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私たちは、いつまでおバカな首相、国会議員のための愚民であり続けるのか

今の日本社会はまともではない。

私は、今の日本社会は、かつてヨーロッパでナチスが台頭した時代と瓜二つであると思う。
東京オリンピックを前にして公共事業や、宣伝によって政府が盛んに盛り上げようとしているが、妙に冷めきった何の実態もない空虚な空気は、私にとって、かつてベルリンオリンピックで沸き立ったあの時代のヨーロッパの雰囲気そのものであると思う。
ワールドサッカー大会などで、一見表面的には明るく健全な社会であるかのように誰しもが思っているが、中身は何もない。第二次世界大戦前のベルリンオリンピックが行われた時もそうであったように
それは、思考停止したゾンビが町中を彷徨っている社会に他ならない。
実際には、私が生まれる前のことであるが、確かに私はそう感じるのだ。

今の日本社会は、おバカな裸の王様である首相夫妻を筆頭に、実際には何の価値もないしょうもない大臣ポストや、官僚ポストや、報酬のエサにむさぼりつく国会議員や、官僚、そしてそのおこぼれに与ろうとする私たち中身は何もない。愚民社会に成り下がってしまっている。

誰しもが、おバカな裸の王様に、「あなたは、ただの嘘つきの、誰一人として尊敬すべき人間であると思っていない、所詮はただのおバカにすぎない」ということを言えないでいる。

このことは、今現在一生懸命生きている多くの日本国民にとって本当に不幸なことであるが、これから生まれてくる主権者たる国民にとって、もっと大きな不幸な災いをもたらすであろう。

先日の国会においても、受動喫煙対策を強化する健康増進法改正案を審議するために呼ばれた参考人の肺がん患者の発言中に「いいかげんにしろ」というヤジが国会議員によって発せられた。その国会議員はファミリーレストラン・ジョイフルの代表取締役相談役であり、大分がん復興財団の理事でもあった。
来週、私自身、校医をしている小学校での喫煙防止教育が予定されているが、子供たちにどう説明できるのであろう。多くの子供たちは日々、自宅で喫煙者である家人から現実的に健康被害にさらされている。私自身、授業の中で、彼らをその健康被害から守らなければならない責任を負っている。しかし、もっともその責任を負っているのは、その法制度を審議すべき彼ら国民の代表者たる国会議員である。
その国権の最高機関である国会において、全国民の代表者である国会議員が、真剣に受動喫煙による健康被害を訴える非喫煙者であり、受動喫煙により肺癌を発症し、その病を押して出席した国会によって招致された参考人に対する発言として許されるものではない。
国会議員ではなく単なるおバカにすぎない。私は敢えて言わざるを得ない。そんなおバカを選ぶ有権者自身も、また愚民以外の何者ではない。

前回のブログの中でも書いたが、あれだけ説明責任を求められた加計理事長が、先日の大阪を襲った震度6のどさくさの中で、地方の記者だけに限った記者会見を25分間だけ行った。他人の不幸を利用した悪質で卑劣きわまりのない行為である。会見を見ればわかるが、そこにいるのは、オドオドした落ち着きのない哀れなおバカな人間でしかない。彼を長年の親友としているおバカな首相の人間性もたかが知れている。類は類を呼ぶのであろう。その加計学園に対しては莫大な私たちの血税が使われているし、今後も使われ続ける。

森友学園に関しては、財務省による公文書改ざん、その国会への提出、虚偽答弁、会計検査院への虚偽報告これらはすべて、日本国憲法、法律に反するものである。
日本国憲法第15条2項、公務員は全体の奉仕者であり、一部の奉仕者ではないとする条項に明らかに反しており、国会への改ざん公文書提出、虚偽答弁は、日本国憲法が立脚する立憲民主主義の否定である。会計検査院への虚偽文書提出は、会計検査院自らも、先日、法令に反するとしたが、それ以前に財政民主主義を謳っている日本国憲法に反する違憲行為である。
国会への財務省が作成した公文書が先日提出されて明らかになったように、安倍夫妻は財務省への問い合わせ、紹介含めて深くこれらの問題に関わっていることを全国民は知っている。国会答弁の中で、自分たち夫婦が関わっていたら総理大臣だけでなく国会議員も辞めると断言した彼らは、今だもって総理をしており、三選をも考えている。総理夫人としてもその警備含めて無駄な国税が使われ続けている。
これほどの国家の基本法である日本国憲法に反することをしながら、大ウソをつきながら平然と行政府の長として行政を司り、国会議員として法律の制定に関わっている。私には人としての恥を知らないおバカな似たもの夫妻だとしか思えない。
またそれを支える政府与党の国会議員、多くの官僚たち、彼らも日本国憲法15条に反した全体の奉仕者であることを放棄し、日本国憲法99条の憲法尊重擁護義務に反した国家的犯罪者としか言いようのないおバカである。

私には、行政府から改ざん公文書を提出され、虚偽答弁をされ、働き方改革法案においても、虚偽の資料を提出され、国会が求めた会計検査においても虚偽の文書が提出されても、何もなかったかのように平然と国会審議を続けている与野党すべての国会議員の能力、資質を疑う。私には彼らもまたおバカの極みであるとしか思えない。その上で彼らを選ぶ私たち日本国民、有権者もおバカな愚民以外の何者でもない。

近畿財務局の職員を常識が壊れてしまったと自殺に追い込み、愛媛県職員が為したまともな公務をあたかも偽りであったかのように中傷する人たちが、首相として国家行政に携わり、それを支える保身のみで行動する国会議員や官僚が立法、行政に携わる。

今の日本社会においては、他者への思いやりを持った優しい人間や、日本国憲法を順守しようとする人間は生きてゆけないのだと思う。
まともな常識を持った人間では生きてゆけない社会なのだと思う。

先日のブログの中でもお話ししたように、私は現在広島地裁に訴訟を提起している。
具体的には、前回の衆議院選挙に私は、選挙人として投票し、被選挙人として立候補したが、その選挙は、虚偽に塗り固められた国会、説明責任の究極の放棄である国会議員の一切の発言を許さない冒頭解散に基づく、偽りの政権選択選挙であって、有権者の信を問うという主権者たる国民の選挙権、被選挙権への侵害であり、公職選挙法第一条の公正な選挙違反であるとして、3月に広島地裁へ国家賠償請求訴訟を提起した。 
 その第一回公判が開かれた。訴状、答弁書双方の意見の隔たりは大きいとして裁判官によって、口頭弁論の終結が言い渡されたが、その公判の翌日、国会において多くの隠ぺい、改ざんされた公文書が提出されたため、私は、新たな新事実として口頭弁論再開の申立をした。先日、その申立ても棄却され、明後日の判決を待っているところであるが、おそらく敗訴であろうと思う。

今回の訴えは、日本国憲法で認められた主権者たる国民としての権力的契機としての選挙権行使に関する権利侵害を問うており、国権の最高機関たる国会を構成する国会議員の権力の正当性、さらに言えば、国会議員の中から選出される内閣総理大臣の正当性、もっと言えば、内閣総理大臣が指名、任命する最高裁裁判官の正当性をも問う重要な問題である。
また、訴状の中でも書いたが、現在の我が国は、行政の肥大に伴う行政国家化現象、政党国家化現象の中で、国民の人権を保障するための三権分立が機能不全に陥っている。抵抗権の実力行使、革命を除けば、主権者たる国民にとって日本国憲法上、唯一残された人権保障制度が三権分立の中での裁判所、司法による違憲審査権である。
言わば、私が、何度も違憲訴訟、今回の国家賠償請求訴訟を起こしているのは、我が国において、主権者たる国民のための憲法上認められた人権保障機能が機能しているのかを問うているのです。

私は、主権者たる国民にとっての日本国憲法上、唯一で、最後の砦である司法の独立を、個々の裁判官の独立を信じているが、裁判官も一人の人間にすぎないのも事実である。裁判官の人事権を握る最高裁裁判所、それを構成する最高裁裁判官を指名、任命するのは内閣であり、そこがシロアリに食い荒らされるのも時間の問題なのかもしれないとも思う。

