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衆議院選挙につきまして応援ありがとうございました

このたびの衆議院選挙につきまして数は少なくとも悪天候の中、投票所に足を運び、ご支援くださった方々にお礼申し上げます。

この度の選挙結果を踏まえて、私が今、思うところを述べておこうと思います。

皆さんにとって今回の選挙は、今までの選挙と同じような感覚で迎え、そして投票されたのではないかと思います。

ただ、私が今回の選挙に立候補させていただいたのは、我が国が現代立憲民主主義国家としての終焉を迎える可能性が高いと感じたからにほかなりません。

今回の選挙結果についても与党が勝ったとか、野党が負けたとか、様々な国会議員が落選したとか、当選したとか、もしそれらにしか皆さんの関心が向いていないとすれば、それ自体が、本当の意味で危機なのだと思う。

投票率の低さもそうであるけれど、今、我が国が置かれている状況を多くの国民が、そして多くの政治家すらも理解できていないのではないかと思う。それは私たちが自らの力で主権を獲得したこともなく、戦後もアメリカをはじめとしてそれらの庇護下の中でしか生きてこなかったからに他ならないと思う。

今回の解散権の行使は、主権者たる私にとって許すことはできませんでした。主権者たる国民の代表である(たとえそれが違憲選挙で選ばれたにしても)衆議院議員の資格を、大義もなく一斉にはく奪することは明らかに国民主権の侵害に他ならないからです。
私たちの主権の侵害なのです。

しかし、残念ながら多くの国民は、今回の選挙で、現在のある程度恵まれた私生活を優先し、所属する組織、政党を優先して、選挙権の不行使か、私たちの主権侵害した政権を容認してしまった。

私たちは政党、組織人である前に主権者であることを忘れてはならないのに

そしてそのある程度恵まれたと錯覚している私たちの私生活すら、私たち自身が、将来の子供たちにつけを回し、財政再建も顧みず、日本銀行がお札を刷りまくった中での、もうじき壊れてしまう偽りのうすっぺらな生活に過ぎないというのに

昨年の参議院選挙後にもお話し、いずれ歴史が証明することであるが、今度こそ、私たちは取り返しのつかない過ちを犯してしまったと思う。

歴史を振り返ってみればわかるのだけど、その渦中にいるとき、つくづく人は気付けないものだと思う。

皆さんは、今度また政権選択をすればよいと簡単に考えておられるかもしれないが、問題は、安倍さん含めた政権与党、どうしようもない野党にあるのではなく、おバカな私たち国民自身にあるのだということを気付かない限り、現在日本国憲法で保障されている私たちのすべての自由を、私たちは間違いなく、もうじき失ってしまうであろう。

今回の選挙において、政権与党が勝ったのでもなく、野党が負けたわけではない。
私たち主権者たる国民が負けたのだと思う。

そして、今だもって核兵器、原発を推し進め、自然との共存を否定する私たち人類は、そう遠くない将来、自然の中に飲み込まれてしまうであろう。

生意気であると考えられる方も多いいと思うが、歴史は嘘をつかない。

歴史は繰り返し、人間はそれを止めることはできないのかもしれない。

本当に御支援誠にありがとうございました。
最後になりますが、国民よ主権者たれ。

  平成29年10月23日   文責   世界のたま

18歳、19歳の君たちへ(最後の訴え)

 あなたへの約束の中でも述べましたが、我が国は、現在1048兆円という莫大な借金を抱えています。そして今現在も毎日その額は増え続けているのです。
 国民の預貯金(郵便貯金、銀行預金、保険会社、企業)で買い支えていましたが、現在は日本のお金を作る日本銀行が買い支えています。お金を作るところですからいくらでもお金を刷って買い支えられます。しかし、誰が考えてもまともではない。
 株価も一見20000円を超えて景気がよさそうですが、これまた皆さんの将来の年金の掛け金、そしてまたお札を刷る日本銀行が買い支えています。
 私はこんな見せかけの社会はもうすぐ崩れてしまうと思う。誰が考えてもまともではありません。
 一見就職率も上がり、求人倍率も上がっていますが、非正規雇用者数が増え、正規と非正規の賃金格差も拡大しています。すべて一時的なあなた方の将来の付けの中で一過性に生じていることなのです。根本的には広い意味では騙されているだけのことです。
 それらの付けはあなた方、若い世代にすべてがかかってきます。このまま行けば、必ず、近い将来、日本が新たな借金をすることができなくなると思う。
そうなった時、どちらにしてもあなた方の年金はかなり減額され、生きているうちにもらえる方は少なくなるでしょう。また、医療費、介護費用はおそらくほぼ全額自己負担となる時代も遠くないでしょう。
 私は年に一回校医をしている小学校で喫煙防止教室という授業を1時間させていただいています。その時に子供たちに伝え、少しでも心の片隅に止めておいてほしいと、いつもお話ししていることは、事実をきちんと理解して、情報に流されず、他者の考えに流されない、自分の頭で考える大切さです。
 そして大前提として考えなければならないのが、自然、他者との共存だということです。
 私は、今、君たちにそのことを改めて伝えたい。
 事実をしっかりと把握して、政党や組織の考え方に流されるのではなく、自分自身の頭で自分自身の判断で未来を切り開く一票を投じてほしい。

未来は君自身の心の中の一票にあるのだから

   平成29年10月18日  文責  玉田 憲勲(世界のたま)

総選挙後に私たちを待ち受けているもの(最後の訴え)

選挙戦終盤に差し掛かり、投票日を目前にして私が思うことを述べて最後の訴えとさせていただきます。

① 主権者は誰なのか

あなたへの約束の中でも述べさせていただきましたが、私が今回立候補したのは、今回の説明責任なき国会冒頭解散を目の当たりにして、明らかに主権が国民にはないという事実の中で、主権を国民に取り戻したいという一念です。
 ただ正直なところ私を含め日本国民にとって、島国という環境の中で、そして敗戦を契機にたまたま獲得した国民主権という概念は、血を流して自らが勝ち取った主権と違って弱いものだと思う。
選挙期間中も沖縄ヘリパット周辺の私有地でのヘリ墜落、広島上空でのフレア発射など、政府の抗議も全く無視され、立ち入りも一切許されない。おそらく国会に墜落したところで同じことであろう。
総選挙という国民主権の最たる権利行使の期間中に主権を害する行為を平気で行い、何一つ説明するでもなく飛行再開を強行する、政府も遺憾に思うと発言するのみで、アメリカの属国であると公言したに等しい。
 私たち国民には、もはや政治的な意味において日本政府に対して、そしてアメリカに対しても、また、領土的な意味においてもアメリカに対して、主権は存在していない。

② 民主主義の否定(説明責任の放棄)

 選挙期間中も、私は政権与党による説明責任は果たされていないと思う。森友加計問題を筆頭に、都合の悪いことは説明していない。
一方で選挙戦が優勢かという報道を聞けば、憲法改正の具体的日程などをぼかした形で報道関係者に流す。
 形勢が有利になると、過去5年間の政権の評価が問われていると言うが、もしそうだとすれば、それは死票が多い選挙制度の中で選ばれた国会議員の数ではなくすべての有権者数の過半数か、少なくとも有効投票数の過半数でなければならない。
 今までがそうであった様に、結果がよければ、選挙期間中にしっかりと説明して信任を得たということで、再び、説明責任なき国会での強行採決のオンパレードが始まるであろう。森友加計問題もしっかり説明して信任を得たとするであろう。

 そして、国家の基本法たる日本国憲法の改正発議すらも難なく行うであろう。

 最後に、投票日を目前にして、有権者の皆さん、もう一度、世界の歴史、日本の歴史を思い出してほしい。
国民主権そして民主主義を失ったとき、私たちは、身体の自由、表現の自由、思想の自由、すべて失ってしまうことを、現在の私たちの経済的豊かさをすべて犠牲にしても守らなければならないものであることを

   平成29年10月18日  文責  玉田 憲勲(世界のたま)

私の思いとあなたへの約束

  無所属  玉田 憲勲   平成29年10月10日
    ( 順序は優先度の高い順 )

1.今回の選挙で問われているもの

 私たちが今回の選挙で問われていることは、決して政権選択ではありません。
 私たちが、今、問われていることは、誰が主権者なのかということです。
 今回の安倍首相、与党による臨時国会の冒頭解散は、説明責任の放棄において民主主義の否定であり、国会議員の発言を一切認めない点においては国民主権の否定以外の何者ではない。
 安倍さんの自民党、そして小池さんの希望の党に期待している人には申し訳ないが、自民党の「自由民主」、希望の党の「希望」という言葉は、かつてナチスドイツが多くのユダヤ人を迫害したアウシュビッツ収容所での入り口に掲げてあった「働けば自由になる」という言葉で彼らを欺いた自由のない世界への入り口に他ならない。
 私たちは、彼らによって作られたうわべの総選挙劇場という舞台から降りて、しっかりと心の目を開き、今、自分たちが本当に問われていること、将来の子供たちにとって何が本当に必要なのかを見つめ直さなければなない。
 私たちには、もうそんな彼らに付き合う無駄な時間は残されてはいないのだから。

