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今なさねばならないこと(2)

今、世界を見渡した時、シリア難民、パレスチナ難民、最近ではイエメン、アフリカ各地の難民、世界いたるところで、多くの子供たちを含む人たちが劣悪の環境下で、祖国を追われている。

夢も希望もなく、ただひたすらその日の命だけのことしか考えることが許されない人たちが増え続けている。

 

地中海を命を懸けて、あるいは騙されて小舟にのってヨーロッパに漂着する人々も増え続けている。

 

ある人々はヨーロッパの地を踏むことも許されず地中海に飲み込まれている。

 

多くの難民が生じている原因は、その多くが内戦含めた戦闘行為によるものです。

 

今までの提言の中で、安全保障について書いたことがありましたが、日々伝えられる世界各地の難民キャンプなどで嘆き、苦しんでいる子供たちを含む人々を見るとき、安全保障のなんたるかを考えさせられる。

 

我が国、日本においても中国、韓国、ロシアとの国境、領土問題やイスラム国などのテロの脅威に対し、日米安全保障を中心とした今後の安全保障をどうするのか、その中で、辺野古問題、憲法9条問題が生じている。

 

それらの様々の世界情勢、世界各国の動きを見て、歴史を振り返って思うことは、何度も愚かなことを繰り返してきた、人間の愚かさだ。

 

そして今、同じことを繰り返そうとしている我が国がそこにある。

 

今まで他の提言でお話したように、いくら軍事力を高めたところでセキュリテイジレンマ、セキュリテイパラドックスを生じてしまい、無駄な時間、予算、労力を使うだけで、全く意味のないことなのです。

 

それらの経験の中で、何故歴史が繰り返されるのか、我が国が繰り返そうとしているのかということを考えた時、その理由は、大きく二つあると思う。

 

一つは軍事産業に代表される資産家の更なる富への欲望に他ならない。そしてそれにまとわりつく寄生虫のような政治家、官僚たちを含めた人たちの権力欲だ。

そしてもう一つは国家、民族など、本来個のための手段でしかない物を目的化する人たちの欲に他ならない。

 

ただこれら二つは、一見二つであっても一つでもある。

 

歴史を振り返ってみるとき、資産家は自らの富を増やすため人々を先導し、政治家、官僚を利用して民族間、国家間の緊張を高めるのが常だからだ。

 

個々の細分化した集団を作ることで、それらの集団間での争いごとを生じさせ、扇動して自分たち資産家への批判、妬みを減弱させ、それらの摩擦を利用してさらなる富の蓄積を図っているのだと思う。

 

人類も自然界の中では単なる一つの種でしかないということを改めて思い知らされる。

 

ある意味で人が殺し合うことは種の保存というヒトの遺伝子に組み込まれた本能であって己で制御できる事象ではないのかもしれないとも思う。

 

ただそれでも私は思うのです。

 

我が国が、私たちが今しなければならないことは武力をもって戦うことではなく、今現在世界各地で命の危険にさらされている難民の人々へ思いをはせることだと思う。

 

日本国憲法9条という強い盾を私たちは持っているのです。

 

私は思うのです。真の安全保障とは人々の戦争、侵略への疑心暗鬼、セキュリテイジレンマを解消することなのです。

 

そのために我が国が第一にしなければならないことは防衛費を兵器などの物に使うのではなく、難民キャンプの子供たちへの教育のために、人のために使うことだと思う。

 

一人でも多くの子供たちを難民認定して、日本国内に受け入れて日本が世界に誇る教育システムの中で、平和教育、民主教育、技術教育を施し、世界へ、祖国に帰してあげることだと思う。

 

真の安全保障とは何なのか。

 

そのために私たちは今、何をなさねばならないのか。

 

2015年4月18日  文責  世界のたま             sign

 

 

今なさねばならないこと(1)

しばらくの間、いろいろなことを考えさせていただいていました。

 

一つには私事ではありますが特定秘密保護法執行停止訴訟につき、先月の3/27に広島高裁民事部において控訴棄却の判決をいただき、1週間考えた上、4/6に最高裁への上告を申立させていただきました。理由書については追って提出することにしており、上告そのものはまだ完結いたしていない状態です。

 

当然のことながら一般的にも言って年に数千件もある上告に対する最高裁の判断は99%以上が棄却されており厳しい判断が予想されますが、新聞社の取材の中でもお話しいたしましたが、私が、今生きている社会の中で決して許してはいけない事実に気付いたものは是正、修正を促す義務があると思う。

