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自然について

仕事が忙しくてしばらく書けなかったが今回は自然について書いてみようと思う。

私は昔から自然という言葉が好きだったというより何故かその中に自分が落ち着ける何かを感じていた。自分自身でも理解できない安堵感がそこにはある。

私自身の価値観の根底に自然との共存ということがあるが自然とはいったい何なのか少し考えてみたいと思います。

一般的に自然というと海や、山などを想像される人が多いいと思う。

単語として使われる際には加工された人工的な手が入っていないものに対して使用されることが多い。自然食品などと使われるように。

私が自然とは何かと聞かれたなら一言で答えるとそれは海です。

小さなころから私は海が大好きで潮の香りを体に受けていれば何時間でも時の流れを忘れていれた。磯の香りと言っても日本海、瀬戸内海、太平洋それぞれその香りは違っている。海の近くで育ったわけではない。

そして、海につながっていることを意識していたのではないが川の流れを見ることでも何故か心が癒された。

昔は近くに自然のままの小さな川がいくつもあったから川の中を石の下をまさぐっていろんな生物を見ながら歩くのが楽しみだった。

今でもそうだが海でも磯辺が一番好きな場所だ。

そこにはいろんな小生物が生活している。その一つ一つの小さな生物があるものは小刻みに走り回っており、あるものは死んでしまったかのように頑なにその体を磯の岩にくっつけている。

それら一つ一つの小さな生物を見ていると時がたつのを忘れてしまう。

それら一つ一つの生物はこの地球上の片隅で一生懸命生きている。私がこの時間にこの場所で彼らと会わなければ一生会うことがなかったと彼らと同じ時を刻みながらよく考える。

私が20歳くらいの頃、何かある度に海に行って一日中海を見ていた。そうすると海は何故かいろいろな迷いや思いをゆったりと吸い取ってくれた。

その頃、何故、海に行くと心が落ち着くのだろうとふと考えていたとき他の提言の中でも触れているが個体発生は系統発生を繰り返すという言葉に出会ったときすべてが理解できた。

人間の発生を考えてみると、精子と卵子から受精卵ができ細胞分裂を繰り返しながら母親の子宮の中の羊水の中で鰓呼吸をした後、母体から離れて口呼吸を初めて一個の人間になる。

言い換えれば一個の個体の発生の過程は人が海から陸へ上がった進化の過程を繰り返している。

私が海を見て落ち着けるのは私自身の心の中に普段は意識することはないが潜在的に故郷への思い、それは母親の子宮の中の羊水への思いであり、そして遠い自分自身の生命の根源でもある海への思いなのであろう。自らが生まれ出た場所に身をゆだねることで自分自身の身も心もその中に溶け込んでいき同一化されるのであろう。

私にとって一言でいえば自然と言えば海なのだが一般的に自然という言葉は様々なケースで使用されている。

何故私が自然との共存を訴えているのか、人間は自然の大切さを再認識しなければならないのかを三つの視点からお話ししようと思います。

一つは科学の分野で、本当の意味での自然を大切にしなければならないということです。

他の提言でも述べているように自然を侮ってはいけない。遺伝子操作や、人工的に作り出された薬剤含めた物質はいずれは自然淘汰の中でかき消されてしまい歴史的には何の意味も持たないことを人間は学習しなければならない。

それは大きな海のうねりがすべてのものを何もなかったかのように飲み込んでしまうのに似ている。

現在騒がれているエボラ出血熱なども昔から存在していたウイルスであってそれらと人間はある意味で共存していたのであってそれを駆逐できるかと言われたら自然の一部に過ぎない人間にはもともと不可能なのです。

あらゆる抗生剤に反応しない多剤耐性菌もしかり、エイズウイルスなども人の免疫防御系システムの要であるT細胞に宿って静かにある時期は共存している。

だれがそんな感染システムを考えられるだろう。

自然とは人間が考えるよりある意味でずる賢い。だが、それは人間からみた考えである。本当は鏡に映った人間自身だと思う。

自然はただ単におそらくすべての生物のために元に戻そうとしているだけであろう。自然自らを守るために。

二つ目は自然権というものがある。自然権を保障していない憲法は現代立憲主義的憲法でないとされているが、自然権とは思想、良心の自由など前国家的権利のことで、国家を前提としない権利であり、いわゆる人が生まれながらにして有している権利のことである。

だから自然権を保障している日本国憲法のもとではたとえ日本国籍を有しない外国人に対してでも自然権は保障されている。

この自然権という人が人であるがゆえに、ただそれだけで認められる権利、私はその響きがものすごく大好きです。だから他の提言で述べているようにその権利の行使を妨げる特定秘密保護法などは絶対に容認できないのです。

