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劉暁波氏の死と共謀罪施行(他者との共存の否定)

H29年7月11日共謀罪が施行され、その二日後の7月13日劉暁波氏の死亡が伝えられた。

この二つの出来事は今の世界を取り巻く状況を如実に表している。

劉暁波氏の生前語っていたモットーである私たちには敵はいないという言葉。彼はこの言葉の中にどんな意味を込めたのであろう。彼は、彼自身を11年の長きにわたる長期拘留させた裁判官すらも、彼を拘留する刑務官すらも恨んではいけない、一生懸命に仕事をしている人間に過ぎないと語っていた。

こうして彼の死を、彼の残した言葉を考えたとき、名前は忘れてしまったが、戦時中に日本軍の捕虜となり終戦まで日本国内の収容所で過酷な環境の中で生き延び、アメリカへ帰国したのちに戦後すぐに来日し、日本中を回り、布教、心の安らぎを説いた一人の牧師を思い浮かべる。

劉暁波氏にしても、その牧師にしても、どんなに過酷な状態に貶められようと、彼らにとって、彼らを貶めた人たちは彼らの敵ではないのだ。彼らの敵は、全ての人間の心に潜んでいる彼ら自身の心の中にもある排他的な自己中心主義なのだと思う。

それは絶対的多数の下でも少数者の存在を否定しない民主主義に通じる心だと思う。習近平国家主席の下での中国は、自らの国家体制を否定する存在を認めず肝臓がん末期に至っている彼の唯一の最後の望みであったとされる自由で民主的国家での死すらも許さなかった。

劉暁波氏にとって、自由や民主主義とは生きてゆく上での空気のようなものなのであろう。最後に胸いっぱいに自由や民主主義を吸い込みたかったのだと私には思えてならない。

人間は生きているうちに空気の存在をあって当たり前なものとして忘れてしまいやすいのだと思う。今、世界中で、そのあって当たり前の存在である自由や民主主義が音もたてずに崩れていっている。

我が国においても組織犯罪処罰法の改正という形で共謀罪として監視社会、密告社会が始まっている。テロの防止という名目で国民の内心の自由が失われようとしている。ちょうどそれは刑務所という国家機関によって監視され生命的な安全は保障されているが、表現の自由、行動の自由が制限された塀に囲まれた社会に似ていると思う。

表現の自由、行動の自由の制限は必然的に民主主義を破壊する。手段としての民主制を失ったとき、人が人であるための核たる内心の自由も失ってしまう。内心の自由を失った人間はもはや人格のないただの器にすぎない。

私がこのブログを立ち上げ、日本国憲法の順守、自然との共存にこだわっているのは、現在ある日本国憲法が世界を取り巻く経済至上主義の下で生じている格差社会、そしてそれによって引き起こされている国家主権の脅威、民族紛争をはじめとする各地でのテロを含めた戦争、難民問題、そして私たち人類の存在基盤たる地球環境の破壊、その前兆としての自然災害、それらすべての問題に対する答え、即ち、人類にとっての指針を示しているからに他ならない。

私が現在存在する日本国憲法が人類にとっての指針であるとするのは、日本国憲法が絶対的に相対的であるからである。絶対的に相対的であることによって、自らを否定するものに対してすらも、その存在を許容しているのである。

このことは劉暁波氏が、私たちには敵はいないと言ったそのものである。

現在の非民主的な他者との共存を否定している政権である安倍政権は日本国憲法の改正、特に憲法9条の改正をしようとしているが、そのことは、日本国憲法が絶対的に相対的であることを放棄するものであり、人類の指針としての規範としての存在の否定である。

私たち日本国民、特に制憲権力を有する主権者として決して許してはならないことだと思う。

同時に内心の自由の制限につながる共謀罪に関してはその執行は決して許されてはならない、蓋し、それを認めることは日本国憲法が絶対的に相対的であることを否定することに他ならないからである。

私自身、組織犯罪処罰法の改正議決無効、その執行停止については、現在、広島地方裁判所に訴訟提起しており、残念ながら即時の執行停止の仮処分請求に関しては広島地方裁判所で棄却決定され、現在、広島高等裁判所に即時抗告しているが、7月11日の施行日までに判断が出されず、施行されてしまい現在、広島高裁においてその決定は保留中であるが、一刻も早い司法府の適切な判断を望んでいる。地裁への訴状や、高裁への即時抗告申立書の中でも書いているが、現在の政治状況の中、我が国の現代立憲民主主義制度において、司法府が最後に残された唯一の砦なのだから

劉暁波氏もそうなのだが、私自身も何故、民主制の崩壊や、他者との共存の否定にこだわり、敏感に反応するのかと考えたとき、おそらく自然との共通感覚のせいではないかと思う。

先日も九州で甚大な被害をもたらした自然災害、これらは毎年のように世界中いたるところで1年を通じて発生しており、その規模や被害も大きくなっている。昨日世界中で報道された南極大陸での史上最大の三重県ほどの大きさを有する氷塊の大陸からのかい離は、世界中で生じている異常気象そのものであり、経済至上主義の下で、アメリカのパリ協定からの脱退含めた環境破壊、地球温暖化への流れは、自然との共通感覚を失った人類のエゴであり、遅かれ早かれその結果は人類含めた生物の存在の否定という答えを導き出すであろう。

一見、自然との共通感覚と現代立憲民主主義は全く交わることのない関係ない事柄のことのように思われるが、私にとっては私たち人類が生存する上での不可欠の両輪であり、これら二つは原理的に深くつながっている。
 
最後になるが、劉暁波氏を失い、共謀罪が施行された今、私が思うことは、世界中、日本中の人々の一人でも多くの人が自然との共通感覚を取り戻し、現代立憲民主主義の下で、人々が自由に自己実現、自己統治ができる社会に向けて思考を停止することなく思考し続けることこそが大切なことであると思う。

経済至上主義の下で、国家主権が強調される世界において、法の支配の重要性を考えたとき、司法府の果たす役割は限りなく大きなものであり、その持つ意味は今後さらに大きなものとなってゆくであろう。

劉暁波氏のご冥福を心よりお祈り申し上げる。そしてあなたの死を、私たちは決して無駄にはしません。

  平成29年7月14日   文責   世界のたま

都議選と民主主義制度について(立憲民主主義の破綻)

先日7月2日に都議選が行われ、都民ファーストの圧勝、自民の大敗という結果に終わった。
今回の一連の流れの中で私自身が思うことを伝えておこうと思う。
今回の選挙結果自体については多くの方々が述べられているように国政の影響が色濃く表れていたと思う。というより国政の在り様への批判そのものであったと思う。

選挙結果以上に、そのことを最も象徴していたのが安倍首相が最終日に秋葉原で行った街頭演説であろう。何度もニュースで流されていたので知らない国民はほとんどいないであろう。

安倍首相が演説する中で大衆の中から辞めろ、帰れコールが沸き起こり安倍首相の演説がかき消されていた。

都議選というより安倍首相、政権への民衆の怒り以外の何物ではない。

何故こういったことが生じたのかを考えた時、私には何度もブログの中で今までも述べてきたことだが、我が国の現代立憲民主主義の破綻を垣間見ているようでならない。悲しい民衆の叫びに見えて仕方ない。

確かに選挙結果として多くの国民はある意味で溜飲を下げ、自民党の都連の幹部の辞職、安倍首相含めた政権幹部の反省の弁などがみられ、多くの人が今後の政権運営への影響は避けられないなどとの発言をした。

しかし、私には一連の流れの中で何一つ解決されたとは思えない。ただ単に我が国に起こっている現実を突きつけられたにすぎないとしか思えない。

それは我が国における現代立憲民主主義の破綻という事実であり、その限りない深さである。

本来、都議選もそうであるが地方選挙は、そこに住む人達にとって直接に関わる様々な教育、福祉、経済について考える場である。4年に一回の大切な住民の意思表示の場であり、住民自治という地方自治にとって最も大切な権利行使そのものである。

その大切な機会が、森友学園問題、加計学園問題、稲田防衛大臣の発言問題、下村都連会長の加計献金疑惑、豊田議員暴言問題というレベルの低い稚拙な国政問題のために、失われてしまった。本来なら東京都民にとって大切な日常生活に直結する様々な問題について判断する機会であったはずなのに

せめてもの救いは小池都知事が語っていた都議会の議決過程の透明化だとは思われるが、一方では中央と一緒で都議会による執行権者たる都知事へのチェック機能が機能するのかという問題も生じているのは事実である。

先にも述べたが今回の都議選の過程、結果の中で私が感じた我が国における現代立憲民主主義の破綻であるが、秋葉原での安倍首相の演説と、その大衆の一部から沸き上がった辞めろ、帰れコールの中に凝縮されている。

たとえそれらの辞めろ、帰れコールが前もって計画された人たちによるものだとしても、その意味において何ら変わるものではない。

それは民主主義にとって核となる説明責任の欠如なのである。説明責任のないところに民主主義は存在しえない。このことは経済至上主義の中で起こっている経済格差における説明責任がいらない世界と対極にある。経済至上主義の中では基本的に説明責任は不要だ。経済力のある者の発言がすべてである。そこには善悪の判断は存在しない。

説明責任の欠如は、経済至上主義を唱える安倍首相を筆頭とする現在の政界をはじめ、財界、教育界含めた社会全体にはびこっているし、日本のみならず世界中でこの現象は生じている。トランプ政権下でのアメリカも同様であり、トランプ氏が多用しているツイッターでの投稿は説明責任が不要の典型例である。

そういった彼らに特徴的なのがマスコミとのやり取りの拒否、マスコミ批判である。

彼らは立憲民主主義、代表民主制という概念を理解しておらず、というより彼らの思考の中にはそういった概念がもともと存在しておらず、永久に存在することもないのだと思う。だから彼らにそういった概念をもって理解を求めること自体が無理なのではないかとも思う。

