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現代のマスメディアと思考停止社会~その先に未来はない

来月、日本で上映される「記者たち~衝撃と畏怖の真実」という映画がある。この映画は、9.11の後、2003年にアメリカがアフガニスタンに続いて、イラクとの戦争に踏み切る過程の中でのアメリカの小さなメディアであるナイト・リッダー社の記者たちが真実を追求した姿を描いた映画である。
当時、ワシントンポストやニューヨークタイムズなど大手のメディアは、ブッシュ大統領の訴えるイラク戦争へと突き進む根拠であるイラクによるアルカイダへの関与、大量破壊兵器の所有をそのままそれが真実であるとして報道していた。
世論がイラク戦争突入へと扇動される中で、ナイト・リッダー社の記者たちだけは、それらに疑問を呈し、たとえ非国民と非難されようと、その真実を追求し続けた。
この映画に関する感想を述べた東京大学大学院教授は、何故、多くのメディアがそうした過ちを犯してしまったかに関して、現代のマスメディアが、真実を伝えることから商業路線への転換をしてしまっていることがその要因の一つであると述べていた。

確かに、この映画が物語っているように、現代社会において、アメリカに限らず世界中のマスメディアが、経済至上主義の下、広告主の意向や、視聴率に振り回されてしまっている。更に言えば、国家主権が台頭する世界情勢の中で、ほぼ世界中の国々で、その程度の差はあれ、国家機関による報道規制(政権にとって都合の悪い真実の隠ぺい)が日増しに強くなってきているのは事実である。

この映画は、私たち現代人が、陥ってしまっている錯覚を、報道する側から描いた映画であると思う。即ち、一見、私たちは、世界中のニュースをネットなどの媒体機関を通じて瞬時に知ることができると思い込んでいる。しかし、それらは所詮、媒体機関というフィルターを通した上での事実でしかない。それが真実であるかどうかは別問題なのである。私たちはそれを真実であると思い込んでしまっているだけだ。知っていると錯覚している以外の何者でもない。

次世代移動通信システム5Gなどによって個々人の処理能力を遥かに超えた大量の情報が、より瞬時に、より多くの人々に送ることが可能になった一方で、ロシア、中国、日本などの先進国においては、政権が長期化してきている。長期政権が民衆によって打倒されたアラブの春とは真逆のことが、現在、先進国では起きている。
現代社会は、行き過ぎた経済至上主義の下で経済的、政治的、環境的、あらゆる面で行き詰まってきている。そうした中で、世界中で経済格差は広がり、経済至上主義がよりその格差を拡大させている。世界中の国々で経済発展を遂げる過程の中で増え続けた中間層は、現在、貧困層へと転落してしまい、勝ち残った人々は、クモの糸を登ってくる人々を蹴落とすために、より一層厳しい経済状況の中で、よりいっそう安定した強権的政権を望んでいる。
しかし、その一方で、経済的、政治的な行き詰まりの中、貧困層含めた社会的弱者の一部の人々は、経済的、政治的に追いつめられ必然的に暴力行為、即ち、テロ行為に走っている。
それに対して、長期政権、そしてそれらの支持層は、5Gなどを駆使して政権批判勢力の監視を強化し、それらを排除するための国民世論の扇動を図ろうとする。これも又、必然である。

私たちは、戦前の我が国が、大本営発表や、世論によって、神風特攻隊や、人間魚雷を賛美し、そして玉砕への道を歩んだこと、ナチスドイツにおいて多くの国民がユダヤ人の迫害に手を貸し、ホロコーストでの大量虐殺に及んだこと、それらの歴史は、過去のことで、現代社会においては、起き得ないことと考えているが、私には、私たちが錯覚しているだけにすぎないとしか思えない。

この映画は、現代社会における、マスメディアの持つ怖さ、盲点、脆さを指摘している。

そうしたマスメディアが持つ危うさの中で、洪水のように押し寄せる嘘か真かがわからない無数の情報の中で、私たちは何を為すべきなのか
それを考えてゆく上で、最も重要なことは、送り手であるメディアの反対側にある私たち、受け手が陥っている思考停止の問題である。
何故、私たちは思考停止に陥ってしまったのか。
私が思ういくつかの要因を挙げて見よう。

① 権力そのものによる言論統制
これはいつの時代も同じことで、国家権力は、統治してゆく上で、その程度の差はあれ、言論統制を図ることが常である。政権にとって都合の悪いネットなどの書き込みの削除などは典型例であるが、戦前の日本における憲兵、中国の文化大革命における紅衛兵、ナチス政権下での親衛隊、現在の国家においても公安警察、秘密警察などを通じた言論統制の中で、人々は自ら思考することを停止してしまう。例えば、中国での人権弁護士に対する弾圧、ウイグル自治区での強制収容施設内における思想教育、ロシアでのジャーナリスト殺害などは、多くの国民に思考停止を生じさせる。
世界中で国家主権が台頭する中、言論統制はその厳しさを増している。

② 自動運転システム
科学の発達に伴って、様々な領域での自動化が進んでいる。企業における生産活動は元より、一般家庭においても掃除、洗濯、料理など日常生活全ての面で自動化は目を見張るものがある。高齢者の運転事故などをきっかけに自動車の自動運転化も考えられている。一見、これらは、私たちの生活を便利にして、快適なものにする素晴らしいものだと簡単に考えがちであるが、その便利さの代償に、多くの人々は思考停止を招いている。
蓋し、あらゆる自動化の中で、人は自ら何一つ考える必要がなくなるのだから
最近起きたボーイング社製造のハイテク機の二度にわたる離陸直後数分間での墜落事故、その原因は最新鋭の自動制御システムにある可能性が指摘されている。そのトラブルの中でも自分の頭で思考し、自動操縦を解除して危難を回避した操縦士もあったようだが、皮肉なものである。

③ 経済至上主義
現代社会は、経済至上主義の嵐が世界中で吹き荒れている。特に1991年にソビエト連邦が崩壊し、グローバル化、即ちアメリカ化の時代を迎えた中、同時にITバブルも起こり、それらが経済至上主義を世界中でさらに加速させた。しかしITバブルも崩壊し、アジア通貨危機、リーマンショックなどを経て、「ウォール街を占拠せよ」、「我々は99%」などで代表される格差社会が世界中で蔓延し、現在も世界中で、その格差はさらに広がってきている。
経済至上主義の下では、格差社会は悪くなっても決して改善することはない。何故ならば、経済至上主義社会において、経済的強者は、経済的弱者に対する何らの説明責任も必要としないのだから。政治的には説明責任をその本質とする民主主義は存在し得ず、そうした民主主義を否定した社会が、弱者の人権を守ることは決してあり得ない。
そうした中で、多数を占める経済的弱者は抵抗することをあきらめ、思考することを止めてしまう。

これらの要因などが重なって、現代社会の多くの人々は、思考停止してしまっている。
しかし、よくよく考えて見ると人間が神から理性を与えられたとした近代以降の人間中心主義そのものが、思考停止の権化であるといえる。
何故ならば、人間は自然との会話を拒否し、他者との共存すらも否定してしまったのだから

市場経済、法の支配の下で、人間の一部の者たちは、先進国としてある意味での豊かさを手に入れたが、彼らの多くの人々は、自らの豊かさのみにその関心を向け、思考を停止し、合理的無知の中で、選挙に行くことすら忘れ、選挙に行く者も合理的非合理性の中で、政党を支持しているという理由のみで、それ以上の思考することもない投票行動をし続けている。

人間が思考を停止することで、前頭葉の機能は低下し、より他者との協調性、バランス感覚は喪失し、結果として相対的に生物本来の持つ自己防衛本能、攻撃性が前面に出やすくなってしまう。そうした中で、世界中で、国家主権が台頭し、テロや、小競り合いなどの暴力的行為が増えてきているのは必然である。一方で、民主主義は失われ、メディアは、スポーツや娯楽に終始して、批判的な政治的発言を控える。
我が国においても、森友学園以降の数知れない政府による文書の改ざん問題を踏まえて、公文書の電子化などが言われているが、問題のすり替えであり、茶番以外の何者ではない。問題はそこにはないのだから。

問題があるのは、政治家、官僚、そして私たち国民が、思考停止してしまっていることに尽きる。
そして私たち一人一人が思考停止することから脱却しない限り、格差社会の解消はもとより、私たち自身、そして子供たちの未来など絶対に存在しえない。

私自身、選挙に立候補して政治的発言を為し、最高裁に上告し、こうやってブログも書いているが、このままの政治状況が続けば、弾圧されるのも時間の問題であろう。
私自身、何一つ思い残すことはないが、子供たちの未来、地球の未来だけは、残したいものだとつくづく思う。

  平成31年3月25日   文責   世界のたま

市民主義に基づいた社会~市民主義国家

近代以降、人間が自然と相対する中で、科学という道具によって、豊かさを追求した結果たどり着いた現代社会
天空ではオゾン層が破壊され、地上では緑が失われ、湖は枯渇し砂漠化している。そして海では、海水温が上昇し、サンゴが死に絶え、魚たちの生態系が破壊されている

科学の特徴である還元主義すなわち物事の細分化、分析、一見素晴らしいことだと考えられがちだが、しかしそれらは、現代社会において木を見て森を見ない思考につながっている。
高齢者医療、介護の現場でよくあることだが、臓器や、機能ばかり見て、治療、介護計画を立てたところで、それがその人にとって、ひとりの人間としてのふさわしい生き方とは限らない。
もう一つの科学の特徴である物の価値を問わない考え方、物を物としてしか見ない考え方、それは、核兵器、細菌兵器などの殺傷能力の高い兵器の開発などにつながっている。開発者たちは、その使用によってもたらされる悲惨な価値のことなど決して考えることはないのだから。

経済的には、市場経済を作り、資本主義経済という手段の中で、経済発展を遂げたが、現代社会においては、手段が目的化され、経済至上主義の中で資本主義は暴走している。

政治的には、法の支配の下で立憲民主主義を作り上げたが、説明責任を必要としない経済至上主義社会の中で、その機能は停止している。

そして、人間は、今や科学や資本主義経済という枠組みの中でしか物事を想像することができなくなってしまった。本来持っていた無限の想像力を失ってしまった。科学や、経済学の中で、限られた知識を競い合っている。しかし、それらは所詮、どこまで行っても大自然から見れば、吹けば飛ぶような稚拙な知識にすぎない。人間は、気付いていない。現代社会が、真の意味で、思考停止に陥ってしまっていることを

最終的に人類が地球上で生き残ることができるのか、私にはわからない。もはや間に合わないだろうとは思っている。しかし、それでも可能性があるとするならば、私たちが、現代社会を乗り越えて、新たな市民主義に基づいた市民主義国家を作りだすことができるかどうかにかかっているのだと思う。そして我が国日本が、まず最初にそれを為すことができるかにかかっていると、私は思う。

