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貨幣と民主主義 (2)

貨幣という手段を目的化してしまっている一部の人々が、使う目的もなくかき集めた貨幣を用いて、自分たちに有利な政治的な決定に影響を及ぼす。

 

貨幣というものは社会の中では人が生きてゆくうえで手段としては不可欠なものである。人々が生きるための糧である衣食住を自分自身で用意できなければ、交換手段としての貨幣は人の命をも支配する。

 

生物学的な意味においてある意味では思想、良心の自由がなくても生きることは可能であるが、貨幣なくして、暴力などの力を抜きにして、人は生きてゆくことは困難であろう。

 

そういった意味で貨幣を持つものはそれを増やし、持ち続けることにありとあらゆる手段を通じて働きかける。そのやり方が露骨になってきている背景は何なのだろう。

 

一つには持つ者がより多くの貨幣を持ちたいという際限のない欲望もあろう、他方、持つ者の持たざる者への疑心暗鬼、言い換えれば恐怖心に近いものもあるかもしれない。

 

ただ、私が考えざる負えないことはヒトという種の最終段階への入り口に差し掛かっているのではないかということだ。

 

人間は社会を形成する過程の中で争い、殺し合い、その中で多くのことを学び、共存してゆくこと、立憲民主主義という政治手法を編み出して今日に至っている。

 

一方、衣食住を中心とする経済活動においては資本主義という手法の下で急速な発展を遂げ、社会は便利になり、個々人が欲望を満たし、長寿社会を築いてきた。

 

世界を見渡してみても現代社会においては、政治的には立憲民主主義国家が基本であり、経済的には資本主義経済が基本となっている。

 

ただ、これらの体制が音を立てて崩れかけてきている。

 

世界中で景気回復、経済成長を求めて、金融、財政政策が行われているが、原理的にこれまでのやり方でそれらの成長が可能であるはずがない。

 

アメリカにおいては中間所得層の所得は減り、負担する税は増えてきている。結果として最も大きな中間層の購買力は低下し続けており、基本的にこのままの高所得者優遇税制度の中で成長が望めるわけがないのです。

 

日本においても所得格差は大きくなってきており、大企業、高額所得者優遇政策が次々と推し進められておりそういった意味ではアメリカの後を追いかけて行っていると思われます。一時的なごまかしの金融政策で株価を釣り上げたところで何の意味もないことを認識しなければならない。

 

これらの事象の中で共通していることは貨幣に対するあくなき欲求が、資産の局在化を生じてしまい、貨幣の固定化、流動性の消失を招いている。貨幣は止まってしまえば、ただの何の意味のない無価値に過ぎない。

 

これらの問題の解決方法は所得の再分配によって貨幣の流動性を取り戻すことが必要なのです。

 

税制度においては、企業で言えば大企業優遇税制の是正、個人で言えば、累進課税の強化、相続税における累進的な税負担が不可欠である。

 

社会保障制度においても、年金の一元化が望まれるが、困難であることも考え、最低保証制度を全体的な減額の中で進めてゆくべきであろう。医療、介護保険においても一元化、減額しかないと思われる。

 

所得の再分配を進める中で消費税も不可欠であろう。

 

これらの様々な政策が本当は必要なのに、そうするしかないのにできない理由、それが貨幣による、民主主義の機能不全だ。具体的には、資産家の政治献金、天下りによる政治家、官僚の買収に他ならない。

 

この腐りきった薄っぺらい表面的な民主主義制度の下での政治、そして司法すらもそれに対して何の警告も出せず、アメリカにおいては擁護すらしている現実を見聞きした時、怒りというより人間の悲しさ、憐れみを感じてしまう。

 

日本においても、違憲国会による特定秘密保護法の強行議決後、違憲国会は、平成26年末、2年間という任期を残したまま、最高裁が求める選挙制度改革をすることもなく、再び違憲選挙を行った事実。

沖縄県米軍基地移設においても、沖縄県が出した辺野古沖の作業一時停止に対して、防衛省が、農水省へ行政不服審査法(本来、行政不服審査法は主権者たる国民が行政に対してする不服審査のための法律である。)に基づく執行停止を申し立てた事実。

報道機関(NHK, 朝日放送)に対する政権与党による呼び出し(たとえそれがいかなる理由があろうと)の事実。

 

日々、立憲民主主義が崩れかけている現実がある。

 

最近、仕事上、話す機会の多い若いMRなどに言うのだけれど、アメリカの大手製薬メーカーなどが莫大の資金を使って薬剤の特許期間の延長を図り、さらなる利益を出したりしているが、そのような姑息な手段で利益を上げるのではなく、まともに患者と向き合った関係の中で、医療従事者、患者、そして製薬メーカー皆がより良い方法によってその中で企業が成長すべきだと。

 

たとえば、最近オーソライズジェネリックというジェネリック医薬品が出てきているが、先発メーカーは、特許が切れれば、先発品の薬価収載を削除してオーソライズジェネリックに切り替えて販売すべきだとMRに言っている。新薬販売時、イベント抑制など様々な利点を言いながら、特許が切れれば、どうしても新薬に重点がいってしまう。

 

