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日米首脳会談で日本が失ったもの(2)(世界が失ったものと心の汚染)

前回のブログでも述べたように現在の日本はもはや立憲民主主義国家ではなくなってきていることを国際的にも露呈してしまっているが、私は今回の首脳会談、いや、それ以前に大統領就任前に、安倍氏が訪米し、トランプ氏宅に金のゴルフクラブを持って訪ねた光景を見て、日本という国家としての独立性、言い換えれば真の意味での国家主権そのものを本当に失ってしまったとつくづく思い知らされた。

私は国際関係において真の意味で最終的に不可欠なものは、グローバル化された民主主義であり、最終段階においては国家主権の存在はもはや意味をなさないものと考えている。

しかしながら、立憲民主主義が世界において確立していない、それどころか失われつつある現代社会においては国家主権の存在は立憲民主主義を守ってゆくうえで依然として不可欠であると思う。

そういった意味で、我が国がアメリカに対して行っている現在の外交は朝貢外交以外何者ではなく、我が国には国家主権は存在していない。この間の他国の首相のトランプ氏に対する対応を見てみても一目瞭然である。その真意は別にしても

トランプ氏が大統領に就任後、ドイツのメルケル首相はその電話での首脳会談において、世界の首脳として唯一トランプ氏に対して民主主義、基本的人権の尊重を敢えて取り上げることで苦言、警告を発した。

イギリスのメイ首相はトランプ氏との直接の首脳会談の席上、トランプ氏を横目に敢えてアメリカの7か国からの入国を禁じた大統領令に対しての批判、苦言を呈した。

メキシコのペニャニエト大統領は国境の壁問題でトランプ氏との首脳会談を中止した。

カナダのトルドー首相はトランプ氏との会談の中でトランプ氏を横目に移民の受け入れ、多様性こそが発展の源であることを発した。

私がここで国家主権について口を酸っぱくして述べるのは最終的な個々の基本的人権の尊厳の確保にとって手段としての国家主権の存在が当面、不可欠であるからに他ならない。

ただここで間違ってはいけないのが、自国民のみの人権を優先させる意味での国家主家と、国際的な社会的弱者との共存を前提とした国家主権を決して混同してはならないということだ。現在の世界を覆っている空気、国家主権を強調する空気は前者の意味での、かつて先進国が行った植民地政策を思い起こさせる。私たちは資本主義経済の行き詰まりの中で、真の意味でのグローバル化とは何なのか、真の意味での国家主権とは何なのかを思考し、想像することもなく、歴史の中に閉じこもり、その歴史を繰り返そうとしている。

今、私は世界中で環境はもちろん、世界中の人々の心の中に汚染が広がり、悪臭が漂っているのを感じる。

トランプ氏のアメリカは自国中心の経済至上主義を唱え、ロシアを上回る核兵器の保有、世界一の誰をも有無を言わさない世界最大の兵力の保有を進め、このことが軍需産業の活性化につながり、第二次世界大戦後、世界中の金の保有を独占し、世界の金融、経済の中心であったアメリカの再現を夢見ている。

そんな中で安倍氏の日本も、違憲である安保関連法の強行採決後、スーダンへの自衛隊派遣、兵器の輸出解禁、原子力発電所の輸出し、世界中の環境に対して、世界中の人々の心の中に物理的、精神的汚染の拡散を図っている。

兵器を経済至上主義的な観点から軍需産業の生産物としてとらえる限り、世界中から兵器はなくなることはない、戦争もなくなることはない。蓋し、より多くの経済的利益を上げるためにはその需要たる戦争は起きてもらわなければ困るのだから、かつてソ連がアフガン侵攻したとき、9.11を引き起こしたビンラディンに対して軍事的支援を行い、悪の枢軸としたイランにかつては軍事基地を作り、イラン・イラク戦争当時はイラクに対し軍事支援を行い、中東最大の軍事力をつけさせ、9.11以後はそのイラクに対して、多国籍軍を率いてありもしない大量破壊兵器を理由として軍を侵攻させた。

日本においても、日本が今日、経済大国になりえたのも朝鮮戦争、ベトナム戦争による特需が大きく寄与していることは歴史的事実である。

グローバル化の流れの中で、国家間の直接的な戦争はなくなりはしたが経済至上主義が世界を覆う中で、格差は拡大してきており、その中で世界中で人々の不満は増大している。

世界中で9.11以降、テロには屈しない、テロとの戦いという言葉が各国の首脳から聞かれる。確かに世界中で民族、宗教の違いによる武力衝突やテロ事件が起きているのも事実だ。

それでは何故、それらがなくならないのだろうと考えたとき、私は先に述べた経済至上主義による格差、貧富の拡大が一つの大きな理由だと思う。

そして巨大な軍需産業の存在だと思う。軍需産業も経済活動の一つとしてとらえるならばテロとの戦いだと国民に排外主義を焚き付け、世界中の軍事費、防衛費を増大させ、実際のテロとの戦いの中で莫大な武器、弾薬を使用している。言い換えればテロとの戦いがなくなってしまうことは軍需産業にとって好ましいことではない。自らの需要がなくなってしまうことを意味しているのだから

実際に国際関係の中で緊張関係を高めているのは軍需産業を経済成長の柱の一つとする経済至上主義国家そのものに他ならないと私は確信している。

言わば消防士が火をつけて回っているようなものではないかと私は思う。

私は皆さんに問いたい、真に平和の中に生きることを望む者は、今、何をしなければならないのか

私は思う。
歴史に目を閉ざしてはならない。
歴史の中に閉じこもってはならない。
思考停止してはならない。
他者との共存を否定してはならない。 
排外主義に陥ってはならない。
真に平和を望む者は経済至上主義に陥ってはならない。
経済至上主義に陥っている私たち自身こそが真の平和を害する根源なのだと気付かなければならない。

最後に、アウシュビッツ収容所で生き残り、その後館長を務めた今は亡きアウシュビッツ博物館館長の言葉をあげておこう

ただ涙を流すのではなく考えてください。

  平成29年2月27日   文責   世界のたま

日米首脳会談で日本が失ったもの(1)(安倍とトランプの相似性)

先日、安倍氏とトランプ氏との日米首脳会談が行われた。そのことに関しては様々な意見が聞かれている。

今回の日米首脳会談で私は、我が国がいくつかの大切なものを失ってしまったと思う。一部の野党が言うようなただ単に日本がアメリカに対してスネ夫になってしまったというような表面的なことではなく、我が国が本質的な部分で失ってしまったものが何なのか、そしてそんな中で私たちは何をどう考えてゆかなければならないのかをお話ししておこうと思う。

まず今回の日米首脳会談で我が国が本当の意味で失ってしまったものが何なのかであるが、立憲民主主義そのものだと思う。このことは今まで何度もブログの中で取り上げてきたことなのであるが、今回の会談を通じて如何に今までのわが国がうわべだけの立憲民主主義国家であったのかということ、そして我が国における立憲民主主義が風前の灯火であるということを世界中に露呈してしまったということなのです。

現在、トランプ政権と言えば、世界中で、そして我が国においても7か国からの入国を禁止した大統領令が問題とされやすく、実際に大統領令に対しては国内のみならず世界中で多くの批判がなされている。確かに飛行場での搭乗を拒否された人々の映像が繰り返し流されるたびに思い出されるのは、かつてドイツの遠洋汽船、セントルイス号に乗ったヨーロッパから迫害されたユダヤの人々が自由の地アメリカを目前にしつつも入国を拒否されヨーロッパに送り返されたあの光景、それはアメリカのみならず、あの当時、世界中のあらゆる国で見られた光景であった。そしてそれは現代におけるミャンマーのラカン州でのロヒンギャ族も同様である。ミャンマーはロヒンギャ族を国民と認めておらず、彼らに対して武力を含めた弾圧を行い、多くのロヒンギャ族の難民が発生している。国連が一応その対応に乗り出してはいるもののある者は船に乗って周辺国への入国を目指している。それに対し多くの周辺国は食料を与えても上陸を拒否し、漂う棺桶とも言われている。アウン・サン・スー・チー氏のもとでも状況は変えることはできないでおり、まさに行き先もない漂う難民そのものである。