 

そして自分自身が後悔したくないのです。

 

そして二つ目には過去、いくつかの提言の中で現在行われている金融政策についての私自身の思いを述べさせていただきましたが、このひと月、いろいろな金融政策専門家に関しての考え方をもう一度学ばさせていただきました。

 

金本位制から現在の管理通貨制度の中での貨幣の持つ意味、そして現在の世界を取り巻く財政、金融危機、デフレ問題など、いろんな問題における、様々な方の考え方を学ばせていただく中で思ったこと

 

1990年台以降の長期にわたるデフレの中での財政、金融政策が失敗であり、第二次安倍内閣の下での財政政策、黒田日銀総裁の下での異次元の金融緩和政策が成功であったのか?

 

正直な考え方を述べるならば、今までのアメリカを中心とした資本主義社会的な社会を今後も引き続き考えてゆくならば、現在行われている、ゼロ金利政策に加えてのインフレターゲットを指標とした無制限とも言える金融緩和政策は理論的には正解である。

 

1990年以降、日本政府、日銀が行ってきた財政、金融政策は確かに中途半端であったといえるであろう。デフレからインフレに振れようとした際のゼロ金利解除や金融緩和政策解除、金融緩和規模としても量的に不十分であったことは否めない。

 

ただし、そこで問題なのは、それらの財政、金融政策の目的が、先ほども述べたようにあくまでも今までの資本主義的な社会を目指したうえでの延長線上で考えた時の手段としての金融、財政政策として正しいというだけのことだ。

 

そして、はっきりしていることは、短期的な一時的なものでしかないということは明白であり、根本的な財政政策抜きでは考えられない。

 

私が今、これらの財政、金融政策で思うことは何度も繰り返して述べているように、手段を目的化しているということです。株価、通貨価値、物価それら自身を目的として、金融、財政政策を行っているだけなのです。手段としては正解なのですが、手段そのものを目的にしているのか、目的がわからないまま進んでいるのです。

 

結果として皆さんのご承知のように、何が待っているのでしょう。

 

そこにあるのは更なる格差社会、環境破壊です。

 

盛んにデフレは悪である、インフレが望まれているのは誰のためなのか、一見確かにデフレは資産のあるものは有利と思えるのですが、それは現在の税制度含めた財政政策を前提とした考え方で、地球環境などを鑑みた時、消費、経済の縮小が本来は望まれるのだと思う。

 

地球環境はもはや残念ながら後戻りができないところに来ていることは明白であり、自然現象としての世界各地で起こっている、自然災害、テロを含めた戦争状態、すべて自然による人という種への自然淘汰であると思う。

 

格差社会の中で人々は自分たち身の回りのことのみしか考えられなくなってきている。

 

富あるものは更なる富を目指して資源を独占し、消費し、環境破壊を覚悟したうえで自分たちだけはその中で生き残る術を模索している。

 

金銭的に貧しきものは、富あるものによる政策の中で、序列化され、下位のものを蹴落とすことに心奪われる。

 

今、私自身何をなさねばならないのか。

 

2015年4月15日   文責  世界のたま    sign

 

 

 

日本国の危うさについて(2)

日本国の危うさ、脆さについて、その根本的な問題は、核心がなくなってしまったことにあると言ったが、具体的に見てみましょう。

 

最近起こったいくつかの事象を取り上げてみると

 

金融、経済面では、株価の上昇があります。この株価の上昇については非常に意図的な、長期的視野のない脆さが見え隠れしています。

 

そもそも現在の日本経済をみてみても株価が上がる要素は全く見当たりません。

 

日本の貿易収支は赤字であり、海外の株式投資も昨年は買い越しでしたが、今年度になってからは売り越しです。

 

また、政府が国民の年金や、郵貯からは取りつくしたので、さらなる国民の財布を狙って作ったNISAは蓋を開けてみたら国民が踊らず、投資する人が思ったほど増えない状態に政府は困っています。

 

そもそも、税制度的にもわずかの資本所得に対する非課税をちらつかせて株式投資に誘い出すやり口が気に入りません。

 

国家が株価の上昇を先導し、国民をたきつけ参加させておいて、損失に関しては知らんぷりなのでしょうから。なけなしの庶民の金を吸い上げる資産家、核心的な政策能力がない政府のための行き当たりばったりの付け焼刃の政策にすぎません。

 

おそらく国民がそれに踊らされないのも政府のやり口を学習してきているのだと思う。

 

