをお話しして最終章の最後とさせていただきます。

 

日本財政の現代史を振り返ることで、私自身多くのことを学ばさせていただきました。

 

戦後、間もなく焼け野原の日本社会再生のため、ヨーロッパの国々とは違って税金を少なくして、個人でいえば貯蓄、企業でいえば内部留保を増やした。

 

それが可能だったのは高度成長に伴う豊かな財源、まだ残っていた子が自宅で親の世話をする家族制度、企業の終身雇用、まだ少なかった高齢者数であった。

 

高度成長が終わり、増える社会保障費の中、小さな政府を想定した税制度の下では不可能であった財政を支えたのが、国債の発行と、個人、企業の貯蓄を利用した財政投融資だった。

 

国債を発行して財政の穴埋めをする中で自己保身のみの族議員が出現し、公共事業を増やし国民の支持を得るために減税も続ける悪循環の中で財政規律は失われ1975年赤字国債発行となる。

 

第Ⅰのボールであったが国民は財政規律より減税を選びさらに悪化、赤字国債を財政投融資が支える構図が出来上がる。

 

バブルがはじけ日米構造協議などの外圧の中、莫大の不良債権処理もしないで減税、赤字国債頼みの公共事業は膨らんでいった。

 

赤字国債の発行を減らすため本来ならきちんと国は、増税、歳出抑制など財政政策をしなければならなかったが、それはせずに、地方の地方債発行を促すべく巧妙な手段を講じて国の借金を地方に肩代わりさせるというこれでも国家なのかというあくどいこともなされ、国家としての終末期を迎える。

 

1990年台、こうして第Ⅱのボールも打ち返されることはなかった。

 

その後、政権交代しても、政治家、官僚、国民自身が変わることもないまま時間だけは過ぎ去り、残ったのは莫大な借金であった。

 

本来なら財政政策で打開しないといけないところ、結局、政治家、政党の議席を守るため都合の良い、国民受けの悪い、増税や社会保障費削減などの財政政策は避けられてしまい今日に至ってしまっているのです。

 

財政政策が機能しない中、日銀を中心とする金融政策のみが先行して打開しようとしてもこれは本末転倒で、結局無理が来てしまうことはわかっている。

 

現実的に2013年以降の金融政策は私が思うに、政策とは名ばかりで制度的に日銀の国債買い入れの上限枠や種類を撤廃し、その上、国債の償還年数を伸ばしたり、時間軸の面で長期に買入れができるようにしたり、単に日銀が赤字国債の最終的な消化基金になってしまっただけのことである。ただ言えることは適切な財政政策を行わない現状ではこうなることも時間の問題であったことも事実である。

 

安倍政権がいわば首を吊っている人の踏み台を外してくれただけのことだと思う。

 

財政と金融の分離にも関わってくるが、本来なら独立した金融政策で財政の規律が図られるところであるが、現状はこれも現在の金融政策の目的なのであろうが、これだけ日銀が国債を買い入れてもマネタリーベースは増えても日銀当座預金通貨が増えるだけでマネーストックは増えていない。補完通貨制度で日銀当座預金の過剰部分に金利がついているからであろうがそのせいでインフレ、金利上昇を防げている反面、金利上昇に伴う、本来ならば機能すべき財政面での歳出抑制、国債発行抑制が機能していない。

 

こうして赤字国債の増大、日銀での買入れが常態化している。

 

私はこの異常な状態が長く続いていけるわけがないと思います。

 

実際問題、郵貯、民間銀行含めて基本的に国債を買い支えることはできなくなってきており、何とか日銀が買い支え、幸いと言っていいか意図的と言っていいか私には判断がつかないが、微妙に、今のところ日銀当座預金通貨が増えるのみで市中流通通貨量は増えていない状態である。

 

そのためインフレもそれほど生じなければインフレターゲットからすれば際限なく政府は国債を発行し続け、日銀が引き受け続けることが可能である。

 