そんな中、私が思うことは、確かに大統領令の中身自体も問題なのだけれども、それ以上に問題だと思っているのは、その手続きとしての過程である。私は民主主義とは手続きであると思う。結果以上に大切なことはその過程としての手続きである。蓋し、結果は手続きによって生じているのにすぎないのだから。

まともな民主主義国家が、たとえ時間がかかり面倒でも手続きを大切にするのは、そうすることが重大な過ち、すなわち人権侵害を防ぐことにつながり、最終的に国民の国家への信頼につながってゆくからに他ならない。それはそのまま世界に対する信頼へと直結してゆくのだと私は確信している。

今回の大統領令の最大の問題点はまさにその手続きにある。大統領の一存で猶予なく出されているのである。前回のブログでも述べたようにトランプ氏は経済界の代表者であり、経済がよくなれば、特にアメリカ経済さえよくなればよいといった人間である。

以前、安倍さんや橋本さんの政治手法であるトップダウンについてのブログの中でも話したことがあるが、現代の思考停止した総サラリーマン化社会の中で、自分自身で決定することなく上からの命令にすべてを委ね、その中に身を置くことはサラリーマンにとって楽であり、一見物事がスピーディーに解決できそれが政治の上でも正しいように企業教育の中で錯覚させられているが、それはあくまで企業社会の中での話である。そして昨日明らかになったように、東芝問題がよい例であるが判断を見誤ると数多くの従業員の生活があっという間に脅かされてしまうのである。取り返しがつかないのである。当事者にとって会長の辞任だけでは済まされる問題ではない。会長は辞任したところで生活に困ることはないが、従業員は失業の中路頭に迷うだけである。企業であればそれでも失業保険や生活保護制度があるが国家ではそうはゆかない。国家が道を誤ればその先はないのである。

利益を追求する企業におけるトップダウン的な思考は、国民の基本的人権を守り、幸福追求を目的とする政治手法としてはそもそも相いれないものである。政治において間違いは許されないのである。しかもその中で可能な限り少数者、経済的、社会的弱者を守ってゆかなければならないのである。

安倍氏もトランプ氏も所詮、経済成長しさえすれば世界が良くなると信じているおバカさんか、ペテン師だと思う。企業社会での思考をそのまま正しいと考え、トップダウン的な思考を善と考え、それゆえ安倍氏が国会での議論や、公聴会での議論を避けたがる。何度も違憲状態選挙を繰り返し、議論の必要のない絶対多数の確保に奔走する。以前のブログでも書いたが経済優先社会は説明責任の放棄を許してしまう。

説明責任のない社会には議論は必要ではなく、一方的な大統領令の発令、ツイッターでの発言、国会での強行採決につながる。経済優先社会、経済至上主義をとなえる安倍氏とトランプ氏はその点で相似性があり世界的な様々な非難の中、世界中で苦しんでいる多くの難民を横目に政府専用機で快適な旅行をして、ゴルフに夕食会に興じることができたのも弱者との共存を否定し、共通感覚をなくし、思考停止したそのおバカさ、それらの相似性があったからに他ならない。

ここで勘違いしてはならないのは、あくまでも安倍氏とトランプ氏との相似性であるということである。日本とアメリカとの相似性ではないことを私たちは認識しなければならない。

アメリカにおいては今回の大統領令に対して、合衆国憲法に反しているとの党派を超えた世論が巻き起こり、州知事がその執行停止を裁判に訴え、州地裁が全米でその執行を止めてしまった。その後高裁も州地裁の判断を支持し、トランプ氏の司法批判に対してもトランプ氏自らが現在の空席である最高裁判事に指名した保守派のゴーサッチ氏すらも失望したとの批判を表明している。

私は現在の経済至上主義的なアメリカに対しては否定的であるが、今回の大統領令に対する様々な動きに関しては、現代立憲民主主義的な意味において、あくまでも合衆国憲法に反していることに対しては党派を超えて、リベラルであろうが、保守的であろうが批判し、その是正を最終的には司法の独立において早急に図ると同時に司法の独立を違憲審査という観点から死守しようとする姿勢は、相似性はなく、それどころか我が国とは対極にあると思う。

我が国においては私が違憲訴訟を起こし、このブログを立ち上げ、参議院選挙に立候補して訴え続けているが、我が国には現代立憲民主主義的観点から見たときに、国民主権により主権者が自らの力で、三権分立という権力の抑制と均衡という憲法保障の力で、自らの基本的人権を守ろうという気概が全く存在していない。

我が国はもはや現代立憲民主主義国家ではなく、我が国には立憲民主主義的意味での憲法は存在していない。そんな国には基本的人権も存在し得ず、残っていたとしても遅かれ早かれ国家という大義名分の下に奪われ、それを守る術もなくなっている。

我が国において、安保関連法の強行採決で明らかになったように大学において憲法学を研究し学ぶ意味はまったくない。蓋し、いくら学んだところで、国会で参考人招致された学者がいくら国会で審議されている法案が違憲であると主張しても、おバカな大臣、国会議員によって最終的に判断するのは学者ではなく最高裁だと一蹴され、大学において学び、司法試験では憲法を守ることを書いてその資格を得たであろう裁判官すらもが違憲判断ができないのであれば。

今の我が国は、過去のブログで述べたように書物が焼かれ、知識人の人格が否定された文化大革命の中国、ポルポトが支配したカンボジアと同じだと思う。時の政権に都合の悪い事実はすべて否定するのである。たとえそれが国民の基本的人権に関わる重要な問題であったとしても

このことはもはや我が国が国家としての体をなしていないことを意味している。ある意味で我が国とイスラム国と現代立憲民主主義国家であるかという点では違いがないと思う。どちらも現代立憲民主主義国家ではないのだ。

私は思う。何のための戦後の民主主義教育であったのか。平和教育であったのか。我が国にとって歴史とは単なる空虚な時間に過ぎなかったのではないか

私は、現代立憲民主主義という手続きは木で例えれば幹のようなもので普段外部からは見えにくいものだと思う。GDPを無理やり押し上げ、株価を押し上げたところで、一見外見上は太い木のように装ったところで幹は確実に蝕まれ腐り続け、木の内部は悪臭が漂い、近い将来一瞬で倒れてしまうであろう。そして幹が腐りきった木がそうであるように、ある程度腐食が進んでしまった木はいかに優秀な樹木医をもってしてもその回復は困難である。

私は今、自分自身に問いかけている。そして、あなた方一人一人に問いかけたいのです。

私たちはこのまま愚民として生き続けるのですか、それが果たして人が生きているという意味なのですか

  平成29年2月16日  文責  世界のたま

私たちが犯している過ち(司法判断の軽視と司法とは)

昨年は私自身について言えば、できる限りのことはしたつもりであるが、結局、我が国のほぼ崩壊しつつある立憲民主主義、その流れを止めることができなかった。

おバカな総理を筆頭に、おバカな政権、国会議員、官僚そしておバカな私たち主権者たる国民、我が国を覆うおバカ現象の中で見るも無残に立憲民主主義は崩壊の危機を迎えている。