彼らにとって正義とは自己が望むことを得られることであり、その対象の多くが富や名誉そして権力なのだと思う。他者との共存や、贈与の感覚はありえないのだと思う。

秋葉原での安倍首相が、辞めろ、帰れコールをあげる国民への「こんな人たち」という切り捨てた発言は如実にそのことを表している。彼にとって自分の望む考えに賛同するお友達のみが国民であり主権者なのだ。それ以外の自分の対極にある存在と共存しようとは思っていない。彼にとってシュプレヒコールをあげる人たちは国民でも主権者でもない「こんな人たち」にすぎないのだと思う。

私は今回の都議選を振り返った時、ただ単に安倍政権の驕りであるとか、国民の怒りが鉄槌を下したとかというレベルの問題ではないと思う。

小池さん率いる都民ファーストが大勝したところで、日本社会にとって何らの変化も生じていないのだから

私たち主権者である国民が今回の都議選で学ばなければならないこと、確認しなければならないこと、気付かなければならないこと、それは日本社会のみならず、経済至上主義の世界中で起きている現代立憲民主主義の崩壊の事実である。現代社会はその淵に立っているということである。

都民ファーストが何議席とろうが、自民党が、公明党が、共産党が何議席とろうが、安倍政権がどうなろうが基本的にはどうでもよいことだと思う。最も大切なことは私たち主権者が現在ある日本国憲法を制定した動機、思いに心を馳せることだと思う。

日本国憲法の条文に反して野党が要求する臨時国会を拒否する政府、政権与党は究極の説明責任を放棄しており、そのことは日本国憲法が立脚する立憲民主主義の否定である。内心の自由を含む基本的人権を守るための手段としての立憲民主主義の否定は、必然的に日本国憲法の目的である主権者たる国民の基本的人権への侵害を引き起こす。

その典型例が先日強行採決された組織犯罪処罰法の改正である。それによる私たち主権者の内心の自由への侵害は、おそらく間違いなく手続きたる立憲民主主義制度の更なる侵害を引き起こし、結果として日本国憲法が保障する他の様々な基本的人権への侵害を許してしまうであろう。

私たち主権者たる国民は、自己実現や自己統治といった私たちが日本国憲法を制定した目的そのものを失ってしまうであろう。

私たち主権者は、内心の自由への侵害をほんのわずかでも許してはならない。
内心の自由さえあれば、すべての他の基本的人権を失ったとしても手段としての立憲民主主義制度を通じて失った基本的人権を取り戻すことが可能なのだから

     平成29年7月4日   文責  世界のたま

難民

今、世界は音を立てて軋みながら動き続けている
とても悲しい音を奏でながら

イギリスでは、テロが続く中、メイ首相がEU離脱交渉を有利に進めようとして議会選挙に打って出たが、結果的には保守党は過半数割れを起こした

アメリカでは、ロシアゲートに関し、元FBI長官が議会証言し、大統領訴追への動きもみられる中、トランプ大統領は、地球温暖化のためのパリ協定からの脱退を宣言した

サウジアラビアはイランとの関係を強めるカタールとの国交断絶を行う一方、アメリカとの間で12兆円に及ぶ武器取引を結んだ

フランスでは、マクロン大統領率いる保守党、共和国前進が議会の7割を占める圧勝に終わった

フィリピンでは、ドゥテルテ大統領が戒厳令を発し、南ミンダナオ島マラウィ市に占拠するイスラム国系武装勢力との交戦状態に入っている

トルコでは、エルドアン大統領よるクルド人勢力に対する軍事的、政治的弾圧が強化され、国会の解散、総選挙(国連監視団により不正とされる)により与党議員を増やし、クルド系議員を減らしたうえで、大規模な粛清を行った そして国民投票により憲法改正が決まり、2019年に新大統領の下での施行となっている 本格的な大統領独裁政治が始まろうとしている

韓国では、ムンジェイン大統領が新たな船出をして、北朝鮮、アメリカ、中国、日本との関係を模索している

中国では、習近平国家主席が打ち出した一帯一路という経済構想を推し進めている

これら以外にも世界中で、同時並行的に様々な動きがみられている 一つ一つの事象だけを見ているだけではわかりにくいが、立ち止って、すべての事象を客観的に眺めてみると、多くの国々で起きていることには共通点がある

それは、グローバル化の中での国家主権だ 
そうした状況下では民主主義は両立しえず、現にそうした多くの国で粛清が行われ、憲法秩序が機能不全に陥っている

そして行き着く先に待っているもの 

それは形が違っても独裁国家に他ならない

独裁国家の先に待っているもの

それは多くの難民だ

現実的に、世界中で、シリアから、アフガニスタンから、ソマリアから、スーダンから、ミャンマーから、何千万もの人々が、子供たちが、女性たちが、お年寄りが、病人たちが、国外、国内での難民生活を強いられている

日本においても今まさに、特定秘密保護法、安保保障関連法に続いて、テロ等準備罪に名を借りた共謀罪法案が強行採決されようとしている

主権者たる国民の内心の自由が侵害されようとしている

内心の自由とは人が人であるための核心である

その内心の自由を、私たちおバカな日本国民は、所詮は人工的に作られたものでしかないオリンピックや、豊洲市場や、2万円台に上昇しつつある株式相場や、一次的に盛り上がっている就職前線などとの引き換えに差し出そうと、失おうとしている

平和の祭典とされているオリンピックとテロ、偽りの安全神話の中で再稼働されている原子力発電所と日本原子力開発機構大洗研究所での作業員5人の被ばく事故

それらは、ありとあらゆる人工的に作られたもの、科学の発達によって、人間の生活は、便利になり、豊かになったはずであるが、それはある意味で錯覚に過ぎないことを証明している

それらは、所詮は道具であり、手段にすぎない

目的にはなりえない

世界中で、所詮は目的にはなりえない手段でしかない原子力、オリンピック、豊洲市場、株価や、政治権力や、富や、民族や、そして国家のために、人が人であるために不可欠の核心たる内心の自由を手放そうとしている

水を求めて砂漠をさまよう旅人が蜃気楼を追い続ける様に

しかし、そこには決して旅人の喉を潤す水はない

所詮、蜃気楼に過ぎない

私には今、世界中で、富の中で、与えられた自由の中で生活を楽しみながら、政治的、経済的な原因で命と全財産をかけて海を渡り、大陸を横断する難民を拒否し、傍観している人々こそが

与えられた人工物や、楽しみや、自由のために、内心の自由を差し出し、失った人々こそが、真の難民なのではないかと思う

現代社会という砂漠を彷徨う難民なのだと思う

ドイツのメルケル首相が、トランプ氏のパリ協定からの脱退発言に対して、他国を頼ることはもはやできない 自らの運命は自らが切り開くべきだと語った

私たち難民は、決して思考停止してはならない 
私たち難民は、決して自然との共通感覚をなくして他者との共存を否定してはならない
決して難民のための難民であってはならない

     2017年6月13日 文責 世界のたま

国家機関(国会、内閣、司法)へ告ぐ、日本国憲法を順守せよ!

 前回のブログを書いて以降、世界中で、日本国内においても新たな様々な出来事が起きたが、加速度的に人間社会の時間軸のスピードは速まっている。それは決していわゆる進歩だとか、発達だとかいうものではなく、歴史の巻き返しである。何故、人間は自然の時間軸の中で生き続けることができないのだろう。

何故人間は破壊、殺戮を繰り返すことでしか自然の時間軸に戻ることができないのであろうか。しかし、それができるのも自然の時間軸が存在すればの話で、自然の時間軸を失った時、人間の時間軸など存在のしようがないことを、私たち人間は忘れてしまっている。否、忘れてしまっているのではない。多くの人間は自然に対する共通感覚を失ってしまっているのだ。そして、たとえ自然との共通感覚を持っている人間がいたとしても、経済至上主義の中で他者との共存を否定し、現在を生きる自分自身のことだけを考え、将来の人たちのことに思いをはせることなどしようともしないのだ。

つくづく人間の愚かさを感じる。

我が国は、現代立憲民主主義国家である。即ち、国家統治の側面で言えば、立法府である国会も、行政府である内閣も、司法府である裁判所も、すべての国家機関は日本国憲法に基づいてのみその権力を行使できる。裏返せば、日本国憲法に反したすべての国家行為は、日本国憲法98条第一項「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」に反し無効である。

主権者たる国民の基本的人権の側面で言えば、我が国が現代立憲民主主義国家であるということは、国家を前提としない前国家的権利である思想、良心の自由、表現の自由などは法律の留保なく、人が人であるというだけで無条件に認められているということを意味する。日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

戦前の日本も明治憲法の下で、立憲民主主義国家ではあったが、そこでの思想、良心、表現の自由は、法律の留保があり、法律をもってすれば、それらの基本的人権は簡単に制限を加えることが可能であった。そこが現代立憲民主主義憲法である日本国憲法との根本的な違いである。

そして最も重要なことは、現在の日本国憲法が、自主憲法であれ、他国によって与えられた憲法であれ、その起源に関わらず、我が国が現代立憲民主主義国家である以上は、すべての国家機関は現在存在する日本国憲法に反した国家行為することはできず、反してなされたすべての国家行為は無効である。そして主権者たる国民の思想、良心、表現の自由は絶対的に保障され、国家機関がそれらに対して制限を加えることも一切許されないということである。

今、日本で起きていることに関していえば、森友学園、加計学園問題がある。それぞれにおバカな安倍夫妻のおバカな公私混同した稚拙な権力の乱用問題はあるが、私がこれらに共通して最も重要で看過できない問題だと思うのは、主権者たる国民の絶対的な人権たる表現の自由への侵害である。このことは最終的に個々の国民にとっての思想、良心の自由への侵害に通じるものである。