三つ目は精神科領域での治療としてあるがままの自分をみつめ、受け入れるやり方がありますが、これはすべての事象で言えることだと思います。よくスポーツの世界などでも自然体で臨むなどという言い方がありますが自然のあるがままの姿を受け入れる、今の現代社会で最も欠けていることがそのことのように思えてならない。

いつの時代からか人間は自然から離れて台風や、地震などの自然現象や、ウイルスなどの生物を敵とみなして戦い、人工物をさもそれが最も価値のあるように考えてきたがそれは人間の奢りであることにそろそろ気づかなければならない。

 

2014年10月4日      文責 世界のたま       sign

医療保険制度の行き詰まりと今後の医療の在り方(9/26改訂)

社会保険制度の崩壊の中でも一部触れたが医療保険制度も事実上行き詰っている。

振り返ってみると1970年代、大規模な公共事業、減税に合わせて医療に対しても積極的な予算が組まれたが、その後のオイルショック、高度成長の終焉、少子高齢化の中で、今現在も国民の医療費は増え続け、1990年代になって加速度的に増えた莫大な国、地方公共団体の借金は天文学的な数字となってきている。

かつて小渕総理が言っていたが世界一の借金王そのものとなってしまっています。(一国の総理が言うのもどうかと思いますが)

財政面全般において日本が過去どのような経過、理由で借金を増やしてしまったのか、今後どのような方向に行けばよいかはまたの機会に述べようと思います。今回は今後の日本の医療の在り方に関してのみ提言をしようと思う。

医療、医療費を考えるとき私はいつも3つの視点から考えています。今回はそれらの視点から提言してみます。

  1. 国民からの視点 国民と言うと少しわかりにくいですが、患者さん、被保険者と言ってもいいと思います。
  2. 医療従事者からの視点 これは端的にいうと医者と言っていいと思います。
  3. 製薬メーカーからの視点 これはいわゆる薬屋さんです。

 

  1. 国民からの視点

(1)医療目的の明確化(何のために医療が必要なのか)

このことは私の様々な提言の核心部分なのですが、医療はあくまでも手段にすぎず、目的をはっきりさせなければならない。

それを聞かれたとき多くの国民は国民の命を救うためとか、健康の維持などと答えると思う。それは一見正解なのですが、それでは今までと変わりません。いくら予算があっても足りません。

誤解を恐れずに言うならば医療とは救うべき人を救うことだと思う。

一般的には人の命に差はないというけれど、現実的には優先順位があると思う。

たとえば緊急避難時、子供、女性からというのが一般的であるように、私はいろいろな問題を考えるときに行き詰ると優先順位を考えます。

限られた予算の中で、年齢という視点から言えば、私は高齢者より小児、若い人を優先すべきだと思っています。

ただし、誤解されないようにしていただきたいのですがただ単に年齢だけで言っているわけではありません。他の提言でも言っているように私の価値観の中心は自然との共存です。

生物にはすべて寿命というものがあります。私は自然の寿命の尊重こそが人としての尊厳を大切にしてあげることだと思う。

(2) 疾患からの検討

疾患という視点からみてみると、成人病、及びそれから派生する疾患が医療費の多くを占めています。

人間というものを考えるとき私は主観と客観、素質と環境それぞれ2面から全体構造としてとらえるようにしています。

成人病にもいろいろあってそれぞれ要因があるのも事実です。しかし生活習慣病と言われるくらい環境面も大きいことは事実です。

これも誤解を恐れずに言うならば、体質というものもありますが最終的には自己責任という考え方を入れない限り、限られた予算の中で医療制度を維持してゆくことは困難だと思います。

制度的には疾患別での自己負担の調整などが考えられます。自己責任という観点からも自己負担の増額は避けて通れないと思われます。

(3)健康維持への奨励

食生活などに気を付けて健康維持される方が、保険料収めっぱなしであることについてあまり言われることが少ないが何らかの奨励金的な保険料の還元などもされるべきだと思う。

 

2.医療従事者からの視点

(1)医療行為そのものについての方向性

現在進められている医療の分担化についてはまったくその通りであると思います。今後も引き続き行われているべきで、専門、家庭医の分担化と連携は一見矛盾していると思われるが、この分担と連携、2つの要素の融合こそが医療費抑制、尊厳死にとって不可欠であることを医療従事者が国民(患者)に訴えていかなければならないことだと思う。