本来は10年後、20年後が本当の意味でその薬の検証がされるべきで、メーカーはその責任を全うすべきであり、オーソライズを販売することで薬価は落ちてもさらなる副次効果があれば、他のジェネリックへの変更の心配も少なくなり、MRもその副作用、効果につき20年先まで責任もって営業ができると思う。薬価は下がってもその分、本当にいい薬であれば、処方量が増えることも考えられると思う。

 

今からの社会的存在としての企業の在り方、これは個人の在り方もそうであるのだけれど、本当の意味での道徳感、人への思いやり、お互いに共存してゆく気持ち、それが健全な社会を作ってゆける唯一の道だと思う。そのためには手段としての民主主義が不可欠なのです。

 

2015年5月26日   文責   世界のたま      sign

貨幣と民主主義

貨幣とは何なのか、他の提言の中でのべましたが、今回私が、このブログや裁判で訴えている民主主義の崩壊との関係についてお話ししようと思います。

 

ブログの冒頭の主権者への提言の中で、資本主義社会が世界で広がり、拡大する中で、手段が目的化されていることへの警告を発しましたが、その資本主義社会の中での手段としての貨幣について考えてみましょう。

 

貨幣とは、ご存知のように、あくまでも交換手段に過ぎませんが今の世界、日本を見た時、その目的である流動性がなくなってきています。

 

その原因の最も大きなものは所得格差、企業収益格差によるものが大きいと言えます。アメリカのクリントン政権時、労務長官をしたロバート・ライシュの著である格差と民主主義の中で取り上げられていますが、アメリカのここ数年の上位400人の年間総所得が下位1億5000万人の総所得より多いという現実には驚いてしまいます。

 

2010年アメリカ最高裁シチズン・ユナイテッド裁判において企業による政治献金に関して無制限とする判決がなされ、アメリカでは大企業、高額所得者がロビー活動を通じての政治をコントロールすることがより容易になってきており、個人、企業含めた所得格差は拡大の一途を続けており、中間所得者の所得は減る一方で、結果的に治める税金は減少の一途をたどっている。(一方では、高額所得者は減税によりその所得は増えている。)結果的に一般の学校、公園、道路などの公共施設は、老朽化が放置され、教師数など含めて教育、環境面でその質は低下してきている。

 

結果的に機会の平等は失われ富める者は、その資産を引き継ぎ、私立学校での高度な教育の中でより富める者になる機会が与えられる。一方、貧しき者は先ほどもお話ししたように、質が低下した公的な教育機関でしか学ぶことができない。しかも、所得の低下のためそれら公的な教育すら受けられない人々も増えていると思われる。

 

富める者は、結果的に公的なサービス機関を利用することがなくなるため、公的サービス機関の充実などのために、公的な税金を支払うことをきらい、莫大の政治資金、ロビイストを通じた政治力により、より高額所得者の所得税負担の軽減、相続税負担の軽減を図ってきている。

 

結果的に中間所得者以下の所得は減少し、GDPを支える中間層以下の購買力は低下し、企業の利益も低下し、結果として税収も減少、税収入を上げるため中間層以下の所得税負担、消費税、公的なサービス料金は上がり、サービスの質も低下する。その循環の中で誰が考えても分かることであるが、所得格差は拡大の一途をたどってゆく。

 

アメリカでのこれらの所得格差が最も拡大した時期は1928年そして2008年であり、世界恐慌とリーマンショックの時期と重なっている。

 

日本においても同様に所得格差は拡大の一途をたどっている。

 

企業間利益格差もはっきりしてきており、エコ減税などの制度を利用して自動車産業などの大企業では史上最高の利益を上げている。公的な税金を利用し、莫大な企業利益を上げる構図、金融機関なども大手金融機関は公的資金で救われながらいろんな優遇税制などを駆使して莫大の利益を上げてきている。

 

これ以外でも多くの大企業はその政治資金、天下りなどを利用して、有利な税制度、補助金制度を作り出し、富める者をより富める者にする政策を推し進めてきている。

 

一般的には国際競争力強化や大企業を支えることで下請けはじめ日本経済の活性化につながるとしているが、私は多くは富める者たちの詭弁だと思っている。

 

社会全体の利益、幸福にはつながっていないと思う。

 

かつて言われた社会ダーウイン主義的な考え方に近くなっていると思う。私は対自然との関係においてはある意味で人工的な物は排除して、自然淘汰にまかせるべき方向性が正しいと思っているし、地球全体から、種としての人間を考えた時それ以外の道は選びようがないと思っている。

 

しかし、人間が作る人間の集まりである社会組織を考える上では、そこには人間の気持ち、心、愛情が介在すべきで、ダーウイン主義的な考え方を取り入れることは間違っていると思う。かつてのユダヤ人迫害、そして現在世界各地で起きている民族間での迫害につながる考え方だと思う。

 

貨幣というものを手段から目的にしてしまっている先進国と言われる日米に比べて、以前にも他の提言で取り上げたことがあるが、ドイツはやや異質な国で、所得上位者の割合は1970年台とあまり変わっていないとされている。原子力問題についても、財政における健全化においても、EUという組織を作り上げた点においても手段を手段としてとらえようとしている冷静さを感じる。