ところで、私が総理をはじめ、主権者たる国民に向かっておバカということに関しては、昨年の参議院選挙に立候補した際にも有権者の方から、あなたはそんなに偉いのですかとおしかりをいただいたことではあるが、現在の日本社会を覆っている空気はナチズムが吹き荒れたヨーロッパにおける、それらに賛同まではしなくとも従った国民、戦前の日本でもお国のためだと真意とは別に、非国民と言われないために従った国民、どちらも贈与を否定した思考停止した国民で溢れかえっていた時代、その時代に流れていた空気と同様のものを感じる。

私は決して私自身が偉いなどと思ってはいない。あらゆる人たち、組織が思考停止している中、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると訴え続けているだけである。即ち、現在の国会を構成する違憲状態の国会議員、そしてそんな彼らから指名された違憲状態の総理、政権は間違っており、日本国憲法上、彼らにその正当性はなく法律を制定し、執行する能力はないと正直に訴えているだけなのです。

それはあたかも裸の王様という物語に出てくる男の子と同じことが言えると思うのです。その男の子は多くの大人が王様の権力を前に、誰一人として正直に王様が裸であるということが言えない中、その男の子だけが王様が裸であるという事実を指摘した。

私自身も本来、現在立憲民主主義国家においては、間違った国家政策は選挙を通じた民主制の中で是正が図られるべきでありそういった意味で選挙によって選ばれる組織でない裁判所、即ち、非民主的な機関たる司法は消極的な判断能力しか持ちえないというその原則は理解できる。

しかし、私が訴えていることは民主制の根幹をなす選挙制度自体の問題である。選挙という民主制の過程そのものの是正に関しては原理的に考えてみても、民主制の中では解決できない。

少数者に関わる人権問題もたとえ民主的な機関である議会であっても、特に、絶対多数を占める現国会、内閣のように説明責任、議論を放棄した人たちを相手にその権利の保護は不可能である。蓋し、私たちは単なる民主的な世界に生きているのではなく、日本国憲法に基づいた立憲民主主義的な世界に生きているのである。立憲民主主義的な世界の中においては違憲な組織(国会、総理を含む内閣)は何らの意味を持ちえないのだから

民主制の根幹にかかわる選挙などの民主制度の過程にかかわる問題、少数者の人権にかかわる問題は現代立憲民主主義国家においては、司法が積極的にかかわらずして、それらを守ることは不可能である。蓋し、憲法に反する機関であっても形式的には有効な組織である以上、法律の制定、執行権限が与えられており、国民のみならず司法も個別的にはそれらに拘束されてしまうのだから

そのことは、現代立憲民主主義国家であるはずのアメリカなどでも、トランプ政権下で現在起きていることを考えれば、また今後世界中で必ず起こってくることを考えたとき、同様なことが言える。

現在の安倍政権、自民党などを現代立憲民主主義的に考えて見たとき、これらの日本国憲法上の権限を持つことが疑われる組織(このことは自らの国会議員としての正当性に何の疑問を持たないおバカな野党にも言えることである)は大企業からの政治献金を復活させたように、富の集中に深くかかわっているというより、それらを支えにしている。

その結果、前回のブログにも書いたように、富の集中は民主政治にとって最も必要である説明責任を否定することにつながりやすく(昔から金に物を言わすということわざがあるように、抜本的な選挙制度改革を行うことなく違憲状態の選挙制度を継続することで、多数を維持し、数の力で、金の力で政治を行っている。)そんな中で必然的に説明責任は果たさず、議論を避け、真摯な議論を茶化し、強行採決を行っている。主権者たる国民を愚弄し、バカにしているのである。確かに私たち主権者もおバカであるが、おバカな総理、政権からバカにされる筋合いはない。おバカであろうと私たちはおバカである前に主権者であるのだから

特に憲法に関わる違憲問題を扱う違憲訴訟は、憲法が成文化される人類の歴史の中で消えていった人民の抵抗権に他ならない。国家権力と人民との争いの中で、数多くの尊い命が失われ、その中で国民が英知をしぼって作り出した権利に他ならない。

私たちは小学生の時から今まで何度も三権分立という制度を学んできた。

三権はお互いに、抑制と均衡を図りながら権力の行使を行うことが義務付けられている。ただ忘れてはならないことは、三権は単なる手段にすぎないということだ。手段としての三権の目的は国民の基本的人権の保障である。特に日本国憲法下においては世界平和への貢献も求められている。

現代民主主義国家である我が国において三権の関係の中では司法消極主義が原則である。このことは他の二権が選挙という方法によって直接、間接的に選ばれているからに他ならない。(歴史的にもヨーロッパでは君主と裁判所が国民の人権を抑圧した歴史があり、議会への信頼が高かった)また、砂川事件での最高裁判決の中でも裁判所自らが語っていることでもある。

それでは日本国憲法上の司法の存在意義はいったい何であろう。

一般的には他の二権が定めた法律の解釈適用をするのが司法であるということになるであろう。

ただ私は、本当の意味での司法の存在意義は、現代立憲民主主義の崩壊を防ぐ、そのことに尽きるのではないかと考えるのです。民主制の根幹をなす民主制の過程である選挙制度にかかわる問題、少数者の人権が絶対多数の形骸化された民主制の中で、その回復が困難になったときこそ、形骸化された民主制の外にあるがゆえに司法の存在意義が意味あるものになるのだと思う。まさにそれは、主権者たる国民の成文化された抵抗権としての司法である。

最近の世界を見渡してもイギリスにおいてEUからの離脱が国民投票で決まったが、その執行につき議会の承認が必要との判断が裁判所によってなされた。裁判所は司法という独立した立場から冷静に判断したものと思う。

現在の日本のように違憲状態の国会議員で構成される国会、そしてその違憲状態の国会議員が指名した総理大臣のもとで、特定秘密保護法、安保関連法など国民の基本的人権への侵害をなす法律が制定、執行されている。違憲状態の組織であるがゆえになのか甘利元大臣や文科省の天下りなど見ればわかるが、富の蓄積、数の力により生じやすい説明責任を果たさず、議論を回避した中で権力が行使され続けている。

日本国憲法に基づき国会議員による臨時国会の召集の議決がなされた時も、外交日程を理由に通常国会まで開かれることがなかった。

今のわが国はもはや現代立憲民主主義国家であるとは言えないと思う。今のわが国には形式的には国家の基本法たる憲法典は存在しても実質的な意味での憲法は存在していないのだと思う。(イギリスにおける形式的な憲法典は存在しなくても実質的な憲法が存在していることの真逆である)

私には、もはや司法積極主義だとか消極主義だとか考える次元はすでに過ぎ去ってしまっており、我が国において司法が存在しているのかが問われているのではないかと思う。

民主制制度を守るための主権者の抵抗権としての最後の砦としての司法権の行使がなされるにしても、私はタイミングが重要だと思う。

例えばヒットラーが率いるナチスが共産党を追い込み政権を掌握するきっかけとなった共産党員によるとされたでっち上げの国会議事堂焼き討ち事件について最終的に裁判所は無罪判決を下している。そのタイミングがどうだったのか定かではないが、歴史の流れが確定してからでは遅いのである。 

そういった意味で、私は今の段階がギリギリであると思っている。自民党の改憲草案がよい例であるが、万が一緊急条項を含むような憲法が作られてからではもはや司法は何もすることができないのである。

私たち主権者自身が歴史に流される民であってはならないと思う。己自身で自己実現、自己統治が図れる民であらねばならないと思う。ただ、そのためには自己実現を図るための手段としての自己統治を図るためには本来の意味での立憲民主主義制度が不可欠なのです。その制度が破たんしたとき、おバカであるが主権者たる民にとって不可欠なもの

それこそが司法なのです。

   平成29年1月30日   文責   世界のたま

私たちが犯している過ち(グローバル化の否定と内包化)

