森友学園化した日本社会(幼稚化した日本社会)

昔から子は親の鏡だというが、私には現在の日本社会、政治的指導者、経済的指導者、そして私たち国民自身も森友学園化(幼稚化、幼児化)しているとしか思えない。

そして森友学園化した日本社会は、とりもなおさず国際社会の縮図であり、現在、世界中で起きている事象は、国際社会の幼稚化、幼児化の結果として起きているに過ぎないと思う。

国有地払い下げで問題となっているというより、学園長の辞任、小学校設置申請の取り下げ、国有地の買戻しで幕引きを図り、過去の問題として忘れ去らせようとしている一連の森友学園問題に関する社会的、政治的流れは、私にそのことを強く考えさせた。

森本学園に関していえば、大きく4つの問題があると思う。
第一に国有地払い下げ問題である。何故 あれだけの値引きがいとも簡単に行われたのか。隣接地の地方自治体への国有地売却との誰もが見てもわかる歴然とした差はなぜ生じたのか。第二に国有地売却そのもの、および小学校設置許可に関わる国会議員、府議会議員、大臣、府知事、各委員、政党とのかかわり合いの問題、第三に設置許可を求めた学園理事が既存の幼稚園で行っており、設置予定の小学校でも行おうとした一貫した幼児教育にかかわる問題、そして第四に首相たる安倍氏との関わり、名誉学園長たる首相夫人の問題である。

私はこれらの一つ一つについて語り、説明するつもりはない。正直言って全くくだらない幼稚なレベルの話である。多くの国民は、幼稚園児たちが教育勅語を覚えさせられ、唱和させられる光景、運動会での中国、朝鮮に対する非難、安保法制、安倍政権に対する称賛を交えた選手宣誓をさせられる園児たちの光景をテレビのニュースを通じて目撃したと思うがこれがまともな大の大人がすることなのか唖然とするばかりである。あまりにも稚拙でレベルの低い人間がさせることとしか誰が見ても思えない。

国会での森友学園に関する国会議員からの追求、それに答える安倍氏、官僚たち、そして府知事、一部の国会議員、県会議員の会見、それらの光景は、幼稚園児たちのおままごとの延長としか私には映らない。それらの光景を見ていて私にはどちらが園児たちなのか全くわからない。国会そのものが森友学園化しているのだ。国会議員たちが使う常套句である違法性はないという言葉。今回も盛んにそれが使われているが、彼らは違法性の前に常識的に物事を判断することができないのか。

現在の我が国では、違法性のレベルでしか物事を考えることのできない幼稚な人たちが国会や、内閣や、地方議会、地方行政府を運営しているのか。幼稚園レベルの園児たちに一生懸命何の理解もできないまま教育勅語、他国に対する偏見を持った事柄を唱和させ、政権与党を称賛させ、それを教育と考え、おままごとごっこをさせている低次元の学園長を立派な教育者と持ち上げ、喜んで講演し、名誉学園長を引き受け、そんなおバカな女性が国際舞台で日本国の首相夫人として紹介されている現実。あまりにも悲しく、恥ずかしく、哀れな現実である。

昨年末の臨時国会の召集決議という憲法上の要請にも関わらず、海外への税金を使った旅行に同伴し、数多くの税金で賄われているスタッフを置いていながら、公人ではなく私人であると言い切るおバカで幼稚な安倍夫妻、国税を使わせていただいている感謝の気持ちのひとかけらもない、裏返すと、彼らは何も理解できない、何の反対意見も言えない幼稚園児たちに、教育勅語を唱和させ、自らの政権、政策を称賛されることくらいしかできない、人間的に成長しきっていない、なんら精神的には幼稚園児と変わらないのだと思う。

私には森友学園問題が、現在の日本の政治、一般社会の幼児化、幼稚化を象徴しているとしか思えないのです。国会、内閣の役割とは何なのか、彼らの役割は違法性レベルの判断を求められているのではなく、違法性以前の、その前提たる法律そのものの定立、国家の基本法たる憲法の改正の発議する能力が求められているのである。森友学園問題を通じてはっきりしたことは、彼らの思考能力は本当に幼稚で、日本国憲法が要請する能力などとても持ち合わせてはいない。そしてその幼稚さ、幼児性は年を追うごとにひどくなってきているように私には思える。

私は問いたい、こんな幼稚なおままごとに対して補助金を使い、こんなくだらない常識的に善悪がはっきりしている事柄について国会で審議、答弁し続ける。いつまで私たちはこんな幼稚で稚拙な社会であり続けるのですか。

先日3月11日で東北大震災から6年目を迎えた。多くの被災者が未だに仮設住宅住まいでそこでの生活は過酷である。そして廃炉への道は険しく、全くめどが立っていない。放射能汚染物質は増え続け、凍土による汚染された地下水の封じ込めも失敗しており、というより、私には、最初から原理的に理論上ではうまくいっても現実的には不可能であったことをある程度分かっていながらやっているとしか思えない。震災以降の政府、東電、原子力関係機関がしていることは何もわからないままに適当にやっては、放射能漏れ情報、労働者含めた被爆情報を隠蔽しているのではないかとしか思えない。私は彼らが真剣に真摯な反省の上に立って処理を行っているとは思えない。もしそうだとすれば、解決が困難なまま先がまったく見えない中で原子炉の再稼働、新たな原発の輸出など考えることは常識的にはあり得ないのだから。

廃炉等の費用に関しても当初の2兆円が8兆円になり20兆円になりで際限なく増え続けており、挙句にその費用を電気料金という形で国民から徴収しようとしている。その一方で東電役員の報酬は一時期800万円程度に減らしたが、震災前の1500万円近くまでこっそり増やし、東電社員の給与も800万円台に戻してきている。

森友学園化は、東北震災だけではなく、豊洲市場問題、東京オリンピック問題でも同じことが言える。それらにおける基本的な問題構造は全く同様である。

そこには科学に対する盲信、人間中心主義、他者との共存の否定しか存在していない。他者に対する思いやりなどひとかけらもない。それは森友学園化そのものである。表面だけ見れば綺麗で立派だが、地下に汚染物は放置され、地上の建物、組織の中で暗躍する人たちの心も地下に埋もれた汚染物以上にに汚れきっている。

そしてそれらを取り巻く人々、多くの国民の心もまた思考停止しているのである。

森友学園化が私たちに教えてくれたこと
最終的に物質的豊かさは何を私たちにもたらすのか

それは、精神的豊かさとの引き換えにすぎないということなのだと思う。

  平成29年3月15日   文責   世界のたま

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