tama のすべての投稿

国家賠償請求訴訟上告審を終えて~私が最高裁に求めたもの

前回のブログの中でも述べた平成30年3月28日に私が、広島地裁に提訴した第48回衆議院議員総選挙における私の選挙権、被選挙権侵害に対する国家賠償請求訴訟(同年7月3日広島高裁控訴、12月27日控訴棄却)の上告審判決が5月29日にあり棄却され、5月31日にその判決の送達を受けた。

一連の裁判を終えて、私がこの裁判で司法に求めたものをお話ししておきたいと思う。
一つは、国会議員選挙とは何なのか、そしてその正当性についてであり、そしてもう一つは、そもそも国会議員選挙とは誰のためのものなのかということです。

第48回衆議院総選挙は、皆様も御存じのように第193回国会での財務省による組織ぐるみの森友学園問題に関する公文書改ざん、その改ざん文書の国会、会計検査院への提出、国会での虚偽答弁、そしてそれらの解明に蓋をする内閣による国会の求める臨時国会開催請求の拒否、ようやく開催された第194回国会の有無を言わさない冒頭解散、すなわち主権者たる国民の目と耳を塞いだ中での偽りの中での選挙であった。
そうした中で、私は、第48回衆議院議員総選挙に、民主主義とは何なのかを訴え、日本国憲法、公職選挙法のもとに立候補し、選挙を行いました。

① 国会議員選挙とは何なのか、そしてその正当性
私がこの裁判で、司法に問いかけたものの一つは、国会議員選挙とは何なのかということです。
国会議員とは、私たち国民の人権を侵害する可能性のある法律を作ることができる人達であり、そして、内閣総理大臣は、彼らの中から選ばれ、最高裁裁判官は、内閣総理大臣から指名、任命される。
いわば、国の立法、行政、司法すべての代表者、それを選ぶのが国会議員選挙なのです。
国家の運命を、日本国民の運命を握っているのが国会議員であると言って過言ではないのです。例えば、前回のブログで述べたおバカな国会議員が過半数を占め、彼らから、内閣総理大臣、防衛大臣が選ばれ、そして彼らが最高裁裁判官を選んだならば、もはや日本国民は、戦争へと駆り出され、たとえ司法に訴えたところでもはや止めることができず、非国民として官憲に逮捕されるのがおちでしょう。

だからこそ、日本国憲法は、前文第一文、すなわち日本国憲法の第一文で、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」と定めています。その選挙の「正当性」を求めているのです。
私は、その日本国憲法が求める「正当性」とは、公職選挙法第一条が定める「その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によって公明且つ適正に行われることを確保し、もって民主政治の健全な発達を期することを目的とする」そのものであると思う。
先に述べた第48回衆議院議員総選挙は、公職選挙法第一条が求める民主政治の健全な発達を害する偽りの第193回、194回国会の下で、行われたのであり、第48回衆議院議員総選挙には日本国憲法における正当性はなかったと断言できる。

今、行政権は肥大化し、現実的には国会は国権の最高機関ではなく、内閣の下僕に成り下がってしまっている。平成30年6月15日安倍内閣は財務省による公文書改ざんに、首相の働きかけはなかったとの政府答弁の閣議決定をしたが、そこまでしないといけないのは働きかけがあった裏返しに他ならない。本当に稚拙な内閣総理大臣であり、それに従う内閣としか言いようがない。
しかし、閣議決定後の7月31日に大島衆議院議長が公式な記者会見の場で、イラク派遣の自衛官の日報の隠匿問題、森友学園問題に関する財務省による公文書改ざんなどに対して、立法府の判断を誤らせる民主主義の根幹にかかわる問題であること、政府に早期の原因究明を求め、国会に対しても行政監視の不備を指摘した。

私には、現在の日本には国会と内閣の抑制と均衡関係はもはや存在していないと思う。国会は、国会議員は内閣の下僕に成り下がっている。そうした中で、私はこの裁判を通じて国民の人権を守る最後の砦としての判断を求めたのです。しかし結果的に最高裁は、選挙権者、被選挙権者、そして主権者がよりどころとする公職選挙法第一条の解釈適用を拒否し、逃げてしまった。法律の解釈、適用をその使命とする裁判所がその使命を放棄した時、もはや国民の人権は司法によって守られることはない。

私は思うのです。三権分立機能が破たんしている中で、最終的に唯一残された私たち国民の人権を守る術が、国会議員選挙なのです。それ以外の術は日本国憲法上、存在していないのです。国会議員選挙の正当性が失われた時、もはや私たちの基本的人権は無いに等しい。

② 国会議員選挙は、誰のためのものなのか
私が、この裁判で、司法判断を求めたもう一つの理由は、国会議員選挙は、誰のためのものなのかということです。第194国会の冒頭解散もそうであったのだけれど、今の国会議員、総理大臣の考えでは、国会議員選挙は、自分たち国会議員のための選挙としか考えていない。
① で述べた様に、国会議員選挙は、主権者たる国民の権力の源であり、国民のためのものである。このことは日本国憲法に、「代表者を通じて」と書かれてあるように、その源泉は主権者たる国民にあるのです。
私は、内閣総理大臣にどのような場合に解散権はあるのかという問題も含めてこの裁判で提起したが、司法は、明らかにすることなく避けてしまった。
ただ、はっきりしたことは、国の答弁書の中で、国は、「国会議員でもない原告が」と表現していたことで明らかなように、国は、国会議員選挙とは、国会議員のためのものであるとしている。
控訴審において、財務省の改ざんに関する事実究明、解散権に対する総理大臣の認識を問うため、安倍内閣総理大臣、麻生財務大臣、佐川元理財局長などの証人申請を行ったがそれらも却下されてしまった。
現在の日本において、結果的に司法も国会議員選挙は、国会議員のためのものであるとしている。そして与野党含めた国会議員自体もそうなのだと思う。
結局、国会議員選挙が主権者たる国民のものであるのは、選挙期間のみのほんの一瞬でしかないということを痛感した。
私たちは、選挙行動を通じて、国会議員選挙を私たち主権者たる国民に取り戻さなければならない。そうしない限り、現在、将来の日本国民、そして世界の人々の基本的人権はすべて失われていってしまうであろう。

最後に、今回、私が最高裁に提出した上告理由書、申し立て理由書を、添付しておこうと思う。

上告理由書

最高裁判所 御中       平成31年2月12日 

上告人  
〒731-0212
             広島県広島市安佐北区三入東1-30-21
                  玉田 憲勲
                    Tel 082-818-1116

 広島高等裁判所第4部 平成30年(ネ)第251号 国家賠償請求控訴事件につき、同裁判所が平成30年12月27日にした棄却判決(平成30年12月28日に上告人に送達)に対し、平成31年1月4日申立てた上告の理由を以下のように述べる。
 (事件番号 平成31年(ネオ)第1号)

1.判決要旨
1)国家賠償法第1条第1項にいう「違法」とは、公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背することをいうと解すべきである。
2)上告人が改ざんされたと主張する公文書(森友学園に対する国有地の貸付けや売却に関わる決裁文書)の保管等は主権者である国民全体の利益に沿うものではあるが、これを改ざんしたり、改ざん後の公文書を会計検査院に提出したりする行為が上告人との関係で、何らかの職務上の法的義務に違背するということはできない。
同様に、財務省職員による国会議員に対する文書の配布や財務省理財局長による国会答弁は、多数決原理による統一的な国家意思の形成に密接に関連し、これに影響を及ぼすべきものであるといえるが、個別の国民の権利ないし利益のために行われるものではないから、配布文書が改ざんされたものであろうと、その答弁が虚偽であったとしても、そのことだけでは、個別の国民との関係で何らかの職務上の法的義務に違背するということはできない。
またそれらによって、森友学園や問題となっている国有地と直接の関係を有するとは認められない上告人の権利や名誉を害するものでないことは明らかである。
内閣が国会議員による臨時国会召集要求に応じなかったことや、臨時国会の冒頭で解散したことも、個別の国民の権利ないし利益に向けられたものではないから、そのことが上告人との関係で違法になることはあり得ない。

2.理由
1)原判決は、第一審判決と同様に、意図的に、公職選挙法第一条の解釈、適用を回避しており、違憲(日本国憲法76条1項)、違法(裁判所法3条1項)であり、且つ最高裁判例に反している。