私が描く市民主義国家とは

第一に、自然との共通感覚を取り戻した贈与の気持ちを忘れない国家である。
一人一人の人間が、自然の一部であること、一つ一つの生命が、自然から贈与されたものであることを自覚した社会である。
市民主義国家の基本的な理念であり、全ての事象の物差しとなる概念である。
具体的には、自然界には存在しない、自然界の中で処理することが困難な物質の排除、すなわち核エネルギーや致死性の高い化学物質、細菌、それら全ての用途を問わない使用の完全停止である。
原子力発電所の停止、廃炉、核燃料廃棄物処理の促進、生物化学兵器の廃棄、それらに代わる自然エネルギーを利用した電源開発の促進、電力消費の削減である。
地球温暖化防止対策として、温室効果ガス排出削減のための過剰な経済活動(生産、消費含めた)の停止、サンゴ礁含めた海洋資源保護のため、沖縄辺野古沖での埋め立てやプラスチックの海洋投棄などは即時中止以外の選択肢はない。
現実的な行動も不可欠であるが、根本的には、育児、教育の見直しに尽きると考える。自然との共通感覚を持ち続けるためには、脳育が不可欠である。
現代社会のような乳幼児期、学童期に十分な睡眠、外での遊びがなされていない生活リズムの中では、自然との共通感覚、贈与の感覚は育ちえない。如何に、学童期以降の教育、社会教育をもってしても取り戻すことは至難の業なのだから

第二に、経済至上主義を排除した「足る」を知る国家である。
現代社会は、経済成長、拡大再生産が至上命題であると考えている。そのために、日々、コマーシャルを流し、消費を生み出し続け、本来必要としない過剰な生産を続けている。
しかし、考えて見ればわかることだが、その結果として何が起きているのかと言えば、一部の富あるものが更なる富を蓄積する格差社会以外の何者ではない。
トリクルダウンなどといった大企業が儲かれば、下請け企業が儲かり、社会全体の労働者の賃金が上がることなど、現代社会においては、完全なまやかしであり、儲かるのは、経営者、一部の社員、株主のみである。働き方改革法案の国会審議などを見てもわかるが、所詮、大多数の労働者は、企業のための調整弁にすぎない。いつでも切って捨てられる駒でしかない。
先日、セブンイレブン店主が、妻にも先立たれ、募集しても従業員が来ないため、24時間営業することが困難となり、深夜1時で閉めたところ、セブンイレブン本部から違約金1700万円請求されたということが報道されていたが、このことなどは、現代社会の労働現場の縮図である。
恵方巻やバレンタイン、ホワイトデイそして携帯、スマホなどの相次ぐ機種切り替えなど過剰な消費を促すために、コマーシャルを流し、幼少児期から過剰消費を洗脳する現代社会
確かに24時間営業店があることで、私自身も含めて助かっている人も多いのも事実であるとは思う。
しかし、多量の生産、消費社会の中で、結果的に、多量の無駄な廃棄物を生じている。現在ドイツでは、世界に先駆けてそれらの規制に乗り出している。
確かに自由な市場経済を基本とする資本主義経済は、手段として人間の暮らしを豊かにしてきたが、現代社会の行き過ぎた経済至上主義は、環境破壊、格差社会を引き起こしており、アメリカを中心としたグローバル化が加わり国家間の緊張をも高め、現実的に収拾がつかない状態の国際社会を招いている。
市民主義国家においては、自然環境の回復、保護を大前提とした市場経済の下での、現在と方向性を変えた経済発展が求められる。
環境を保護する省エネ製品の開発販売促進、輸送によるエネルギー節約含めた地産地消、過剰余剰生産品などをシェアリングした経済難民などへの支援、労働環境におけるワークシェアリング
又、格差社会是正のためには、法人税、所得税、消費税、社会保障費用含めた税、社会保障制度全般での抜本的な変革も不可欠である。
市民主義国家とは、言わば「足る」を知る社会に他ならない。

第三に、現代立憲民主主義の立て直し、選挙制度の見直し、地方分権の確立である。
現在の我が国の政治状況は、もはや国家としての体をなしていない。
正確に言うなら現代立憲民主主義国家としての体をなしていない。体をなしていないことで何が悪いかと言えば、遅かれ早かれ、国民一人一人が自由に話し、自由に行動することができなくなり、命の保障すらない時代になるでしょう。世界を見渡せば、いたるところで現実的に生じてきている。
なぜそうなるかと言えば、様々な国民の基本的自由権は、憲法によって保障されているが、現在の我が国においては、その保障が困難になってきているからです。言い換えると国が憲法を守らなくなってきているということです。
現在の日本国憲法において、国に憲法を守らせるための仕組みとして定められているのは、日本国憲法の最高法規性や、公務員による憲法尊重擁護義務などの道義的条項を除けば、三権分立制度、裁判所による違憲立法審査権、国民による選挙権行使である。
しかし、この間の国会を見てもわかるように、行政内容の専門化、量の増大により、政府の権限は肥大化し、一方、選挙制度における政党中心選挙、小選挙区制、党首による立候補者の公認権独占などによって、国会議員はもはや政党に縛られ、結果的に国会議員は内閣総理大臣の下僕に成り下がっている。三権分立による権力間の抑制機能は完全に破綻している。
唯一残された裁判所による違憲立法審査権に関しても、私自身、選挙権、被選挙権侵害に対して最高裁に上告しているが、困難を極めているのが現実である。
最終的には、国民による選挙権行使のみが、唯一残された憲法を守る術である。
そのために、市民主義国家においては、現在行われている政党中心の選挙制度を根本的に見直し、一人一人の国会議員が、国家的な重大事案について、徹底的に討論して、各自の判断、国会議員一人一人の責任において結論を導き出す国会に変革する必要がある。
現在の日本国憲法において、たとえ選挙区、比例代表で選ばれた国会議員であったとしても、一旦、国会議員に選ばれた以上、全国民の代表者として擬制されているのは、そのことを現憲法でも要請していることは明らかな事実である。
さらに、市民主義国家における国会議員については、任期途中でも、問題があれば、国民による罷免権を認めるべきだと考える。そのためには憲法改正が必要であると思われるが、現実的に可能である。その場合は、選挙区以外の選挙区における罷免投票制度などが想定される。いずれにしても、現在の腐りきった与野党の国会議員、そして彼らから選出されたおバカな総理大臣はじめとするおバカな大臣達では、彼らを選んでいるおバカな私たちが救われないのは仕方ないとしても、現在、未来の子供たちを救うことは不可能である。
又、国会議員は、国家に直接かかわる重要な案件、すなわち、国家全体に関する財政、税務、防衛、社会保障のみを扱うべきで、ドイツで原発廃止に関して、原子力関係の専門家を除外した識者と国会議員のみで城に閉じこもって何日間も徹底討論したように、国会議員とは、国家そのものの存否、国民の安全に関わる基本的な案件に絞って徹底的に審議し、決定を為すべきである。
そのためには、市民主義国家では、可能な限りの徹底的な地方分権を行い、国家機関とは別な地方代表組織などのもとで地方自治を行うべきであると考える。
そういった意味において、市民主義国家においては、政党はほぼ無用の長物となるであろう。

第四に、社会保障制度の見直し
市民主義国家においては、生きる意味を考え直すことが不可欠である。
現代社会においては、臓器移植、遺伝子治療、ゲノム操作、医療の進歩などによって生命や死の意味が改めて問い直されている。
市民主義国家においては、生まれ、成長する過程は別にして、死に関しては自然死を基本とすべきであると思う。特に、高齢者における延命含めた医療、介護行為は、尊厳死という観点からもう一度見つめなおす必要がある。
保険制度においても、医療と介護とは元来分けて考えることなどありえないはずであり、介護保険制度の流れも、最近では連携し、併せて考えてゆく方向になっており、正しい流れである。所詮、医療と介護とは、一人の人間の見かたの問題にすぎない。本来分けられないものであり、人生観なども含めて一体的に捉えなければならない。
そういった意味で考えた時、市民主義国家における社会保障制度は、可能な限り、制度上も医療、介護含めた一本化された社会保障制度を目指すべきであり、その中身も、ケアプランを中心としたサービス支給だけでなく、現金支給も考えていくべきである。
実際に、医療、介護、臨終の現場を数多く経験すると分かることであるが、たとえ、お金のためであれ要医療、要介護者を介護者がみる動機になることは、私は一つの考え方であると思う。現金支給する分、公的な医療、介護支援は減ったとしても、そのお金で、家族一緒に旅行に行ったり、自由なサービス計画の下で生活する。たとえ結果的に余命が短くなったところで、それが本来の与えられた命であると私には思えてならない。確かに、支給した金を何に使うのかわからないなどの意見は出ることは十分承知しているが、それでも私はそうすべきであると思う。
又、市民主義国家においては、現在我が国で行われている厚生年金基金の株式投資など、おバカなことなどは即刻禁止すべきである。経済至上主義に洗脳されたおバカな天下りを狙った官僚や、企業、投資家からの政治献金を狙ったおバカな政治家がしていることであるが、このようなおバカなことをする国家など考えられない。本来、厚生年金基金は、彼らのものではなく私たち国民自身が積み立てているものである。運用して利益上げなければ年金が支払えないなどとほざいているが、そもそも制度自身が破たんしているだけのことで、それをごまかし、先送りし、さらに傷口を広げている。市民主義国家においては、こんなおバカなことは即刻禁止し、税制度全体の中でもう一度社会保障制度を構築し直す必要が不可欠である。未来の子供たちのことを考えるとき、これらは待ったなしの緊急の課題である。

第五に、安全保障制度の見直しである。
従来から申し上げているが、現在の安全保障とは その対象は国家であると考えられているがそれは時代遅れの、若しくは偽装された考え方である。
アメリカがINF(中距離核戦力全廃)条約の破棄をロシアに通告したが、世界を見渡せば核兵器保有国は増え続け、ロシアにしても超音速の防御不能と豪語するミサイルの開発、中国にしてもINF条約をよそ眼に中距離核兵器を開発している。
おバカな日本も負けじとなのか、経済至上主義に基づくグローバル化したアメリカ経済のために、アメリカのグアム、ハワイを防衛するためイージス・アショアを6000億円もかけて配備しようとしている。又、自衛隊保有艦の空母化も検討している。
しかし冷静に考えて見たらいい、かつて幾度か戦争した、ドイツ、フランス、イギリスがお互いに戦争することが考えられるのか、ロシア、ドイツ、フランスが戦争することがあるのか、確かにイエメン、ソマリア、シリアなど自分たちの国土や国民に害のない他国を介した間接的な意味での戦闘はありうるかもしれないが、現代社会においてはあり得ない。何故ならば、あったとしたならば、その結果は、原発含めた核施設の破壊、核攻撃による世界中の放射能汚染、そして勝ち残った国家があるとしてもその先も所詮は戦争の連鎖で、どこまで行っても殺し合いの世界でしかない。歴史が繰り返せる環境が残ったとして、果たしてそんな世界で生き続けたい人間がいるのだろうか。私自身は、戦い続けてそんな世界で生き残る意味はないと考える。
現代人が、近代以降の理性に基づく行動が正しかったと信じているのであれば、自分が生きるために、どんな人間をも殺してでも生き抜く社会は、人類の進化で言えば、自己防衛のみの本能である脳幹部中心の生物から前頭葉を発達させ、自己防衛本能を制御し、思慮分別のある合理的思考ができるようになったその進化の過程の逆行であり人類にとって退化以外の何者ではない。
そう考えた時に、現在の、国家間の兵器開発合戦は何なのか。私には、所詮、経済至上主義の下での輸出産業としての経済的利益追求以外の意味はないと思う。紛争国に売りつけ消費する。周辺国にはその脅威を植え付け、近代兵器を売りつける。他国の人間が悲しもうが、死のうが知ったことではない。自分たちが経済的に豊かになればよい。ただそれだけのことに思えてならない。
私には、結局、国際政治学で言う安全保障の定義が、既得した価値への脅威の不存在であるとするならば、現在の安全保障とは、現代社会における私腹を肥やした権力者、経済至上主義の下で資産を築き上げた人たちのための脅威の不存在ではないかと考える。
これは、国家自身の問題でもなく、政治体制の問題でもなく、民族や宗教、国境の問題でもないと思う。それらは所詮、利用されている対象でしかない。
結局、現代社会における真の意味での安全保障の対象は、個人であると思う。つまりそれは、現代社会で権力や、富を築き上げ、築き上げようとする個人に他ならない。
そうした意味で、市民主義国家における安全保障政策の根本的な課題が何かと考えた時、格差社会是正しかないと考える。
私たちは、真の安全保障とは何なのかを真剣に考え直し、核兵器廃止条約締結拒否や、日米安保条約、行政協定に基づく基地使用、航空領域制限、費用負担継続については、根本から考え直すべきである。
これからの市民主義国家を考えた時、安全保障政策の柱として第一に、格差社会是正を掲げ、まず日本国内から、あらゆるNGO、NPO,国際機関を通じた格差是正のための医療、教育、生活支援を行い、世界に発信してゆくことしかないと私は確信している。