新年あけましておめでとうございます。(かなり遅くなりましたが)
今年の正月は久しぶりの日本晴れの中での元旦を迎えることができ、日本全国でそうであったように私自身もきれいな久々の素晴らしい初日の出を見ることができました。

そうした中、新年を迎えても私たちは新たな過ちを犯し続けている。その中で、私たち多くの人間はそれらの過ちに対して無関心を装い、他者との共存を否定し、近代以降の贈与を否定した人間中心主義の最終章への道を着実に歩み続けていると思う。

今年に入って私たち人間が犯している過ちについてお話しておこうと思う。
まず第一に私たちが犯している間違いはグローバル化の否定(特にトランプ氏が言っている)の中身である。

今年に入って私たち人間の視野は加速度的に狭くなっている。トランプアメリカ新大統領が演説の中で語ったアメリカ第一主義に代表されるグローバル化の否定などによる国家主権の強調が世界中で起きていることが原因である。

私自身、今までのブログの中でもお話ししていることだがTPPなどの従来型の安易なグローバル化は間違いであると思う。いわゆる大企業中心の経済中心のグローバル化は国家の存在を否定しない限り間違いなく立憲民主主義の否定、即ち、国民の人権の侵害につながってしまうからだ。

視野狭窄に陥った国家や、人間の末路は人類の歴史が証明しているように第一次世界大戦や第二次世界大戦であり、何度も今までも言ったように、その先に待っているものは人類の最終章に他ならない。

それでは視野狭窄に陥ってしまっている原因であるがこれも何度も言っていることであるが手段としての経済を目的化してしまった経済第一主義である。

今回のトランプ現象が起きた理由の一つに過去のブログで述べたように経済格差がある。皮肉なことだと私は可笑しくなるが、今回の大統領選でトランプ氏に多くの票を投じたのはマスコミや有識者が予想しなかった経済的に底辺の白人層の存在だ。普通に考えれば経済格差の頂点のトランプ氏と底辺層の白人がつながるとは思えない、それどころか反目し合うのが一般的だ。

しかし現実的にはつながった。とはいっても所詮は一時的にしか過ぎない。アメリカの誰かは忘れてしまったが、著名な方が所詮はトランプ氏の政策に多くの支持したものは幻滅することになるだろうと述べっていたが、私もその通りだと思う。

相いれないトランプ氏と白人底辺層が結びついた原因は底辺白人層の国民の政治的無知と彼らの切迫した経済格差による困窮的な生活、そして民主党政治家、民主党支持者の政治的無知、のみならず、共和党政治家、共和党支持者、一般有識者、マスコミすべての政治的無知、歴史感覚のなさであると思う。

実際に経済的底辺層の白人層とトランプ氏が一時的にであれ結びついたことは逆説的であるが経済的格差が極限状態まで来ていることを意味すると私は思う。彼らは格差が拡大する一方の従来型のそして選挙前の民主党政権による政治に何の希望も見いだせなかったのである。

トランプ氏は富の中で生きてきた人間であり、所詮手段でしかありえない経済そのものを目的として考えている人間である。経済だけを考えれば人間は豊かになり幸せになれると信じている単純なおバカな人間である。このことは我が国のおバカな総理、政権もそうなのだけど。

かつてのナチスがそうであったように、また我が国の第二次世界大戦前の状態がそうであったように所得格差の中で底辺の国民の所得を引き上げる方法として根本的な所得の再分配機能の見直し、貨幣とは何なのかという貨幣の持つ意味の再考をしないとすれば、向かう先は必ずグローバル化の否定、一国中心主義、すなわち他国を犠牲にしたうえでの自国の底辺層の所得確保以外に道はない。

過去の歴史から私たちが学ばなければならないことは限られた資源の中での富の再分配の在り方である。今のトランプ氏のアメリカ第一主義は、所詮、歴史の繰り返しである。

そこで私たちが考えなければならないのが例えば今回のアメリカ大統領選に関していえばトランプ氏ではなくクリントン氏が、民主党が政権をとればよかったのかという問題ではないということだ。問題なのは先日も話題となったように世界の上位資産家8人の合計が世界のすべての人口の下位半数の所得の合計と同額になるほど経済格差が拡大している現実の中での富の再分配が問題なのであって、誰がアメリカ大統領になってもどうでもよいことなのです。これはトランプ氏というアメリカ大統領の適格性の問題でなく、共和党、民主党という小さなコップの中の問題なのではなく、私たち、世界中の民が迷路に迷い込んでしまっている問題であるということです。

今回のアメリカ大統領選の中で、トランプ氏が当選し、TPPを拒否し、メキシコとの国境に壁を築き移民を排除して富をアメリカに集中することで経済的底辺の白人層に分配しようとする考え方は歴史を繰り返す愚行にすぎず、その結果は歴史が証明している。

今、私が懸念していることは世界がトランプ氏個人に問題があるように考えていることである。トランプ氏は単なる富の象徴でしかないと私は思う。

問題なのはトランプ氏自身にあるのではなく富の集中、そのことにあるのです。世界中の現在の制度の中で富を得ている人たちは、トランプ氏個人に世界の目を当てさせ、根本的な問題から目をそむかせようとたくらんでいる。

私たちは無知な国民から目を覚まさなければならない。

アメリカにおける共和党なのか民主党なのかが問題なのではなくて、日本における自民党なのか、民主党なのかが問題なのではなくて、私がこのブログを立ち上げた時に一番最初に書いた主権者への提言の中で述べたように、私たち一人一人の価値観こそが問われているのであって、私たち自身の価値観を変えること以外に解決の手段がないことを私たち自身が認識しなければならないのです。

富の集中からは何も生まれないことを、経済中心主義、経済発展そのこと自体を目的とした社会は地球環境を破壊し、人類を含めた生物の存在基盤を破壊してしまうことを認識しなければならない。

富の集中は私たちの生存権、知る権利、即ち基本的人権を侵害することを、蓋し、立憲民主主義においては説明責任が不可欠であるが、トランプ氏自身が一方的なツイッターでの発言を好み、トランプ政権が記者会見で一方的な発言のみで反論、質問を許さず記者会見を終わらせたり、我が国においても現在開かれている国会での安倍総理、麻生副総理が野党の発言中に談笑しながら早くしゃべれとヤジを飛ばし嘲笑している姿は、富の集中が説明責任を要さない社会を形成してきていることを如実に語っている。

そんな中で私たち日本国民が歩んでいかなければいけない道とは何なのであろう

まず安倍政権がどうであるとかいうレベルの低い問題ではなく、安倍政権が、そして無知な私たち国民が失いつつある立憲民主主義の再確立、そして当面はその上に立った国家主権の確立である。格差社会を助長する現在の経済を中心とするグローバリゼーションを否定する一方で、立憲民主主義に立った国家主権の中に、すなわち個の中に全体を見る、立憲国家主権国家の中に、世界を見る、言わば、グローバリゼーションの内包化である。

人間の本来の生きる目的である自己実現、そのための自己統治、そしてそのための最たる手段である真の意味でグローバリゼーションを内包化した日本国憲法の順守、そのための司法の独立

それが正義であり、私たち日本国民が歩まねばならない道である。

  平成29年1月30日  文責  世界のたま

正義の中に生きる

前回のブログでも述べた私が思う正義に基づいて生きることは非常に難しいことであると思う。特に情報が氾濫し、物があふれた現代社会の中では、人は流されやすいものだ。瞳を輝かせ続け、無垢な心を保ち続けることは至難の業である。

