国会議員と大臣と国民の道徳について

毎日のようにニュースに取り上げられていることの中に、国会での野党から追及されている大臣への政治献金の問題がある。

 

皆さんはどう思われているかわからないが、まず私がこれらの何人かの大臣の国などから補助金をもらった企業からの1年内の大臣への政治献金が毎日のように報道され、それを国会で追求する野党をみていて思うことは

 

何度、過去同じ光景を見てきたんだろうという馬鹿らしさに尽きる。

 

今回の安倍政権、憲法違反の与党、野党含めた現国会すべてを見渡してみて、いかにくだらない、意味のない時間を費やしている日本という国家の愚かさである。

 

何故、こんな単純な約束が守れないのでしょうか。

 

あれだけ政治と金の問題で、最終的に政党助成金の交付という形で決着をつけたはずではなかったのか。

 

今回の政治資金での問題は、すべてのことで言えるのです。政治、経済、金融政策においても構造は同じなのです。一歩もなんら前進しているのではなく振出しに戻って過去あった同じ国会審議というレベルとは言えない言い争いをして意味のない時間、政策を繰り返しているだけのことなのです。

 

戦後総決算とか、新たな時代の幕開けなどとできもしない、する気もない、過去何度も聞いてきた同じことの繰り返しをしているだけである自分たちに気が付いているのか、気が付かないふりをしているのか、それすらも判断できないただの大馬鹿者なのか定かではないが、おそらく後者なのであろうとしか言いようがない。

 

他の提言でも述べているように、私が今回、ブログを立ち上げたのももうこれ以上、無駄でアホらしい時間を私たちは過ごすべきではないと思ったからです。

 

一方、教育現場では学校教育の中で道徳を評価科目として取り入れていこうという動きがあります。

 

最近起きている様々な殺傷、誘拐事件などを受けて考えられているようにも見えるし、一部の報道で言われているように、現政権の愛国心教育の一環として行われようとしているのかも知れません。

 

ただ、今の国会、政権が子供たちの道徳教育を評価していこうと考えている滑稽さに私はあきれてしまうのです。

 

今の子供たちが精神的に追い込まれ、いろんな殺傷事件を起こしている原因は大人たちが作り出している社会そのものにあること、特に政治、経済、金融に中心的に携わっている国会議員、大臣、官僚、大企業経営者にあることを全く自覚していない。

 

今回の政治献金にしてももらったのを本人が知らなかったら許されるというのであればいくらでも可能になります。真の法を定立する国会議員たるものであれば、まず何のための法律かを知って作るものなのです。

 

政治資金規正に関して言えば、公職に対する国民の信頼性、公務の非買収性、ひいては政治、国家に対する信頼、それが本来の目的なのです。

 

彼らは法の本来の目的をもたないまま定立しているため、というより、自分たちの私欲、利益のために法を定立しているために、自分たちが守らなくていいようにするための法律を作ろうとするため逃げ道を作っているのです。国会議員というより、ただの全くたち悪い集団です。

 

一方では国民に対しては税金含めて逃げ道のないように、ずる賢い国民に向けてはより厳しい懲罰的な法律を作っているのです。自分たちこそが、もっともずる賢い国民であることを棚に上げて。

 

私は今の子供たち含めた社会的弱者の中で様々な殺傷事件含めた事件が起きている大きな原因の一つが先ほど述べたように国家の法律を作り、それを施行する人たち自身に道徳感が欠如していることだと思う。

 

結果として社会的弱者にとって不利な、既得権者にとって有利な法律が施行され、勝ち組が勝ち続ける社会、いわゆる格差社会、心が通わない、金銭的な価値が優先される社会が形成される、そのことが一番の原因であるのではないかと思う。他に何があるのでしょうか。

 

最近明らかにされている法人税減税、相続税逃れの資産家の贈与税免除政策、派遣法問題などがその一例だ。景気刺激策などというのもただ単なる言い訳に過ぎない。

 

たとえば、生まれつき犯罪者は犯罪者と決まっているものではないと思う。

 

ある殺人鬼がどこかの大企業の経営者の子供であったなら、大物政治家の子供であったなら犯罪を起こさない確率は高いと思う。逆に政治家の子供も劣悪な環境下におかれたなら何らかの犯罪を起こしてしまうのではないかと思う。

 

時々、私は考えることがあるのですが、貧しい食べるものもない人が生きるために一個のパンを盗むことと、政治家が、法律には触れないと言いながら多額の政治献金を受け取ることと、どちらが最初に罰すべき罪なのかと問われたなら政治家の方だと思う。

 

何故ならば、政治資金がなくても政治家は生きていられるのだから。

 

私は道徳とはまず、国家の統治機関たる国会、内閣、司法に携わる人たちがその手本となる行動をとらない限り、子供たち含めた国民の道徳感には結びつくことは決してないと思う。

 

愛国心とは、ただ単に国家を敬愛し、盲信することではなく、国家を構成する主権者たる一人一人の国民を人として互いに大切にし、尊重する心だと思う。

 

それは決して、道徳という形で一定のものさしで評価されるものではなく、一人一人の心の中から湧き出てくる多様性のあるものだと思う。

 

2015年3月3日   文責 世界のたま                  sign

 

 

 

 

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