2.学級崩壊社会、日本

 私は、今回の解散、その後の国会議員たちの行動を見ていて、もはや我が国は学級崩壊していると思う。
 実際の学級崩壊でも言えることであるが、そこには必ずその原因がある。
 我が国の現在の学級崩壊を考えた時、その原因として安倍さんであるとか、強権的な与党であるとか、優柔不断な野党であるとか、いろんなことがあげられるとは思うが、私は、根本的な問題は我が国における立憲民主主義の破たんであると思う。
 立憲民主主義の破たんと言えば難しく思われるかもしれないが、簡単に言えば、まず、立憲主義については、我が国の国家機関が憲法を順守していないということです。
 何故順守できないのかであるが、それは憲法に対する私たちの考え方が確立していないからに他ならない。
 我が国は、立憲主義的な意味での憲法を自らの力で作った経験がないのだ。明治憲法も、ドイツなどのヨーロッパからの導入であり、現在の日本国憲法も戦争に負けた結果としてできたものである。(ちなみに現在の自民党が掲げている改正憲法草案は、一度読まれたらわかるが、その内容は現代立憲民主主義憲法に値するものでない非常に稚拙な草案であり、あまりにも稚拙すぎてそれを作った人の知的レベルを疑う)
 憲法とは、国家の基本法であり、主権者たる国民の基本的人権を保障するために、国会、内閣、司法の国家権力を制限するものであるというその目的を理解できていないのだ。決して国家権力のためのものでもなく、国民に対してそれを義務づけるものでもない。
 そうした憲法の持つ意味を、国民も国家権力も理解していないために、憲法を順守しなければならない、順守させなければならないという反対動機が形成されにくいのだ。その結果として、国政選挙の違憲状態もそうであるし、今回の解散、安保関連法、テロ等準備罪など、それらすべてが、日本国憲法に反した違憲行為である。
 実際の学級崩壊もそうであるが、ルールを守らずして学級は成り立たない。憲法の由来などある意味でどうでもよいのだ。国民の人権を守るという意味での立憲主義とは、現在存在する憲法を国家機関が順守する、ただそのことだけに意味があるのだから。
 一方、民主主義とは、一言で言えば説明責任である。民主主義とは多数決であると公言するおバカさんもいるが、決して多数決で決定するということにおいての多数に意味があるのでない。 現在の安倍政権はその点で無知であり多数がすべてだと、その真の意味をまったく理解していない。多数そのものに意味があるのではなく、そこまでに行き着く討論、審議過程に意味があるのです。過程を大切することによって少数が多数になる可能性が生じる。その可能性こそが民主主義なのだから。
 そのために必要なのが説明責任なのである。説明責任のないところに少数が多数になる可能性は生ぜず、民主主義は成り立たない。
 そういった意味で、現在の我が国において、立憲民主主意義は存在しておらず、そのことを真摯に振り返ることなく政権選択選挙をしたところで、ただの時間の無駄で、学級崩壊社会は何の改善もしない。主権者たる国民の人権はより失われてゆくであろう。そのことだけは明白である。
 私はもう一度、我が国に立憲民主主義を取り戻すことをあなたとお約束する。
そしてもう一つ大切なことであるが、その立法事実も存在せず、実行行為としての準備行為も不明確で罪刑法定主義に反するテロ等準備罪の廃止することもあなたとお約束する。

3.憲法改正について

 自民党、並びに希望の党、維新の党などは、盛んに憲法改正を謳っているが、先ほど述べたように、現在の我が国は、憲法に反した国家行為のオンパレードであって、そんな学級崩壊した国家が、まともな憲法改正論議を行えるはずもない。
 我が身を振り返れない者たちがどうして改正した憲法を守る保証があるのか。法論理的に成り立たない。実際の学級崩壊でも、まず、今あるルールを守ることからスタートせずして学級崩壊が改善する術はない。
 私はもう一度、憲法を守る国家を作り直すことをあなたとお約束する。

4.政党政治について(選挙制度改革)

 政党とは本来、国民の意見を集約して国政に結び付ける媒体である。そのために莫大な税金を政党助成金として毎年、政党に交付している。
 しかしどうであろう。今回の解散、その後の流れの中で誰が、政党の本来の意味をそこに見いだせたであろう。自民党で言えば、国会、すなわち国民が求めた森友、加計学園問題に対する説明責任を放棄した安倍政権の片棒を担ぎ、その解散に対し、一応に万歳三唱をしていた。党議拘束の下で意思を持たないロボット議員でしかない。
 一方、野党はと言えば、自らの議席を求めて蜘蛛の糸に群がり、信念や理念などあったものではない。いずれにしても、全国民の代表者と言えたものではない。
 我が国においてもはや政党は、国会議員のための集票、集金マシーン以外の何者ではない。何が二大政党だ!何が政権選択選挙だ!国民をコケにするのもいい加減にしろ!
 私たちはもう一度選挙制度を見直さなければならない。我が国のような民主主義が根付いていない、説明責任も放棄した、密室、談合政治を行う国家は、正々堂々と議論を戦わせる必要がある二大政党制は所詮、無理がある。死票が少ない中選挙区中心制度に戻すべきであろう。又政党が意味を持たなくなった現在、比例代表制も民主主義にとって害があっても益は何一つない。
 私は、最高裁の判断を仰ぐこともいらない国会自らが自信をもってこれこそが立憲民主主義であると胸が張れる選挙制度改革を行うことを、あなたとお約束する。

5.安全保障について(北朝鮮問題と、対米追従外交)

 安全保障については今まで、安保関連法、日米安保条約もすべて、安全保障の対象が、国家であるとして考えられていたのであるが、私はそうした安全保障の対象が国家であるという考え方はもはや古いと思う。確かに今だもって世界中のリアリストの考え方はその対象を国家としていることは事実だが
 昨今の世界の紛争を見た時、もはや国家同士ではなく、その多くが国境をまたいだ民族、宗教的対立である。それでは北朝鮮問題はどうなのだということだが、北朝鮮問題は基本的に核抑止論の問題である。
 私は、もはや核抑止論も遺物であり何の意味もないと考える。核抑止論も、核保有国、原発推進国によって意図的に作られた幻想に過ぎない。
 アメリカのトランプ大統領は盛んに、北朝鮮をはじめとする様々な国々の危険性を取り上げ、その恐怖をあおっているが、所詮は軍需産業の代弁者に過ぎない。何一つ長期的な国際平和を求めているのではない。その逆で、軍需産業にとって平和社会は来てもらっては困るのだから。
 アメリカの歴史を見ればわかるが、常に闘いあるところに顔を突っ込み、実際に戦争に加わるか、兵器を提供し続けている。いくら米兵が亡くなろうと経済がすべてだと考えている。
 朝鮮戦争をはじめ、ベトナム戦争、アフガンに侵攻したロシアと闘うビンラディンなどへの支援、イランイラク戦争ではイラクのフセインを支援し、湾岸戦争ではそのイラクを攻撃し、かつて支援したビンラディンによって9.11が引き起こされるや否やテロとの戦いと称して、アフガン侵攻、イラク進攻、数えればきりのないくらいの戦争に関わってきている。
 私は、兵器の製造販売を一つの巨大産業と考える国家、アメリカとの関係を一から考え直すべきであると思う。もはや安全保障の対象を国家とした集団的自衛権など、何の意味もない。北朝鮮の脅威をたきつける安倍政権もアメリカと同様で、国内の産業政策として軍需産業の育成を図ろうとしているだけのことで、国際平和に逆行はしても何のメリットはない。核兵器禁止条約不参加も根底にはそれがある。経済至上主義の権化だ。
 憲法9条の改正も含めて、私たちはアメリカや、安倍政権を含めた軍需産業を一つの産業として考える人たちが意図的に、脅威を作り出していることに気が付かなければならない。心の目をしっかり見開き、冷静に物事を見るならば、それらに騙されることは決してないはずだ。
 私は日米安全保障含めた抜本的な見直しを図り、核兵器廃止条約への参加、核保有をしていない国々との意思疎通を含めた外交政策など、180度向きを変えた安全保障政策を行ってゆくことをあなたとお約束する。

6.消費税と社会保障について(現在の財政、金融政策)