人は社会の中で生きてゆくうちに、己が何のために生きているのか、存在しているのか、子宮内に着床後、細胞分裂を繰り返し発生したのか、羊水の中から飛び出し肺呼吸を始めたのかを忘れてしまうものだ。

自然は離れるわけではないのに、自然と己が離れて行ってしまうのだ。己の存在は他者の存在の中にしかないのに、現代社会の中で、己を優先することを学習し、それが正しいことだと教え込まれる。そうした中で瞳は輝きを失い、無垢な心は曇っていってしまうのだと思う。

現代社会の中において正義に基づいて生きるということは、おそらく孤独に打ち勝たなければならないであろう。迫害の中で生きなければならないかもしれない。

それでも私たちは正義の中で、生きてゆく努力をし続けなければならないし、私が言う正義が完全に失われたとき、人はもはや、生きてゆくことはできないであろう。

歴史が待ってくれるかどうか、私にはわからない。

ただ一つ、言えることは、このことに気づいたものが、ただひたすらに扉をたたき続けなければならないのだと思う。たとえ扉が開くことがなかったとしても

たとえ歴史が待ってくれないとしても、ただひたすらたたき続けるしかないと思う。

それが正義なのだから

   平成28年12月31日   文責  世界のたま

正義とは

今年もあとわずかとなりました。この一年を振り返っても世界中で数多くの悲しみを私たちは目の当たりにしました。

この3年間、私自身、裁判やブログや参議院選挙を通じて様々なことを訴えてきました。

前回のブログでお話ししたように、現在を生きる私たちにとって最も必要なのは、今私たちの目の前に存在している日本国憲法の尊重、裁判官の良心への信頼が最も大切であり、さらに言えば、それらしか今の私たちを救うことができる手段は残されていない。

私は自分なりにこの3年間、自分自身の信念に従って生きてきましたが、私の心の中で常に自問自答してきたこと、それは正義とは何かということです。

正義に関してはマイケル・サンデルが三つの考え方、すなわち①正義は功利性や福利を最大限にすること(最大多数の最大幸福)②正義は選択の尊重を意味する。(自由市場で人々が行う現実の選択であれ、平等な原始状態において人々が行うはずの仮説的選択であれいづれの立場においても)③正義には美徳や共通善について判断することが含まれる。

サンデルはこの中で、正義や権利を計算の対象としてはならない、又、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ平らにならし、個々の質的な違いを考慮しないことは間違いであるとして③の考え方に立っている。

一方、日本生まれの正義論の著者である川本兼氏は、サンデルの正義論に対して、コミュニタリアンの正義論であるとして限界があるとしている。特にサンデルが戦勝国、かつて植民地支配を行った国家の上に立った者の思考であるとして、敗戦、被爆の体験、その一方で他国を植民地支配した体験を持つ日本人だからこそできる思考の上に立って新たな正義論を展開している。

特に人間の尊厳を公理として核に置いた正義論、従来の社会契約論を超えた新社会契約論を展開する中での従来の自然権を超えた新たに生まれる様々な人間関係の中で生じる基本的人権をも取り込んでゆく考え方が特徴であると思われる。

私はサンデル氏や川本氏の正義に対する考え方についてはかなりの部分で同意できるし、私自身が考える正義に近いものを感じる。彼らの細かな哲学的な部分は難易度が高く十分理解しているとは言えないが。
特に、川本氏が基本的人権を考えてゆく上で、現在存在する日本国憲法を利用しない手はないと言っているが、その点は非常に重要である。

私にとっての正義であるが、上記に述べたように両氏に同意できる点も多々あるが、サンデル氏の正義論おける共通善とは何なのかがはっきりしない点、又、川本氏の正義論においては、現実に存在する個としての人間の尊厳を核とすることで将来に向かっての人権の拡張、機動性を高めている点では有意義であると思える一方、正義の概念をより具体的な人間同志のコミュニティの中に閉じ込めてしまっている。このことは近代以降、人間が数理科学の発達の中で自然との共通感覚を失い、自らを数理科学的な思考の中に閉じ込めてしまった結果、人間自らを想像力のない思考停止に追いやってしまったことと同じことだと私には思えてならない。

地球温暖化、核汚染、公害などの環境破壊が加速度的に進行する中で、正義という概念を人間同志のコミュニティの中に閉じ込めることは許されないと私は考える。

蓋し、著しい環境破壊の中で生物としての人間にとって、人間の基本的人権の核たる生命の確保は困難なのだから、もはや生命以外のすべての基本的人権を考える余地はそこでは存在しえない。

私が考える正義とは、自然権を尊重することに尽きるのです。

そこで言う自然権とは従来からの人が生まれながらにして持つ権利という権利の拡張を言っているのではなく、そのままの字のごとく、自然の中での人間が持つ権利、共通感覚をもってして自然と共存する権利のことである。

そして手段としての国家は当面、必要不可欠であり基本である。

そして国家の基本法たる憲法の中で保障、確認される基本的人権は私が言う意味での自然権に基づかなければならない。

正義というものをそのように捉えたとき川本氏が著書の中で語っているように私自身も、世界の中で最も正義に近い内容を持つ憲法は現在存在する私たちの目の前にある日本国憲法である。

私が、3年前から裁判の中で訴え続けていること、ブログの中で訴え続けていること、今年の参議院選挙で最も訴えたこと、立候補した目的は日本国憲法を私たちは守らなければならないということなのです。選挙中の広報の中で、今のわが国にはある程度の自由と秩序はあるけれど、たった一つないものそれは正義ですと述べた理由です。

最後にもう一度言っておきます。

現在存在する日本国憲法を順守すること、日本国憲法の理念を順守する裁判官の良心を信じることが、今の私たちにとっての正義なのです。そして混迷の続く世界情勢の中で、日本国憲法を順守する私たちの存在そのものが正義であり、その姿を世界に発信することが、世界中の一人一人の正義につながってゆくのだと私は確信している。

    平成28年12月29日  文責  世界のたま

おバカな国民がどうやって現代立憲民主主義を守ってゆくのか(2)

おバカな国民が持っている合理的無知、合理的非合理性の中で、どうやって民主主義制度を守ってゆけるのか。このことは本当に難しい問題で、前回のブログの最後に述べたようにかなりの確率で私たちは近い将来、間違いなく後戻りのできない世界へ入り込んでしまうであろう。

イリア・ソミンは政権選択をする選挙の観点から、おバカな国民でも正当に近い正しい選択が可能な思考過程はないのかいくつかの思考過程を検討しているが、彼自身がその著書の中で述べているように、如何なる思考過程においてもある程度の思考努力が必要であり、現代のおバカな国民では期待ができないとしている。私自身も今までのブログの中でも述べているが基本的にはサラリーマン化し、贈与を否定した他者への思いやりのない、自分自身の趣味や仕事にしか興味を持たない思考停止した国民では難しいと考えている。彼らには民主主義制度を守り、培ってゆく能力はない。

現在の日本における安倍独裁政権について検討してみよう。

安倍政権はアメリカの次期大統領のTPPからの撤退声明後も、国内においてはTPP法案の国会での強行採決をもってしてでも可決しようとしている。アメリカ抜きでのTPPは意味がないという参加加盟国の意見がある中で行おうとしている。ここまでしないといけない理由は何なのかであるが、TPPによって利益を得る国内大企業、選挙支持団体の利益など細かな問題もあると考えられるが、その最大の目的はグローバル化の強調に尽きると思う。

北朝鮮脅威論、中国との尖閣諸島問題、ロシアとの北方領土問題、韓国との竹島問題等々、それらのグローバルな問題は事実として存在はしているが、それらをたきつけることにより、国家主権を強調化させ、一方で民主主義を押さえつけてゆくことにある。

