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国民よ! 主権者たれ!(学級崩壊社会 日本)

今回の安倍政権、与党による強硬な解散権の行使、その後の与野党入り乱れての離合集散の中で、国民もそれらの報道の中で様々なことを考え、10月22日の総選挙を迎えてゆくのであるが、皆さんが、投票行動をとる前に、今現在、私が思う主権者としての国民が考えておかなければならないことを述べておこうと思う。

(最重要問題)
まず、大前提としてはっきりさせて置かなければならないことは、一連の混乱した状況を招いている原因は何かということである。このことは下記の④にも通じるのであるが、一番の原因は多くの政党が憲法改正をうたいながら、現実に存在している憲法を順守していないことにある。順守しない人たちによる憲法改正論議は本末転倒であり、法論理的にも矛盾している。
憲法という国家の基本法が順守されないことで、当然、国家全体は不安定になり揺らいでしまっているのが現状であることを、そうさせている私たち主権者たる国民自らも含めて自戒しなければならない。ルールを守らないクラスが学級崩壊しているのと同じことが国家レベルで起きているのです。
こんな時私たち国民はどうすればよいのでしょう?
私は思うのだけれど、確かに、北朝鮮問題、消費税問題、経済問題など課題は山積しているが、混乱の中で慌てるのではなく、まずは現在の日本国憲法を順守してゆく、そのことからスタートしてゆくしかないと思うのです。
自分たちは憲法を守らずして、それ抜きに、改正論議を盛んにしている人々は決して信用できず、何もすることはできないでしょう。結果的には彼らが更なる混乱を招くことは間違いのない事実です。
そして、主権者自身も今回の混乱を見てもそこに気付かないとすれば、日本という国家は根本から壊滅してしまうと私は確信している。

① 今回の安倍総理による衆議院の解散にその正当性はない
日本国憲法第7条による解散であったが、本来7条は内閣の助言と承認に基づく天皇の国事行為を定めた条文であり、本来、形式的な行為である。そこに実質的な解散権の根拠を求めることは常識的には有り得ない。
もし内閣による国権の最高機関たる国会の解散が可能であるならば、必ず、内閣、若しくは国会の権能の条文の中できちんと定めてあるが常識であり、現実的に憲法の条文にあるのは、第69条による国会による内閣の不信任に対抗する解散のみである。それ以外に日本国憲法上の解散に関する条文は存在しない。
国際的にも各国の解散権は制限され、任期を全うすることが基本となっている。
 今回の解散も、はっきりしているのは、稚拙な安倍総理がかかわる森友、加計学園に関する臨時国会での安倍さんの説明責任からの逃避の為だけに使われている。彼が言う北朝鮮、消費税問題などは今に始まった問題ではなく、まったく財政難の折、600億円以上支出が費用となる解散総選挙を行う根拠となりえず稚拙な言い訳に過ぎない。
 今回の件を含めて、国権の最高機関たる国会、主権者たる国民をバカにした解散権の乱用以外の何者ではないと私は思う。

② 解散した与野党すべての国会議員は全国民の代表者ではない
 国会議員は先にも述べたように国権の最高機関たる国会を構成する人たちであり、いったん選ばれた以上、日本国憲法上は全国民の代表者であるはずである。
 しかし、果たして彼らは全国民の代表者に値する人間たちであろうか?
 私たち主権者は自分たちが選ぶ国会議員が、一部の人たちの代表者ではなく、全国民の代表者としての人間なのかどうか、そこを今回の総選挙では最も重視すべきであると私は考える。
 今回の解散一つとってもどれほどの国会議員が、国家、国民にとって本当に何をなすべきことなのか真剣に考えたのであろうか。
与党議員に関していえば、野党議員が退場した中で、与党議員は、稚拙な森友、加計学園問題隠しの解散の片棒を担ぎ、任期いっぱいの国務を放棄して600億円以上かかる選挙費用を新たに国民に押し付けることも屁とも思わず、誰一人、反対することなく万歳をしている。
 野党は野党で突然の解散ではあったものも信念を持った政治家は皆無に近くそれまでの主権者たる国民と交わした公約などそっちのけで、ただ単に、わが身を守るため必死に選挙区を右往左往しているざまである。もはや地域の同情票だけが彼らの命綱であろう。そこには全国民の代表者としての面影は何一つない。
 彼らを見ていて思ったことは、人間は窮地に追い込まれたときその本性が出る。彼らに本当の国難は任せられないであろう。私たち主権者を盾にするか、見捨てるかして自分たちの身を守るであろう。決して彼らの命を懸けてまで私たち主権者を守りはしない。
 北朝鮮や、難民が、脅威だと彼らは盛んに言っているが、彼らを見ていて最も脅威なのは、どたんばで裏切るあなたたち国会議員であり、私たち国民にとっての最大の脅威だとしか私には思えない。

③ 現在の我が国において政党は、民主主義にとって弊害であっても、何の意味もない。
 政党とは国民の意見を集約し、国政に生かして実現してゆく媒体である。
 そうであるがゆえに、民主主義にとって不可欠であると信じて国民の税金の中から莫大な政党助成金を出して、その健全な育成を図ってきたのである。
 それがどうだろう、与党を見ればヤクザ社会以上に、党議拘束という掟に逆らえば破門の上に、刺客が送られる。誰もが、党首に右倣えで、ただの番号札に変えた方が議員定数削減より効率的である。
全国民の代表者ではなく自己の意思を持たない単なるサラリーマンロボット人間でしかない。
 今までも政党助成金を使って比例区で選ばれた国会議員が、国会議員を辞職することなく政党を抜けたり、選挙公約などどこ吹く風といったことはあったが、今回の解散劇での、政党の離合集散はもはや常軌を逸している。
自らが国会議員であり続けるためには、選挙民との公約や、比例選挙制度の意味というものを無視した哀れとしか言いようもない離合集散をする哀れな国会議員だらけである。
 政党員として選ばれたのであれば、政党を辞するとき、国会議員を辞するべきである。と私が言えば、必ず、そういう時だけは私たちはいったん選ばれた以上、全国民の代表者であるという屁理屈を言うに決まっている。そうであるならば、せめて使った政党助成金を返還すべきであろう。そんな常識すら今の彼らは持っていない。ため込んだ資金を自分たちのためにどう利用しようかと考えているだけで、そこには国家、国民への思いは存在していない。
 現在の我が国では、もはや政党は彼ら国会議員が国会議員であるための道具、手段に成り下がっている。本来の主権者たる国民と、国会、内閣をつなぐことによって国政に意見を反映させる媒体としての存在ではなくなっている。
 特定秘密保護法、安保関連法、テロ等準備罪などこれらすべて政党を構成する多数をもってなされた強行採決であり、それぞれ国民の知る権利、平和的生存権、内心、身体の自由を侵害する法律である。
いずれは歴史が証明するであろうが、おそらく将来主権者たる国民が後悔することになることが間違いはないと私は残念で仕方ないが確信している。
それぞれに今までの付き合いや、いろんなつながりがあるかもしれないが、私たちは今回の総選挙ではそれらの所属する組織から一歩離れたところで候補者個人を考えて投票行動をすべきである。
その上で最も基準となる大切なことは、その人の言動が信じられるかどうかだと思う。それは候補者の問題ではなく、主権者たる国民、一人一人が、一人の個人として自分自身の頭で考えることだと、私は思う。
 
④ 今回の総選挙で私たち主権者が本当の意味で問わなければならないこと
 最重要問題の中でも述べたことであるが、現在の日本国の混乱を招いている最大の原因は、我が国が憲法改正論議にばかり目がいって、現実にある日本国憲法をないがしろにして順守していないことにある。
 特に、憲法とは国家の基本法であり、それが改正されるその時まで、全ての国家機関はそれを順守しなければならない。
私自身、改正そのものに反対ではない。改正規定があるのだから、しかし、物事には順序があり、現在の憲法を順守することが先決である。現在の憲法を順守できないものたちが改正したところで、新たな憲法を順守できるわけがない。法論理的にはありえない話である。
そして現在の憲法を国家機関が順守しなくなった原因は、憲法を守る憲法保障制度が機能不全に陥っているからに他ならない。今回の解散権行使もいい例であるが、行政国家化現象、政党国家化現象の中で、小選挙区制度も相まって、内閣が優位になり、国会の開催要求にも応じず、自らの都合の悪い時は解散権の行使という究極の権力の行使を行っている。三権分立が機能せず、憲法尊重擁護義務も無視しているのだ。
その結果として今回の総選挙もそうなのだけど、民主主義を多数主義と勘違いして与野党とも多数を取ることを目的としている。確かに最終的には多数で物事は決めるのだけれど、民主主義とは説明責任を果たしたうえでの、その決定過程にある。多数意見が民主主義ではない。
多数主義の中で、世界中で、少数者の生命をはじめとする人権が失われていることは誰しもが知っている現実だ。
最終的には司法による違憲判断しか残っていないのであるが、現時点ではそれがどこまで機能するのか私にもわからない。
今回の総選挙で私たち主権者に問われていることは、国家が憲法を順守し、きちんとした説明責任を国家機関が果たす現代立憲民主主義を日本が守ってゆくのかが問われているのだと私は思う。
   そして最後に一つだけ言えることは主権者たる国民にその最終的な責任があるということだ。
 
⑤ 初めて衆議院議員選挙に臨む18歳、19歳の君へ
   今回の選挙に臨む多くの国会議員は、日本国憲法に違反した前回の違憲衆議院議員選挙によって選ばれた正当でない国会議員です。
   そんな彼らだから、君たちが小学校で、中学校で、高校で学んだ日本国憲法によって保障された三つの原理、基本的人権の保障、民主主義、平和、それらをことごとく違憲な法律を立法することで、壊してきました。
  国民の様々な情報を知る権利を奪った特定秘密保護法、平和的生存権を侵害する安保関連法、そして私たちの不当に逮捕されない権利、最も大切な内心の自由すらもテロ準備法によって侵害されてしまった事実、それらすべて違憲な選挙によって選ばれた国会議員による強行採決によって可決されました。
   歴史を振り返った時、いつも不思議に思うのは、何故その時代に生きた人々はいつの時代も渦中にいた時、人々はその忍び寄る最悪の結末を予期できなかったのかということである。
   人間とは所詮忘れやすい生物だと思う。
   そんな時、どうするのが良いのであろう。
   まずは、過去の過ちを経験した人々の意見をよく聞いて参考にすることである。
   しかし、戦後70年を迎え、多くの経験者は一線から退き、彼らから学ぶことができなくなっている。
   それでは、どうすればいいのであろう。

日本国憲法の中にはフランスの人権宣言、アメリカの独立宣言、世界の人類の歴史が、英知が盛り込まれているのです。
私は、国家がその行く先を迷ったとき、その羅針盤となり、北極星となるのは日本国憲法以外ないと思う。
私が君たちに望むことは、正規の手続きで、君たちが改正することは構わない。
しかし、その憲法が現代立憲民主主義に基づいた憲法である限り、まず第一に現時点で存在する憲法を守らなければならない。
そうしない限り、必ず、国家は滅び、存在しえないのだから。