私は、シロアリによって現代立憲民主主義国家という家が倒れるその日まで、信じて戦おうとは思っている。

有識者や、多くの国民の中に森友加計学園問題をいつまでもやっているのだと、それより北朝鮮問題だ、株価や、経済政策などが重要だと訴える人たちがいるが、私は明らかに誤りであると思う。何故なら、森友加計学園問題は、北朝鮮問題、経済政策問題などのあらゆる国家政策を議論審議し、国民の言論、出版、一切の表現の自由、内心の自由さえも制限することが可能な法律の立法すらも議決できる国権の最高機関たる国会を構成する国会議員、それらから選ばれる行政府の長たる内閣総理大臣の正当性、主権者たる国民の権力的契機である国会議員選挙権にもかかわる問題、立憲民主主義の根幹にかかわる重要な問題であることを看過しているからである。

現代立憲民主主義が守られている限り、人は、例え戦争で国土が焦土化しようが、大恐慌で国家が疲弊化しようが、一人一人の国民は人権を守り、取り戻すことができるのです。しかし、現代立憲民主主義が存在しない社会では、如何に平和で、経済的に豊かであったとしても、そこには一人一人の人権は存在し得ず、人は、自由な発言、自己表現をすることはできない。人は、自己実現、自己統治もできない生ける屍でしかない。
それらがたいした問題でないとする有権者がいたとすれば、それ等の有権者は、有権者自身、将来の日本の有権者たちのことを考えない先見性のないおバカな愚民にすぎない、歴史を繰り返す単なるおバカにすぎないと、私は断言する。
そうしたおバカな人間は、現実の幻に過ぎない一時的な与えられた経済的豊かさに惑わされ、溺れてしまい自分自身の将来、未来の子供たちに起こる事実を想像できなくなっているのだ。

もう一度言っておこう。

私たちはいつまで、おバカな裸の王様である首相夫妻、おバカな国会議員を支持する愚民であり続けるのですか。
私たちは、あなたがおバカな裸の王様であることを、声をあげて語らなければならない。
私たち自身のために、そしてこれから生まれ来る未来の日本国民のために
日本中で、世界中で声をあげることもできないでいる人たちのために
私たちにはもうそんなに時間がないのだから
  
    平成30年6月24日   文責   世界のたま

覚悟のない国家(政治家、官僚、国民)~私たちはいつまで愚民であり続けるのか

 私たちは、今、世界でおきている様々な事象の中で、何を感じ、何を思い、何を為さなければならないのか。
 私は、私自身、そしてあなた自身に、そのことを問いたいのです。

 世界の難民の数は6850万人と過去最大に達しており、その7割近くがシリア、ミャンマー、アフガニスタン、イエメン、南スーダンからの難民である。そしてそれらの難民を最も数多く受け入れている国はトルコである。
 また国連は、経済的に貧しいバングラデシュや、レバノンなどが多くの難民を受け入れているのに対して、経済的豊かな国である先進国による受け入れが少ないことも指摘している。
 そんな中、トランプ大統領は、日本には難民問題がなくていい、もしあれば安倍政権はいっぺんに崩壊すると皮肉った。
 一方、地中海ではイタリアがアフリカからの難民を乗せたアクアリウス号の入港を拒否し、そうした中でスペインが受け入れを表明し、アクアリウス号は無事スペインへ入港することができた。

 アフリカの歴史を考えた時、私には、その歴史は、欧米諸国に翻弄された歴史であるとしか思えない。産業革命以降、イギリス、フランスなどの列国によってアフリカの各地が植民地化され、一方で数多くの人たちがアメリカに奴隷として連れていかれた。
元々アフリカには数多くの民族が生活し、自立していたが、列国は植民地化するにあたってそれらの民族のことなど考えず、国境線を引き、列国にとって都合のいい産業のみの育成を図った。

第二次世界大戦後、特に1960年はアフリカの年として数多くの独立国が誕生し、それ以降も数多くの国が独立に成功した。しかし、独立後の現在も民族紛争、貧困による死者、難民は後を絶たない。私には現在生じている紛争、貧困の主たる原因は、現在先進国とされ、富を蓄積続けている国々が過去に行った民族をまたいでの国境の線引き、自立していた生活基盤の破壊にあるとしか思えない。
そして現在のアフリカに積極的に進出している中国もまた真の意味でのアフリカ諸国で生活する人々の為ではなく一部の権力を持つ人々や、中国自身の覇権のためにすぎない。
しかしそのことは、欧米が過去にしてきたことを中国がしているだけであり、そしてその欧米自身も、今現在もなお産業廃棄物のゴミ捨て場として利用し、貴重な動物の乱獲などをはじめとして、アフリカを搾取し続けていることもまた事実である。

現在の世界経済において問題になっているアメリカによる世界各国に対する関税引き上げ、経済制裁、多国間交渉拒否を含めたアメリカファースト、中国による一帯一路政策、ヨーロッパにおけるユーロの見直し、すなわち共通予算、EU内IMFの創設などを考えて見よう。
アメリカで生じていることの原因は、経済至上主義の下で生まれた国家を超えたグローバル企業の存在が大きいと私は思う。第二次世界大戦に参戦するまでのアメリカにおいては決して起き得なかったことである。何故なら、その当時、基本的にはグローバル化を否定することによって、アメリカの独立と、国内の民主主義を守ることはいとも簡単にできたのだから。

現代社会において、国家を超えたグローバル企業の存在を否定することが有り得えないとするならば、そうした中で、それらの利益を確保するためには、関税、他国への経済制裁含めた国家権力の強化は不可欠である。その結果として、民主主義は否定されざるを得ず、当然のごとく国民の経済格差は広がってゆくだけである。
 
中国における一帯一路政策もそれが成り立ちうるのは、ありとあらゆる地球資源を求めたグローバル化と、国家中心主義である。構造的にはアメリカとまったく同様であり、国家がバックアップする形でのグローバル化企業の育成は絶対である。それらの政策を行う上で、不可欠なことは民主主義の徹底的な否定に他ならない。ネット規制、人権弁護士拘束、国民の監視強化は必然的に起きている事象にすぎない。民主主義を尊重した中での国家を中心としたグローバル化は存在しえないのだから。
 
独仏が現在中心で行っているユーロの見直しに関して言えば、私は、基本的には以前のブログでも多少述べたことがあるが、困難であり、最終的には不可能なことであると思う。何故ならばEUを構成する国々は最終的には国家主権を否定することができないからである。 
 現実的にオランダは反対しており、ドイツの多くの国民も何故、自分たちが他国の尻拭いをしなければならないのかと反対している。実際メルケル首相も、EU内IMFに関してもその規模は小さいものとしており、フランスとの隔たりは大きい。
EU内南北問題に関して言えば、共通通貨制度の下であるがゆえに莫大な利益をドイツは得ることができている事実を、すなわちEU内南北問題の大きな原因の一つはある意味でドイツにあることをドイツ自身が認識しなければならない。

 国際機関に関して言えば、国連そのものをはじめとした国際組織の存在意義が問われてきている。核を保有する常任理事国による拒否権の存在もその大きな原因の一つであろう。
アメリカが脱退を宣言した人権理事会、そして先進国首脳会議すらも、その存在の意味はなくなってきている。
経済協力開発機構を考えてみよう。戦後の荒廃したヨーロッパへの経済援助、及び共産主義勢力に対する対抗処置としてなされたアメリカによるマーシャルプランの受け皿として始まったもので、その目的は経済成長、自由貿易の促進、発展途上国支援であり、それに加わることがかつては先進国の証であった。それによって、確かに欧米、日本を含めた国々で経済は発展し、GDPも増え、それらの国々の国民も物質的に豊かにはなったことは事実である。

しかし、人間の際限のない欲望の中で、より多くの国々のより多くの国民が現在より多くの物質的豊かさを求め続けることも必然である。
一方で、地球資源は有限であり、地球環境には限界がある。トリクルダウン理論でのケーキのパイには限界があるのだ。その限られたパイの中で、生じてきているのが、先にあげた現在の世界経済で起きていることなのだと私には思えてならない。

我が国に目を向ければ、国会の会期末ギリギリ、大阪で震度6の地震が起き小学生の女の子が亡くなり、ワールドカップの大会もあったため世間の関心がそっちに向いた6月19日に、どさくさに紛れて、加計学園理事長が地元の記者のみを集めて記者会見を25分間だけ行った。
また、与党は国会の会期を来月22日まで延長してカジノ法案(IR実施法案)の成立、参議院の議員定数増加法案の成立を図ろうとしている。又、文化庁は先進美術館構想として、美術品の販売を多くの文化人が反対する中で促進しようと目論んでいる。