  平成31年2月23日   文責   世界のたま

市民主義~市民として生きてゆく

新年を迎えて、日本国内、世界中で、今年も様々な問題が起きている。

日本国内においては、厚生省による毎月勤労統計の不正調査問題を筆頭に、東京オリンピック招致に関する不正疑惑、沖縄辺野古基地埋め立て問題、日ソ間における領土返還問題、日韓間における自衛隊機に対するレーダー照射や戦時下における徴用工問題、日仏間における日産とルノーとの問題などの様々な問題
海外においても、イギリスのEU離脱問題、米中間での貿易摩擦問題、イエメン内戦問題、シリア問題、北朝鮮問題、米ソ間における米のINF全廃条約からの離脱問題、フランスでの黄色いベスト運動、ベネズエラにおける内政問題などの様々な問題

上記にあげた様々な問題を考えた時、即ち、何故それらの問題が生じてきたのか、どうやって私たちは、それらを解決していかなければならないのかを考える時
現在の私たち人間が行い、そして行なおうとしていることは、後者の解決しようとすることだけだと思う。
何故それらの問題が生じてきたのかということには目を背けている。複雑な要因、過去のいきさつ、歴史、それらを前にして、人間は考えることをあきらめている。もしくは、様々な要因を合理的に、科学的に関連づけ、現実に起こっていることを、その因果の結果として仕方なかったものとしている。
そうした中では、歴史を繰り返すだけで、決してそれらの問題を解決することは永久にできない。それどころか、2019年現在の世界終末時計は、今年も2分で一応は止まっているが、私たち人類にとってもはや時間はないのです。

これらの様々な問題を前にして、私は、今、市民主義を考えている。
市民主義という言葉が言われて久しい
市民主義とは、一人一人の個人が持つ二つの側面、私的側面と、公的側面において、より公的側面を意識した人間の生き方、在り方である。

厚生省による毎月勤労統計の不正調査問題は、入国管理法改正国会審議資料、働き方改革国会審議資料、障害者雇用における資料の捏造、そして私自身が最高裁に上告している森友学園問題における国会審議資料、会計検査院提出資料の捏造、それら全てに共通している。
それは、現代立憲民主主義の否定である。
私は、今まで何度も述べてきたように、民主主義とは、少数が多数になる可能性であると思っている。多数の意見を尊重するのが民主主義であるとか、少数者の意見を尊重するのが民主主義であるとか、いろいろ言われているが、私は、それらは所詮、結果であって、そこに何の意味はないと思う。民主主義とは過程であり、結果ではない
即ち、民主主義の過程、少数者が多数になる可能性こそが、民主主義なのである。そのためには、何が必要かと言えば、その討論の前提たる資料の正当性である。資料の正当性無くして、議論は何の意味もなさない。そこに、民主主義は、決して存在しえない。
私が、最高裁に上告している理由も、そこにあるのです。捏造した国会資料、会計検査院報告に基づいた国会審議、国権の最高機関たる国会への説明責任の究極の放棄たる冒頭解散、それらを前提になされた総選挙は、主権者たる国民の権力的契機たる選挙権、被選挙権への侵害であり、正当な選挙を保障する日本国憲法への侵害でもあり、現代立憲民主主義の否定以外の何者ではない。

それでは、ここで問題です。
そうした状況の中で、私たち主権者たる国民は、どうやって近代以降、私たちが作り上げてきた民主主義を守ってゆけばいいのでしょう。
選挙を通じて、守ってゆけばいい。多くの国民はそう答えるであろう。しかしそれは無理な話です。現在の選挙制度は、政党選挙になっており、その上、小選挙区制、党首の公認権、それらを通じて、多くの立候補者は、国会で多数を占める与党の長、すなわちそれは、行政府の長でもある内閣総理大臣が指名するのであり、立法府たる国会が国権の最高機関とする日本国憲法の条文は、もはや死文化している。総選挙の時期も総理の専権事項とされており、主権者たる国民の選挙権、被選挙権の自由など、もはやそこには存在していない。そうしたあきらめの中で、国民は政治不信に陥り、投票すらもしないという思考停止に陥っている。

それでは、日本国憲法上、違憲審査権を有した人権保障のための最後の砦である裁判所が、民主主義を守ってくれるのでしょうか。
それは、現実的には否です。
基本的には裁判所も統治機構の一組織にすぎないのです。そのことは、私自身裁判を通じて身に染みています。司法の独立とは、あくまでも日本国憲法上のきれいごとであり、最高裁裁判官は、内閣総理大臣が、指名、任命するのであり、下級裁判官は、最高裁裁判官にその人事権を握られているのだから

それでは、誰が現代立憲民主主義を守れるのか。
国家でもなく、立法府でもなく、行政府でもなく、司法府でもありません。
市民主義に基づいた主権者たる国民一人一人しかいないのです。
自分一人で何ができるのかと思考停止に陥るのではなく、まず自分一人が市民主義に基づいた一市民に変わるしかないのです。
このことは、選挙民としての国民だけでなく、国会議員、大臣、裁判官、捏造した公務員を含めた全ての公務員こそが、日本国憲法において定められているように、全体の奉仕者である彼等こそが率先して変わらなければならない。蓋し、日本国憲法に基づいた主権者たる国民として、大多数の国民が、市民主義に基づいた一市民に代わることなくして、もはや民主主義を守る術はどこにも存在していないのだから
そうした意味において、今週明らかとなった従前たる党利党略に基づいた野党第一党を争う国民民主、自由党、立憲民主、社民党による数合わせなど何の意味もない。単なる稚拙な歴史の繰り返しにすぎず、おバカな捏造を繰り返す与党とおバカな数合わせを繰り返す野党による相も変わらないコップの中のくだらない政争にすぎない。
残り少ない世界終末時計の針を進めるだけの意味しか持っていない。

同様に、日ソ間における領土経済問題、日仏間におけるルノー問題、日韓間における様々な問題、EUとイギリスの問題、それらすべてに共通することは、1990年以降のグローバル化の中での、結果としての国家主権の台頭に他ならない。

私自身、確かに郷土愛や、愛国心は、人間にとって心のよりどころであることは理解できる。しかし、グローバル化の中での過度の郷土愛や愛国心は、歴史が証明しているように、行き着く先は、国家間の争い、国民への弾圧、即ち、現代立憲民主主義の否定でしかない。

このことは、ロヒンギャ問題、パレスチナ問題、イエメン問題、全ての民族、宗教紛争でも同じことが言える。
現在、世界中で生じている国境、民族、宗教問題は、グローバル化と絡み合って非常に複雑化している。複雑化している最たる原因は、グローバル化が、経済至上主義に基づいているからに他ならない。サウジアラビアへのアメリカ、フランスによる莫大な武器輸出など、その典型である。
また現在生じているファーエイ問題もグローバル化した経済進出と、国家による情報管理、個人への人権侵害、最終的には、現代立憲民主主義の否定につながる問題である。
結局、これらの問題を、解決できる唯一の術は、国家でもなく、グローバル化でもなく、制度としての民主主義でもなく、宗教でも、民族でもない。

その唯一の術は、国家や、宗教、民族を超えた個々人の公的側面である市民主義である。
1991年にソビエト連邦が崩壊して、資本主義が共産主義に勝利したが、それは、手段としての資本主義の勝利であって、一つの過程にすぎなかった。
今、世界はグローバル化経済の中で、結果的に歴史を繰り返そうとしている。しかしその先に待っているのは、二分後に待ち構えているのは、もはや二度と繰り返すことのできない世界終末に他ならない。

近代以降の科学主義に基づいた二項対立の中で、人間は、人間の存在そのものが自然であるにもかかわらず、自然と対峙してきた。核開発、ゲノム操作などの自然の摂理に反した行為、不必要な経済活動は、必然的に自然を破壊する。それは所詮自然の一部にすぎない人類の滅亡を意味している。

亡きホーキンズ博士が述べていた人類の地球からの脱出、それを現実的にいち早く行おうとしているのが中国による宇宙開発であり、月面での居住空間の建設なのであろう。当面ある程度の数の人類を運ぶとすれば月以外にはないであろう。そういった意味で中国含めた先進国の富を蓄積した者たちは、もはや地球の温暖化抑止など考えておらず、地球を見捨ててしまっている。

私自身、不必要な消費を促し、地球環境を破壊する経済至上主義、自然に反した、倫理に反したゲノム操作、それらが人類の発展に寄与すると洗脳されてしまっている現代社会の中で、それらを阻止し、人類が自然あふれた青い地球で生活し続けることは至難の業であるとは思う。

しかし、私たちは可能な限りの努力を為さねばならないと思う。
国家、民族、宗教を超えた自然との共存を図る生き方、市民主義に基づいた生き方のみがそれを可能とするであろう。
それ以外には術は無い。

    平成31年1月27日   文責   世界のたま

人間は、考える葦である

2018年ももうじき終わろうとしている。
今年も世界中で、様々なことがあった。年々思うことであるが、私たち人間にとって、そして、人間を含む全ての生き物にとって、私たちは、余りにも無駄で、意味のない時を、過ごしている。

「人間は考える葦である」パスカルの「パンセ」の中の言葉である
私は、改めて、この言葉を思う
大辞林によれば、人間は自然の中で最も弱い葦の一茎にすぎない。だがそれは考える葦であるとして、自然において脆弱だが思考する人間の本質を表現したものとしている。
百科事典マイペディアの解説では、考えることができることにその偉大さと尊厳があるとして、思考する存在としての近代人の精神をよく示す句としている。
日本百科事典の解説では、17世紀フランスの思想家パスカルの言葉で、広大無辺な宇宙に比べれば、人間は無に等しく、「一茎の葦」のごとく弱く悲惨な存在にすぎないが、それは「考える葦」であり、思考によって「宇宙を包む」ことができる。ここに人間の尊厳があり、偉大さがある。このような偉大と悲惨、無限と無という相矛盾した二律背反の中で揺れ動く人間の存在をパスカルは「考える葦」という言葉で象徴させているのである。なお、この句は聖書の「傷ついた葦」に由来するとしている。

この言葉は、現代社会を如実に表している。
近代以降、私たち人間は、神によるから支配から解放されて、近代精神に基づいて、神から与えられた理性に基づいて生活してきた。
それは、人間中心的な考え方であり、科学的根拠に基づく思考である。

そうした中、政治的には、絶対君主制から、法に基づく政治に、経済的には、自由な交易に基づく市場経済を形成してきた。科学的には、様々な疾病を克服して、人間の寿命を延ばしてきた。