司法権とは、日本国憲法76条1項、裁判所法3条1項に基づく具体的な(法律上の)争訟について法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家作用である。最高裁判例(警察予備隊違憲訴訟 昭和27年10月8日大法廷判決 昭和(マ)第23号民集6巻9号783頁)においても具体的な争訟性があれば憲法及びその他の法律命令等の解釈は可能としている。
控訴審でも述べたが、上告人が訴えていることは、原判決が述べるように単に請求原因事実によって、上告人の抽象的、一般的な国民の権利が侵害されたとしているのではなく、被上告人による違憲、違法な請求原因事実によって、公職選挙法第一条が保障する第48回衆議院議員総選挙における上告人の具体的な選挙権、被選挙権が侵害されたとしているのである。被上告人は日本国憲法第73条に基づき公職選挙法を誠実に執行し、国務を総理しなければならないにもかかわらず違憲、違法な請求原因事実により公職選挙法上求められる職務上の法的義務に違背し、上告人の選挙権、被選挙権を侵害したとしているのである。
すなわち、被上告人らの行為が、公職選挙法第一条に反していること、同条によって保障される上告人の第48回衆議院議員総選挙において自由に表明せる意見により公明適正に行われるべき選挙権、被選挙権への侵害、民主政治の健全な発達への侵害を訴えているにもかかわらず、原判決は、意図的に、公職選挙法第一条の解釈、適用を回避している。このことは、司法権が、具体的な(法律上の)争訟について法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家作用であるとする日本国憲法76条1項、裁判所法3条1項に明らかに反しており、最高裁判例(警察予備隊違憲訴訟 昭和27年10月8日大法廷判決 昭和(マ)第23号 民集6巻9号783頁)にも反している。
なお公職選挙法第一条は、その条文の中で、「その選挙が」と明記されていることで明らかなように、決して抽象的な法規範ではなく上告人の自由な意思表明に基づいた、公明且つ適正な選挙権、被選挙権の行使、民主政治の健全な発達を期することを保障する具体的な法規範である。
第48回衆議院議員総選挙における国民の審判対象たる第193回国会、第194回国会、それは、改ざん文書、虚偽答弁の下での国会審議、国会、国民への説明責任を放棄した冒頭解散、改ざん文書に基づく会計検査院報告、それらの中で公職選挙法第一条に基づいた公明且つ適正な判断、正当な選挙権の行使は困難であった。それはあたかも目を閉じ、耳を塞いで物事を判断しろというに等しく、上告人の選挙権、被選挙権に対する侵害行為に他ならない。
又、請求原因事実たる被上告人らによる公文書改ざん、廃棄に関しては、自ら停職、減給、懲戒処分を科しており、会計検査院への改ざん文書提出に関しても会計検査院が、会計検査法に反することを明らかにしている。いずれも違法行為であることは明らかである。更に、それらの違法行為は、日本国憲法第15条2項(公員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない)、第73条(法律を誠実に執行し)に反した違憲行為であることも明らかである。
被上告人に関しても、同様に原審の陳述の中で、公職選挙法第一条の解釈、適用に関しては、言及していないというより、明らかに回避しているが、被上告人に関しは、自らにとって不利な条文の解釈、適用を回避することは、当然許されるものと思われる。
しかし、日本国憲法、裁判所法に則って司法権を行使する裁判官においては決して許されるものではない。司法権の不当な行使以外の何ものではない。

 
 
2)原判決における第48回衆議院議員総選挙、並びに上告人の選挙権、被選挙権についての解釈は、日本国憲法前文、第43条、第44条、第47条及び、それら条文に則って保障された公職選挙法第一条に反している。

原判決は、被上告人によって侵害された上告人の選挙権、被選挙権を含む参政権が、日本国憲法によって保障される基本的自由権の中で最も不可侵とされる思想、良心の自由、及び表現の自由を含む、それらに準ずる重要な基本的自由権であると同時に、人権保障のための手段としての民主制における根幹としての権利であることを看過している。上告人は、原判決が述べているような上告人の一般的な権利や名誉の侵害を訴えているのではない。
原判決は「公文書の保管は主権者である国民全体の利益に沿うものである」「国会議員に対する文章の配布や財務省理財局長による国会答弁は、多数決原理による統一的な国家意思の形成に密接に関連し、これに影響を及ぼすべきものであるといえる」と述べる一方で、個別な国民との関係で何らかの職務上の法的義務に違背するということはできないとしている。
しかし、公職選挙法第一条によって保障される上告人の選挙権、被選挙権は、同条第一文に書かれているように日本国憲法に則って保障されたものであり、それは日本国憲法前文第一文「正当な選挙」第43条「全国民を代表する(正当に)選挙された」第44条「両議院の議員及び選挙人の資格は法律で定める」第47条「選挙区、投票の方法、その他両議院の議員の選挙に関する事項(選挙が選挙人の自由な表明される意思、選挙の公明性、適正性を含む)は法律でこれを定める」に基づく具体的な法的権利であり、被上告人は、公職選挙法第一条を誠実に執行する職務上の法的義務に反していることは明らかである。
さらに言うならば、上告人の選挙権、被選挙権に対する国家行為との関連性、特に、違憲、違法な国家行為がなされた場合、思想、良心の自由、表現の自由を含んだ参政権の基本的人権としての重要性を鑑みた時、その権利に対する国家行為による侵害の違憲性、違法性の判断においては、国家行為の違憲、違法推定がなされるべきである。
ゆえに、原判決が述べているように国民全体の利益に沿うものである公文書の改ざん、多数決原理による統一的な国家意思の形成に密接に関連し、これに影響を及ぼすべきものである国会議員に対する改ざん文章の配布や財務省理財局長による虚偽の国会答弁は、日本国憲法に則った選挙制度を確立し、選挙人の自由に表明せる意思によって公明且つ適正に行われることを確保し、民主政治の健全な発達を期することを目的とする公職選挙法第一条に反していることは明らかであり、公職選挙法第一条が則っている日本国憲法前文、第43条、第44条、第47条に反していることも明らかである。

 *条文内( )内は上告人が挿入
    
3)原判決の第194回臨時国会の冒頭解散や臨時国会召集の解釈は、日本国憲法第69条、第7条、第53条に反している。

上告人は、国権の最高機関たる国会の解散の実質的な根拠条文は、日本国憲法第69条のみであり、第7条でいう国会の解散は国事行為としての形式的なものであると考える。蓋し、国権の最高機関性を考えた時、解散権の行使は限定的に捉えるのが、日本国憲法の要請である。実際に、解散権の行使は内閣総理大臣の専権事項であると言われながらも、大義を根拠に行われている。
そこで言う大義とは、原判決が述べるように国民の代表者で組織される国会が、多数決原理に基づく統一的な国家意思の形成が困難になった時であると上告人は考える。
又、第53条に基づく臨時国会の召集についても、条文では議院の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならないとされている。しかし、被上告人は、その期間が定められていないことを理由にその召集を拒否し、ようやく開いた第194回国会においても国会が求める内閣による説明を拒否し、冒頭解散するに至っている。
国会が求める被上告人が行った公文書改ざん問題、国会での虚偽答弁問題、会計検査院への改ざん文書提出問題などに対する国会への説明責任を拒絶する臨時国会開催の拒否、それらを放棄する臨時国会の冒頭解散は、国会審議による多数決原理に基づく統一的な国家意思の形成過程の否定であり、日本国憲法第69条、第7条が定める国会の解散権の限界を超えており、第53条が定める臨時国会召集義務に反していることも明らかである。
さらに、民主政治の健全な発達を期することを目的とする公職選挙法第一条に反していることも明らかである。原判決の第194回臨時国会の冒頭解散や臨時国会召集の解釈は、明らかに日本国憲法第69条、第7条、第53条に反している。

まとめ
最高裁裁判官、上告人はただ単に上告人の勝訴を求めているのではありません。
多くの先人たちが、命を懸けて築き上げてきた我が国の現代立憲民主主義がこのまま崩壊してゆくことを憂いているのです。
グローバル化や経済至上主義の中、多くの国々で国家主権が台頭し現代立憲民主主義は、世界中で危機に瀕しています。
そうした中、我が国は、日本国憲法前文で、国際社会において、名誉ある地位を占めたいと誓い、第97条では、基本的自由権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであるとして日本国憲法が、それらの権利を日本国民に保障しています。
しかし、我が国においても、国権の最高機関たる国会の大島衆議院議長がH30年7月31日「立法府の判断を誤らせるおそれがあり、民主主義の根幹を揺るがすものだ。国民に大いなる不信感を抱かせる」「行政を監視すべき任にある国会も、責務を十分に果たしてきたかは検証の余地があるのではないか」と述べているように、憲法保障制度としての三権分立機能が危うくなってきていることは明白な事実です。
最高裁裁判官、上告人は、日本国憲法上、唯一残された憲法保障制度が、主権者たる国民の権力的契機たる選挙権、被選挙権であると思います。それらが侵された時、もはや我が国の現代立憲民主主義が存在することはあり得ません。その時では遅いのです。
事前に、その唯一残された憲法保障制度としての選挙権、被選挙権を守ることができるのは、違憲立法審査権を有するあなた方、裁判官しかいないのです。  
以上

上告受理申立て理由書

最高裁判所 御中           平成30年2月12日 

上告人  
〒731-0212
                  広島県広島市安佐北区三入東1-30-21
                  玉田 憲勲
                    Tel 082-818-1116