ただし、その額が大きくなればなるほど円安による輸入価格の上昇など何らかのきっかけで金利上昇などが生じてしまえば、政府、日銀からの圧力などがなければ、日銀当座預金からの市中への通貨量もなし崩し的に一挙に増大して国債金利も上昇し、発行、償還ともに困難な状況になり財政、金融政策とも手だてがなくなってしまうであろう。

 

最終的にはどのみち財政健全化しか方法はないのです。金融政策でごり押ししている状況ですが行き詰りはもうそこまで来ています。

 

結局、現在、金融政策の中で国債の償還も伸ばす作戦をしていますが金利等考えると将来の国民の負担を増大させているだけですべて麻薬と同じ一時しのぎです。

 

麻薬中毒になった国民は立ち上がるのにさらに多くの時間を要してしまうでしょう。

 

経済用語は難しく、財政、金融政策は、巧妙な手口でされているので本当にわかりにくいのです。

 

ただ、はっきりしているのは、最終的に増え続ける国債のつけは国民の預貯金で処理するしかないのです。

 

いわば国債が紙切れになると同時に私も含めた、国民の預貯金がなくなるだけの話です。

 

政府、日銀がこれほどまでにのんびり適当にできているのも幸いにして日本国債の95%程度は国内で持っているいわば国民の預貯金で担保されているからです。

 

よく政府が国民一人あたりの借金が何百万円ありますなどと言っていますが、その通りで最終的には金融封鎖でもして強制的に差し押さえてしまうでしょう。銀行などでの預貯金を1000万円までしか保障しないのもその例の一つです。

 

今、日本政府が一番恐れているのは海外へ国民の預貯金が流出することではないかと私は思います。

 

国内で金融封鎖しても海外へ流れた資産に関しては日本国債との相殺ができないからです。逆に言えば、すでに多くの官僚、企業のトップなどの資産家は海外へ資産を移していると思います。

 

私が第二次世界大戦末期の政治状況に似てるというのもそういう点で、最終的に国家のしりぬぐいをしてお国のためと騙されて死んでゆくのは何も知らされず黙々と国家の方策に従って貯蓄をして慎ましい生活をしている庶民である。

 

今の日本の借金をどうしていけばいいか、このまま黙って破綻が来る時を待つのか

今こそ、国民一人一人、企業で働く一人一人、企業そのもの、すべての人たちが、自分たちが今ある存在理由、何のために生きているのか、誰のために生きるのか

 

もう一度立ち止まって考えてませんか

 

私は思います。

 

私たちが今しないといけないことは

 

私たち一人一人が、身を削って財政再建をしなければならないのです。

 

日本、世界、そして私たち自身のために

 

個の中に全体があると信じて。

 

最後になりましたが、日本財政の現代史を執筆された諸先生方の考え方に共鳴し、多くのことを教えていただき、提言にも取り上げさせていただきました。諸先生方のような方がおられることにほっとすると同時に今後のご活躍をお祈り申し上げてお礼の言葉とさせていただきます。

 

平成26年10月28日  文責 世界のたま            sign

 

 

 

 

 

 

 

 

第Ⅲ部 なぜ日本が借金大国になってしまったのか

第Ⅱ部でも言っているように、あくまでも私見であるが、日本の現代史の中で1975年、1990年に二つのボールが投げられた。

私たちはそれを見逃してしまった。というより多くの人はボールが投げられたことすら気付かなかった。

人の人生でもそうだけれど、いつの時代も人はそれぞれその人なりに一生懸命生きているのだとは思う。

ボールが投げられたことに気付くかどうかは私がこのホームページを立ち上げた理由、主権者諸君へ、世界への提言の中で訴えている個の中に全体を見ることができる生き方をしているのか、

言い換えれば自分以外の他者のことをどこまで考えて生きているのか、ただそれだけのことだと思う。

 

2000年代に入り、小泉自民党政権、民主党政権を経て、今日の安倍自民党政権に至っているが2001年以降の財政政策の在り方のポイントとしては市場主義的な経済政策の是非と、増税を伴うか、伴わないかが焦点となっている。