2018年現在、政治的には、民主主義が経済至上主義によって凌駕されている。何故ならば、富の蓄積の中では、説明責任は、必要とされず、必然的に民主主義は存在しえない。結果として、世界中の多くの国民は、思考停止し、科学主義の特徴である二項対立の中で、分断された社会が、国家間、国内いたるところで形成されている。アメリカにおける共和党、民主党の分断、ヨーロッパにおけるEU支持派と、独立派との分断、中東でのシリア問題を巡る分断等々である。
経済においては、市場経済の果てに、経済至上主義という世界を作り出し、現実の経済社会と乖離した記号化された為替取引の中で、ヘッジファンドによるアジア危機、記号化された商品取引の中で、リーマンショックを引き起こし、現実社会の中での貧富の格差は、日本国内はもとより、世界中で拡大している。
自然科学においては、中国人研究者によって行われた受精卵でのゲノム操作、ロシア、中国、アメリカ、北朝鮮などによる際限なき兵器開発、日本国内においても艦船の空母化、そしてもはや意味のない核燃料サイクル
それら世界中で起きている政治、経済、自然科学分野で生じている事象すべてはリンクしている。

2018年が終わろうとしている今、私は思う。
人間は、人間の偉大さと、尊厳さの中で、「理性」という思考によって、無を無限さと錯覚している
人間は、所詮「一茎の葦」にすぎない

そして今、その「一茎の葦」が、その生命の息吹を終えようとしている。

   平成30年12月30日  文責  世界のたま

砂上の楼閣にすぎない現代社会~人はキラキラ輝く純粋な瞳の輝きを失ってしまった

現代社会は砂上の楼閣である。
その中で、人は、純粋な瞳の輝きを失ってしまった。

平成30年11月24日未明、官民合わせて36億円かけた上で、2025年度の大阪万博開催が決定された。そのメインの開催場所である人工島夢洲は、昭和のバブル期にテクノポート大阪計画の一環として計画されたもので、バブル崩壊とともに、夢破れた人工島であり、日本全国で問題となった第三セクターによる税金の無駄遣い、ハコモノ行政の負の遺産である。
そうした中で、その後始末に考え出されたのが、東京オリンピックと同様に、これから数千億もの莫大な未知の予算を必要とする今回の大阪万博開催、そして具体的な内容を省令に丸投げした隣接地カジノを含む総合リゾート(RI)構想である。 
大阪府知事は、今回の万博誘致によって2兆円の経済効果を謳い、及び腰だった産業界も結果的に、それに便乗している。
バブルという経済至上主義社会における砂上の楼閣の中で、莫大な予算の中で作り上げられた人工島、そして更なる莫大な予算をかけて、人間は新たな砂上の楼閣を作ろうとしている。その中で、人々は本来何の価値も有していない交換価値にすぎない貨幣を賭けて一瞬の夢を買う。しかしその一瞬の夢の先に、人間にとって、現実的な意味での未来は、存在はしていない。
世耕弘成経済産業相は、未明行われた投票会場において、「世界中の人々の暮らしを守り、強靭にする実験室になる」とのあいさつを行った。
しかし、私は思うのです。彼は、現代社会そのものが人類滅亡の実験室であることを忘れている。
大阪万博、総合リゾート構想は、経済至上主義の中での蜃気楼、砂上の楼閣にすぎない。

日産自動車、ルノー、三菱自動車会長カルロス・ゴーンによる金融商品取引法違反すなわち有価証券報告書虚偽記載による逮捕、巨額な報酬に加えて、巨額な私的流用もマスコミによって盛んに取り上げられている。内部告発とされているが、実態は、報道でなされているように、フランス政府によるフランス国内のルノー労働者の雇用維持のための日産との合併要請に対する日産、日本政府の反発の中で生じたものであると思う。
しかし、真の実態は、所詮、経済至上主義というコップの中での争いにすぎない。富あるものが更なる富を求めての奪い合い、そうした中で、中国、ロシアなどでもよく行われている権力闘争の中での一部の者の吊し上げと同様な多くの国民の視線をそらし、留飲を下げるトリックにすぎないと私は思う。
消費税アップに伴うカード決済利用者に対するポイント制度、多くの識者からも指摘されているが、カード決済をする人の多くは、ある程度の資産を持った者であり、カードを使われる側の店舗も中小以上の企業である。資産のないもの、零細企業は、その対象外である。
しかし、最も重要であり問題なことは、税とは何なのか、何のための税なのか、それが理解されないまま今回消費税を、何故引き上げなければならないのか、何のために引き上げるのかということが忘れ去られていることにある。
今までのブログの中でも何度かお話ししているが、税の目的は、国民生活のための財源であり、もう一つの主要な目的は、所得の再分配機能である。
そうした中で、消費税を考えて見ると、国家の財源という点では、安定的な財源であり、現実的に、我が国においても消費税を導入して以降、財源としては、景気に大きく左右され難い最たる財源である。一方、所得の再分配機能、即ち、自由と、平等という観点から消費税を考えて見ると、富あるものも貧しきものも同じ税率で物を買えば徴収されるという点においては逆進性である。そうした中で、その是正として、非課税品目を様々取り入れたりしようとしているのであるが、一見正論のように思われるが、私は間違っていると思う。
そもそも今回、消費税を引き上げる目的は、1000兆円を超えた国家の負債、日銀によるGDPに近づくレベルの多量の国債の引き受け、株式の買い入れ、更なる赤字国債を発行しない限りやり繰りできない毎年の国家予算、特に増え続ける社会保障費用、それらの財源として、財政規律のための消費税増税であったはずである。このことは、国際機関からも警告されていることでもあり、待ったなしの緊急の課題である。
今回の消費税増税に伴う非課税品導入、ポイント制度は、消費税の持つ最大の特徴である景気に左右されない安定財源という特徴を損ない、その徴収額の莫大な損失は、緊急の課題である財政規律、安定した社会保障の充実という点においても愚策以外の何者ではない。
徴収するときはきっちりと徴収した上で、格差解消を含めて、充実した社会保障を行ってゆくべきである。
それこそが本来の消費税であり、あるべき税の姿である。
それがわかった上で、政府がそれらの愚策を行う理由は、非課税品目となることを求める経済界からの企業献金、複雑な税制度にすればするだけ必要となるそれらを調整、監督、監視する天下り団体、すなわち、政治家、官僚、そして所詮は、非課税品を最も多く購入できる高額所得者である。
そしてバカを見るのは、購入した非課税品によって免れたわずかな非課税額と砂上の楼閣にすぎない稚拙な社会保障制度を引き換えた私たち国民であり、複雑な消費税制度に対応できない零細企業である。
リストラ、低賃金の中で、大企業の内部留保は増え続け、その多くは、企業トップ、大株主、ヘッジファンドなどに流れているのが現実である。
企業が儲かれば、その利益は従業員に還ってくるというトリクルダウン理論、そして今回の消費税論議、すべて経済至上主義の下での砂上の楼閣にすぎない。

サウジアラビア政府に批判的な記事を書き続けていたアメリカ在住のサウジアラビア人記者ジャマル・カショギ氏がトルコにあるサウジアラビア領事館内で、暗殺された事件が起き、現在、サウジアラビアのムハンマド皇太子の指示が疑われている。
そうした中で、アメリカトランプ大統領は、関与したかもしれないが武器輸出に伴う経済優先を表明した。ヨーロッパでは、ドイツがEU加盟国に武器禁輸を呼びかけ、その結果、デンマークは同調したが、自由と平等を理念とするフランスは難色を示している。
経済グローバル化が進む中で、資源含めたそのパイには限界がある。その限られたパイを求めた自国ファースト主義、すなわち国家主権が世界中で強調される中で、自由と平等をその目的とする民主主義は存在しえない。
EUを見てもわかることであるが、世界中の人々は、国家主権を放棄することはないであろう。そうした中で、私たちが経済のグローバル化を選択し続けるならば、もはや現代立憲民主主義は砂上の楼閣にすぎない。

森友加計学園国有地売却問題に関して、会計検査院が、今春から進めていた追加検査の結果をまとめて国会に提出した。
その中で、会計検査院は、財務省近畿財務局が交渉中に学園側に価格情報を伝えていたことを「適切とは認められない」と指摘、財務省が決裁文書を改ざんし、会計検査院へ提出した行為、学園側との交渉記録を故意に提出しなかった行為は会計検査院法に反する違法行為であることを認定した。しかし、元理財局長佐川宣寿氏がすでに退職していること、提出文書の改ざんに主にかかわった職員らがすでに懲戒処分を受けていることなどから関係者の会計検査院法に基づく懲戒処分要求は見送っている。
このことは、前回のブログでも取り上げ、現在私が、広島高裁に控訴している控訴理由の核心部分の一つでもあるが、会計検査院がいうような単なる違法行為ではない。日本国憲法における財政民主主義、そして、公務員が全体の奉仕者であり、一部の奉仕者でないとする第15条、さらには公務員の憲法尊重擁護義務に反した違憲行為である。
前回のブログでも述べたが、我が国における現代立憲民主主義も、もはや砂上の楼閣にすぎない。

中国新疆ウイルグル自治区での多くのウイグル族が政治的再教育施設に収容されている実態が世界中で明らかにされてきている。
収容された経験ある人の話では、それらの施設では、ウイグル族やカザフ族などのイスラム教を信仰する10代から80代までの少数民族の男女が収容されている。早朝から深夜まで革命歌を歌わされたり、共産党の政策の学習をさせられる毎日、その中では拷問も行われ、施設内での死亡者も出ている。
私は、1960年代、かつて中国で行われた文化大革命を思い起こした。実態は毛沢東による権力闘争であり、その妻らの四人組によって行われた粛清、毛沢東に先導された学生含めた若者、紅衛兵による暴力統制、知識人を中心とした一般国民を強制的に連行、隔離した集団生活の中での労働を強制した下放運動、そうした中での死者は、何百万人、何千万人と言われている。その後、1970年代、カンボジアにおいて、毛沢東の行った文化大革命を模したポルポト政権下での同様の粛清においても何百万人の命が失われている。

話は変わりますが、スーパーボランティア尾畠春夫さんは、酒も飲まず、貯金もゼロ、野草を食べ健康保険証は11年間使ったこともないそうだ。そんな彼の初の書籍の刊行が延期された。印税もいらないとして、出版を希望する各社が足並みをそろえたら契約することだったようだが、おそらく、出版社との行き違いが生じたのだと思う。
私の推測であるが、元々、無償での行為を信条とする尾畠春夫さんと、所詮、企業利益を追求する出版社とは相反することは自明な事実であったと思う。
そうした経済至上主義の中で、尾畠春夫さんは、彼自身が、記号化されることを拒否したにすぎないのだと思う。

世界中で多くの人たちが、迫害され、戦禍で逃げまどい、難民として彷徨っている。そうした中で、多くの人たちが人身売買され、殺害されている。
私には、そうした多くの人たちは、記号化されてしまった人間だと思えてならない。
現在、国会で問題となっている入管法改正での外国人労働者受け入れ問題など、その典型例だと思う。
日本政府は、決して、受け入れようとする外国人労働者を一人の人権を享有した人間としては見てはいない。経済至上主義社会の中で記号化された対象としか見てはいない。

経済至上主義の下、私たち、多くの国民が、記号化されようとしている。
国会を見ていてもわかるが、すでに、多くの国会議員、大臣、官僚、さらに言えば多くの裁判官すらもが記号化されてしまっている。