今、世界中で、そして日本国内で生じている上記にあげた多くの問題は、グローバル化した社会において、経済至上主義が推し進められた結果、必然的に生じているにすぎない。

 そこにあるのは、前回のブログでもお話しした経済至上主義による立憲民主主義社会の崩壊、富あるものによる説明責任の否定、社会的弱者の存在の否定に他ならない。

 北朝鮮問題、難民問題含めた現在世界中で生じているあらゆる問題の根源は、経済至上主義による説明責任の否定、立憲民主主義の否定、立憲民主主義国家の崩壊にある。
 アメリカのトランプ、中国の習、ロシアのプーチン、トルコのエルドアン、北朝鮮の金、そして日本の安倍らは、経済至上主義の下で、経済そのものを目的としてしまっている。私たちは、経済を目的ではなく手段とする社会に変革してゆかなければならない。
 そのためには、非常に勇気がいることではあるが、ある程度の富を捨てる覚悟をしなければならない。他者を含めた自然との共存が可能なレベルまでの物質的欲望をコントロールする覚悟が私たち一人一人に求められている。
 それは、日本社会でかつて美徳とされていた「足るを知る」覚悟に他ならない。

  私たちは、決して世界中の社会的弱者からの叫びに、耳を塞いではいけない。
  私たちは、決して現実から目を背けてはならない。
  私たちは、決してキラキラと輝く純粋な瞳の輝きを失ってはならない。
  私たちは、決して思考停止してはならない。
  私たちは、決して愚民であり続けてはならない。

     平成30年6月22日   文責  世界のたま

世界を覆う暗雲(経済至上民主主義)と、その末路

連日、北朝鮮をめぐる問題、特に来月開かれるとされているアメリカと北朝鮮との首脳会談についてのニュースが流れている。
南北朝鮮を中心として、中国、アメリカ、そのそれぞれの国の思惑の中で駆け引きがなされている。

北朝鮮問題に関して、一見、核や、ミサイルがその中心であるかのように、一般的に考えられているが、最近の世界の流れを見ていて、私は、それが本質ではないと思う。
以前からお話ししているように、私は、現在の安全保障は、その対象は、もはや国家ではなく、個人であると思っている。

それが証拠に、決して北朝鮮が、本気で現実的に他国相手に国家としての戦争を起こすことは有り得ない。たしかに、北朝鮮の指示命令系統がどこまで機能しているのかがわからないために、偶発的な武力衝突は一部で否定はしないが、国家としての戦争を仕掛けることはない。

このことは、中国、ロシア、EU諸国をはじめ世界中の国家間で言えることだ。
その理由は、国家間で戦争するメリットが何一つ存在しないからに他ならない。

私が、従来の国家を対象とした安全保障政策は、ほとんど何も功を奏しないとしているのは、何度も申し上げているように、現代の安全保障はその対象は、国家ではなく個人だからである。ここで私が言う個人とは、個人的なテロもそうであるけれど、国境を越えた民族、宗教含めたレベルのテロ、戦闘であるということだ。そこでは、もはや国家を対象とした安全保障政策はほとんど機能しない。

それでは、現代における安全保障政策はどうしてゆけばいいのかということであるが、まず現実の世界で起きていることを見つめなおさなければならないと思う。
現在、世界中の国々で起きていることをよく見て見ると三つの共通の特徴がある。

一つは政権の長期政権化である。ロシアのプーチン、中国の習、フィリピンのドゥテルテ、そして日本の安倍もそうであろう。これらは、国民が望んでいるというより、本人を含めた一部のそれらの政権を支えている人たち、それらの政権によって多くの利益を得ている人たちが望んでいるだけであり、憲法を変え、法律を変え、国民を錯覚させて、その政権の維持を図っている。

もう一つの特徴は、経済至上主義である。お金、物をたくさん持つこと、GDPを増やすことが、その唯一の目的である経済至上主義の中で、必然的に国の体制に関わらず世界中の国々で経済的格差、貧富の差は拡大しており、中間層が減って貧困層が増え続けている。現代社会において、貧困家庭に生まれた子供たちには貧困になる自由しか残されていない。かつてキング牧師が語った「私には夢がある」は遠い昔のことで現代社会においては「私には貧困しかない」のが現実である。

上記にあげた二つの特徴は密接に関連している。長期政権を維持し、現在富あるものがその富を維持し、減らさないためには、中間層、貧困層の人たちが夢をもってもらっては困るのです。ただひたすら彼らのために働く、何も考えない働きアリであり続けてもらわなければならない。
そのためには何が必要か。
そうです。富あるものが権力を握り続けるためには、資産あるものが社会で強者であり続けるためのお金、物が最も生きてゆく上で重要であり、価値のあるものだということを国民に錯覚させる社会的な仕組みである。

経済的には、コマーシャルなどを利用して、子供たちを含めた国民により多くの消費を刺激し、企業が利益を上げることがすべての労働者に利益をもたらすというトリクルダウンというインチキな理論で人々を錯覚させ、そのためにも消費が美徳であるという価値観を植え付け続ける。

政治的には、政治献金などを通じて、資産を持つものは、その資産を維持することを図り、政治献金や天下りを通じて、政治的権力あるものは、その政治的権力の維持を図っている。このことは、一応民主主義国家とされている日本や、アメリカにおいて明らかである。我が国日本においては、一時期禁止された政治献金を復活させ、禁止する代わりに設けた政党助成金もそのまま国民からちょろまかし続けている。アメリカにおいては連邦裁判所の判決において、政治献金の限度額規制を撤廃させ、莫大な企業献金によって政治が動かされてきている。最近、アメリカ国内で立て続けに起こっている銃による犠牲の中、高校生などの反対運動にもかかわらず銃規制がなされないのもその典型例である。
そして政治的個人レベルにおいては、国民にお金や物の消費に興味を集中させ、政治的関心を削ぎ、貧困層を増やすことで、政治など考える余裕を削いでいる。
現在開かれている国会で議論されている働き方改革法案など、あんな自分たちの都合のよい調査方法、でたらめの調査結果を見ればわかるが、労働者を人権を有する国民とはもはや考えていない。

たしかにお金や物はある程度は人が生きてゆく上で必要であるが、それは経済至上主義でいう至上の目的ではない。単なる手段にすぎない。

そして世界を取り巻く三つ目の特徴であるが、先にあげた二つの特徴の結果でもあるが、多くの人は、特に経済的な貧困層の人たちは、所属する宗教に、民族にその救いを、更なる救いを求めているのではないかと私には思えてならない。結果として国家を超えた宗教間、民族間の争いが激化しているのだと思う。

そうした三つの特徴を持った現代社会の中での安全保障をどう考えてゆくかであるが、安全保障を他国からの侵略などととらえる安全保障政策を見直すことである。このことは、政治体制に関わらず言えることであるが、現在権力を有する勢力による多くの国民を錯覚させるだまし以外の何者ではないと私は思う。
特に、政権の維持が難しくなったとき、古今東西、歴史的にも時の政権がその維持を図るために国民のその関心を国外に仕向ける常とう手段に他ならない。
現在のロシア、中国、日本、アメリカを考えて見たらいい、すべての国で言えることだ。
そしてこれも特にアメリカで言えることであるが、経済至上主義の中で、実際の国家間の戦争は別にしてその脅威がなくては困るのだ。イランとの核合意の破棄、エルサレムへの大使館移転などはその典型例である。案の定、その脅威の中で、サウジアラビア、日本をはじめアメリカから莫大の兵器を購入し、アメリカの兵器産業をしっかり支えているのをみればバカでもわかることだ。

そうした中で、私たち日本人は、これからどう考えてゆくべきなのか。
私は思うのだけれど、たしかに経済発展して、世界の中でも最も経済的には豊かな国の一つになったとは思うし、そのこと自体を否定するつもりはない。
しかし、先にあげた三つの特徴を持つに至った現代社会において、私たち日本人はもう一度、民主主義とは何なのかを問い直さなければならないと思う。

今、世界を覆っているのは、民主主義は民主主義でも、立憲民主主義ではなく経済至上民主主義であることに、私たちは気付かなければならない。

経済至上民主主義の行く末に待っているものは、決して一人一人の人権が尊重される世界ではない。真逆の人権のない世界以外の何者でもない。有限の地球資源の中で、世界中の人々の無限の欲望を満たすことは原理的に不可能である。そこにあるのは力で資源を奪い合う争いの絶えない世界でしかない。