例えば、先日駆けつけ警護を従来の任務に付加したスーダンへの自衛隊派遣であるが、そのこと自体、日本国憲法に反する国家的な違憲無効行為であるが、私には現政権による治安が悪くなった地域への強硬な派遣の持つ意味は、これくらいならと徐々に国民感情を慣らし、違憲無効行為の常態化による正当化もあると思うが、はっきり言って自衛隊員の駆けつけ警護による死すら国家主権を強調化させるための扇動行為の手段にしようとしているのではないかと思う。

私は、今の日本の国民、特に有権者の政治的知識を考えたとき、ほぼ絶望的なほどに
無知であると思う。何度も言っているが有権者一人一人が一般的な意味で無知でバカであると言っているのではない。政治的無知であると言っているのである。まず、何がともあれ投票に行かないのである。投票すらいかない人間が新聞やニュースなどを用いて政治的知識を得る努力をすることは到底考えられない。知識はあるが行っても無駄だからと自ら棄権行為を弁護する人もいるであろうが、所詮前回のブログで述べた合理的無知な人間に過ぎず評価に値しない人間である。私たちがこうやって自由な世界を満喫できる民主政治獲得、選挙権獲得の歴史を知らないのである。先人たちが血と汗の中で獲得した歴史を知らないのである。

この政治的無知な国民がどうやって崩されかけている日本の現代立憲民主主義制度を守ってゆけばいいのか。ここまで政治的無知になってしまっている大多数のおバカな国民を教育することは不可能に近い、一方で、安倍政権は、ほっておいてもおバカでしかないのに、NHKをはじめとしてマスコミへの圧力、特定秘密保護法による国家情報の秘匿など、わずかに残っているおバカでない国民に対する政治的情報提供の妨害を図っている。

選挙権が18歳以上になったがこのこと一つとっても、いい意味では若い世代に自分たちの時代なのだからその厳しい未来に対して彼らにも政治的な権利を与えようということでもあるが、正直なところ扱いやすいおバカな国民を増やしてより強固な国家主権の構築を図ろうとする意図が見え隠れする。例えば、憲法改正による自民党改正草案にあるような緊急事態条項のような内閣総理大臣のみでの憲法の停止である。

私が思うに、日本の現代立憲民主主義の崩壊は将棋で言えば詰めの段階に入ってきている。時間がないのだ。先程話したように、おバカな国民の教育は不可能である。それではどうすべきなのかであるが、私が今までのブログで述べてきたことの繰り返しになるが二つしかない。

一つには3年近く前から私自身が訴え続けているが、司法権による現代立憲民主主義の防衛である。このことについては三権分立における他の権力、特に国会との兼ね合いの中で選挙によって選ばれた民主的機関である国会を非民主的な機関である司法は尊重すべきという考え方が従来から言われているが、それはあくまでおバカでない国民による選挙が大前提である。政治的無知な国民が選んだ国会は本来の民主的機関であるかどうかが疑わしい。というより、民主的な機関ではありえないであろう。例えばナチス政権下である意味で民主的に選ばれた国会によって可決された特定の人種の迫害法を司法は尊重すべきだと誰が言えるであろう。

また高度に政治的な問題に関しての司法判断は避けるべきといういわゆる統治行為論も飽くまで健全な政治的な無知でないおバカでない国民による政治的な問題である。おバカな国民にはその判断能力がないのであるからそもそも政治的な判断ができないのである。司法がその問題を避けることこそ、国民の人権を国家機関から守るという立憲主義に反する行為だとしか私には思えないのです。

ここで言う司法とは、前にも何度か話しているが司法権というより、一人一人の裁判官の日本国憲法で言うところの良心である。私が棄却されても訴え続けている理由はこの一人一人の裁判官の良心への信頼である。それこそが言い換えれば、自然法による支配なのだから。

そしてもう一つが日本国憲法による現代立憲民主主義の防衛である。このことも裁判を通じて訴えていることでああるし、今年の参議院選挙に立候補し、訴えた理由である。

今回のブログのテーマである、おバカな国民がどうやって民主主義を守ってゆくのか、その答えは一人一人の裁判官の良心の中、そして戦後、多くの国民の犠牲により獲得した日本国憲法の中にあるのです。

私は、冷静に今の日本国を考えたとき、おバカな総理に、おバカな国務大臣、おバカな国会議員、おバカな官僚だらけだと思う。ただ最も大バカなのは日本国民私たち自身だと思う。

おバカな日本ではあるけれど、私は日本という国が大好きなのです。世界に例を見ない四季をもった自然、助け合い思いやりをもった勤勉な国民性、それらが存在するための前提である現代立憲民主主義が今まさに危機を迎えている。もう時間はそんなにないのです。

現代立憲民主主義を作り上げるのには多くの時間を要したけれど、その崩壊は一瞬である。

もう一度言っておきます。
国民の人権を守り、世界平和を守ってゆくためには、手段としての現代立憲民主主義が不可欠です。如何に強大な軍事力を持とうとも、核兵器を持とうとも、現代立憲民主主義が確立していない国家が、国民の人権を守ることは不可能なのです。

私たちおバカな日本国民が、現代立憲民主主義を守ってゆくために必要不可欠なもの、それは、現在存在する日本国憲法の順守と、一人一人の裁判官の良心を通しての自然法による支配以外ありえないのです。

    平成28年11月29日   文責  世界のたま

おバカな国民(政治的無知)がもたらすもの(1)

今回のアメリカ大統領選でのトランプ現象がなぜ起きたのかということについて、私は二つの理由があると思う。

一つには以前もイギリスのEU離脱についてのブログの中で述べたことであるがグローバル化の中での国家選択の問題である。

今回のアメリカにおけるトランプ現象は構図的に、イギリスのEU離脱と同じことであり、世界中でこの現象は起きている。フランスでの国民戦線の台頭、ドイツにおけるメルケル首相の急速な支持率低下、フィリピンでのドゥテルテ大統領の台頭、我が国日本においても安倍自民党による一党独裁政権の台頭等々、見えている形は違っても構図としては同じことなのです。

これらの現象がなぜ生じているのかというと、今までのブログの中でも取り上げていることであるが、グローバル化の流れの中で、世界中で生じている格差社会が最たる原因だと私は考えている。

格差社会の中で裕福な者たちによる政治献金、ロビー活動により、正常な議会制民主主義制度が捻じ曲げられ、結果的にグローバル化の流れの中で更なる格差社会を生み出している。格差社会の拡大の中では、国内においてはグローバル化の拒絶、国家主権重視への世論が形成されやすく、国家主権重視については、国家権力もそれを利用して更なる強固な国家権力を求めて国民に対して国家主権重視を煽る。その結果として国家主権が台頭しやすい世界情勢が作り出される。

形は違うにしても現在世界中で起こっていることはそういうことだと私は考えている。その中でもそれぞれの国において、その歴史的背景などにより上記にあげたバランスは微妙に異なっていると思う。

民主主義制度が根付いているEU,アメリカにおいてはグローバル化の否定、すなわちイギリスにおけるEUからの脱退、アメリカにおけるTPPへの加入辞退などがそれにあたるが、民主主義制度と国家主権の関係においては、たとえ形骸化した民主主義制度であったとしても国家主権の暴走を寸でのところで止めることができるのではないかと、この間のそれぞれの国民の反応を見て思っている。

一方、民主主義制度が根付いていない日本やフィリピンでは、グローバル化の流れの中で国家主権が優先される中、民主主義制度がないがしろにされてしまう傾向があり、この間の実際の事実としてもフィリピンにおいては、国際的非難の中、国民の生命、身体の自由への侵害が国家主権の下で強行されている。日本においては特定秘密保護法の強行採決による民主政治にとって欠くことのできない知る権利への侵害、安保関連法の強行採決による平和的生存権への侵害、そして最も看過することが許されない私自身も今年の参議院選挙に立候補して訴えた民主政治の根幹をなす選挙制度の違憲状態があげられる。