 今回の選挙で言われている消費税問題は、所詮解散理由の後付けにすぎず、希望の党が言う消費税引き上げ延期もこれまた選挙目当てであり、自民党も希望の党も何一つ国民の生活を考えているわけではない。
 事実はその逆で、選挙の時にだけ取り上げるのは、彼らが、何も考えていないことの裏返しであるともいえる。
 そのため私自身、彼らとまともに論ずる気にもなれないが私の考え方だけは伝えておこうと思う。
 我が国の借金は1048兆円を超え、現在も増え続けており、政府が盛んに言う基礎収支(PB)のバランスの改善も聞こえはいいが、基礎収支のバランスには借金の返済分は含まれておらず、一つのだましである。
 家計を考えてもわかるが借金の返済を考えないバランスなどあり得ない。政府は、その基礎収支のバランスすら先送りした。
 一方で、黒田総裁率いる日本銀行がもつ国債は300兆円を超え、更なる買い増しを続けようとしている。黒田総裁に反対する理事が差し替えられたことも考え合わせれば、おそらく後戻りもできない状況になってきているのだと思う。
 郵便貯金の上限額引き上げも国民のタンス預金を搾り取り、それによって日本銀行に代わって国債のさらなる購入を図ろうとしていることが見え隠れする。  
 まともな国家であれば、1年でも早く消費税含めた税制度改革を行い、抜本的な財政再建を行うべきである。私には1000兆円を超えた借金の返済など不可能であると思えてならず、そうだとすれば、日本銀行が持つ国債をなかったことにするか、国民の大切な預貯金で国債をチャラにするかどちらかしかないように思える。どちらにせよこのまま行けば、とんでもないことが待ち受けていることは間違いのない事実である。
 年金基金もかなりの部分が株式投資などに回されており、おそらくそんな遠くにない時期に一挙に問題が露呈すると思われる。
 安倍政権が言う経済成長による収支バランスの改善など絶対に不可能である。
 私は、今年も非正規労働者の格差が一段と広がり、大企業の内部留保が400兆円を超えている状況下で、法人税の引き上げ、高額所得者、相続税などの直接税の引き上げを行うと同時に、消費税も一律に引き上げるべきだと思う。
一方で、国会議員数の削減を筆頭に、医療、介護などの抜本的制度の見直し、セーフティネットの構築、地方分権化など早急に推し進めることが、もはや遅きに失しているのだが、一日でも早く将来の世代のために手を付けなければならないと思う。多くの国民にある程度の我慢を強いることになるとは思うが、不退転の覚悟で成し遂げることを、あなたにお約束する。

 消費税問題を、この期に及んで政権選択などと言って政争の具にするなど、もはや自民党、希望の党含め、政治が落ちるとこまで落ちてしまった感がある。
彼らの自分たちのことしか考えない人間性には怒りを覚えるが、一方で、必死に権力にしがみつこうとする強欲な人間として哀れに思えてならない。

       平成29年10月10日  文責  玉田 憲勲(世界のたま)

18歳、19歳の君へ贈る言葉

新たな有権者として、今回、衆議院議員選挙に臨む君たちに伝えておきたいことがあります。
これからは君たちの時代です。君たち自身が切り開いてゆくしかないのです。

昨年度の参議院議員選挙でもお話ししましたが、私は国会議員とは所詮、主権者たる国民のための道具にすぎず、それを選ぶ単なる手段が、選挙だと思っています。
しかし、今回行われた国会の解散、そしてその後の与野党含めた国会議員の離合集散を目の当たりにして思うことは、現実的には、多くの国会議員が選挙を、国会議員を、政党を、それ自体を目的にしてしまっている現実です。

日本国憲法の第一文、前文の冒頭に書かれてあることは、国政は正当に選ばれた代表者によって行われると謳ってあります。道具として間違っているのです。

道具に正当性がない以上、その道具を使って、如何に立派な家を建てたとしても何の意味もないのです。

私は、国家とは家のようなものだと思う。その基礎をなしているのが民主制であり、その上に立つ家が、憲法で保障されている私たちの自由だと思う。

民主制とは何だろうと考えた時、私は、説明責任と、人の話を聞く耳を持つことに尽きると思う。
たとえば、一般の会社などの経済社会においては、上司や、お金を持っている人が発言権を持ち、ある意味で彼らは説明責任や人の話を聞く必要はない。確かに問題はあるかもしれないが、我が国が資本主義社会である以上、それが現実であり、避けて通ることはできない。

しかし、政治の世界においては、それは許されないのです。

政治とは資本主義社会の中で取り残された社会的弱者も含めたすべての人の幸福追求権、自己実現を図るものなのだから。

私は、そのために必要なものが説明責任と、人の話に耳を傾けることだと思う。説明責任を不要とする資本主義社会の中で、取り残されてしまったいわゆる貧困層や、体の不自由な人たちなどの話に耳を傾け、しっかりとした説明をする。それが民主制であり、それなくして、すべての国民の幸福追求権は保障しえない。換言すれば、国家の存在意義もない。

今回の安倍首相、与党による臨時国会での冒頭解散は、説明責任なき解散で、民主制、すなわち民主主義の否定であり、主権者たる国民の代表者たる国会議員の一切の発言も許さない点において、国民主権の否定でもあった。

それらを考えた時、今回の選挙で問われているのは、決して、政権選択ではなく、誰が主権者であるかが問われているのだと、私は思う。

安倍さんの自民党や、小池さんの希望の党に期待している人には申し訳ないが、自民党の「自由民主」、希望の党の「希望」という言葉は、かつてナチスドイツが、数多くのユダヤ人の自由をはく奪したアウシュビッツ収容所の入り口に掲げられていた「働けば自由になる」という言葉で彼らを欺いた自由のない世界への入り口にすぎない。

もはや、政党は国会議員の集金、集票マシーンでしかなく、多くの国会議員も又、自己の言葉を持たないロボット議員か、何の理念も持たない自己保身議員でしかない。

君たちの夢を叶えるのは決して政党や、組織ではありません。
君たち自身の心の中にある一票です。それを信じて一票を投じて下さい。
最後に君たちに贈る言葉、「国民よ、主権者たれ」

     平成29年10月10日  文責 玉田憲勲(世界のたま)

国民よ! 主権者たれ!(学級崩壊社会 日本)

今回の安倍政権、与党による強硬な解散権の行使、その後の与野党入り乱れての離合集散の中で、国民もそれらの報道の中で様々なことを考え、10月22日の総選挙を迎えてゆくのであるが、皆さんが、投票行動をとる前に、今現在、私が思う主権者としての国民が考えておかなければならないことを述べておこうと思う。

(最重要問題)
まず、大前提としてはっきりさせて置かなければならないことは、一連の混乱した状況を招いている原因は何かということである。このことは下記の④にも通じるのであるが、一番の原因は多くの政党が憲法改正をうたいながら、現実に存在している憲法を順守していないことにある。順守しない人たちによる憲法改正論議は本末転倒であり、法論理的にも矛盾している。
憲法という国家の基本法が順守されないことで、当然、国家全体は不安定になり揺らいでしまっているのが現状であることを、そうさせている私たち主権者たる国民自らも含めて自戒しなければならない。ルールを守らないクラスが学級崩壊しているのと同じことが国家レベルで起きているのです。
こんな時私たち国民はどうすればよいのでしょう?
私は思うのだけれど、確かに、北朝鮮問題、消費税問題、経済問題など課題は山積しているが、混乱の中で慌てるのではなく、まずは現在の日本国憲法を順守してゆく、そのことからスタートしてゆくしかないと思うのです。
自分たちは憲法を守らずして、それ抜きに、改正論議を盛んにしている人々は決して信用できず、何もすることはできないでしょう。結果的には彼らが更なる混乱を招くことは間違いのない事実です。
そして、主権者自身も今回の混乱を見てもそこに気付かないとすれば、日本という国家は根本から壊滅してしまうと私は確信している。

① 今回の安倍総理による衆議院の解散にその正当性はない
日本国憲法第7条による解散であったが、本来7条は内閣の助言と承認に基づく天皇の国事行為を定めた条文であり、本来、形式的な行為である。そこに実質的な解散権の根拠を求めることは常識的には有り得ない。
もし内閣による国権の最高機関たる国会の解散が可能であるならば、必ず、内閣、若しくは国会の権能の条文の中できちんと定めてあるが常識であり、現実的に憲法の条文にあるのは、第69条による国会による内閣の不信任に対抗する解散のみである。それ以外に日本国憲法上の解散に関する条文は存在しない。
国際的にも各国の解散権は制限され、任期を全うすることが基本となっている。
 今回の解散も、はっきりしているのは、稚拙な安倍総理がかかわる森友、加計学園に関する臨時国会での安倍さんの説明責任からの逃避の為だけに使われている。彼が言う北朝鮮、消費税問題などは今に始まった問題ではなく、まったく財政難の折、600億円以上支出が費用となる解散総選挙を行う根拠となりえず稚拙な言い訳に過ぎない。
 今回の件を含めて、国権の最高機関たる国会、主権者たる国民をバカにした解散権の乱用以外の何者ではないと私は思う。

② 解散した与野党すべての国会議員は全国民の代表者ではない
 国会議員は先にも述べたように国権の最高機関たる国会を構成する人たちであり、いったん選ばれた以上、日本国憲法上は全国民の代表者であるはずである。
 しかし、果たして彼らは全国民の代表者に値する人間たちであろうか?
 私たち主権者は自分たちが選ぶ国会議員が、一部の人たちの代表者ではなく、全国民の代表者としての人間なのかどうか、そこを今回の総選挙では最も重視すべきであると私は考える。
 今回の解散一つとってもどれほどの国会議員が、国家、国民にとって本当に何をなすべきことなのか真剣に考えたのであろうか。
与党議員に関していえば、野党議員が退場した中で、与党議員は、稚拙な森友、加計学園問題隠しの解散の片棒を担ぎ、任期いっぱいの国務を放棄して600億円以上かかる選挙費用を新たに国民に押し付けることも屁とも思わず、誰一人、反対することなく万歳をしている。
 野党は野党で突然の解散ではあったものも信念を持った政治家は皆無に近くそれまでの主権者たる国民と交わした公約などそっちのけで、ただ単に、わが身を守るため必死に選挙区を右往左往しているざまである。もはや地域の同情票だけが彼らの命綱であろう。そこには全国民の代表者としての面影は何一つない。
 彼らを見ていて思ったことは、人間は窮地に追い込まれたときその本性が出る。彼らに本当の国難は任せられないであろう。私たち主権者を盾にするか、見捨てるかして自分たちの身を守るであろう。決して彼らの命を懸けてまで私たち主権者を守りはしない。
 北朝鮮や、難民が、脅威だと彼らは盛んに言っているが、彼らを見ていて最も脅威なのは、どたんばで裏切るあなたたち国会議員であり、私たち国民にとっての最大の脅威だとしか私には思えない。

