貨幣と民主主義

貨幣とは何なのか、他の提言の中でのべましたが、今回私が、このブログや裁判で訴えている民主主義の崩壊との関係についてお話ししようと思います。

 

ブログの冒頭の主権者への提言の中で、資本主義社会が世界で広がり、拡大する中で、手段が目的化されていることへの警告を発しましたが、その資本主義社会の中での手段としての貨幣について考えてみましょう。

 

貨幣とは、ご存知のように、あくまでも交換手段に過ぎませんが今の世界、日本を見た時、その目的である流動性がなくなってきています。

 

その原因の最も大きなものは所得格差、企業収益格差によるものが大きいと言えます。アメリカのクリントン政権時、労務長官をしたロバート・ライシュの著である格差と民主主義の中で取り上げられていますが、アメリカのここ数年の上位400人の年間総所得が下位1億5000万人の総所得より多いという現実には驚いてしまいます。

 

2010年アメリカ最高裁シチズン・ユナイテッド裁判において企業による政治献金に関して無制限とする判決がなされ、アメリカでは大企業、高額所得者がロビー活動を通じての政治をコントロールすることがより容易になってきており、個人、企業含めた所得格差は拡大の一途を続けており、中間所得者の所得は減る一方で、結果的に治める税金は減少の一途をたどっている。(一方では、高額所得者は減税によりその所得は増えている。)結果的に一般の学校、公園、道路などの公共施設は、老朽化が放置され、教師数など含めて教育、環境面でその質は低下してきている。

 

結果的に機会の平等は失われ富める者は、その資産を引き継ぎ、私立学校での高度な教育の中でより富める者になる機会が与えられる。一方、貧しき者は先ほどもお話ししたように、質が低下した公的な教育機関でしか学ぶことができない。しかも、所得の低下のためそれら公的な教育すら受けられない人々も増えていると思われる。

 

富める者は、結果的に公的なサービス機関を利用することがなくなるため、公的サービス機関の充実などのために、公的な税金を支払うことをきらい、莫大の政治資金、ロビイストを通じた政治力により、より高額所得者の所得税負担の軽減、相続税負担の軽減を図ってきている。

 

結果的に中間所得者以下の所得は減少し、GDPを支える中間層以下の購買力は低下し、企業の利益も低下し、結果として税収も減少、税収入を上げるため中間層以下の所得税負担、消費税、公的なサービス料金は上がり、サービスの質も低下する。その循環の中で誰が考えても分かることであるが、所得格差は拡大の一途をたどってゆく。

 

アメリカでのこれらの所得格差が最も拡大した時期は1928年そして2008年であり、世界恐慌とリーマンショックの時期と重なっている。

 

日本においても同様に所得格差は拡大の一途をたどっている。

 

企業間利益格差もはっきりしてきており、エコ減税などの制度を利用して自動車産業などの大企業では史上最高の利益を上げている。公的な税金を利用し、莫大な企業利益を上げる構図、金融機関なども大手金融機関は公的資金で救われながらいろんな優遇税制などを駆使して莫大の利益を上げてきている。

 

これ以外でも多くの大企業はその政治資金、天下りなどを利用して、有利な税制度、補助金制度を作り出し、富める者をより富める者にする政策を推し進めてきている。

 

一般的には国際競争力強化や大企業を支えることで下請けはじめ日本経済の活性化につながるとしているが、私は多くは富める者たちの詭弁だと思っている。

 

社会全体の利益、幸福にはつながっていないと思う。

 

かつて言われた社会ダーウイン主義的な考え方に近くなっていると思う。私は対自然との関係においてはある意味で人工的な物は排除して、自然淘汰にまかせるべき方向性が正しいと思っているし、地球全体から、種としての人間を考えた時それ以外の道は選びようがないと思っている。

 

しかし、人間が作る人間の集まりである社会組織を考える上では、そこには人間の気持ち、心、愛情が介在すべきで、ダーウイン主義的な考え方を取り入れることは間違っていると思う。かつてのユダヤ人迫害、そして現在世界各地で起きている民族間での迫害につながる考え方だと思う。

 

貨幣というものを手段から目的にしてしまっている先進国と言われる日米に比べて、以前にも他の提言で取り上げたことがあるが、ドイツはやや異質な国で、所得上位者の割合は1970年台とあまり変わっていないとされている。原子力問題についても、財政における健全化においても、EUという組織を作り上げた点においても手段を手段としてとらえようとしている冷静さを感じる。

 

我が国日本においては、大臣が関係する省庁が補助金を出した企業から、大臣の政治団体が、政治資金の提供を受けても知らなければ許されるという、聞いてあきれることがまかり通っている。実質的には賄賂に他ならない。

 

貨幣という手段に翻弄され支配されていっている人間だけれども、所詮はもともと何の価値もない交換手段にしか過ぎないものであるということに私たちは気づかなければならない。

 

しかし、実際にその中で既得権、資産を形成した人たちがそれらに気付き、自ら是正してゆくことはまず困難である。ロバート・ライシュ氏も語っているがそれらの改革は決してワシントン内部からは起こることはないと。

 

一人一人の国民が考え、行動するしかないのです。

 

民主主義が、貨幣という力で捻じ曲げられてきているのです。

 

先ほども申しましたが、それを是正できるのは国民一人一人の力です。ただ、その前提として最も大切なのは手段としての民主主義が機能不全に陥っていないことです。

 

私が最高裁判決において不平等な違憲状態の選挙制度の是正を言われながらその是正をしない違憲国会について現在最高裁に上告しているのは、民主主義が機能不全に陥ることだけは避けたいその一心なのです。

 

制度としての民主主義が機能不全に陥ったとき、そこに待っているのは、格差社会というより、人間の尊厳すら否定される社会であることだけは間違いないのだから。

 

2015年5月26日   文責   世界のたま           sign

 

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