そしてトランプ現象が起きている二つ目の理由であるが、このこともこれまでのブログの中で再三訴えていることであるのだが、おバカな国民(有権者)の存在である。

私がここで使っているおバカという言葉であるがこれは一般的な知能、知識という意味で言っているのではない。私が言うおバカな国民とは政治的無知な国民という意味である。前回のブログでも述べたが現在の日本の総理、国務大臣、国会議員もおバカさんだらけであるが、スポーツや経済、お金を稼ぐ能力など政治以外では優秀な人も多いと思う。ただ、残念なことに政治的には無知でおバカなのである。

いつも言っているように、権力者が権力を行使する上で、その手足となる人間は、無批判に何にでも言うことを聞く政治的に無知でおバカな人間でないと困るのだ。

EUから離脱したイギリスでの国民投票の後でも、トランプ現象が生じたアメリカの大統領選の後でも、それぞれの国民が国際ニュースの中で述べていたことで印象に残ったのが、日頃から政治に関心をもっていなければならないことをつくづく感じたという話だった。

そうなのだ、国民投票や選挙に行こうが行くまいが、多くの国民、有権者に通じて言えることは、おバカさんだらけなのだ。政治的な無知な人間だらけなのだ。多くのおバカな政治的な無知な人間が投票し、棄権しているだけなのだ。

アメリカのジョージメイソン大学の教授であるイリア・ソミンがこの政治的無知な有権者の問題が結果的に混とんとした世界情勢を作り出している民主主義制度にとっての大きな脅威となってきている問題であることを投げかけている。

イリア・ソミンは、おバカな国民がおバカであり続ける理由として合理的無知という概念を用いている。例えば有権者の投票行動を考えたとき、世の中が有権者にとってうまくいっていて、多くの有権者がそう思っているときに、敢えて投票に行かないだろう。逆に世の中が有権者にとってうまくいっていないときに自分一人が投票に行ったところで何も変わらないだろうと思い、敢えて投票に行かないだろう。その有権者にとって投票しないことはある意味で合理的なのである。そういった有権者は投票に関わらず、多くの政治的問題においても無知であり続けるであろう。例えば自分一人が自動車をエコカーに変えたところで地球温暖化にほとんど影響がないと考え、何一つ行動を起こさないことと同じことだ。

イリア・ソミンは、おバカな国民が陥りやすい行動として合理的非合理性も挙げている。ある一定の政治的思考を持つおバカな国民は、自分の思考にあった情報を安易に受けいれやすく、そうでないものに関しては無視し、拒絶するというものだ。他者から見て非合理な事実もおバカな国民は難なく受け入れてしまいやすい。私は思うのだが、2000年以降の小泉総理時代からの郵政民営化、ぶっ潰せなどのショートカット化された歯切れのいい訴えに単純に踊らされる国民の多くはおバカな国民であろう。小泉以降も、橋本元大阪知事や、現在の安倍総理にも通じるものがある。ナチス政権下のヒトラーの言葉に踊らされたおバカな国民と同じだ。

これらのおバカな国民のもつ合理的無知、合理的非合理性を、おバカな国民が増えている中で世界中の一部の権力を握り、また握ろうとする人たちがこれらを利用して国家主権のコントロールを図り、その強化をもくろんでいるのが現状であると思われる。

以上のように世界を取り巻くグローバ化の流れと、国民のおバカ現象が相まって世界中で民主主義制度の危機を招いており、とりわけ民主主義の根付いていない日本にとってはその危機は、ほぼ崩壊を意味しており、現実的にここ2~3年で国家の基本法である憲法を否定し、国家権力機関の制限規範である憲法を、主権者たる国民の義務規範にすり替えようとしており、もはや我が国には本来的な意味での憲法は存在しなくなっている。

それを許しているのがおバカで無知な日本国民である私たち一人一人なのだ。

歴史を振り返ったとき、おバカな無知な国民は、ナチス政権下や、東條英機政権下でも存在した。第二次世界大戦という未曽有の大量殺戮が行われたが、現代と比較したとき、二つの大きな相違があると思う。一つには当時は今ほど国民一人一人が直接、バイアスのかかっていない情報を得ることが困難な時代であった。そしてもう一つには最終的に核兵器は使用されてしまったが、現代ほどの高レベルの大量殺戮兵器はなく、基礎をなす地球環境もまだ保たれていた。だから、人類は後戻りができたし、今私たちが存在しえたのだ。

これだけネットなどを通じてバイアスのかかっていない世界の情報を個人が得られる中での無数のおバカな国民の存在、無数に存在する大量殺戮兵器、修復不能になりつつある地球環境

それらを考えたとき、私たちはもう二度と後戻りをすることができないであろう。

   平成28年11月29日    文責  世界のたま

思考停止したサラリーマン化した者たちよ、立ち上がれ!(自然法による支配)

TPP衆議院採決が立ち止まっている。
日銀の黒田総裁による消費者物価上昇2%目標も行き詰っている。
豊洲市場移転問題も暗礁に乗り上げている。
オリンピック競技会場問題も同様に暗礁に乗り上げている。

これらすべてに共通することはすべて金がらみだ。
お金という単なる交換価値しか有しないものを最大の目的としてしまった者たちの見るに堪えない醜悪至極の行為のなれの果てである。

昨夜のニュースの映像の中に、安倍総理が同期の議員たちと料亭で酒を飲み赤ら顔で、車に乗り込もうとしている映像があった。おバカな総理を、おバカな大臣たちが取り囲んでいた。

まったくおバカな能天気な人たちだと思う。彼らが料亭で飲み食いしている同じ時間に、多くの国民は仕事に追われ、スーダンでは自衛隊員が、アフガニスタンでも多くの支援団体が、その他、世界中で医師団、ボランティア含めて様々な団体が命を懸け活動をしている。

自分たちだけは安全なところにいて、料亭でおいしいお酒を飲み、国民には日本も集団的自衛権のもとで国際協力しなくてはいけないなどと調子のいいことを、法律という権力を振りかざさして強行しようとする。

たとえ、戦闘やテロなどで誰が亡くなろうと、彼らは何の感情も抱くことはないであろう。自分たちは安全なところで美味しいお酒を飲み続けているであろう。かつて多くの玉砕した兵士や、特攻隊で散っていった若者や、沖縄で崖から冷たい海に飛び込み、洞穴の中で自爆した民間人を尻目に、東京の地下壕で庶民が口にすることもできなかった美味しいものを食べていた戦争指導者たちのように

もし、彼ら自身の命が現実的にかかっていたとしたら彼らは決してそのようなことはしないであろう。というよりそんな強い精神力や思想は持ち合わせていない。所詮、志も何もないつまらない人間たちの集まりである。権力や、くだらない名誉、何の価値もないお金のために生きているだけの人たちなのだから

憲法が何なのかを理解していないおバカな総理、大臣室でポケットに賄賂を入れるしょうもない元経産省大臣、農水省に明日来たらいいことがあるなどとほざいている農水大臣等々、おバカさんのオンパレード、否、もはや国家的犯罪者のオンパレードだと思う。

歴史を振り返り、彼らを見て思い出すのは、1966年から中国の毛沢東が行った文化大革命、そして毛沢東が亡くなり、文化大革命が終焉を迎えるころに始まったカンボジアでのポルポト派による恐怖政治である。

文化大革命では紅衛兵という本当にまだ幼い無知な子供たちが、武器を持って権力の擁護の下、中国全土で知識人、文化人の粛清を行い、書物を焼き捨て、多くの人々が殺害された。