  平成29年9月30日  文責  世界のたま   

おバカな日本政府、国会議員、日本国民への Jアラート発動

一昨日、自民党与党から(おそらく政府が主導していると思われるが)「年内、臨時国会冒頭での衆議院解散」という発言がなされました。制憲権力を有する主権者として、私は、おバカな日本政府、国会議員や、日本国民に対してJアラートを発動します。

私たちは決して歴史を、時間を無駄にしてはいけないと思う。

 今、私たちが向かおうとしている社会は、近代、そして現代立憲民主主義を獲得するために、私たちの先人たちが尊い命や人生をかけて築き上げた歴史を根底から覆す自由、平等、平和のない殺伐とした社会に他ならない。
 政府並びに与党は、北朝鮮からのミサイル攻撃に対しJアラートを発し、国民にその危機を煽っているが、たとえ、万が一ミサイルが飛んできたとしても、私たち日本国民、主権者が本当に守らなければならないものは、我が国が現代立憲民主主義国家であるという事実だと思う。その事実を失ったとき、もはや国土が残ったところで何の意味もないのだから 
 おそらく国土がなくなってないからそんなことが言えるのだとおっしゃる方々も多いとは思う。
 しかし、私は思うのです。現代立憲民主主義を失ってしまった国家は一時的には国土が残ったところで遅かれ早かれすべてを失ってしまう。
 それは私たちの先人が歴史の中で私たちにその命を懸けて教えてくれたことなのだから
 環境破壊含め、私たちにはそんなに時間が残っていない。
  私たち人類にはそんな無駄な時間を費やす時間はないと思う。

今回、私がおバカな日本政府、国会議員、日本国民に対してJアラートを発動した理由及びその内容を述べておきます。

Jアラート発動理由
1.日本国憲法に反した違憲内閣総理大臣による違憲国家行為
  現代立憲民主主義に基づく日本国憲法においては主権者たる国民の基本的人権を保障するためにその統治機構として三権分立という憲法保障制度が設けられているが、その中でも最終的な憲法保障制度が司法による違憲審査制度である。それによって違憲とされているのが現在の衆参両院の国会議員である。
 衆議院議員においては過去3回、参議院議員においては過去2回続けての違憲とされており、現在の両議院を構成する国会議員も日本国憲法前文第一文で書かれてある日本国民の正当な代表者ではない。
 そんな違憲な代表者の選出した内閣総理大臣も違憲な正当でない内閣総理大臣に他ならない。正当でない総理大臣による違憲な解散権の行使、違憲な選挙制度の下での4回目の違憲選挙、これ以上、彼らは日本国憲法に反した国家行為を行い、罪を重ねるべきではなく、裁きに服さなければならない。
 そして私たち主権者も決してそれを許してはならない。

2.民主主義における説明責任の放棄(民主主義の否定)
  我が国は上記に述べたように現代立憲民主主義国家である。民主主義とは何かと問われたならば、それは説明責任であると私は思う。
  経済至上主義の中で生かされる私たちは、学校、企業教育の中で、トップダウンが最も効率的で有益な方法であると思いがちである。現実的に資本主義社会の中で、金がものをいうというのは歴史的な事実で誰しもが経験するところである。
 基本的には資本主義社会の下では資産を持つものが正であるとされる。資産のないものは如何に理不尽なことであり、道理が通らないことであっても耐え忍ぶしかないのである。そこには説明責任はいらないというより存在しえない。 
  しかし、私は政治の世界にあっては、特に民主主義国家においては、それは間違っていると思うのです。
 蓋し、民主主義とは少数者が多数者になる可能性、弱者が強者になる可能性、言い換えれば少数者、弱者のための政治が民主主義に他ならないからだ。
 私はそのために民主主義国家にとって最も大切なものは、失ってはならないものが説明責任であると思う。説明責任を果たすことで少数者が多数になる可能性が生まれる。説明責任がないところでは多数者が絶対なのです。
  この間の政権与党がそうであった様に、その結果が日本国憲法21条で国民の知る権利を侵害する特定秘密保護法の強行採決、日本国憲法前文、9条で保障されている平和的生存権の侵害する安保関連法の強行採決、日本国憲法19条で保障されている思想、良心の自由を侵害する共謀罪の強行採決
 それらすべての法律内容、その手続きにおいて言えることは、少数者の基本的人権を抑圧するための多数者による説明責任を放棄した民主主義の否定に他ならない。

3.違憲で正当でない内閣総理大臣による国会(主権者たる国民)の私物化
  今回召集される臨時国会はそもそも何のために召集されたのかと言えば、日本国憲法53条に基づく野党から再三の要求に基づく森友学園、加計学園問題についての説明のためであった。
 そのことについては違憲で正当でない内閣総理大臣自身もあれだけ国民への説明のために開いた都議会選後の記者会見の中でも丁寧な説明をこれから果たしてゆきたいと反省の弁を述べていたのだが。まあ、都議会選の歴史的敗北の中で、内心は舌を出しながら思ってもいないことをしゃべっていたことは多くの国民がわかっていたことではあった。
  今回のように臨時国会冒頭での国会解散権を行使するとすれば、違憲な正当でない内閣総理大臣とはいえ、このような無知な内閣総理を間接的であれ結果的に選んでしまっている日本国民として今更ながら本当に恥ずべきことだと思う。
説明責任を放棄した非民主的で違憲で正当でない内閣総理大臣であるがゆえに、日本国憲法53条による再三の臨時国会召集の要請を拒否するという違憲行為に加えて、臨時国会召集の目的を差し替え、それを利用して多数を確保するためだけに国会の解散権を行使するという違憲行為以外の何者でもない。
 麻生副総理が好んで例えるナチスの統治のやり方に非常に酷似している。
我が国の最高裁判所が司法消極主義をとっていることを逆手に取った、まさに違憲行為のオンパレード状態に他ならない。
国権の最高機関であるはずの国会も見るも無残な状態になり果ててしまった感があるが、そんな国会ではあるがゆえに違憲な正当でない内閣総理大臣によって完全に私物化されている。
 このことは取りも直さず私たち主権者たる国民が無知な彼によって私物化されていることに他ならないことに私たちは気付かなければならない。もはや我が国には立憲主義的な意味での憲法は存在していないと思う。

4.法の支配の否定(現代立憲民主主義の否定)
  我が国は取りも直さず現代立憲民主主義国家である。現代立憲民主主義国家とは、法の支配が基本原理である。
法の支配とは、前国家的権利、いわゆる思想、良心などの精神的自由権などの国家を前提としない権利に関しては無条件に保障される国家である。それはそうである、そもそもそれらの権利は人が生まれながらに人であるというだけで持つ国家などを前提としない権利なのだから。
 現在私自身が広島高裁に控訴、抗告、そして最高裁に特別抗告しているところであるが先に違憲国会で成立した共謀罪はそれらの精神的自由権を侵害するものであり、裏返すと我が国はもはや法の支配が機能しない国家であることを意味する。
 どんな悪法も法であるとする近代立憲民主主義国家への後退である。
 国家が守るべき憲法を守らず、一方で国民の精神的自由権を侵害する法律を立法し施行する。
 そこにあるのは国民のための国家ではなく国家(一部の権力者)のための国家でしかない。
 そこでは、国民は自己実現するための存在ではなく、ただ単に国家すなわち一部の権力者たちの奉仕者、奴隷に過ぎない。

5.違憲な選挙制度という民主制の過程の是正は民主制の過程の中では原理的に困難である。(現在我が国の司法がとっている司法消極主義の弊害)
  民主制、すなわち議会制民主主義は私たち主権者の様々な基本的人権を守るための手段であると同時に目的でもある。
 上でも述べたように正当な選挙で選ばれた議員による説明責任を果たす議会の中で本来は私たち国民の権利、義務に関する立法は行われなければならない。蓋し、しっかり説明、議論される中でしか少数者の人権を守ることはできないからである。裏返せば、政権与党に有利な多数を得られる選挙制度はたとえ違憲であろうと彼ら自らが変えることは決してしない。
 そんな違憲状態の中で多くの国民の人権が無知で多数という錦の旗を掲げた国会議員によって蝕まれてゆく。
現在の政権与党が有利な選挙制度を、それが主権者たる国民にとって人権を守る不可欠な民主制の過程であったとしても、それらの本当の意味を理解していない与野党含めた無知な国会議員が多数を占める現在の国会が自らその違憲状態を変えることは原理的にあり得ない。
 彼らにとって興味があるのは自分が国会議員であり続けることだけなのだから
それを変えることができるのは最終的には三権分立という憲法保障制度の下で違憲判断を行うことができる司法だけであるが、現在の我が国の最高裁判所はそれらの国家機関の行為に関してはたとえ違憲であっても、高度な政治的判断を有する事案だとして判断を避ける司法消極主義をとっている。
  
 Jアラートの内容
1.まず第一に、おバカな私たち主権者たる国民は、おバカから脱して思考停止を解除し、合理的無知(自分の一票で何も変わりはしない)という選択をしてはならない。

2.私たち主権者は日本国憲法99条による憲法尊重擁護義務者には入っていないが、彼ら尊重擁護義務者に尊重擁護を要求すると同時に、現在ある日本国憲法が改正されるその日まで、現在ある日本国憲法を守らなければならない。
 蓋し、そのことが私たち少数者を含めた主権者の基本的人権を守ることになるのだから
 日本国憲法前文「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」12条「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」で示されているように私たち日本国民の責務であり、日本国憲法97条「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」に書かれてあるように将来の国民に対する私たち主権者の責務でもある。

3.法の支配の回復(司法積極主義)
 現在、控訴人として、抗告人として、特別抗告人として広島高裁、最高裁に訴えているところでもあるが、
 主権者たる国民の基本的人権が脅かされ、特に人が生きてゆくうえでの最も大切で、自己実現、自己統治にとって不可欠な思想、良心の自由、表現の自由、身体的自由権を侵害する刑罰権からの自由それらが失われようとしているとき、かつ、それらを守るべき三権分立という憲法保障機能が機能不全を起こしているとき、
 民主制の過程たる選挙制度が違憲状態で放置されているとき、そして主権者たる国民自身も思考停止し、合理的無知を選択するとき、
 法の支配を回復できるのは機能不全に陥った民主制の過程から最もかけ離れた非民主的国家機関たる憲法保障機関としての司法以外にはその是正を図ることは困難であろう。

