往生際の悪い絶滅の時を迎えた人類~世界は何でできているのか

最初に述べておこう。
今、世界中で猛威を振るっているコロナウイルスに関して言えば、私見ではあるが、相当数の死者をもってしてもその克服は困難を極めるであろう。

そうした中で、全国の知事が、9月入学制度への改革を提言した。東京都知事は、導入は、混乱を生ずるであろうが、現在の社会自体すでに混乱を極めており、変革は、そういう時ではないとできないと語っていたが、それは一部正解にすぎない。

今、私たちが変えなければならないのは、9月入学制度を含めた日本社会全体、すなわち、経済至上主義社会、常識(民主主義)が壊れてしまった社会そのものである。

具体的に、最も急を要する重要課題は、現在の視野狭窄した全てのおバカな与野党国会議員の入れ替え、財源移譲含めた地方分権の確立であるが、その前に、現在の国民の窮状の応急的な処置としての、社会変革までの期間、ベーシックインカムなどの個々人の最低限の生活保障制度(社会人、学生含めた様々な生活パターンに対応した)の導入が必要である。

変革とは、時間との闘いである。
おバカな国会議員を排除した上で、私たちが行わなければならないのは、自然との共生が可能な社会(原発廃止、自然エネルギー産業の育成、おバカな辺野古基地造成の撤回含めた防衛政策の抜本的見直しなど根本からの見直し等々)への変革である。

私たち人類が、現在の生活を何一つ変えないならば、私たち人類に残された時間はない。

現在のコロナウイルス感染は確かに大きな問題であるが、それ以上に、そのあとに待ち受けているものが私たち人類を確実に絶滅へと導くであろう。

現在生じているコロナ感染に関して言えば、私たち人類の免疫反応によって生じるコロナウイルスに対する抗体がどこまで有効であるかにかかっていると思われるが、ロシアを含めた各国で行われている治癒者の血清から抽出された抗体による治療効果は充分ではない。そのことは抗体を利用するワクチンの効果があまり期待できないことを示唆している。
現在、遺伝子解析がなされているが、先日明らかになった日本の女子学生の感染、治癒、退院後の再発、家族内感染は、体内におけるコロナウイルスの残存期間の長さ、言い換えれば、抗体が反応しにくい証左である。

最終的には、現在我が国を含めた各国でワクチンの治験が行われており、その結果が待たれるところである。

それらを鑑みた時、世界中で起きている都市封鎖、移動制限、通勤,登校の自粛を含めたあらゆる日常生活の自粛は、感染爆発を防ぐための多少の時間稼ぎのために必要であると思うが、いずれは、どこかのタイミングで、すべての人類一人一人が、覚悟を決めるしかないであろう。
世界中で、自分たちの身の回りで多数の人々が、感染し、発症し、亡くなってゆく中でも淡々と日常生活を送ってゆく覚悟、それしか選択肢はないであろう。

その昔、人類は、嵐や、凶暴な肉食獣などの自然から身を守るため、岩穴の奥に息をひそめ怯えることしかできなかった。
人類は火をおこし、道具を作り出し、手工業から産業革命を経て大量生産を開始し、市場経済の発生と相まって資本主義経済を作り上げた。科学を発展させ核兵器、細菌兵器、毒ガスなども作り出した。

人間は、自然への恐れや神からの束縛から解き放たれ、人類は進化したと自負してきた。
しかしどうであろう、今、科学の進歩を自負していた人類が、最終的に行っていることは、自宅に閉じこもっておくこと、マスクをすること、2メートルの間隔をあけること、それは、岩穴に閉じこもって、身を丸め災いが通り過ぎるのをただひたすら待つしかなかった太古の人類と何一つ変わってはいない。