  
広島高等裁判所第4部 平成30年(ネ)第251号 国家賠償請求控訴事件につき、同裁判所が平成30年12月27日にした棄却判決(平成30年12月28日に上告人に送達)に対し、平成31年1月4日申立てた上告受理申立ての理由を以下のように述べる。
 (事件番号 平成31年(ネ受)第1号)

理由
1)原判決の被選挙権、選挙権についての解釈は、最高裁判例(平成30(行ツ)153選挙無効請求事件平成30年12月19日最高裁大法廷)に反している。
 
原判決は、上告人が侵害された公職選挙法第一条に基づく選挙権、被選挙権を、ただ単に、形式的な選挙する権利、立候補する権利ととらえているが、最高裁判例(平成30(行ツ)153選挙無効請求事件平成30年12月19日最高裁大法廷)は選挙権の平等を、形式的なものとしてではなく、実質的な投票の価値の平等を要するものとしており、選挙権を形式的な権利としか判断していない原判決は最高裁判例に反している。
     
2)原判決は、我が国における憲法保障制度の現状を看過している
      
日本国憲法における国民の基本的人権を守るための憲法保障機能を鑑みた時、日本国憲法の最高法規性、公務員の憲法尊重義務などの道義的規範を除けば、制度的には、三権分立による抑制と均衡、裁判所による違憲審査制、そして主権者たる国民の権力的契機たる選挙権に尽きるであろう。
しかし、三権分立制度においては、行政国家化現象、政党国家現象のもとで機能不全に陥っている。被上告人による公文書改ざん、改ざん文書の国会、会計検査院への提出、国会における虚偽答弁、国会への説明責任を放棄した臨時国会召集の拒否、臨時国会の冒頭解散、これらは、国民の人権保障機能たる三権分立制度の機能不全以外の何者ではない。
そうした中で、民主政治の健全な発達を期することを目的とした公職選挙法第一条に基づく選挙権侵害に対する原判決は、我が国における憲法保障制度の現状を看過し、人権保障の最後の砦としての役割を放棄している。
結果として、現実的に、国民の安全保障に関わるPKO派遣した自衛官の日報に関する国会での虚偽答弁、入管法改正での国会提出資料の改ざん、障害者雇用における中央省庁の水増し改ざん、働き方改革法案国会審議での虚偽答弁、直近では、基幹統計である毎月勤労統計の改ざんなどが生じている。これらすべて国民の生活に直結する、言わば国民の基本的人権に直接かかわるものである。原判決が述べるような個別の国民との関係で何らかの職務上の法的義務に違背するということはないとする判断をしている限りは、より一層の被上告人による人権侵害がなされる蓋然性は高い。
 そうした三権分立制度が機能不全状態にある中で、唯一残された憲法保障制度としての選挙権の侵害に関する司法判断は、最も厳格な違憲、違法判断が必要とされるはずであり、原判決は不当である。

3)三権分立制度における司法は、その司法判断において、立法府の判断により耳を傾けるべきである。

平成30年7月31日に、国会の大島衆議院議長は森友学園をめぐる財務省の決裁文書改ざん問題や、自衛隊イラク派遣での日報問題などについて、「立法府の判断を誤らせるおそれがあり、民主主義の根幹を揺るがすものだ。国民に大いなる不信感を抱かせる。政府には、問題を引き起こした経緯や原因を早急に究明し、再発防止のための運用改善や制度構築を行うよう強く求めたい」と述べ、国会に対しても「行政を監視すべき任にある国会も責務を十分に果たしてきたかは検証の余地があるのではないか。国会として、正当かつ強力な調査権の、より一層の活用を心がけるべきだ」と述べている。
国権の最高機関たる国会の長が、現在の我が国の三権分立制度の機能不全を指摘し、民主主義の根幹を揺るがすものだとしているのです。司法の独立を尊重し、司法に対しての所見は述べておられないが、上告人は、司法府に対してもその責務を果たしてきたのかの検証を求めているのだと思う。立法府の判断に、耳を傾けない原判決は、不当である。

最後になりますが、最高裁裁判官、上告人は、主権者として、司法府が三権分立制度における立法府の判断に真摯に耳を傾けて下さることを願ってやみません。
                               以上

        令和元年6月2日  文責   世界のたま

私たちはいつまで、おバカな国会議員、総理大臣を選び続けるのか

我が国において、又、おバカな国会議員選挙が始まろうとしている。

先日、ビザなし交流の場で、一人のおバカな国会議員が、団長に対して、ロシアと戦争して島を取り戻すしかないのではないかと述べたり、不逮捕特権があるから外出させろと騒いだりした事件が様々な点で物議を交わした。
所属政党である維新は、彼を除名し、国会の場では辞職勧告決議などが取りざたされたが、結局本人は、適応障害との診断書の下、2か月間の療養となっている。

医師の立場から、その診断自体に対する疑義、一方ではあくまでも診断は診断として尊重すべきであるという意見など見られた。
国会議員としての立場からは、民意で選ばれたのであるから早々に他の国会議員が判断できることではないという意見、日本国憲法の基本理念である平和主義に反しているのであるから即刻辞任すべきであるとの意見などがあったように思う。

私の考えを言わせてもらえば、これらの意見は全て的外れである。今回の問題は、そんなに複雑な問題ではない。
おバカな国会議員は、即刻辞任すべきで、それ以外の選択肢はない。もし本人がその理解力もないアホなのであれば即刻退場の決議をするしかない。ただそれだけのことだ。上記に述べた様な思考を必要とするような事案ではない。

そもそも国会議員とは何なのかを考えて見ればわかることである。日本国憲法第41条に基づく国権の最高機関たる国会、そして唯一の立法機関である国会の構成員であり、行政、司法などの他の国家権力からの妨害を排除するために不逮捕特権も認められている。しかし一方、強力な権力を持つがゆえに第99条によって憲法尊重擁護義務が課されている。
日本国憲法第99条の憲法尊重擁護義務者に国民が書かれていないように、憲法とは、あくまでも国家権力を縛るためのものであり、それが法の支配なのである。

今回のおバカな国会議員による島奪還のための戦争発言は、明らかに日本国憲法第9条おいて定めた国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄の条文に反している。
おバカな国会議員は、国会議員の自由な発言を守るために議員辞職はしないとほざいていたが、国会議員においては、自由な発言の前に、第99条に基づく日本国憲法尊重擁護義務が存在している。
一歩譲って、国会議員が日本国憲法に反する自由な発言が許されるとするならば、日本国憲法改正のための関連発言であろう。しかし、今回のおバカな国会議員に関してそれは該当しない。
もし、日本国憲法に反した自由な発言が許される者がいるとすれば、それは日本国憲法第99条において尊重擁護義務者から外されている国民だけである。
それらを考えた時、おバカな国会議員が自由な発言をしたいのであれば、国会議員の職を辞して、国民に戻るしかない。おバカな国会議員は、自分も日本国民であると言うかもしれないが、もしそのことを認めるとすれば、そのこと自体が日本国憲法第99条の存在意義を否定することであり、日本国憲法に反しているのだから

しかし先に述べてきたことは、今回のおバカな国会議員だけの問題ではない。おバカな総理大臣についても言えることである。内閣総理大臣も日本国憲法第99条による日本国憲法尊重擁護義務者なのだから
このおバカ現象は、そのレベルの低さ、悪質さ、官僚への広がりも含めて、その度合いは増大している。そのことは今回のおバカな国会議員の件でも言えるが、私自身間違いのない事実であると思う。一連の国務大臣の辞任、公文書改ざんなどはその証左である。

最近のその急速な質の劣化の原因ついて言えば、二大政党を目指した小選挙区制への選挙制度変更によって一つの選挙区においては、当選者は、ただ一人だけとなったこと。その小選挙区制度の下での政党国家化現象、政党内での党首の権限の増大にあると考える。
政党助成金含めた政党中心政治に関して言えば、日本国憲法上、政党に関する条文は一切ないにもかかわらず国会議員である前に政党人であることが優先される。又、小選挙区制、比例代表性における立候補者の選定は、その政党の党首、代表者が最終的な決定権を握ってしまっている。
そうした中で、おバカな党首が最も理想的な候補者と考えるのは、そこそこ世間受けのする学歴、経歴、専門知識を有した、そしてここが最も重要なのであるが、真の意味での想像力に欠けた、他者との共存を否定しがちな、そこそこの権力志向の強い真の意味でのおバカな候補者だと思う。そうした人間は、国会議員になること自体がその人間の目的であり、極端な話、政党や、政策など二の次で、ましてや国民のことなど考えるのは選挙の時だけであり、自分の議席を維持するためであれば、政党を渡り歩き、最悪の場合は診断書をもらって雲隠れする。国民にとっては最悪であるが、政党にとっては、そういった彼等こそが、使いやすい都合のいいおバカなのである。
今回の戦争発言したおバカな国会議員の場合、その所属、公認政党である維新は、自分たちの議席を守ることに徹して早々と除名し、何事もなかったかのように振る舞っているが政党の公認責任はどこにあるのか。おそらく彼らは言うであろう、選んだのはあなた方国民なのですと、どんな業績を残そうと、最終的には何の責任も取らないおバカ政党以外の何者ではないことを露呈している。