特に家庭医にあってはいづれ医療と介護の今後の在り方の中で述べようと思うが介護分野との連携が不可欠である。

(2)国民の医療費(診療報酬)についての提言

医療費(診療報酬)についてはここでは簡単にとどめるが今まであまり言われたことがなかったと思うが、私見として介護費用(介護報酬)と基本的には併せて考えていかなければならない。

蓋し、人の体というものは医療と介護を分けて考えることは元々無理な話であり、事実、2000年介護保険導入時、盛んに医療と介護の分断が行政指導として行われ、私は理解できなかった。

最近の行政の考え方は連携の方向に変わってきており、それが本来の在り方だと思うし、報酬面でも合わせて考えていくことを提言したいし、いづれわかることであるがその方向性しかありえないのです。(2000年当時、行政指導的には分断が図られたが社会的入院に伴う医療費増大を断ち切るという当時の考え方に過度に反応したもので歴史的には仕方がないものだったかとは思う。)

その中で、診療報酬、介護報酬の減額は避けて通れないものだと思う。

そういった議論の中でいつも出てくるのが医療の質の低下だが、そういった医療従事者は医療業界から去るべきだと思うし、現在、医療現場で働かれている多くの医療従事者はそうでないと私は信じている。基本的に議員、公務員もそうだが税金で食べさせていただいている者は公的責任から逃れることはできないのだから。

(3)予防医学の重要性

多くの生活習慣病は、食生活で予防、改善できるものが多い。たとえ良い薬ができても多くの場合、それに頼り、怠惰になり、結果としてさらなる新薬、治療が必要となる。医療費抑制のためには今後は予防医学が最も重要になってくる。 日本のこれからの医療を考えた時、間違いなく製薬より予防である。そういった意味で管理栄養士などの活躍が不可欠であり、それらの有資格者の奮起を期待している。

3.製薬メーカーからの視点

(1)製薬企業の社会的、公的責任

医療従事者の責任の中でも述べたことだが薬価に基づき医療機関を通じて税金である国民の医療費を受けとっている製薬企業にあっては、一般的な企業責任とは別の公的責任があると私は考えます。

かつてエイズウイルス混入に関しての血液製剤事件の教訓が本当に生かされているのかというと、私は甚だ疑問に感じることがある。

治験時のデーターの改ざん、副作用の隠匿、カルテデータの意図的誤使用など最近でも様々な問題が生じています。

いろいろな原因が考えられますが、一つは治験そのものの在り方です。そもそも企業が研究費用を出せばその企業にとって有利なデーターしか出てこないし、万一不利なデーターが出たところで企業がそれを公表するとは思えない。

よく第三者機関によるチェックというが所詮企業サイドになってしまうことはだれが考えてもわかることであり、治験そのものの考え方を考えないといけないと思う。

本当は企業倫理に求めたいところであるが期待できないのが現実だとつくづく思う。

(2)今後のMR(医薬情報担当者)の在り方についての提言

MRがはじめて製薬企業に位置付けられたのが1994年であり、その後1997年から認定試験制度が開始されている。

先に触れた血液製剤事件でも(その当時はMRはなかったが)多くの営業マンがアメリカで使用禁止となった血液製剤を日本国内で差益を求める企業と医療機関のために売りさばき結果的に多くのエイズウイルス感染者を出してしまった。

厚生省、血液学会、医療従事者、企業すべてに責任があり営業マンにも会社から言われただけだとして責任がないとは思われない。現在のMRで、この事件を知らないMRもいるのではないかと思う。

最近、特に思うのだがMRの役割は大きい。

MR自身、自分がどんな薬を医療機関に勧めているのか、海外での副作用はないのか、治験は本当に問題ないのか、MR資格有するもの個人としての自覚を促したい。

上司からの指示でただ単に売上競争に参加するのであれば公的な医療業種に携わるべきでない。このことは企業自体の体質が大きいのも事実だが。

最後になるが、先発メーカーのMRについては高い先発薬価という税金が投入されている以上、より納税者たる患者への情報提供義務が課されていることを認識しなければならない。医師にも診療拒否が認められてないように1錠でも服用されている患者がいる医療機関への情報提供は義務であり、そういった目的意識のない、MRとしてのプライドがないMRおよびそういう体質の企業はおそらく第二、第三の薬剤事件を起こすであろう。

法的な責任がどうであれ道義的責任のとれるMRであってほしい。

薬の向こうに、人の生命に 関わっているという責任と自負と喜びを感じ取れるMRであってほしい。

2014/9/24        世界のたま       sign

社会保険制度の崩壊と新たな制度の提言

日本の社会保障制度を振り返ってみると1959年4月に国民年金法案が可決成立、1961年4月からはすべての市町村で国民保険事業が実施され国民皆保険、国民皆年金制度が開始され今日に至っている。