森友問題では、おバカな安倍さんにとって都合がよいと判断された籠池理事長の国会での証人喚問は認め、重要な森友問題当事者であるおバカな安倍さんのおバカな妻に関しては私人であるという理由で証人喚問拒否を行っている。籠池さんもおバカではあるが私人であることに変わりはないのだから筋が通らない。

加計学園問題では先日、元文科省事務次官である前川氏が総理の御意向メモは事実であり、行政がゆがめられたとの記者会見を行った。

これらの二つの事件に対して、私たち主権者がおバカなりに考えておかなければならないこと、おバカであるがゆえに絶対に抑えておかないといけないことが私は二つあると思っている。

一つは私たち主権者が失ってはならない知る権利への国家機関による侵害が行われているということである。知る権利というのは言い換えれば、情報を得る権利のことである。私たちが物事を考えてゆくうえで何が最も必要であるかを考えた時、それは情報である。正確な情報がなければ物事を正しく判断できない。かつての共産主義国家がそうであったように、戦前の日本がそうであったように、大本営発表を信じた主権者たる国民が最後にどういう結末を迎えなければならなかったを考えれば誰でもわかることである。

森友学園問題では籠池氏の個人的な虚偽申請問題などを敢えてクローズアップして、私的な人格問題にすり替え、おバカな安倍首相、文科省、大阪府、維新の会、安倍昭恵夫人の公的問題から、国民の目をそらそうとある意味で情報操作、主権者たる国民の知る権利への侵害が図られている。

加計学園問題では元文科省事務次官の前川喜平氏が総理の御意向メモが存在していたことを記者会見で述べたが、そういった行動をとる可能性を察知した政権側がその前に前川氏の事務次官当時の出会い系サービス業への通い問題を彼らの御用新聞である読売新聞にリークしたことは、全国紙に一律に掲載されたことを考えればおそらく間違いのないことであろう。菅官房長官が記者会見で必死にこの前川氏の出会い系問題がいかがなものかと取り上げていたが、その表情、仕草を見れば、政権側が必死に加計問題を、前川氏の私的問題にすり替えようとしていること、裏返せば、政権側がおバカな安倍さんのおバカな長年の稚拙な人間関係でしかない加計氏のために便宜を図ったことをくしくも証明する形となってしまっている。前川氏自身もここまで記者会見するのであれば、敢えて教育と貧困問題の調査などと言い訳などせずに、ただエッチしたかったのだと言えばよかったことだと思うが、そこがエリートたるゆえんなのであろう。

もう一度言っておくが、ここで重要なことは、加計学園にしても、森友学園にしても、籠池氏や、前川氏の人格問題にすり替えようと政権側は意図しているが、国家機関による情報操作、主権者たる私たち国民の知る権利、表現の自由、思想、良心の自由への権利侵害が行われているということだ。

私は、これらの事件を考えた時、西山記者事件を思い出す。沖縄返還時に日本政府と、アメリカ政府の間で交わされた密約を西山記者が暴露した事件であるが、事件当時、その内容の真偽より、西山記者がその情報を入手した手段、すなわち情を通じての国家機密の漏えいが裁判所という国家機関においては問題視された。後にその密約の存在は明らかになったが、今回の二つの事件は国民の知る権利への国家機関による侵害という点で非常に共通している。

もう一点、私たちおバカな国民がこれらの事件を通して考えなければならないことは、今現在、国会で審議されている共謀罪についてである。このことは私たちすべての主権者が真剣に考えなければならないことなのです。国民一人一人が、その所属する政党、宗教、企業に関わらず、すべての国民が許してはならない法律だということです。

共謀罪については衆議院で強行採決され、現在参議院でアリバイ的な審議がされている。多少の修正がなされ、その適用範囲が狭められているが、個々の刑罰法規に関する改正ではなく、犯罪行為全般に対する総則的な改正であることに変わりはない。

先日書いたブログの中でもお話したことであるが、現在までに確立してきた刑罰法規の持つ私たちの生命、身体を含めた法益の保護と、国家によって不当な逮捕、処罰をされない自由の保護、その二つのバランスを大きく崩してしまうものだ。

主体が違法な団体であるとか、準備行為がなされることが条件であるとか、様々な処罰条件が設けられているというが、歴史を振り返ってみた時、実際の現実世界の中では拡大解釈されることは火を見るより明らかなことである。

また、元裁判官や元検事の方がおっしゃられていたが、令状を要するとされているが現実的には令状を出す捜査機関の判断が優先され、裁判官はそれを基本的には認めざる負えないと言われ、全く人権侵害への歯止めにはならないされる。実際にそうであろうと私も思う。

素人でも考えてみればわかるが怪しげな人、政権にとって都合の悪い人をメール等含めてでっち上げ、共謀の疑いがあるとして令状を作成し、逮捕した後自供を作り上げることは共謀という外見からは見ることができない内心を犯罪の構成要件にすることでいとも簡単にできてしまうことなのです。そして共謀者と思われたくないためにおそらく罪に陥れられた人に対する証言を多くの人たちが拒否し、距離を置こうとするであろう。誰一人として如何に長年の友人であったとしても署名活動などして擁護することは不可能になってくるであろう。

今回の二つの事件は国民の表現の自由、知る権利に対する国家機関に対する侵害であり、このことは、共謀罪という内心の自由への国家機関からの侵害に直結していることなのです。

表現の自由、内心の自由などの人が人として生きてゆくために不可欠な権利である最も大切にしなければならない国家が存在する前からの前国家的な権利である精神的自由権を私たち主権者は命を懸けて守らなければならない。

精神的自由権を失ったとき、国家機関による制限を受けた時、自由な政治活動は許されず立憲民主主義は崩壊し、一部の権力者のために人は闘い、多くの人たちの尊い命が失われてしまうであろう。

確かに先日イギリスで起きたテロ含めて世界中で起きているテロを恐れ、そのためには共謀罪が必要で、犯罪を未然に防ぐという政府の理論は一見正論に思える。

しかしながら、表現、内心、言論、集会、結社の自由に対する国家機関による制限は、最終的には民主主義社会を崩壊させ、テロ以上の何万という人々の犠牲を出してしまうことは明白な事実であり、そのことは歴史が証明している。日本の歴史を振り返っただけでも日露戦争以降、勝利を称える報道によって各新聞社は部数を伸ばし、満州事変後、戦争に対する異議を唱えていた大手の新聞社はほぼすべてが戦争賛美に変わってしまった。大阪朝日や大阪日日などはある程度抵抗したが、新聞不買運動の中でその方針を変え、賛美に回ってしまった。平民新聞などの最後まで戦争に異議を唱えた新聞社は弾圧の中、廃刊に追い込まれてしまった。そんな言論統制の中で、何百万という日本国民の尊い命は失われ、戦争責任者である人たちは生き残り、おバカな安倍さんの祖父もその一人であった。

所詮、権力者は国民のことなど考えてはいないのである。今の安倍政権もそうであり、麻生副総理のナチスを真似ればいいという発言、ある自民党議員のマスコミをだまらせるには広告を出さないようにすればよいという発言、それらの発言は彼らの本音であり、今回の二つの国民の知る権利への侵害がなされたことはたまたまではなく必然であり、それらはこれから私たちおバカな国民へ降りかかってくるもっと大きな事件の序章に過ぎない。

テロ自身についても私たちは恐れるのではなくその起こる原因を考えなければならない。前から何度もお話ししていることだけれど、その原因の多くは経済至上主義による格差社会、贈与の否定、他者との共存の否定にあると私は考えている。

そしてテロから身を守ると宣伝されている共謀罪が先にも話したように、所詮は主権者たる国民の内心、表現の自由を侵害し、結果として政治活動は制限され、民主主義は崩壊し、時の国家権力の維持を図り、そして森友学園や、加計学園含めた、時の政権を維持し、支持するお友達のみを優遇する社会、すなわち更なる格差社会の形成が行われ、その結果としてテロは減ることはなく一般社会に広がってゆくであろう。

もう一度言っておきます。私たち主権者たる現在の国民はおバカであるけれど、これだけは決してしてはならないこと

私たち主権者は決して思考停止してはならない。

最後に一言、国家機関に告ぐ、日本国憲法を順守せよ!
日本国憲法は、私たち主権者のものである。国家機関は黙ってそれに従え!

   平成29年5月29日   文責   世界のたま

憲法とは(憲法を失った国家、日本)

今年の憲法記念日以降、様々なことが日本国内、世界で起きているが、そんな中で私が思うことは、我が国が実質的な意味での憲法を失ってしまったということだ。

そもそも私たちは何故、憲法記念日という日を作って祝日にしてきたのであろう。今年の憲法記念日にも様々な集会が全国で開かれて、安倍さんも元首相の中曽根さんと一緒になって憲法改正、日本人による憲法を作ろうと持論を述べられていた。そんなことであれば、彼らは何故、今まで憲法記念日などといって現在の日本国憲法を祝す祝日として国旗を掲げ続けてきたのか。私には彼らの言動が全く理解できない。

私がここまで言うのは、彼らが現職の内閣総理大臣であり、内閣総理大臣経験者であるからだ。

現在の日本国憲法第99条では、内閣総理大臣やその他の大臣、国会議員、その他の公務員には憲法尊重義務が課せられている。彼らが行っていることは本来、現憲法に違反した違憲行為である。

彼らは言うであろう。一個人としての発言である。日本国憲法において各個人には思想、良心の自由が保障されていると。若しくは憲法99条は倫理的な意味しか持たない法律的な規定ではないと。

果たしてそうであろうか。そもそも憲法とは国家の基本法である。国家の基本法とは主権者である国民の基本的人権を守るための国家の統治機構、その制約、および保障されるべき人権を規定したものである。