そして、前回のブログでも書いたように、たとえ勝ち残ったとしても、もはや勝ち残った者が生存しうる地球環境も存在してもいないのに

最後になりますが、私自身、今週予定されている公判の中で可能な限り、現在のそして将来の国民のために、我が国の立憲民主主義の重要性を訴えてゆこうと思う。

     平成30年5月20日   文責  世界のたま

人が生きることの意味(死にゆく世界の中で思うこと)と、その追記

ホーキング博士が亡くなられた。
彼は、天才科学者と言われているが、私自身ほとんど彼のことを知っていなかった。以前お話ししたように、私は科学とは自然から見たときに、所詮、稚拙なお遊びにすぎないと思っているからである。
そんな訳で、彼が、生前の一昨年の2016年に人類は1000年の間に絶滅すると計算し、それまでに生き延びるためには他の天体に移り住まなければならないとしていたこと、そして、昨年の5月、それを短縮させ100年後としたこと、彼がそれらを言い残していたことを、彼が亡くなって初めて知った。
先に述べた様に、私は彼の存在はある程度知っていたが、彼が一昨年、昨年に、そのような人類の未来(未来というよりもうすぐである)を予測していたことに驚いた。

もうすぐ地球上で人類が住めなくなることは私自身4年前、このブログを立ち上げた時から予測し、世界に訴えてきたところであるが、天才的な科学者である彼自身もそういう予測をしていたことに少し驚かされたのだ。私自身は彼のような科学という手段を用いて予測しているわけではない。自然との共通感覚以外の何者ではない。
彼は100年後の地球の予測として、酸素がない二酸化炭素に覆われた250度の高温地獄である金星のような星になることを予測している。

私が、亡くなる直前の彼の予測の中で最も危惧することは、100年後に人類が絶滅することではなく、彼がたった1年でその人類の絶滅の時期を1000年から100年に短縮していることである。彼自身もそうであると思うが、私自身、人類が地球上で生きることが困難になる時期はもっと相当早い時期にやってくることは間違いないと思っている。おそらく数十年先には必ずやってくるであろう。

私は自然との共通感覚の中で、北極の氷が音を立てて海水の中に崩れ落ちている音を聞き、オーストラリアの世界最大のサンゴ礁の生息地で、静かにその生の息吹を止めて白色化している光景を目の当たりにしている。

以前、ブログの中で述べたことがあるが、海は人類含めたあらゆる生物の子宮である。人は海の中から進化し、作られた生き物であり、私たち一人一人、全ての人間は、女性の子宮の中で細胞分裂を繰り返し、羊水という海水の中から破水し、生まれてくる。系統発生を繰り返している。言い換えれば、私たち人類含めた生物は海無くして発生しえなかったし、生きることもできない。

海は、あらゆるものを飲み込み、海に生きるサンゴ礁、微生物含めた生き物によって、それらを浄化し、地球の生命の維持を図ってきた。

経済至上主義の中で、地球温暖化は加速し、その中で海はその温暖化を何とか押しとどめようとしてきたが、北極の氷が融解し、その氷がなくなってしまうことも時間の問題となっている。氷が解けることで、海水温は上昇し、氷がなくなることで、太陽光を反射することができなくなり、そのエネルギーの多くが海水に吸収され、その海水温の上昇に拍車をかけてゆく。

海水温の上昇の中で、サンゴ礁はその生命を維持することはできず、その多くが死滅する。サンゴ礁の死滅はプランクトン含めた多くの海水中の生き物の生態系を破壊してゆく。海水温の上昇は、地球温暖化を加速し、地上の生物の生態系を破壊するだけではなく、巨大台風、海面上昇、食糧難、水不足など人類にとって、多くの国家を超えた争い、生存競争を生じさせ、その個々の生命的危機は、海水温の上昇よりかなり先行して生じるであろう。

それでは、ホーキング博士のような高名な科学者が盛んに訴えた中で、何故、人類は本気になって考えないのか、私のような者が訴えているのではないのにである。
科学によって全ての事象を説明し、解決することができると考えているおバカな現代人がそのような不都合な事実に関して何故、口を閉ざすのか。
答えは簡単である。100年後だからである。(しかし現実は甘くはない。数十年後だ)

そうなのだ。
自分自身に関係ないからに他ならない。
デカルト以降、人が自然と乖離し、自然との共通感覚を失い、人間中心主義の中で、社会の科学化、経済化が進む中で、自然との共存を失ったように、最も身近な自然である現在共に生きている同じ人間である他者との共存はもちろんのこと、真の意味での想像力を失った私たちは、数十年先の子供たちに対する共存する思いをも、人類は失ってしまっているのだ。

この一カ月、日本、世界で起きている出来事を見るにつけ、非常に滑稽である。ある意味で無知であり、ある意味で生物の持つ潜在的な来るべき将来に対する不安がなせる業なのかもしれない。

日本国内に限って言えば、森友、加計学園問題、財務省、新潟県知事などの様々な、しょうもない稚拙な問題、世界から見て猿回しのサルでしかないことに気付かない哀れな安倍さん含めた政府、そして国会、結局、日本国民自体が、バカにされ、同情すらされても尊敬されるには程遠い存在であることに気付いていないおバカさんぶりである。

今を生きる私たち人間、一人一人がどう生きるべきか。
特に日本人である私たちがどう生きてゆくべきか。
たしかに北朝鮮問題、経済問題、多くの問題がある中で、その日の生活のこと、来月の生活費、子供の教育、住宅環境、老後の不安、婚活、周りのことなど考えることなどできない、そんな余裕はないと考えている人も多いと思う。

しかし、そんなすべての人にできること、伝えたいことは、決して自然との共通感覚は忘れないでほしい。思い出してほしい。
その共通感覚の中で、自然も含めた全ての他者との共存を大切にしてほしい。
決して自分が母親の子宮から生れ出たときの純粋無垢な瞳の輝きを忘れないでほしいのです。

私自身、そうした生き方をしてゆきたいと思う。
最後に、私事になりますが、訴訟の方法として本意ではないが、日本国憲法とは何なのか、国会議員選挙とは何なのか、国民の代表とは何なのか、それらに対して私自身が立候補した昨年の衆議院選挙につき、3月に国家賠償請求訴訟を広島地裁に提起したが、その公判が来月に開かれることになっている。たとえ何も変わらないとしても自分ができる、できる限りのことはしたいと考えている。

私は、個の中に全体があるのだと思う。
個が何も為さずして全体は何も変わることはない。
私は、ホーキンズ博士の言うように地球外へ移ることが、人類の生存にとっての解決策になり得るとは思えない。どこに行ったところで、人類は所詮人類でしかありえないのだから

言い換えれば、人類含めた宇宙空間そのものも、私たち一人一人の個の中に、細胞の中にあるのだから

最後にもう一度言っておこう、私たちはキラキラと輝く純粋無垢な瞳の輝きを決して失ってはならない。

    平成30年4月22日    文責   世界のたま

追記)
  二つのことを、敢えて述べておこうと思う。
 一つは、本文に述べたことは事実であるが、一方で、私は、自然と人類との関係において、自然が加速度的に人類を、絶滅させようと図っているともいえると思う。人類以外の種や地球そのものを維持してゆく上で、経済至上主義を邁進する現在のままの人類の絶滅は不可欠である。現象としてはヒトという種としての自然淘汰ということになるのであろう。人類の絶滅によって、地球環境、人類以外の種が守れるかどうか、私にもわからない。しかし、私を含めた現代人が今のままではその存在を否定されても仕方ない。最終的に、それしか地球環境を守れないとするならば、私は敢えて、私自身も含めて、一刻も早い人類の絶滅を願うしかないのかもしれない。そうした中では、世界が加速度的に、アメリカファースト含めて、人間同士が争い殺し合うという事実も悲しいことではあるが、逆説的には歓迎すべきことなのかもしれない。
 もう一つは、私事という言い方をしたが、来月公判を迎える国家賠償請求訴訟に関して、最終的に私がこの裁判で問うているのは民主主義とは何なのかという問題である。民主主義という概念は、本当に面白い概念である。真の意味での民主主義は、私が言う個の中に全体があるという概念の具現化された概念に他ならないからである。そして、真の意味での民主主義の確立のみが、上記に述べた地球を守ることのできる、種としてのヒトが生き残れる唯一の術に他ならない。

    平成30年4月23日  文責  世界のたま

常識が壊れた社会に未来はない~国会の集中審議、内閣総辞職に何の意味もない

森友問題で、今朝から国会集中審議がなされている。
財務省文書改ざん問題が明らかになって以降、多くの政治家、評論家、ジャーナリストが連日、様々な意見を述べ、テレビや、ネットで数多く取り上げられていた。