ポルポト派による弾圧でも文化大革命をお手本に、医者や、弁護士、学者など知識人を中心に何百万人の人が殺害され、国中に無数の地雷が埋められた。その際にも何も知識を持たない操りやすい子供たちが利用され、何の医学的知識のない子供医者などが存在していたと言われている。

前回のブログなどでも書いたが、今のおバカな総理や国務大臣を支えているのもやはり憲法なども知らない無知なスポーツ、経済などの専門バカか、しょうもないちっぽけな名誉欲、金欲を持った国会議員たちである。

彼らには以前ブログで書いた共通感覚が欠如しており、そして贈与の否定もしている人たちである。その結果として思考欠如に陥っている人たちであり、文化大革命の紅衛兵であり、ポルポト派の子供医者なのである。彼らには社会的なモラル、思いやりはなく、権力を背景に自分を大きく見せているだけで中身は何もない。空っぽな人間である。紅衛兵や子供医者がそうであったように長くはもたない。権力がなくなったとき、そこにいるのはただの無知な愚かな人間である。

私はサラリーマン化した現代の人たちに問いたい。彼らに自分たちの未来を、子供たちの未来を、このまま預け続けるのですか

企業で働くサラリーマンたちよ、企業という小さな社会の中だけで生き続けるのですか?
公務員たちよ、組織という小さな社会の中だけで生き続けるのですか?
自分たちの社会の外にはもっと大きな世界があり、そこは立体的以上の時間的空間が開けているというのに

私は司法を信じている。というより、法の支配を信じている。ここで私が言っている法とは自然法である。したがって自然法による支配を信じているといったほうが適切であろう

確かに多くの人たちは、特に有識者と呼ばれる人たちは司法も所詮は権力側でしかないという人たちも多い。事実、最高裁判事は内閣が任命するのだから、権力側に組みすると考えやすい、常識からすればそうかもしれない。

ただ私が違憲訴訟にこだわり、地裁に提訴し、それでもだめなら高裁に控訴し、それでもだめなら最高裁に上告し続けるのは、裁判官の独立を信じているからに他ならない。

歴史を振り返ってみると日本の裁判史上でもいくつかの裁判官の独立を守ろうとした裁判は存在している。

裁判官の独立という意味ではないが、私にとって印象的な裁判は水俣病患者に対する最高裁裁判である。多くの水俣病患者、弁護団含めた支援団体が長い闘争の中で、勝ち得たと思われた国との和解に応じたが、それには応じず、最高裁で闘った水俣病患者たちがいた。
まさかと思う患者勝訴の最高裁判決がなされた。それがきっかけとなってより多くの未認定だった患者さんが救われた。最終的には認定申請期限が区切られたことで、認定漏れの人たちが未だに多くおられることはこれから解決しなければならない課題だと思うが、誰もが予想しにくかった本当に大きな印象的な最高裁判決であった。

私は、人類が本当に進化の過程での最終の種であるとするならば、それが作り出す最終的ないわゆる文明社会は、現代社会のような共通感覚のない、贈与の否定をする、思考を停止した思考欠如した社会ではないと思う。

法、すなわち自然法に支配された社会こそが本当の意味での文明社会だと思う。

歴史を振り返ったとき、そして歴史を繰り返さないために、私がたどり着いた考え、唯一の答えが、自然法による支配、それ以外には考えられないのです。

  平成28年11月3日  文責  世界のたま

思考停止社会 ③ 天皇の生前退位について思うこと

先日、今上天皇が生前退位につき意見を述べられ、その後、そのことについて波紋を呼んでいる。私自身は戦後生まれでもあり天皇については、憲法上日本国の象徴であり、国事行為のみを行い、国政に関与できないという程度のことしかわからないし、それ以上のことを知りたいとも思わない。

今回の生前退位の発言についても、私自身は、今上天皇が言われることは本当に理に適っていることであり天皇自らがそう思われているのであれば単純にそうしてあげればと思う。
私はそんなに複雑に考える必要は全くないと思う。蓋し、天皇自らが心境を吐露し、望まれているのだから。

しかし、どうもことはそう簡単ではないらしい。生前退位を認めてしまうと、今後、天皇に即位することを拒否したりなど天皇制度の存続にかかわるのではないかなどの意見もあるらしく、安倍総理自らも、専門会議で慎重に検討を図ってゆくと述べていたが、特定秘密保護法、安保関連法、TTPでは見られなかった対応をしている。

今回の今上天皇の発言を聞いて私がまず思ったことは今上天皇の人柄だ。戦後間もない幼少のころから敗戦という時代背景のもと、アメリカ人の家庭教師の下でいろんなことを学ばれ、そしてその後の人生の中で培われたものであろうが、先に述べたように、今回天皇が述べていることはごく当たり前の考え方にすぎず、国民と同じ目線で考えておられ、また、考えてほしいという要望に他ならない。

戦後間もない1946年1月1日に天皇の人間宣言がなされた。この人間宣言については文言上、人間宣言という文言が全くないために様々な考え方がなされているが、私は、この天皇の人間宣言の持つ意味は、通説では法律学的に革命があったとされている明治憲法から現在の日本国憲法への主権者の変更、欽定憲法から民定憲法への変更を、形式的には明治憲法の改正手続きとして処理されたその法律上の問題は別にして、国民の精神的な落差を緩和させる緩衝材として天皇が発したと考えている。

上記のような私の考え方から、今回の今上天皇による発言こそ私には人間宣言に思えてならないのです。

日本国憲法において天皇は象徴である。今回の発言の中でもそのことに盛んに触れられて象徴としての公務に支障がきたさないように配慮してほしいとの気持ちを述べられている。

しかし、私には今上天皇の一連の行動、発言を見たとき、天皇は象徴というより、人間としての良心に従った行動をとり、発言をされてきたとしか思えないのです。

今上天皇がA級戦犯の合祀されている靖国神社を参拝されないことは天皇の意思であり、戦後50年(平成7年)には天皇のたっての希望で広島、長崎、沖縄、東京下町へ慰霊の旅をされた。また友好親善ではなく慰霊が目的での訪問は前例がなかったが、南太平洋への慰霊の旅を熱望され、戦後60年(平成17年)にはサイパンへの慰霊の旅、戦後70年(平成27年)には激戦地パラオへの慰霊の旅をされ、同年の8月15日には深い反省という言葉で太平洋戦争を振り返り表現されている。

安倍総理の薄っぺらな歴史認識に基づく継ぎはぎだらけの70年談話、靖国参拝などの行動や発言を見たとき、私には人間としての良心の差をまざまざと感じる。

今回の今上天皇の発言は、ある意味で一人の人間としての発言として思われ、私にはその思いがすっと心の中に自然に伝わってきたのです。

天皇に即位することを拒否することが将来でてくるのではないかという心を持った人としての天皇を考える前に制度としての天皇を考え、天皇の国事行為に政治的な意味合いを持たせようとしたり、自民党の憲法改正草案のように、憲法尊重擁護義務者の中から天皇を削除したり、それらの行為は、今上天皇が一人の人として望んでいることとは全く真逆のことであり、私には天皇を道具として政治的に利用しようとしているとしか思えない。

私には彼らが、純粋な瞳をした少女と合理的経済人という過去のブログの中で述べた、贈与の否定をした思考停止した人間としか思えない。思考停止した彼らは悲惨な歴史をただ単に繰り返すだけで、決して何一つ為すことはできないであろう。

最後になるが象徴としての重責を担われた今上天皇が、良心を持った一人の人間として今上天皇自身が望まれる一生を過ごされることを願ってやまない。

 平成28年10月31日  文責  世界のたま