 最後になるが、北朝鮮における核武装についてであるが、そもそも北朝鮮が核武装するに至ったのは何故なのか、
 それはアメリカをはじめとする先進国と言われる国々が核抑止論を保持しているからに他ならない。
 北朝鮮を擁護するつもりはないが、北朝鮮がこの間のやり取りの中でフランスに対して、文句を言うのならまず、フランスが核を放棄しろと述べていたが、私はある意味で正論であると思う。
 北朝鮮も何といっても一応、国家であり、世界の安全保障の専門家たちがその保障の対象を国家としている以上、その理屈は一応通っている。
  私自身が考える安全保障については以前のブログの中でも述べたことがあるが、現代の安全保障の対象は国家ではなく、個人である。
  その上で何が大切なのだろうと考えた時、核ミサイルという核ではなく、自然との共存を図る、他者との共存を図るという揺るがない核心としての核に他ならないと思う。

      平成29年9月18日   文責   世界のたま

私には、失うものは何もない

過去のブログの中で、私は製薬メーカー主催の説明会、勉強会にほとんど出席することはないと書いたことがあり、その中で、久しぶりに勉強会に出席してさわやかな気持ちになったことをお話したことがあったが、先日、医院を訪ねてきたあるメーカーのMRがEPAに関する勉強会を開催することを話した。

元来不勉強で、学習意欲が低い私であるが、何故か、以前出席した勉強会もそうであったが何とも言えない興味がわいた。何がというわけではなかったのだが、その詳細も何もわかっていた訳ではなかったのだが、久しぶりに出かけて行く気になり出席させていただいた。

内容的にはメーカー主催の勉強会であり一歩引いて客観的に考えないといけない上での感想であるが少しお話してみようと思う。

まず、冒頭から面白かったのが、講演されたのは某大学の内科教授であったが、第一声で、自分には失うものは何もないという一言であった。その上で、誰にも遠慮せず、普段診療されている心構えである目の前の患者さんにとってベストの治療法を選択して行うということを臨床医に伝えたい、他の臨床医にもそうであってほしい、そういった思いの中で常日頃講演されていること、今回の来広は座長である公立病院の先生から何度も依頼され4回目であることをお話しされた。

今思えば、私自身がこの先生の冒頭での突っ込みにひきつけられたのは、私自身と共通の匂いを感じたせいであろう。

私自身、三年前にこのブログを立ち上げると同時に、何度も違憲訴訟を起こし、何度棄却されようとも、そして今現在も訴訟し続け、昨年度は参議院選全県区に立候補したのも私自身何も失うものはないと思っているからである。

私自身がそうであるからよくわかるのであるが、人が何も失うものはないと思ったとき、そこにあるのは無であり、個である。無であるということは無限大であることでもあり、個であるということは、過去のブログで何度も言っていることであるが全体でもある。

言い換えれば、自分自身を無の境地に追い込むということで人は無限大なものを感じ取ることができ、私の経験からするとそれはブラックホールに似ていてありとあらゆるものを吸い込む力によってあらゆる事象を、対象が何であったとしても、感じ取ることができるのだと思う。そして自らを個というものに追い込むことは、その個の中に全体が存在していることが認識可能となり、真の意味で全体を見渡せることができる。この感覚は自らをそういった状況に追い込んだときはじめて体感できるものであろう。

話を講演に戻すが、EPAというものが、医療用医薬品としても、健康食品的なものとしても、現在テレビでも盛んに取り上げられており、数多くの方がそれを含む薬剤、健康食品材として経口摂取している。

そのEPAについての講演であったが、細かなことは省いて結論を言えば、EPAを含んだ動脈硬化予防物質として盛んに推奨している薬剤、健康食品の多くがそれらに含まれる濃縮された成分量としては効果発現にとって不十分であり、一方でダイオキシンを含む不純物の取り除きが一部の医療用薬品に比べて不十分であり、その効能効果においてもいい加減な宣伝をしているという事実であった。またDHAについても認知症予防としての根拠があいまいなまま、よっぽどあるかのように意図的に宣伝されている事実であった。

講演会の演者、座長共に第一線の臨床医であり、直接的な発言はなかったが、こういった講演会自体を行う意味から言っても、健康食品レベルでの誇大広告は一歩譲って多少大目に見るにしても、私たち臨床医に対してそういった効果不十分なものを意図的なMR情報操作によって売りつけることは、詐欺的行為である。以前のブログでも同様に、企業、MRの社会的責任の欠如、そのあきれた無知さ加減について述べたことがあったが、同じ企業が同様な手口で、相も変わらず同じようなことを繰り返していることにはあきれ返って開いた口が塞がらない。

確かに何度も同じ手口で騙される私たち臨床医にも問題がありはするが、その臨床情報操作のずる賢さはある意味で磨きがかかっているのも事実である。

私は以前取り上げたケースでも思ったのだが、こういった悪意のある、患者の生命、治療に対する悪質な行為に加担するMRは確かに、多くが無知であり、多少高額な給与をエサに、ある者は故意で、ある者は無知に起因する愚かなMR活動をし続けているのであるが、確かに、哀れな無知な人間として哀れみ、同情はするが、それらの薬剤を服用させられる、しかも慢性疾患の場合、長期にわたって服用させられるのであり、それらの患者様にとっては、とんでもない悪質な人間にすぎない。

自民党副総理である麻生さんがよく引き合いに出したがるアドルフ・ヒットラーの流れでいえばまさに国会焼き討ち事件を引き起こし、多くのユダヤ人をガス室に送り込んだ先兵たる親衛隊員に例えることが可能であろう。

彼らは自分自身が客観視できないがゆえに、起こしてしまった行為すら企業や、企業のトップ、それらを認可した天下り元などのせいに責任転嫁することによって、自らの心の目を閉ざし、自らの行為については仕方なかったものとして自らに言い聞かせて、被害にあっている患者さん、だました臨床医、薬剤師、診療報酬の支払元、最終的にはその原資たる税金の支払元である国民に対する謝罪の気持ちを心の中から追い払ってしまっている。

彼らには贈与の心、他者との共存の心が欠けている。

誰のために、何のために生きるのか、表面的には他者の為に生きていると思っているのであろうが、所詮は自分たち社員、家族の為だけに、生きているに過ぎない、個の中で、じっくりとことん自分自身を見つめた経験がないため、いつも自分を趣味や酒でごまかし、同じ仲間でたむろして、お互いの傷をなめ合って生きているだけだ。

最終的に企業や組織と自分を切り離して自分自身と相対したことがないのだと思う。確かにそうすること、そういった仲間、組織から離れて個になって、自分自身を見つめなおすことは恐ろしいことだと思う。しかし、それをしない限り、ナチスの親衛隊と同じで、最終的には、仲間や、家族をも裏切ってしまうことも理屈をつけていとも簡単におこなってしまうものだと思う。彼らは否定するであろうが、平時に他者のことを考えられない人間が、他者の命と引き換えに犠牲になることなど決してありはしない。悲しいかなとことん個を見つめていない人間にはそのことすらも理解することは困難であろう。

言いすぎているかもしれないし、戦後の経済至上主義の中で、経済成長、企業利益の追求が善とする学校、企業教育のにおいては若き彼らはある意味で被害者かもしれない。しかしそれらの限界が現実的になり、環境破壊含めた我々の生存が脅かされている時代の中で、自戒も含めて敢えて言わせていただいていることはわかってもらいたいと思う。

いつも面会しにくるいろんな製薬会社のMRにいうことがある。それは企業を信用してはいけない。いつも企業と一歩離れた視点を持つ必要性だ。最近彼らは自分たちMRがこの先リストラされることをよく話してくる。私はそんな時、彼らに言うのだけれど、真の意味での本来の企業を超えた患者と医師とメーカーとの橋渡しになるのであれば、逆にもっと必要になるはずだと。

しかし、上記にあげた自分たちの利益しか考えないMRである限りもう数年もすれば急速なリストラが製薬業界を襲うであろう。このことは医療、介護の現場を見ていなければわからないが確実に加速度的に起こってくることは間違いのない事実である。おそらく毎日会っているMR自身が考えるよりも早い段階で起こるはずである。正規のMRが急速に減る中で派遣MR、ネットMR、卸MRなどにとってかわるであろう。

現実的に薬剤師資格を持ったMRが増えている側面もあるが、このことは、MR自身からみて、企業から見ても将来来るべきリストラの嵐に対する布石のように感じてならない。

そうであるが故、若いMRには本来持っていた瞳の輝きを取り戻してくれることを望んでならない。
あのキラキラ輝いた瞳を

最後になるが、私自身、3年前から様々な形で将来の世代にどんな社会を渡すべきかという日本国憲法前文や97条における国民としての責務について考え、行動しているところであるが、テロ等準備罪に名を借りた共謀罪につき、6/16に広島地裁に違憲訴訟を提起すると同時に、6/19に広島地裁に執行停止の仮処分請求を求め、6/22の仮処分請求の棄却決定を受けて、6/23に広島高裁に即時抗告させていただいた。しばらく決定がなされなかったが、その間の7/1に安保関連法に関する違憲訴訟において、控訴審である広島高裁からの棄却判決が特別送達された。違憲判断の前に個人的な具体的な権利侵害がないとのいつもの棄却理由であった。特定秘密保護法の違憲訴訟の際に、最高裁に上告したが棄却されたこともあり、安保関連法に関しては、残念ながら上告を断念した。

そうしているうちに8/23に広島高裁からテロ等準備罪ついての執行停止仮処分請求に対する即時抗告の棄却決定が送達された。

そんな時、その日の夜に今回ブログで取り上げた講演が行われた。確かに何の法曹資格もない私ごとき、たった一人で何ができるかとやや落ち込んでいたので、この講演の演者の私には何も失うものはないという言葉に出会えたのも何かの縁なのかもしれないと思った。
私は、H29/8/28最高裁へ特別抗告した。

   平成29年8月30日   文責    世界のたま

理性という幻を追いかけて

日本国内においては、内閣支持率の低迷の中で、内閣の改造が行われ、野党である民主党においては党首が辞職し、党首選が予定される一方で、近く行われるであろう総選挙を前にして、一部の国会議員による離党、新政党の設立、合流が行われようとしている。

一方、東京都においては、都知事選に圧勝した都民ファーストを中心として、都知事の下で都議会が始まった。

世界に目を向けてみれば、アメリカにおいて、相変わらずトランプ大統領、国民、議会の間での様々な駆け引きが行われている。ヨーロッパにおいてもイギリスのEU離脱、トルコ、ウクライナなど国家間、国家内で様々な問題が生じている。

中東においてもシリア、イスラエル、カタール、イエメンなどの国々を中心として様々な問題を抱えており、数多くの新たな難民が生じている。

アジアにおいてもアフガニスタン、中国、インド、フィリピン、ミャンマー、北朝鮮などの国内、国家間において同様に様々な問題を生じており、そこでも多くの難民が国内外で生じている。