その後、2000年に介護保険制度の導入も加わり  それらが高齢化社会の中で社会保障費用の急速に増大し、赤字国債の増大、国の債務の増大を引き起こしている。

日本の社会保険制度はすでに崩壊しています。

これから私たちはどうすべきでしょう。

そのためにはまず具体的に現在の日本の社会保険制度の特徴を見てみる必要があります。日本財政の現代史Ⅱの中でわかりやすく指摘されているのでここに引用してみましょう。

1. 社会保険制度が2012年の社会保障支出に占める割合は91.5%となっており 租税を財源とする政府の一般財政よりも巨大な別個の制度になっている。

2012年度の中央政府の一般歳出額は約51.2兆円であり、地方交付税と国債費を含めた歳出総額でも90.3兆円であったが、社会保障全体の支出予算は109.5兆円であり、中央政府の歳出総額を上回っている。

なお、前者の一般歳出においても社会保障関連費は半分以上の26.4兆円を占めており、そのうち7割以上にあたる約20兆円以上が年金、医療、介護など社会保険への国庫補助金に充てられている。生活保護、児童手当、児童・障害者・老人福祉サービスに対する中央政府の支払いは、残された約6兆円の財源から行われている。

2. もう一つの特徴は、高齢者への重点配分である。高齢者の年金保険が社会保障の支出の49.1%、さらに高齢者向けの介護保険を合わせると57.2%にもなる。医療保険においても医療費のうち65歳以上が55.4%、75歳以上が33.3%を占めている。

租税資金による生活保護も2011年の時点で約150万世帯の42.5%、約63万世帯が65歳以上の高齢者世帯で医療、生活保護の実情をふまえると社会保障費の7割以上を高齢者向け給付が占めている。

3. 三つ目の特徴は、つぎはぎによる国民皆年金、皆保険であるということです。

年金に関して言えば、一階部分の国民年金と二階部分の厚生年金及び共済制   度からなる二層型の体系となっています。

具体的には勤務時間など一定の条件を満たした正規従業員は二号被保険者として厚生年金の適用対象となる。彼らは一階部分の国民年金(基礎年金)部分も含めて所得に対して定率の保険料が労使折半で徴収される。

また彼らの配偶者は、年間所得130万以下という条件で、三号被保険者として扱われ、保険料なしに国民年金保険料納付者として扱われる。

それ以外の自営業者、農家、無業者、多くの非正規雇用のものは保険料を全額自己負担した上で一号被保険者として一階部分の国民年金のみが適用される。

医療保険においては健康保険組合を提供する大企業の正規従業員はこの保険に、それ以外の正規従業員は全国保険協会に加入することになる。正規従業員に関しては保険料を労使折半で負担する。

これらの一定の条件を満たす従業員以外のものは国民健康保険の対象となる。

次に、こういった特徴をもつ日本の社会保険制度が崩壊している理由だが3つあげられており私もその通りだと思っています。

1. 高度成長の終焉  1956~73年まで長期にわたり実質成長率年度平均9.1%と極めて高い水準にあったため財源が豊かであったが1991~2010年では平均0.9%と十分の一に落ち込んでいる。

2. 人口の高齢化  65歳以上の人口の割合は1970年が7.1%だったが2010年には23.0%に増加 日本の社会保障制度は高齢者向けの給付、サービスに重点が置かれているため人口構成の変動に影響を受けやすいのです。

3. 社会情勢の変化  65歳以上の高齢者のみの世帯が1970年では3%だったが2010年では20%に増加、女性の労働力率が1975年では42.9%だったが2010年には77.1%に増加、非正規雇用者の割合に関して1982年では16.8%だったが2007年には33.5%に増加、合計特殊出生率に関しては1970年が2.13だったが2010年には1.39と低下し少子化の進行。

これらの日本の社会保険制度の特徴と社会情勢の変化が社会保険制度の崩壊を招いているわけです。

ではどうしていけばいいのか、かつて小選挙区制度導入の中で政権をとった民主党が未納問題(一号被保険者の国民年金保険料の納付率は1992年の85.7%から2010年には59.3%に低下している。この傾向は特に若年者に著しく25歳から29歳の納付率は半分以下の46.6%となっている。また国民健康保険の保険料滞納世帯は2010年時点で対象全世帯の20.6%に相当する436万世帯に及び事実上の無保険者とされる資格証明発行者世帯は33万世帯となっている。(日本財政の現代史Ⅱより))を含めた年金制度改革を行おうとしたが失敗に終わっている。