都市封鎖によって新たな感染者が減少する中で、多くの先進国で段階的な都市封鎖の解除が行われている。運が良ければ、人類は何とか死者と、生存者とのバランスを取りながら、言い換えれば、世界中で依然として多くの死者が出続ける中、死の恐怖と戦いながら数年間はやり過ごすことは可能であろう。
しかし、その試みは失敗に終わるであろう。
何故ならば、自然の摂理に反しているからである。
私たちの社会は、今現在も何一つ変わってはいない。いや、変えようとしないのだ。
今、私たち人類が変えようとしていることは、人々が、如何にソーシャルディスタンスを保ちながら社会生活をしてゆくのか、マスク着用の是非等々、ウイルス感染予防対策だけである。そして経済社会を中心とした早急な経済活動の再開の試みだけである。
しかし、今回のウイルス感染によるパンデミックの真の原因は、コロナウイルスにあるのではなく、私たち先進国を中心とした人類の社会生活自体にある。

今回のパンデミックに伴う多くの人類の死は、地球規模での自然が自然を守るための自然によるより戻しに他ならない。偶然ではなく必然である。(たとえコロナウイルスが中国による生物学的兵器であったとしても)言い換えれば、何度も言うが、自然による私たちヒトという種の自然淘汰に他ならない。

今、地球規模で起きていることは、所詮、自然の摂理に過ぎない。
私たち現代人は、近代以降、ヒトという種からの視点でしか物事を見ることができなくなっている。多くの自然災害という自然からの警告を無視し、私たち人類は、自然破壊を推し進め、更なる地球温暖化を生じさせ、より戻しが不可能なレベルにまで地球環境を追いやってしまった。
自然は、私たちヒトという種も含めた多種多様な生物の生き残りのための地球規模での自然のより戻しを行っているに過ぎない。そして、今回、世界規模での地球温暖化の元凶である経済活動を停止させ、航空機や船舶による人の移動を止めることに成功させた。

私たち人類が、ヒトという種を超えた自然との共通感覚の下での真の想像力を持ちえない限り、何一つ、私たちの社会生活を変えない限り、自然は、私たち人類に新たな試練を与えるであろう。自然環境の破壊が進むだけ、それに比例したより戻しが行われるであろう。
恐竜が絶滅したようにヒトという種が絶滅するまで、そのスピードを加速し続けるであろう。

それは、人類が、ただ単に自宅にこもっただけでは、生存しきれない核戦争かもしれない、格差拡大の中で必然的に起こるテロや自然災害に伴う原子力発電所破壊なのかもしれない、オゾン層破壊に伴う放射能汚染であるかもしれない。
そして、いつの時代も最終的には、生き残りをかけた同一種内での共食いは不可避であり、おそらくヒトという同一種内においてもその共食い、戦争を含めた資源、物資の奪い合いは、熾烈を極めるであろう。

現在世界で多数の人々が亡くなられているが、その多くは、間違いなく経済至上主義社会の中での社会的弱者である。それは、かつて国策の下、満州や、樺太に移住し、切り捨てられた多くの人たちと重なり合う。

三密予防のためのニュースの中で、チューリップ園や藤園に人が集まるという、たったそれだけの理由で見ごろを迎え咲き誇る色とりどりの数万本ものチューリップの花や藤の花が、花の部分だけハサミで次々と切り落とされる映像が流れていた。
チューリップや藤も人間と同じ生き物である。人間の思いのままに他の生物を扱う人間の思い上がり以外の何者ではない。こうした行動を人間がとり続ける限りは、自然によるヒトの淘汰は終わることはないであろう。

世界を見てみれば、感染拡大の中での中国の海洋進出、そうした中でのベトナムとの衝突、アメリカの空母内感染が起きている中でのペルシャ湾でのイランとの対峙、北朝鮮国内での感染拡大が疑われる中でのロケットの発射実験、イラン国内での感染拡大の中でのロケット発射実験、そしてイエメン内線でのサウジアラビア、UAEとイランとの駆け引きが相も変わらず行われている。
中国でのコロナウイルス感染源に関しては、アメリカ、オーストラリア、ドイツが中国に対してとの究明、研究所における情報公開を求めている。