アフリカに目を向ければ、リビア、南スーダンなどにおいて同様に数多くの難民が生じて近隣諸国へ流入して大きな社会問題となっている。

他方、自然に目を向けてみれば、地球温暖化、それに伴う海面上昇によって太平洋に浮かぶ多くの小島に住む人々は水没の危機に見舞われている。また、今月、日本を襲った海水温度上昇が原因とされる巨大台風の出現、世界で多発する地震、それらに伴い、世界各地で多くの人々が尊い命を失い、重大な生活の危機に直面している。

グローバル化した世界中の情報が瞬時に世界を駆け巡る現代に生きる私たちは、これらの様々な問題に直面し、果たして何をすべきで、そして何ができるのであろう。

ある者はこれらの問題に気付くことなく、己の生活や地位、名誉、金銭のために日々の生活を送っているのであろう。又ある者は、経済的貧困、政治的迫害の中で、国家も追われて難民化し、その日を生きるために、たとえ子供であったとしても、臓器を売り、性を売るしかない者もいるであろう。そのような状況においては、先にあげた問題など考える余裕などありはしないであろう。

一方で、先にあげた多くの問題に気付いている人々もいるはずであり、それらの問題に立ち向かっている人も少なからず存在しているはずであるが、それらの問題に関して、自分たち自身に災いが降りかかってこない限り、自分たちに関係ないものとして、若しくは自分一人が考えたところでどうしようもないことだと傍観する人たちが圧倒的多数ではないかと思う。

そんな中で、私自身のこれらの問題についての考えを述べておこう。

国内における現在の混とんとした政治状況についてであるが、今回の内閣改造や、都知事選での新たな政治組織である都民ファーストの国レベルにおける組織つくり、ましてや野党民主党の党首交代を含めた組織改革、そして近々行われるであろう総選挙などで何かが変わると思っている人がいるとすれば誠におめでたい人である。私には何一つ変わることはない、変わるどころかすべての面で悪化すると断言できる。

何故ならば、先にあげた日本や世界における諸問題の根源は政党や、政治制度や、ましてや党首や、国家の最高指導者の素質の問題ではなく、一見そこに問題があるかのように考えられてる宗教や民族や国家すらの問題でもないからだ。

私が根源的な問題であり、一人一人の人間がその価値観を変えない限りそれらの解決はあり得ないとするのは近代以降の人の心、即ち理性を身体と分離し、身体を含む自然世界を、生命のない物質の世界と考え、結果として、それまで人が有していた自然との共通感覚を失ってしまったこと。即ち、理性の数学的、科学的思考への服従である。

その時から、人は理性を本来の自然と相対するものとして考え、現在も自然を数理科学的に捉え続けようとしている。そしてそれを善とし、逆に数理科学的に解明できないものは間違いである、時代遅れであると非難してきたし、今もそうである。今回の日本全土を駆け抜けた台風もそうであるが、連日のニュースの中で何故、台風が巨大化して、進行が遅いのかを気圧、海水温含めて盛んに科学的に説明されていた。聞く方もなるほどとわかった風である。しかし、それらの科学的知識に基づいて、(所詮、浅はかな知恵にすぎないが)人間が一生懸命考えたところで、ただ茫然と嵐が過ぎるのを待つだけである。その一方で、専門家と称する人たちによって、莫大な予算の中で、地下水貯蔵システム、河川の改修、更なる予想システムなどが行われる。それら莫大な経済活動による更なる温暖化、海水温の上昇、海面上昇などは何一つ考えないままに。

このことは現在、日本国内で、世界中で起きているありとあらゆることにおいて同様なことが言える。

たとえば、東北震災での福島原発事故一つとっても同じことが言える。安心、安全とされた夢のエネルギーとされた原子力、福島原発も日本の専門家の英知によって設計されていたはずではなかったのか。

それが実際、事故が起きてしまい刻一刻とメルトダウンが危惧される中、電源がないとして近くの店屋に発電機を買いに行き、漏れ出した汚染水の漏れを防ぐために新聞紙とおがくずで穴を防いだりと、全く滑稽ですらある。最終的に高濃度の放射線に阻まれて近づくこともできなくなってしまう。これが科学の粋の結晶なのか。事故処理においても何かしなければとアリバイ的ともいえる最初から不可能とわかっていながら凍土壁の設置など、現在も地下水、海水への放射線物質は垂れ流し続いており、汚染物質の保管場所すら確保できない有様である。プルトニウムの半減期が24.000年と言われる中で、これが科学の粋を集めた結果なのか。

そもそも原子力発電そのものも、アメリカの原子爆弾開発を促進、正当化させるためのの口実、正当化理由として、原子力の平和利用という名目で、原子爆弾製造過程でできる放射線物質を利用しただけのことである。プルトニウム一つ考えたところでその半減期は24.000年である。自然界に存在しない放射性元素であるのは、それはその半減期を考えれば当然のことである。

私は、自然界に存在しない物質に関しては、自然界に存在しないそれなりの理由があると思っている。自然界に存在しない物質は、ある意味で自然とは共存し得ない物質であり、ある意味で自然淘汰された物質であると思う。逆に言えば、それらの物質が存在することは自然界自体の存在の否定につながってしまうのだと思う。

 経済学において外部費用というものがある。これは経済活動の中で契約当事者以外の不特定多数の第三者に対して発生する費用のことである。

 先にあげた原子力発電を例にとって考えて見ると、その肯定の意見の中に、温暖化対策に効果的、炭素燃料に比べて安いと言われるものがある。しかし、東北震災での原発事故を考えたとき、果たして安いのかと言われればそれは大きな間違いである。原子力発電においてはその外部費用が計算に入れていないのである。放射線廃棄物質の最終処理費用はもとより、ひとたび事故が起こった時の住民の健康被害、生活保障、事故処理費用、今回の事故だけでも本来であれば東京電力自体、破産処理しか選択肢はなかったはずである。私は税金を投入してまでそのままの形での企業の存続は絶対になされるべきではなく、間違いであると思う。特に、2.4000年という桁違いの半減期を持つ放射線物質においては、何世代の国民にわたる影響を考えなければならないのだから。

 現代の経済至上主義の中で経済活動はもとより、あらゆる諸問題において外部費用というものが隠され、ごまかされている。

 そもそも現在の我が国の毎年の国家予算もそうである。基礎収支のマイナスからの脱却を、経済最優先の一言で先送りし続け、消費税の導入も先送りし、GDPの6割を超える国債を中央銀行が保持し、今後も増やしてゆこうとしている。金融政策頼みで、与党の選挙に有利なように、大企業に対する法人税は下げ、企業の内部留保は300兆円を超え、国民に対しては消費税の先送りをして顔色を窺う。

 国民の将来の生活資金たる厚生年金から一時的な株価上昇のために莫大な投資を行い、先日も5兆円のプラスが出たとの発表をしていたが、日銀、厚生年金基金などの買い支えで生じているだけで、言わば、国民自身が買い支えて見かけ上、プラスが生じているだけであり、現金としての基金財源はおそらく減っていると思う。株式など、その評価額はあってないようなものである。

 日銀が異次元の量的金融緩和をしたところで、大企業が内部留保を増やしているだけで給与は上昇せず、国民の将来の年金も政府が必死に見かけ上の基金財源をかさ上げしているだけの中で、その保障などあるはずもない。年金の受給年齢も今後ますます遅くなり、その受給額も減額され、一方では掛け金は今回のパート職員への拡大を見てもわかるように、拡大され、その額も増額されるであろう。国家による詐欺以外の何者でもない。そんな中でGDPの半分を占める国内消費など増えるはずもなく、GDPが増えないことは当たり前のことである。

 私から言わせると、現在のあらゆる国家政策は、経済学で言う外部費用を全く計算に入れておらず、その費用、付けはすべて将来の国民が背負うことになる。現在の与野党含めた政治家は、自らの保身に走り、将来の国民、国家がどうあるべきかなど考える能力など持ち合わせてはいない。

 おそらく現在の国内のくだらない離合集散を繰り返している政治家たちには、将来の国民にとって何一つためになることは残せないであろうし、単なる時間の無駄であり、何も期待できることはない。

 私が最も皆さんに伝えたいことは、それでは政治家が悪いだけなのかと言えば、そうではないということです。

 私たち自身、学校教育、企業、社会教育の中で、数理科学的に証明される事象を正しいと考え、そうでないものは非科学的で、意味のないもの、価値がないものであるかのように教え込まれてきたし、現実的に、日々の生活の中で私たちは、無意識のうちに、全てのことに対してと言っていいくらいに、そうした思考経路の中で、物事を考えて、答えを出している。しかし、今、私たちは、こうした現実を前にして、私自身含めて、そういった数理科学中心の思考方法を見直さなければならないと思う。

 私たちは、数理科学的な世界の中に自らを閉じ込めてしまっているということに気が付かなければならない。私たちが数理科学的な計算する視点でしか物事を考えることができなくなっていることに気が付かなければならない。そうした中で、私たち一人一人が本来自然との対話の中で持っていた無限の想像力を失ってしまっているということに気が付かなければならない。そうした結果として、過去を振り返れば、水俣病問題や、福島原発問題、リーマンショック、現在の行詰まった政治、経済状況、そして北朝鮮の核ミサイル問題含めた世界の政治、経済状況すべてにつながっているということを認識しなければならない。

 数理科学的な思考を手段として用いることはあってもそれらを万能であると錯覚してはならない。私たちが、理性というものを数理科学的な思考によって答えを出す能力であるという錯覚から抜け出せた時、私たちが本来、自然の一部として有していた自然との共通感覚がよみがえってくるのだと思う。

 そのためには、私たちは、まず、私たちが自然の一部であることを再認識しなければならない。自然との共通感覚を取り戻した時、原子力に対する考え方、温暖化に対する考え方、今の日本の政治、経済に対する考えかた、少数民族に対する考え方、経済格差に対する考え方、難民に対する考え方、それらの多くの問題に対する答えが自ずと導き出されると思う。

 たとえば、世界遺産として美しい自然を有する各地の自治体が名乗りを上げるが、それは観光収入、言わば経済的計算の中で導き出されたものが多いと思う。

 私は思うのだが、それらはその時点で、もはやつくられた自然であって、本来の自然ではありえないと思う。本来の自然とは私たち一人一人の周りに存在すべきものであって、決して観光という経済的計算の中での存在ではない。

 現在、盛んにあらゆる分野で遺伝子操作が行われているが、このことも冒頭に述べたように、人の身体を心と分離させ、生命のない物質として捉える中で、その研究が行われているとしか思えない。そうした中での結果はおそらく、人間そのものに対して、自然が牙をむき、多くの自然災害や、放射線被ばくと同様に、悲惨な結末を見ることになるであろう。

 私は、私たち自身はもとより、これからの将来の人たちのことを考えたとき、真の理性的生き方とは自然の中での人の存在を認識し、人とは自然から与えられた存在であることを認識できる生き方であると思う。

 そうした中で人は外部費用を予測し、他者との共存が図れる、正しい選択ができると信じているし、それ以外に、現在、我が国で起きている様々な問題、そして北朝鮮問題を含む数多くの国際問題を解決できる術は無い。