問題を整理してみましょう。

みなさんもご存じのように国、地方の借金は毎年のように増え続けて1000兆円を超えて今現在も増え続けています。

社会保険制度の特徴で述べたように毎年の通常の一般の国家予算が90兆円に対し1000兆円の借金の返済などのためその中で40兆円必要で残った50兆円のうち26兆円は年金などの社会保険制度維持のための補助に使われているのです。

年金、医療、介護費用は増え続けており、保険料だけではまかなえず、穴埋めするための国の補助金も増え続けており、その結果、国、地方の借金も1000兆円を超えて増え続けています。

もはや、日本の国家予算は事実上破たんしているのです。

誰が考えてみてもこのままで成り立つわけはありません。

では何が変えられるのかを逆に考えてみましょう。財源が豊かにできればよいのですがアベノミクスのように一時的に麻薬を投与したところで体がぼろぼろになるだけで長く持ちません。

東京オリンピックなどで浮かれている場合などではないのです。その経済効果などでごまかしている時ではないのです。根本的な外科手術が必要なのです。(本当に自分たち、一部の人のことしか考えてないレベルの低い政策ばかりです。)

先ほどから言っているように、我が国には莫大な1000兆円を超える借金があり、毎年国債の償還のため一般の予算が制限されて、年々その額は大きくなっています。

また、少子化の中で制度を支える人の数自体が減少してゆき、一方では目的を持たない高度化した医療、場当たり的な介護保険制度の中で、支えなければいけない人口は増えています。

小子化に関しては鶏と卵で、将来の展望のない社会保険制度が変わらない限り困難と思われどっちが先なのかという堂々巡りになるだけのことです。一方の少子化対策だけしたところで意味のないことくらい、いくら馬鹿な政治家でもそろそろ学習すべきです。

財源はない、人口動態の改善も望めないとすれば解決方法は自ずから導かれるというか、それしかないのです。

一つは何とか財源を作ることです。経済成長について言えば、これ以上の経済成長の継続は世界情勢の中で困難です。事実、貿易収支も赤字が続いています。結局、消費税のアップ、無駄な公共事業、国会議員、地方議員、公益法人の削減を徹底的にすることです。

そしてもう一つは社会保障費(生活保護費も含めて)を減らすことです。このことについてはあらためて述べるつもりにしておりますが給付費の削減、自己負担を増やすしかありません。予算全体の提言の中であらためて提言しようと思いますが、本来、日本財政が目指していた小さな政府です。

そして欠かせないのが制度自体の改革です。社会保険に関して言えば租税を財源とした基本的には一本化しかないと思われます。

医療保険、介護保険に関しても高齢者重視なのか 若年者重視なのかというより、人間本来の医療の在り方、真の生命の尊重とは何なのかと目的を考えた時、必然的に答えは出てきます。

大雑把に提言しましたが私自身どう考えたところで方法はそれしかないと思われます。

それらをすることで、景気の低迷、所得の減少、生活苦を招くことは避けられないでしょう。特に制度改革の中では現在の共済、厚生年金受給者にとっては必然的に大きな減額にもなるでしょう。多くの方々の不満が生じるでしょう。

しかし、あえて言わせていただきます。現在の日本社会の悪循環を断ち切るためにはそうするしかないのです。このままの制度を続けたところで無年金者、無健康保険者が増え続けるだけで、生活保護の増大という形で結局、国家予算を圧迫して日本国そのものの首を絞めてしまうだけのことです。

若い世代のためにも私たちが今しなければならないのです。

いつまで、私たちは見て見ぬふりを続けてゆくのですか?

そうするためには何が必要か、裏返せば何故それができないのかというと、私が主権者への提言、世界への提言で述べていることに尽きるのです。

主権者自身が個を捨てて全体を考えられるのか、個を捨てた真の代表者を主権者が選べるのか、答えは意外と簡単なのです。私自身、あなた自身の中にあるのです。

 

平成26年9月21日    世界のたま             sign

 

 

憲法と国民と国会議員について

 

皆さんは憲法尊重義務というものをご存知でしょうか?憲法というもの自体はっきりとわかっている方は意外と少ないかもしれません。

最近、愛国心教育など、さもそれらしくもっともらしく語る実は勘違いした政治家含め声高に叫ぶ人が巷に増えていますが、愛国心という前にきちんと教育の中でまず第一に教えるべきものが、憲法だと私は思っています。

憲法は国家の基本法です。国家という以上、何らかの憲法を持っています。私は日本国憲法が大好きです。ただ日本国憲法についてはいろいろな考え方があるのも事実です。押し付けられた憲法だとかいう意見もよく耳にします。ある意味ではあたっているとも思われますが、でも最終的には中身が問題です。

みなさん日本国憲法を読んでみてください。前文含めて私に言わせると方々に宝石が散りばめられています。

その中でも私が大好きな条文は憲法13条です。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

この中でも特に幸福追求権という言葉が憲法典の中でも私が一番好きな言葉です。

ところで国家あるところに憲法はあるのですがそれでは何のために憲法はあるのでしょう?