 

2001年 省庁再編により1府22省庁から1府12省庁となる

小泉政権の発足 内閣支持率80%越え

構造改革による金融正常化

 

小泉政権の強さの要因として竹中氏は選挙制度、政治資金制度改革により下記の要因を挙げている。

  1. 中選挙区から小選挙区、比例代表並立制により主要な政党による政策論争が生じた。(マニフェスト選挙)大選挙区だと同じ党から複数の立候補者が出て政策論争より個人レベルのどぶ板選挙になりやすい。
  2. 首相の地位を維持、獲得する条件として世論の支持が重要になった。大選挙区だと同じ党から複数の立候補者が出て党内で派閥形成しやすくその派閥領袖からの支持の方が大きかった。
  3. 首相の権力が強化された。大選挙区だと派閥領袖が院政的に首相を制約できた。(具体的には候補者の最終的決定権など)
  4. 行政改革で大蔵省の権限のコントロール
  5. 政治過程における参議院議員の地位が大きくなった。それまでは衆議院議員が中心であった。

 

上記のように一見、強さがあり議会の中では小選挙区制度の結果として二大政党に議席が集まったが

実態としては、両党とも社会からの支持を集める中間団体(組合、農協、医師会など)の組織力の弱体化により、候補者依存型の小さな支持基盤の二大政党制であった。

そのため議席を獲得するために特定の支持政党を持たない普通の有権者に対してマニフェストを売り込む選挙至上主義政党が登場した

結果として大連立はもとより、政党間交渉も難航して、政策決定も不可能となり、政策課題は先送りされやすくなった。

 

総合的に判断して一見、支持率も高く強い政権には思えたが、

今、冷静に振り返ってみると、決して強かったわけではなく、小泉氏自身の表面的なパーフォーマンスの良さと上記でも述べた単純化したマニフェストを掲げた選挙至上主義政治、

そして1990年代の閉塞した時代背景の中で自民党をぶっ潰すという言葉に多くの国民がすがっただけなのだろうと思う。

 

構造改革による金融正常化はあったがそれ以外の成果は見当たらず、逆に多くの問題を残してしまった。

  1. 増税に関しては回避した。
  2. 骨太の方針2001で掲げた国債30兆枠も、守れず国債残高も増え続けた。
  3. 歳出削減はあったが内容的には不況に伴う国債金利の低下による恩恵や地方交付税の削減などで根本的な財政政策によるものではない。
  4. 外国為替資金特別会計における多量のドルの積み上げ(評価損リスクを持った埋蔵債務)

2008年 リーマンショック

2009年 民主党による政権交代

2010年 税収依存度50%を切ってしまう。

税収依存度とは予算を税収で何割賄えているかを示す指数であるが、バブル期だったが1989年では90%、リーマンショック時でも60パーセント以上あった。

 

政調会、事務次官会議の廃止、国家戦略室の設置、事業仕分け、子ども手当、

コンクリートから人へ

2011年 東日本大震災

小泉政権と同様に、今、冷静に政権交代が何だったのか振り返ったとき、政権末期においては自民党との差はなくなり、ほとんどの政策の主だったものは、2012年の自民党政権復帰の中で何事もなかったかのようにかつての自民党政権下での政治体制に戻ってしまった。

累積の国債残高は増え続け、無駄な時間だけが過ぎてしまった感がある。

その理由として、私は大きく二つあるのではないかと思う。

一つは民主党が上記でも述べた寄せ集めの政党であったこと。

そしてもう一つは、強い政権の意志がなかったからだと思う。

リーマンショックや東日本大震災などがあり、政権運営は困難を極めたことは事実であったが、本質的には政権を取るための政権だったとしか思えない。

政権という手段を目的化してしまった典型例だったと思う。

ただ、一つ良かったことは政権交代や、二大政党制など政治体制が変わったところで、国会議員、国民自体が変わらなければ何も変わらないということを彼らは教えてくれた。

 

