今なさねばならないこと(1)

しばらくの間、いろいろなことを考えさせていただいていました。

 

一つには私事ではありますが特定秘密保護法執行停止訴訟につき、先月の3/27に広島高裁民事部において控訴棄却の判決をいただき、1週間考えた上、4/6に最高裁への上告を申立させていただきました。理由書については追って提出することにしており、上告そのものはまだ完結いたしていない状態です。

 

当然のことながら一般的にも言って年に数千件もある上告に対する最高裁の判断は99%以上が棄却されており厳しい判断が予想されますが、新聞社の取材の中でもお話しいたしましたが、私が、今生きている社会の中で決して許してはいけない事実に気付いたものは是正、修正を促す義務があると思う。

 

そして自分自身が後悔したくないのです。

 

そして二つ目には過去、いくつかの提言の中で現在行われている金融政策についての私自身の思いを述べさせていただきましたが、このひと月、いろいろな金融政策専門家に関しての考え方をもう一度学ばさせていただきました。

 

金本位制から現在の管理通貨制度の中での貨幣の持つ意味、そして現在の世界を取り巻く財政、金融危機、デフレ問題など、いろんな問題における、様々な方の考え方を学ばせていただく中で思ったこと

 

1990年台以降の長期にわたるデフレの中での財政、金融政策が失敗であり、第二次安倍内閣の下での財政政策、黒田日銀総裁の下での異次元の金融緩和政策が成功であったのか?

 

正直な考え方を述べるならば、今までのアメリカを中心とした資本主義社会的な社会を今後も引き続き考えてゆくならば、現在行われている、ゼロ金利政策に加えてのインフレターゲットを指標とした無制限とも言える金融緩和政策は理論的には正解である。

 

1990年以降、日本政府、日銀が行ってきた財政、金融政策は確かに中途半端であったといえるであろう。デフレからインフレに振れようとした際のゼロ金利解除や金融緩和政策解除、金融緩和規模としても量的に不十分であったことは否めない。

 

ただし、そこで問題なのは、それらの財政、金融政策の目的が、先ほども述べたようにあくまでも今までの資本主義的な社会を目指したうえでの延長線上で考えた時の手段としての金融、財政政策として正しいというだけのことだ。

 

そして、はっきりしていることは、短期的な一時的なものでしかないということは明白であり、根本的な財政政策抜きでは考えられない。

 

私が今、これらの財政、金融政策で思うことは何度も繰り返して述べているように、手段を目的化しているということです。株価、通貨価値、物価それら自身を目的として、金融、財政政策を行っているだけなのです。手段としては正解なのですが、手段そのものを目的にしているのか、目的がわからないまま進んでいるのです。

 

結果として皆さんのご承知のように、何が待っているのでしょう。

 

そこにあるのは更なる格差社会、環境破壊です。

 

盛んにデフレは悪である、インフレが望まれているのは誰のためなのか、一見確かにデフレは資産のあるものは有利と思えるのですが、それは現在の税制度含めた財政政策を前提とした考え方で、地球環境などを鑑みた時、消費、経済の縮小が本来は望まれるのだと思う。

 

地球環境はもはや残念ながら後戻りができないところに来ていることは明白であり、自然現象としての世界各地で起こっている、自然災害、テロを含めた戦争状態、すべて自然による人という種への自然淘汰であると思う。

 

格差社会の中で人々は自分たち身の回りのことのみしか考えられなくなってきている。

 

富あるものは更なる富を目指して資源を独占し、消費し、環境破壊を覚悟したうえで自分たちだけはその中で生き残る術を模索している。

 

金銭的に貧しきものは、富あるものによる政策の中で、序列化され、下位のものを蹴落とすことに心奪われる。

 

今、私自身何をなさねばならないのか。

 

2015年4月15日   文責  世界のたま    sign

 

 

 

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