 そうした観点から現在の我が国の政権与党、野党を考えたとき、何一つ解決できることはないであろう。そして私たち国民自身が変わらない限り、何一つ変わらないまま時間だけが過ぎ、おそらく人は自然の中にのみ込まれてしまうであろう。

 それが自然なのだから

   平成29年8月10日  文責  玉田 憲勲

劉暁波氏の死と共謀罪施行(他者との共存の否定)

H29年7月11日共謀罪が施行され、その二日後の7月13日劉暁波氏の死亡が伝えられた。

この二つの出来事は今の世界を取り巻く状況を如実に表している。

劉暁波氏の生前語っていたモットーである私たちには敵はいないという言葉。彼はこの言葉の中にどんな意味を込めたのであろう。彼は、彼自身を11年の長きにわたる長期拘留させた裁判官すらも、彼を拘留する刑務官すらも恨んではいけない、一生懸命に仕事をしている人間に過ぎないと語っていた。

こうして彼の死を、彼の残した言葉を考えたとき、名前は忘れてしまったが、戦時中に日本軍の捕虜となり終戦まで日本国内の収容所で過酷な環境の中で生き延び、アメリカへ帰国したのちに戦後すぐに来日し、日本中を回り、布教、心の安らぎを説いた一人の牧師を思い浮かべる。

劉暁波氏にしても、その牧師にしても、どんなに過酷な状態に貶められようと、彼らにとって、彼らを貶めた人たちは彼らの敵ではないのだ。彼らの敵は、全ての人間の心に潜んでいる彼ら自身の心の中にもある排他的な自己中心主義なのだと思う。

それは絶対的多数の下でも少数者の存在を否定しない民主主義に通じる心だと思う。習近平国家主席の下での中国は、自らの国家体制を否定する存在を認めず肝臓がん末期に至っている彼の唯一の最後の望みであったとされる自由で民主的国家での死すらも許さなかった。

劉暁波氏にとって、自由や民主主義とは生きてゆく上での空気のようなものなのであろう。最後に胸いっぱいに自由や民主主義を吸い込みたかったのだと私には思えてならない。

人間は生きているうちに空気の存在をあって当たり前なものとして忘れてしまいやすいのだと思う。今、世界中で、そのあって当たり前の存在である自由や民主主義が音もたてずに崩れていっている。

我が国においても組織犯罪処罰法の改正という形で共謀罪として監視社会、密告社会が始まっている。テロの防止という名目で国民の内心の自由が失われようとしている。ちょうどそれは刑務所という国家機関によって監視され生命的な安全は保障されているが、表現の自由、行動の自由が制限された塀に囲まれた社会に似ていると思う。

表現の自由、行動の自由の制限は必然的に民主主義を破壊する。手段としての民主制を失ったとき、人が人であるための核たる内心の自由も失ってしまう。内心の自由を失った人間はもはや人格のないただの器にすぎない。

私がこのブログを立ち上げ、日本国憲法の順守、自然との共存にこだわっているのは、現在ある日本国憲法が世界を取り巻く経済至上主義の下で生じている格差社会、そしてそれによって引き起こされている国家主権の脅威、民族紛争をはじめとする各地でのテロを含めた戦争、難民問題、そして私たち人類の存在基盤たる地球環境の破壊、その前兆としての自然災害、それらすべての問題に対する答え、即ち、人類にとっての指針を示しているからに他ならない。

私が現在存在する日本国憲法が人類にとっての指針であるとするのは、日本国憲法が絶対的に相対的であるからである。絶対的に相対的であることによって、自らを否定するものに対してすらも、その存在を許容しているのである。

このことは劉暁波氏が、私たちには敵はいないと言ったそのものである。

現在の非民主的な他者との共存を否定している政権である安倍政権は日本国憲法の改正、特に憲法9条の改正をしようとしているが、そのことは、日本国憲法が絶対的に相対的であることを放棄するものであり、人類の指針としての規範としての存在の否定である。

私たち日本国民、特に制憲権力を有する主権者として決して許してはならないことだと思う。

同時に内心の自由の制限につながる共謀罪に関してはその執行は決して許されてはならない、蓋し、それを認めることは日本国憲法が絶対的に相対的であることを否定することに他ならないからである。

私自身、組織犯罪処罰法の改正議決無効、その執行停止については、現在、広島地方裁判所に訴訟提起しており、残念ながら即時の執行停止の仮処分請求に関しては広島地方裁判所で棄却決定され、現在、広島高等裁判所に即時抗告しているが、7月11日の施行日までに判断が出されず、施行されてしまい現在、広島高裁においてその決定は保留中であるが、一刻も早い司法府の適切な判断を望んでいる。地裁への訴状や、高裁への即時抗告申立書の中でも書いているが、現在の政治状況の中、我が国の現代立憲民主主義制度において、司法府が最後に残された唯一の砦なのだから

劉暁波氏もそうなのだが、私自身も何故、民主制の崩壊や、他者との共存の否定にこだわり、敏感に反応するのかと考えたとき、おそらく自然との共通感覚のせいではないかと思う。

先日も九州で甚大な被害をもたらした自然災害、これらは毎年のように世界中いたるところで1年を通じて発生しており、その規模や被害も大きくなっている。昨日世界中で報道された南極大陸での史上最大の三重県ほどの大きさを有する氷塊の大陸からのかい離は、世界中で生じている異常気象そのものであり、経済至上主義の下で、アメリカのパリ協定からの脱退含めた環境破壊、地球温暖化への流れは、自然との共通感覚を失った人類のエゴであり、遅かれ早かれその結果は人類含めた生物の存在の否定という答えを導き出すであろう。

一見、自然との共通感覚と現代立憲民主主義は全く交わることのない関係ない事柄のことのように思われるが、私にとっては私たち人類が生存する上での不可欠の両輪であり、これら二つは原理的に深くつながっている。
 
最後になるが、劉暁波氏を失い、共謀罪が施行された今、私が思うことは、世界中、日本中の人々の一人でも多くの人が自然との共通感覚を取り戻し、現代立憲民主主義の下で、人々が自由に自己実現、自己統治ができる社会に向けて思考を停止することなく思考し続けることこそが大切なことであると思う。

経済至上主義の下で、国家主権が強調される世界において、法の支配の重要性を考えたとき、司法府の果たす役割は限りなく大きなものであり、その持つ意味は今後さらに大きなものとなってゆくであろう。

劉暁波氏のご冥福を心よりお祈り申し上げる。そしてあなたの死を、私たちは決して無駄にはしません。

  平成29年7月14日   文責   世界のたま

都議選と民主主義制度について(立憲民主主義の破綻)

先日7月2日に都議選が行われ、都民ファーストの圧勝、自民の大敗という結果に終わった。
今回の一連の流れの中で私自身が思うことを伝えておこうと思う。
今回の選挙結果自体については多くの方々が述べられているように国政の影響が色濃く表れていたと思う。というより国政の在り様への批判そのものであったと思う。

選挙結果以上に、そのことを最も象徴していたのが安倍首相が最終日に秋葉原で行った街頭演説であろう。何度もニュースで流されていたので知らない国民はほとんどいないであろう。

安倍首相が演説する中で大衆の中から辞めろ、帰れコールが沸き起こり安倍首相の演説がかき消されていた。

都議選というより安倍首相、政権への民衆の怒り以外の何物ではない。

何故こういったことが生じたのかを考えた時、私には何度もブログの中で今までも述べてきたことだが、我が国の現代立憲民主主義の破綻を垣間見ているようでならない。悲しい民衆の叫びに見えて仕方ない。

確かに選挙結果として多くの国民はある意味で溜飲を下げ、自民党の都連の幹部の辞職、安倍首相含めた政権幹部の反省の弁などがみられ、多くの人が今後の政権運営への影響は避けられないなどとの発言をした。

しかし、私には一連の流れの中で何一つ解決されたとは思えない。ただ単に我が国に起こっている現実を突きつけられたにすぎないとしか思えない。

それは我が国における現代立憲民主主義の破綻という事実であり、その限りない深さである。

本来、都議選もそうであるが地方選挙は、そこに住む人達にとって直接に関わる様々な教育、福祉、経済について考える場である。4年に一回の大切な住民の意思表示の場であり、住民自治という地方自治にとって最も大切な権利行使そのものである。

その大切な機会が、森友学園問題、加計学園問題、稲田防衛大臣の発言問題、下村都連会長の加計献金疑惑、豊田議員暴言問題というレベルの低い稚拙な国政問題のために、失われてしまった。本来なら東京都民にとって大切な日常生活に直結する様々な問題について判断する機会であったはずなのに

せめてもの救いは小池都知事が語っていた都議会の議決過程の透明化だとは思われるが、一方では中央と一緒で都議会による執行権者たる都知事へのチェック機能が機能するのかという問題も生じているのは事実である。

先にも述べたが今回の都議選の過程、結果の中で私が感じた我が国における現代立憲民主主義の破綻であるが、秋葉原での安倍首相の演説と、その大衆の一部から沸き上がった辞めろ、帰れコールの中に凝縮されている。

たとえそれらの辞めろ、帰れコールが前もって計画された人たちによるものだとしても、その意味において何ら変わるものではない。

それは民主主義にとって核となる説明責任の欠如なのである。説明責任のないところに民主主義は存在しえない。このことは経済至上主義の中で起こっている経済格差における説明責任がいらない世界と対極にある。経済至上主義の中では基本的に説明責任は不要だ。経済力のある者の発言がすべてである。そこには善悪の判断は存在しない。

説明責任の欠如は、経済至上主義を唱える安倍首相を筆頭とする現在の政界をはじめ、財界、教育界含めた社会全体にはびこっているし、日本のみならず世界中でこの現象は生じている。トランプ政権下でのアメリカも同様であり、トランプ氏が多用しているツイッターでの投稿は説明責任が不要の典型例である。

そういった彼らに特徴的なのがマスコミとのやり取りの拒否、マスコミ批判である。

彼らは立憲民主主義、代表民主制という概念を理解しておらず、というより彼らの思考の中にはそういった概念がもともと存在しておらず、永久に存在することもないのだと思う。だから彼らにそういった概念をもって理解を求めること自体が無理なのではないかとも思う。

彼らにとって正義とは自己が望むことを得られることであり、その対象の多くが富や名誉そして権力なのだと思う。他者との共存や、贈与の感覚はありえないのだと思う。

秋葉原での安倍首相が、辞めろ、帰れコールをあげる国民への「こんな人たち」という切り捨てた発言は如実にそのことを表している。彼にとって自分の望む考えに賛同するお友達のみが国民であり主権者なのだ。それ以外の自分の対極にある存在と共存しようとは思っていない。彼にとってシュプレヒコールをあげる人たちは国民でも主権者でもない「こんな人たち」にすぎないのだと思う。