この7月には参議院選挙が予定されているが、私が、冒頭に述べたように、この選挙が何故おバカな最悪な選挙であるのかお話ししておこうと思う。

まず第一に、はっきりさせて置かなければならないのは、国会議員選挙とは、先にも述べた様に国民の代表者であり、国権の最高機関である国会の構成員、そして私たち国民の人権に直接かかわる法律を作る唯一の立法機関の構成員を選出する選挙であるということです。
すなわち、本来的にも、日本国憲法上も、国会議員選挙とは、主権者たる国民のための選挙であって、決して国会議員のための選挙ではない。
しかし、今回の参議院選挙に限らないが、特に中選挙区制に変わって小選挙区制が導入されて以降、国会議員選挙全般で言えることであるが、国会議員選挙が国会議員のための選挙に成り下がっているということである。特に、このたび行われようとしている参議院選挙は、明らかに国会議員のためだけの選挙である。
そもそも国会議員の定数を減らすことは与野党間の合意であった。その一方で、最高裁による一票の格差についての違憲状態判決が続き、昨年末の最高裁判決においてようやく、先の衆議院議員選挙に関しては一応国会の是正の姿勢がみられ、その格差が1.98倍で2倍を下回ったこともあり合憲判決が出された。しかし、違憲、違憲状態とする少数意見もあったし、最高裁が求める各県に割り当てる別枠方式の抜本的な改革は為されていない、今だもってごまかしの選挙制度に他ならない。
その進まない最大の理由は、現在の選挙区の変更を望まない現在の与野党含めた現職国会議員のエゴ以外の何者ではない。私が、現在の全ての国会議員がおバカとする最大の理由はそこにある。
特に今回行われようとしている参議院選挙などひどいものである。一票の格差是正のため、別枠方式を少しいじって数か所で二つの県で、いわゆる合区にして一人の当選者にする代わりに、比例代表に特別枠を作り、合区によって押し出された現職議員を特別枠の中で救おうというのである。まったく馬鹿げている。国民を愚弄している。そのために結果的に定数は6議席も増えてしまった。定数是正するという国民との約束など全く無視している。
定数が増えることに関しては野党もまんざらでもないと考えており、与野党すべての国会議員が、もはや自らの議席のためにしか選挙制度を考えていない状況にある。
さすがに参議院選挙を目前にして体裁が悪いのか自分たちの歳費を減額してその減額分で増えた議席の歳費との帳尻を合わせようとしているが、議席が増えれば、国会内の椅子から、住居から何から何まで歳費以上の国民負担が増えることは自明である。
全く本末転倒のおバカとしか言いようのない最低の人間たちである。彼らが日本国憲法でいう国権の最高機関を構成する国会議員であるとは、国民の恥以外の何者ではない。

私は、現在、一昨年行われた衆議院選挙に関して、財務省による公文書改ざん、国会での虚偽答弁、改ざん文書配布、会計検査院への改ざん文書提出、安倍内閣による国会召集の拒否、冒頭解散などの国、政府による違憲、違法行為、すなわち、公職選挙法第一条によって保障された私の選挙権、被選挙権に対する侵害を理由として国家賠償請求訴訟を起こし、現在上告し、最高裁第一小法廷で審理中であるが、その訴訟の過程で、被告である国がその答弁書の中で「国会議員でもない原告が」という表現を用いた部分があった。おそらく立法府のみならず行政府も国会議員選挙とは、国会議員のためのものであるとしか考えていない。
第一審の広島地裁の判決では、当該選挙において私が投票し、立候補したことをもって形式的に、選挙権、被選挙権侵害はないとしたが、先にあげた一昨年の最高裁判決でも明らかであるように、最高裁は選挙権に関して、実質的な選挙権の価値の平等を求めているのであり、明らかに最高裁判例に反している。これらのことは、上告理由書、上告申し立て理由書の中でも書いたが、私が、今回の裁判で司法に問うているのは、選挙権とは誰のもので、何のためにあるのかということである。
行政国家化現象、政党国家化現象のもとで、国会は、内閣の下僕と成り果て、国民の人権を守るべくして日本国憲法上、設けられた三権分立制度は完全に破綻している。そうした中で唯一残された憲法保障制度が、国会議員選挙権だと私は思う。
上告理由書、上告申し立て理由書の中でも書いたが、国会議員選挙は、国民の基本的人権を守るための国民のためのものである。決して国会議員のためのものではない。与野党含めた全国会議員は、手段と目的をはき違えてしまっている。

今回の参議院選挙に合わせて衆参同日選挙も盛んに言われている。その中で言われているのが、解散、総選挙は内閣総理大臣の専権事項であるということだ。
しかし、私は基本的に間違っていると思う。日本国憲法において衆議院の解散が定めてある条文は内閣不信任に対する第69条による解散と第7条の国事行為としての解散だけである。第7条の国事行為としての解散は形式的なものであり、実質的には第69条の内閣不信任決議に対する対抗処置としての解散のみである。一歩譲ったとしても国会における合意形成が困難という大義がない限り、国権の最高機関たる国会の解散はできないとするのが、日本国憲法の要請であると私は思う。
現在、上告している裁判の理由書の中においても国会の召集義務違反、その後の冒頭解散についても、私の選挙権、被選挙権侵害にあたる違憲、違法行為であることを申し立てており、国民の人権を守る最後の砦としての司法判断を問うている。

今回行われる参議院選挙、併せて行われるかもしれない衆議院選挙、いづれにしたところで、自分たちの都合で解散し、より多くの議席を得ようとする与党、選挙のためだけの野合にすぎない野党、どちらも自分たちの議席数を増やすためだけの国会議員選挙であり、日本国憲法前文第一文で謳われ、日本国憲法が要請する「正当な選挙」では決して有り得ない。

そうした選挙の下で、与党がより多くの議席を得たところで、国会議員、官僚の驕り、劣化が進むだけであり、野合の野党が議席を増やしたところで、所詮、選挙までの野合にすぎず、何一つ為すことはできないであろう。

与野党の国会議員が、政党人である前に、一人の全国民を代表とする国会議員であるという日本国憲法が求める国会議員としての原点に立ち返らない限り、何度、国会議員選挙を行ったところで現在、そして将来の国民にとって何の意味も為さないであろう。
経済格差は広がり、より多くの国民の基本的人権は失われてしまうのも時間の問題である。

私は、現在、将来の国民の思想、良心の自由をはじめとする基本的人権を守るために、自分自身ができる全てのことをしたいと思っている。
たとえその結果がどうであろうと

民主主義とは過程であり、結果ではないのだから

   令和元年5月29日  文責  世界のたま

現代立憲民主主義(市民主義国家)であり続ける~世界から孤立しようとも

平成の時代は終わり、令和の時代がやってくる。
しかし、それで何かが変わるものではない。

今、世界は揺れている

2011年チュニジアから始まったアラブの春、その後も、春を迎えたかに見えた多くの国々において、混乱は続き、より一層混迷を深めている。EUでは、イギリスの脱退を巡り多くの問題を抱えたままである。そしてそのイギリスにおいては、北アイルランドで記者殺害というかつての悪夢を思い出させる問題が勃発している。一方、EU各国においても経済格差、難民問題を中心とした各国の利害が対立する中で、国家主権が台頭してきている。
中東においてもパレスチナ問題や、イランを巡る問題に関して、周辺国やロシア、アメリカとの間で駆け引きが世界を巻き込んだ形で行われている。
スーダンやベネズエラなどの国々においても権力を巡っての争いが行われている。
そうした中で、スリランカで先日、爆弾テロが起こされ、数多くの人の命が失われてしまった。

平成の時代を振り返った時、一言で言えば、それは、経済至上主義グローバルの時代であり、格差社会の時代であった。平成と同時に、ベルリンの壁が崩壊し、続いてソビエト連邦が崩壊し、世界中で、アメリカ化、特に、パソコンが普及し、ネット社会が到来したことにより、一挙に世界は、経済至上主義グローバル化の波に飲み込まれた。

ロシアや中国では、それまでの計画経済に市場経済を取り入れ、欧米のグローバル企業が数多く参入し、ヨーロッパにおいては、ドイツ、フランスを中心とした経済統合、通貨統合が行われた。