私は国家は個人の人権を守るための手段としかとらえていません。すなわち憲法とは個人の人権を国家(権力者)から守るための法なのです。

日本国憲法は二つに分けられます。すなわち、人権と統治です。人権では自然人として守られるべき権利を宣言し、統治では国家の機構を定めていますがその目的は人権保障です。そういった意味で偏屈な見方かもしれませんがこのことが、国家(権力者)が教育の中で憲法をあまり重点としておきたくない理由だとも思われます。

国家にとって憲法とは己を束縛する掟にすぎないのですから。

その端的な条文が日本国憲法99条です。この条文こそが憲法尊重義務をうたっている条文です。

みなさんは意外と思われるかもしれませんが日本国民個人には憲法尊重義務は課されていないのです。

そこで課されているのは天皇、国会議員などの公務員です。

愛国心を叫ぶのであれば、まず国家(権力者)自らが基本法たる憲法を守るべきです。違憲と言われている人たちが愛国心を訴え、憲法改正を訴えるとは日本という国も立憲民主国家として落ちぶれるところまで落ちぶれたものです。

そういった憲法も守れない政治家が教育を語り、道徳を語る。憲法、法律は最低限度の規律です。それらを守れないものは決してそれらより厳しい道徳を守れるわけがないのです。

自分たちが自ら作った法律を守るのはだれが考えてもごく当たり前のことです。

よく政治家が自らの行動を正当化する際に、法律に反したことはしていないなど発言しますが聞いていてそのレベルの低さにはあきれ返ってしまいます。守るのが当然なのです。現実的に日々テレビなどで流されている道徳的にレベルの低い議員たちは如実にこのことを物語っています。

現在の国会を構成している与野党すべての国会議員に道徳を語る能力はない。

様々な異常な社会現象、子供たちの様々の異常な事件、その元凶が愚かな政治家たちを含めた我々、大人たちにあることを私たちは気づかなければならない。

それを知った上で現実の我が国の政治的な現状を見てみたとき裁判所で違憲、違憲状態とされたインチキな選挙に基づいた国会議員が憲法で最も保障された思想の自由に絡む知る権利を制限する特定秘密保護法案を施行しようとしている現実

私が立憲民主制の崩壊状態だとして広島地裁民事部に訴えている理由はそこにあります。

憲法を守られない国家はもはや国家とは言えません。

そして国家という手段を失った国民の人権はもはや守る術はないのです。

今こそ私たちは憲法改正、愛国心などというくだらない政治家のまやかしに騙されることなくまず第一に憲法尊重を訴えていかなければならないのです。

 

2014/9/4   文責    世界のたまsign

万能細胞 スタップ細胞の持つ危険性

主権者への提言の中でも取り上げたが私は、二つの点からこういった研究については人間のみならず生物界にとって害あって利がないものだと思っている。

 

一点目は基本的に遺伝子組み換え食品なども出回っている時代であるが遺伝子、細胞レベルで自然ではないもの、人の手が人工的に加えられたものに関しては、いずれ自然そのものにより排除されてしまうものだと思う。

人工的に作られるものはおそらく自然淘汰で生み出される本来の自然の過程を阻害し、最終的には種そのものの生命力を弱めてしまうであろう。

細菌やウイルスなどの生物であれ、地震や台風などの自然現象であれ所詮は人間がかなうものではない。

普段の生活の中で、ややもすれば忘れてしまいがちになるが、所詮、人間そのものが自然の一部にすぎないのだから。

 

もう一点はスタップ細胞の問題ではっきりしたことは研究者(その名に値するとは思えないが)含めてそれにたかる当事者である組織、それを取り巻く企業、馬鹿みたいに無駄な税金を出し続ける行政、政治家誰もが所詮はスタップ細胞が人間社会にとって一つの手段に過ぎないことを忘れてしまっていることです。

 