EU諸国の財政支援に対するEU債発行に関して、南北対立も生じている。財政と金融の分離の問題が根底にある。ドイツは共通通貨ユーロ導入の際、他国が赤字に陥っても決して救済はしないという非救済条項を入れることで反対する国民を納得させ導入したが、ギリシャ危機などにおいて結局それも反故にされてしまった経緯がある。
そもそもEU内における共通通貨問題には、その根底に経済的強者にとって有利な仕組みが存在している。
経済力に比べて共通通貨であるユーロが安いドイツにとって周辺国への輸出が有利である。ある意味でこれまでのドイツの莫大な利益は、周辺国による恩恵の賜物に他ならない。
そうした中で、経済格差が拡大したEU内において、経済的弱者であるイタリアやギリシャなどはその返済のいらないEU債の発行を求めているのに対して、ドイツやオランダはあくまでその返済を求めている。

日本においても日銀と政府の関係において同様の問題がある。日銀の黒田総裁は、金融緩和の追加を示唆する中で、長期国債の買い入れ枠80兆円を無制限とし、企業債権も大幅に購入するとしている。
私には、財政ファイナンスであると同時に市場経済の崩壊以外の何者でもないとしか思えない。
一方で私は、それが一概に悪いことではないとも思っている。
ただし、政府、日銀が何を目的にするか、その目的が問題である。ただ単に、現在の社会経済を維持するために行うのであれば、コロナ感染と同様に、格差社会を拡大させ、ひいては人類の滅亡への道を加速度的に突き進むだけであろう。そうではなく自然との調和を目的とする新たな社会へのための財政政策、金融政策とするのであれば、財政ファイナンス、日銀による市場経済のコントロールは、最大の転換としての武器になるであろう。
一方で、すべての国民への痛みは莫大なものとなる。
しかし、国民は耐えなければならない。耐えることは、決して悲しみではない。真の想像力を高めれば、喜びでもある。

世界中で多くの感染者、死者が出続けており、その終焉は見えない。
そうした中で、経済活動は停止し、人の行き来も停止している。その先に待ち受けているのは、現在すでに世界中で生じている大量のリストラによる失業者の増加、アルバイトや仕送りの減少による就学の継続困難な学生の増加などである。

何度も言うが、今回の感染、それによる死亡自体がそうであるが、その多くは社会的弱者である。弱肉強食社会における食物連鎖でいう底辺部分の崩壊である。
2000年以降、我が国においても総中流社会が崩壊し、派遣型社会へ突入していたが、その底辺の崩壊によって、残っていた中流部分も崩れ去り、結果として頂点の生物も生き残ることが困難な時代、社会全体の崩壊を見ることになるのは時間の問題である。

最初の哲学者とされるダレス、世界が何でできているかという問いに対して、彼は、水であるとしたが、現代の有識者は否定するであろう。しかし、私は、現代の有識者たちよりも彼の方が正しいと考えている。
観念論、唯物論、物心二元論、唯脳論、何れも人間を中心とした概念もしくは、人間から見た概念に過ぎない。
私が、ダレスに近いとするのは、進化論においても私たち人類は、海から進化してきている。他の天体観測においてもかつてそこに水が存在していたのかが、そこにかつて生物がいたことの証左として考えられている。

現在日本中で行われているコロナ感染対策としてのズテイホームという掛け声の中で、多くの人々がネットを見る機会が増えている。それを念頭において、一部の人たち、元ライフドア社長堀江氏、元大阪府知事橋本氏、現在の大阪府知事吉村氏などの発言が、毎日のように取り上げられている。彼ら自身もこの時とばかりと自らを際立たせ、目立とうとしている。
ただそれらを毎日のように見せつけられ感じることは、ただ彼らの稚拙さだけであり、ただ鬱陶になるだけである。