③ 現在の我が国において政党は、民主主義にとって弊害であっても、何の意味もない。
 政党とは国民の意見を集約し、国政に生かして実現してゆく媒体である。
 そうであるがゆえに、民主主義にとって不可欠であると信じて国民の税金の中から莫大な政党助成金を出して、その健全な育成を図ってきたのである。
 それがどうだろう、与党を見ればヤクザ社会以上に、党議拘束という掟に逆らえば破門の上に、刺客が送られる。誰もが、党首に右倣えで、ただの番号札に変えた方が議員定数削減より効率的である。
全国民の代表者ではなく自己の意思を持たない単なるサラリーマンロボット人間でしかない。
 今までも政党助成金を使って比例区で選ばれた国会議員が、国会議員を辞職することなく政党を抜けたり、選挙公約などどこ吹く風といったことはあったが、今回の解散劇での、政党の離合集散はもはや常軌を逸している。
自らが国会議員であり続けるためには、選挙民との公約や、比例選挙制度の意味というものを無視した哀れとしか言いようもない離合集散をする哀れな国会議員だらけである。
 政党員として選ばれたのであれば、政党を辞するとき、国会議員を辞するべきである。と私が言えば、必ず、そういう時だけは私たちはいったん選ばれた以上、全国民の代表者であるという屁理屈を言うに決まっている。そうであるならば、せめて使った政党助成金を返還すべきであろう。そんな常識すら今の彼らは持っていない。ため込んだ資金を自分たちのためにどう利用しようかと考えているだけで、そこには国家、国民への思いは存在していない。
 現在の我が国では、もはや政党は彼ら国会議員が国会議員であるための道具、手段に成り下がっている。本来の主権者たる国民と、国会、内閣をつなぐことによって国政に意見を反映させる媒体としての存在ではなくなっている。
 特定秘密保護法、安保関連法、テロ等準備罪などこれらすべて政党を構成する多数をもってなされた強行採決であり、それぞれ国民の知る権利、平和的生存権、内心、身体の自由を侵害する法律である。
いずれは歴史が証明するであろうが、おそらく将来主権者たる国民が後悔することになることが間違いはないと私は残念で仕方ないが確信している。
それぞれに今までの付き合いや、いろんなつながりがあるかもしれないが、私たちは今回の総選挙ではそれらの所属する組織から一歩離れたところで候補者個人を考えて投票行動をすべきである。
その上で最も基準となる大切なことは、その人の言動が信じられるかどうかだと思う。それは候補者の問題ではなく、主権者たる国民、一人一人が、一人の個人として自分自身の頭で考えることだと、私は思う。
 
④ 今回の総選挙で私たち主権者が本当の意味で問わなければならないこと
 最重要問題の中でも述べたことであるが、現在の日本国の混乱を招いている最大の原因は、我が国が憲法改正論議にばかり目がいって、現実にある日本国憲法をないがしろにして順守していないことにある。
 特に、憲法とは国家の基本法であり、それが改正されるその時まで、全ての国家機関はそれを順守しなければならない。
私自身、改正そのものに反対ではない。改正規定があるのだから、しかし、物事には順序があり、現在の憲法を順守することが先決である。現在の憲法を順守できないものたちが改正したところで、新たな憲法を順守できるわけがない。法論理的にはありえない話である。
そして現在の憲法を国家機関が順守しなくなった原因は、憲法を守る憲法保障制度が機能不全に陥っているからに他ならない。今回の解散権行使もいい例であるが、行政国家化現象、政党国家化現象の中で、小選挙区制度も相まって、内閣が優位になり、国会の開催要求にも応じず、自らの都合の悪い時は解散権の行使という究極の権力の行使を行っている。三権分立が機能せず、憲法尊重擁護義務も無視しているのだ。
その結果として今回の総選挙もそうなのだけど、民主主義を多数主義と勘違いして与野党とも多数を取ることを目的としている。確かに最終的には多数で物事は決めるのだけれど、民主主義とは説明責任を果たしたうえでの、その決定過程にある。多数意見が民主主義ではない。
多数主義の中で、世界中で、少数者の生命をはじめとする人権が失われていることは誰しもが知っている現実だ。
最終的には司法による違憲判断しか残っていないのであるが、現時点ではそれがどこまで機能するのか私にもわからない。
今回の総選挙で私たち主権者に問われていることは、国家が憲法を順守し、きちんとした説明責任を国家機関が果たす現代立憲民主主義を日本が守ってゆくのかが問われているのだと私は思う。
   そして最後に一つだけ言えることは主権者たる国民にその最終的な責任があるということだ。
 
⑤ 初めて衆議院議員選挙に臨む18歳、19歳の君へ
   今回の選挙に臨む多くの国会議員は、日本国憲法に違反した前回の違憲衆議院議員選挙によって選ばれた正当でない国会議員です。
   そんな彼らだから、君たちが小学校で、中学校で、高校で学んだ日本国憲法によって保障された三つの原理、基本的人権の保障、民主主義、平和、それらをことごとく違憲な法律を立法することで、壊してきました。
  国民の様々な情報を知る権利を奪った特定秘密保護法、平和的生存権を侵害する安保関連法、そして私たちの不当に逮捕されない権利、最も大切な内心の自由すらもテロ準備法によって侵害されてしまった事実、それらすべて違憲な選挙によって選ばれた国会議員による強行採決によって可決されました。
   歴史を振り返った時、いつも不思議に思うのは、何故その時代に生きた人々はいつの時代も渦中にいた時、人々はその忍び寄る最悪の結末を予期できなかったのかということである。
   人間とは所詮忘れやすい生物だと思う。
   そんな時、どうするのが良いのであろう。
   まずは、過去の過ちを経験した人々の意見をよく聞いて参考にすることである。
   しかし、戦後70年を迎え、多くの経験者は一線から退き、彼らから学ぶことができなくなっている。
   それでは、どうすればいいのであろう。

日本国憲法の中にはフランスの人権宣言、アメリカの独立宣言、世界の人類の歴史が、英知が盛り込まれているのです。
私は、国家がその行く先を迷ったとき、その羅針盤となり、北極星となるのは日本国憲法以外ないと思う。
私が君たちに望むことは、正規の手続きで、君たちが改正することは構わない。
しかし、その憲法が現代立憲民主主義に基づいた憲法である限り、まず第一に現時点で存在する憲法を守らなければならない。
そうしない限り、必ず、国家は滅び、存在しえないのだから。

  平成29年9月30日  文責  世界のたま   

おバカな日本政府、国会議員、日本国民への Jアラート発動

一昨日、自民党与党から(おそらく政府が主導していると思われるが)「年内、臨時国会冒頭での衆議院解散」という発言がなされました。制憲権力を有する主権者として、私は、おバカな日本政府、国会議員や、日本国民に対してJアラートを発動します。

私たちは決して歴史を、時間を無駄にしてはいけないと思う。

 今、私たちが向かおうとしている社会は、近代、そして現代立憲民主主義を獲得するために、私たちの先人たちが尊い命や人生をかけて築き上げた歴史を根底から覆す自由、平等、平和のない殺伐とした社会に他ならない。
 政府並びに与党は、北朝鮮からのミサイル攻撃に対しJアラートを発し、国民にその危機を煽っているが、たとえ、万が一ミサイルが飛んできたとしても、私たち日本国民、主権者が本当に守らなければならないものは、我が国が現代立憲民主主義国家であるという事実だと思う。その事実を失ったとき、もはや国土が残ったところで何の意味もないのだから 
 おそらく国土がなくなってないからそんなことが言えるのだとおっしゃる方々も多いとは思う。
 しかし、私は思うのです。現代立憲民主主義を失ってしまった国家は一時的には国土が残ったところで遅かれ早かれすべてを失ってしまう。
 それは私たちの先人が歴史の中で私たちにその命を懸けて教えてくれたことなのだから
 環境破壊含め、私たちにはそんなに時間が残っていない。
  私たち人類にはそんな無駄な時間を費やす時間はないと思う。

今回、私がおバカな日本政府、国会議員、日本国民に対してJアラートを発動した理由及びその内容を述べておきます。

Jアラート発動理由
1.日本国憲法に反した違憲内閣総理大臣による違憲国家行為
  現代立憲民主主義に基づく日本国憲法においては主権者たる国民の基本的人権を保障するためにその統治機構として三権分立という憲法保障制度が設けられているが、その中でも最終的な憲法保障制度が司法による違憲審査制度である。それによって違憲とされているのが現在の衆参両院の国会議員である。
 衆議院議員においては過去3回、参議院議員においては過去2回続けての違憲とされており、現在の両議院を構成する国会議員も日本国憲法前文第一文で書かれてある日本国民の正当な代表者ではない。
 そんな違憲な代表者の選出した内閣総理大臣も違憲な正当でない内閣総理大臣に他ならない。正当でない総理大臣による違憲な解散権の行使、違憲な選挙制度の下での4回目の違憲選挙、これ以上、彼らは日本国憲法に反した国家行為を行い、罪を重ねるべきではなく、裁きに服さなければならない。
 そして私たち主権者も決してそれを許してはならない。