この時代を振り返って2009年の政権交代が一見、1975年、1990年に続いて3つ目のボールが投げられたように見えるが、

ただ単に、何の考えもなく勝手に無茶振りしただけのことだったと思う。

その無茶振りしたのは、自民党でも民主党でもなく

ただ単に政権が変われば何かが変わると思った私たち愚かな国民であることを、

政権、政党という手段をいくら変えたところで目的がなければ何の意味もないことを、

そして、一人一人が価値観を変えるしかないことを、

私たちは認識しなければならない。

 

第Ⅳ部に続く  最終章 (借金大国 日本の終焉)

 

2014年10月19日  文責  世界のたま        sign

第Ⅱ部 なぜ日本が借金大国になってしまったのか

日本の戦後の歩みを見てゆく中で、いくつかのターニングポイントがある。

私自身もそうだけれど誰にでもその人の人生の中でいくつかのボールが人生から投げられる。

そのボールを打つのか、見逃すのか、それは人それぞれであり、打ってうまくいくこともあれば見逃した方が良かったと振り返ったとき思うこともあるであろう。

大切なことはたとえ一回選択を失敗したとしても、それを悔やむことではなくて次の選択を誤らないことだと思う。

そのためには過去をしっかり見つめて客観的な分析をすることだ。

人間というものは最初、主観的な判断で行動をとることが多いし、それが人間だと思うから。

これはあくまでも私見であるが日本の現代史の中で1975年に一つ目のボールが投げられたのだと思う。第Ⅱ部では二つ目のボールが投げられることになる。

そして最後に一つだけ言えることは、人生が投げかけるボールはそんなに多くはない。

 

1985年~ 高度成長期は終焉したがバブル景気の持続 (5%前後の成長率)

1989年  赤字国債発行ゼロの実現(建設国債は発行)

日米構造協議(1990年から10年間で430兆円の公共投資の国際公約)

日本銀行による金融引き締め(バブルつぶしのため連続的な公定歩合引き上げ)

1990年  大蔵省による総量規制(土地関連融資の抑制)通達

株価の暴落、地価下落、銀行の不良債権の増加

1991年 日本銀行による公定歩合の引き下げ、

金融機関による貸し渋り、貸し剥がし

金融収縮による実体経済の悪化という下方スパイラル(バブル崩壊の始まり)

 

バブル崩壊直後の宮沢喜一首相は、1990年以降の景気後退は、それまでの景気後退(実体経済における需給調整)と異なって資産価格の大幅な下落による金融収縮こそが根本原因でありそれが実体経済に悪影響を及ぼしていると正しく認識して公的資金を注入してでも不良債権を根本的に処理しなければ景気回復はないと発言したが、それを本気で実行すれば銀行国有化や破綻処理も辞さないことになり、金融界からの大反対でその行動は封じ込められる。

 

この問題の根本問題は回避されたまま、公共事業を中心とした緊急経済対策と減税政策(従来通りの対症療法)が繰り返されたが下支えにはなっても景気浮揚することはなく、巨額の公債残高となってしまった。今、現在では公的債務残高がついに第二次世界大戦末期に比肩する対GDP比200%超の水準にまで達しているが、その起源となったのが1990年代の財政政策だった。

 

細川・村山政権による地方分権改革

小選挙区制の導入  1.二大政党制への道

2.マニフェストに基づく政党間の論戦

3.党首による党内コントロール強化の実現

橋本政権による六大改革(経済財政諮問会議の設置など)

 

首相主導型の政治行政システムは財政健全化と予算組み替えに向けて財務省が持っている限界を乗り越える潜在的可能性を持っていたが実際にそれが発揮されたのは2000年以降の小泉政権になってからだ。そこでわかることは新しい政治経済システムを作っただけでは何も変化を生じない、それに生命力を吹き込むのは、政権の意志である。

 

経済のグローバル化、金融自由化、高齢化社会、低成長時代

 