そのような記号化された人間が作り上げる現代社会は、もはや砂上の楼閣にすぎない。
そこには、キラキラ輝く純粋な瞳を持った人間など存在しえない。

  平成30年11月25日  文責  世界のたま

国家賠償請求訴訟(広島高裁)口頭弁論を終えて~現代立憲民主主義の終焉

H30年10月11日、広島高等裁判所202号法廷にて私が提起している国家賠償請求訴訟控訴審第一回公判が開かれると同時に、追加の補充陳述、立証のために安倍内閣総理大臣、麻生太郎財務大臣、佐川宣寿前国税庁長官、太田充財務省理財局長、総理夫人安倍昭恵氏、安倍昭恵氏付き元職員谷査恵子氏(イタリア日本大使館一等書記官)ら6名の出廷要請、証人申請したが、却下され、口頭弁論終結、来る12月27日に判決となった。

今回の裁判は、第48回衆議院選挙に立候補し、選挙権行使した私の被選挙権、選挙権に対する公職選挙法第一条に反する違憲、違法行為を行った国、行政府に対する国家賠償法第一条に基づく国会賠償請求訴訟です。
(公職選挙法第一条)
 この法律は、日本国憲法の精神に則り、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする。
(国家賠償法第一条)
 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

第48回衆議院選挙は、安倍内閣による森友学園の土地賃貸、売買に関する財務省決裁文書の改ざん、それらの改ざん文書の国会、会計検査院への提出、財務官僚による国会での虚偽答弁、それらに関する安倍内閣の説明責任の放棄、そして、究極の説明責任の放棄たる第194回国会における主権者たる国民の代表者である国会議員に一言の反論も許さない冒頭解散、その結果として行われたものであった。

第48回衆議院選挙は国民をだまし、嘘で塗り固められた事実の下になされた選挙であった。

日本国憲法は、前文をはじめとして、正当に選ばれた代表者を通じた国家権力の行使を定めており、その日本国憲法の精神に則った公明且つ適正な選挙制度、選挙人の自由な意思表明を保障し、民主政治の健全な発達を促すとした公職選挙法第一条に明らかに反している。

国会議員選挙とは、国民の信を問う選挙である。
国民の信を問うために必要なもの、それは嘘偽りのない資料、答弁に基づく国会審議であり、会計検査報告である。そして民主政治にとって最も必要なものは、説明責任である。それらが存在しない状態での国会議員選挙は、目隠しをしたまま、耳を塞いだ状態での選挙以外の何者ではない。

第48回衆議院選挙は、説明責任を求める国会の臨時国会開催を、拒絶した上、ようやく開催された第194回国会を有無も言わさず冒頭解散した究極の説明責任の放棄の上になされたものであったことは厳然たる事実である。

第48回衆議院選挙は、日本国憲法が求める代表の正当性、公職選挙法第一条が定める公明性、適正性に明らかに反しており、その選挙の正当性はない。したがって、それによって選出された現在の国会議員、内閣総理大臣にもその正当性は有り得ない。

私の訴えに対して原審である広島地方裁判所での判決要旨が下記の通りである。

原審(広島地方裁判所)の判決事実
第48回衆議院議員総選挙において、原告の被選挙権や選挙権が侵害されたとは認められない。
原告は、第48回衆議院議員総選挙に立候補し、投票をした者である旨仮に、原告が主張する請求原因事実(改ざん、虚偽答弁など)が認められるとしても、そのことを自ら主張しているのであり、原告の被選挙権及び選挙権を行使する機会が保障されていたということができる。
原告は、第193回国会の審議等が改ざんされた公文書や虚偽答弁に基づいてなされたことをもって第48回衆議院議員総選挙の選挙自体の正当性や公明性・適合性が否定され、さらには原告の被選挙権及び選挙権が不当に侵害された旨を主張するが、原告独自の見解といわなければならず、採用することができない。
そのほか、本件記録によっても、原告の被選挙権や選挙権が侵害されたとは認められない。

原審の判決によれば、かつて我が国で行われた嘘で塗り固められた大本営発表に踊らされ、大政翼賛会が結成された下で行われた衆議院選挙すら肯定することを意味している。
国の答弁書においても、国会で官僚が虚偽答弁しようが、改ざん文書を国会や、会計検査院に提出しようが、国民にはなんら一切関係ないとしている。さらに、解散は国会議員のためのものであり、たとえ、私が、立候補者であれ、選挙権者であれ、何ら関係ないと断言している。

私は、控訴審第一回公判において、以下の陳述を補充、追加した。

H30年7月31日になされた国権の最高機関たる国会の大島衆議院議長の記者会見において、森友学園をめぐる財務省の決裁文書改ざん問題や、自衛隊イラク派遣での日報問題などについて、「立法府の判断を誤らせるおそれがあり、民主主義の根幹を揺るがすものだ。国民に大いなる不信感を抱かせる。」と発言したうえで「政府には、問題を引き起こした経緯や原因を早急に究明し、再発防止のための運用改善や制度構築を行うよう強く求めたい」と述べています。
さらに国権の最高機関たる国会に対しても「行政を監視すべき任にある国会も、責務を十分に果たしてきたかは検証の余地があるのではないか。国会として、正当かつ強力な調査権の、より一層の活用を心がけるべきだ」と述べています。
国権の最高機関たる国会の衆議院議長自らが、決裁文書改ざん問題は、立法府の判断を誤らせるおそれがあり、民主主義の根幹を揺るがすものだとしている。
そして、国民に大いなる不信感を抱かせる問題だと述べている。すなわち「国民の信」に直接関わる問題だと述べている。我が国の憲政史上、国権の最高機関たる国会の衆議院議長がここまで述べた事例はない。
国権の最高機関たる国会の衆議院議長自らが、改ざん問題は、国民の信、すなわち、まさにその信を問う国会議員選挙に重大な影響を及ぼすとしている。
しかし、被控訴人は、改ざん問題が、控訴人の選挙権、被選挙権と何ら関係ないとしています。
又、原審も改ざん問題が、控訴人の選挙権、被選挙権に侵害を与えたという主張を控訴人独自のものであるとしていますが、国権の最高機関たる国会の衆議院議長は、控訴人と同様な判断をしている。
しかも、これらの発言は、財務省による改ざん文書や交渉記録の開示、H30年6月4日になされた財務省決算文書改ざん等についての報告書の発表、H30年6月15日になされた改ざんに首相らの働きかけなしとする政府答弁の閣議決定以後になされている。
国権の最高機関たる国会の衆議院議長が、今年3月以降の政府による改ざん文書、交渉記録の開示、報告書の作成、首相らによる改ざん働きかけなしとする政府答弁の閣議決定をもってしても、国民の信に足る状況でないこと、今だもって、早急なその経緯、原因の究明が必要であるとしているのです。
すなわち、 国権の最高機関たる国会の衆議院議長が、行政府のみならず、国権の最高機関たる国会に対しても我が国の民主制度崩壊への警告を発しているのです。
司法権の独立もあり、直接明言されていないが、国会の最高機関たる国会に対して警告を発していることを鑑みれば、司法に対する警告であると控訴人は思う。
控訴人は、被控訴人に問いたい。国権の最高機関たる国会の衆議院議長の発言をもってしても、改ざん問題が、公職選挙法第一条が求める民主制の健全な発達を期するという条文に反していないと考えるのですか。
被控訴人は、国権の最高機関たる国会の衆議院議長の発言を、どう受け止めているのですか。
被控訴人は、憲法改正については盛んに論じているが、まず、現在ある日本国憲法を順守すべきことを、控訴人は強く望みます。
 
 最終の事実審であることも踏まえて、国が答弁書の中で要求する具体的事実究明のためにも下記6名の出廷、証人申請も同時に行った。
 
 安倍内閣総理大臣 行政の最終責任者であり、自らも国会において、全責任は最終的に自らにあると述べている。
又、財務省が公表した調査報告書では総理が「私や妻が関与していたら総理大臣も国会議員を辞める」と国会で答弁したH29年2月17日以降に、政治家の問い合わせに関する記録の廃棄が進められたとしている。
又、H30年4月9日民進党の大島氏が、第48回衆議院選挙が、改ざんと隠ぺいに基づいた選挙でありその正当性について国会質問をしましたが、安倍総理は「決算文書を精読してもらっても今までの説明を覆すものは何ら入っていなかったと認識している」と改ざんや隠ぺいに対する控訴人や、国権の最高機関たる国会の衆議院議長の認識、及び、議長の行政府に対する要請と著しく異なった答弁をしており、出廷しての答弁が求められる。
さらに第194回国会冒頭解散の違憲性、違法性及び、公職選挙法第一条に基づく控訴人の選挙権、被選挙権侵害に関する答弁も求めたい。蓋し、菅官房長官も当時の解散前の記者会見で第194回国会の解散権は、総理の専権事項であると述べており、総理以外の人間には答弁能力がないと思われるからです。

 麻生太郎財務大臣 財務省の最終的な責任者である。
改ざんについて、H30年5月8日の閣議後記者会見の中で「どの組織でも改ざんはありえる。組織全体としてではなく、個人の資質が大きかったのではないか」「改ざんが組織全体で日常茶飯事で行われていることは全くない」と述べている。これは控訴人や国権の最高機関たる国会の衆議院議長の認識、及び、議長の行政府に対する要請と著しく反するものであり、改ざん問題の違憲性、違法性の認識に対する答弁を求めたい。
        

 佐川宣寿前国税庁長官 改ざん、廃棄がなされた当時の理財局の最終責任者
調査報告書では、何故改ざんされたのか「国会審議が紛糾するのを避けるため、当時の理財局の幹部職員が改ざんを進めた」と認定している。又、佐川前理財局長の国会で答弁した内容を踏まえ、誤解を生みかねない内容を極力含めないように改ざんを行ったとしている。その上で、国権の最高機関たる国会に対し決算文書の改ざん作業を行い、改ざん後の文書を提出したことはあってはならないことで、不適切な対応であったと総括している。
 それに対して、H30年3月に行われた証人喚問で、安倍氏、昭恵氏、麻生氏などの指示はないとする一方、佐川氏は、改ざんを、いつ、認識したのか、だれがどのような理由で改ざんを指示したのかなどについては、刑事訴追の恐れがあるとのことで40回以上も証言拒否している。
国権の最高機関たる国会の衆議院議長は、政府に対して、その経緯、原因追求を求めており、又、被控訴人自らも求めている具体的事実を明らかにするためにも佐川氏の出廷、答弁は不可欠である。

 総理夫人安倍昭恵氏、昭恵氏付け元職員谷査恵子氏  安倍昭恵氏が当時、森友学園名誉校長に就任していた。
 公表された交渉記録の中に、安倍総理の妻の昭恵氏付きだった谷査恵子氏が、財務省理財局に問い合わせた記録が含まれており、問い合わせた2日後の応接記録には、財務省の担当者とのやり取りが記されている。また、谷氏が問い合わせた結果を森友学園に伝えたこと、昭恵氏にも報告していたことが記されている。財務省職員による改ざん、廃棄などの違憲、違法行為への関与、違憲性、違法性の認識について答弁を求めたい。
 
 最後に、総括として下記の陳述も行った。

 裁判官、控訴人は、主権者として、選挙、被選挙権者として日本国憲法、公職選挙法が求める民主政治の健全な発達を、現在、将来の国民のために、切に望んでいます。そのことが、日本国民の基本的人権を守る最後の砦だからです。このことは、国権の最高機関たる国会の衆議院議長も同じ思いだと思います。
 国権の最高機関たる国会に対して衆議院議長が、その任を果たしていないという発言は、日本国憲法における国会と内閣のチェックアンドバランス機能が機能していないことの証左であり、そうした中で、唯一残されたものが、主権者たる国民の権力的契機である選挙権、被選挙権であると思う。
 国権の最高機関たる国会の衆議院議長の行政府、立法府に対する警告は、我が国の民主政治がその崩壊の崖っぷちに立っていることを表しており、その発言はあまりに大きい。
 裁判官、控訴人は、司法府に、切に、適切で妥当な司法判断を求めたいと思います。