2.民主主義における説明責任の放棄(民主主義の否定)
  我が国は上記に述べたように現代立憲民主主義国家である。民主主義とは何かと問われたならば、それは説明責任であると私は思う。
  経済至上主義の中で生かされる私たちは、学校、企業教育の中で、トップダウンが最も効率的で有益な方法であると思いがちである。現実的に資本主義社会の中で、金がものをいうというのは歴史的な事実で誰しもが経験するところである。
 基本的には資本主義社会の下では資産を持つものが正であるとされる。資産のないものは如何に理不尽なことであり、道理が通らないことであっても耐え忍ぶしかないのである。そこには説明責任はいらないというより存在しえない。 
  しかし、私は政治の世界にあっては、特に民主主義国家においては、それは間違っていると思うのです。
 蓋し、民主主義とは少数者が多数者になる可能性、弱者が強者になる可能性、言い換えれば少数者、弱者のための政治が民主主義に他ならないからだ。
 私はそのために民主主義国家にとって最も大切なものは、失ってはならないものが説明責任であると思う。説明責任を果たすことで少数者が多数になる可能性が生まれる。説明責任がないところでは多数者が絶対なのです。
  この間の政権与党がそうであった様に、その結果が日本国憲法21条で国民の知る権利を侵害する特定秘密保護法の強行採決、日本国憲法前文、9条で保障されている平和的生存権の侵害する安保関連法の強行採決、日本国憲法19条で保障されている思想、良心の自由を侵害する共謀罪の強行採決
 それらすべての法律内容、その手続きにおいて言えることは、少数者の基本的人権を抑圧するための多数者による説明責任を放棄した民主主義の否定に他ならない。

3.違憲で正当でない内閣総理大臣による国会(主権者たる国民)の私物化
  今回召集される臨時国会はそもそも何のために召集されたのかと言えば、日本国憲法53条に基づく野党から再三の要求に基づく森友学園、加計学園問題についての説明のためであった。
 そのことについては違憲で正当でない内閣総理大臣自身もあれだけ国民への説明のために開いた都議会選後の記者会見の中でも丁寧な説明をこれから果たしてゆきたいと反省の弁を述べていたのだが。まあ、都議会選の歴史的敗北の中で、内心は舌を出しながら思ってもいないことをしゃべっていたことは多くの国民がわかっていたことではあった。
  今回のように臨時国会冒頭での国会解散権を行使するとすれば、違憲な正当でない内閣総理大臣とはいえ、このような無知な内閣総理を間接的であれ結果的に選んでしまっている日本国民として今更ながら本当に恥ずべきことだと思う。
説明責任を放棄した非民主的で違憲で正当でない内閣総理大臣であるがゆえに、日本国憲法53条による再三の臨時国会召集の要請を拒否するという違憲行為に加えて、臨時国会召集の目的を差し替え、それを利用して多数を確保するためだけに国会の解散権を行使するという違憲行為以外の何者でもない。
 麻生副総理が好んで例えるナチスの統治のやり方に非常に酷似している。
我が国の最高裁判所が司法消極主義をとっていることを逆手に取った、まさに違憲行為のオンパレード状態に他ならない。
国権の最高機関であるはずの国会も見るも無残な状態になり果ててしまった感があるが、そんな国会ではあるがゆえに違憲な正当でない内閣総理大臣によって完全に私物化されている。
 このことは取りも直さず私たち主権者たる国民が無知な彼によって私物化されていることに他ならないことに私たちは気付かなければならない。もはや我が国には立憲主義的な意味での憲法は存在していないと思う。

4.法の支配の否定(現代立憲民主主義の否定)
  我が国は取りも直さず現代立憲民主主義国家である。現代立憲民主主義国家とは、法の支配が基本原理である。
法の支配とは、前国家的権利、いわゆる思想、良心などの精神的自由権などの国家を前提としない権利に関しては無条件に保障される国家である。それはそうである、そもそもそれらの権利は人が生まれながらに人であるというだけで持つ国家などを前提としない権利なのだから。
 現在私自身が広島高裁に控訴、抗告、そして最高裁に特別抗告しているところであるが先に違憲国会で成立した共謀罪はそれらの精神的自由権を侵害するものであり、裏返すと我が国はもはや法の支配が機能しない国家であることを意味する。
 どんな悪法も法であるとする近代立憲民主主義国家への後退である。
 国家が守るべき憲法を守らず、一方で国民の精神的自由権を侵害する法律を立法し施行する。
 そこにあるのは国民のための国家ではなく国家(一部の権力者)のための国家でしかない。
 そこでは、国民は自己実現するための存在ではなく、ただ単に国家すなわち一部の権力者たちの奉仕者、奴隷に過ぎない。

5.違憲な選挙制度という民主制の過程の是正は民主制の過程の中では原理的に困難である。(現在我が国の司法がとっている司法消極主義の弊害)
  民主制、すなわち議会制民主主義は私たち主権者の様々な基本的人権を守るための手段であると同時に目的でもある。
 上でも述べたように正当な選挙で選ばれた議員による説明責任を果たす議会の中で本来は私たち国民の権利、義務に関する立法は行われなければならない。蓋し、しっかり説明、議論される中でしか少数者の人権を守ることはできないからである。裏返せば、政権与党に有利な多数を得られる選挙制度はたとえ違憲であろうと彼ら自らが変えることは決してしない。
 そんな違憲状態の中で多くの国民の人権が無知で多数という錦の旗を掲げた国会議員によって蝕まれてゆく。
現在の政権与党が有利な選挙制度を、それが主権者たる国民にとって人権を守る不可欠な民主制の過程であったとしても、それらの本当の意味を理解していない与野党含めた無知な国会議員が多数を占める現在の国会が自らその違憲状態を変えることは原理的にあり得ない。
 彼らにとって興味があるのは自分が国会議員であり続けることだけなのだから
それを変えることができるのは最終的には三権分立という憲法保障制度の下で違憲判断を行うことができる司法だけであるが、現在の我が国の最高裁判所はそれらの国家機関の行為に関してはたとえ違憲であっても、高度な政治的判断を有する事案だとして判断を避ける司法消極主義をとっている。
  
 Jアラートの内容
1.まず第一に、おバカな私たち主権者たる国民は、おバカから脱して思考停止を解除し、合理的無知(自分の一票で何も変わりはしない)という選択をしてはならない。

2.私たち主権者は日本国憲法99条による憲法尊重擁護義務者には入っていないが、彼ら尊重擁護義務者に尊重擁護を要求すると同時に、現在ある日本国憲法が改正されるその日まで、現在ある日本国憲法を守らなければならない。
 蓋し、そのことが私たち少数者を含めた主権者の基本的人権を守ることになるのだから
 日本国憲法前文「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」12条「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」で示されているように私たち日本国民の責務であり、日本国憲法97条「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」に書かれてあるように将来の国民に対する私たち主権者の責務でもある。

3.法の支配の回復(司法積極主義)
 現在、控訴人として、抗告人として、特別抗告人として広島高裁、最高裁に訴えているところでもあるが、
 主権者たる国民の基本的人権が脅かされ、特に人が生きてゆくうえでの最も大切で、自己実現、自己統治にとって不可欠な思想、良心の自由、表現の自由、身体的自由権を侵害する刑罰権からの自由それらが失われようとしているとき、かつ、それらを守るべき三権分立という憲法保障機能が機能不全を起こしているとき、
 民主制の過程たる選挙制度が違憲状態で放置されているとき、そして主権者たる国民自身も思考停止し、合理的無知を選択するとき、
 法の支配を回復できるのは機能不全に陥った民主制の過程から最もかけ離れた非民主的国家機関たる憲法保障機関としての司法以外にはその是正を図ることは困難であろう。

 最後になるが、北朝鮮における核武装についてであるが、そもそも北朝鮮が核武装するに至ったのは何故なのか、
 それはアメリカをはじめとする先進国と言われる国々が核抑止論を保持しているからに他ならない。
 北朝鮮を擁護するつもりはないが、北朝鮮がこの間のやり取りの中でフランスに対して、文句を言うのならまず、フランスが核を放棄しろと述べていたが、私はある意味で正論であると思う。
 北朝鮮も何といっても一応、国家であり、世界の安全保障の専門家たちがその保障の対象を国家としている以上、その理屈は一応通っている。
  私自身が考える安全保障については以前のブログの中でも述べたことがあるが、現代の安全保障の対象は国家ではなく、個人である。
  その上で何が大切なのだろうと考えた時、核ミサイルという核ではなく、自然との共存を図る、他者との共存を図るという揺るがない核心としての核に他ならないと思う。