日米構造協議(国際公約)に基づく多額の公共事業投資の必要性と、国家財政の再建の狭間の中で考えられたのが、

本当にずる賢いと思われるが国の資金を使わないで、地方自治体に負担させるというものだった。

地方交付税を用いた政策誘導として地方単独事業として推進させたり、民間活力を用いて自治体との第三セクターの設立によって本来、国が行うべき公共事業を地方や民間に押し付けた。

細かなことは省くが本当に巧みに自治体を誘導して多額の地方債を発行させた。

1989年には66兆円だった地方債残高は1999年には174兆円にも上り10年間で3倍にもなった。そして2000年に入って地方の危機を迎えることになる。

そして2010年時点で195兆円、対GDP比で40%にもなっている。

こうなる原因は何かというと、地方に歳入の自治がないことだ。

どうしても国の意向に左右され結果的には、責任、負債だけ地方にとらされることとなる。もちろん地方にも責任がないわけではないが。

 

1994年 日米構造協議に基づく公共投資基本計画が10年間で630兆円規模に拡大される

赤字国債の発行の再開

1995年 1ドル70円台を記録

財政危機宣言

1997年 消費税増税 (財政構造改革元年としたが不良債権処理は先送りのままだった)

アジア危機

国内通貨危機の再燃 北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業、三洋証券の破綻

1998年 財政構造改革法の停止

大蔵省資金運用部はこの年だけで16兆円近くの国債を引き受ける。原資機関自体の国債保有も増大

1999年 デフレ傾向 セロ金利政策

2001年 量的緩和政策(非伝統的な金融政策)の開始へとつながってゆく。

 

1980年代から2000年までの日本の歩みを見たとき、第Ⅰ部でも述べたように、小さな政府として作られた税制度を変えることなく増え続ける社会保障費、一方、高度成長の終焉に伴う収入の減少

その穴埋めとしての赤字国債を財政投融資が受け皿となっていった。

税金が増えるわけでもなく、社会保障が削られるでもなく、不良債権処理もしないままで、国民からは見えにくい形での処理が行われた。

政治家も、官僚も、そして国民自身も自己保身のため、結局先延ばしにしてしまった。

いざ財政構造改革を行おうとしたときに、バブルがはじけ、アメリカからは貿易収支改善のため、多額の国内向けの公共事業を押し付けられた。

それでも、景気は浮上せず、馬鹿の一つ覚えのように減税と公共事業を敢行して莫大の赤字国債を発行し、公的債務残高を急速に増やしてしまった。

この時代に何ができたのかと考えてみたとき、確かに不良債権処理をすべきだったのだけれど、はたして多額の公的資金の投入など世論が許したのかと問われたら、結局難しかったとも思う。

アメリカからの外圧に屈しないで行けたのかということも現実問題としては難しかったとも思う。

ただ一つだけ言えることは1990年に1975年に続いて二つ目の大きなボールが投げられ、私たちは、それを見逃したのだ。

 

第Ⅲ部へ続く

2014年10月16日    文責  世界のたま   sign

 

第Ⅰ部 なぜ日本が借金大国になってしまったのか

他の提言でも述べていますが、皆さんもご存じのように1000兆円を超える借金大国になってしまっています。

では何故日本がそうなってしまったのか。日本財政の現代史Ⅰで、その歴史をたどってみましょう。

日本が敗戦国になった当初のドッジラインによる均衡財政は、1960年所得倍増計画を発表した池田隼人内閣に引き継がれる。

四大工業地帯を結びつけるベルト地帯の整備のための公共事業で雇用を産み地方から余った労働力が流れ込んだ。その後は地方への公共事業を増やし地方で働く人の雇用も創出した。

国民皆保険、皆年金を実現したのも池田内閣ですが、赤字国債発行禁止の中で基本的には小さな政府(国の支出をできるだけ少なくして民間に任せることは民間に任せる)を目指しており、