 

我が国日本においては、大臣が関係する省庁が補助金を出した企業から、大臣の政治団体が、政治資金の提供を受けても知らなければ許されるという、聞いてあきれることがまかり通っている。実質的には賄賂に他ならない。

 

貨幣という手段に翻弄され支配されていっている人間だけれども、所詮はもともと何の価値もない交換手段にしか過ぎないものであるということに私たちは気づかなければならない。

 

しかし、実際にその中で既得権、資産を形成した人たちがそれらに気付き、自ら是正してゆくことはまず困難である。ロバート・ライシュ氏も語っているがそれらの改革は決してワシントン内部からは起こることはないと。

 

一人一人の国民が考え、行動するしかないのです。

 

民主主義が、貨幣という力で捻じ曲げられてきているのです。

 

先ほども申しましたが、それを是正できるのは国民一人一人の力です。ただ、その前提として最も大切なのは手段としての民主主義が機能不全に陥っていないことです。

 

私が最高裁判決において不平等な違憲状態の選挙制度の是正を言われながらその是正をしない違憲国会について現在最高裁に上告しているのは、民主主義が機能不全に陥ることだけは避けたいその一心なのです。

 

制度としての民主主義が機能不全に陥ったとき、そこに待っているのは、格差社会というより、人間の尊厳すら否定される社会であることだけは間違いないのだから。

 

2015年5月26日   文責   世界のたま           sign

 

今なさねばならないこと(4)

しばらくの間、書くことができませんでした。

 

以前お話したことがありますが、特定秘密保護法の国会議決無効、執行停止を求めて広島地裁へ提訴、その後、昨年末に、棄却判決をいただき、広島高裁へ控訴、先月に控訴棄却判決をいただいたため、最高裁へ上告、上告受理申立てをさせていただいていたのですが、その理由書の作成のため、ブログはお休みさせていただいておりました。

 

結局、上告提起に関しては理由書の作成はせず、上告受理申立てに関してのみ理由書作成し、昨日5月19日に、広島高裁民事部へ提出させていただきました。

 

私なりに一生懸命作成しましたので悔いはないのですが、針の穴に糸を通すレベル以上に困難であることも事実です。理由書の中にも書きましたが、私自身、法曹界の人間でなく、おそらくその世界の人からみれば稚拙な論理展開であることも百も承知だったのですが、このまま立憲民主主義の崩壊を、ただ座してみておくことは、現代に生きる主権者として、私にはできないのです。

 

こうして上告受理申立て理由書を提出して広島高裁を後にしたとき、天気も良かったせいもあって車窓から入ってくる風は本当にすがすがしく思え、わずかの安堵感を感じることができた。

 

今の私にとってできる限りのことをしている。結果はどうであれ、後悔だけはしない生き方、自分に正直に生きているという自負だったかもしれない。

 

ただこのブログにしても、裁判にしてもそうなのだけれど、人との出会いがなくしてあり得なかったのも事実だ。本当に不思議なものだと思う。

 

今回の理由書の作成についても、過去振り返ってみた時、一応、国立の医学部受験、医師国家試験などいくつかの多少頑張った時期があったが、久々に集中した時間を過ごせた。

 

過去幾度か経験した、自分自身を無にして時間そのものの中に身を委ねることができたのも、ある純粋な瞳との出会いであった。

 

自分自身が遠くに置き去り、忘れかけてしまっていた、遠い純粋無垢な核心に触れることができた。その出会いがなければ、一生気付くこともなかったかもしれないと思う。

もう一度あの純粋な瞳の中に私自身を映し出せるものならと思う。

 

今、私がなさねばならないこと、私自身の核心に忠実に生きること。

 

2015年5月20日   文責  世界のたま      sign

 

今なさねばならないこと(3)

私がこのホームページを立ち上げた大きな理由の一つに憲法保障の問題があります。

 

他の提言でお話ししているように私は今の日本国憲法が本当に大好きなのです。

 

私にとって他国に押し付けられたなどの理由などどうでもよいのです。問題は中身なのですから、ある意味で世界における国家からの人権の獲得、保障の歴史を詰めた宝石箱のような憲法だと思う。

 

今の政府含めた憲法改正論議を見ていると、押し付けられたという論理は、まやかしであって本意は戦前のように天皇を中心として国民を統制していきたいだけの話だということが見え見えである。

 

しかも戦前もそうだったのであるが天皇を中心にしてというのはただの口実であって所詮はその時代というか日本が近代化された際にたまたま権力、資産を蓄えた人々がそれらを維持するために戦前戦後含めて天皇という隠れ蓑の中で国民を統制してきただけの話だ。

 

多くの純粋な若者を、沖縄の人達を、植民地の人々を犠牲にして、ある意味で利用して自分たちの利益しか考えていないのに、お国のため、天皇のためとしてそれらの人々から搾取してきたのだと思う。それらの人々を扇動はしても自分たちは決して前線には出ず、敗戦となれば相手国にひれ伏して何とかして生き延びようとし、その中でうまい汁を吸おうとする。戦犯となっても様々な手段で彼らは生き延びてきた。