      平成29年9月18日   文責   世界のたま

私には、失うものは何もない

過去のブログの中で、私は製薬メーカー主催の説明会、勉強会にほとんど出席することはないと書いたことがあり、その中で、久しぶりに勉強会に出席してさわやかな気持ちになったことをお話したことがあったが、先日、医院を訪ねてきたあるメーカーのMRがEPAに関する勉強会を開催することを話した。

元来不勉強で、学習意欲が低い私であるが、何故か、以前出席した勉強会もそうであったが何とも言えない興味がわいた。何がというわけではなかったのだが、その詳細も何もわかっていた訳ではなかったのだが、久しぶりに出かけて行く気になり出席させていただいた。

内容的にはメーカー主催の勉強会であり一歩引いて客観的に考えないといけない上での感想であるが少しお話してみようと思う。

まず、冒頭から面白かったのが、講演されたのは某大学の内科教授であったが、第一声で、自分には失うものは何もないという一言であった。その上で、誰にも遠慮せず、普段診療されている心構えである目の前の患者さんにとってベストの治療法を選択して行うということを臨床医に伝えたい、他の臨床医にもそうであってほしい、そういった思いの中で常日頃講演されていること、今回の来広は座長である公立病院の先生から何度も依頼され4回目であることをお話しされた。

今思えば、私自身がこの先生の冒頭での突っ込みにひきつけられたのは、私自身と共通の匂いを感じたせいであろう。

私自身、三年前にこのブログを立ち上げると同時に、何度も違憲訴訟を起こし、何度棄却されようとも、そして今現在も訴訟し続け、昨年度は参議院選全県区に立候補したのも私自身何も失うものはないと思っているからである。

私自身がそうであるからよくわかるのであるが、人が何も失うものはないと思ったとき、そこにあるのは無であり、個である。無であるということは無限大であることでもあり、個であるということは、過去のブログで何度も言っていることであるが全体でもある。

言い換えれば、自分自身を無の境地に追い込むということで人は無限大なものを感じ取ることができ、私の経験からするとそれはブラックホールに似ていてありとあらゆるものを吸い込む力によってあらゆる事象を、対象が何であったとしても、感じ取ることができるのだと思う。そして自らを個というものに追い込むことは、その個の中に全体が存在していることが認識可能となり、真の意味で全体を見渡せることができる。この感覚は自らをそういった状況に追い込んだときはじめて体感できるものであろう。

話を講演に戻すが、EPAというものが、医療用医薬品としても、健康食品的なものとしても、現在テレビでも盛んに取り上げられており、数多くの方がそれを含む薬剤、健康食品材として経口摂取している。

そのEPAについての講演であったが、細かなことは省いて結論を言えば、EPAを含んだ動脈硬化予防物質として盛んに推奨している薬剤、健康食品の多くがそれらに含まれる濃縮された成分量としては効果発現にとって不十分であり、一方でダイオキシンを含む不純物の取り除きが一部の医療用薬品に比べて不十分であり、その効能効果においてもいい加減な宣伝をしているという事実であった。またDHAについても認知症予防としての根拠があいまいなまま、よっぽどあるかのように意図的に宣伝されている事実であった。

講演会の演者、座長共に第一線の臨床医であり、直接的な発言はなかったが、こういった講演会自体を行う意味から言っても、健康食品レベルでの誇大広告は一歩譲って多少大目に見るにしても、私たち臨床医に対してそういった効果不十分なものを意図的なMR情報操作によって売りつけることは、詐欺的行為である。以前のブログでも同様に、企業、MRの社会的責任の欠如、そのあきれた無知さ加減について述べたことがあったが、同じ企業が同様な手口で、相も変わらず同じようなことを繰り返していることにはあきれ返って開いた口が塞がらない。

確かに何度も同じ手口で騙される私たち臨床医にも問題がありはするが、その臨床情報操作のずる賢さはある意味で磨きがかかっているのも事実である。

私は以前取り上げたケースでも思ったのだが、こういった悪意のある、患者の生命、治療に対する悪質な行為に加担するMRは確かに、多くが無知であり、多少高額な給与をエサに、ある者は故意で、ある者は無知に起因する愚かなMR活動をし続けているのであるが、確かに、哀れな無知な人間として哀れみ、同情はするが、それらの薬剤を服用させられる、しかも慢性疾患の場合、長期にわたって服用させられるのであり、それらの患者様にとっては、とんでもない悪質な人間にすぎない。

自民党副総理である麻生さんがよく引き合いに出したがるアドルフ・ヒットラーの流れでいえばまさに国会焼き討ち事件を引き起こし、多くのユダヤ人をガス室に送り込んだ先兵たる親衛隊員に例えることが可能であろう。

彼らは自分自身が客観視できないがゆえに、起こしてしまった行為すら企業や、企業のトップ、それらを認可した天下り元などのせいに責任転嫁することによって、自らの心の目を閉ざし、自らの行為については仕方なかったものとして自らに言い聞かせて、被害にあっている患者さん、だました臨床医、薬剤師、診療報酬の支払元、最終的にはその原資たる税金の支払元である国民に対する謝罪の気持ちを心の中から追い払ってしまっている。

彼らには贈与の心、他者との共存の心が欠けている。

誰のために、何のために生きるのか、表面的には他者の為に生きていると思っているのであろうが、所詮は自分たち社員、家族の為だけに、生きているに過ぎない、個の中で、じっくりとことん自分自身を見つめた経験がないため、いつも自分を趣味や酒でごまかし、同じ仲間でたむろして、お互いの傷をなめ合って生きているだけだ。

最終的に企業や組織と自分を切り離して自分自身と相対したことがないのだと思う。確かにそうすること、そういった仲間、組織から離れて個になって、自分自身を見つめなおすことは恐ろしいことだと思う。しかし、それをしない限り、ナチスの親衛隊と同じで、最終的には、仲間や、家族をも裏切ってしまうことも理屈をつけていとも簡単におこなってしまうものだと思う。彼らは否定するであろうが、平時に他者のことを考えられない人間が、他者の命と引き換えに犠牲になることなど決してありはしない。悲しいかなとことん個を見つめていない人間にはそのことすらも理解することは困難であろう。

言いすぎているかもしれないし、戦後の経済至上主義の中で、経済成長、企業利益の追求が善とする学校、企業教育のにおいては若き彼らはある意味で被害者かもしれない。しかしそれらの限界が現実的になり、環境破壊含めた我々の生存が脅かされている時代の中で、自戒も含めて敢えて言わせていただいていることはわかってもらいたいと思う。

いつも面会しにくるいろんな製薬会社のMRにいうことがある。それは企業を信用してはいけない。いつも企業と一歩離れた視点を持つ必要性だ。最近彼らは自分たちMRがこの先リストラされることをよく話してくる。私はそんな時、彼らに言うのだけれど、真の意味での本来の企業を超えた患者と医師とメーカーとの橋渡しになるのであれば、逆にもっと必要になるはずだと。

しかし、上記にあげた自分たちの利益しか考えないMRである限りもう数年もすれば急速なリストラが製薬業界を襲うであろう。このことは医療、介護の現場を見ていなければわからないが確実に加速度的に起こってくることは間違いのない事実である。おそらく毎日会っているMR自身が考えるよりも早い段階で起こるはずである。正規のMRが急速に減る中で派遣MR、ネットMR、卸MRなどにとってかわるであろう。

現実的に薬剤師資格を持ったMRが増えている側面もあるが、このことは、MR自身からみて、企業から見ても将来来るべきリストラの嵐に対する布石のように感じてならない。

そうであるが故、若いMRには本来持っていた瞳の輝きを取り戻してくれることを望んでならない。
あのキラキラ輝いた瞳を

最後になるが、私自身、3年前から様々な形で将来の世代にどんな社会を渡すべきかという日本国憲法前文や97条における国民としての責務について考え、行動しているところであるが、テロ等準備罪に名を借りた共謀罪につき、6/16に広島地裁に違憲訴訟を提起すると同時に、6/19に広島地裁に執行停止の仮処分請求を求め、6/22の仮処分請求の棄却決定を受けて、6/23に広島高裁に即時抗告させていただいた。しばらく決定がなされなかったが、その間の7/1に安保関連法に関する違憲訴訟において、控訴審である広島高裁からの棄却判決が特別送達された。違憲判断の前に個人的な具体的な権利侵害がないとのいつもの棄却理由であった。特定秘密保護法の違憲訴訟の際に、最高裁に上告したが棄却されたこともあり、安保関連法に関しては、残念ながら上告を断念した。

そうしているうちに8/23に広島高裁からテロ等準備罪ついての執行停止仮処分請求に対する即時抗告の棄却決定が送達された。

そんな時、その日の夜に今回ブログで取り上げた講演が行われた。確かに何の法曹資格もない私ごとき、たった一人で何ができるかとやや落ち込んでいたので、この講演の演者の私には何も失うものはないという言葉に出会えたのも何かの縁なのかもしれないと思った。
私は、H29/8/28最高裁へ特別抗告した。

   平成29年8月30日   文責    世界のたま

理性という幻を追いかけて

日本国内においては、内閣支持率の低迷の中で、内閣の改造が行われ、野党である民主党においては党首が辞職し、党首選が予定される一方で、近く行われるであろう総選挙を前にして、一部の国会議員による離党、新政党の設立、合流が行われようとしている。