それを可能にしたのが1970年代まで盛んに行われた減税と貯蓄奨励のための優遇処置による国民の貯蓄を増やす政策だった。

この時代、赤字国債を発行しない小さな政府を実現できた理由は下記の3つが考えられる。

  1. 減税、貯蓄奨励のための優遇処置による莫大の貯蓄

その貯蓄先である一般金融機関からの企業への融資、郵貯を原資とする財政投融資が高度成長を支え、国民の所得を増やし、それが貯蓄を増やすという好循環。赤字国債を発行するより財政投融資を優先。

財政投融資というのは民間では対応困難な事業を補完するために、郵便貯金、簡易生命保険資金、年金資金を財源として政府系機関や地方自治体を通じて行う投融資活動である。それが制度的に定着したのは戦後であった。その頃の財政投融資は社会資本整備の手段として用いられた。

2.企業による終身雇用、医療、年金保険制度の確立

3.家族環境 女性は働く夫を家庭で支え、専属主婦の年金制度、老後は家族が家庭内で介護し、在宅で看取る。

その後の時代の流れ(私がポイントと思う事柄を年代別に簡単にまとめてみました。)

1965年 国債発行(税収が財政規模の歯止めになっていたが公債発行することで歯止めがなくなるため、発行の原則が作成される。1.公債は公共事業に限定し、経常的な歳出は租税、普通歳入でまかなう。2.公債は市中消化とする。(日本銀行が引き受けない))

 

国債発行によってそれまでは大蔵省が収入を通じて財政規律を行っていたがそれが困難になってしまい族議員を生じさせ、それに対して大蔵省はシーリングによる予算総額の統制を行ってゆくこととなる。

要するに国債発行するまでは税収入がわからなければ支出も決めれなかったため税収入を把握できる大蔵省中心で財政が行われていたが、

国債を発行することで収入がはっきりしなくても極端には収入がなくても支出が可能になり、国会議員の財政への関与が大きくなり結果として族議員が生まれたのだ。

 

1970年 公債依存度4.2%

1971年 ニクソンショック(ドルの金の兌換停止) 円の切り上げ

1973年 オイルショック 地方で革新知事誕生 老人医療費無料化

財政投融資計画が国会の議決対象となる。

1974年 一般会計で社会保障費が公共事業費を超える。日本列島改造論での狂乱物価

大蔵省資金運用部で財政投融資(外)資金による国債引き受け開始

1975年 特例公債(赤字国債)の発行 公債依存度26.3%

1979年 公債依存度 39.6%

この時代、国債発行が始まり急速に増大する中、族議員が生じたが族議員のもたらした問題として

1.政治家と官僚の力の逆転  特に官僚出身の政治家の力が増した。

2.シーリングによる規制で大蔵省は予算の増大を抑えようとしたが族議員の             圧力の中で平等的な対応を要求され予算の硬直化を生じた。

3.族議員による予算の分捕りのため、一部の国民の利益のための予算支出が行われ、普遍的で個別的なサービスには極力、支出が抑えられ、国民の自己負担が増えたりする結果となる。

4.公共事業費の増大が族議員の力を強めそれが公共事業費用を増大させる負の連鎖が始まった。

1978年 大平内閣 大型一般消費税導入を訴えるが党内外、世論の反対もあり断念

1980年 増税なき財政再建

1982年 鈴木内閣 財政非常事態宣言を行う。

1989年 一般消費税の施行

 

財政投融資は当初、社会資本整備のため利用されて、それが日本の経済成長に寄与して社会が発展できたことは事実でそこまでは手段として悪くはなかったと私は思う。

だが、1970年代半ばからの社会保障費増大に伴う多量の赤字国債の発行、その赤字国債の引き受け先となっていった。

健全財政を考えた時、貯蓄が財政投融資を通じて国債に投資されるか、税として取られ健全財政に資するか、どちらを選択すべきだったのか答えははっきりしている。現にヨーロッパは、日本とは違って、税による社会保障の整備を行っていった。