平成の時代、確かに、経済至上主義の下でのグローバル化によって、世界各国での生活水準をある程度上げることに成功したが、経済至上主義の下でのグローバル化は、富の蓄積や、環境破壊を招いてしまっている。しかし、このことは必然であって偶然ではない。蓋し、経済至上主義の下でグローバル化を推し進める経済主体は、所詮グローバル企業にすぎないのだから
そして、これまでも述べてきたが、EUがそうであったように、経済、通貨統合それだけで、国際的な関係において、関係国の国民にとって最終的な平和、安定した生活が来ることは決して有り得ない。所詮、全ての国の国民は、国家を捨てることができないのだから
国内的にも、全ての国民にとって、最終的な平和、安定した生活が来ることも決して有り得ない。蓋し、国家を捨てることのできない経済至上主義の下でのグローバル化の下では、民主主義は、存在しえないのだから

そうした中で、必然的に、欧米諸国が民族や、宗教を顧みることなく過去に行った植民地支配の中で勝手に引いた国境線や、経済至上主義の下でのグローバルのつけが、民族、宗教を通じた形で一挙に世界中で噴出してしまっている。

私は、それが平成という時代であったと思う。
そして、令和と年号を変えてみたところで、現在の経済至上主義の下でのグローバル化を阻止しない限り、何一つ変わることは決して有り得ない。それどころか、何度も言ってきたように最終的には、私たち人類の終末を、私たちは見届けることになるであろう。

先日、ブラックホールをとらえた画像が世界中を駆け巡ったが、私は、時間も含めたありとあらゆるものを飲み込むブラックホールの奥底に、私たちの住む地球があると思う。私は、あの画像を見ながら稚拙な世界に生きる私たちの愚かさを見た気がした。
所詮、そこにあるのは川面に映る自分の姿にすぎない。私たちは、ブラックホールを見たと喜んでいるが、実際は、錯覚しているだけで、何一つ見えていやしない。

平成が終わろうとしている今、私が思うことは、科学主義のもつ還元主義、すなわち、木を見て森を見ずという思考を、私たちは修正しなければならないということだ。

還元主義的思考は、どうしても短期的な視野でしか物事を判断できなくしてしまう。現在、世界、そして我が国で行われている国家政策は、ほとんどと言っていいほど将来の人類を見据えたものでは決してない。

短期的な視野で物を見続ける限り、どうしても場当たり的な対応にならざるを得ず、結果として更なる問題を引き起こす。世界の市場経済における株式、為替相場では、一日、一分単位での思考が不可欠であり、政治的にもアメリカの大統領選挙、インドの選挙、インドネシアの選挙、イスラエルの選挙、お互いに織り込み済みであったとしても、その場限りの、場当たり的発言、軍事行動も含めた対応を行っている。それらを的確に行うことが科学的には、優秀であるとして評価される。私には、これらの思考は、おバカな愚行としか思えない。

即ち、現代社会では、短期的な視野での判断を即時にできるものが科学的で、優秀であると評価される。何故なら基本的に国民に、政治的に、長期的視野で物事を考えてもらっては困るのだ。そして、経済的には、目新しい商品を開発、生産し続ける。それは、社会全体が至上主義経済の下で、拡大再生産をし続けることが、正しいと錯覚させられているからに他ならない。限られた資源、パイの中で、世界中で経済至上主義が広がってゆく中で、その利益に与るためには、富を得たものが、その富を守り続けるためには、富なき者が新たに富を得ようとするためは、誰かを蹴落として、守り続け、這い上がるしかない。特に富を得ているものは、それを守り続けてゆくためには、経済至上主義が正しいものと全ての国民を錯覚させ続けなければならない。コマーシャルを流して、全てのものを記号化して、全ての国民に無駄であったとしても、環境を破壊することがわかっていたとしても消費を促し続けなければならない。一方で、勤労者に対しては、彼らの富を増やさないようにしながら、一方でニンジンをぶら下げて、働き方改革と称して、その労働力を安く買いたたき続ける。

それが現実である。

国際的にも、現在、我が国が行っている北方領土に関するロシアとの交渉、拉致問題における北朝鮮との交渉などにおいて長期的な視野など存在していない。安倍首相自身や政権与党の成果を上げたいだけの単なる行き当たりばったりに過ぎない。プーチンや、トランプ、金正恩などと対等に渡り合っていると思っているのは本人だけで、バカにされているだけにすぎない。実際は哀れな彼らのポチにすぎない。
国内的にも、消費税の導入に関しても未だに延長などを考え、内容的にも非課税品目の導入、その税の支出など全てに関していい加減である。又、消費税に絡めて党利党略のための衆議院解散をちらつかせたり、国民の年金基金を適当に株式投資に投入する一方で受給開始年齢を70歳以上への引き上げることを検討し、保育のみの無料化を行うなど、全ての政策は、財政健全化含めて短期的な行き当たりばったりの中途半端な政策でしかない。

安倍総理含めた大臣、政権与党、そして野党の国会議員全てに言えることであるが、彼らには確固たる信念がない。言い換えれば、所詮彼らは、命を懸けていないのだ。

近代以降、科学主義の中で、人は、市場経済の中で、経済的には一部であれ豊かになり、医学の発展の中で寿命は延び、政治的には、人の支配から法の支配になった。
特に政治的に、近代立憲主義から現代立憲主義へとその歩みを進めた。

私自身、科学の発展を否定するものではないが、市場経済においては、経済至上主義が暴走し、医学においても自然の摂理、倫理に反してきている。そうした中、ただ一つ、歩みを進めたはずの現代立憲民主主義が後退している。

私は、今、日本にとって、世界にとって最も為さなければならないことが、経済至上主義グローバルから現代立憲民主主義グローバルへの転換であると確信している。
裏返せば、それなくして人類の未来は存在しえないと確信している。
確かに、世界が経済至上主義の下でのグローバル化をしている中で、転換してゆくことは至難の業である。
世界の中で、我が国だけがある意味で孤立するかもしれない。
しかし、私は敢えて言いたい、孤立をも恐れてはならない。
私たちは、信念をもって、生きてゆかなければならない。ブラックホールが私たち自身であるように、私たち一人一人の中に全ての世界が存在するのだから

   平成31年4月29日   文責   世界のたま

現代のマスメディアと思考停止社会~その先に未来はない

来月、日本で上映される「記者たち~衝撃と畏怖の真実」という映画がある。この映画は、9.11の後、2003年にアメリカがアフガニスタンに続いて、イラクとの戦争に踏み切る過程の中でのアメリカの小さなメディアであるナイト・リッダー社の記者たちが真実を追求した姿を描いた映画である。
当時、ワシントンポストやニューヨークタイムズなど大手のメディアは、ブッシュ大統領の訴えるイラク戦争へと突き進む根拠であるイラクによるアルカイダへの関与、大量破壊兵器の所有をそのままそれが真実であるとして報道していた。
世論がイラク戦争突入へと扇動される中で、ナイト・リッダー社の記者たちだけは、それらに疑問を呈し、たとえ非国民と非難されようと、その真実を追求し続けた。
この映画に関する感想を述べた東京大学大学院教授は、何故、多くのメディアがそうした過ちを犯してしまったかに関して、現代のマスメディアが、真実を伝えることから商業路線への転換をしてしまっていることがその要因の一つであると述べていた。

確かに、この映画が物語っているように、現代社会において、アメリカに限らず世界中のマスメディアが、経済至上主義の下、広告主の意向や、視聴率に振り回されてしまっている。更に言えば、国家主権が台頭する世界情勢の中で、ほぼ世界中の国々で、その程度の差はあれ、国家機関による報道規制(政権にとって都合の悪い真実の隠ぺい)が日増しに強くなってきているのは事実である。

この映画は、私たち現代人が、陥ってしまっている錯覚を、報道する側から描いた映画であると思う。即ち、一見、私たちは、世界中のニュースをネットなどの媒体機関を通じて瞬時に知ることができると思い込んでいる。しかし、それらは所詮、媒体機関というフィルターを通した上での事実でしかない。それが真実であるかどうかは別問題なのである。私たちはそれを真実であると思い込んでしまっているだけだ。知っていると錯覚している以外の何者でもない。

次世代移動通信システム5Gなどによって個々人の処理能力を遥かに超えた大量の情報が、より瞬時に、より多くの人々に送ることが可能になった一方で、ロシア、中国、日本などの先進国においては、政権が長期化してきている。長期政権が民衆によって打倒されたアラブの春とは真逆のことが、現在、先進国では起きている。
現代社会は、行き過ぎた経済至上主義の下で経済的、政治的、環境的、あらゆる面で行き詰まってきている。そうした中で、世界中で経済格差は広がり、経済至上主義がよりその格差を拡大させている。世界中の国々で経済発展を遂げる過程の中で増え続けた中間層は、現在、貧困層へと転落してしまい、勝ち残った人々は、クモの糸を登ってくる人々を蹴落とすために、より一層厳しい経済状況の中で、よりいっそう安定した強権的政権を望んでいる。
しかし、その一方で、経済的、政治的な行き詰まりの中、貧困層含めた社会的弱者の一部の人々は、経済的、政治的に追いつめられ必然的に暴力行為、即ち、テロ行為に走っている。
それに対して、長期政権、そしてそれらの支持層は、5Gなどを駆使して政権批判勢力の監視を強化し、それらを排除するための国民世論の扇動を図ろうとする。これも又、必然である。