一方、東京都においては、都知事選に圧勝した都民ファーストを中心として、都知事の下で都議会が始まった。

世界に目を向けてみれば、アメリカにおいて、相変わらずトランプ大統領、国民、議会の間での様々な駆け引きが行われている。ヨーロッパにおいてもイギリスのEU離脱、トルコ、ウクライナなど国家間、国家内で様々な問題が生じている。

中東においてもシリア、イスラエル、カタール、イエメンなどの国々を中心として様々な問題を抱えており、数多くの新たな難民が生じている。

アジアにおいてもアフガニスタン、中国、インド、フィリピン、ミャンマー、北朝鮮などの国内、国家間において同様に様々な問題を生じており、そこでも多くの難民が国内外で生じている。

アフリカに目を向ければ、リビア、南スーダンなどにおいて同様に数多くの難民が生じて近隣諸国へ流入して大きな社会問題となっている。

他方、自然に目を向けてみれば、地球温暖化、それに伴う海面上昇によって太平洋に浮かぶ多くの小島に住む人々は水没の危機に見舞われている。また、今月、日本を襲った海水温度上昇が原因とされる巨大台風の出現、世界で多発する地震、それらに伴い、世界各地で多くの人々が尊い命を失い、重大な生活の危機に直面している。

グローバル化した世界中の情報が瞬時に世界を駆け巡る現代に生きる私たちは、これらの様々な問題に直面し、果たして何をすべきで、そして何ができるのであろう。

ある者はこれらの問題に気付くことなく、己の生活や地位、名誉、金銭のために日々の生活を送っているのであろう。又ある者は、経済的貧困、政治的迫害の中で、国家も追われて難民化し、その日を生きるために、たとえ子供であったとしても、臓器を売り、性を売るしかない者もいるであろう。そのような状況においては、先にあげた問題など考える余裕などありはしないであろう。

一方で、先にあげた多くの問題に気付いている人々もいるはずであり、それらの問題に立ち向かっている人も少なからず存在しているはずであるが、それらの問題に関して、自分たち自身に災いが降りかかってこない限り、自分たちに関係ないものとして、若しくは自分一人が考えたところでどうしようもないことだと傍観する人たちが圧倒的多数ではないかと思う。

そんな中で、私自身のこれらの問題についての考えを述べておこう。

国内における現在の混とんとした政治状況についてであるが、今回の内閣改造や、都知事選での新たな政治組織である都民ファーストの国レベルにおける組織つくり、ましてや野党民主党の党首交代を含めた組織改革、そして近々行われるであろう総選挙などで何かが変わると思っている人がいるとすれば誠におめでたい人である。私には何一つ変わることはない、変わるどころかすべての面で悪化すると断言できる。

何故ならば、先にあげた日本や世界における諸問題の根源は政党や、政治制度や、ましてや党首や、国家の最高指導者の素質の問題ではなく、一見そこに問題があるかのように考えられてる宗教や民族や国家すらの問題でもないからだ。

私が根源的な問題であり、一人一人の人間がその価値観を変えない限りそれらの解決はあり得ないとするのは近代以降の人の心、即ち理性を身体と分離し、身体を含む自然世界を、生命のない物質の世界と考え、結果として、それまで人が有していた自然との共通感覚を失ってしまったこと。即ち、理性の数学的、科学的思考への服従である。

その時から、人は理性を本来の自然と相対するものとして考え、現在も自然を数理科学的に捉え続けようとしている。そしてそれを善とし、逆に数理科学的に解明できないものは間違いである、時代遅れであると非難してきたし、今もそうである。今回の日本全土を駆け抜けた台風もそうであるが、連日のニュースの中で何故、台風が巨大化して、進行が遅いのかを気圧、海水温含めて盛んに科学的に説明されていた。聞く方もなるほどとわかった風である。しかし、それらの科学的知識に基づいて、(所詮、浅はかな知恵にすぎないが)人間が一生懸命考えたところで、ただ茫然と嵐が過ぎるのを待つだけである。その一方で、専門家と称する人たちによって、莫大な予算の中で、地下水貯蔵システム、河川の改修、更なる予想システムなどが行われる。それら莫大な経済活動による更なる温暖化、海水温の上昇、海面上昇などは何一つ考えないままに。

このことは現在、日本国内で、世界中で起きているありとあらゆることにおいて同様なことが言える。

たとえば、東北震災での福島原発事故一つとっても同じことが言える。安心、安全とされた夢のエネルギーとされた原子力、福島原発も日本の専門家の英知によって設計されていたはずではなかったのか。

それが実際、事故が起きてしまい刻一刻とメルトダウンが危惧される中、電源がないとして近くの店屋に発電機を買いに行き、漏れ出した汚染水の漏れを防ぐために新聞紙とおがくずで穴を防いだりと、全く滑稽ですらある。最終的に高濃度の放射線に阻まれて近づくこともできなくなってしまう。これが科学の粋の結晶なのか。事故処理においても何かしなければとアリバイ的ともいえる最初から不可能とわかっていながら凍土壁の設置など、現在も地下水、海水への放射線物質は垂れ流し続いており、汚染物質の保管場所すら確保できない有様である。プルトニウムの半減期が24.000年と言われる中で、これが科学の粋を集めた結果なのか。

そもそも原子力発電そのものも、アメリカの原子爆弾開発を促進、正当化させるためのの口実、正当化理由として、原子力の平和利用という名目で、原子爆弾製造過程でできる放射線物質を利用しただけのことである。プルトニウム一つ考えたところでその半減期は24.000年である。自然界に存在しない放射性元素であるのは、それはその半減期を考えれば当然のことである。

私は、自然界に存在しない物質に関しては、自然界に存在しないそれなりの理由があると思っている。自然界に存在しない物質は、ある意味で自然とは共存し得ない物質であり、ある意味で自然淘汰された物質であると思う。逆に言えば、それらの物質が存在することは自然界自体の存在の否定につながってしまうのだと思う。

 経済学において外部費用というものがある。これは経済活動の中で契約当事者以外の不特定多数の第三者に対して発生する費用のことである。

 先にあげた原子力発電を例にとって考えて見ると、その肯定の意見の中に、温暖化対策に効果的、炭素燃料に比べて安いと言われるものがある。しかし、東北震災での原発事故を考えたとき、果たして安いのかと言われればそれは大きな間違いである。原子力発電においてはその外部費用が計算に入れていないのである。放射線廃棄物質の最終処理費用はもとより、ひとたび事故が起こった時の住民の健康被害、生活保障、事故処理費用、今回の事故だけでも本来であれば東京電力自体、破産処理しか選択肢はなかったはずである。私は税金を投入してまでそのままの形での企業の存続は絶対になされるべきではなく、間違いであると思う。特に、2.4000年という桁違いの半減期を持つ放射線物質においては、何世代の国民にわたる影響を考えなければならないのだから。

 現代の経済至上主義の中で経済活動はもとより、あらゆる諸問題において外部費用というものが隠され、ごまかされている。

 そもそも現在の我が国の毎年の国家予算もそうである。基礎収支のマイナスからの脱却を、経済最優先の一言で先送りし続け、消費税の導入も先送りし、GDPの6割を超える国債を中央銀行が保持し、今後も増やしてゆこうとしている。金融政策頼みで、与党の選挙に有利なように、大企業に対する法人税は下げ、企業の内部留保は300兆円を超え、国民に対しては消費税の先送りをして顔色を窺う。

 国民の将来の生活資金たる厚生年金から一時的な株価上昇のために莫大な投資を行い、先日も5兆円のプラスが出たとの発表をしていたが、日銀、厚生年金基金などの買い支えで生じているだけで、言わば、国民自身が買い支えて見かけ上、プラスが生じているだけであり、現金としての基金財源はおそらく減っていると思う。株式など、その評価額はあってないようなものである。

 日銀が異次元の量的金融緩和をしたところで、大企業が内部留保を増やしているだけで給与は上昇せず、国民の将来の年金も政府が必死に見かけ上の基金財源をかさ上げしているだけの中で、その保障などあるはずもない。年金の受給年齢も今後ますます遅くなり、その受給額も減額され、一方では掛け金は今回のパート職員への拡大を見てもわかるように、拡大され、その額も増額されるであろう。国家による詐欺以外の何者でもない。そんな中でGDPの半分を占める国内消費など増えるはずもなく、GDPが増えないことは当たり前のことである。

 私から言わせると、現在のあらゆる国家政策は、経済学で言う外部費用を全く計算に入れておらず、その費用、付けはすべて将来の国民が背負うことになる。現在の与野党含めた政治家は、自らの保身に走り、将来の国民、国家がどうあるべきかなど考える能力など持ち合わせてはいない。

 おそらく現在の国内のくだらない離合集散を繰り返している政治家たちには、将来の国民にとって何一つためになることは残せないであろうし、単なる時間の無駄であり、何も期待できることはない。

 私が最も皆さんに伝えたいことは、それでは政治家が悪いだけなのかと言えば、そうではないということです。

 私たち自身、学校教育、企業、社会教育の中で、数理科学的に証明される事象を正しいと考え、そうでないものは非科学的で、意味のないもの、価値がないものであるかのように教え込まれてきたし、現実的に、日々の生活の中で私たちは、無意識のうちに、全てのことに対してと言っていいくらいに、そうした思考経路の中で、物事を考えて、答えを出している。しかし、今、私たちは、こうした現実を前にして、私自身含めて、そういった数理科学中心の思考方法を見直さなければならないと思う。