万能細胞、スタップ細胞は単なる手段であってそれそのものには何の価値もないことを認識しなければならない。

重要なのは万能細胞、スタップ細胞が何のために必要なのかである。その点、確かに救われる人が少なからずおられることは事実であるが、その救われた先に我々がどういった社会を描くのか。それを描かないままの今の状態での開発競争の中では、手段が目的化してしまい自然からの大きなしっぺ返しを受けることは間違いない。

 

この間のスッタプ細胞をめぐる利権、補助金絡みのくだらない争いが証明している。

若い研究スタッフも現代の間違った価値観を持った教育、社会の中で手段を目的化してしまい、何のための研究なのか、最終的な目的がないゆえくだらない名誉や利権(理研とも言えるが)のために結局一般社会では詐欺としか思えない行動を何のためらいもなく行っている。そのために何億という無駄な税金を使い続けている。

 

それを利用し、踊らされ、何らかの形での見返り目的、たかり目的で出すほうも出すほうだが、もらった方もすみやかに返還すべきであろう。

原子力が時代の流れの中で見直されているようにおそらく遠くない将来これらの分野でも人類は後悔するのであろう。

 

人間という生物はつくづく学習能力がないことを彼らからあらためて教えられる。

 

こういった分野を成長戦略の柱にするとは考える人たちの先見性のなさ、能力のなさにもうんざりされられる。

最先端を行っているつもりなのかもしれないが時代遅れの発想の中で転がされている自分たちに気付かない愚かな人たちだとしか思えない。

 

ただ、そういった近視眼的見方(名誉、権力、お金への欲望)しかできない人たちのことを非難していたところで何の解決にもならない。

今こそ新たな価値観で真の生命への尊重とは何なのかを考えるべき時である。

2014/08/29   文責   世界のたま  sign

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代表民主政治とは、そしてその崩壊

昨今、トップダウンの政治手法の良さを訴える政治家が増えてきていると思われ、それを支持する人も増えているのも事実である。

その理由の一つには多様化した社会の中で様々な価値観があり、討論の中でまとまらず時間だけ過ぎるそのまどろかしさや混ぜ合わせの中途半端な結論の中で何も変わらない現実にうんざりさせられ続けたことだと思う。

 

ただよくよく考えてみると、トップダウンの政治手法は結局、歴史的には大古のやり方に戻るだけの話だ。

歴史的には直接民主制から代表民主制へと人間の英知の中で選択されてきたことなのに愚かな人たちにより振出しに戻ることがさも素晴らしい現代的な政治手法とすり替えられている。

 

そういった愚かな政治家の多くは馬鹿の一つ覚えのように多数を取ればそれが民主的な結論で正義なのだと訴える。(無駄な税金を浪費した上で、解散、辞職し、やり直し選挙を行い投票率が下がっても多数を取ればそれが民主的な正義だと声だかに訴える。私から見れば詐欺師の典型にしか見えないのだが)

 

代表民主制が直接民主制に取って代わったのは一つには討論の場の確保だ。

少数の選ばれた人たちが時間をかけて討論する。冷静に討論し時間をかける中で結論を出してゆく。

その本当の意味は少数者の発言の確保だ。言い換えれば少数が多数になりうる可能性こそが代表民主制の意味なのです。

 

多数そのものに意味があるのではないのです。但し、その前提として代表者が一部の代表者ではなく全体の代表者であることが重要です。このことは日本国憲法においてもはっきりと書かれている。

 

先に述べた政治の行き詰まりの、まどろこしさの原因は政治体制の問題ではなく、個々の代表者が全体の代表者でなく一部の代表者であるからです。

正確には私個人としては半代表的な感覚が不可欠であるとは思っていますが。決してトップダウンが望ましいことではなくそれはえてして独裁者を産み、歴史的にも後戻りするだけで何の意味もなく、そういった政治手法をとることは時間のロス以外なんでもない。

 

まったく意味のないことに私たちは気が付かなければならない。ただ、歴史的に行き詰った時代にはついそういった救世主を人々は望むものことは無理からぬことだが、だからと言ってそんな救世主は決して存在しはしない。

 

そういった意味で現在の我が国の代表制民主制としての国会、地方議会を見てみたとき議会は形骸化し、少数者の意見に真摯に耳を傾ける気など毛頭なくヤジや、いねむりが横行し、議員も大臣、首長含めて代表者としての自覚などありはしない。

 

ほぼ見渡す限り代表民主制は崩壊していると思われる。ただこのことは主権者たる私たちが愚かであることの裏返しだ。主権者たる私たちが選んだ結果なのだから。たとえ選ぶ人がいないとしても言い訳にはならない。