日本銀行による株式の買い取り、年金基金による株式投資など、ありとあらゆる手立てで見かけ上、株価を上げているのが現状だと思われますが、所詮は核心がないため、おそらく株価が下がってくるのも時間の問題と思われ、そのつけは結局、政府に踊らせて投資した国民自身、表面的には隠している年金基金の損失、最終的には国家の財政破たんへと回ってくることは間違いないことだと思う。

 

先日の国会答弁で安倍さんが年金基金が35兆円利益を上げたなどと発言されていましたがおそらく、年金基金が買い支えている現在の偽りの株価の中では利益が上がった形になっているのでしょうが、結局、基金の資金、自らの資金で上げ、見かけ上資産が増えているだけのことではないかと思う。ある意味で国家詐欺に近いものを感じる。

 

以前にも話したが年金資金は国民の貴重な国民自身の財産であり政府が一時期の国家政策のため利用するものではない。まず失敗して損失を出すのは間違いないのだから。

 

結局、いいように海外投資家初め、資産を保有している人たちに株式投資を通じて大切な基金が流れてしまっているだけのことなのです。

 

安全保障に関しても、憲法9条の拡大解釈、改憲への流れが強まってきています。

 

今回のイスラム国や、ウクライナなど世界各地で多くの戦闘が行われ、世界中どこでテロが起きてもおかしくない状況になってきています。

 

世界全体が混とんとして何が正しいのか、安全保障とは何なのかがわからなくなっています。

 

そんな中で我が国は今、憲法9条という核心を捨てて、何の核心も持たない国家に成り下がろうとしています。

 

私は先に述べた経済面でもそうだし、安全保障面でもそうなのだけど、私たちは資本主義社会が行き詰まり、格差社会、戦争による多くの人々の迫害が生じている混とんとした時代だからこそ、核心を持たなければならないのです。

 

核心のないところに心落ち着ける、心豊かな社会は存在しえません。

 

多少物質的には恵まれてはいるが、薄っぺらな、不安定な社会を選ぶのか、物質的、利便性では欠けるけれど精神的には多少でも安定的な社会を選ぶのか。

 

今、私たちは、それを問われているのだと思う。

 

2015年3月16日  文責  世界のたま                 sign

日本国の危うさについて(1)

日本国について様々な提言をしていますが、最近の政治、経済、金融、教育、治安すべての面で言えることは、その危うさです。

 

言い換えれば、日本という国家、組織の脆さ、次元の低さです。

 

国家というものを手段としてとらえる私ですが、本来の意味で、世界中の人々、一人一人を個として尊重するためには、手段としての国家の存在はその過程の中で不可欠であること間違いありません。

 

そういった意味で現段階においては国家の存在は大切であり、その在りようが非常に重要だと思う。

 

日本国を考えてみた時、四季があり、自然豊かであった一昔前は、そこに住む人々も心豊かで、他の提言でも述べた人々の心の中に核心があったように思う。

 

今回の提言のテーマである危うさも、その原因は、核心が失われていることに尽きると思う。

 

ところで、危うさの本体であるが、何かと言えば、一言でいうと、欲だと思う。

 

欲と言っても人によってさまざまであり、人間も所詮、生物であり、自己防衛本能があり、種を保存すべきDNAが埋め込まれているのだからある程度の欲があることは当然のことである。

 

私がここで問題とする欲とは日本国を代表する人たちの欲である。

 

そもそも国家を代表とする人々、議員、官僚、大臣、大企業経営者などはある意味で、権力欲、名誉欲、金銭欲がなければそういった職に就かないとも言え、水掛け論的な部分もあるが、おそらく社会全体の問題としては、他の提言でも何度も述べているように、資本主義のもつ根本的な問題である、金銭含めた物への過度の執着、欲であろう。

 

そして欲がもたらす結果としての格差社会とも言えるし、格差社会が、さらなる欲を生じさせているとも言える。

 

政治の世界で言えば、二世代議員なども格差社会、社会全体の固定化につながっており、それらが日本国の危うさ、脆さを生じさせているのだと思う。

 

教育に関しての提言の中でも述べているが、社会の多様性こそが社会の発展、強化につながってゆくものだと思う。

 

生物の進化の過程でもそうなのだが、多様化が環境変化に対する生物、種の生き残りには不可欠なものだと思う。

 

私は、今の日本国を見て思うのだが、格差社会の中で、社会全体が固定化する一方、人としては多様性を求めるがゆえにある意味で抑圧し、抑圧される人の中で、様々な問題が生じているのだと思う。