言わば、憲法とは一人一人の人間がその自由、平等を守るために、長い年月、そして多くの代償を払いながら獲得し、たどり着いた人類の英知である。

私に言わせれば、確かに内閣総理大臣や国会議員や公務員は憲法的には主権者でもあるが、他方99条によって憲法に反する言動に関して制限される権力側の人間である。それ故、もし彼らのそういった言動が憲法上許されるとするならば国会という公の場での憲法改正の手続きにおいての発議という形でしかあり得ないはずである。それが現在の日本国憲法の要請である。

それができないというのであれば、あくまでも主権者としての自由な発言を望むのであれば、99条の関与しない内閣総理大臣を辞職して単なる主権者という立場に帰して発言すべきことである。

彼らが主張している99条は倫理的規範であり、法律的な意味での強制的な規範でないという言い分に関して言えば、同じようなことが憲法の基本書などにも多く書かれているようにも思うが、そもそも憲法とは何なのを考えてみるべきだと思う。

日本国憲法はきちんとした前文から始まり各条文が収められた憲法典という成文憲法の形をとっているが、世界で見るとイギリスのように憲法典を持たない不文憲法国家もある。それではイギリスが立憲民主主義国家ではないのか、主権者の権利は憲法上、保障されていないのかと言えばそうではない。逆に言えばイギリスは人権発祥の地でもある。他方で形式的な憲法典を持っていても国民の基本的人権が保障されていない国家もある。

私が言いたいのは、そもそも憲法にとって重要なことは文章になっているかどうかではないということだ。文章という形になっているだとか、文章になっていた場合にその順番だとか、本文ではなく前文であるだとか、その形式はどうでもいいということだ。

現実の法律の世界の中ではよく日本国憲法前文は具体的な裁判規範ではなく、各条項を適応する上での解釈基準であるなどと言われることがあるが、憲法というものを考えるとき本当に大切なのは法意であると思う。本文であるとか、前文であるとか、条項の順番であるとかは本当の意味ではそれほどの意味を持たないと私は思うのです。

本来の意味での憲法記念日とは憲法典という、形式的な部分について語るのではなく、憲法とは何なのか、主権者にとって憲法の存在意義、人類が憲法という規範を持つに至ったその過程を再認識することに意味があるのではないかと私は思う。

主権者ではなく権力者が憲法改正を持ち出すとき、憲法典としての憲法の条文の改正にこだわるとき、それは主権者の基本的人権への制限がなされる時だと私は思う。

憲法とは、憲法典として成文化されていようが、不文化の状態であろうが、その形式に意味があるのではなく、権力から主権者の基本的人権を守る核心そのものに意味がるのだと私は思う。

違憲状態の国会議員によって選出された違憲状態の内閣総理大臣が日本国憲法99条に反した憲法改正の違憲行為を平然と行い、それがまかり通ってしまう現在の日本という国家にはもはや立憲民主主義的な意味での憲法は存在していない。たとえ形式的な意味での憲法典が存在していたとしても何の意味を持たない。そしてそれらを改正しようがすまいがそれ自体もまた何の意味も持たないのである。

そうした実質的な意味での憲法を失った国家がどういった末路をたどるのか、それもまた何度も歴史が証明してきたことだと思うし、そして同様に証明するであろう。

  平成29年5月12日   文責   世界のたま

今、日本で、そして、世界で起きていること(決して驕りや、焦りではない)

1)今、日本で起きていること

先日、東北震災での自主避難は自己責任であると発言し物議を醸した今村復興大臣が辞職した。二階堂幹事長のパーティーの席上での東北でよかったという発言が直接の原因であったが、そのあとの二階堂幹事長のマスコミに対する発言も、様々な波紋を呼んだ。
多くの意見は震災にあった人々、現在も大変な生活を強いられている人たちへの冒涜である。国会での絶対多数を背景にした与党、政権の驕りであるというものが多かったと思う。
その後、福島県出身で被災された吉野元環境副大臣がすぐに後任として任命された。任命後の談話で自身が被災者であり誰よりも被災者の方々の気持ちがわかるので、被災者と寄り添って行政にあったて行くようなことを、述べられていたように思う。

私がこれらの事実に対して思うことをお話ししておこうと思う。
 
まず第一に現在の、政権与党はもとより、与野党含めた国会議員の中に、果たして復興大臣の任を果たせる人がいるのかと問われたなら、おそらくいないのではないかと思っている。
世間では上記のように今回の一連の出来事に対して復興大臣個人の資質、安倍総理の任命責任を問う声がほとんどだと思うし、新たな復興大臣が被災者であるということで適任と思われているが、果たしてそうなんだろうか?と私は思う。
私には今回のことは安倍内閣の責任追及、大臣の据替という簡単な問題であるとは思っていない。根本的な問題は、安倍政権はもとより、与野党含めたすべての現国会議員の他者との共存を否定した党利党略的な考え方、というより一人一人の国会議員の個々人の生き様にそれらの原因があるとしか思えない。
蓋し、今回の件でいえば被災者である吉野復興大臣が選ばれたことでよかったと思われる人が多いいと思うが、果たしてそうなのだろうかと私は思う。何故かと言えば、逆に言えば被災という実際の体験をした人でなければ当事者意識をもってことに当たれないということを言っているようなもので、実際に体験しなければ当事者に寄り添った行政ができない人間しか今の国会にはいないということを暴露しているに等しいのだから
すなわち今回のことは復興大臣問題ということに止まらず、現在行われているすべての行政行為に言えることにつながる。沖縄の辺野古問題、各地の原発再稼働問題、待機児童問題、豊洲市場問題などで同じことが行われている証左であり、今回の復興大臣の問題はその氷山の一角に過ぎないと思う。

与党政権を筆頭とする体験しないと想像できない想像力の欠如、それは道徳観の欠如ともいえると思う。私にはそんな他者との共存を否定した大臣たちに、国会議員たちに国会や内閣などの国家の重要な立法行為、行政行為ができるとは思えない。ましてや国民の道徳教育などできるはずもないと思う。

今、日本で起きていることの原因は、想像力の欠如、言い換えれば他者との共存の否定であるが その原因は、自然との共存を否定した経済至上主義に他ならない。
そしてそれらが生み出している格差社会が富める者、権力ある者の説明責任の欠如を生じさせ、結果として現代立憲民主主義の崩壊につながっており、現実的に、今現在行われている連休も休まず強行日程で行われている共謀罪の審議(審議というより審議したというアリバイ作りであるが)、その先に待ちかまえている強行採決に他ならない。先日のブログでも書いたように共謀罪、特定秘密保護法、安保関連法により立憲民主主義の目的であると同時に手段でもある主権者にとって不可欠の内心の自由を私たちは失ってしまうことを忘れてはならない。

経済至上主義という点ではアメリカのトランプ大統領が行おうとしている法人税減税、海外企業の国内生産誘致合戦、他者との共存を否定した自国第一主義に基づく防衛予算の増額、一方では公園、学校などの社会資本の減額、教員の削減などの将来の人に対する投資の削減は、さらなる大量消費による環境破壊を促進し、格差を拡大させ、結果として更なる立憲民主主義の崩壊を引き起こすであろう。

アメリカに追従する我が国でも同様なことが起こっているのであるが、最近話題になっている物流関連の問題に触れておこうと思う。一つがヤマト運輸の配送時間制限 取扱量の削減 手数料値上げ問題であり、二つ目が日本郵政の子会社損失に伴う4003億円の損失計上問題である。
以前ブログでもお話したことがありますが、物流は経済活動、私たちの生活にとって欠かすことのできないものになっているのは事実ですが、環境破壊の大きな元凶でもあるのです。長距離を多量の物資が移動することで多量のエネルギー資源が必要です。また、今回のヤマト運輸で明らかになったように、アマゾンなどのネット販売を通じて更なる環境にとって無駄な大量消費、物流社会を巻き起こしている。
自然との共存との関連を考えたとき、確かに手数料値上げ、配送時間指定が難しくなる点など消費者にとって一見大変になると思われがちであるが、24時間コンビニの時間短縮なども併せて、私たち人間にとって最も核心に持たなければならない自然との共存という観点から考えた時、多少の不便の中、本当に自分たちにとって必要なものだけをできるだけ物流というエネルギー消費しない地元で購入するというライフサイクルを考え、実践するきっかけにしなければならないと思う。

2)今、世界で起きていること(世界を取り巻く自国第一主義)

世界中で、その程度は別にして、自国第一主義が叫ばれている。ヨーロッパではイギリスのEU離脱も含め、フランスでのルペン氏、ハンガリーでのオルバン首相による中央ヨーロッパ大学閉鎖、アジアにおいても多様性の中で発展してきたインドネシアの9割がイスラム教であるジャカルタ知事選において現職のアホック氏が敗れ、アニス候補が当選した。アニス氏は頭金ゼロで住宅建設促進による貧困層へのアピールをしているが、トランプ氏のアメリカと同様に多様性への否定に流れてゆくのであろうか。
そんな中でトランプ氏のアメリカが掲げる、自国第一主義の中での力による平和が果たして可能なのであろうか。
実社会では、南スーダン、ソマリア、アフガニスタン、シリア、イエメンに加えて北朝鮮問題が大きな問題になってきている。
そうした中で、今、平和を守り、戦争を起こさないために何が必要なのかが改めて問われていると思う。
戦後、世界は国連を中心とした集団的安全保障、そしてアメリカを含むNATO、それに対するソ連を中心としたワルシャワ条約機構などの集団的安全保障制度の中で自国の防衛を行い、戦争を回避してきた。
ソ連が崩壊し、ワルシャワ条約機構が解散する中で、東西冷戦も終わりを告げ、平和が訪れるかに見えたが、世界各地で民族紛争、宗教の違いによる争い、テロが増え続け、安全保障理事国中心の国連ではそれらを防ぐことは困難になってきている。

そしてこの度の北朝鮮に対するアメリカによる空母派遣、迎撃ミサイルサードの韓国配備、米韓、日米の軍事演習、そんな中での中国の空母建造、昨日もそれらに対し北朝鮮はミサイルの発射実験を行っている。