私たちは、戦前の我が国が、大本営発表や、世論によって、神風特攻隊や、人間魚雷を賛美し、そして玉砕への道を歩んだこと、ナチスドイツにおいて多くの国民がユダヤ人の迫害に手を貸し、ホロコーストでの大量虐殺に及んだこと、それらの歴史は、過去のことで、現代社会においては、起き得ないことと考えているが、私には、私たちが錯覚しているだけにすぎないとしか思えない。

この映画は、現代社会における、マスメディアの持つ怖さ、盲点、脆さを指摘している。

そうしたマスメディアが持つ危うさの中で、洪水のように押し寄せる嘘か真かがわからない無数の情報の中で、私たちは何を為すべきなのか
それを考えてゆく上で、最も重要なことは、送り手であるメディアの反対側にある私たち、受け手が陥っている思考停止の問題である。
何故、私たちは思考停止に陥ってしまったのか。
私が思ういくつかの要因を挙げて見よう。

① 権力そのものによる言論統制
これはいつの時代も同じことで、国家権力は、統治してゆく上で、その程度の差はあれ、言論統制を図ることが常である。政権にとって都合の悪いネットなどの書き込みの削除などは典型例であるが、戦前の日本における憲兵、中国の文化大革命における紅衛兵、ナチス政権下での親衛隊、現在の国家においても公安警察、秘密警察などを通じた言論統制の中で、人々は自ら思考することを停止してしまう。例えば、中国での人権弁護士に対する弾圧、ウイグル自治区での強制収容施設内における思想教育、ロシアでのジャーナリスト殺害などは、多くの国民に思考停止を生じさせる。
世界中で国家主権が台頭する中、言論統制はその厳しさを増している。

② 自動運転システム
科学の発達に伴って、様々な領域での自動化が進んでいる。企業における生産活動は元より、一般家庭においても掃除、洗濯、料理など日常生活全ての面で自動化は目を見張るものがある。高齢者の運転事故などをきっかけに自動車の自動運転化も考えられている。一見、これらは、私たちの生活を便利にして、快適なものにする素晴らしいものだと簡単に考えがちであるが、その便利さの代償に、多くの人々は思考停止を招いている。
蓋し、あらゆる自動化の中で、人は自ら何一つ考える必要がなくなるのだから
最近起きたボーイング社製造のハイテク機の二度にわたる離陸直後数分間での墜落事故、その原因は最新鋭の自動制御システムにある可能性が指摘されている。そのトラブルの中でも自分の頭で思考し、自動操縦を解除して危難を回避した操縦士もあったようだが、皮肉なものである。

③ 経済至上主義
現代社会は、経済至上主義の嵐が世界中で吹き荒れている。特に1991年にソビエト連邦が崩壊し、グローバル化、即ちアメリカ化の時代を迎えた中、同時にITバブルも起こり、それらが経済至上主義を世界中でさらに加速させた。しかしITバブルも崩壊し、アジア通貨危機、リーマンショックなどを経て、「ウォール街を占拠せよ」、「我々は99%」などで代表される格差社会が世界中で蔓延し、現在も世界中で、その格差はさらに広がってきている。
経済至上主義の下では、格差社会は悪くなっても決して改善することはない。何故ならば、経済至上主義社会において、経済的強者は、経済的弱者に対する何らの説明責任も必要としないのだから。政治的には説明責任をその本質とする民主主義は存在し得ず、そうした民主主義を否定した社会が、弱者の人権を守ることは決してあり得ない。
そうした中で、多数を占める経済的弱者は抵抗することをあきらめ、思考することを止めてしまう。

これらの要因などが重なって、現代社会の多くの人々は、思考停止してしまっている。
しかし、よくよく考えて見ると人間が神から理性を与えられたとした近代以降の人間中心主義そのものが、思考停止の権化であるといえる。
何故ならば、人間は自然との会話を拒否し、他者との共存すらも否定してしまったのだから

市場経済、法の支配の下で、人間の一部の者たちは、先進国としてある意味での豊かさを手に入れたが、彼らの多くの人々は、自らの豊かさのみにその関心を向け、思考を停止し、合理的無知の中で、選挙に行くことすら忘れ、選挙に行く者も合理的非合理性の中で、政党を支持しているという理由のみで、それ以上の思考することもない投票行動をし続けている。

人間が思考を停止することで、前頭葉の機能は低下し、より他者との協調性、バランス感覚は喪失し、結果として相対的に生物本来の持つ自己防衛本能、攻撃性が前面に出やすくなってしまう。そうした中で、世界中で、国家主権が台頭し、テロや、小競り合いなどの暴力的行為が増えてきているのは必然である。一方で、民主主義は失われ、メディアは、スポーツや娯楽に終始して、批判的な政治的発言を控える。
我が国においても、森友学園以降の数知れない政府による文書の改ざん問題を踏まえて、公文書の電子化などが言われているが、問題のすり替えであり、茶番以外の何者ではない。問題はそこにはないのだから。

問題があるのは、政治家、官僚、そして私たち国民が、思考停止してしまっていることに尽きる。
そして私たち一人一人が思考停止することから脱却しない限り、格差社会の解消はもとより、私たち自身、そして子供たちの未来など絶対に存在しえない。

私自身、選挙に立候補して政治的発言を為し、最高裁に上告し、こうやってブログも書いているが、このままの政治状況が続けば、弾圧されるのも時間の問題であろう。
私自身、何一つ思い残すことはないが、子供たちの未来、地球の未来だけは、残したいものだとつくづく思う。

  平成31年3月25日   文責   世界のたま

市民主義に基づいた社会~市民主義国家

近代以降、人間が自然と相対する中で、科学という道具によって、豊かさを追求した結果たどり着いた現代社会
天空ではオゾン層が破壊され、地上では緑が失われ、湖は枯渇し砂漠化している。そして海では、海水温が上昇し、サンゴが死に絶え、魚たちの生態系が破壊されている

科学の特徴である還元主義すなわち物事の細分化、分析、一見素晴らしいことだと考えられがちだが、しかしそれらは、現代社会において木を見て森を見ない思考につながっている。
高齢者医療、介護の現場でよくあることだが、臓器や、機能ばかり見て、治療、介護計画を立てたところで、それがその人にとって、ひとりの人間としてのふさわしい生き方とは限らない。
もう一つの科学の特徴である物の価値を問わない考え方、物を物としてしか見ない考え方、それは、核兵器、細菌兵器などの殺傷能力の高い兵器の開発などにつながっている。開発者たちは、その使用によってもたらされる悲惨な価値のことなど決して考えることはないのだから。

経済的には、市場経済を作り、資本主義経済という手段の中で、経済発展を遂げたが、現代社会においては、手段が目的化され、経済至上主義の中で資本主義は暴走している。

政治的には、法の支配の下で立憲民主主義を作り上げたが、説明責任を必要としない経済至上主義社会の中で、その機能は停止している。

そして、人間は、今や科学や資本主義経済という枠組みの中でしか物事を想像することができなくなってしまった。本来持っていた無限の想像力を失ってしまった。科学や、経済学の中で、限られた知識を競い合っている。しかし、それらは所詮、どこまで行っても大自然から見れば、吹けば飛ぶような稚拙な知識にすぎない。人間は、気付いていない。現代社会が、真の意味で、思考停止に陥ってしまっていることを

最終的に人類が地球上で生き残ることができるのか、私にはわからない。もはや間に合わないだろうとは思っている。しかし、それでも可能性があるとするならば、私たちが、現代社会を乗り越えて、新たな市民主義に基づいた市民主義国家を作りだすことができるかどうかにかかっているのだと思う。そして我が国日本が、まず最初にそれを為すことができるかにかかっていると、私は思う。

私が描く市民主義国家とは

第一に、自然との共通感覚を取り戻した贈与の気持ちを忘れない国家である。
一人一人の人間が、自然の一部であること、一つ一つの生命が、自然から贈与されたものであることを自覚した社会である。
市民主義国家の基本的な理念であり、全ての事象の物差しとなる概念である。
具体的には、自然界には存在しない、自然界の中で処理することが困難な物質の排除、すなわち核エネルギーや致死性の高い化学物質、細菌、それら全ての用途を問わない使用の完全停止である。
原子力発電所の停止、廃炉、核燃料廃棄物処理の促進、生物化学兵器の廃棄、それらに代わる自然エネルギーを利用した電源開発の促進、電力消費の削減である。
地球温暖化防止対策として、温室効果ガス排出削減のための過剰な経済活動(生産、消費含めた)の停止、サンゴ礁含めた海洋資源保護のため、沖縄辺野古沖での埋め立てやプラスチックの海洋投棄などは即時中止以外の選択肢はない。
現実的な行動も不可欠であるが、根本的には、育児、教育の見直しに尽きると考える。自然との共通感覚を持ち続けるためには、脳育が不可欠である。
現代社会のような乳幼児期、学童期に十分な睡眠、外での遊びがなされていない生活リズムの中では、自然との共通感覚、贈与の感覚は育ちえない。如何に、学童期以降の教育、社会教育をもってしても取り戻すことは至難の業なのだから