 

子供たちが起こす様々な事件もそうだし、差別的な出来事も原因としては同じものだと思う。

 

私は今の日本国のその危うさ、脆さを克服するためには、社会の固定化、格差社会を改善し、社会の多様性を高めていくことこそが最も必要なことだと思う。

 

その中で一つ考えておかなければならないのは、ただ単に社会の多様性を容認するだけでは不十分であり、多様性の中に核心は不可欠だと思う。

 

その核心こそが国家で言えば憲法に他ならないと思う。

 

日本国の危うさ、脆さの原因を逆に言えば、核心である憲法を軽視し、無視することで核心を揺るがしてしまっているがゆえに、多様性を容認することができなくなってしまい、社会の固定化、格差社会を招いているとも言えるのです。

 

2015年3月14日  文責  世界のたま  sign

 

 

 

 

国会議員と大臣と国民の道徳について

毎日のようにニュースに取り上げられていることの中に、国会での野党から追及されている大臣への政治献金の問題がある。

 

皆さんはどう思われているかわからないが、まず私がこれらの何人かの大臣の国などから補助金をもらった企業からの1年内の大臣への政治献金が毎日のように報道され、それを国会で追求する野党をみていて思うことは

 

何度、過去同じ光景を見てきたんだろうという馬鹿らしさに尽きる。

 

今回の安倍政権、憲法違反の与党、野党含めた現国会すべてを見渡してみて、いかにくだらない、意味のない時間を費やしている日本という国家の愚かさである。

 

何故、こんな単純な約束が守れないのでしょうか。

 

あれだけ政治と金の問題で、最終的に政党助成金の交付という形で決着をつけたはずではなかったのか。

 

今回の政治資金での問題は、すべてのことで言えるのです。政治、経済、金融政策においても構造は同じなのです。一歩もなんら前進しているのではなく振出しに戻って過去あった同じ国会審議というレベルとは言えない言い争いをして意味のない時間、政策を繰り返しているだけのことなのです。

 

戦後総決算とか、新たな時代の幕開けなどとできもしない、する気もない、過去何度も聞いてきた同じことの繰り返しをしているだけである自分たちに気が付いているのか、気が付かないふりをしているのか、それすらも判断できないただの大馬鹿者なのか定かではないが、おそらく後者なのであろうとしか言いようがない。

 

他の提言でも述べているように、私が今回、ブログを立ち上げたのももうこれ以上、無駄でアホらしい時間を私たちは過ごすべきではないと思ったからです。

 

一方、教育現場では学校教育の中で道徳を評価科目として取り入れていこうという動きがあります。

 

最近起きている様々な殺傷、誘拐事件などを受けて考えられているようにも見えるし、一部の報道で言われているように、現政権の愛国心教育の一環として行われようとしているのかも知れません。

 

ただ、今の国会、政権が子供たちの道徳教育を評価していこうと考えている滑稽さに私はあきれてしまうのです。

 

今の子供たちが精神的に追い込まれ、いろんな殺傷事件を起こしている原因は大人たちが作り出している社会そのものにあること、特に政治、経済、金融に中心的に携わっている国会議員、大臣、官僚、大企業経営者にあることを全く自覚していない。

 

今回の政治献金にしてももらったのを本人が知らなかったら許されるというのであればいくらでも可能になります。真の法を定立する国会議員たるものであれば、まず何のための法律かを知って作るものなのです。

 

政治資金規正に関して言えば、公職に対する国民の信頼性、公務の非買収性、ひいては政治、国家に対する信頼、それが本来の目的なのです。

 

彼らは法の本来の目的をもたないまま定立しているため、というより、自分たちの私欲、利益のために法を定立しているために、自分たちが守らなくていいようにするための法律を作ろうとするため逃げ道を作っているのです。国会議員というより、ただの全くたち悪い集団です。

 

一方では国民に対しては税金含めて逃げ道のないように、ずる賢い国民に向けてはより厳しい懲罰的な法律を作っているのです。自分たちこそが、もっともずる賢い国民であることを棚に上げて。

 

私は今の子供たち含めた社会的弱者の中で様々な殺傷事件含めた事件が起きている大きな原因の一つが先ほど述べたように国家の法律を作り、それを施行する人たち自身に道徳感が欠如していることだと思う。

 

結果として社会的弱者にとって不利な、既得権者にとって有利な法律が施行され、勝ち組が勝ち続ける社会、いわゆる格差社会、心が通わない、金銭的な価値が優先される社会が形成される、そのことが一番の原因であるのではないかと思う。他に何があるのでしょうか。