中国、ロシア、アメリカ、日本などの各国の首脳は、彼らだけで解決できると思い、盛んに連絡を取り合っている。いや解決できるとは思っているわけではなく、自国第一主義の中で自国を守ること、自国の経済至上主義にとって最大の利益を求めて、もしくは自分たちの現政権にとっての政治的な最大の利を求めて行動しているに過ぎないと思う。
そもそも北朝鮮問題を考えるとき、何故朝鮮半島が分断され、現在に至ったのかを考えなくてはならないと思う。1910年の日本による植民地支配を経て、戦後ソ連、アメリカによる東西冷戦の中、南北に分断され、1950年に、は北朝鮮の金日成が、中国の毛沢東、ソ連のスターリンの了承の中で、朝鮮戦争を引き起こし、現在に至ったのだ。
そして北朝鮮の核保有について言えば、そもそも誰が開発して、保有して、使用したのか。それらがなければ今の北朝鮮の核保有問題は生じていなかったはずだ。自分たち自身は核廃止どころでなく更なる核保有を進めている。
彼らがよって集まって話し合ったところで、何事も彼らによって解決されることはないであろう。
それはバカの一つ覚えのように思考停止したまま彼らに同調しようとしているうぬぼれて、核心のない国家、日本も同様である。

そんな中で、私は、戦争の原因は何なのか、それを防ぐための思考の対象は何を考えればよいのかを自問自答している。

二つの大戦を経て規範や制度で防げるとしたリベラリストに対して、それらの大戦を防げなかった現実の中で、リアリストは安全保障における国際システムをその対象として考えてきたし、今でも多くの国の国民の中心的な考え方はそうであるとは思う。

しかし、現実的には自国第一主義のもとで、北朝鮮はもとより、アメリカ、中国、ロシア含めた大国は安全保障の対象を国家に求めてきている。
私は、それは過去のデジャヴに過ぎないし、その結果も歴史が証明している。

現代を生きる私たちは決して歴史の中に閉じこもっていてはいけないと思う。

私は、安全保障の対象は、意思決定者たる人しかありえないと思う。その実現方法としては手段としての国家を通じてなされるとは思うが、国家そのものを直接的な対象としてはいけないと思う。
現在のアメリカが自国中心主義をとろうとしても自国ですべてが賄えるとしても現実的には他国との関係は経済、環境、安全保障面でも不可能である。
アメリカが地球に存在する限りは

今、日本で起きていること、世界で起きていることを考えた時、私たちは、現実的に目の前で起きていることを、つい自分中心で考え、例えばオリンピックがあるからテロ対策のために共謀罪が必要である、北朝鮮がミサイルを撃つかもしれないと、おバカな安倍さんや政府与党から言われると、そうなのかなと考えてしまう。確かにテロやミサイルの恐怖はわかります。おバカな人たちに賛同したくなる気持ちもわかります。

しかし、よく考えてください。共謀罪が成立し、監視社会となり、特定秘密保護法との兼ね合いの中で万が一、不法逮捕されても、物言えぬ社会では、おそらく今は信用している周りの人たちの中で誰が不法逮捕された人のために自らを危険にさらしてまで助けてくれるでしょうか?
誰もが自分がかわいいように自分が不法逮捕されてまで救ってはくれません。そして万が一生き残れたとしても北朝鮮がそうであるように、安全保障関連法の下で安全保障の対象を国家と考えるおバカな人たちのために共謀罪の恫喝の中で戦争に駆り出されることは間違いのないことなのです。
今、日本で起きていること、世界で起きていること、それらは現代に生きる主権者たる私たち一人一人に問いかけているのです。
私たちが歴史の中に閉じこもったまま歴史を繰り返すのか、経済至上主義を捨て自然との共存、他者との共存を図って生きてゆくのかを

 その選択を私たちに投げかけているのだと思う。
 そして私たちが選択する時間も限られていることをも

    平成29年4月30日   文責  世界のたま

新たなる時代の先駆けとなれ~暗黒の時代を乗り越えて

先日、核禁止条約締結へ向けての国際会議が開かれ、115か国以上の国々が参加したが、日本をはじめ核保有国、NATO参加国は棄権した。会場には折り鶴が配られ、日本が座るべきだった机にはとりわけ大きな折り鶴が置かれ、折り鶴には、あなたにはここにいてほしかったと書かれてあったのが印象的だった。

昨年10月には被爆県選出である岸田外務大臣は日本が核保有国との積極的な橋渡し役を果たすために主導的立場でこれらの会議に出席することを述べていたが、トランプ政権の発足で今回の棄権という真逆の結果となってしまった。

その理由について核保有国と非保有国との決定的な断絶を避けるためと説明しているが、それは最初から分かっていることである。1970年の核保有国間における核拡散防止条約が功を奏せず北朝鮮までもが核を保有するに至っている現実、ロシアのプーチン首相、アメリカのトランプ大統領共に、さらなる核戦略の拡大を図っている現実、これらの現実を前にして核保有国に任せておけないという国際社会の認識の中で今回の核禁止条約締結への流れができてきたのであって、元々、核保有国との認識のずれがあるからこそ起こっている問題なのだからそもそも核保有国との軋轢は覚悟のうえで非保有国は会議に望んでいる。

いまさらどの面下げて橋渡しをすることができるというのか。アメリカに追従しかできない何の核心を持たない政府、国家に対して今回会議に参加した非保有国はもはや何の期待もしないであろうし、恥さらし以外の何者ではなく、核の犠牲になった多くの被爆者に対する冒瀆である。

北朝鮮が弾道ミサイル発射を行い、シリアでは政府軍が化学兵器の使用をしたとされ、それに対し、米中首脳会談中にアメリカによるシリアへのミサイル攻撃が行なわれた。

これらの一連の流れの中で私が思うことを二つ述べておこうと思う。

一つは北朝鮮の弾道ミサイル核実験やイランの核開発などを見てわかるように、上記にも挙げた1970年代の核保有国間における自分たちだけが核を持ち続けようという傲慢な政策などでは核抑止には何一つの効果もないこと、ましてや一歩譲って核拡散防止条約を評価したとしても結果として、この間のトランプ、プーチンなどのおバカな大統領たちが制限のない新たな核技術の開発を推し進める発言を目の当たりにしたとき世界中の誰一人として核保有国が真摯に核を地球上からなくそうと考えていると信じることはできない。

そもそも核を彼らが持ち続けようとする理由の一つは根底に彼らが核抑止論を信じているからだと思われるが、以前にもブログの中で述べたことがあるが、冷戦が終結して以降、今後想定しうる戦争状態は主権を有する国家間での国境を挟んでの戦争ではなく、民族、宗教、経済的格差からの国内や国境をまたいでの戦争である。国家主権を持たない組織に対しては基本的に核を保有することでの抑止効果はない。イスラム国が良い例であるが、彼らに対して核抑止効果による戦争終結を図ろうとしても困難である。彼らにとって核攻撃を受けたところで何も失うものはないのだから、現実を見てみれば誰もがわかっていることだ。そしてもし彼らが核兵器を持っているとすれば相手が核を持っていようがいまいが躊躇なく核兵器を使うであろう。そこでは核抑止論は全く意味のないことなのだ。

もし核抑止論が意味のあるものでないと分かっていながら核保有国が核を持ち続けるとしているならば、そのもう一つの理由は、核をも含む兵器を経済活動の一つの産物としか考えないおバカな経済至上主義である。兵器産業から莫大な利益を得ている核保有国にとって、経済至上主義により自らの経済的有利な立場を維持、継続するためには、世界の緊張緩和はあってはならず、常に緊張関係を望んでいる。そうすることでアメリカ、ロシア、中国などの核保有国はその経済的基盤、支配地域の拡大を求めている。

彼らにとって基本的に地球環境などどうでもいいのだ。彼らは近視眼的な物の見方しかできず、彼ら自身、若しくは身内レベルの当面の社会的、経済的地位の維持、保全しか考えていない。アメリカをはじめとして自国第一主義が盛んに言われているが、基本的にはそこに住んでいる国民全体ではなく、所詮は一握りの人間のためだけに過ぎない。

そして私が思うもう一つは、世界中で次々と起こっている一つ一つの事実が、本当に幼稚で、熟慮せず行われていること。その内容も稚拙で、残虐化しており、それを見聞きする世界中の多くの国民がそれらの稚拙化、残虐化に慣らされ、その無関心さの中で、更なるエスカレートした稚拙で残虐な出来事が生じていることである。

今回のアメリカによるトマホークミサイルのシリア空港施設への攻撃は、アサド政権の化学兵器使用による報復攻撃として正当化しようとしているが、ミサイル攻撃、化学兵器による攻撃、核兵器による攻撃、最新機器を利用した無人機の遠隔操作による攻撃など、それらに何の違いがあるというのか、ユダヤ人に対するガス室での大量殺人、第二次世界大戦中、行われた人体実験、ベトナム戦争での大量の枯葉剤散布それらに何の違いがあるのか

私にはそれらに何の違いがあるとは思えない。

そして連日起こっている世界中でのテロ、ロシアでの手製爆弾を使用した列車テロも、スウェーデンで起きたトラックを使ったテロさえも何の違いがあるというのか。

第二次世界大戦後も世界中で起きている戦争や紛争はすべてといっていいほど、それらの原因はその背景には欧米を中心としたかつての植民地支配か、米露による冷戦が必ずと言っていいほど介在している。

結局、今回のシリア問題もそもそもアサド政権に対する米ソを中心とした先進国の関与、シリア問題を複雑化したイスラム国自体も、過去のブログでも述べたように、彼らが強大になったのもソ連のアフガン侵攻をきっかけとしたアメリカによるイスラム過激派に対する軍事支援、イランイラク戦争でのフセイン政権に対する軍事支援などによるものである。