そうした中で、加計学園においても公文書改ざん、前川元文科省事務次官の公立学校での講演についての文科省による脅迫じみた問い合わせ、それに関わる政治家の関与などの問題も報じられ、これらについても様々な形で議論されている。

結果的に、現時点では新聞各社の世論調査では内閣支持率は低下し、そうした状況をある意味で利用することで、与党においては、財務大臣、総理大臣の辞職、それがなくても今年中には行われる総裁選での次期総理を巡っての駆け引きが始まっている。
一方、自民党以外の政権与党、野党においては、如何に自らの政党へのダメージを減らすか、もしくは今回の件を利用して政治的立場を強くし、議席を増やすことにつなげるか、いずれにしても相も変わらない政治ショーが繰り広げられている。

私自身が、この間の様々な出来事の中で思い、考えることを述べておきたいと思う。

私は、このブログのテーマにも挙げているように、今回の国会での集中審議、そしてたとえ、財務大臣が辞職しようと、内閣が総辞職しようと何の意味もないと思っている。
たしかに一時的には、現在の政権が持つ強権的な態度は多少減ることは予想され、そういった意味で意味があると考える人達がいるとすれば、おそらく、現在の与野党の多くの国会議員、官僚はそうなのではないかと思うが、そのレベルの人にとっては、その人なりの意味があるであろう。
しかし、結局は単なる自己満足、保身のレベルでしかない。現在、将来の主権者たる国民、子供たちにとって根本的には何の解決にもならず、一昨年、昨年の国会議員選挙立候補時にも述べた様に、問題を先送りするだけで、時間の無駄にすぎない。その際にも述べたが、私たちにはもう時間がないのです。

私にとって、今回の森友、加計学園に関する公文書改ざん、そして文科省による学校教育への政治的干渉などは、起こるべくして起こっている単なる一つの事象にすぎないのです。
問題の根幹は、一昨年度の参議院選挙立候補時に有権者の方々に訴えた憲法違反の国会議員、内閣、そして、昨年の衆議院選挙立候補時に訴えた我が国の学級崩壊状態、すなわち、現代立憲民主主義の否定にあります。

今回の件で、様々な国会議員や、評論家が民主主義の根幹を揺るがす事態だと盛んに語られている方々がいるが、私がこのブログを始めた時から、すでに我が国に限らず、世界中の現代立憲民主主義の崩壊が始まっています。だからこそ、私自身、ブログをはじめ、国会議員に立候補する形で有権者に訴え続け、裁判でも戦ってきたのです。彼らはあまりにもその認識が遅すぎるのです。遅いということは時間的に遅いというだけでなく、その根本的な原因についての認識すらも未だしていないことを意味しています。

そういった意味で、今回の公文書改ざん問題で、たとえ、財務大臣を辞めさせたり、内閣総辞職させることで(支持率の低下があり決して解散総選挙にはならない)、公文書管理の徹底、政府からの学校教育不干渉を約束することで、根本的原因を理解していない彼らは、政治的保身、政党的レベルで満足するのかもしれないが、根本的問題である現代立憲民主主義の崩壊、学級崩壊社会に関しては何ら解決もしないままで、もっと大きな悲惨な形で現在、将来の主権者たる国民に災いが降りかかってくることを想像、予測することができないでいる。
誤解を恐れずに言えば、今回問題となっているお友達のためなら、政治的便宜を図り、公文書改ざん、国会での嘘の答弁、権力を使っての逮捕の取り消しなどしている現政権と基本的にはなんら違いはないと思う。強欲さが大きいか小さいかの違いにすぎない。
彼らには真の意味での想像力が欠如している。言い換えれば真の意味での他者との共存の心が欠如している。

私がこのブログを立ち上げて4年近くになるが、この間、ブログを書き、広島地裁、高裁、最高裁裁判所に幾度となく訴え、国会議員に立候補して思うことは、主権者たる国民の基本的人権を守るべき国家機関たる現在の内閣、国会、司法、それぞれのその構成員にあるのは驕りだけであり、本来、彼らが最も必要とすべき謙虚さや、想像力がないという事実。
そしてその構成員のそれらの能力の欠如を補完し、その乱用を防ぐための国家機関の相互の抑制たる日本国憲法上、定められている三権分立の機能がまったく機能していない事実です。

今、私たちが問題としなければならないのは、我が国が学級崩壊していることを、国民一人一人が認識しなければならない。
学級崩壊しているその原因は、これまでも幾度となく述べ、このブログの基本的理念である日本国憲法の順守がなされていないことにある。具体的には、特定秘密保護法による知る権利たる表現の自由への侵害、安保関連法における憲法に反する集団的自衛権の容認、共謀罪(テロ等準備罪)における前国家的権利であり、民主主義にとって不可欠な権利たる内心の自由への侵害である。

上記に述べた様に、本来であれば、主権者たる国民が、政治的無関心、思考停止していても国会、内閣、司法がその三権分立という人権保障機能の中で、国民の人権は守られるはずなのであるが、先程も述べた様に、そこが全く機能していない。
今回の集中審議も、その結果としての財務大臣辞職、内閣総辞職、また、公文書管理体制の徹底、公教育への権力の介入防止などをしたところで、三権分立による人権保障機能不全、日本国憲法の順守がなされない中では、全く意味をなさないのです。もはや時間の問題で、もっと大きな悲惨な形で私たち国民の人権が侵害されることは火を見るより明らかなことです。

知る権利の妨害、平和的生存権への侵害、そして内心の自由への侵害、この4年間で、急速に私たちの人権は侵害されており、その結果として今までにはありえなかった国権の最高機関たる国会への偽造公文書の提示、国会でのねつ造された答弁、もはや我が国は、国家として成り立っておらず、こんな状態で私たち国民の人権が守れるわけがないのです。

この4年間、私自身、個人的には可能な限りのことはしてきたつもりですが、昨年10月の衆議院選挙立候補時に皆様にお伝えした学級崩壊状態がいよいよ明らかになってきています。選挙後のブログでのあいさつの中で、最終的な問題、責任は、私たちおバカな国民にあるとお話ししました。
たしかに、昨年の衆議院選において党利党略、自己保身の中で右往左往した政治的判断能力、想像力の欠如した与野党すべての国会議員にその最大の原因があることは事実です。彼らは国民の代表者たる国会議員なのだから。
しかし、先にも述べた様に、現在、国家権力を構成するすべての三権は、個々に、我が国の、世界の真の将来を想像し、あるべき世界を描き、実現する想像力、政治的能力を持ち合わせていません。さらに悪いことには、その三権の人権保障のための抑制と均衡する能力すら持ち合わせていないことが、この4年間ではっきりしています。

私は、衆議院選で述べたことを、もう一度皆様にお伝えしなければならないと思う。
私たち主権者は、自分たちの人権は現在の代表者ではなく私たち自らが守るしかないのです。
私たちは今までのような、おバカな国民、思考停止した国民であってはならないのです。
もし、あなた方が自分たちの子供、家庭を大切に思うなら、おバカな国民から卒業しなければならない。合理的無知や、合理的非合理性の中で、何も考えず、棄権したり、単に党員だからという理由だけで、所属政党に一票を投じ続けることから卒業しなければならない。

真の意味で、自分自身を愛し、家族を愛し、日本国民を愛し、同様に世界中の平和を求める人々を愛する人に、私たちが、どう考え、何を為すべきかを伝えておこうと思う。

1.現在の我が国が、現代立憲民主主義国家としての体を成していない学級崩壊状態である共通認識を持たなければならない
2.その原因は、現在の国会の代表者が、政治的能力が欠如した、真の国家、国民のことを考える代表者でない以上、私たち国民にそのすべての責任があることの自覚を持たなければならない
3.私たち全ての国民は、政党や様々な組織人である前に主権者であることを、決して忘れてはならない
4.現在の説明責任を放棄するだけではなく、私たち国民の権利、義務に関わる法律を制定する国会に対して公文書改ざん、虚偽の答弁をする政府、それを容認してきた国会、裁判所、それらの根本的な原因は、バカの一つ覚えのように改正のことばかり訴え、現実に存在している日本国憲法を守らない、守らせないことにあるという認識を持たなければならない
5.民主主義とは、少数意見が多数意見になりうる可能性であり、そのためには議論、説明責任が不可欠である。正確な公文書、嘘偽りのない答弁のないところに議論は成り立たず、民主主義は存在しえない。
6.あらゆる民主主義を大切にする組織は、説明責任を必要とするが、現在の経済至上主義の中での富の蓄積、格差社会においては説明責任を必要としなくなってきており、今回の一連の出来事もその延長線上にある。私たちが民主主義を取り戻すためには、経済至上主義を見直し、格差社会を是正するしかその術は無い。このことは世界中で起きている現実でもある。
7.国会議員選挙権の平等については、今回の一連の出来事でも明らかなように、選挙で大勝したら、次の選挙直前まで、選挙民のことなど考えないレベルの全国民の代表者とは程遠いのが現実である。私は選挙権とは選定権であると同時に、罷免権であるべきだと思う。特に衆議院議員選挙においては、直ちになされなければならない。そうした中で、立候補選挙区とは別の選挙区民による罷免制度などを導入すべきであり、そうした罷免権という点から選挙権の平等を考えたとき、その差は1:1に近づけなければならない。
最高裁の判断を仰がなければ自分たちの身分すら判断できない政治的レベルの低いおバカな現在の国会議員の制度改革を優先的になさねばならない
8.私たちは真の民主主義を取り戻して、日本国憲法にも謳われているように、他国、特にアメリカに追従するのではなく、国際社会に対して名誉ある地位を得なければならない。