 

最近明らかにされている法人税減税、相続税逃れの資産家の贈与税免除政策、派遣法問題などがその一例だ。景気刺激策などというのもただ単なる言い訳に過ぎない。

 

たとえば、生まれつき犯罪者は犯罪者と決まっているものではないと思う。

 

ある殺人鬼がどこかの大企業の経営者の子供であったなら、大物政治家の子供であったなら犯罪を起こさない確率は高いと思う。逆に政治家の子供も劣悪な環境下におかれたなら何らかの犯罪を起こしてしまうのではないかと思う。

 

時々、私は考えることがあるのですが、貧しい食べるものもない人が生きるために一個のパンを盗むことと、政治家が、法律には触れないと言いながら多額の政治献金を受け取ることと、どちらが最初に罰すべき罪なのかと問われたなら政治家の方だと思う。

 

何故ならば、政治資金がなくても政治家は生きていられるのだから。

 

私は道徳とはまず、国家の統治機関たる国会、内閣、司法に携わる人たちがその手本となる行動をとらない限り、子供たち含めた国民の道徳感には結びつくことは決してないと思う。

 

愛国心とは、ただ単に国家を敬愛し、盲信することではなく、国家を構成する主権者たる一人一人の国民を人として互いに大切にし、尊重する心だと思う。

 

それは決して、道徳という形で一定のものさしで評価されるものではなく、一人一人の心の中から湧き出てくる多様性のあるものだと思う。

 

2015年3月3日   文責 世界のたま                  sign

 

 

 

 

日本国に生まれて(3)

日本国に生まれた私たち

 

時間というものを考えてみましたが、今、この時間に生を授かった私たち

 

日本国に今という時間にいる私たちは何をしてゆけばいいのでしょう。

何をしないといけないのでしょう。

 

手段を手段として考え、時間を立体的に捉えて今の世の中を見てみると本当に滑稽なことだらけであることに気付かされる。

 

国会での国会議員と閣僚、総理との意味のない言い争い、NHK会長と国会議員とのくだらない喧嘩、手段と目的をはき違え、直線的な時間軸でしか物事を考えることができない人間の典型的な行動です。

 

ただ、これらの行動が今までの時代では、まかり通ってきたことなのです。

 

道徳的に小学生以下の低次元の人達ばかりが今の日本国を動かしているのです。以前にもお話したことがありますが法を定立し、執行するためにはそれによって規制される人たち以上の道徳が必要です。

 

道徳的に低次元の彼らは、不思議にも社会的にはそれなりの地位にある人たちとされており、我が国の法律を作り、法律を施行していっているのです。

 

愚かな彼らを選んでいるのが私たちであるということを、今という時間を生きている私たちはしっかりと再認識しなければいけないのです。

 

何度も言いますが、まず、私たち一人一人が変わらないといけないのです。

 

先日の国会で、日銀の黒田総裁が会合で話したとされる日本国債のリスクについての話が取り上げられていました。返済するめどもない国債のリスクをリスクゼロの評価をしている今の金融当局の考え方がおかしいに決まっているのに、今後世界の格付け会社が日本国債をリスク評価されると問題が生じる可能性があるとの発言には驚いてしまいます。

 

国債という国家の債務である以上、国内資本が有していようが、外国資本が有していようが借金は借金です。そんなこと誰でも最初から分かっていることです。それを国民の財産などと都合のいいすり替えでごまかしてきただけのことです。この期に及んで、国債に対する世界の評価に左右されるなど、今の日本国の金融政策がいかに何も考えていないかが一目瞭然です。

 

ある省庁では数兆円もの使い切れない余ってしまう予算をつけるでたらめな国家予算を執行している日本国債を今後誰が買い支えてくれるのでしょう。

 

貨幣という手段に溺れてしまい本来の目的を失ってしまった国家こそが今の日本国なのです。

 

そんな世界にも例のない無駄なお金を使い、借金することでしか国家予算を作れない恥ずべき国家の総理でしかないのにアメリカ議会での演説を考えているというニュースを聞いたが、日本国も本当の意味で、地に落ちたとしか言いようがない。

 

そんな自分の外遊パーフォーマンスに無駄な税金と時間を浪費したいなら、そんな暇があるなら、総理を辞して海外旅行でも何でもすればいいのです。真剣にこれからの世代の子供たちのことを、日本国、世界のことを考えたならばそんな無駄で愚かななことはできるはずがないのです。