確かに彼らは、現代社会において、ある意味で、お勉強はできるかもしれない。
しかし、彼らには、真の意味での想像力がない。脳育的には、前頭葉を発達させているだけだ。
彼らは、人間という限られた世界でしか物事を見ることができない視野狭窄した人間でしかない。
しかし、それは、決して彼ら自身だけではない。
与野党含めた多くの政治家たち、多くの官僚たち、そして私たち多くの国民もそうなのだと思う。

今、私たちが、自然(コロナ)から学ばなければならないのは、与野党間、各政党内における権力闘争ではなく、誰が日本の政治的リーダーにふさわしいかではなく、世界における覇権争いでもない。

私たち日本国民一人一人が、世界中の一人一人が対峙しなければならない課題は、自然と人類の関係の再構築である。
そういった意味で、ネット上で、目立ちたがろうとする彼らより、水を世界の根源と考えたダレスの方が、真の想像力あふれた人間である。

世界中の医療崩壊した医療現場では、数多くの命の選択がなされている。
限られたエクモ、人工呼吸器、集中治療室を巡って誰が優先的に使用されるべきかが問われている。そうした中で、世界中で、それらの医療器具の増産が行われてもいる。
日本においては、それらを避けるべく、PCR検査を絞って行うという選択の中で現在に至っている。
しかし、私は思うのです。
誰も彼も救おうとすることは、結局不自然なことではないのか。
自然の摂理に反しているのではないか。

私は、種の保存のための命の選択は、自然の摂理であると思う。
先日の海外のニュースの中で、コロナウイルス感染で入院治療、人工呼吸器を装着された高齢の女性が、自分より若い人に使ってほしいと人工呼吸器を外されて亡くなられたことが報道されていた。

一方で、自然との共通感覚、真の想像力を失った現代社会においては、肥大化した前頭葉と脳内コントロールを失い暴走した脳幹部によって過剰な自己防衛反応も生じている。
それらが、アウシュビッツ、人体実験、大量破壊兵器の開発使用、ウイグル、チベット、ロヒンギャなどの少数民族への迫害等々を引き起こした。

コロナウイルス感染による都市封鎖、医療崩壊の中で、私たちは命の選択を迫られ、そして、そのウイルスに対するヒトの抗体が充分に機能しないことが判明してきている現在において、私たちは覚悟をしなければない。
可能な限り感染爆発を起こさない中で、ある程度の感染は覚悟の上で、社会生活を再開し、学校も再開すべきである。
しかし、私たちは、今までの社会を作り直すことだけでは、種の絶滅から逃れることはできない。
新たな社会、それは、前回のブログでも述べたが、自然との共存を図れる社会でなければならない。原子力発電などの廃止、温暖化を推し進める産業から、温暖化を防止する省エネ産業構造への産業構造の変革、自給自足国家の構築(食糧の自給率の引き上げ)それらは、国民に大きな負担を強いるであろう。しかし、それを乗り切るための一時的であれ、資産課税含めた税制度の改革、ベーシックインカムの導入による低所得者支援などの早急な改革をしなければならない。
そのためには、国会の改革、地方分権の確立が不可欠であり、真の民主主義制度が大前提である。
自然(コロナ)によって今までの経済社会が停止した今でなければ、それらをなすことは困難であり、この機を逃せば困難ではなく不可能となる。何度も言うが、私たちに残された時間は少ない。

個の中に全体がある。

一人一人の個人の中に人類の歴史がある。地球の歴史がある。
個が変われば、国家が変わる、そして国家が変われば、世界を変えることが可能となる。
一人一人が、世界を変え、後世代の未来を救い、自然を救う先駆けとならねばならない。
私たち現代のヒトが変わらなければ、ヒトは絶滅危惧種になるだけである。

    2020年4月29日   文責  玉田憲勲

One thought on “往生際の悪い絶滅の時を迎えた人類~世界は何でできているのか

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