健全な財政、赤字のない財政を実現したかったのであれば、社会資本整備から対人社会サービスへ財政ニーズが変わってゆくのに合わせて国民貯蓄から租税へ財源をシフトさせてゆくことが不可欠であった。

それができなかったのは他の提言でも述べているが、政治家で言えば次回選挙での当選、官僚で言えば天下りの確保など、それぞれの全体を見ない個に対する保身、欲望。企業で言えば自らの利益のみを追求し、本来の企業の最終目的である国家、国民の利益を考えられなかった。

そして最終的には国民自らが、それまでの減税含めた優遇処置に対する欲から抜け出せず、自らの利益のみに執着してしまったからに他ならない。

私たちはこれから何をしなければならないのか。答えははっきりしている。

第Ⅱ部へ続く

2014年10月14日    文責  世界のたま   sign

 

製薬会社とオレオレ詐欺(10/7改訂)

先週末と言っても2日前のことであるが、私は滅多に製薬会社主催の講演会などには行かないのだが、講演内容が臨床試験の見方、考え方という面白そうな内容だったので何年かぶりに出かけてみた。

他の提言でも書いているが企業責任、特に国民の生命、健康にかかわる製薬会社の公的責任は年々大きくなっているはずなのに他の業種の企業に比べてモラルの低下が甚だしいと思われる。

ただ一方で製薬会社だけの責任かというと製薬会社と癒着しているとしか思えないような医療行政、民間報道機関の在り方にも問題があると思われる。

そして最終的には医療従事者自身、医師の責任も大きいと思う。

そんな中でいかにして副作用などから国民の健康を守り、医療費の抑制につなげてゆくのかという点で今回の講演は非常に参考になった。

ただ、あくまでも製薬メーカー主催の講演会であり、ある意味では主催メーカーにとって有利な講演内容になることは否めないがそれも考慮して差し引いたうえでの提言をしてみたい。

講演内容としては報道でも盛んに取り上げられた降圧剤ノバルテイスのデイオバン、武田薬品のブロプレス2剤がいかに臨床試験データを改ざんしたり、解析をごまかして医療機関にプロモーションして売り上げを伸ばしたか、

そのやり口と、医師はどのようにすれば製薬会社に騙されずにすむのか、裏返せば医師の責任と、今後の臨床試験の在り方であった。

両剤に関しては意図的なデータの改ざんや後付け解析が行われ、組織的な販売合戦を繰り広げ莫大な利益を上げ、一部の臨床データーがおかしいのではないかという意見は数年間放置されその間も利益を上げ続けた。

両社とも役員の減給など含めていわゆる社会的責任を取った形になってはいるが講演を聞いていて二つのことを思った。

一つは今回の事件は最近まで騒がれていた食品の産地偽装などと構造的に同じことをしているわけであるが

何故かそこまで悪いことをしているように社会的にも医療業界全般としてもそしてMR含めた当事者企業が思っていないことである。

では何故そうなんでしょう。

一つにはそもそもその薬剤の持つ臓器保護作用やアムロジピンなど他剤との比較は実際の医療現場ではなかなか評価しにくく製薬会社のいわば言ったもん勝ちということがある。

蓋し、その評価には時間がかかったり、個人差が大きいからである。そういった意味で臨床医がその嘘を実際の臨床の場で見抜くことが難しいことであるからだと思う。

そういう点を逆に言えば製薬会社は逆手にとってなんだってありと安易に考えているところがある。

他方、法律的観点から言えばこういったケースは刑法上でいえば詐欺罪を構成するとも思われる。

詐欺罪の成立のためには1)欺罔行為2)欺罔行為による相手側の錯誤3)財物の交付、財産上の不法の利益が必要となる。

実際に当てはめてみると製薬会社のMRによる最終的な欺罔行為、医師の錯誤、錯誤に基づく患者への医師の処方という流れになるのだが

ここで問題なのが3)であると思われる。

私見から言えば薬剤が持っているとされた臓器保護作用や、他剤より効果が優れるというMRの言うことをうのみにして錯誤に陥って処方がされ結果的に製薬会社は莫大の不当な利益が得られたとして詐欺罪を構成すると思うが、