 私たちは、数理科学的な世界の中に自らを閉じ込めてしまっているということに気が付かなければならない。私たちが数理科学的な計算する視点でしか物事を考えることができなくなっていることに気が付かなければならない。そうした中で、私たち一人一人が本来自然との対話の中で持っていた無限の想像力を失ってしまっているということに気が付かなければならない。そうした結果として、過去を振り返れば、水俣病問題や、福島原発問題、リーマンショック、現在の行詰まった政治、経済状況、そして北朝鮮の核ミサイル問題含めた世界の政治、経済状況すべてにつながっているということを認識しなければならない。

 数理科学的な思考を手段として用いることはあってもそれらを万能であると錯覚してはならない。私たちが、理性というものを数理科学的な思考によって答えを出す能力であるという錯覚から抜け出せた時、私たちが本来、自然の一部として有していた自然との共通感覚がよみがえってくるのだと思う。

 そのためには、私たちは、まず、私たちが自然の一部であることを再認識しなければならない。自然との共通感覚を取り戻した時、原子力に対する考え方、温暖化に対する考え方、今の日本の政治、経済に対する考えかた、少数民族に対する考え方、経済格差に対する考え方、難民に対する考え方、それらの多くの問題に対する答えが自ずと導き出されると思う。

 たとえば、世界遺産として美しい自然を有する各地の自治体が名乗りを上げるが、それは観光収入、言わば経済的計算の中で導き出されたものが多いと思う。

 私は思うのだが、それらはその時点で、もはやつくられた自然であって、本来の自然ではありえないと思う。本来の自然とは私たち一人一人の周りに存在すべきものであって、決して観光という経済的計算の中での存在ではない。

 現在、盛んにあらゆる分野で遺伝子操作が行われているが、このことも冒頭に述べたように、人の身体を心と分離させ、生命のない物質として捉える中で、その研究が行われているとしか思えない。そうした中での結果はおそらく、人間そのものに対して、自然が牙をむき、多くの自然災害や、放射線被ばくと同様に、悲惨な結末を見ることになるであろう。

 私は、私たち自身はもとより、これからの将来の人たちのことを考えたとき、真の理性的生き方とは自然の中での人の存在を認識し、人とは自然から与えられた存在であることを認識できる生き方であると思う。

 そうした中で人は外部費用を予測し、他者との共存が図れる、正しい選択ができると信じているし、それ以外に、現在、我が国で起きている様々な問題、そして北朝鮮問題を含む数多くの国際問題を解決できる術は無い。

 そうした観点から現在の我が国の政権与党、野党を考えたとき、何一つ解決できることはないであろう。そして私たち国民自身が変わらない限り、何一つ変わらないまま時間だけが過ぎ、おそらく人は自然の中にのみ込まれてしまうであろう。

 それが自然なのだから

   平成29年8月10日  文責  玉田 憲勲

劉暁波氏の死と共謀罪施行(他者との共存の否定)

H29年7月11日共謀罪が施行され、その二日後の7月13日劉暁波氏の死亡が伝えられた。

この二つの出来事は今の世界を取り巻く状況を如実に表している。

劉暁波氏の生前語っていたモットーである私たちには敵はいないという言葉。彼はこの言葉の中にどんな意味を込めたのであろう。彼は、彼自身を11年の長きにわたる長期拘留させた裁判官すらも、彼を拘留する刑務官すらも恨んではいけない、一生懸命に仕事をしている人間に過ぎないと語っていた。

こうして彼の死を、彼の残した言葉を考えたとき、名前は忘れてしまったが、戦時中に日本軍の捕虜となり終戦まで日本国内の収容所で過酷な環境の中で生き延び、アメリカへ帰国したのちに戦後すぐに来日し、日本中を回り、布教、心の安らぎを説いた一人の牧師を思い浮かべる。

劉暁波氏にしても、その牧師にしても、どんなに過酷な状態に貶められようと、彼らにとって、彼らを貶めた人たちは彼らの敵ではないのだ。彼らの敵は、全ての人間の心に潜んでいる彼ら自身の心の中にもある排他的な自己中心主義なのだと思う。

それは絶対的多数の下でも少数者の存在を否定しない民主主義に通じる心だと思う。習近平国家主席の下での中国は、自らの国家体制を否定する存在を認めず肝臓がん末期に至っている彼の唯一の最後の望みであったとされる自由で民主的国家での死すらも許さなかった。

劉暁波氏にとって、自由や民主主義とは生きてゆく上での空気のようなものなのであろう。最後に胸いっぱいに自由や民主主義を吸い込みたかったのだと私には思えてならない。

人間は生きているうちに空気の存在をあって当たり前なものとして忘れてしまいやすいのだと思う。今、世界中で、そのあって当たり前の存在である自由や民主主義が音もたてずに崩れていっている。

我が国においても組織犯罪処罰法の改正という形で共謀罪として監視社会、密告社会が始まっている。テロの防止という名目で国民の内心の自由が失われようとしている。ちょうどそれは刑務所という国家機関によって監視され生命的な安全は保障されているが、表現の自由、行動の自由が制限された塀に囲まれた社会に似ていると思う。

表現の自由、行動の自由の制限は必然的に民主主義を破壊する。手段としての民主制を失ったとき、人が人であるための核たる内心の自由も失ってしまう。内心の自由を失った人間はもはや人格のないただの器にすぎない。

私がこのブログを立ち上げ、日本国憲法の順守、自然との共存にこだわっているのは、現在ある日本国憲法が世界を取り巻く経済至上主義の下で生じている格差社会、そしてそれによって引き起こされている国家主権の脅威、民族紛争をはじめとする各地でのテロを含めた戦争、難民問題、そして私たち人類の存在基盤たる地球環境の破壊、その前兆としての自然災害、それらすべての問題に対する答え、即ち、人類にとっての指針を示しているからに他ならない。

私が現在存在する日本国憲法が人類にとっての指針であるとするのは、日本国憲法が絶対的に相対的であるからである。絶対的に相対的であることによって、自らを否定するものに対してすらも、その存在を許容しているのである。

このことは劉暁波氏が、私たちには敵はいないと言ったそのものである。

現在の非民主的な他者との共存を否定している政権である安倍政権は日本国憲法の改正、特に憲法9条の改正をしようとしているが、そのことは、日本国憲法が絶対的に相対的であることを放棄するものであり、人類の指針としての規範としての存在の否定である。

私たち日本国民、特に制憲権力を有する主権者として決して許してはならないことだと思う。

同時に内心の自由の制限につながる共謀罪に関してはその執行は決して許されてはならない、蓋し、それを認めることは日本国憲法が絶対的に相対的であることを否定することに他ならないからである。

私自身、組織犯罪処罰法の改正議決無効、その執行停止については、現在、広島地方裁判所に訴訟提起しており、残念ながら即時の執行停止の仮処分請求に関しては広島地方裁判所で棄却決定され、現在、広島高等裁判所に即時抗告しているが、7月11日の施行日までに判断が出されず、施行されてしまい現在、広島高裁においてその決定は保留中であるが、一刻も早い司法府の適切な判断を望んでいる。地裁への訴状や、高裁への即時抗告申立書の中でも書いているが、現在の政治状況の中、我が国の現代立憲民主主義制度において、司法府が最後に残された唯一の砦なのだから

劉暁波氏もそうなのだが、私自身も何故、民主制の崩壊や、他者との共存の否定にこだわり、敏感に反応するのかと考えたとき、おそらく自然との共通感覚のせいではないかと思う。

先日も九州で甚大な被害をもたらした自然災害、これらは毎年のように世界中いたるところで1年を通じて発生しており、その規模や被害も大きくなっている。昨日世界中で報道された南極大陸での史上最大の三重県ほどの大きさを有する氷塊の大陸からのかい離は、世界中で生じている異常気象そのものであり、経済至上主義の下で、アメリカのパリ協定からの脱退含めた環境破壊、地球温暖化への流れは、自然との共通感覚を失った人類のエゴであり、遅かれ早かれその結果は人類含めた生物の存在の否定という答えを導き出すであろう。

一見、自然との共通感覚と現代立憲民主主義は全く交わることのない関係ない事柄のことのように思われるが、私にとっては私たち人類が生存する上での不可欠の両輪であり、これら二つは原理的に深くつながっている。
 
最後になるが、劉暁波氏を失い、共謀罪が施行された今、私が思うことは、世界中、日本中の人々の一人でも多くの人が自然との共通感覚を取り戻し、現代立憲民主主義の下で、人々が自由に自己実現、自己統治ができる社会に向けて思考を停止することなく思考し続けることこそが大切なことであると思う。

経済至上主義の下で、国家主権が強調される世界において、法の支配の重要性を考えたとき、司法府の果たす役割は限りなく大きなものであり、その持つ意味は今後さらに大きなものとなってゆくであろう。

劉暁波氏のご冥福を心よりお祈り申し上げる。そしてあなたの死を、私たちは決して無駄にはしません。

  平成29年7月14日   文責   世界のたま