 

私は思うのですが、落ちるところまで落ちてしまった日本国ですが、今の時代に生きている私たち主権者一人一人こそが本当の意味でもう一度、手段と目的を取り違えることなく、立体的な時間の中ですべての事象を見つめ直さなければならないのです。

 

今の立憲民主制を顧みない政権や国会議員に踊らされることなく真の意味での誇りを持った日本国を作ってゆかなければならないのです。

 

そのことが立体的な時間の中で世界中の貧困や飢餓や戦禍の中で苦しむ人々を救うことつながるのです。

 

世界でもまれにみる豊かな心、団結力、寛容さ、そして人権、民主、平和を重んじる日本国憲法をもっている物質的にも恵まれている日本国で生きている私たちだからできることなのです。そして私たちでないとできないことなのです。

 

2015年2月22日  文責  世界のたま                         sign

日本国に生まれて(2)

提言の中で、世界で起きているいろんな事象を取り上げてきました。

 

経済的には世界中の先進国含めた国々で生じている格差問題があります。

それぞれの国内での個人間での格差もあれば、国家間での格差もあります。いわゆる先進国と言われる国々と発展途上国との格差もあれば、EU内でのギリシャなどの国のような問題もあります。

 

そしてイスラム国を中心としたテロ問題、ウクライナなどの民族独立紛争問題など解決のめどのつかない紛争問題が世界各地で毎日のように起きて多くの人々がなくなられています。

 

ホームページの冒頭の主権者への提言の中でも述べていますが、これらの多くの事象の原因は、資本主義経済の下での行き過ぎた貨幣を代表とする「物」への人々の執着、個人の人権保障のための手段としての民族、国家を含めて、言い換えると手段を目的にしてしまった結果です。

 

時間と言う観点から考えてみると、現代社会は時間に振り回されているといえる。

 

資本主義社会の中では基本的に早いことが、価値があることとして重要視されることが多い。

 

移動時間など含めて早く済むことをありとあらゆるサービスで要求され、あらゆるサービスを含む商品の新たな開発も早さを求められる。結果として遅いということは能力がないものとされ時代の中で評価されることはなく置いて行かれてしまう。

 

ここでいう時間は、一般的な意味での時間だが、私は、これらの時間は人間が作りあげた時間であって、本来の意味での時間ではないと思う。結局、自分たちが作った時間の中で自分たち自身が時間によって追いつめられているのが現代社会であると思う。

 

それでは本来の時間とは何なのであろうか。

 

時間とは何かという意味での本質ではないが

 

時間というのものを考えるとき、立体的に捉えないといけないと思う。

人間を考える際も同じことだが、主観面(意思)と客観面(行為)と立体構造的に捉えることが不可欠であると私はいつも思っている。

 

先に上げた一般的な時間は直線的な捉え方であって、立体的に捉えるということはまず面として時間を捉えなければならない。人間で言えば主観的な捉え方と言える。自分自身の個としての時間ではなく、地球上のありとあらゆる生物全体としての時間として、時間を捉えるということなのです。

 

そしてさらに時間を立体的に捉えるためには客観的側面としての縦軸的な捉え方が必要でそれが歴史的な捉え方だと思う。歴史とは平面的な時間の積み重ねである。

 

時間と言うものを立体的に捉えるということはいわば自然の流れに身を委ねることにつながる。

 

他の提言でもあげたが、無為に耐えたるは強しということも、時間を立体的に捉えることで理解できる。

 

己自身を立体的な時間の中に同化させた時、先にあげた世界で起きている数々の事象も解決できると思う。

 

石油などの天然資源に恵まれない日本国に生まれた私たちだからこそ、手段を手段としてしっかり認識し、決して目的化することなく、さらに、立体的な時間の捉え方をすることによって初めて世界に起きている様々の事象を解決できるのではないかと思う。

 

 

2015年2月18日   文責  世界のたま     sign

 

 

日本国に生まれて(1)

私はときどき思うことがある。

私は何故人間というか、人になったのであろう。

すべての物質は人を含めた生物含めて元素、原子の組み合わせでしかない。

何故、私は私であるのか。私であらなければならなかったのか。

 

私が人であり日本で生まれたこと、日本国籍を持った日本人であること

偶然でしかない元素の組み合わせなのかもしれないが、もしそれが必然であったならばそこに何か意味があるのであろうか。

 