そして今回のシリア空港に対する攻撃含めたシリア内線も結局は、欧米露による軍事介入が行われ泥沼化し、数多くの子供も含めた人々が亡くなり、負傷し、難民化している。

イスラム国で兵士が乗り回すトヨタ車、イスラム国、政府軍 反政府軍が使用するすべての武器も、そして化学兵器すらも 先進国自らがその経済至上主義の中で開発し、現在も売り続けている経済至上主義に基づき生産された商品であり、その利益によって私たち日本人も含めた先進国の人々がある者はブランド物を身に着け、ある者は高級住宅を建て、そしてある者は生きるための食べ物を買うことができているのである。 

第二次世界大戦後、米ソの核開発競争の中で、多くの核実験が行われ、第五福竜丸乗組員をはじめとして、核実験場とされた太平洋の島々の島民、参加した兵士たちなどから多くの被爆者が出てしまった。原子科学に道を開いたラッセル、アインシュタイン、湯川秀樹などの優秀とされノーベル賞をも受賞した彼らがその自らの発明を後悔し、核開発競争に対する反対声明であるラッセルアインシュタイン宣言を世界に打ち出したが、もはや彼らの言葉に耳を傾ける人々はいなかった。

現代社会はこの3年間でがらりと変わってきてしまっている。今年南極が史上最も小さくなった事実でも明らかなように地球温暖化は進んでいる。そんな中でトランプ氏は自然破壊をしてでもカナダとのパイプライン建設にゴーサインを出し、パリ協定からの脱退も匂わせてもいる。自然破壊を優先してでも推し進めているのは沖縄の辺野古基地建設も同様である。そこにあるのは自然との共通感覚を持たない自然と敵対関係にある人間中心主義である。

現代社会は経済至上主義によって生み出された商品や経済そのものをも含めた手段を目的化したその末路の最終段階に来ており、自然との共存を否定し、人間自らもが自然であることも忘れ、結果として人間同士、他者との共存をも否定してしまっている。その結果として世界中で自国第一主義が生ずることは当然の結末である。そして自国第一主義といっても所詮は自然との共存、他者との共存を否定する者たちの国家など最終的には成り立ちはしない。自国とはいっても最終的に守ろうとするのは最終段階での一握りの指導者たち自身だけである。

そして現実問題として言えることは自らを自国第一主義と言っているアメリカが日本を最終的に守ることなどあり得ない。これは100%間違いのない事実である。蓋し、アメリカによる北朝鮮の挑発によって韓国や日本に核ミサイルがいくつ撃ち込まれようがアメリカ、中国、ロシアにとって何の関心もないどうでもいいことなのだから、自分たちに核被害が及ばない限りにおいては

私には核禁止条約に対しアメリカに遠慮して棄権し、シリア攻撃に関してもいち早く賛同するおバカな安倍さんの能天気さにはあきれてしまう。そしてトランプ氏、安倍氏の共通点はその稚拙さであり、未来に対する想像力が欠如しているのである。簡単に言えば本当に人間としておバカな二人なのだ。そしてそのおバカな二人を止めようとしない私たち主権者たる国民も、コマーシャルや経済至上主義によって生産される商品や娯楽の中で思考停止しているのである。

最後になるが私たち日本国民が今、何をなさなければならないのかを話しておこう。

私たちは思考停止したおバカから脱して自然との共存を図らなければならない。このことはすべての基本であり、このことはゼロか百かで百しかありえないのです。その間はないのです。その間を模索しようとした結果が現代社会なのです。

自然との共存が核心であり、核禁止条約の締結、辺野古基地建設の中止、原子力発電所の廃止などは、政治的問題、経済的問題など考える前にまず無条件に肯定されなければならない。何らかの理由で否定されることは許されないのです。私たちはそうした絶対的な前提のもとで政治的な、経済的対応を考慮してゆかなければならないのです。核心は核心であり、ぶれることはあってはならないし、ありえないのです。

それに対し必ず、現実問題として中国が北朝鮮が攻めてきたらどうするのか、原子力発電所がなくなったら電気はどうするのか、デフレになったらどうするのか、様々な反論がなされると思う。空論で現実的でないと言って、単なるバカだと言われるお偉いとされる各分野の専門家がおられるとは思う。でも私は彼らに問いたいのです。

あなた方専門家をはじめとする世界の英知を持ってして築いた世界が、今、あなた方そして私たちの目の前にある世界なのです。どこがうまくいっているのですか?どこが幸せなのですか?これ以上、稚拙で、人が住むことが、生きることができなくなるまでおバカな政策を続けてゆくのですか?

私たち日本人は目を覚まさなければならない。私たちが恐れなければならないのは北朝鮮でもなく、中国でもなく、ロシアでもなく、テロではないことを

私たち日本人が本当に恐れなければならないのは自然との共存を否定した私たち自身の心であり、他者との共存を否定した心であり、思考停止した心である。

私たち日本人は核を否定する国々との、経済至上主義の中での格差社会の中で生きることもままならない国民をかかえる国々との、国家から見捨てられ、避難している人々との、国家すら持てない民族との共存をまず第一に考えなければならない。

欧米諸国、中露と対立してでもそれらの人々との共存を図らなければならない。
私たち日本人は暗黒の時代を乗り越え、新たなる時代の先駆けとならなければならない。
そしてそれができるのも今を生きる私たち日本人しかいないのです。

   平成29年4月11日  文責  世界のたま

日本社会、政治の衰退~暗黒の時代を迎えて思うこと

私は最近、生きてゆくことにものすごい息苦しさを感じる
これはおそらく私だけの思いではないとは思う
そしてそのことは、毎日世界中から発信されるニュースを見ていて、日本社会の中で生きている私だけに限らず、世界中のあらゆる人々が同じことを感じているのではないかと思う

日本社会の中で最近起きたことで言えばテロ等準備罪、いわゆる共謀罪が内閣において先日、閣議決定されたことが挙げられる。今回共謀罪が閣議決定されたことは世界でのシリア問題、世界中で多発するテロ事件、国際条約批准問題、そしてそれらの流れの中で東京オリンピックにおけるテロ対策が理由とされているが、それらの理由付けは特定秘密保護法、安保関連法が強行採決された際に私たち国民が見せつけられた光景、デジャブーにすぎない。何の理由にもならない所詮私たちおバカな国民をだますための詭弁にすぎない。

したがってその先に待っているのは間違いなく国会における議論ではなく強行採決でしかない。

私は物事を見るとき立体的に見なければ物事の本質を見誤ってしまうと思っている。今回の共謀罪を考えてみた時、先程にあげた特定秘密保護法、安保関連法とリンクさせて立体的にとらえてみると我が国がどういう方向へ向かおうとしているのか、おバカな現在の日本の指導者たちが何をしようとしているのかがはっきりとみえてくる。

私たちおバカな国民も見慣れて慣らされてしまった官僚たちが開示する黒塗りの文書、記憶にない、破棄してしまっているという聞き飽きた文言の数々

これら一連の立法により国家、すなわち政府、官僚組織は自分たちが知られてはまずい国家機関の内部情報に関しては徹底的に秘密にし、一方では主権者たる国民に関する情報は徹底的に国家が把握する。その中で対世界においては国家(中央政府、官僚組織のための国家)の生き残りをかけて国民を総動員させることが可能になる。

今回の共謀罪はその総仕上げにすぎないと私は思っている。

戦後、我が国は世界でも前例のない経済発展をして経済的に豊かな国を作り上げてきた。そして精神面においても戦前の国家統制の中での不自由な社会から解放されて、思想、良心の自由などの内心の自由はもとより、表現の自由を手にして我々はそれらを満喫してきた。

おバカな主権者となり果ててしまった現代社会の思考停止した私たち国民は、それらの若くして命を国家のためになげうった先人たちの思いも忘れ、先人たちが獲得してくれた表現の自由という外堀が埋められ、いよいよ内心の自由という内堀がまさに埋められようとしていることに気付きもしないで自らや家族、友人たちの生活のことだけを考えている。私が主権者たる国民をおバカと言っている所以、思考停止していると言っている所以だ。

表現の自由、そして内心の自由をも失った私たち国民の先に待っているのは国家のために最終的にその存在の源泉たる命さえもささげなければならないという事実だけだというのに

今回の共謀罪について、私が思うところを述べておこうと思う。
そもそも刑罰法規とは国家権力によって人権の中でも最も重要度の高い人の生命、身体に対する侵害がなされるという最も人権への侵害度の高い部類のものである。したがって日本国憲法のもとでは罪刑法定主義と一般的には言われているが、国会の法律によらなけらば刑罰を科すことはできないとされている。

ところでそんな刑罰法規を人は何故作る必要があるのだろう。

刑罰法規には目的が二つあり一つは私たち国民を犯罪から守るという法益保護という目的、そしてもう一つが意外と知られていないのだけれども私たち国民の人権の保護のためです。
どういうことかといえば、私たち国民はどんな行為が犯罪となってしまい、国家権力によって逮捕され、刑罰を処せられるのかがわからない限り、どんな行動も安心して何一つできないと思う。そうでなければいつ何時息を吸っても逮捕されるかもわからないのだから。そういった意味で先程述べた罪刑法定主義が憲法で定められているのです。

それでは刑罰法規が法律で決められていればそれで私たち国民は予想外のことで逮捕されたり、刑罰を受けることがないのでしょうか? 実はそれだけでは安心できません。

何故でしょう。たとえ刑罰法規が法律で決められたとしても問題は刑罰法規の中身なのです。皆さんも日常生活の中で考えて見ればわかるのですが、中身があいまいであればあるほど何が規制されているのかわからず、結局私たちは何を守れば逮捕されないですむのかがわからなくなってしまうからです。

そのように刑罰法規にとって、二つの機能、すなわち犯罪者から私たち国民の生命や財産を守るという観点からと、不当逮捕などの国家から私たちの生命や財産を守るという観点からの二つのバランスが重要なのです。

そこで現在のわが国の刑罰法規を考えて見ましょう。我が国においては犯罪行為として処罰される行為は基本的には単独で基本的な犯罪行為、例を挙げれば殺人であればそれに該当する行為をして人を殺してしまった場合に処罰されることになっています。しかしそれでは処罰範囲が限定されて刑罰法規の目的たる犯罪の抑止に限界があるため処罰範囲を徐々に拡張して、単独でなくても主犯と一緒に殺人を犯した共犯も処罰できるように、そして一部の犯罪ではその予備行為、準備行為、未遂行為をしただけでも処罰されるようになっています。これらは結果が重大で、結果が起きてからでは取返しがつかないものについて法律により定められています。

そこで今回の共謀罪(刑罰法規に該当する犯罪行為に直接関わらなくても相談、話しただけでも犯罪とされる)ですが、それを法律という形で決めてしまって(成文化)よいのでしょうか?