 我が国の現代立憲民主主義は終焉を迎えようとしている。
 しかし、このことは、世界各国で生じている事実でもあり、現実である。

    平成30年10月21日  文責  世界のたま

科学、経済至上主義の果て~想像力を失った人類に未来はない

私は、北朝鮮核問題が、日中米韓との間で解決しようが、イラン核問題が解決しようが、人類の滅亡のカウントダウンに何ら影響がないことを断言する。それらの稚拙な問題が解決したところで何ら意味はない。

一方で、現在世界中で猛威を振るっている自国ファースト主義、経済制裁の応酬、軍事力や経済進出に伴う威嚇は、人類にとって、その生存の否定以外の何者ではない。

そうした中で、国連総会が開かれたが、もはや集まることに多少の意義を見出だせるのみの政治ショーにすぎない。ニュージーランド首相の生後間もない子供もIDカードを作ってもらい国連総会に出席していたが、今この時間にも地中海の難民船上で、シリアで、イエメンで、ソマリアで、バングラデシュで、南スーダンで、命の灯火が消えかかっている生後間もない多くの子供たちも同じ生きる権利を持った一人の人間、一つの命に他ならない。

トランプはじめ各国首脳の演説、何一つとってもそこに真の世界平和、世界中の民一人一人の自己実現できる社会を想像し得ることはできなかった。

彼らが言う、愛国主義、貿易摩擦、北朝鮮やイランに対する制裁など、万が一それらの課題がすべて解決されたところで、現在の世界情勢が悪くなることはあっても、何一つよくなることはないことを、そして最終的に、地球上での人類の生存が間違いなく危機に陥ることを彼らは想像することができないでいる。
というより、彼ら自身の人生の残り少ない生存期間のことだけしか考えていない。そもそも自分たち以外興味はないのだから
自分たちが生きている間に国家が借財を積み重ね、地球環境を破壊し、資源を使い果たそうとも自分たちが、美味しいものをたらふく食べて、いい思いが出来さえすればいいのだ。
彼らが想像できる未来など、たかが自分たちの任期である数年レベルにすぎない。

同じ時代に生きる他国において、自分たちが経済至上主義の中で、生産し、売りつけた兵器によって、何人の子供をはじめとする民間人が死のうが彼らにとって知ったことではないのだ。
このことは、アメリカのみならず、ロシア、フランスをはじめ、代理戦争の後ろ盾となっているサウジアラビア、イランなど含めた数多くの他国の紛争に関与する国々、そして他国の環境、人権を無視した経済侵略を図っている中国でも結局、同様のことが言える。そして我が国自身もそれらに加担している。

世界の歴史を振り返ってみればいい、欧米諸国や我が国によるアフリカ、アジアでの植民地政策、その後の世界各地での独立戦争、東西冷戦下での大国による代理戦争すなわち戦後のギリシャ内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン内戦、カンボジア内戦、ハンガリー動乱、チェコにおけるプラハの春、シリア内戦、イエメン内戦、ソマリア内戦、イラク戦争いづれもアメリカ、ロシアを中心とした欧米諸国、そして我が国も戦闘、武器、戦費の供与に関与している。

現在の世界で起きているすべての問題の根源が何かと言えば、それは経済至上主義に尽きる。
確かに国境問題、民族問題など、表向きにはそれらが強調されているが、上記にあげたようにそれらの問題を、拡大化し、複雑化し、扇動しているのは、国家、国境、民族すらも記号化することによって経済的利益を上げようとする経済至上主義に他ならない。

1991年のソビエト連邦崩壊によるいわゆる資本主義の勝利は、戦後のトルーマンドクトリン、マーシャルプラン、ブレトンウッズ協定における金ドル本位制すなわちドルの国際基軸通貨化、アメリカ主導での世界銀行、IMF設立含めたありとあらゆる点でのアメリカ中心主義の幕開け後の集大成としての世界のアメリカ化に他ならない。

1990年代のヘッジファンドが引き起こしたタイ通貨バーツの暴落、その後のアジア危機、2009年のリーマンショックなど、それらすべては手段でしかない貨幣、金融システムを記号化、目的化させた経済至上主義が引き起こしたものである。

現在世界中で生じている様々の問題は、たとえそれが民族紛争であれ、核をめぐる問題であれ、宗教上の問題であれ、国境紛争であれ、その根底に存在しているもの、もしくはいったん生じた紛争の解決を長引かせ、泥沼化させているものは、経済至上主義以外の何者ではない。もはや、アメリカや、ロシアや、中国といった個々の国家が問題の本質ではない。私が過去のブログの中で、国家を対象とした現在の安全保障体制が全く意味をなさないと言っているのもそれが理由です。蓋し、経済至上主義は国家を超えてグローバル化しているのだから

私自身、市場経済社会は、私たちが生活する上で不可欠なものであるとは思う。しかし、拡大再生産を至上命題とする経済至上主義は、私たちにとってもはや不必要なまでの過度の欲望を生じさせ、人類の生存基盤たる自然を破壊し、そして残された自然すらもそれを記号化することによって、拡大再生産の対象としてきている。

人間の欲望は本質であり、それを抑えることは困難であるとの指摘もある。フロイトが言うように自我とは幻に過ぎず、人間は無意識によって束縛された存在にすぎないという見方、生来犯罪人説のように、生まれたときから人間はすでに決まった存在であると考える考え方もある。

確かに、資本主義社会の中で、人間が自由に理性的な振る舞いができるかと言われれば、それは困難な部分もあると思う。しかし、私はある一定の環境の中においては、自然や、他者との共存を図る理性的な行動を選択することは可能であると思う。

その一定の環境とは、人間の欲望のコントロールされた社会に他ならない。
それは、税制度で言えば、所得の再分配機能であり、企業でいえば、ワークシェアリングであり、車で言えば、カーシェアリングであり、電力消費で言えば、節電である。

そうした中で、私自身が考える近代以降、現代社会の中で、最も重要な人間の欲望のコントロールが、法の支配、現代立憲民主主義に他ならない。

私には、現代社会は、原子力、遺伝子操作をはじめとした科学主義や、上記にあげた市場経済を中心とした経済至上主義における歯止めの効かなくなった人間の欲望が、人類の生存基盤たる自然の修復能力を超えてしまってきているとしか思えない。それは間違いのない事実であり、現実である。

私は、そうした中で、それらの欲望の暴走を止めることができるのが、唯一、法の支配、現代立憲民主主義であると確信している。
近代以降、法の支配、立憲民主主義の下で、市場経済は発展した。
しかし、1990年以降、グローバル化、アメリカ化の下で、経済至上主義が猛威を振るい、本来は、人間の欲望、経済至上主義をコントロールすべき法の支配、現代立憲民主主義が、経済至上主義に飲み込まれてしまっているのが現代社会である。
そうした中で、近代以降、自然から乖離した人類は、経済至上主義によって、人類の生存基盤たる自然をも破壊尽くそうとしている。

法の支配、現代立憲民主主義の確立のみが、唯一、経済至上主義によって引き起こされている世界中の紛争や格差社会の中で失われている命、科学主義によって引き起こされている自然破壊の中で失われている命を救うことができると私は確信している。

私自身が、来月公判を迎える広島高裁における国家賠償請求訴訟も、我が国日本における現代立憲民主主義の存在を問うているのである。

私は、我が国日本の法の支配、現代立憲民主主義の確立こそが、沖縄問題をはじめとする国内の諸問題、そして世界における上記にあげた様々な問題を解決する唯一の術であると確信している。

自然を自ら破壊することのない他の生物は自然淘汰の中で、自然を守り、結果として生物を守ってきたが、近代以降、自然を破壊することが可能となった人類は、自らが生存できないほどの自然破壊をすることによって、その破壊された自然によって自らが淘汰されるのを待っている。そこには、もはや人類の生存は有り得ない。

人類は、科学主義の中で、科学という枠組みによって、種としてのヒトが、本来持っていた自然との共通感覚、無限の想像力を失ってしまった。

   平成30年9月28日   文責   世界のたま

  

愚民からの脱却~それ以外に私たちが生き残る術は無い

私たちが、愚民から脱却する以外、私たち自身、そして未来の子供たちを救う術は無い

先日、2歳の男の子が海水浴に行く途中で、自宅へ一人で引き返す中、行方不明となり、大捜索の末、68時間ぶりに発見された事件があった。
地元の人々をはじめ、多くの警察官、そしてヘリコプター、ドローンなどを駆使して大捜索するもなかなか発見することができない中、行方不明となって68時間が経過した早朝、一人の男性ボランティアによって、彼の捜索開始から1時間もしないうちにあっけなく無事発見された。

この事件は連日様々な報道機関が報じ、発見された際にも大きく報道され、その発見した78歳の男性も、彼がそれまでも全国各地の被災地などでボランティア活動されていたこともあってスーパーボランティアとして時の人となった。そうした報道で言われていたことは、男性の生き方やボランティアについてであった。

今、世界を見渡せば、米中貿易摩擦、北朝鮮核問題、イギリスEU離脱問題、イエメン内戦、ロヒンギャ難民問題、アフガニスタン問題、異常気象による災害問題、日本国内においても与野党党首選、障害者雇用水増し問題などありとあらゆる様々な問題が起きている。

そうした中で、冒頭に述べた一つの事件は、それらに比べて一見ほんの小さな事件にすぎないかのように思えるが、その小さな事件の中に、今、私たちが、世界で、日本で生じているあらゆる事象に対する上で必要不可欠なもの、学ばなければならないもの、根元的なものが存在している。混とんとした現代社会の中で、この事件が、今という時に起きたことは、ある意味で、決して偶然ではない。

この事件で私が思いだすのは、老人と海、白鯨などの文学作品である。
いずれの作品も一人の男が自然と向き合い、心の交流を描いた作品である。場所は、海に対して山であったこと、カジキや鯨に対して一人の2歳の男の子であったことなどの違いはあるが、不思議と私はこれらの作品を思い出し、それらと共通のものを感じた。
それは現代社会の多くの人々が失ってしまった自然との共存の世界であり、自然との共通感覚に他ならない。

今回の救出劇に関して、先にも述べた様に、多くの国民は、78歳の彼自身の生き方、ボランティア活動に注目しているが、今回の救出劇が私たちに示しているのは、彼自身の生き方にあるのではなく、思考停止した私たち自身の生き方に対する警鐘であり、砂漠を彷徨う私たち愚民にとっての羅針盤でもある。

今回の救出劇は、二つのことを私たちに教えている。

一つは、自然との共通感覚の重要性である。
人は、元来、自然と向き合って生活する中で、五感に加えて、自然との共通感覚を有していた。そしてそれは自然を恐れ、神を恐れる感覚にも通じるものである。
ルネサンス以降、人は、人間中心主義の中で、自然を予測し、コントロールできると過信し、科学の発展こそが善であると信じてきたし、自然が断末魔の雄叫びを上げている中でも、無数の人災が生じている中でも信じ続けようとしている。経済至上主義の中で、たかが手段にすぎないお金や物と人類を含む生物にとってかけがえのない自然とを引き換えようとしている。一時的な欲望のために人間は何にも代えがたい自分たちの生きる基盤たる自然を引き換えようとしている。