 

言わば国家的詐欺の犯罪者に過ぎないと思われるが、それらの子孫がまた頭をもたげてこようとしている。

 

その最終段階が憲法改正であると思う。

 

平成24年作成の自民党の改正草案を見ていてもはっきり出ている。

 

天皇を象徴から元首へ変更、天皇の国事行為に関して、内閣の助言と承認の削除、表現の自由に公共の福祉の制限を設けようとしている、更に特に問題となるのは、今の日本国憲法では国民には憲法尊重義務は課せられていないが、憲法尊重義務者の第一文に国民をあげている。

 

他の提言の中でも述べているように、憲法とは国民の人権を国家から守るために存在しているのです。それを彼らは無力化しようとしている。

 

憲法という武器を失った国民は自分たちを守る術が何もなくなってしまいます。

 

総選挙後の一連の流れの中で、一つ一つの事実を見てみればわかります。

 

沖縄の辺野古問題での知事の中止命令処分に対しての政府機関内でのやり取り、原子力発電所問題での政府の対応、本来は行政を規制すべき法律を逆手にとって国民の権利の制限に使っている。

 

それらの延長線上に国民の人権を国家権力から守るべき憲法を、国民が守るべき規制へとすり替えようとしているのです。

 

そしてNHK、朝日放送の呼び出し、事情聴取など表現の自由への圧力、一見、表現の自由の行き過ぎという理由がもっともらしく聞こえるのですが、先の憲法改正草案、特定秘密保護法案の一連の流れの中でみると、その本質がはっきりとわかります。

 

私が今回、最高裁へ訴えているのもそこなのです。

 

言論、表現の自由が失われた時、もうその時には遅いのです。それは歴史が証明しています。

 

現政権になって戦前からの多くの国民から生き血を吸って肥え太った資産家、政治家、それらに踊らされ、利用して戦後、資産を蓄積した人たち、それらの子孫が、資産を守り増やすために多くの政策を打ってきています。これは我が国に限らず世界中で言えることですが。

 

その中では当然のごとく格差は広がっていき、地球環境は破壊されていっています。

 

私は最近よく考えることがあります。

 

デカルトが言った、我思うゆえに我あり、人間中心の社会に、理性は存在するのか、フロイトが言うように理性とは幻想であって、自我の確立などはあり得ないのか。

 

2015年4月30日  文責  世界のたま       sign

今なさねばならないこと(2)

今、世界を見渡した時、シリア難民、パレスチナ難民、最近ではイエメン、アフリカ各地の難民、世界いたるところで、多くの子供たちを含む人たちが劣悪の環境下で、祖国を追われている。

夢も希望もなく、ただひたすらその日の命だけのことしか考えることが許されない人たちが増え続けている。

 

地中海を命を懸けて、あるいは騙されて小舟にのってヨーロッパに漂着する人々も増え続けている。

 

ある人々はヨーロッパの地を踏むことも許されず地中海に飲み込まれている。

 

多くの難民が生じている原因は、その多くが内戦含めた戦闘行為によるものです。

 

今までの提言の中で、安全保障について書いたことがありましたが、日々伝えられる世界各地の難民キャンプなどで嘆き、苦しんでいる子供たちを含む人々を見るとき、安全保障のなんたるかを考えさせられる。

 

我が国、日本においても中国、韓国、ロシアとの国境、領土問題やイスラム国などのテロの脅威に対し、日米安全保障を中心とした今後の安全保障をどうするのか、その中で、辺野古問題、憲法9条問題が生じている。

 

それらの様々の世界情勢、世界各国の動きを見て、歴史を振り返って思うことは、何度も愚かなことを繰り返してきた、人間の愚かさだ。

 

そして今、同じことを繰り返そうとしている我が国がそこにある。

 

今まで他の提言でお話したように、いくら軍事力を高めたところでセキュリテイジレンマ、セキュリテイパラドックスを生じてしまい、無駄な時間、予算、労力を使うだけで、全く意味のないことなのです。

 

それらの経験の中で、何故歴史が繰り返されるのか、我が国が繰り返そうとしているのかということを考えた時、その理由は、大きく二つあると思う。

 

一つは軍事産業に代表される資産家の更なる富への欲望に他ならない。そしてそれにまとわりつく寄生虫のような政治家、官僚たちを含めた人たちの権力欲だ。

そしてもう一つは国家、民族など、本来個のための手段でしかない物を目的化する人たちの欲に他ならない。

 

ただこれら二つは、一見二つであっても一つでもある。

 

歴史を振り返ってみるとき、資産家は自らの富を増やすため人々を先導し、政治家、官僚を利用して民族間、国家間の緊張を高めるのが常だからだ。

 

個々の細分化した集団を作ることで、それらの集団間での争いごとを生じさせ、扇動して自分たち資産家への批判、妬みを減弱させ、それらの摩擦を利用してさらなる富の蓄積を図っているのだと思う。

 

人類も自然界の中では単なる一つの種でしかないということを改めて思い知らされる。

 

ある意味で人が殺し合うことは種の保存というヒトの遺伝子に組み込まれた本能であって己で制御できる事象ではないのかもしれないとも思う。

 