結論から申し上げます。決して私たちはそれを認めては駄目です。

たしかに犯罪が広域化、組織化される中で犯罪の実行者よりも、黒幕がその影響力、資金力をもっており、黒幕こそが実際の実行者以上に非難されるべきケースがあり、判例上も共謀共同正犯理論が認められ、罰せられる例はあります。

しかしそもそも共謀したという事実、実際は証明が難しく証拠も残りにくいものです。実際に逮捕する方も難しいし、共謀したとされて誤認逮捕された場合を考えても相談したかどうかのレベルでそれらを否定することも捜査機関などを持っていない個人にとって不可能に近い。そして一番怖いのが誤認ではなく意図的に逮捕されたケースである。

元々の基本的な犯罪行為の処罰範囲を拡げた共犯(殺人という実行行為を実際に一緒に行う)をさらに拡張させた共謀というものを刑罰法規の中に成文化することは刑罰法規の二つの機能のバランスを崩してしまい、今までの刑罰の基本概念を根底から覆しかねないことだと私は思う。

共謀罪を成文化することの更なる危惧は今までの判例上の概念で止まっているのとは違って、成文化されたがゆえにその条文を使って更なる処罰範囲の拡張が間違いなく行われてしまうということです。例えば共謀罪を共謀したなどとなればもはやどこまでが犯罪なのかわからなくなるし、本当にそういった行為をしたことの立証、しなかったことの立証はほぼ不可能になってくるであろう。結果的に罪刑法定主義は有名無実化してしまうであろう。

国民からの誤認逮捕に対する立証は困難になる一方、共謀罪が成文化されたがゆえに捜査機関による国民の監視システムの強化が図られることは間違いのないことである。
先日、捜査機関が令状をとらないで行ったGPSを取り付けた捜査を最高裁判所は違法であるとしたが、その判決において、その根拠となる法律がないためとされ、法律があれば可能な可能性を残している。

共謀罪が成文化された日本社会が監視社会となることは間違いないと私は思う。

戦前も隣組制度の下、国民が隣近所を監視し合ったが、近代版隣組制度になってしまうであろう。

冒頭で述べたように、特定秘密保護法などを含め、この間国会で明らかになったように、自衛隊での文書の組織的隠ぺい、森友学園問題での官僚による文書の廃棄(おそらく隠ぺいであろうが)それらの政府、官僚による公的な情報の隠ぺいが国会という国権の最高機関の場においても平気でなされている。

国家機関による公的情報の隠ぺいと共謀罪の成文化による監視社会の強化が合体したとき、おそらく私たち主権者たる国民の人権を守ることは個人ではもちろん、司法をもってしても不可能になってしまうであろう。

共謀罪が成文化された社会の中で、人は何のために生きるのであろう
私には、与えられた自由の中で息をしているだけの存在としか思えない

   平成29年3月30日   文責   世界のたま

森友学園化(幼稚化、おバカ化)からの脱却 

今日は春分の日で天気も良く本来であればゆっくりしたいところであるが、たまたま当番医に当たり仕事ではあった。しかし患者さんもまばらのため先日のブログの後編部分である幼稚化、おバカ化した現代社会からの脱却についてお話しておこうと思う。

森友学園問題では学園長の国会証人喚問が決まり、豊洲市場問題では、昨日百条委員会において東京都元副知事の喚問が行われ、今日の午後には石原元都知事の喚問が予定されている。昨日の東京都百条委員会での副知事の証人喚問もそうであったが、ほとんど何の意味もない。このことは今日の午後開かれるであろう元都知事の証人喚問もそうであろうし、森友学園長の国会証人喚問もそうであろう。これらは過去幾度となく繰り返されてきた単なる政治ショーにすぎない。デジャブーにすぎないのです。

前回のブログで述べたように私たち社会はいつまで幼稚で稚拙な社会であり続けるのか。いつまで私たち国民は思考停止し続けるのか。

私は現在の日本社会、国際社会をみていて一番に感じることは今の現代社会は一見、物があふれ、物質的には豊かで便利な社会であるように思えるけれど、精神的には所詮、何の核心もなく、うわべだけの薄っぺらな社会であると思う。

核心のない薄っぺらな社会であるがゆえに、他者との共存も否定し、結果としてどこまで行っても格差社会しか作ることはできないし、民族紛争や、テロなどのない他者との共存が前提である平和な社会をつくることは不可能である。

例えば南スーダンからの撤退を政府は決めたが、その理由としての情勢悪化は否定している。私は情勢悪化が理由であるかどうかとか、日誌を自衛隊内部、防衛庁で隠したうえで防衛官僚、防衛大臣が虚偽の国会答弁を行ったとかなどの森友学園化した政府、国会議員の幼稚で稚拙なことを今更とやかく言うつもりはない。

蓋し、もはや南スーダンの情勢悪化は事実であり、そして日誌の隠匿も紛れもない事実なのだから。

今の日本社会は戦前の大本営発表と同じで、明らかに事実と異なることを事実として発表することが許される社会でありその点で何ら変わってはいない。それが許されているのは特定秘密保護法などによる情報公開の制限と、国民の無関心、すなわち国民の思考停止にあると私は考える。

ただ大本営発表と違うのはインターネット、各種メディアを通じて事実がある程度はわかってしまうからに他ならない。 

誰が見てもわかる虚偽事実自体も確かに問題であり、それについて虚偽であるかどうかを国会その他で議論し、メディアもそれについて盛んに取り上げることも多少の意味がないわけではないがもはや客観的な事実が明らかである以上、そんな稚拙でおバカな議論に時間を費やすことなどにほとんど意味はない。

何故、彼らが大本営発表をし続けるのか、そうした薄っぺらな行動しかできないのかと言えば、彼らには核心がないからだ。

例えば一歩譲って、私自身が安保関連法改正を是として状況を判断し覚悟のうえで南スーダンへの自衛隊派遣を国際協力のために行ったのであるとするならば、たとえ自衛隊員に死者が出たとしても撤退はしないであろう。

何も私は自衛隊員の命を軽んじているわけではない。国際紛争の場に赴いて他国の国民のために物事を行うことは決してたやすいことではない。命を懸けてしなければ難しいことだと思う。そこまでの覚悟をもってでしか為しえることではないと思う。
そういった意味で今の政権与党、官僚、防衛庁幹部、そして野党すらも私には核心を持っている人たちは皆無であると思う。

大本営発表当時の中央組織と同様に、所詮は頑丈に作った防空壕の中でぬくぬくと嘘の発表をし続けることしかできないのだと思う。戦地に赴いて命を懸けて国際貢献の陣頭指揮を執る者など一人もいない。口先だけの薄っぺらな者たちだけだ。

国際的非難を浴びても伊勢神宮には参拝するけれど全国戦没者慰霊祭には参加しない行動など核心を持っていない薄っぺらな人格そのものだ。

今の政府与党、官僚、野党政治家も含めておそらく本当の意味で核心をもって国家国民のために命を懸けている人はほぼ皆無であると思う。

薄っぺらな核心を持たない人たちが口先だけで道徳観の道の字も持たない人たちが如何に子供の道徳教育や、国旗掲揚、国歌斉唱を推し進めようとしても、その形式的なうわべだけの化けの皮はすぐはがれてしまい真の愛国心など育ちはしない。

核心を持たない者たちから国民は何一つ感じ、そして伝わるものはないであろう。

森友学園化した社会から脱却するために私たちは何をなすべきであろう。言い換えれば何をなさねばならないのであろう。

私からの答えは私たち国民一人一人が核心を持つことである。
それではその核心とは何なのであろう。
私にとってその核心とは、他者との共存を図る自然との共通感覚を持った熱い心であり、
そしてその核心に反するものに対してはそれを拒絶する熱い心である。

国内政治において言えば、まず第一に国会議員たるもの、現在の与野党の国会議員のように稚拙な違法性レベルの責任を問題化するのではなく、道徳的レベルでの責任を問題化して、それに対して責任をとるレベルに国会議員としてのレベルを早急に高める必要があるのだが、そのためには日本国民、主権者が自分自身は別にしても、そういった国会議員を選ぶという意識改革をしなければならない。

しかし残念ながら過去のブログで書いたように今の日本の主権者ではなかなか難しい部分であることも事実であり、現実的には司法が、道徳的判断は現実問題として困難であるとしても、憲法レベル、法律レベルでの的確な判断をもってその是正を図り、当面時間稼ぎするしかないかとは思っている。

具体的な国内政策においては、財政、経済、社会保障、防衛など、先にあげた核心をもって考えれば自ずと答えは導き出される。

財政政策においては際限のない金融緩和、公共事業、減税政策を続け、そうした中で国の借金は1000兆円を超え、赤字国債発行するも、もはや引受先もなくなり中央銀行たる日銀が300兆円を超える国債を抱え込み更なる国債を引き受けようとしている。もはや財政ファイナンス、ヘリコプターマネーとしか思えない状況である。また、年金基金や日銀の株式購入で表面的な株価を押し上げる詐欺同然の国家政策。