最後になりますが、現在の我が国は、志半ばで自殺され、無念の死を遂げられた近畿財務局の職員が言い残された、常識が壊れてしまったという一言に尽きると思う。しかし、常識が壊れたのは、彼ではなく、政府、国会議員、裁判所を含めたそれらを許している私たち社会である。

自殺された近畿財務局職員をはじめ、財務省本省で亡くなられた方々も含め、この場をおかりして、ご冥福をお祈り申し上げます。

私たち主権者たる国民は、彼らを含めて、現在声をあげられず人権侵害で苦しんでおられる方々、現在の未成年者、未来の子供たちのために、政治的圧力で教育をゆがめるのではなく、真の意味で彼らのためになさねばならぬこと、それが何かを真剣に考え、直ちに行動しなければならない。私たちにはもうそんなに時間は残されていないのだから

そして、それが正義である。

  平成30年3月19日   文責  世界のたま

オセロゲームと現代社会~コーナーの白い石となれ

世界情勢を見まわした時、現代社会は一枚のオセロゲーム磐である。
地球という限られたゲーム磐の上で世界中の国々が黒や白の石を置いている。それぞれの国の政治的状況において国民の思想、良心、表現の自由などを中心とした基本的人権が守られ、尊重されている国家を白石、虐げられている国家を黒石とするならば、現在のオセロゲーム磐上には黒石が、急速にその数を増やしている状況にあると言える。
アメリカのトランプ政権によるアメリカファースト主義、ロシアにおけるプーチン大統領選再選によるプーチン独裁体制、中国における習主席の独裁体制、フィリピンにおけるドゥテルテ大統領、北朝鮮の独裁体制をはじめ、現在紛争が起きているシリア、南スーダン、イエメン、パレスチナなどその黒の濃さの程度は別にして、ゲーム磐全体として、黒石が広がっている。
その大きなゲームの流れの中で、思うことを述べておきたい。
このオセロゲームの流れの行く末である。

何度もブログの中で述べているように、根本的問題は、私たち人間の自然との乖離、人間中心主義、その結果としての、経済至上主義にある。科学とは自然から見れば稚拙な単なるお遊びにすぎないということに気付きもしないでそれこそが万能であると考えている。愚かな人間であるという自覚の喪失。
そうした中で私たち愚かな人間は歴史を繰り返し、お互いを殺し合い、傷つけ合い、自分たちの存在基盤たる自然環境すら破壊していることに気付きもせず、たとえ気付いたとしても当面の自己満足のために見て見ぬふりをしている。愚かさの極みである。

自然環境含めた資源には限界がある。オセロゲーム磐にサイズがあるように、しかし、人間の欲望には際限はない。
経済至上主義の中で、富の蓄積は進行し続けている。現在世界で起きていることは、先程も述べたように、必然的に蓄積した富を有する者は、その保全、更なる拡大を求めて、独裁体制の継続を図ろうとする。
それを可能とするのは、何度もブログの中で述べてきていることであるが、あらゆる民主的組織においては要求される説明責任が、富の蓄積の中では必要ないからだ。富こそが資本主義経済社会にとって善であり、それに対して何の反論も意味はなく、正論は無力である。

現実に、現在、我が国に起こっている事実を見て見ればいい、森友加計問題における情報の秘匿、自衛隊日報隠し、平気で国権の最高機関である国会において虚偽答弁、証拠改ざんをして、ニヤニヤ笑みさえ浮かべている。説明責任などかけらもない。

彼らにとって、財政民主主義、自衛官の生命の尊重などの最低限の憲法規範を守ろうとする心など持ち合わせてはいない。
臨時国会召集義務の無視、何の説明もせず、国会議員の一言の発言も許さない冒頭解散、すべて説明責任の否定、すなわち民主主義の否定である。

アメリカ、中国、ロシアを初めとして、世界中で広がっている経済至上主義の中での、グローバル化、自国中心主義の強化(国家中心主義)そうした中では、民主主義は生き残れない。オセロゲーム磐は、黒石で埋め尽くされてしまうであろう。

安全保障とは、一見、国家間同士の防衛論であると考えやすいが、獲得した富に対する脅威の不存在という定義からすると、国家を考えなければ、富を蓄積した者における脅威を取り除くことであって、世界中の大多数の富を持たない人間に対する保障制度では決して有り得ず、富を持たない人間のことなど端から安全保障の対象ではない。

そうした中で、オセロゲームは最終的に、おそらくただ単にゲーム磐が黒石で埋め尽くされるだけで終えることはないであろう。並べられた多数の黒石がゲーム磐から飛び散るか、ゲーム磐自体が破壊されてしまうであろう。

そうした中で、今、私たち一人一人の日本人がなさねばならないこと、日本がしなければならないこと、それは一枚の白石であり続けること、それも世界というオセロゲーム磐の中でコーナーの白石であり続けることである。

今、オセロゲーム磐上では、数多くの白石が、黒石に裏返されている。しかし、彼らは、個々の人間の基本的人権を保障するための民主主義を持っていない。すなわち決してコーナーの黒石には成り得ない。ゲーム磐中央での石の取り合いをしているだけである。

私たち日本人が、日本が、コーナーの白石であり続ける限り、決してその色を、誰をもってしても変えることはできない。

私たちがコーナーの白石であり続けるためには、私たちは、まず白石であり続けなければならない。

私たちが白石であり続けること、それは今、私たちの国が失おうとしている現代立憲民主主義を取り戻すことに他ならない。

     平成30年3月8日   文責  世界のたま

現実の中で生きる

前回のブログで、仮想社会に救いはないと書いたが、それでは仮想でない現実の中で生きるとはどういうことなのであろうかということについて触れておこうと思う。

先日、アメリカの学校で銃乱射事件が起こり、学校に通っている学生が犠牲になってしまった。何度も繰り返されている中で、今回も事件後、多くの生徒たちが、何故、教育を受けるために通う学校で殺されなければならないのかという単純な問題についてプラカードを掲げて訴え続けていた。
おそらく今回は違うといった意見もあるが、憲法の規定、全米ライフル協会、それらから政治資金を受けている政治家などにより、何一つ変わることはないであろう。

それではそれを変えるためには何が必要なのかということであるが、私が思うのは、銃所持を禁止することに対して、一人一人の国民が真の現実を理解することでしかないと思う。
多くの国民は歴史的にも自分や家族の身は自分たち自身が持つ銃によって守ってきたという自負、そして現実的に何億丁も存在している銃社会が現実であり、銃を捨てることは自殺行為であり、それが現実であると思っている。

私はそれが真の現実ではないということが断言できる。何故ならば、今回の事件もそうなのだが銃が生き物を殺傷すために作られた道具でしかないからだ。
銃が存在する目的は生き物を殺傷させることであってそれ以外の道具としての目的は存在していない。それが唯一の事実であり、それ以外の現実は存在していない。それ以外の事実は現実ではありえない。

銃によって犯罪が抑止できるという発想は決して事実ではなく単なる妄想に過ぎず、現実からの逃避である。

このことは銃乱射事件だけではなく、先日アメリカが発した核兵器の小型化にも同様なことが言える。過去のブログの中でも何度も話したことがあるが、現代の安全保障において、その対象は国家ではなく個人であり、それを認識したうえで安全保障論議をしてゆかなければならないと私は考えているが、そうした中で言うと、核兵器の小型化は、個人の保有、使用を可能とするものであり、安全保障を根底から崩すものでまったく稚拙で愚かで馬鹿げた論理である。その論理に間髪入れず賛同する日本の政府、政治家は輪をかけた大ばか者であり、無知の極みである。