私がこのホームページを立ち上げて以降、その中で、個の中に全体があると問い続けているが、個とは一人一人の人であり、さらにもっと言えば人を形造る細胞であり、元素である。いわば元素の中にすべての事象があると思う。

 

科学が発達して小さな原子、素粒子の世界まで考えることができるようになったが、人が人である限り個と全体との関係は解明できないと思う。

 

解明できない理由の一つが時間である。私は昔から時間とは何なのか、普段は忘れてしまっているのだが、考えることがよくある。

 

時間と言えば一日24時間、一年365日であるのだけれど、本当にそうなのかと思う。時間と言うものを私自身が考えるのは私が生きていて時間を認識しているからであるが、樹齢千年の木々にとって、寿命の短いセミにとって時間をどのように考えているのであろうか。

 

私たちが人間の中でしか時間を考えられないように彼ら自身も彼らの中でしか考えられないとは思う。ただ、一般的に人は、樹齢千年の木々を見て人はすごいなあと感心し、セミの短い一生をかわいそうと思いがちである。ただそうなのであろうか。

 

私たちは時間を一分60秒の世界で考えがちだが本当の時間は恐らくそうではないであろう。

 

私は短命を嘆き、一日、一か月、一年でも長く生きることが正義として、医療の目的とされている風潮があるがきっとそれは間違いなのではないかと思う。

 

時間とはいったい何なのか、感覚的には最近分かってきているのだがきっと理解できることはないだろうと思う。

 

私が人である限り。

 

2015年2月16日    文責  世界のたま                sign

 

 

 

後藤健二さんが教えてくれたもの

シリアの地で亡くなられたと思われる後藤健二さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 

私が後藤健二さんの殺害のニュースを知り、思ったことが二つあります。

 

一つは先日取り上げた自己責任についてです。

 

インターネットを通じた彼の言葉は本当の意味での彼の言葉ではないと思う。彼自身、ものすごく納得がいかなかったのではないかと思う。

 

彼も人間であり、旅立つ前に何が起きても責任は自分にありシリアの人を恨まないで下さいと話しておられたが、捕まって、実際には、死の恐怖の中で怖かったと思う。

 

生まれたばかりの子供を残して死ななければならなかったことはさぞかし無念だったと思う。

 

最後に一目でも家族と会いたかったとも思う。

 

私は、彼が旅立つ前に言っていたように、本当は、生きて帰りたかったと思う。

 

ただ、それらのことを含めても、私は思うのですが、彼は死の淵まで、自分のためにヨルダンの人たちや、いろんな関係者の人たちに迷惑をかけることを望まなかったのではないかと思う。

 

そういった意味で、交換がうまくいかなかったことを、内心はほっとしておられた気もする。彼自身が、生きて帰れないことや、湯川さんを救えなかったことについては無念だったには違いないが、彼自身の生き方の中では納得された最期だったのではないかと思う。

 

彼は、ジャーナリストとしても、人としても自己責任を貫徹されたのだと思う。

 

今の時代、特に、現在の日本社会の中で、自己責任をきちんと取れる人は少ない。

 

私は思うのだけれど、彼は日本人、私たちに自己責任とは何なのかを、命を懸けて教えてくださったのではないかと思う。

 

もう一つは、彼が殺害されたニュースが流れて以降、様々の報道番組、政府の記者会見を見ていて思ったことだが、彼が死をもって伝えたかったことが伝えられていないと思う。

 

安倍首相を筆頭に、政府関係者すべてがテロとの戦いに屈してはいけないとか、ヨルダンの協力に感謝するとかに終始しており、報道機関もイスラム国の脅威含めた、これからのテロとの戦いはどうなってゆくのかなどの専門家の話に終始している。

 

私は思うのだが、彼が死をもって伝えたかったことは、誰をも恨むなと言うことだと思う。

 

イスラム国がどうだとか、ヨルダンがどうだとか、今後のテロとの戦いをどうして行くだとか、彼にとってどうでもいいことなのではないかと思う。

 

彼が死をもって伝えたかったことは政府や、専門家が考えるようなことではなくて、単純に、誰をも恨むな、それだけなのではないかと思う。

 

彼自身の生き方が、相手がシリアであれ、アフガンであれ、政府要人であれ、難民であれ、金持ちであれ、貧しい人であれ、最終的にはイスラム国のテロリストであれ、彼にとっては同じ一人の救わなければいけない、報道しなければならない人間に過ぎなかったのではないかと思う。

 

たぶん、死の淵まで彼は人を恨むことはしなかったのではないかと思う。

 