私からすればこれらのバカげたおバカ政策(おバカでないというのであればどうやって1000兆円以上の借金を毎年の赤字会計の中で返してゆくのかはっきり具体的に日銀総裁なり、国会議員、官僚が説明できるはずだが誰一人としてできる人はいない)をもうこれ以上続けることはやめ、抜本的な累進課税制度、相続税、法人税などの消費税含めた税制度の所得の再分配機能を重点に置いた見直し、地方分権化の促進の中で財政規律の健全化を進めること以外の核心は存在しない。現在のわが国の財政政策は戦争末期の特攻作戦以外の何者ではないとしか私には思えない。

経済政策においても原子力や、遺伝子操作含めた科学技術偏重政策は、自然との共通感覚という観点からは核心と真逆な方向での政策でありその先に未来はない。現実的に東芝問題がそうだったように。そうではなく自然エネルギーを使った自然との共存政策こそが核心である。地球温暖化に対してもコマーシャルや経済至上主義政策の中での無駄な消費を進めることは決して核心ではなく、私たち人類にとってその存在すらも否定する真逆の政策であることに私たちは気付かなければならない。

社会保障政策についても不自然な延命は核心ではありえない。人の命とは何なのか、生きるとはどういうことなのかをもう一度振り返り、考え直すことが最も重要なことだと思う。
その上で、医療、年金、介護それぞれを一つ一つもう一度一から考え直さなければならない。今までのわが国の社会保障政策の一番の問題はそこにあるのだと思う。核心のないまま、ただ単に適当な予算予測の中で帳尻だけ合わせているので、百年安心プランなどのように、くだらない数年も持たないプランになってしまうのだと思う。そうした中で、現在フィンランドにおいて期間限定で試行されているような国民一律の現金給付も一つの考え方だとも思う。

防衛政策においても核心のないままうわべだけの愛国心を語っている今の政権与党のようないい加減な気持ちでの日米安保体制を基軸とした政策は根本的に見直すべきであると思う。今回の南スーダンがそうであるようにしっぽ巻いて帰るようなみじめなことを続けることは国際的な恥以外何者ではない。私は本質的に防衛とは他者を信じてはいけないと思う。いろんな考え方の人がいるとは思うが、最終的に国家としてその最大公約数をとるとすれば、他国を信じないというしかない。そうした前提で我が国は我が国の主権者自身が最終的にすべての世界を敵に回しても守り抜く覚悟とそのための方策が何かを一から考え直さないといけないと思う。多くの専門家はアメリカの傘抜きでありえないと言うが、私はそうは思わない。現にベトナムがそうであったように、如何に大国アメリカでも不可能なことはある。(確かに中国や、ソ連などの後ろ盾はあったにしてもだ。)結局言えることは主権者たる国民一人一人が核心を持っているかどうかにかかっているのだと思う。

森友学園化した社会から私たちが脱却するために何が必要なのかと問われたならば
私は答えるであろう
それは主権者たる私たち一人一人が核心を持つことである。
ただしこのブログの中でも述べているがそれはたやすいことではない
当面、イギリスがそうであるように、フランスがそうであるように、アメリカがそうであるように、韓国がそうであるように、立憲民主主義制度が危機を迎えている時

その是正を図ることができるのは司法である
そしてそれは、裁判官一人一人の良心に他ならないと私は思う

  平成29年3月20日  文責  世界のたま

森友学園化した日本社会(幼稚化した日本社会)

昔から子は親の鏡だというが、私には現在の日本社会、政治的指導者、経済的指導者、そして私たち国民自身も森友学園化(幼稚化、幼児化)しているとしか思えない。

そして森友学園化した日本社会は、とりもなおさず国際社会の縮図であり、現在、世界中で起きている事象は、国際社会の幼稚化、幼児化の結果として起きているに過ぎないと思う。

国有地払い下げで問題となっているというより、学園長の辞任、小学校設置申請の取り下げ、国有地の買戻しで幕引きを図り、過去の問題として忘れ去らせようとしている一連の森友学園問題に関する社会的、政治的流れは、私にそのことを強く考えさせた。

森本学園に関していえば、大きく4つの問題があると思う。
第一に国有地払い下げ問題である。何故 あれだけの値引きがいとも簡単に行われたのか。隣接地の地方自治体への国有地売却との誰もが見てもわかる歴然とした差はなぜ生じたのか。第二に国有地売却そのもの、および小学校設置許可に関わる国会議員、府議会議員、大臣、府知事、各委員、政党とのかかわり合いの問題、第三に設置許可を求めた学園理事が既存の幼稚園で行っており、設置予定の小学校でも行おうとした一貫した幼児教育にかかわる問題、そして第四に首相たる安倍氏との関わり、名誉学園長たる首相夫人の問題である。

私はこれらの一つ一つについて語り、説明するつもりはない。正直言って全くくだらない幼稚なレベルの話である。多くの国民は、幼稚園児たちが教育勅語を覚えさせられ、唱和させられる光景、運動会での中国、朝鮮に対する非難、安保法制、安倍政権に対する称賛を交えた選手宣誓をさせられる園児たちの光景をテレビのニュースを通じて目撃したと思うがこれがまともな大の大人がすることなのか唖然とするばかりである。あまりにも稚拙でレベルの低い人間がさせることとしか誰が見ても思えない。

国会での森友学園に関する国会議員からの追求、それに答える安倍氏、官僚たち、そして府知事、一部の国会議員、県会議員の会見、それらの光景は、幼稚園児たちのおままごとの延長としか私には映らない。それらの光景を見ていて私にはどちらが園児たちなのか全くわからない。国会そのものが森友学園化しているのだ。国会議員たちが使う常套句である違法性はないという言葉。今回も盛んにそれが使われているが、彼らは違法性の前に常識的に物事を判断することができないのか。

現在の我が国では、違法性のレベルでしか物事を考えることのできない幼稚な人たちが国会や、内閣や、地方議会、地方行政府を運営しているのか。幼稚園レベルの園児たちに一生懸命何の理解もできないまま教育勅語、他国に対する偏見を持った事柄を唱和させ、政権与党を称賛させ、それを教育と考え、おままごとごっこをさせている低次元の学園長を立派な教育者と持ち上げ、喜んで講演し、名誉学園長を引き受け、そんなおバカな女性が国際舞台で日本国の首相夫人として紹介されている現実。あまりにも悲しく、恥ずかしく、哀れな現実である。

昨年末の臨時国会の召集決議という憲法上の要請にも関わらず、海外への税金を使った旅行に同伴し、数多くの税金で賄われているスタッフを置いていながら、公人ではなく私人であると言い切るおバカで幼稚な安倍夫妻、国税を使わせていただいている感謝の気持ちのひとかけらもない、裏返すと、彼らは何も理解できない、何の反対意見も言えない幼稚園児たちに、教育勅語を唱和させ、自らの政権、政策を称賛されることくらいしかできない、人間的に成長しきっていない、なんら精神的には幼稚園児と変わらないのだと思う。

私には森友学園問題が、現在の日本の政治、一般社会の幼児化、幼稚化を象徴しているとしか思えないのです。国会、内閣の役割とは何なのか、彼らの役割は違法性レベルの判断を求められているのではなく、違法性以前の、その前提たる法律そのものの定立、国家の基本法たる憲法の改正の発議する能力が求められているのである。森友学園問題を通じてはっきりしたことは、彼らの思考能力は本当に幼稚で、日本国憲法が要請する能力などとても持ち合わせてはいない。そしてその幼稚さ、幼児性は年を追うごとにひどくなってきているように私には思える。

私は問いたい、こんな幼稚なおままごとに対して補助金を使い、こんなくだらない常識的に善悪がはっきりしている事柄について国会で審議、答弁し続ける。いつまで私たちはこんな幼稚で稚拙な社会であり続けるのですか。

先日3月11日で東北大震災から6年目を迎えた。多くの被災者が未だに仮設住宅住まいでそこでの生活は過酷である。そして廃炉への道は険しく、全くめどが立っていない。放射能汚染物質は増え続け、凍土による汚染された地下水の封じ込めも失敗しており、というより、私には、最初から原理的に理論上ではうまくいっても現実的には不可能であったことをある程度分かっていながらやっているとしか思えない。震災以降の政府、東電、原子力関係機関がしていることは何もわからないままに適当にやっては、放射能漏れ情報、労働者含めた被爆情報を隠蔽しているのではないかとしか思えない。私は彼らが真剣に真摯な反省の上に立って処理を行っているとは思えない。もしそうだとすれば、解決が困難なまま先がまったく見えない中で原子炉の再稼働、新たな原発の輸出など考えることは常識的にはあり得ないのだから。

廃炉等の費用に関しても当初の2兆円が8兆円になり20兆円になりで際限なく増え続けており、挙句にその費用を電気料金という形で国民から徴収しようとしている。その一方で東電役員の報酬は一時期800万円程度に減らしたが、震災前の1500万円近くまでこっそり増やし、東電社員の給与も800万円台に戻してきている。

森友学園化は、東北震災だけではなく、豊洲市場問題、東京オリンピック問題でも同じことが言える。それらにおける基本的な問題構造は全く同様である。

そこには科学に対する盲信、人間中心主義、他者との共存の否定しか存在していない。他者に対する思いやりなどひとかけらもない。それは森友学園化そのものである。表面だけ見れば綺麗で立派だが、地下に汚染物は放置され、地上の建物、組織の中で暗躍する人たちの心も地下に埋もれた汚染物以上にに汚れきっている。

そしてそれらを取り巻く人々、多くの国民の心もまた思考停止しているのである。

森友学園化が私たちに教えてくれたこと
最終的に物質的豊かさは何を私たちにもたらすのか

それは、精神的豊かさとの引き換えにすぎないということなのだと思う。

  平成29年3月15日   文責   世界のたま