代表民主政治とは、そしてその崩壊

昨今、トップダウンの政治手法の良さを訴える政治家が増えてきていると思われ、それを支持する人も増えているのも事実である。

その理由の一つには多様化した社会の中で様々な価値観があり、討論の中でまとまらず時間だけ過ぎるそのまどろかしさや混ぜ合わせの中途半端な結論の中で何も変わらない現実にうんざりさせられ続けたことだと思う。

 

ただよくよく考えてみると、トップダウンの政治手法は結局、歴史的には大古のやり方に戻るだけの話だ。

歴史的には直接民主制から代表民主制へと人間の英知の中で選択されてきたことなのに愚かな人たちにより振出しに戻ることがさも素晴らしい現代的な政治手法とすり替えられている。

 

そういった愚かな政治家の多くは馬鹿の一つ覚えのように多数を取ればそれが民主的な結論で正義なのだと訴える。(無駄な税金を浪費した上で、解散、辞職し、やり直し選挙を行い投票率が下がっても多数を取ればそれが民主的な正義だと声だかに訴える。私から見れば詐欺師の典型にしか見えないのだが)

 

代表民主制が直接民主制に取って代わったのは一つには討論の場の確保だ。

少数の選ばれた人たちが時間をかけて討論する。冷静に討論し時間をかける中で結論を出してゆく。

その本当の意味は少数者の発言の確保だ。言い換えれば少数が多数になりうる可能性こそが代表民主制の意味なのです。

 

多数そのものに意味があるのではないのです。但し、その前提として代表者が一部の代表者ではなく全体の代表者であることが重要です。このことは日本国憲法においてもはっきりと書かれている。

 

先に述べた政治の行き詰まりの、まどろこしさの原因は政治体制の問題ではなく、個々の代表者が全体の代表者でなく一部の代表者であるからです。

正確には私個人としては半代表的な感覚が不可欠であるとは思っていますが。決してトップダウンが望ましいことではなくそれはえてして独裁者を産み、歴史的にも後戻りするだけで何の意味もなく、そういった政治手法をとることは時間のロス以外なんでもない。

 

まったく意味のないことに私たちは気が付かなければならない。ただ、歴史的に行き詰った時代にはついそういった救世主を人々は望むものことは無理からぬことだが、だからと言ってそんな救世主は決して存在しはしない。

 

そういった意味で現在の我が国の代表制民主制としての国会、地方議会を見てみたとき議会は形骸化し、少数者の意見に真摯に耳を傾ける気など毛頭なくヤジや、いねむりが横行し、議員も大臣、首長含めて代表者としての自覚などありはしない。

 

ほぼ見渡す限り代表民主制は崩壊していると思われる。ただこのことは主権者たる私たちが愚かであることの裏返しだ。主権者たる私たちが選んだ結果なのだから。たとえ選ぶ人がいないとしても言い訳にはならない。

 

今、私たちは代表民主制の崩壊を目の当たりにして一部の利益や個を顧りみることのない真の意味での代表者を選んでいくことしか選択の余地はない。

そのためにも代表民主制回復手段のための議員選出、法案議決が不可欠でありそんなに時間はない。

2014/8/28   文責  世界のたま  sign

sign

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です