国会の解散が盛んにニュースのトップニュースになってきているが、今回は国会の解散について考えてみましょう。
そもそも国会の解散権が誰にあるのか
憲法上は憲法第7条の天皇の国事行為の一つとして、内閣の助言と承認に基づく衆議院の解散と、第69条の内閣の不信任決議に対しての衆議院の解散であるが、第69条に関しては主語がなく衆議院が解散されなければと書いてあるだけで誰が解散するのか条文上でははっきりしていない。
結局、最近では憲法第7条により解散するということで、今回の解散についての国会議員の発言を聞いていても解散は内閣総理大臣の専権事項と言っている。
ただ、それでは勝手に総理大臣の気分で解散できるのか
今までは、議会と内閣が対立して妥協ができなくなってしまったケースか、新たに国民の信を問わなければならない大きな問題が生じた時、だいたいこの二つのケースで解散できるとされてきていた。
今回のケースを考えてみると、自民党一党支配のもと内閣と議会との対立はあり得ず、先に上げた二つ目の理由、新たに国民の信を問わなければならない新たな問題として、消費税増税の延期をすることの是非のための解散とこじつけた理由を付けているが、消費税増税については来年の10月とはなっているものの、延期することも可能とされており、別段、解散で国民の信を問う必要はない。
結局、自分たちの政権の延命のための理由づけにされていることは誰しもわかっている。
他の提言でも述べているように、一時的なごまかしのアベノミクス、黒田日銀総裁とのタッグを組んだ金融緩和政策の化けの皮が剥げないうちに多少の議席の減少は覚悟しても過半数以上は今なら確保できそうなため、彼らの国会議員としてのさらなる4年間の期間の延命を図るためだけの解散に過ぎない。
彼ら現国会議員のくだらない意図はどうでもいいのだけれど
ただ、今回の解散のニュースを見ていて私が感じたことは、今まで、数多くの解散があったが今回ほど、私自身もそうなのだが、すべての国民が本当の意味で冷めた解散はないと思う。
私自身そうなのだけど、かなりの国民は立ち止まって冷静に見ている。
立ち止まったらよくわかるのだけれど、国会議員たちだけが騒いでいる。
国会議員たちだけが大騒ぎしている舞台を遠くから主権者である国民があきれて見ている感じだ。
見え透いたおもしろくもない筋書きの舞台を。
しかも、800億円という選挙費用という入場料を支払って。
本当に不思議な感覚である。
主権者である国民は自分たちだけで勝手に馬鹿騒ぎしている国会議員たちを冷めた目で見ている。こんなに主権者である国民と国会議員が乖離した解散劇は今まで見たことはない。
おそらくこの感覚は私だけではないと思う。
本当の意味で我が国の立憲民主国家としての制度も国家財政とともに崩壊していっているのだなと実感する。
現国会議員や現政党がどうなるかではなく、我が国を支えてきた立憲民主主義そのものが音を立てて崩れていくのを私たちは目の当たりにしている。
これも一つの歴史なのだとは思う。
そういった歴史的事実の中で
今、私たちは与野党問わず彼ら現国会議員とこのまま共に行動してゆくのか決断しないといけないと思う。
彼ら現国会議員は、どこまでもいっても国会議員という本来の意味を理解できていない。
国会議員とは主権者たる国民の代表者であり、言い換えれば主権者である国民の基本的人権を守り、国民の幸福追求権を実現する一つの手段に過ぎない。
手段であるべき国会議員が自らを目的化してしまい
自らの国会議員としての地位、政党の維持、拡大を目的として国会の解散権を行使しようとしている。
本来、国会の解散とは、主権者たる国民の幸福の実現のためだけに許されているのです。
治者と被治者の同一性のためだけに許されているのです。