ただそれでも私は思うのです。

 

我が国が、私たちが今しなければならないことは武力をもって戦うことではなく、今現在世界各地で命の危険にさらされている難民の人々へ思いをはせることだと思う。

 

日本国憲法9条という強い盾を私たちは持っているのです。

 

私は思うのです。真の安全保障とは人々の戦争、侵略への疑心暗鬼、セキュリテイジレンマを解消することなのです。

 

そのために我が国が第一にしなければならないことは防衛費を兵器などの物に使うのではなく、難民キャンプの子供たちへの教育のために、人のために使うことだと思う。

 

一人でも多くの子供たちを難民認定して、日本国内に受け入れて日本が世界に誇る教育システムの中で、平和教育、民主教育、技術教育を施し、世界へ、祖国に帰してあげることだと思う。

 

真の安全保障とは何なのか。

 

そのために私たちは今、何をなさねばならないのか。

 

2015年4月18日  文責  世界のたま             sign

 

 

今なさねばならないこと(1)

しばらくの間、いろいろなことを考えさせていただいていました。

 

一つには私事ではありますが特定秘密保護法執行停止訴訟につき、先月の3/27に広島高裁民事部において控訴棄却の判決をいただき、1週間考えた上、4/6に最高裁への上告を申立させていただきました。理由書については追って提出することにしており、上告そのものはまだ完結いたしていない状態です。

 

当然のことながら一般的にも言って年に数千件もある上告に対する最高裁の判断は99%以上が棄却されており厳しい判断が予想されますが、新聞社の取材の中でもお話しいたしましたが、私が、今生きている社会の中で決して許してはいけない事実に気付いたものは是正、修正を促す義務があると思う。

 

そして自分自身が後悔したくないのです。

 

そして二つ目には過去、いくつかの提言の中で現在行われている金融政策についての私自身の思いを述べさせていただきましたが、このひと月、いろいろな金融政策専門家に関しての考え方をもう一度学ばさせていただきました。

 

金本位制から現在の管理通貨制度の中での貨幣の持つ意味、そして現在の世界を取り巻く財政、金融危機、デフレ問題など、いろんな問題における、様々な方の考え方を学ばせていただく中で思ったこと

 

1990年台以降の長期にわたるデフレの中での財政、金融政策が失敗であり、第二次安倍内閣の下での財政政策、黒田日銀総裁の下での異次元の金融緩和政策が成功であったのか?

 

正直な考え方を述べるならば、今までのアメリカを中心とした資本主義社会的な社会を今後も引き続き考えてゆくならば、現在行われている、ゼロ金利政策に加えてのインフレターゲットを指標とした無制限とも言える金融緩和政策は理論的には正解である。

 

1990年以降、日本政府、日銀が行ってきた財政、金融政策は確かに中途半端であったといえるであろう。デフレからインフレに振れようとした際のゼロ金利解除や金融緩和政策解除、金融緩和規模としても量的に不十分であったことは否めない。

 

ただし、そこで問題なのは、それらの財政、金融政策の目的が、先ほども述べたようにあくまでも今までの資本主義的な社会を目指したうえでの延長線上で考えた時の手段としての金融、財政政策として正しいというだけのことだ。

 

そして、はっきりしていることは、短期的な一時的なものでしかないということは明白であり、根本的な財政政策抜きでは考えられない。

 

私が今、これらの財政、金融政策で思うことは何度も繰り返して述べているように、手段を目的化しているということです。株価、通貨価値、物価それら自身を目的として、金融、財政政策を行っているだけなのです。手段としては正解なのですが、手段そのものを目的にしているのか、目的がわからないまま進んでいるのです。

 

結果として皆さんのご承知のように、何が待っているのでしょう。

 

そこにあるのは更なる格差社会、環境破壊です。

 

盛んにデフレは悪である、インフレが望まれているのは誰のためなのか、一見確かにデフレは資産のあるものは有利と思えるのですが、それは現在の税制度含めた財政政策を前提とした考え方で、地球環境などを鑑みた時、消費、経済の縮小が本来は望まれるのだと思う。

 

地球環境はもはや残念ながら後戻りができないところに来ていることは明白であり、自然現象としての世界各地で起こっている、自然災害、テロを含めた戦争状態、すべて自然による人という種への自然淘汰であると思う。

 

格差社会の中で人々は自分たち身の回りのことのみしか考えられなくなってきている。

 

富あるものは更なる富を目指して資源を独占し、消費し、環境破壊を覚悟したうえで自分たちだけはその中で生き残る術を模索している。

 

金銭的に貧しきものは、富あるものによる政策の中で、序列化され、下位のものを蹴落とすことに心奪われる。

 

今、私自身何をなさねばならないのか。

 

2015年4月15日   文責  世界のたま    sign

 

 

 

日本国の危うさについて(2)

日本国の危うさ、脆さについて、その根本的な問題は、核心がなくなってしまったことにあると言ったが、具体的に見てみましょう。

 

最近起こったいくつかの事象を取り上げてみると

 