立証するうえで、実際の処方がどこまで錯誤に陥った処方だったかが証明が難しい点、

製薬会社が利益を得ているが医師も処方料や納入価よりおそらく高いであろう薬価に基づく診療報酬を得ていることで実際に処方した医師が利益を得ることはあっても金銭としては損害を受けていないことで公に問題になることがないのであろう。

実際には薬価の安いアムロジピンの代わりに薬価の高いデイオバンやブロプレスが処方されることによって税金である無駄な診療報酬が支払われ、

欺罔された部分では効果がない薬を患者さんは飲まされるという点で、

製薬会社から国民は大きな被害を受けているのであるが、産地偽装に比べて制度的に非常にわかりにくいだけなのです。

二つ目に思ったのがこの製薬会社による欺罔行為は非常にオレオレ詐欺と構造的に似ていることです。

製薬会社のトップがオレオレ組織の金主、それぞれの支店長が番頭、MRがプレーヤー、ダシ子、ウケ子になるのかと思う。

何が言いたいかと言えば組織的な犯罪行為と言っていいのではないかということです。

それとオレオレ詐欺集団もそうなのだけど金主や実際に被害者と接点を持つダシ子、ウケ子は細かい具体的な事情を知らないことが多い。

金主については捕まらないようにするためであり、ダシ子、ウケ子に関しては犯罪行為であることを知って躊躇するのを防ぐ意味があると思われる。

そういった意味でも非常に構造的に似ている。MRは無知なことが多い。

逆に言えば企業からみてMRは、無知でいてくれないと困るのです。

だからこそ医師に対して悪びれることなく素晴らしいある意味ではオレオレでいうプレーヤーとして鍛えられたプレゼンができる。それがさも優秀であるかと錯覚している。

オレオレでいう番頭である支店長などが掲げる目標に向かってひたすら欺罔行為を繰り返し続ける。疑問視する臨床医に対してはMRがマニュアル的な応答をする。オレオレでいう被害者に対する想定問答集と同じ構図だ。

給与もオレオレ詐欺でいう分け前と似ていて売り上げ目標と連動していることが多いいと思う。

一方、無知なだけにMRは自分たちが社会に対してどんなことをしたのかといういわゆる加害者意識も持つことも少ない。悲しいほど夜遅くまでもくもくと働き続ける。それが患者のためであることを信じて。そこには医療情報提供者としてのMRはいない。そこにいるのは違法行為のプレーヤーにすぎない。そして延々と被害者、被害額は増え続ける。

実際、両剤の違法行為による被害者数、被害額はオレオレどころではないと思われる。

言いすぎていることもあるかもしれない。

ただ、他の提言でも言っているように製薬会社は一般の企業より大きな公的な責任を負っている。医療費という税金を間接的にであれもらう立場であり、国民の生命に直接かかわっているという自覚が必要である。

世界の提言の中で取り上げている杉原ちうね

彼は国家の意向に反して外交官という身分より人として、多くのユダヤの人を救った。それに対して日本政府は外務省から追放してしまった。その後、長年かかって、海外からの圧力の中で身分回復をすることができた。そんなMRが出てきてくれることを切に待望している。

個を捨てて他者の痛みがわかる、個の中に全体を考えることのできるMRであってほしい。

最後に提言であるが、各製薬会社主体での臨床試験ではいずれにしても限界がある。ただ現在の制度を前提にするならば臨床試験の方法として二重盲検法が一番であり、後付解析は控えるべきだと思う。それ以上に最も重要なことは、製薬会社とどうしても癒着しやすい行政組織、大学(医学部)組織、学会組織、臨床医それぞれが自分たちが何のために誰のために医療に関わっているのかを見つめなおすことだと、寒くなった夜空を見上げながらふと思った一日だった。

 

2014年10月6日   文責 世界のたま   sign