第二に、経済至上主義を排除した「足る」を知る国家である。
現代社会は、経済成長、拡大再生産が至上命題であると考えている。そのために、日々、コマーシャルを流し、消費を生み出し続け、本来必要としない過剰な生産を続けている。
しかし、考えて見ればわかることだが、その結果として何が起きているのかと言えば、一部の富あるものが更なる富を蓄積する格差社会以外の何者ではない。
トリクルダウンなどといった大企業が儲かれば、下請け企業が儲かり、社会全体の労働者の賃金が上がることなど、現代社会においては、完全なまやかしであり、儲かるのは、経営者、一部の社員、株主のみである。働き方改革法案の国会審議などを見てもわかるが、所詮、大多数の労働者は、企業のための調整弁にすぎない。いつでも切って捨てられる駒でしかない。
先日、セブンイレブン店主が、妻にも先立たれ、募集しても従業員が来ないため、24時間営業することが困難となり、深夜1時で閉めたところ、セブンイレブン本部から違約金1700万円請求されたということが報道されていたが、このことなどは、現代社会の労働現場の縮図である。
恵方巻やバレンタイン、ホワイトデイそして携帯、スマホなどの相次ぐ機種切り替えなど過剰な消費を促すために、コマーシャルを流し、幼少児期から過剰消費を洗脳する現代社会
確かに24時間営業店があることで、私自身も含めて助かっている人も多いのも事実であるとは思う。
しかし、多量の生産、消費社会の中で、結果的に、多量の無駄な廃棄物を生じている。現在ドイツでは、世界に先駆けてそれらの規制に乗り出している。
確かに自由な市場経済を基本とする資本主義経済は、手段として人間の暮らしを豊かにしてきたが、現代社会の行き過ぎた経済至上主義は、環境破壊、格差社会を引き起こしており、アメリカを中心としたグローバル化が加わり国家間の緊張をも高め、現実的に収拾がつかない状態の国際社会を招いている。
市民主義国家においては、自然環境の回復、保護を大前提とした市場経済の下での、現在と方向性を変えた経済発展が求められる。
環境を保護する省エネ製品の開発販売促進、輸送によるエネルギー節約含めた地産地消、過剰余剰生産品などをシェアリングした経済難民などへの支援、労働環境におけるワークシェアリング
又、格差社会是正のためには、法人税、所得税、消費税、社会保障費用含めた税、社会保障制度全般での抜本的な変革も不可欠である。
市民主義国家とは、言わば「足る」を知る社会に他ならない。

第三に、現代立憲民主主義の立て直し、選挙制度の見直し、地方分権の確立である。
現在の我が国の政治状況は、もはや国家としての体をなしていない。
正確に言うなら現代立憲民主主義国家としての体をなしていない。体をなしていないことで何が悪いかと言えば、遅かれ早かれ、国民一人一人が自由に話し、自由に行動することができなくなり、命の保障すらない時代になるでしょう。世界を見渡せば、いたるところで現実的に生じてきている。
なぜそうなるかと言えば、様々な国民の基本的自由権は、憲法によって保障されているが、現在の我が国においては、その保障が困難になってきているからです。言い換えると国が憲法を守らなくなってきているということです。
現在の日本国憲法において、国に憲法を守らせるための仕組みとして定められているのは、日本国憲法の最高法規性や、公務員による憲法尊重擁護義務などの道義的条項を除けば、三権分立制度、裁判所による違憲立法審査権、国民による選挙権行使である。
しかし、この間の国会を見てもわかるように、行政内容の専門化、量の増大により、政府の権限は肥大化し、一方、選挙制度における政党中心選挙、小選挙区制、党首による立候補者の公認権独占などによって、国会議員はもはや政党に縛られ、結果的に国会議員は内閣総理大臣の下僕に成り下がっている。三権分立による権力間の抑制機能は完全に破綻している。
唯一残された裁判所による違憲立法審査権に関しても、私自身、選挙権、被選挙権侵害に対して最高裁に上告しているが、困難を極めているのが現実である。
最終的には、国民による選挙権行使のみが、唯一残された憲法を守る術である。
そのために、市民主義国家においては、現在行われている政党中心の選挙制度を根本的に見直し、一人一人の国会議員が、国家的な重大事案について、徹底的に討論して、各自の判断、国会議員一人一人の責任において結論を導き出す国会に変革する必要がある。
現在の日本国憲法において、たとえ選挙区、比例代表で選ばれた国会議員であったとしても、一旦、国会議員に選ばれた以上、全国民の代表者として擬制されているのは、そのことを現憲法でも要請していることは明らかな事実である。
さらに、市民主義国家における国会議員については、任期途中でも、問題があれば、国民による罷免権を認めるべきだと考える。そのためには憲法改正が必要であると思われるが、現実的に可能である。その場合は、選挙区以外の選挙区における罷免投票制度などが想定される。いずれにしても、現在の腐りきった与野党の国会議員、そして彼らから選出されたおバカな総理大臣はじめとするおバカな大臣達では、彼らを選んでいるおバカな私たちが救われないのは仕方ないとしても、現在、未来の子供たちを救うことは不可能である。
又、国会議員は、国家に直接かかわる重要な案件、すなわち、国家全体に関する財政、税務、防衛、社会保障のみを扱うべきで、ドイツで原発廃止に関して、原子力関係の専門家を除外した識者と国会議員のみで城に閉じこもって何日間も徹底討論したように、国会議員とは、国家そのものの存否、国民の安全に関わる基本的な案件に絞って徹底的に審議し、決定を為すべきである。
そのためには、市民主義国家では、可能な限りの徹底的な地方分権を行い、国家機関とは別な地方代表組織などのもとで地方自治を行うべきであると考える。
そういった意味において、市民主義国家においては、政党はほぼ無用の長物となるであろう。

第四に、社会保障制度の見直し
市民主義国家においては、生きる意味を考え直すことが不可欠である。
現代社会においては、臓器移植、遺伝子治療、ゲノム操作、医療の進歩などによって生命や死の意味が改めて問い直されている。
市民主義国家においては、生まれ、成長する過程は別にして、死に関しては自然死を基本とすべきであると思う。特に、高齢者における延命含めた医療、介護行為は、尊厳死という観点からもう一度見つめなおす必要がある。
保険制度においても、医療と介護とは元来分けて考えることなどありえないはずであり、介護保険制度の流れも、最近では連携し、併せて考えてゆく方向になっており、正しい流れである。所詮、医療と介護とは、一人の人間の見かたの問題にすぎない。本来分けられないものであり、人生観なども含めて一体的に捉えなければならない。
そういった意味で考えた時、市民主義国家における社会保障制度は、可能な限り、制度上も医療、介護含めた一本化された社会保障制度を目指すべきであり、その中身も、ケアプランを中心としたサービス支給だけでなく、現金支給も考えていくべきである。
実際に、医療、介護、臨終の現場を数多く経験すると分かることであるが、たとえ、お金のためであれ要医療、要介護者を介護者がみる動機になることは、私は一つの考え方であると思う。現金支給する分、公的な医療、介護支援は減ったとしても、そのお金で、家族一緒に旅行に行ったり、自由なサービス計画の下で生活する。たとえ結果的に余命が短くなったところで、それが本来の与えられた命であると私には思えてならない。確かに、支給した金を何に使うのかわからないなどの意見は出ることは十分承知しているが、それでも私はそうすべきであると思う。
又、市民主義国家においては、現在我が国で行われている厚生年金基金の株式投資など、おバカなことなどは即刻禁止すべきである。経済至上主義に洗脳されたおバカな天下りを狙った官僚や、企業、投資家からの政治献金を狙ったおバカな政治家がしていることであるが、このようなおバカなことをする国家など考えられない。本来、厚生年金基金は、彼らのものではなく私たち国民自身が積み立てているものである。運用して利益上げなければ年金が支払えないなどとほざいているが、そもそも制度自身が破たんしているだけのことで、それをごまかし、先送りし、さらに傷口を広げている。市民主義国家においては、こんなおバカなことは即刻禁止し、税制度全体の中でもう一度社会保障制度を構築し直す必要が不可欠である。未来の子供たちのことを考えるとき、これらは待ったなしの緊急の課題である。