私は今回の都議選を振り返った時、ただ単に安倍政権の驕りであるとか、国民の怒りが鉄槌を下したとかというレベルの問題ではないと思う。

小池さん率いる都民ファーストが大勝したところで、日本社会にとって何らの変化も生じていないのだから

私たち主権者である国民が今回の都議選で学ばなければならないこと、確認しなければならないこと、気付かなければならないこと、それは日本社会のみならず、経済至上主義の世界中で起きている現代立憲民主主義の崩壊の事実である。現代社会はその淵に立っているということである。

都民ファーストが何議席とろうが、自民党が、公明党が、共産党が何議席とろうが、安倍政権がどうなろうが基本的にはどうでもよいことだと思う。最も大切なことは私たち主権者が現在ある日本国憲法を制定した動機、思いに心を馳せることだと思う。

日本国憲法の条文に反して野党が要求する臨時国会を拒否する政府、政権与党は究極の説明責任を放棄しており、そのことは日本国憲法が立脚する立憲民主主義の否定である。内心の自由を含む基本的人権を守るための手段としての立憲民主主義の否定は、必然的に日本国憲法の目的である主権者たる国民の基本的人権への侵害を引き起こす。

その典型例が先日強行採決された組織犯罪処罰法の改正である。それによる私たち主権者の内心の自由への侵害は、おそらく間違いなく手続きたる立憲民主主義制度の更なる侵害を引き起こし、結果として日本国憲法が保障する他の様々な基本的人権への侵害を許してしまうであろう。

私たち主権者たる国民は、自己実現や自己統治といった私たちが日本国憲法を制定した目的そのものを失ってしまうであろう。

私たち主権者は、内心の自由への侵害をほんのわずかでも許してはならない。
内心の自由さえあれば、すべての他の基本的人権を失ったとしても手段としての立憲民主主義制度を通じて失った基本的人権を取り戻すことが可能なのだから

     平成29年7月4日   文責  世界のたま

難民

今、世界は音を立てて軋みながら動き続けている
とても悲しい音を奏でながら

イギリスでは、テロが続く中、メイ首相がEU離脱交渉を有利に進めようとして議会選挙に打って出たが、結果的には保守党は過半数割れを起こした

アメリカでは、ロシアゲートに関し、元FBI長官が議会証言し、大統領訴追への動きもみられる中、トランプ大統領は、地球温暖化のためのパリ協定からの脱退を宣言した

サウジアラビアはイランとの関係を強めるカタールとの国交断絶を行う一方、アメリカとの間で12兆円に及ぶ武器取引を結んだ

フランスでは、マクロン大統領率いる保守党、共和国前進が議会の7割を占める圧勝に終わった

フィリピンでは、ドゥテルテ大統領が戒厳令を発し、南ミンダナオ島マラウィ市に占拠するイスラム国系武装勢力との交戦状態に入っている

トルコでは、エルドアン大統領よるクルド人勢力に対する軍事的、政治的弾圧が強化され、国会の解散、総選挙(国連監視団により不正とされる)により与党議員を増やし、クルド系議員を減らしたうえで、大規模な粛清を行った そして国民投票により憲法改正が決まり、2019年に新大統領の下での施行となっている 本格的な大統領独裁政治が始まろうとしている

韓国では、ムンジェイン大統領が新たな船出をして、北朝鮮、アメリカ、中国、日本との関係を模索している

中国では、習近平国家主席が打ち出した一帯一路という経済構想を推し進めている

これら以外にも世界中で、同時並行的に様々な動きがみられている 一つ一つの事象だけを見ているだけではわかりにくいが、立ち止って、すべての事象を客観的に眺めてみると、多くの国々で起きていることには共通点がある

それは、グローバル化の中での国家主権だ 
そうした状況下では民主主義は両立しえず、現にそうした多くの国で粛清が行われ、憲法秩序が機能不全に陥っている

そして行き着く先に待っているもの 

それは形が違っても独裁国家に他ならない

独裁国家の先に待っているもの

それは多くの難民だ

現実的に、世界中で、シリアから、アフガニスタンから、ソマリアから、スーダンから、ミャンマーから、何千万もの人々が、子供たちが、女性たちが、お年寄りが、病人たちが、国外、国内での難民生活を強いられている

日本においても今まさに、特定秘密保護法、安保保障関連法に続いて、テロ等準備罪に名を借りた共謀罪法案が強行採決されようとしている

主権者たる国民の内心の自由が侵害されようとしている

内心の自由とは人が人であるための核心である

その内心の自由を、私たちおバカな日本国民は、所詮は人工的に作られたものでしかないオリンピックや、豊洲市場や、2万円台に上昇しつつある株式相場や、一次的に盛り上がっている就職前線などとの引き換えに差し出そうと、失おうとしている

平和の祭典とされているオリンピックとテロ、偽りの安全神話の中で再稼働されている原子力発電所と日本原子力開発機構大洗研究所での作業員5人の被ばく事故

それらは、ありとあらゆる人工的に作られたもの、科学の発達によって、人間の生活は、便利になり、豊かになったはずであるが、それはある意味で錯覚に過ぎないことを証明している

それらは、所詮は道具であり、手段にすぎない

目的にはなりえない

世界中で、所詮は目的にはなりえない手段でしかない原子力、オリンピック、豊洲市場、株価や、政治権力や、富や、民族や、そして国家のために、人が人であるために不可欠の核心たる内心の自由を手放そうとしている

水を求めて砂漠をさまよう旅人が蜃気楼を追い続ける様に

しかし、そこには決して旅人の喉を潤す水はない

所詮、蜃気楼に過ぎない

私には今、世界中で、富の中で、与えられた自由の中で生活を楽しみながら、政治的、経済的な原因で命と全財産をかけて海を渡り、大陸を横断する難民を拒否し、傍観している人々こそが

与えられた人工物や、楽しみや、自由のために、内心の自由を差し出し、失った人々こそが、真の難民なのではないかと思う

現代社会という砂漠を彷徨う難民なのだと思う

ドイツのメルケル首相が、トランプ氏のパリ協定からの脱退発言に対して、他国を頼ることはもはやできない 自らの運命は自らが切り開くべきだと語った

私たち難民は、決して思考停止してはならない 
私たち難民は、決して自然との共通感覚をなくして他者との共存を否定してはならない
決して難民のための難民であってはならない

     2017年6月13日 文責 世界のたま

国家機関(国会、内閣、司法)へ告ぐ、日本国憲法を順守せよ!

 前回のブログを書いて以降、世界中で、日本国内においても新たな様々な出来事が起きたが、加速度的に人間社会の時間軸のスピードは速まっている。それは決していわゆる進歩だとか、発達だとかいうものではなく、歴史の巻き返しである。何故、人間は自然の時間軸の中で生き続けることができないのだろう。

何故人間は破壊、殺戮を繰り返すことでしか自然の時間軸に戻ることができないのであろうか。しかし、それができるのも自然の時間軸が存在すればの話で、自然の時間軸を失った時、人間の時間軸など存在のしようがないことを、私たち人間は忘れてしまっている。否、忘れてしまっているのではない。多くの人間は自然に対する共通感覚を失ってしまっているのだ。そして、たとえ自然との共通感覚を持っている人間がいたとしても、経済至上主義の中で他者との共存を否定し、現在を生きる自分自身のことだけを考え、将来の人たちのことに思いをはせることなどしようともしないのだ。

つくづく人間の愚かさを感じる。

我が国は、現代立憲民主主義国家である。即ち、国家統治の側面で言えば、立法府である国会も、行政府である内閣も、司法府である裁判所も、すべての国家機関は日本国憲法に基づいてのみその権力を行使できる。裏返せば、日本国憲法に反したすべての国家行為は、日本国憲法98条第一項「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」に反し無効である。

主権者たる国民の基本的人権の側面で言えば、我が国が現代立憲民主主義国家であるということは、国家を前提としない前国家的権利である思想、良心の自由、表現の自由などは法律の留保なく、人が人であるというだけで無条件に認められているということを意味する。日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

戦前の日本も明治憲法の下で、立憲民主主義国家ではあったが、そこでの思想、良心、表現の自由は、法律の留保があり、法律をもってすれば、それらの基本的人権は簡単に制限を加えることが可能であった。そこが現代立憲民主主義憲法である日本国憲法との根本的な違いである。

そして最も重要なことは、現在の日本国憲法が、自主憲法であれ、他国によって与えられた憲法であれ、その起源に関わらず、我が国が現代立憲民主主義国家である以上は、すべての国家機関は現在存在する日本国憲法に反した国家行為することはできず、反してなされたすべての国家行為は無効である。そして主権者たる国民の思想、良心、表現の自由は絶対的に保障され、国家機関がそれらに対して制限を加えることも一切許されないということである。

今、日本で起きていることに関していえば、森友学園、加計学園問題がある。それぞれにおバカな安倍夫妻のおバカな公私混同した稚拙な権力の乱用問題はあるが、私がこれらに共通して最も重要で看過できない問題だと思うのは、主権者たる国民の絶対的な人権たる表現の自由への侵害である。このことは最終的に個々の国民にとっての思想、良心の自由への侵害に通じるものである。

森友問題では、おバカな安倍さんにとって都合がよいと判断された籠池理事長の国会での証人喚問は認め、重要な森友問題当事者であるおバカな安倍さんのおバカな妻に関しては私人であるという理由で証人喚問拒否を行っている。籠池さんもおバカではあるが私人であることに変わりはないのだから筋が通らない。

加計学園問題では先日、元文科省事務次官である前川氏が総理の御意向メモは事実であり、行政がゆがめられたとの記者会見を行った。

これらの二つの事件に対して、私たち主権者がおバカなりに考えておかなければならないこと、おバカであるがゆえに絶対に抑えておかないといけないことが私は二つあると思っている。

一つは私たち主権者が失ってはならない知る権利への国家機関による侵害が行われているということである。知る権利というのは言い換えれば、情報を得る権利のことである。私たちが物事を考えてゆくうえで何が最も必要であるかを考えた時、それは情報である。正確な情報がなければ物事を正しく判断できない。かつての共産主義国家がそうであったように、戦前の日本がそうであったように、大本営発表を信じた主権者たる国民が最後にどういう結末を迎えなければならなかったを考えれば誰でもわかることである。

森友学園問題では籠池氏の個人的な虚偽申請問題などを敢えてクローズアップして、私的な人格問題にすり替え、おバカな安倍首相、文科省、大阪府、維新の会、安倍昭恵夫人の公的問題から、国民の目をそらそうとある意味で情報操作、主権者たる国民の知る権利への侵害が図られている。