金融、経済面では、株価の上昇があります。この株価の上昇については非常に意図的な、長期的視野のない脆さが見え隠れしています。

 

そもそも現在の日本経済をみてみても株価が上がる要素は全く見当たりません。

 

日本の貿易収支は赤字であり、海外の株式投資も昨年は買い越しでしたが、今年度になってからは売り越しです。

 

また、政府が国民の年金や、郵貯からは取りつくしたので、さらなる国民の財布を狙って作ったNISAは蓋を開けてみたら国民が踊らず、投資する人が思ったほど増えない状態に政府は困っています。

 

そもそも、税制度的にもわずかの資本所得に対する非課税をちらつかせて株式投資に誘い出すやり口が気に入りません。

 

国家が株価の上昇を先導し、国民をたきつけ参加させておいて、損失に関しては知らんぷりなのでしょうから。なけなしの庶民の金を吸い上げる資産家、核心的な政策能力がない政府のための行き当たりばったりの付け焼刃の政策にすぎません。

 

おそらく国民がそれに踊らされないのも政府のやり口を学習してきているのだと思う。

 

日本銀行による株式の買い取り、年金基金による株式投資など、ありとあらゆる手立てで見かけ上、株価を上げているのが現状だと思われますが、所詮は核心がないため、おそらく株価が下がってくるのも時間の問題と思われ、そのつけは結局、政府に踊らせて投資した国民自身、表面的には隠している年金基金の損失、最終的には国家の財政破たんへと回ってくることは間違いないことだと思う。

 

先日の国会答弁で安倍さんが年金基金が35兆円利益を上げたなどと発言されていましたがおそらく、年金基金が買い支えている現在の偽りの株価の中では利益が上がった形になっているのでしょうが、結局、基金の資金、自らの資金で上げ、見かけ上資産が増えているだけのことではないかと思う。ある意味で国家詐欺に近いものを感じる。

 

以前にも話したが年金資金は国民の貴重な国民自身の財産であり政府が一時期の国家政策のため利用するものではない。まず失敗して損失を出すのは間違いないのだから。

 

結局、いいように海外投資家初め、資産を保有している人たちに株式投資を通じて大切な基金が流れてしまっているだけのことなのです。

 

安全保障に関しても、憲法9条の拡大解釈、改憲への流れが強まってきています。

 

今回のイスラム国や、ウクライナなど世界各地で多くの戦闘が行われ、世界中どこでテロが起きてもおかしくない状況になってきています。

 

世界全体が混とんとして何が正しいのか、安全保障とは何なのかがわからなくなっています。

 

そんな中で我が国は今、憲法9条という核心を捨てて、何の核心も持たない国家に成り下がろうとしています。

 

私は先に述べた経済面でもそうだし、安全保障面でもそうなのだけど、私たちは資本主義社会が行き詰まり、格差社会、戦争による多くの人々の迫害が生じている混とんとした時代だからこそ、核心を持たなければならないのです。

 

核心のないところに心落ち着ける、心豊かな社会は存在しえません。

 

多少物質的には恵まれてはいるが、薄っぺらな、不安定な社会を選ぶのか、物質的、利便性では欠けるけれど精神的には多少でも安定的な社会を選ぶのか。

 

今、私たちは、それを問われているのだと思う。

 

2015年3月16日  文責  世界のたま                 sign

日本国の危うさについて(1)

日本国について様々な提言をしていますが、最近の政治、経済、金融、教育、治安すべての面で言えることは、その危うさです。

 

言い換えれば、日本という国家、組織の脆さ、次元の低さです。

 

国家というものを手段としてとらえる私ですが、本来の意味で、世界中の人々、一人一人を個として尊重するためには、手段としての国家の存在はその過程の中で不可欠であること間違いありません。

 

そういった意味で現段階においては国家の存在は大切であり、その在りようが非常に重要だと思う。

 

日本国を考えてみた時、四季があり、自然豊かであった一昔前は、そこに住む人々も心豊かで、他の提言でも述べた人々の心の中に核心があったように思う。

 

今回の提言のテーマである危うさも、その原因は、核心が失われていることに尽きると思う。

 

ところで、危うさの本体であるが、何かと言えば、一言でいうと、欲だと思う。

 

欲と言っても人によってさまざまであり、人間も所詮、生物であり、自己防衛本能があり、種を保存すべきDNAが埋め込まれているのだからある程度の欲があることは当然のことである。

 

私がここで問題とする欲とは日本国を代表する人たちの欲である。

 

そもそも国家を代表とする人々、議員、官僚、大臣、大企業経営者などはある意味で、権力欲、名誉欲、金銭欲がなければそういった職に就かないとも言え、水掛け論的な部分もあるが、おそらく社会全体の問題としては、他の提言でも何度も述べているように、資本主義のもつ根本的な問題である、金銭含めた物への過度の執着、欲であろう。

 

そして欲がもたらす結果としての格差社会とも言えるし、格差社会が、さらなる欲を生じさせているとも言える。

 

政治の世界で言えば、二世代議員なども格差社会、社会全体の固定化につながっており、それらが日本国の危うさ、脆さを生じさせているのだと思う。

 