私が彼の死を通じて思うこと、教えられたことが何かと言うと

 

己自身を捨てたところにしか、己の命をも捨て去る覚悟がなければ、真の平和は築けないということだ。

 

それは私自身がこのホームページで常に訴え続けている、個の中に全体があるということだと思う。

 

世界中で掲げられた、I am KENJI 彼の中に世界全体を見た瞬間だったように思う。

 

彼の死を通じて日本政府はアメリカと同様、軍事、警察権力で対テロ対策を声高に訴えている。このことは彼の死を、彼の生き方を否定するものに他ならないのです。

 

多くの人たちは私みたいな考え方は甘いとか、現実的ではないとか言われると思う。

 

しかし、現実を見てどうなのでしょう。

 

今までアメリカを中心とした軍事中心で、テロがなくなっているのですか。

 

無人機による無差別的な攻撃とテロとどう違うのですか。

 

安全保障の提言の中でも述べましたが、いくら軍事力、警察権力を強めたところで何の意味もないのです。国家が相手ならまだ軍事力が有効な局面もありますが、それでも強めれば強めるだけ、セキュリティジレンマ、セキュリティパラドックスなどが生じてしまうのです。

 

ましてや、テロ組織相手では、軍事力、警察力は所詮、無力なのです。

 

それが現実なのです。

 

後藤健二さんの死が教えてくれたもの

 

個の中に全体を見ることの非情さだと思う。

 

でも、それを乗り切らないと真の平和は来ないというも教えてくれた。。

 

己を捨てて人のために生きる。

 

そのことの中にしか解決方法はないのです。

 

己を守ることばかりしていても何の意味もないのです。

 

彼が命を懸けて私たちに教えてくれたことなのです。

 

2015年2月1日    世界のたま             sign

 

 

自己責任について

今回の人質事件の中で自己責任という問題が取り上げられている。

 

普段の日常生活の中で、一般的な自己責任を考えていく上で、まず考えておかなければならないのが自己責任を問う以上、前提として、個人の自己実現、自己統治が保障されていることが必要です。

 

個人が自己実現、自己統治できて初めて、個人の自己責任を問うことができるからです。

 

一般的な意味での自己責任はさておいて、今回の人質事件での自己責任問題ですが、正直なところ、私自身は自己責任としての部分が大きいと思う。

 

戦場含めた危険地域での報道経験もあり、自ら進んでイスラム国に赴いた事実、他者のアドバイスもあった上で、実際に自ら、誰にも責任もなく自分自身にあると言われている事実。

 

現状認識のあるうえでの行動であり、たとえそのことによってどんなことがあろうとも自己責任の世界であると思う。

 

一方で、戦争、飢餓、暴力、圧政から逃れ、虐げられている人たち、弱者の報道という社会的ニーズに誰かが答える必要性もあるのだが、その問題と自己責任の問題とは基本的に別問題であって混同してはならないと思う。

 

人情論として、そういった社会的ニーズに命を張って出かける人たちの命が救われることを望むが、もし失われることがあったとしても、致し方ないことかとも思う。

 

蓋し、世の中には彼以外にも、数多くの命を張って仕事につかれている人は多い。

 

身近でいえば警察官、消防士の方々がいる。彼らは、実際は違うのかもしれないが、職務規律上は自分の命を懸けて国民の命を守ることを任務としている。

 

もし彼らが国民をほっておいて自らの命を守ったとしたなら非難されるであろう。逆に言えば、殉死しても基本的には彼らは自分自身で選んでしたことなのだからと言われるだけであろう。

 

世界でこの人質問題、イスラム国のテロの非情さ、残酷さが盛んに取り上げられているが、一方で考えなければならないことがあると思う。

 

イスラム国含めたテロ組織の行動は非難されるべきことであることは間違いないが、アメリカを中心とした多国籍軍による空爆によって一般の市民の被害が出ていることも事実である。

 

その中には幼い子供もいるであろう。そういう人たちもそれぞれに一つの命であることには変わりがない。

 

今回人質となっている一人と同じ一人なのである。

 

彼らは何の予告、取引も許されることなく、世界のだれからも助命活動されることもなく静かにその命を終えている。

 

私は、全世界の人たちがもう一度、今回の事件をきっかけに、私たちが今、行っていることの愚かさについて考え直さなければならないと思う。

 

その中でも、富のある、豊かな人々こそが、冷静に、真剣に考える、より大きな責任を負っているのではないかと思う。

 

2015年1月29日   文責   世界のたま     sign