自然を人間と相対する対象とする中で、人は自然との共通感覚を喪失してゆく。人工頭脳や自動運転を開発、使用する中で、人は考え思考することを止める。
人類は道具や言語などの手段を考え、試行錯誤することで、動物一般が持つ古い脳(脳幹部など)以上に新しい脳(前頭葉など)を発達させてきた。そしてそれらを結びつける伝導路、シナプスを多数形成してきた。

認知症に関して、前頭葉を鍛えることが盛んに行われているが、前頭葉は、短期記憶以外にも空間認識や物事を論理的に考えたり、社会性の形成機能を有しており、人が思考を止めることは、新しい脳の機能低下すなわち社会性、他者との協調、共生機能の低下を意味する。
結果として、古い脳の機能である動物の持つ本能的機能、個体の防御反応、情動反応の抑制が機能不全に陥り、本能的な怒りや、攻撃的行動へと人を導く。
現在、世界中で沸き起っている数多くのテロや、内戦、貿易摩擦、人権弾圧、領土をめぐっての争い、軍備の拡大、自国ファースト主義、経済的格差拡大、人種、性差別、障害者差別、説明責任の放棄、社会的弱者への弾圧等々、それらすべては、その証左に他ならない。

今回の救出劇の中では、警察や、消防、地域住民が、ヘリコプター、ドローンなどありとあらゆる科学的手段を使い2歳児の発見に68時間も費やしたが、発見できなかった。その一方で、何の科学的手段を持たない一人の男性が、子供は上に上がるとの判断(自然との共通感覚に近いもの)でただ山道をひたすら上がり、1時間もしないうちに無事、子供を発見した。
私は、如何なる科学的手段が存在していたとしても、自然との共通感覚を失い、思考停止した中での人間社会の果てしないもろさを感じた。

発見後も、その男性は母親との直接手渡すとの約束を盾に、警察関係者による法的根拠を理由(本当にあるのか私にはわからないが)とした子供を引き渡せとの要求を拒否した。男性は子供の元気度を見極めた上で、そういった行動をとったのであって決して無謀なものではない。私はそこにも規則という道具に縛られた思考停止した現代社会を垣間見た。

私たちに投げかけているもう一つのことは、個の中に全体を見出だす感覚、言い換えれば自然との同化である。
確かに子供を救った男性は自分自身も語っているようにボランティアとして現地に赴き、結果的に子供を発見したのであるが、彼の言動を見聞きした中で、私が感じたことは、彼自身と、2歳児、家族、そして2歳児がいなくなった山を含めた彼を取り巻くすべての自然が彼と同化していたことであった。それは彼が自然との共通感覚を有していた裏返しでもある。

自然と人間の同化、すなわち個の中に全体を見るためには、己を捨て去る気持ちがなければできないことである。私がかつて通った高校で盛んに繰り返されていた「己に徹して人のために生きよう」という校訓は、今思えばこういうことだったのかと今の自分だからこそ初めて理解出来る。

私は思う。今私たちに必要なのは、理屈などではない。
自然との共通感覚の中で、一人一人が個の中に全体を見出だすこと。自然との共存、自然との同化の認識、そしてその中での個の確立。
そうした時、初めて他者を含む自然の中で、空間的、時間的な意味における無限の想像力が得られるのだと思う。

最近、日本国内で明らかになった障害者雇用促進法に基づく各省庁の障害者雇用6900人余りの半数3500人余りが偽りの水増しであった事実などみてもわかるが、そこにあるのは省益か個人的利益しかない、障害者と共に築く社会という本来の目的などもはや存在していない。現在の政府、各省庁の役人、そして国会議員には、個の中に全体を見出だす想像力などひとかけらもない。個の中に個しか見えていない。そこにあるのは、所詮、省庁、政党という狭い世界の中での個でしかない。
おバカな首相、大臣、官僚、国会議員が起こした森友加計学園問題をはじめとした数々の問題、そして、日大、東京医科大、ボクシング団体が起こした様々な問題、そして投票率の低さが物語っている思考停止した私たち主権者たる国民、全てに共通しているのは、個の中に個しか見ることのできない哀れな想像力の欠如した世界である。

このことは個人的レベルだけではなく、国家的レベルでも同様なことが言える。
先にあげた世界で現在生じている様々な問題は、多くの為政者たちを筆頭に、それぞれの国の多くの国民自身も自然との共通感覚を失い、人間を含む自然との共存を否定してしまった結果必然的に生じている事象にすぎない。

今、私たちに必要なのは、理屈ではない。科学的知見でもない。
個の中に全体を見出だす力であり、その中での個の確立に他ならない。
過去を学び、未来を想像する中での絶対的核心を持った心
私たち一人一人がその心を持たない限り、愚民から脱却しない限り
現在を生きる私たち自身、そして世界中の未来の子供たちが生き延びる術は何処にも無い

    平成30年8月28日  文責  世界のたま

追記)
 今日8月30日経産省が、誰が何を発言したかを議事録に記録しないように指示を出したこと、一部の議事録については即日廃棄指示を出したことを明らかにし、経産省自体その事実を認めた。
 このことは、自分たちが責任をとり、非難されることを避けるための典型的な利己的行為に他ならない。個の中に個しか見ていない。
 確かに彼らは、いわゆる偏差値が高く、お勉強はできるのかもしれないが、私からしてみれば、人としては、おバカな中でも最もたちの悪い最低のおバカであるとしか思えない。何故ならば、彼らがとっている行為が、彼ら自身にとっては、たいしたこともない自己保身の行為と考えているのかもしれないが、それらの行為が、彼らが忠誠を誓った日本国憲法の基本理念である立憲民主主義に反しており、彼らの為した行為が、現在、将来の主権者たる国民に如何なる災いをもたらすのかという想像力が決定的に欠如しているからである。
 そもそも公文書、議事録などは、法律、規則で如何に定めてあろうと、すべてその所有権は主権者たる国民にある。何故なら、今回の件もそうであるが、彼らは保身のためであれば、必ず例外を作り、全てを骨抜きにしてしまうことは彼らの常とう手段であり、そうした悪だくみに関しては呆れるほど持ち前の能力を発揮するからである。
したがって、彼らには、それらを利用する権利はあっても、その改ざん、処分する権利は一切ない。
民主主義にとって公文書、議事録や政府、官僚、国会議員の答弁、言い換えれば説明責任は、欠くことのできないものである。公正な公文書、議事録、虚偽のない答弁に基づく国会審議がなされることが、国会や内閣の正当性の根拠だからである。
現在、私が広島高裁に控訴しているのも現在の内閣、国会にその正当性がないからに他ならない。
私には、現在の内閣、国会に日本国憲法上の正当性があるとは思えない。
 私たちは、私たち自身のために、将来の子供たちのために、個の中に全体を見ることのできる想像力をもった日本国憲法で謳っている正当性のある代表者を選ばなければならない。そして、それは日本国民としての責務であると思う。
そのためには、私自身、あなた方一人一人が、所属する政党や、宗教を超えて考え、行動しなければならない。
私たちは、思考停止から、合理的無知や合理的非合理性から卒業しなければならない。
私自身、あなた自身が変わらない限り、何一つ変えることはできない。
私自身、あなた自身が変わることで、日本を変え、世界を変えることができるのだから
私自身、あなた自身の中に、全てが存在しているのだから
我が国、日本の中に、世界が存在しているのだから

     平成30年8月30日   文責   世界のたま
 

あなたには自然の断末魔の雄叫びが聞こえないのですか

200人以上の死者を出した中四国を中心とした豪雨災害、今だもって行方不明者の捜索が行われており、被害にあった人々の復興への道は遠く長い
そうした中、国会では、カジノ法案、働き方改革法案、参議院議員定数増加法案などが、国民の多数が反対する中、何の信念も、意思も持たない多数の国会議員によって淡々と可決された。

多くの死者、被災者を出した今回の豪雨災害であるが、様々な報道がなされる中で、その原因としてたまたま複合的な誘因が重なって生じた数十年にあるかないかの自然災害であるかのような見解もあるが、私は誤った見解であると思う。
そう考えるまともな人も多いいのではないかと思う。

過去のブログの中でも何度も述べているように、今回の自然災害も含めて世界中で起きている現象、無数の森林火災、中国での大洪水、北極で融解した巨大な氷塊による洪水被害、それらはすべて偶然いくつかの現象が重なったためにたまたま生じているものではない。必然的に生じたものであり、今後、世界中で、毎年、毎月、毎日その頻度と、程度を増して私たち人類を含めた生物に襲い掛かってきている。

そうした中、数多くの自然災害を報じるニュースを聞いていて、私は疑問に思うことがある。それは、果たして上記に述べた自然災害とは本当に自然災害なのだろうかという単純な疑問である。

自然災害という言葉を考えた時、当然それが意味するところは、自然による災害である。しかし、それは、あくまでも人間から見た、人間目線での評価にすぎない。果たしてそれが正しいのかと問われたなら、私は、間違っていると思う。
誤解を恐れずに言えば、過去のブログでも述べたように、自然災害とは、人間の驕りに対する警鐘に他ならない。しかし、人間を含めた自然界全体としての自然から見た時、それは、自然による自然界の治癒に他ならない。

自然界の治癒とは、生態系バランスの修復であり、結果として、人間、すなわち、ヒトという種の保存のための修復過程でもある。
したがって、自然災害とは、一見すると、人間にとって災難としかとらえられないが、その考え方は、人間の驕りに過ぎない。事実は、自然による人間を含めたすべての生物の生存を図るための修復過程であり、その実態は、人間による災害、すなわち人間災害に他ならないと思う。

人間災害の主たるものは、経済至上主義による温暖化であり、海洋汚染であり、森林破壊であり、砂漠化であり、オゾン層の破壊である。

誤解をしないでいただきたいのは、人間災害によって亡くなられ、被災された方々は、あくまで被災者であって、社会的に保障されなければならない。しかし、その原因を作り出しているのは私たち人間であり、近代、現代社会であるという厳然たる事実があるということである。

自然災害を人間災害ととらえた時、冒頭に述べた今回の災害が起こる中、そして被災者がその苦しみの真っただ中にある中での、美味しい料理と、お酒に溺れた酒宴、死刑囚の死刑執行ショーの開催、何の生産性のない手段としての貨幣を目的化した究極にすぎないカジノ法案の可決、労働や企業の意味をはき違えた過労死遺族の感情を逆なでする働き方改革法案の可決、最高裁による一票の格差違憲状態判決を無視した与野党の都合のためだけの参議院議員定数増加法案の可決、それらすべては、一部の少数者を利するためだけに行われた人間災害以外の何者でもない。おバカな首相や、大臣、国会議員たちは、新たな自然災害を引き起こしているのが、おバカな自分たち自身だということに気付いてもいやしない。

そこには、被災者等の少数者、労働者、貧困にあえぐ社会的弱者への配慮は微塵もない。そこにあるのは、社会的強者の驕りであり、他者との共存の否定であり、すなわち自然との共存の否定でしかない。

そうした中で自然は、より強固で、大きな自然の修復を要求され、実際に、人間が自然災害とするその頻度、程度、大きさも増してきている。砂防ダム、防波堤などで人間はそれを押しとどめようとするが、それらの原材料となるコンクリートはじめ、より便利な日常生活を求めて経済活動を活発化させ、商品や社会そのもの、そして人間すらも記号化させることによって、人間は拡大再生産をし続けている。それらによって、温暖化、自然破壊はとどまることなく進み、より甚大な自然災害へとつながってゆく。