 

今、私たちは代表民主制の崩壊を目の当たりにして一部の利益や個を顧りみることのない真の意味での代表者を選んでいくことしか選択の余地はない。

そのためにも代表民主制回復手段のための議員選出、法案議決が不可欠でありそんなに時間はない。

2014/8/28   文責  世界のたま  sign

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人権と特定秘密保護法

一時騒がれた特定秘密保護法もあまり話題とされることが少なくなってきているが(何らかの力が働いているのかは定かではないが)12月の施行に向けての動きが出てくると思われる。

 

この件に関して私は大きく分けて2つの点で施行すべきではないと考えます。

一点はまづ特定秘密保護法そのものがまだ正式に成立しているとは思えないからです。

昨年度の衆参での短期間での強行採決の中で形式的には成立したとされているが、衆参ともに平等選挙違反で違憲、違憲状態との判決が裁判所から指摘されている。

 

そのような違憲、違憲状態での国会での審議、議決は基本的には無効である。

一歩譲って違憲状態の解消まで違憲状態であるが国会議員としての当面の資格は認める事情判決だったとしても、彼らに特定秘密保護法のような思想の自由(絶対的な保護が保障されている)から派生する知る権利を制限する法律の立法能力を認められているとは思えない。

というのも選挙という民主制の過程が違憲、違憲状態とされた議員に知る権利という民主制の過程に直結する権利の制限に関する法律の立法能力が与えられるとは考えられないし、決して与えてはならない。

もしそれを許すなら民主制の過程の修復は国会という立法機関での修復は困難であり、誤った民主制の過程の結果として人権そのものが危機にさらされるであろう。

 

唯一、違憲審査を有する裁判所が最後の砦であるが、私自身、今年初めに広島地裁民事部に訴えを提起しているが半年たった現在まで裁判審理に入るかすらも返答をもらえていない。司法に期待することはできないと考えます。

 

二点目はやや重複するが人権を守るためには、手続きとしての民主制が不可欠である。その民主制にとって思想、良心の自由の保障は絶対である。知る権利と国家の機密が比較されるが民主制なくして立憲主義国家は存在しえない。

そして所詮、国家そのものも主権者たる私たちの人権を守る一つの手段にすぎないのだから。実際、現実的に今の日本に守るべき機密、秘密があるとすればそのほとんど100パーセント近くが守ろうとする組織にとって都合の悪い、所詮それほど守るべき価値(主権者たる私たちにとって)のないレベルの低い内容であることは誰しもわかっていることだと思う。

 

今、私たち主権者が特定秘密保護法の施行を許すことが現在、未来の主権者たちに何をもたらすのか真剣に考えてみてください。

たまたま多数を得たからそれに乗じて成立、施行する内容の法律ではないのです。

2014/8/30  文責  世界のたま   sign

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たかり集団と化している政党

政党を考えたとき歴史的には敵視、無視から承認のレベルになってきてると思われるがそれは本来の世論を統合、実現するという本来の意味での政党を考えた時の考え方であってそういう公党としての側面の意味合いは薄れ、現在残っている政党の多くは権力、名誉、お金を得るための手段に成り下がっている。

 

助成金目当てでの離合集散も当たり前のように行われ、そういった意味ではたかり集団化しているとしか思えない。

最近のニュースの中でも経団連の政治献金の復活など、公党としての側面重視のために企業献金を中止して政党助成金制度を作ったのに助成金をもらいながら献金をもらうなどあった場合には公党とは程遠い詐欺集団に近いたかり集団としか言いようがない。

それでも本来の媒体としての役割を果たしてくれればまだ救われるが特定秘密保護法案でもそうであったが公約にも載せず、結果として多数を取った際に多数の国民の反対の世論の中、一挙に強行採決の中で可決するというやりくち、形式的なやらせの公開討論などのまやかしも含めてそこには世論の媒体としての政党のかけらもない。

 

本来の機能を失っている政党ではあるが集団としての党議拘束などの都合の良い機能だけは主張する。そこがまた厄介なところで政党という民主制の手段であるべきなのに手段が邪まになってしまっているがゆえに結果として民主制の破たんにつながってきている。

 

手段としての政党が自ら自浄能力がない以上、原点に立ち返って政党のための代表者ではなく日本国憲法で言っている本来の全国民の代表者としての代表に基づいた政治を行っていかなければ日本のそして世界の未来はないと思われる。

それができるのは、私たち主権者自らしかいないのだということも私たちは自覚しなければならない。

2014/8/29    文責   世界のたま       sign

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