地球温暖化について考えて見よう。
、経済至上主義の中で、環境破壊も顧みず物質的欲求を求め続ける私たち自身に原因があり、それらを考え直さない限り温暖化を止めることができないことは事実であるが、それらを前提としたうえで、原子力発電が温暖化防止にとって役立つという考え方があの福島原発事故の後でも言われ続け、再稼働の一つの大きな理由に使われているが、その現政府の論理も無知の極みに他ならない。
蓋し、スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島、それらから私たちが学んだことは、たしかに津波や、地震、台風などの自然災害も恐ろしいが、それ以上に恐ろしいものが放射能汚染などの自然界に存在しない物質に他ならない。それらは自然の力をもってしてもその回復が非常に困難であるからに他ならない。
地球温暖化防止のためのその手段としての原子力は有り得ないのである。何故ならば、自然界に存在しない物質は、温暖化防止のその大前提となる地球環境そのものを破壊してしまうからである。地球環境の存在しない温暖化防止など、目的の存在しない手段に他ならず、そこにはまったく何の意味も存在しない。それが事実であり真の現実である。

共謀罪について考えて見よう。
あれだけすったもんだして強行採決によって成立、執行された法律である。私自身、その執行停止、無効確認について現在最高裁第一小法廷に上告、特別抗告しているところであるが、その立法事実としてもパレルモ条約の締結のため、テロ防止のためと変遷した。
私自身が、最高裁に訴えている理由の一つが、共謀罪という法的手段でテロが予防できるとは思えないからである。というより、テロ防止にはならないからである。
世界で起きているテロの現実を見ればわかるが、その多くは民族、宗教的対立である。しかし、それらの多くは表面的な事実であり、私はその根底に、経済至上主義における格差によって生じた貧困、学校教育を受けられない子供たち、武器の売買や資源をめぐる利得が複雑に絡み合っている事実があり、それらが現実であると思う。
今回執行されている共謀罪、その前になされている刑事訴訟法改正による立会人なしでの盗聴、犯人情報提供による起訴猶予などの司法取引の合法化などと合わせて、政権の国民の監視強化、国民同士の監視強化が着々と進んでおり、そういった意味で特定秘密保護法と合わせて共謀罪がとどめてあったともいえる。
私が最高裁に上告している最大の理由である日本国憲法に反した立法、執行行為、その中でも日本国憲法の基本原理である基本的人権の尊重、さらにその中でも中核たる前国家権利たる思想、良心含めた内心の自由である精神的自由権への侵害である。
内心の自由は主権者たる国民の基本的人権であるとともに、民主制にとっても不可欠な権利でもある。それらがほんのわずかでも侵害されたとき、もはや全ての国民は自由にものを考え、行動することはできなくなってしまうのです。
テロのない社会を作るために私たちがなさねばならないことは、まず何故テロが起こるのか、その真の事実、現実を考えなければならない。
表面的な事実だけを考えれば、共謀罪、刑事訴訟法の改正は一見役立つように考えやすいが、それは単なるごまかしにすぎない。

行き過ぎた経済至上主義社会の中での格差社会の拡大、その格差社会の中での少数者の切り捨て、子供たちの教育の機会の不平等、強行採決含めた社会的強者による説明責任の放棄などが真の事実、現実であると思う。
それらの現実を考えたとき、共謀罪含めた国民同士の監視社会、分断、内心の自由の制限は少数者の発言、討論、行動の自由を奪い取り、間違いなくテロをなくす方向ではなく、結果的には新たなテロを生じさせてしまうであろう。

私たちは、多くの事実の中から何が真の事実であるかを純粋な無垢な瞳で見つめ続けなければならない。
それが現実に生きるということでないかと私は思う。

    平成30年2月18日   文責   世界のたま

仮想通貨に思う~仮想社会に、救いはない

コインチェックからの仮想通貨の流出が大きな問題を引き起こしたが、このことは、現代社会に生きている私たち社会の鏡である。
仮想通貨という表現をしているが、そもそも国家の中央銀行が発行しているドル、円、ユーロをはじめとする通常の通貨そのものも所詮は何の価値もない単なる交換手段にすぎない仮想価値に他ならない。
私が、コインチェックなどの事件を知ってまず思うことは、事件そのものより、仮想通貨をはじめとする仮想社会の中に生きる私たち人間の愚かさ、哀れさであり、その果てしない虚しさである。
仮想通貨以外でも、様々な技術を駆使して作り出されている仮想空間、そして仮想敵国まで人間はありとあらゆる仮想社会を作り上げている。
仮想社会を作り上げていることに対して、私たちはそれを技術の進歩であると錯覚している。ある者は経済的利益のために、ある者は自己満足のために、しかし、どこまで行ったところで、その先には何の価値も存在していない。
今回のコインチェックの損害に関しても、たとえ、その保障として実際の通貨に換金されたところで、所詮それ自体何の価値を有しない通貨以上の何ものでないのだから。
仮想通貨を国境を越えた交換手段としての側面をその利点としてあげられることがあるが、果たしてそうした利点は意味があるのであろうか。
グローバル化の流れの中で、ネット社会と物流を合体させた仮想通貨は一見、私たちの生活の中で便利な手段であり、有意義なものに考えられやすいが、私にはそれは誤りであると断言できる。
例えば、現実の通貨ユーロを考えて見ればわかることである。通貨の統合の中で、国家の融合を図る社会的な実験であるが、イギリスが離れ、アメリカファーストの中で、各国の国家主権主義が強くなる一方である。
通貨統合という手段によって、国家間融合、世界平和という目的がなしえると考えることは茶番である。
手段は所詮、手段でしかありえないのだから
その手段を目的にすり替えているのが、経済至上主義であり、その一役を担っているのがグローバル化企業であり、仮想通貨もその中の一手段にすぎない。
仮想通貨は、所詮単なる手段にすぎない。
今回のコインチェック事件は、手段としての仮想通貨を、それがさも価値があるかのように錯覚した者たちが、目的化してしまっている経済至上主義のなれの果てであることを明らかにしている。
仮想通貨を作る人々、それに踊らされる人々、全ての者たちが、手段としての貨幣に踊らされ、鎖につながされた奴隷にすぎないのだということに私たちは気が付かなければならない。
彼らは一見想像力が豊かで、知的な人間であるかのように思われるが、私にはその逆で、経済至上主義の中で、貨幣や物に心を奪われた真の意味で想像力の欠如した哀れな人間、一生、その鎖につながれた社会から抜け出すことができないちっぽけな人間にしか見えない。

世界平和、人類の平和的共存、一人一人の人間の価値の最大評価を目的だとした時、それを貨幣などの手段でなし得ようとするならば、その前提として、国家、民族、宗教的な対立の解消、究極的にはそれらが無くなる必要がある。
しかし、現実的には、誰が考えても困難である。それらは、人間にとって貨幣など以上に核心に近いものなのだから。
それらの私たち人間にとって大切と思う国家、民族、宗教などの、所詮はそれらも手段にすぎないものであるが、それらの手段を守りながら世界平和、人類の平和的共存、一人一人の人間の価値の最大評価という目的を成し遂げようとした時、私たちにとって何が最も大切かと言えば、通貨などの手段、経済至上主義を決して目的化してはならないということだ。
特に仮想通貨などのグローバル化に直結する手段を目的化してはならない。
その先にあるのは、争いの絶えない世界であり、奴隷社会であり、人としての尊厳のない社会である。
私たちは仮想通貨や、経済至上主義といった想像力の欠如した社会を乗り越えた新たな社会を作り出さなければならない。
私たちは決して歴史を繰り返してはならない。

    平成30年1月30日  文責  世界のたま

己に徹して人のために生きる~民主主義とは

人が己に徹して生きてゆくことは非常に難しいことだと思う。
特に、現代の経済至上主義の中で、それを実践することはなおさらである。
先日、ハワイにおいて、ミサイルが発射された誤情報が一斉に流され、多くの住民が振り回され、ある者はあわてて建物内に非難し、ある者は愛する人へ愛しているとのメッセージを送信した。
一方で、シリア、イエメンなどでは、何の警告もなく爆弾が投下され、多くの子供を含む人々が逃げまどい、そしてその短い人生を終えている。