人はこれらを異常気象、自然災害と呼ぶが、私には、異常なのは私たち人間であり、災害なのは私たち自身に他ならないとしか思えない。

異常気象、自然災害という形で、自然は私たち人間を含めた自然界を修復しようとしているが、その修復にも限界がある。
私にはその限界点をもはや超えようとしているとしか思えない。

私が、広島地裁に提起した国家賠償請求訴訟に関して言えば、6/26に敗訴したが、原判決は、日本国憲法、公職選挙法に反しており、7/3に広島高裁に控訴した。
控訴状の結語の中でも述べたことでもあるが、私は、司法の役割とは、形式的には、具体的争訟性のある事件に対する法律の解釈適用にあるとは思うが(原判決はそれすら回避している)、その本質は、統治と人権とのバランスを図ることにあると思う。そして、私が、広島高裁に控訴した本質的な理由は、現在の日本政治において、その統治と人権がそのバランスを崩し、その揺り戻しが困難になっているからに他ならない。

それは、自然が、その揺り戻しが困難になっていることに対する警鐘でもある。
今、私はあなた方一人一人に問いたいのです。
あなたには自然の断末魔の雄叫びが聞こえないのですか

     平成30年7月21日  文責  世界のたま

私たちは、いつまでおバカな首相、国会議員のための愚民であり続けるのか

今の日本社会はまともではない。

私は、今の日本社会は、かつてヨーロッパでナチスが台頭した時代と瓜二つであると思う。
東京オリンピックを前にして公共事業や、宣伝によって政府が盛んに盛り上げようとしているが、妙に冷めきった何の実態もない空虚な空気は、私にとって、かつてベルリンオリンピックで沸き立ったあの時代のヨーロッパの雰囲気そのものであると思う。
ワールドサッカー大会などで、一見表面的には明るく健全な社会であるかのように誰しもが思っているが、中身は何もない。第二次世界大戦前のベルリンオリンピックが行われた時もそうであったように
それは、思考停止したゾンビが町中を彷徨っている社会に他ならない。
実際には、私が生まれる前のことであるが、確かに私はそう感じるのだ。

今の日本社会は、おバカな裸の王様である首相夫妻を筆頭に、実際には何の価値もないしょうもない大臣ポストや、官僚ポストや、報酬のエサにむさぼりつく国会議員や、官僚、そしてそのおこぼれに与ろうとする私たち中身は何もない。愚民社会に成り下がってしまっている。

誰しもが、おバカな裸の王様に、「あなたは、ただの嘘つきの、誰一人として尊敬すべき人間であると思っていない、所詮はただのおバカにすぎない」ということを言えないでいる。

このことは、今現在一生懸命生きている多くの日本国民にとって本当に不幸なことであるが、これから生まれてくる主権者たる国民にとって、もっと大きな不幸な災いをもたらすであろう。

先日の国会においても、受動喫煙対策を強化する健康増進法改正案を審議するために呼ばれた参考人の肺がん患者の発言中に「いいかげんにしろ」というヤジが国会議員によって発せられた。その国会議員はファミリーレストラン・ジョイフルの代表取締役相談役であり、大分がん復興財団の理事でもあった。
来週、私自身、校医をしている小学校での喫煙防止教育が予定されているが、子供たちにどう説明できるのであろう。多くの子供たちは日々、自宅で喫煙者である家人から現実的に健康被害にさらされている。私自身、授業の中で、彼らをその健康被害から守らなければならない責任を負っている。しかし、もっともその責任を負っているのは、その法制度を審議すべき彼ら国民の代表者たる国会議員である。
その国権の最高機関である国会において、全国民の代表者である国会議員が、真剣に受動喫煙による健康被害を訴える非喫煙者であり、受動喫煙により肺癌を発症し、その病を押して出席した国会によって招致された参考人に対する発言として許されるものではない。
国会議員ではなく単なるおバカにすぎない。私は敢えて言わざるを得ない。そんなおバカを選ぶ有権者自身も、また愚民以外の何者ではない。

前回のブログの中でも書いたが、あれだけ説明責任を求められた加計理事長が、先日の大阪を襲った震度6のどさくさの中で、地方の記者だけに限った記者会見を25分間だけ行った。他人の不幸を利用した悪質で卑劣きわまりのない行為である。会見を見ればわかるが、そこにいるのは、オドオドした落ち着きのない哀れなおバカな人間でしかない。彼を長年の親友としているおバカな首相の人間性もたかが知れている。類は類を呼ぶのであろう。その加計学園に対しては莫大な私たちの血税が使われているし、今後も使われ続ける。

森友学園に関しては、財務省による公文書改ざん、その国会への提出、虚偽答弁、会計検査院への虚偽報告これらはすべて、日本国憲法、法律に反するものである。
日本国憲法第15条2項、公務員は全体の奉仕者であり、一部の奉仕者ではないとする条項に明らかに反しており、国会への改ざん公文書提出、虚偽答弁は、日本国憲法が立脚する立憲民主主義の否定である。会計検査院への虚偽文書提出は、会計検査院自らも、先日、法令に反するとしたが、それ以前に財政民主主義を謳っている日本国憲法に反する違憲行為である。
国会への財務省が作成した公文書が先日提出されて明らかになったように、安倍夫妻は財務省への問い合わせ、紹介含めて深くこれらの問題に関わっていることを全国民は知っている。国会答弁の中で、自分たち夫婦が関わっていたら総理大臣だけでなく国会議員も辞めると断言した彼らは、今だもって総理をしており、三選をも考えている。総理夫人としてもその警備含めて無駄な国税が使われ続けている。
これほどの国家の基本法である日本国憲法に反することをしながら、大ウソをつきながら平然と行政府の長として行政を司り、国会議員として法律の制定に関わっている。私には人としての恥を知らないおバカな似たもの夫妻だとしか思えない。
またそれを支える政府与党の国会議員、多くの官僚たち、彼らも日本国憲法15条に反した全体の奉仕者であることを放棄し、日本国憲法99条の憲法尊重擁護義務に反した国家的犯罪者としか言いようのないおバカである。

私には、行政府から改ざん公文書を提出され、虚偽答弁をされ、働き方改革法案においても、虚偽の資料を提出され、国会が求めた会計検査においても虚偽の文書が提出されても、何もなかったかのように平然と国会審議を続けている与野党すべての国会議員の能力、資質を疑う。私には彼らもまたおバカの極みであるとしか思えない。その上で彼らを選ぶ私たち日本国民、有権者もおバカな愚民以外の何者でもない。

近畿財務局の職員を常識が壊れてしまったと自殺に追い込み、愛媛県職員が為したまともな公務をあたかも偽りであったかのように中傷する人たちが、首相として国家行政に携わり、それを支える保身のみで行動する国会議員や官僚が立法、行政に携わる。

今の日本社会においては、他者への思いやりを持った優しい人間や、日本国憲法を順守しようとする人間は生きてゆけないのだと思う。
まともな常識を持った人間では生きてゆけない社会なのだと思う。

先日のブログの中でもお話ししたように、私は現在広島地裁に訴訟を提起している。
具体的には、前回の衆議院選挙に私は、選挙人として投票し、被選挙人として立候補したが、その選挙は、虚偽に塗り固められた国会、説明責任の究極の放棄である国会議員の一切の発言を許さない冒頭解散に基づく、偽りの政権選択選挙であって、有権者の信を問うという主権者たる国民の選挙権、被選挙権への侵害であり、公職選挙法第一条の公正な選挙違反であるとして、3月に広島地裁へ国家賠償請求訴訟を提起した。 
 その第一回公判が開かれた。訴状、答弁書双方の意見の隔たりは大きいとして裁判官によって、口頭弁論の終結が言い渡されたが、その公判の翌日、国会において多くの隠ぺい、改ざんされた公文書が提出されたため、私は、新たな新事実として口頭弁論再開の申立をした。先日、その申立ても棄却され、明後日の判決を待っているところであるが、おそらく敗訴であろうと思う。

今回の訴えは、日本国憲法で認められた主権者たる国民としての権力的契機としての選挙権行使に関する権利侵害を問うており、国権の最高機関たる国会を構成する国会議員の権力の正当性、さらに言えば、国会議員の中から選出される内閣総理大臣の正当性、もっと言えば、内閣総理大臣が指名、任命する最高裁裁判官の正当性をも問う重要な問題である。
また、訴状の中でも書いたが、現在の我が国は、行政の肥大に伴う行政国家化現象、政党国家化現象の中で、国民の人権を保障するための三権分立が機能不全に陥っている。抵抗権の実力行使、革命を除けば、主権者たる国民にとって日本国憲法上、唯一残された人権保障制度が三権分立の中での裁判所、司法による違憲審査権である。
言わば、私が、何度も違憲訴訟、今回の国家賠償請求訴訟を起こしているのは、我が国において、主権者たる国民のための憲法上認められた人権保障機能が機能しているのかを問うているのです。

私は、主権者たる国民にとっての日本国憲法上、唯一で、最後の砦である司法の独立を、個々の裁判官の独立を信じているが、裁判官も一人の人間にすぎないのも事実である。裁判官の人事権を握る最高裁裁判所、それを構成する最高裁裁判官を指名、任命するのは内閣であり、そこがシロアリに食い荒らされるのも時間の問題なのかもしれないとも思う。

私は、シロアリによって現代立憲民主主義国家という家が倒れるその日まで、信じて戦おうとは思っている。

有識者や、多くの国民の中に森友加計学園問題をいつまでもやっているのだと、それより北朝鮮問題だ、株価や、経済政策などが重要だと訴える人たちがいるが、私は明らかに誤りであると思う。何故なら、森友加計学園問題は、北朝鮮問題、経済政策問題などのあらゆる国家政策を議論審議し、国民の言論、出版、一切の表現の自由、内心の自由さえも制限することが可能な法律の立法すらも議決できる国権の最高機関たる国会を構成する国会議員、それらから選ばれる行政府の長たる内閣総理大臣の正当性、主権者たる国民の権力的契機である国会議員選挙権にもかかわる問題、立憲民主主義の根幹にかかわる重要な問題であることを看過しているからである。

現代立憲民主主義が守られている限り、人は、例え戦争で国土が焦土化しようが、大恐慌で国家が疲弊化しようが、一人一人の国民は人権を守り、取り戻すことができるのです。しかし、現代立憲民主主義が存在しない社会では、如何に平和で、経済的に豊かであったとしても、そこには一人一人の人権は存在し得ず、人は、自由な発言、自己表現をすることはできない。人は、自己実現、自己統治もできない生ける屍でしかない。
それらがたいした問題でないとする有権者がいたとすれば、それ等の有権者は、有権者自身、将来の日本の有権者たちのことを考えない先見性のないおバカな愚民にすぎない、歴史を繰り返す単なるおバカにすぎないと、私は断言する。
そうしたおバカな人間は、現実の幻に過ぎない一時的な与えられた経済的豊かさに惑わされ、溺れてしまい自分自身の将来、未来の子供たちに起こる事実を想像できなくなっているのだ。

もう一度言っておこう。

私たちはいつまで、おバカな裸の王様である首相夫妻、おバカな国会議員を支持する愚民であり続けるのですか。
私たちは、あなたがおバカな裸の王様であることを、声をあげて語らなければならない。
私たち自身のために、そしてこれから生まれ来る未来の日本国民のために
日本中で、世界中で声をあげることもできないでいる人たちのために
私たちにはもうそんなに時間がないのだから
  
    平成30年6月24日   文責   世界のたま