仕事が忙しくてしばらく書けなかったが今回は自然について書いてみようと思う。
私は昔から自然という言葉が好きだったというより何故かその中に自分が落ち着ける何かを感じていた。自分自身でも理解できない安堵感がそこにはある。
私自身の価値観の根底に自然との共存ということがあるが自然とはいったい何なのか少し考えてみたいと思います。
一般的に自然というと海や、山などを想像される人が多いいと思う。
単語として使われる際には加工された人工的な手が入っていないものに対して使用されることが多い。自然食品などと使われるように。
私が自然とは何かと聞かれたなら一言で答えるとそれは海です。
小さなころから私は海が大好きで潮の香りを体に受けていれば何時間でも時の流れを忘れていれた。磯の香りと言っても日本海、瀬戸内海、太平洋それぞれその香りは違っている。海の近くで育ったわけではない。
そして、海につながっていることを意識していたのではないが川の流れを見ることでも何故か心が癒された。
昔は近くに自然のままの小さな川がいくつもあったから川の中を石の下をまさぐっていろんな生物を見ながら歩くのが楽しみだった。
今でもそうだが海でも磯辺が一番好きな場所だ。
そこにはいろんな小生物が生活している。その一つ一つの小さな生物があるものは小刻みに走り回っており、あるものは死んでしまったかのように頑なにその体を磯の岩にくっつけている。
それら一つ一つの小さな生物を見ていると時がたつのを忘れてしまう。
それら一つ一つの生物はこの地球上の片隅で一生懸命生きている。私がこの時間にこの場所で彼らと会わなければ一生会うことがなかったと彼らと同じ時を刻みながらよく考える。
私が20歳くらいの頃、何かある度に海に行って一日中海を見ていた。そうすると海は何故かいろいろな迷いや思いをゆったりと吸い取ってくれた。
その頃、何故、海に行くと心が落ち着くのだろうとふと考えていたとき他の提言の中でも触れているが個体発生は系統発生を繰り返すという言葉に出会ったときすべてが理解できた。
人間の発生を考えてみると、精子と卵子から受精卵ができ細胞分裂を繰り返しながら母親の子宮の中の羊水の中で鰓呼吸をした後、母体から離れて口呼吸を初めて一個の人間になる。
言い換えれば一個の個体の発生の過程は人が海から陸へ上がった進化の過程を繰り返している。
私が海を見て落ち着けるのは私自身の心の中に普段は意識することはないが潜在的に故郷への思い、それは母親の子宮の中の羊水への思いであり、そして遠い自分自身の生命の根源でもある海への思いなのであろう。自らが生まれ出た場所に身をゆだねることで自分自身の身も心もその中に溶け込んでいき同一化されるのであろう。
私にとって一言でいえば自然と言えば海なのだが一般的に自然という言葉は様々なケースで使用されている。
何故私が自然との共存を訴えているのか、人間は自然の大切さを再認識しなければならないのかを三つの視点からお話ししようと思います。
一つは科学の分野で、本当の意味での自然を大切にしなければならないということです。
他の提言でも述べているように自然を侮ってはいけない。遺伝子操作や、人工的に作り出された薬剤含めた物質はいずれは自然淘汰の中でかき消されてしまい歴史的には何の意味も持たないことを人間は学習しなければならない。
それは大きな海のうねりがすべてのものを何もなかったかのように飲み込んでしまうのに似ている。
現在騒がれているエボラ出血熱なども昔から存在していたウイルスであってそれらと人間はある意味で共存していたのであってそれを駆逐できるかと言われたら自然の一部に過ぎない人間にはもともと不可能なのです。
あらゆる抗生剤に反応しない多剤耐性菌もしかり、エイズウイルスなども人の免疫防御系システムの要であるT細胞に宿って静かにある時期は共存している。
だれがそんな感染システムを考えられるだろう。
自然とは人間が考えるよりある意味でずる賢い。だが、それは人間からみた考えである。本当は鏡に映った人間自身だと思う。
自然はただ単におそらくすべての生物のために元に戻そうとしているだけであろう。自然自らを守るために。
二つ目は自然権というものがある。自然権を保障していない憲法は現代立憲主義的憲法でないとされているが、自然権とは思想、良心の自由など前国家的権利のことで、国家を前提としない権利であり、いわゆる人が生まれながらにして有している権利のことである。
だから自然権を保障している日本国憲法のもとではたとえ日本国籍を有しない外国人に対してでも自然権は保障されている。
この自然権という人が人であるがゆえに、ただそれだけで認められる権利、私はその響きがものすごく大好きです。だから他の提言で述べているようにその権利の行使を妨げる特定秘密保護法などは絶対に容認できないのです。
三つ目は精神科領域での治療としてあるがままの自分をみつめ、受け入れるやり方がありますが、これはすべての事象で言えることだと思います。よくスポーツの世界などでも自然体で臨むなどという言い方がありますが自然のあるがままの姿を受け入れる、今の現代社会で最も欠けていることがそのことのように思えてならない。
いつの時代からか人間は自然から離れて台風や、地震などの自然現象や、ウイルスなどの生物を敵とみなして戦い、人工物をさもそれが最も価値のあるように考えてきたがそれは人間の奢りであることにそろそろ気づかなければならない。