教育に関しての提言の中でも述べているが、社会の多様性こそが社会の発展、強化につながってゆくものだと思う。

 

生物の進化の過程でもそうなのだが、多様化が環境変化に対する生物、種の生き残りには不可欠なものだと思う。

 

私は、今の日本国を見て思うのだが、格差社会の中で、社会全体が固定化する一方、人としては多様性を求めるがゆえにある意味で抑圧し、抑圧される人の中で、様々な問題が生じているのだと思う。

 

子供たちが起こす様々な事件もそうだし、差別的な出来事も原因としては同じものだと思う。

 

私は今の日本国のその危うさ、脆さを克服するためには、社会の固定化、格差社会を改善し、社会の多様性を高めていくことこそが最も必要なことだと思う。

 

その中で一つ考えておかなければならないのは、ただ単に社会の多様性を容認するだけでは不十分であり、多様性の中に核心は不可欠だと思う。

 

その核心こそが国家で言えば憲法に他ならないと思う。

 

日本国の危うさ、脆さの原因を逆に言えば、核心である憲法を軽視し、無視することで核心を揺るがしてしまっているがゆえに、多様性を容認することができなくなってしまい、社会の固定化、格差社会を招いているとも言えるのです。

 

2015年3月14日  文責  世界のたま  sign

 

 

 

 

国会議員と大臣と国民の道徳について

毎日のようにニュースに取り上げられていることの中に、国会での野党から追及されている大臣への政治献金の問題がある。

 

皆さんはどう思われているかわからないが、まず私がこれらの何人かの大臣の国などから補助金をもらった企業からの1年内の大臣への政治献金が毎日のように報道され、それを国会で追求する野党をみていて思うことは

 

何度、過去同じ光景を見てきたんだろうという馬鹿らしさに尽きる。

 

今回の安倍政権、憲法違反の与党、野党含めた現国会すべてを見渡してみて、いかにくだらない、意味のない時間を費やしている日本という国家の愚かさである。

 

何故、こんな単純な約束が守れないのでしょうか。

 

あれだけ政治と金の問題で、最終的に政党助成金の交付という形で決着をつけたはずではなかったのか。

 

今回の政治資金での問題は、すべてのことで言えるのです。政治、経済、金融政策においても構造は同じなのです。一歩もなんら前進しているのではなく振出しに戻って過去あった同じ国会審議というレベルとは言えない言い争いをして意味のない時間、政策を繰り返しているだけのことなのです。

 

戦後総決算とか、新たな時代の幕開けなどとできもしない、する気もない、過去何度も聞いてきた同じことの繰り返しをしているだけである自分たちに気が付いているのか、気が付かないふりをしているのか、それすらも判断できないただの大馬鹿者なのか定かではないが、おそらく後者なのであろうとしか言いようがない。

 

他の提言でも述べているように、私が今回、ブログを立ち上げたのももうこれ以上、無駄でアホらしい時間を私たちは過ごすべきではないと思ったからです。

 

一方、教育現場では学校教育の中で道徳を評価科目として取り入れていこうという動きがあります。

 

最近起きている様々な殺傷、誘拐事件などを受けて考えられているようにも見えるし、一部の報道で言われているように、現政権の愛国心教育の一環として行われようとしているのかも知れません。

 

ただ、今の国会、政権が子供たちの道徳教育を評価していこうと考えている滑稽さに私はあきれてしまうのです。

 

今の子供たちが精神的に追い込まれ、いろんな殺傷事件を起こしている原因は大人たちが作り出している社会そのものにあること、特に政治、経済、金融に中心的に携わっている国会議員、大臣、官僚、大企業経営者にあることを全く自覚していない。

 

今回の政治献金にしてももらったのを本人が知らなかったら許されるというのであればいくらでも可能になります。真の法を定立する国会議員たるものであれば、まず何のための法律かを知って作るものなのです。

 

政治資金規正に関して言えば、公職に対する国民の信頼性、公務の非買収性、ひいては政治、国家に対する信頼、それが本来の目的なのです。

 

彼らは法の本来の目的をもたないまま定立しているため、というより、自分たちの私欲、利益のために法を定立しているために、自分たちが守らなくていいようにするための法律を作ろうとするため逃げ道を作っているのです。国会議員というより、ただの全くたち悪い集団です。

 

一方では国民に対しては税金含めて逃げ道のないように、ずる賢い国民に向けてはより厳しい懲罰的な法律を作っているのです。自分たちこそが、もっともずる賢い国民であることを棚に上げて。

 

私は今の子供たち含めた社会的弱者の中で様々な殺傷事件含めた事件が起きている大きな原因の一つが先ほど述べたように国家の法律を作り、それを施行する人たち自身に道徳感が欠如していることだと思う。

 

結果として社会的弱者にとって不利な、既得権者にとって有利な法律が施行され、勝ち組が勝ち続ける社会、いわゆる格差社会、心が通わない、金銭的な価値が優先される社会が形成される、そのことが一番の原因であるのではないかと思う。他に何があるのでしょうか。

 

最近明らかにされている法人税減税、相続税逃れの資産家の贈与税免除政策、派遣法問題などがその一例だ。景気刺激策などというのもただ単なる言い訳に過ぎない。

 

