第Ⅱ部 なぜ日本が借金大国になってしまったのか

日本の戦後の歩みを見てゆく中で、いくつかのターニングポイントがある。

私自身もそうだけれど誰にでもその人の人生の中でいくつかのボールが人生から投げられる。

そのボールを打つのか、見逃すのか、それは人それぞれであり、打ってうまくいくこともあれば見逃した方が良かったと振り返ったとき思うこともあるであろう。

大切なことはたとえ一回選択を失敗したとしても、それを悔やむことではなくて次の選択を誤らないことだと思う。

そのためには過去をしっかり見つめて客観的な分析をすることだ。

人間というものは最初、主観的な判断で行動をとることが多いし、それが人間だと思うから。

これはあくまでも私見であるが日本の現代史の中で1975年に一つ目のボールが投げられたのだと思う。第Ⅱ部では二つ目のボールが投げられることになる。

そして最後に一つだけ言えることは、人生が投げかけるボールはそんなに多くはない。

 

1985年~ 高度成長期は終焉したがバブル景気の持続 (5%前後の成長率)

1989年  赤字国債発行ゼロの実現(建設国債は発行)

日米構造協議(1990年から10年間で430兆円の公共投資の国際公約)

日本銀行による金融引き締め(バブルつぶしのため連続的な公定歩合引き上げ)

1990年  大蔵省による総量規制(土地関連融資の抑制)通達

株価の暴落、地価下落、銀行の不良債権の増加

1991年 日本銀行による公定歩合の引き下げ、

金融機関による貸し渋り、貸し剥がし

金融収縮による実体経済の悪化という下方スパイラル(バブル崩壊の始まり)

 

バブル崩壊直後の宮沢喜一首相は、1990年以降の景気後退は、それまでの景気後退(実体経済における需給調整)と異なって資産価格の大幅な下落による金融収縮こそが根本原因でありそれが実体経済に悪影響を及ぼしていると正しく認識して公的資金を注入してでも不良債権を根本的に処理しなければ景気回復はないと発言したが、それを本気で実行すれば銀行国有化や破綻処理も辞さないことになり、金融界からの大反対でその行動は封じ込められる。

 

この問題の根本問題は回避されたまま、公共事業を中心とした緊急経済対策と減税政策(従来通りの対症療法)が繰り返されたが下支えにはなっても景気浮揚することはなく、巨額の公債残高となってしまった。今、現在では公的債務残高がついに第二次世界大戦末期に比肩する対GDP比200%超の水準にまで達しているが、その起源となったのが1990年代の財政政策だった。

 

細川・村山政権による地方分権改革

小選挙区制の導入  1.二大政党制への道

2.マニフェストに基づく政党間の論戦

3.党首による党内コントロール強化の実現

橋本政権による六大改革(経済財政諮問会議の設置など)

 

首相主導型の政治行政システムは財政健全化と予算組み替えに向けて財務省が持っている限界を乗り越える潜在的可能性を持っていたが実際にそれが発揮されたのは2000年以降の小泉政権になってからだ。そこでわかることは新しい政治経済システムを作っただけでは何も変化を生じない、それに生命力を吹き込むのは、政権の意志である。

 

経済のグローバル化、金融自由化、高齢化社会、低成長時代

 

日米構造協議(国際公約)に基づく多額の公共事業投資の必要性と、国家財政の再建の狭間の中で考えられたのが、

本当にずる賢いと思われるが国の資金を使わないで、地方自治体に負担させるというものだった。

地方交付税を用いた政策誘導として地方単独事業として推進させたり、民間活力を用いて自治体との第三セクターの設立によって本来、国が行うべき公共事業を地方や民間に押し付けた。

細かなことは省くが本当に巧みに自治体を誘導して多額の地方債を発行させた。

1989年には66兆円だった地方債残高は1999年には174兆円にも上り10年間で3倍にもなった。そして2000年に入って地方の危機を迎えることになる。

そして2010年時点で195兆円、対GDP比で40%にもなっている。

こうなる原因は何かというと、地方に歳入の自治がないことだ。

どうしても国の意向に左右され結果的には、責任、負債だけ地方にとらされることとなる。もちろん地方にも責任がないわけではないが。

 

1994年 日米構造協議に基づく公共投資基本計画が10年間で630兆円規模に拡大される

赤字国債の発行の再開

1995年 1ドル70円台を記録

財政危機宣言

1997年 消費税増税 (財政構造改革元年としたが不良債権処理は先送りのままだった)

アジア危機

国内通貨危機の再燃 北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業、三洋証券の破綻

1998年 財政構造改革法の停止

大蔵省資金運用部はこの年だけで16兆円近くの国債を引き受ける。原資機関自体の国債保有も増大

1999年 デフレ傾向 セロ金利政策

2001年 量的緩和政策(非伝統的な金融政策)の開始へとつながってゆく。

 

1980年代から2000年までの日本の歩みを見たとき、第Ⅰ部でも述べたように、小さな政府として作られた税制度を変えることなく増え続ける社会保障費、一方、高度成長の終焉に伴う収入の減少

その穴埋めとしての赤字国債を財政投融資が受け皿となっていった。

税金が増えるわけでもなく、社会保障が削られるでもなく、不良債権処理もしないままで、国民からは見えにくい形での処理が行われた。

政治家も、官僚も、そして国民自身も自己保身のため、結局先延ばしにしてしまった。

いざ財政構造改革を行おうとしたときに、バブルがはじけ、アメリカからは貿易収支改善のため、多額の国内向けの公共事業を押し付けられた。

それでも、景気は浮上せず、馬鹿の一つ覚えのように減税と公共事業を敢行して莫大の赤字国債を発行し、公的債務残高を急速に増やしてしまった。

この時代に何ができたのかと考えてみたとき、確かに不良債権処理をすべきだったのだけれど、はたして多額の公的資金の投入など世論が許したのかと問われたら、結局難しかったとも思う。

アメリカからの外圧に屈しないで行けたのかということも現実問題としては難しかったとも思う。

ただ一つだけ言えることは1990年に1975年に続いて二つ目の大きなボールが投げられ、私たちは、それを見逃したのだ。

 

第Ⅲ部へ続く

2014年10月16日    文責  世界のたま   sign

 

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