加計学園問題では元文科省事務次官の前川喜平氏が総理の御意向メモが存在していたことを記者会見で述べたが、そういった行動をとる可能性を察知した政権側がその前に前川氏の事務次官当時の出会い系サービス業への通い問題を彼らの御用新聞である読売新聞にリークしたことは、全国紙に一律に掲載されたことを考えればおそらく間違いのないことであろう。菅官房長官が記者会見で必死にこの前川氏の出会い系問題がいかがなものかと取り上げていたが、その表情、仕草を見れば、政権側が必死に加計問題を、前川氏の私的問題にすり替えようとしていること、裏返せば、政権側がおバカな安倍さんのおバカな長年の稚拙な人間関係でしかない加計氏のために便宜を図ったことをくしくも証明する形となってしまっている。前川氏自身もここまで記者会見するのであれば、敢えて教育と貧困問題の調査などと言い訳などせずに、ただエッチしたかったのだと言えばよかったことだと思うが、そこがエリートたるゆえんなのであろう。

もう一度言っておくが、ここで重要なことは、加計学園にしても、森友学園にしても、籠池氏や、前川氏の人格問題にすり替えようと政権側は意図しているが、国家機関による情報操作、主権者たる私たち国民の知る権利、表現の自由、思想、良心の自由への権利侵害が行われているということだ。

私は、これらの事件を考えた時、西山記者事件を思い出す。沖縄返還時に日本政府と、アメリカ政府の間で交わされた密約を西山記者が暴露した事件であるが、事件当時、その内容の真偽より、西山記者がその情報を入手した手段、すなわち情を通じての国家機密の漏えいが裁判所という国家機関においては問題視された。後にその密約の存在は明らかになったが、今回の二つの事件は国民の知る権利への国家機関による侵害という点で非常に共通している。

もう一点、私たちおバカな国民がこれらの事件を通して考えなければならないことは、今現在、国会で審議されている共謀罪についてである。このことは私たちすべての主権者が真剣に考えなければならないことなのです。国民一人一人が、その所属する政党、宗教、企業に関わらず、すべての国民が許してはならない法律だということです。

共謀罪については衆議院で強行採決され、現在参議院でアリバイ的な審議がされている。多少の修正がなされ、その適用範囲が狭められているが、個々の刑罰法規に関する改正ではなく、犯罪行為全般に対する総則的な改正であることに変わりはない。

先日書いたブログの中でもお話したことであるが、現在までに確立してきた刑罰法規の持つ私たちの生命、身体を含めた法益の保護と、国家によって不当な逮捕、処罰をされない自由の保護、その二つのバランスを大きく崩してしまうものだ。

主体が違法な団体であるとか、準備行為がなされることが条件であるとか、様々な処罰条件が設けられているというが、歴史を振り返ってみた時、実際の現実世界の中では拡大解釈されることは火を見るより明らかなことである。

また、元裁判官や元検事の方がおっしゃられていたが、令状を要するとされているが現実的には令状を出す捜査機関の判断が優先され、裁判官はそれを基本的には認めざる負えないと言われ、全く人権侵害への歯止めにはならないされる。実際にそうであろうと私も思う。

素人でも考えてみればわかるが怪しげな人、政権にとって都合の悪い人をメール等含めてでっち上げ、共謀の疑いがあるとして令状を作成し、逮捕した後自供を作り上げることは共謀という外見からは見ることができない内心を犯罪の構成要件にすることでいとも簡単にできてしまうことなのです。そして共謀者と思われたくないためにおそらく罪に陥れられた人に対する証言を多くの人たちが拒否し、距離を置こうとするであろう。誰一人として如何に長年の友人であったとしても署名活動などして擁護することは不可能になってくるであろう。

今回の二つの事件は国民の表現の自由、知る権利に対する国家機関に対する侵害であり、このことは、共謀罪という内心の自由への国家機関からの侵害に直結していることなのです。

表現の自由、内心の自由などの人が人として生きてゆくために不可欠な権利である最も大切にしなければならない国家が存在する前からの前国家的な権利である精神的自由権を私たち主権者は命を懸けて守らなければならない。

精神的自由権を失ったとき、国家機関による制限を受けた時、自由な政治活動は許されず立憲民主主義は崩壊し、一部の権力者のために人は闘い、多くの人たちの尊い命が失われてしまうであろう。

確かに先日イギリスで起きたテロ含めて世界中で起きているテロを恐れ、そのためには共謀罪が必要で、犯罪を未然に防ぐという政府の理論は一見正論に思える。

しかしながら、表現、内心、言論、集会、結社の自由に対する国家機関による制限は、最終的には民主主義社会を崩壊させ、テロ以上の何万という人々の犠牲を出してしまうことは明白な事実であり、そのことは歴史が証明している。日本の歴史を振り返っただけでも日露戦争以降、勝利を称える報道によって各新聞社は部数を伸ばし、満州事変後、戦争に対する異議を唱えていた大手の新聞社はほぼすべてが戦争賛美に変わってしまった。大阪朝日や大阪日日などはある程度抵抗したが、新聞不買運動の中でその方針を変え、賛美に回ってしまった。平民新聞などの最後まで戦争に異議を唱えた新聞社は弾圧の中、廃刊に追い込まれてしまった。そんな言論統制の中で、何百万という日本国民の尊い命は失われ、戦争責任者である人たちは生き残り、おバカな安倍さんの祖父もその一人であった。

所詮、権力者は国民のことなど考えてはいないのである。今の安倍政権もそうであり、麻生副総理のナチスを真似ればいいという発言、ある自民党議員のマスコミをだまらせるには広告を出さないようにすればよいという発言、それらの発言は彼らの本音であり、今回の二つの国民の知る権利への侵害がなされたことはたまたまではなく必然であり、それらはこれから私たちおバカな国民へ降りかかってくるもっと大きな事件の序章に過ぎない。

テロ自身についても私たちは恐れるのではなくその起こる原因を考えなければならない。前から何度もお話ししていることだけれど、その原因の多くは経済至上主義による格差社会、贈与の否定、他者との共存の否定にあると私は考えている。

そしてテロから身を守ると宣伝されている共謀罪が先にも話したように、所詮は主権者たる国民の内心、表現の自由を侵害し、結果として政治活動は制限され、民主主義は崩壊し、時の国家権力の維持を図り、そして森友学園や、加計学園含めた、時の政権を維持し、支持するお友達のみを優遇する社会、すなわち更なる格差社会の形成が行われ、その結果としてテロは減ることはなく一般社会に広がってゆくであろう。

もう一度言っておきます。私たち主権者たる現在の国民はおバカであるけれど、これだけは決してしてはならないこと

私たち主権者は決して思考停止してはならない。

最後に一言、国家機関に告ぐ、日本国憲法を順守せよ!
日本国憲法は、私たち主権者のものである。国家機関は黙ってそれに従え!

   平成29年5月29日   文責   世界のたま

憲法とは(憲法を失った国家、日本)

今年の憲法記念日以降、様々なことが日本国内、世界で起きているが、そんな中で私が思うことは、我が国が実質的な意味での憲法を失ってしまったということだ。

そもそも私たちは何故、憲法記念日という日を作って祝日にしてきたのであろう。今年の憲法記念日にも様々な集会が全国で開かれて、安倍さんも元首相の中曽根さんと一緒になって憲法改正、日本人による憲法を作ろうと持論を述べられていた。そんなことであれば、彼らは何故、今まで憲法記念日などといって現在の日本国憲法を祝す祝日として国旗を掲げ続けてきたのか。私には彼らの言動が全く理解できない。

私がここまで言うのは、彼らが現職の内閣総理大臣であり、内閣総理大臣経験者であるからだ。

現在の日本国憲法第99条では、内閣総理大臣やその他の大臣、国会議員、その他の公務員には憲法尊重義務が課せられている。彼らが行っていることは本来、現憲法に違反した違憲行為である。

彼らは言うであろう。一個人としての発言である。日本国憲法において各個人には思想、良心の自由が保障されていると。若しくは憲法99条は倫理的な意味しか持たない法律的な規定ではないと。

果たしてそうであろうか。そもそも憲法とは国家の基本法である。国家の基本法とは主権者である国民の基本的人権を守るための国家の統治機構、その制約、および保障されるべき人権を規定したものである。

言わば、憲法とは一人一人の人間がその自由、平等を守るために、長い年月、そして多くの代償を払いながら獲得し、たどり着いた人類の英知である。

私に言わせれば、確かに内閣総理大臣や国会議員や公務員は憲法的には主権者でもあるが、他方99条によって憲法に反する言動に関して制限される権力側の人間である。それ故、もし彼らのそういった言動が憲法上許されるとするならば国会という公の場での憲法改正の手続きにおいての発議という形でしかあり得ないはずである。それが現在の日本国憲法の要請である。

それができないというのであれば、あくまでも主権者としての自由な発言を望むのであれば、99条の関与しない内閣総理大臣を辞職して単なる主権者という立場に帰して発言すべきことである。

彼らが主張している99条は倫理的規範であり、法律的な意味での強制的な規範でないという言い分に関して言えば、同じようなことが憲法の基本書などにも多く書かれているようにも思うが、そもそも憲法とは何なのを考えてみるべきだと思う。

日本国憲法はきちんとした前文から始まり各条文が収められた憲法典という成文憲法の形をとっているが、世界で見るとイギリスのように憲法典を持たない不文憲法国家もある。それではイギリスが立憲民主主義国家ではないのか、主権者の権利は憲法上、保障されていないのかと言えばそうではない。逆に言えばイギリスは人権発祥の地でもある。他方で形式的な憲法典を持っていても国民の基本的人権が保障されていない国家もある。

私が言いたいのは、そもそも憲法にとって重要なことは文章になっているかどうかではないということだ。文章という形になっているだとか、文章になっていた場合にその順番だとか、本文ではなく前文であるだとか、その形式はどうでもいいということだ。

現実の法律の世界の中ではよく日本国憲法前文は具体的な裁判規範ではなく、各条項を適応する上での解釈基準であるなどと言われることがあるが、憲法というものを考えるとき本当に大切なのは法意であると思う。本文であるとか、前文であるとか、条項の順番であるとかは本当の意味ではそれほどの意味を持たないと私は思うのです。

本来の意味での憲法記念日とは憲法典という、形式的な部分について語るのではなく、憲法とは何なのか、主権者にとって憲法の存在意義、人類が憲法という規範を持つに至ったその過程を再認識することに意味があるのではないかと私は思う。

主権者ではなく権力者が憲法改正を持ち出すとき、憲法典としての憲法の条文の改正にこだわるとき、それは主権者の基本的人権への制限がなされる時だと私は思う。

憲法とは、憲法典として成文化されていようが、不文化の状態であろうが、その形式に意味があるのではなく、権力から主権者の基本的人権を守る核心そのものに意味がるのだと私は思う。

違憲状態の国会議員によって選出された違憲状態の内閣総理大臣が日本国憲法99条に反した憲法改正の違憲行為を平然と行い、それがまかり通ってしまう現在の日本という国家にはもはや立憲民主主義的な意味での憲法は存在していない。たとえ形式的な意味での憲法典が存在していたとしても何の意味を持たない。そしてそれらを改正しようがすまいがそれ自体もまた何の意味も持たないのである。