トランプ大統領は、北朝鮮、イラン、パレスチナなどを威嚇し、嗾け、それによって、世界中に脅威を煽り、それに便乗する形で多くの国々で、中央集権化、国家主権の強化がなされている。
彼らの目的はただ一つで経済的利益のみである。
国際的には巨大な軍事力、経済力を武器に、ありとあらゆる地下資源、海洋資源の獲得競争が行われている。
国内的には軍需産業の活性化で莫大な需要が生じており、雇用の拡大がなされている。そうした中で、人々はさらなる物質的、金銭的欲望を増大させる。

アラブの春におけるジャスミン革命によって、唯一民主化がうまくいったと思われたチュニジアにおいても経済的格差の中で、政局は混迷を極めてきている。

今、世界を見まわした時、経済至上主義の下での民主主義は成り立ちえないことを私たちは気付いているはずである。

民主主義とは自己実現、自己統治の過程である。
そのためには私たちは己に徹しなければならない。
しかし、経済至上主義の下では、決して己に徹することは困難である。蓋し、経済至上主義の下では、ある者は、更なる経済的利益を求め、ある者は物質的利益を求め続けるしかないからである。

人は、莫大な資産を形成している富あるものは一見、自由であり、彼らに雇われている人々は不自由であると考えやすいが、決してそうではない。どちらも結局、経済的価値という鎖につながれた奴隷にすぎない。

トランプ大統領がアフリカを肥溜めと表現して国際的な問題となっているが、かつて奴隷船で多くの人々を奴隷としてアメリカに連れてきたその感覚が残っているのであろう。だが、実際はどうなのであろう。経済的、物質的な鎖につながれた人生を送っているものと、たとえ、経済的、物質的に豊かではなくても自然の中で、自然と共に生きている人々、どちらが自由なのであろう。

私には、鎖を断ち切って、己に徹したとき、人は真の意味で、自由になり、そうした中で、自然との共存、他者との共存が初めて生まれるのだと思う。
個の中に、全体が見えてくるのだと思う。
己に徹したとき、はじめて人のために生きれるのだと思う。
民主主義とは、己に徹して人のために生きる社会であり、それ以外に、私たちが生きてゆく術は無いことを、私たちは知らなければならない。

私自身、己に徹して人のために生きてゆきたいと思う。

  平成30年1月16日  文責  世界のたま

歴史の連鎖を断ち切れることができるのは、「法の支配」のみである

あと今年も今日一日となりました。
人々はこの一年を振り返り、明日から新たな気持ちで一年を頑張ってゆこうとしている。
確かに以前のブログの中でも書いたことがあったが、新たな気持ちで再出発しようとする気持ちのレベルでの意味は大なり小なりあるとは思う。
しかし、今日は、昨日までの社会環境を前提とした今日であり、明日はたとえそれが元旦であろうと、所詮は今日を含めた世界情勢の中での明日でしかない。
過去は消えるわけではなく、全てをその中に包み込んでいる。
私たちは今日を含めた過去、歴史から逃れることはできない。
たとえ新年を迎えたところで

毎日、ネットや、テレビなどで流れる多くの報道、様々な番組を見ていて思うのだが、誤解を恐れずに言えば、全ての面で社会全体が軽薄化している。
そのことは、政治において端的に表れている。現在の政権を筆頭に、与野党問わず国会議員をはじめとする政治家含めて軽薄化の嵐である。そのひどさは日に日に増している。
番組について言えば、経済至上主義の中で、様々な番組は、その背後に大企業というスポンザーがあり、そのスポンサーである大企業は、その利益を求め、番組内容、出演者全てにおいて、政権批判ができなくなっており、その内容も政権を反映して軽薄化している。

多くの国民は、それらの一見楽しく明るい番組、スポーツ、娯楽番組、コマーシャルの洪水の中で、世の中では何も問題は生じていない、何も心配なことはない、現在の生活が続くものだと錯覚する。
かつてナチスが報道、宣伝を巧みに操って国民をコントロールしたが、このことは、ネット社会が発達した一見自由な報道が保障されていると考えられる現代社会においても同じことが起きうる。我が国のような北朝鮮、中国などの露骨な報道規制がない国家においても起こりうることなのです。
何故ならば、軽薄化の原因は、報道規制などにその主たる原因があるのではなく、国民の思考停止にあるのだから。思考停止の中において、自由な報道は何の意味をなさない。
軽薄ではあるが自由な報道が、一見されていることにより錯覚を生じ、何の問題もないと感じることで更なる思考停止が生じてしまっているのだと思う。

そして、将来の国民のことなど何一つ考えない無茶苦茶な経済重視の政策の中で、そのパイを求めて企業はより政権批判をやめて従順な犬となる。その従順な犬のもとで、多くのサラリーマンはより従順な下僕となるための下僕同士のみじめな争いに終始する。報酬というエサと、リストラという鞭の狭間の中で、主権者としては完全に思考停止し、真の意味での自分たちの子供、子孫のことなどに対する責任に対しても思考停止となってしまう。
そのことにも気づきもせず、蜃気楼のようにはかない一瞬の錯覚にすぎない現在の自分たちの生活、社会が続くものだと信じている。
蓄積した富が、グローバル化の中で、更なる中央集権化を図り、一部のお友達のためだけの国家へと変貌し、富はさらに蓄積化し、蓄積化された富によって、説明責任のない社会、民主主義が否定された社会へと現代社会は変貌している。
そうした中で格差社会は拡大し、説明責任のない社会の中で、その底辺社会の人々が最終的に突き進むのが、死かテロではないかと私は思う。
多くの権力者、富あるものは底辺社会の人々の死にはたとえ何人死のうが何一つ関心を示さないが、テロには自分たちの生命がかかっていることがあって大いに関心を抱き、現実的に世界でテロ対策に躍起になっている。これは政治体制問わずアメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国、フィリピンあらゆる国で同じことである。

我が国においても今年成立した共謀罪である。国民の内心の自由を侵害し、国民同士の監視社会を作り上げ、テロを防止することを意図しているが、所詮は、特定秘密保護法、安保関連法と同様に、現在の富ある人々、権力者を守ってゆく一手段にすぎない。
特定秘密保護法に関して言えば、自分たちの都合の悪い情報は永久に葬り去るための仕組みであり、安保関連法は自分たちの資産を何としても守ろうとする仕組みなのだから、彼らの資産を守るのは彼ら自身ではなく、自衛官であり、死ぬのは彼らではなく、自衛官であり、彼らにとっておそらく自衛官がたとえ死んだとしても何の関心もない。彼らの資産が守られればよいのだから
先程も述べたようにテロは底辺社会の人々が起こすことが多いいと思う。蓋し、説明責任のない社会、裏返していえば、今年解散された国会と同様に、一切の発言も、説明も許さない立憲民主主義が否定された社会の中で、底辺社会の人々はその言論の場さえも与えられず、結局、向かう先は静かな死か、テロなどの行動しか選択肢がなくなるのではないかと思う。
私自身、共謀罪に関しては一貫して反対しており、現在も最高裁判所に特別抗告、上告中である。
私はテロなどのない平和で安心な社会を望んでいるが、そのためには、格差社会のない、説明責任のある社会が不可欠である。

歴史を振り返った時、説明責任を放棄し、民主主義を失ったとき、必ず悲惨な時代を迎えている。
そうした歴史を繰り返しているのは説明責任のない社会の中で、多くの国民が思考停止に陥ってしまい民主主義が機能しなくなっているからに他ならないと思う。
私はそんな歴史の繰り返しの中で、人類が考え出した方法が、憲法に基づく「人」ではない「法による支配」だと思う。
現在の我が国は、経済至上主義の中で、説明責任は放棄され、国会は内閣の下請けとなり、一方で、主権者たる国民も思考停止に陥っている。
立憲民主主義が機能不全に陥っている中で、現政権は憲法を順守する前に、憲法改正論議ばかりを推し進めようとしている。このことは歴史の繰り返しに他ならない。そこに待ち受けているのは悲惨な結果しかない。そのことは歴史が証明している。

日本国憲法は過去人類が繰り返してきた悲惨な歴史の証明であり、それを避けうる証明でもある。
私たちが歴史を繰り返さないために不可欠なもの、それは日本国憲法の順守である。しかし、それが守られず、主権者たる国民が思考停止し、立憲民主主義が機能不全に陥り、歴史を繰り返そうとしている時、最終的に不可欠なもの、それは「法の支配」に他ならない。
「法の支配」無くして、私たちは、過去の人類の歴史を内包化した元旦を、新たな再出発とすることはできない。

歴史の連鎖を断ち切ることができるのは「法の支配」のみなのだから
 
    平成29年12月31日   文責   世界のたま