たとえば、生まれつき犯罪者は犯罪者と決まっているものではないと思う。

 

ある殺人鬼がどこかの大企業の経営者の子供であったなら、大物政治家の子供であったなら犯罪を起こさない確率は高いと思う。逆に政治家の子供も劣悪な環境下におかれたなら何らかの犯罪を起こしてしまうのではないかと思う。

 

時々、私は考えることがあるのですが、貧しい食べるものもない人が生きるために一個のパンを盗むことと、政治家が、法律には触れないと言いながら多額の政治献金を受け取ることと、どちらが最初に罰すべき罪なのかと問われたなら政治家の方だと思う。

 

何故ならば、政治資金がなくても政治家は生きていられるのだから。

 

私は道徳とはまず、国家の統治機関たる国会、内閣、司法に携わる人たちがその手本となる行動をとらない限り、子供たち含めた国民の道徳感には結びつくことは決してないと思う。

 

愛国心とは、ただ単に国家を敬愛し、盲信することではなく、国家を構成する主権者たる一人一人の国民を人として互いに大切にし、尊重する心だと思う。

 

それは決して、道徳という形で一定のものさしで評価されるものではなく、一人一人の心の中から湧き出てくる多様性のあるものだと思う。

 

2015年3月3日   文責 世界のたま                  sign

 

 

 

 

日本国に生まれて(3)

日本国に生まれた私たち

 

時間というものを考えてみましたが、今、この時間に生を授かった私たち

 

日本国に今という時間にいる私たちは何をしてゆけばいいのでしょう。

何をしないといけないのでしょう。

 

手段を手段として考え、時間を立体的に捉えて今の世の中を見てみると本当に滑稽なことだらけであることに気付かされる。

 

国会での国会議員と閣僚、総理との意味のない言い争い、NHK会長と国会議員とのくだらない喧嘩、手段と目的をはき違え、直線的な時間軸でしか物事を考えることができない人間の典型的な行動です。

 

ただ、これらの行動が今までの時代では、まかり通ってきたことなのです。

 

道徳的に小学生以下の低次元の人達ばかりが今の日本国を動かしているのです。以前にもお話したことがありますが法を定立し、執行するためにはそれによって規制される人たち以上の道徳が必要です。

 

道徳的に低次元の彼らは、不思議にも社会的にはそれなりの地位にある人たちとされており、我が国の法律を作り、法律を施行していっているのです。

 

愚かな彼らを選んでいるのが私たちであるということを、今という時間を生きている私たちはしっかりと再認識しなければいけないのです。

 

何度も言いますが、まず、私たち一人一人が変わらないといけないのです。

 

先日の国会で、日銀の黒田総裁が会合で話したとされる日本国債のリスクについての話が取り上げられていました。返済するめどもない国債のリスクをリスクゼロの評価をしている今の金融当局の考え方がおかしいに決まっているのに、今後世界の格付け会社が日本国債をリスク評価されると問題が生じる可能性があるとの発言には驚いてしまいます。

 

国債という国家の債務である以上、国内資本が有していようが、外国資本が有していようが借金は借金です。そんなこと誰でも最初から分かっていることです。それを国民の財産などと都合のいいすり替えでごまかしてきただけのことです。この期に及んで、国債に対する世界の評価に左右されるなど、今の日本国の金融政策がいかに何も考えていないかが一目瞭然です。

 

ある省庁では数兆円もの使い切れない余ってしまう予算をつけるでたらめな国家予算を執行している日本国債を今後誰が買い支えてくれるのでしょう。

 

貨幣という手段に溺れてしまい本来の目的を失ってしまった国家こそが今の日本国なのです。

 

そんな世界にも例のない無駄なお金を使い、借金することでしか国家予算を作れない恥ずべき国家の総理でしかないのにアメリカ議会での演説を考えているというニュースを聞いたが、日本国も本当の意味で、地に落ちたとしか言いようがない。

 

そんな自分の外遊パーフォーマンスに無駄な税金と時間を浪費したいなら、そんな暇があるなら、総理を辞して海外旅行でも何でもすればいいのです。真剣にこれからの世代の子供たちのことを、日本国、世界のことを考えたならばそんな無駄で愚かななことはできるはずがないのです。

 

私は思うのですが、落ちるところまで落ちてしまった日本国ですが、今の時代に生きている私たち主権者一人一人こそが本当の意味でもう一度、手段と目的を取り違えることなく、立体的な時間の中ですべての事象を見つめ直さなければならないのです。

 

今の立憲民主制を顧みない政権や国会議員に踊らされることなく真の意味での誇りを持った日本国を作ってゆかなければならないのです。

 

そのことが立体的な時間の中で世界中の貧困や飢餓や戦禍の中で苦しむ人々を救うことつながるのです。

 

世界でもまれにみる豊かな心、団結力、寛容さ、そして人権、民主、平和を重んじる日本国憲法をもっている物質的にも恵まれている日本国で生きている私たちだからできることなのです。そして私たちでないとできないことなのです。

 

2015年2月22日  文責  世界のたま                         sign