そうした実質的な意味での憲法を失った国家がどういった末路をたどるのか、それもまた何度も歴史が証明してきたことだと思うし、そして同様に証明するであろう。

  平成29年5月12日   文責   世界のたま

今、日本で、そして、世界で起きていること(決して驕りや、焦りではない)

1)今、日本で起きていること

先日、東北震災での自主避難は自己責任であると発言し物議を醸した今村復興大臣が辞職した。二階堂幹事長のパーティーの席上での東北でよかったという発言が直接の原因であったが、そのあとの二階堂幹事長のマスコミに対する発言も、様々な波紋を呼んだ。
多くの意見は震災にあった人々、現在も大変な生活を強いられている人たちへの冒涜である。国会での絶対多数を背景にした与党、政権の驕りであるというものが多かったと思う。
その後、福島県出身で被災された吉野元環境副大臣がすぐに後任として任命された。任命後の談話で自身が被災者であり誰よりも被災者の方々の気持ちがわかるので、被災者と寄り添って行政にあったて行くようなことを、述べられていたように思う。

私がこれらの事実に対して思うことをお話ししておこうと思う。
 
まず第一に現在の、政権与党はもとより、与野党含めた国会議員の中に、果たして復興大臣の任を果たせる人がいるのかと問われたなら、おそらくいないのではないかと思っている。
世間では上記のように今回の一連の出来事に対して復興大臣個人の資質、安倍総理の任命責任を問う声がほとんどだと思うし、新たな復興大臣が被災者であるということで適任と思われているが、果たしてそうなんだろうか?と私は思う。
私には今回のことは安倍内閣の責任追及、大臣の据替という簡単な問題であるとは思っていない。根本的な問題は、安倍政権はもとより、与野党含めたすべての現国会議員の他者との共存を否定した党利党略的な考え方、というより一人一人の国会議員の個々人の生き様にそれらの原因があるとしか思えない。
蓋し、今回の件でいえば被災者である吉野復興大臣が選ばれたことでよかったと思われる人が多いいと思うが、果たしてそうなのだろうかと私は思う。何故かと言えば、逆に言えば被災という実際の体験をした人でなければ当事者意識をもってことに当たれないということを言っているようなもので、実際に体験しなければ当事者に寄り添った行政ができない人間しか今の国会にはいないということを暴露しているに等しいのだから
すなわち今回のことは復興大臣問題ということに止まらず、現在行われているすべての行政行為に言えることにつながる。沖縄の辺野古問題、各地の原発再稼働問題、待機児童問題、豊洲市場問題などで同じことが行われている証左であり、今回の復興大臣の問題はその氷山の一角に過ぎないと思う。

与党政権を筆頭とする体験しないと想像できない想像力の欠如、それは道徳観の欠如ともいえると思う。私にはそんな他者との共存を否定した大臣たちに、国会議員たちに国会や内閣などの国家の重要な立法行為、行政行為ができるとは思えない。ましてや国民の道徳教育などできるはずもないと思う。

今、日本で起きていることの原因は、想像力の欠如、言い換えれば他者との共存の否定であるが その原因は、自然との共存を否定した経済至上主義に他ならない。
そしてそれらが生み出している格差社会が富める者、権力ある者の説明責任の欠如を生じさせ、結果として現代立憲民主主義の崩壊につながっており、現実的に、今現在行われている連休も休まず強行日程で行われている共謀罪の審議(審議というより審議したというアリバイ作りであるが)、その先に待ちかまえている強行採決に他ならない。先日のブログでも書いたように共謀罪、特定秘密保護法、安保関連法により立憲民主主義の目的であると同時に手段でもある主権者にとって不可欠の内心の自由を私たちは失ってしまうことを忘れてはならない。

経済至上主義という点ではアメリカのトランプ大統領が行おうとしている法人税減税、海外企業の国内生産誘致合戦、他者との共存を否定した自国第一主義に基づく防衛予算の増額、一方では公園、学校などの社会資本の減額、教員の削減などの将来の人に対する投資の削減は、さらなる大量消費による環境破壊を促進し、格差を拡大させ、結果として更なる立憲民主主義の崩壊を引き起こすであろう。

アメリカに追従する我が国でも同様なことが起こっているのであるが、最近話題になっている物流関連の問題に触れておこうと思う。一つがヤマト運輸の配送時間制限 取扱量の削減 手数料値上げ問題であり、二つ目が日本郵政の子会社損失に伴う4003億円の損失計上問題である。
以前ブログでもお話したことがありますが、物流は経済活動、私たちの生活にとって欠かすことのできないものになっているのは事実ですが、環境破壊の大きな元凶でもあるのです。長距離を多量の物資が移動することで多量のエネルギー資源が必要です。また、今回のヤマト運輸で明らかになったように、アマゾンなどのネット販売を通じて更なる環境にとって無駄な大量消費、物流社会を巻き起こしている。
自然との共存との関連を考えたとき、確かに手数料値上げ、配送時間指定が難しくなる点など消費者にとって一見大変になると思われがちであるが、24時間コンビニの時間短縮なども併せて、私たち人間にとって最も核心に持たなければならない自然との共存という観点から考えた時、多少の不便の中、本当に自分たちにとって必要なものだけをできるだけ物流というエネルギー消費しない地元で購入するというライフサイクルを考え、実践するきっかけにしなければならないと思う。

2)今、世界で起きていること(世界を取り巻く自国第一主義)

世界中で、その程度は別にして、自国第一主義が叫ばれている。ヨーロッパではイギリスのEU離脱も含め、フランスでのルペン氏、ハンガリーでのオルバン首相による中央ヨーロッパ大学閉鎖、アジアにおいても多様性の中で発展してきたインドネシアの9割がイスラム教であるジャカルタ知事選において現職のアホック氏が敗れ、アニス候補が当選した。アニス氏は頭金ゼロで住宅建設促進による貧困層へのアピールをしているが、トランプ氏のアメリカと同様に多様性への否定に流れてゆくのであろうか。
そんな中でトランプ氏のアメリカが掲げる、自国第一主義の中での力による平和が果たして可能なのであろうか。
実社会では、南スーダン、ソマリア、アフガニスタン、シリア、イエメンに加えて北朝鮮問題が大きな問題になってきている。
そうした中で、今、平和を守り、戦争を起こさないために何が必要なのかが改めて問われていると思う。
戦後、世界は国連を中心とした集団的安全保障、そしてアメリカを含むNATO、それに対するソ連を中心としたワルシャワ条約機構などの集団的安全保障制度の中で自国の防衛を行い、戦争を回避してきた。
ソ連が崩壊し、ワルシャワ条約機構が解散する中で、東西冷戦も終わりを告げ、平和が訪れるかに見えたが、世界各地で民族紛争、宗教の違いによる争い、テロが増え続け、安全保障理事国中心の国連ではそれらを防ぐことは困難になってきている。

そしてこの度の北朝鮮に対するアメリカによる空母派遣、迎撃ミサイルサードの韓国配備、米韓、日米の軍事演習、そんな中での中国の空母建造、昨日もそれらに対し北朝鮮はミサイルの発射実験を行っている。

中国、ロシア、アメリカ、日本などの各国の首脳は、彼らだけで解決できると思い、盛んに連絡を取り合っている。いや解決できるとは思っているわけではなく、自国第一主義の中で自国を守ること、自国の経済至上主義にとって最大の利益を求めて、もしくは自分たちの現政権にとっての政治的な最大の利を求めて行動しているに過ぎないと思う。
そもそも北朝鮮問題を考えるとき、何故朝鮮半島が分断され、現在に至ったのかを考えなくてはならないと思う。1910年の日本による植民地支配を経て、戦後ソ連、アメリカによる東西冷戦の中、南北に分断され、1950年に、は北朝鮮の金日成が、中国の毛沢東、ソ連のスターリンの了承の中で、朝鮮戦争を引き起こし、現在に至ったのだ。
そして北朝鮮の核保有について言えば、そもそも誰が開発して、保有して、使用したのか。それらがなければ今の北朝鮮の核保有問題は生じていなかったはずだ。自分たち自身は核廃止どころでなく更なる核保有を進めている。
彼らがよって集まって話し合ったところで、何事も彼らによって解決されることはないであろう。
それはバカの一つ覚えのように思考停止したまま彼らに同調しようとしているうぬぼれて、核心のない国家、日本も同様である。

そんな中で、私は、戦争の原因は何なのか、それを防ぐための思考の対象は何を考えればよいのかを自問自答している。

二つの大戦を経て規範や制度で防げるとしたリベラリストに対して、それらの大戦を防げなかった現実の中で、リアリストは安全保障における国際システムをその対象として考えてきたし、今でも多くの国の国民の中心的な考え方はそうであるとは思う。

しかし、現実的には自国第一主義のもとで、北朝鮮はもとより、アメリカ、中国、ロシア含めた大国は安全保障の対象を国家に求めてきている。
私は、それは過去のデジャヴに過ぎないし、その結果も歴史が証明している。

現代を生きる私たちは決して歴史の中に閉じこもっていてはいけないと思う。

私は、安全保障の対象は、意思決定者たる人しかありえないと思う。その実現方法としては手段としての国家を通じてなされるとは思うが、国家そのものを直接的な対象としてはいけないと思う。
現在のアメリカが自国中心主義をとろうとしても自国ですべてが賄えるとしても現実的には他国との関係は経済、環境、安全保障面でも不可能である。
アメリカが地球に存在する限りは

今、日本で起きていること、世界で起きていることを考えた時、私たちは、現実的に目の前で起きていることを、つい自分中心で考え、例えばオリンピックがあるからテロ対策のために共謀罪が必要である、北朝鮮がミサイルを撃つかもしれないと、おバカな安倍さんや政府与党から言われると、そうなのかなと考えてしまう。確かにテロやミサイルの恐怖はわかります。おバカな人たちに賛同したくなる気持ちもわかります。

しかし、よく考えてください。共謀罪が成立し、監視社会となり、特定秘密保護法との兼ね合いの中で万が一、不法逮捕されても、物言えぬ社会では、おそらく今は信用している周りの人たちの中で誰が不法逮捕された人のために自らを危険にさらしてまで助けてくれるでしょうか?
誰もが自分がかわいいように自分が不法逮捕されてまで救ってはくれません。そして万が一生き残れたとしても北朝鮮がそうであるように、安全保障関連法の下で安全保障の対象を国家と考えるおバカな人たちのために共謀罪の恫喝の中で戦争に駆り出されることは間違いのないことなのです。
今、日本で起きていること、世界で起きていること、それらは現代に生きる主権者たる私たち一人一人に問いかけているのです。
私たちが歴史の中に閉じこもったまま歴史を繰り返すのか、経済至上主義を捨て自然との共存、他者との共存を図って生きてゆくのかを

 その選択を私たちに投げかけているのだと思う。
 そして私たちが選択する時間も限られていることをも

    平成29年4月30日   文責  世界のたま