第五に、安全保障制度の見直しである。
従来から申し上げているが、現在の安全保障とは その対象は国家であると考えられているがそれは時代遅れの、若しくは偽装された考え方である。
アメリカがINF(中距離核戦力全廃)条約の破棄をロシアに通告したが、世界を見渡せば核兵器保有国は増え続け、ロシアにしても超音速の防御不能と豪語するミサイルの開発、中国にしてもINF条約をよそ眼に中距離核兵器を開発している。
おバカな日本も負けじとなのか、経済至上主義に基づくグローバル化したアメリカ経済のために、アメリカのグアム、ハワイを防衛するためイージス・アショアを6000億円もかけて配備しようとしている。又、自衛隊保有艦の空母化も検討している。
しかし冷静に考えて見たらいい、かつて幾度か戦争した、ドイツ、フランス、イギリスがお互いに戦争することが考えられるのか、ロシア、ドイツ、フランスが戦争することがあるのか、確かにイエメン、ソマリア、シリアなど自分たちの国土や国民に害のない他国を介した間接的な意味での戦闘はありうるかもしれないが、現代社会においてはあり得ない。何故ならば、あったとしたならば、その結果は、原発含めた核施設の破壊、核攻撃による世界中の放射能汚染、そして勝ち残った国家があるとしてもその先も所詮は戦争の連鎖で、どこまで行っても殺し合いの世界でしかない。歴史が繰り返せる環境が残ったとして、果たしてそんな世界で生き続けたい人間がいるのだろうか。私自身は、戦い続けてそんな世界で生き残る意味はないと考える。
現代人が、近代以降の理性に基づく行動が正しかったと信じているのであれば、自分が生きるために、どんな人間をも殺してでも生き抜く社会は、人類の進化で言えば、自己防衛のみの本能である脳幹部中心の生物から前頭葉を発達させ、自己防衛本能を制御し、思慮分別のある合理的思考ができるようになったその進化の過程の逆行であり人類にとって退化以外の何者ではない。
そう考えた時に、現在の、国家間の兵器開発合戦は何なのか。私には、所詮、経済至上主義の下での輸出産業としての経済的利益追求以外の意味はないと思う。紛争国に売りつけ消費する。周辺国にはその脅威を植え付け、近代兵器を売りつける。他国の人間が悲しもうが、死のうが知ったことではない。自分たちが経済的に豊かになればよい。ただそれだけのことに思えてならない。
私には、結局、国際政治学で言う安全保障の定義が、既得した価値への脅威の不存在であるとするならば、現在の安全保障とは、現代社会における私腹を肥やした権力者、経済至上主義の下で資産を築き上げた人たちのための脅威の不存在ではないかと考える。
これは、国家自身の問題でもなく、政治体制の問題でもなく、民族や宗教、国境の問題でもないと思う。それらは所詮、利用されている対象でしかない。
結局、現代社会における真の意味での安全保障の対象は、個人であると思う。つまりそれは、現代社会で権力や、富を築き上げ、築き上げようとする個人に他ならない。
そうした意味で、市民主義国家における安全保障政策の根本的な課題が何かと考えた時、格差社会是正しかないと考える。
私たちは、真の安全保障とは何なのかを真剣に考え直し、核兵器廃止条約締結拒否や、日米安保条約、行政協定に基づく基地使用、航空領域制限、費用負担継続については、根本から考え直すべきである。
これからの市民主義国家を考えた時、安全保障政策の柱として第一に、格差社会是正を掲げ、まず日本国内から、あらゆるNGO、NPO,国際機関を通じた格差是正のための医療、教育、生活支援を行い、世界に発信してゆくことしかないと私は確信している。

  平成31年2月23日   文責   世界のたま

市民主義~市民として生きてゆく

新年を迎えて、日本国内、世界中で、今年も様々な問題が起きている。

日本国内においては、厚生省による毎月勤労統計の不正調査問題を筆頭に、東京オリンピック招致に関する不正疑惑、沖縄辺野古基地埋め立て問題、日ソ間における領土返還問題、日韓間における自衛隊機に対するレーダー照射や戦時下における徴用工問題、日仏間における日産とルノーとの問題などの様々な問題
海外においても、イギリスのEU離脱問題、米中間での貿易摩擦問題、イエメン内戦問題、シリア問題、北朝鮮問題、米ソ間における米のINF全廃条約からの離脱問題、フランスでの黄色いベスト運動、ベネズエラにおける内政問題などの様々な問題

上記にあげた様々な問題を考えた時、即ち、何故それらの問題が生じてきたのか、どうやって私たちは、それらを解決していかなければならないのかを考える時
現在の私たち人間が行い、そして行なおうとしていることは、後者の解決しようとすることだけだと思う。
何故それらの問題が生じてきたのかということには目を背けている。複雑な要因、過去のいきさつ、歴史、それらを前にして、人間は考えることをあきらめている。もしくは、様々な要因を合理的に、科学的に関連づけ、現実に起こっていることを、その因果の結果として仕方なかったものとしている。
そうした中では、歴史を繰り返すだけで、決してそれらの問題を解決することは永久にできない。それどころか、2019年現在の世界終末時計は、今年も2分で一応は止まっているが、私たち人類にとってもはや時間はないのです。

これらの様々な問題を前にして、私は、今、市民主義を考えている。
市民主義という言葉が言われて久しい
市民主義とは、一人一人の個人が持つ二つの側面、私的側面と、公的側面において、より公的側面を意識した人間の生き方、在り方である。

厚生省による毎月勤労統計の不正調査問題は、入国管理法改正国会審議資料、働き方改革国会審議資料、障害者雇用における資料の捏造、そして私自身が最高裁に上告している森友学園問題における国会審議資料、会計検査院提出資料の捏造、それら全てに共通している。
それは、現代立憲民主主義の否定である。
私は、今まで何度も述べてきたように、民主主義とは、少数が多数になる可能性であると思っている。多数の意見を尊重するのが民主主義であるとか、少数者の意見を尊重するのが民主主義であるとか、いろいろ言われているが、私は、それらは所詮、結果であって、そこに何の意味はないと思う。民主主義とは過程であり、結果ではない
即ち、民主主義の過程、少数者が多数になる可能性こそが、民主主義なのである。そのためには、何が必要かと言えば、その討論の前提たる資料の正当性である。資料の正当性無くして、議論は何の意味もなさない。そこに、民主主義は、決して存在しえない。
私が、最高裁に上告している理由も、そこにあるのです。捏造した国会資料、会計検査院報告に基づいた国会審議、国権の最高機関たる国会への説明責任の究極の放棄たる冒頭解散、それらを前提になされた総選挙は、主権者たる国民の権力的契機たる選挙権、被選挙権への侵害であり、正当な選挙を保障する日本国憲法への侵害でもあり、現代立憲民主主義の否定以外の何者ではない。

それでは、ここで問題です。
そうした状況の中で、私たち主権者たる国民は、どうやって近代以降、私たちが作り上げてきた民主主義を守ってゆけばいいのでしょう。
選挙を通じて、守ってゆけばいい。多くの国民はそう答えるであろう。しかしそれは無理な話です。現在の選挙制度は、政党選挙になっており、その上、小選挙区制、党首の公認権、それらを通じて、多くの立候補者は、国会で多数を占める与党の長、すなわちそれは、行政府の長でもある内閣総理大臣が指名するのであり、立法府たる国会が国権の最高機関とする日本国憲法の条文は、もはや死文化している。総選挙の時期も総理の専権事項とされており、主権者たる国民の選挙権、被選挙権の自由など、もはやそこには存在していない。そうしたあきらめの中で、国民は政治不信に陥り、投票すらもしないという思考停止に陥っている。

それでは、日本国憲法上、違憲審査権を有した人権保障のための最後の砦である裁判所が、民主主義を守ってくれるのでしょうか。
それは、現実的には否です。
基本的には裁判所も統治機構の一組織にすぎないのです。そのことは、私自身裁判を通じて身に染みています。司法の独立とは、あくまでも日本国憲法上のきれいごとであり、最高裁裁判官は、内閣総理大臣が、指名、任命するのであり、下級裁判官は、最高裁裁判官にその人事権を握られているのだから

それでは、誰が現代立憲民主主義を守れるのか。
国家でもなく、立法府でもなく、行政府でもなく、司法府でもありません。
市民主義に基づいた主権者たる国民一人一人しかいないのです。
自分一人で何ができるのかと思考停止に陥るのではなく、まず自分一人が市民主義に基づいた一市民に変わるしかないのです。
このことは、選挙民としての国民だけでなく、国会議員、大臣、裁判官、捏造した公務員を含めた全ての公務員こそが、日本国憲法において定められているように、全体の奉仕者である彼等こそが率先して変わらなければならない。蓋し、日本国憲法に基づいた主権者たる国民として、大多数の国民が、市民主義に基づいた一市民に代わることなくして、もはや民主主義を守る術はどこにも存在していないのだから
そうした意味において、今週明らかとなった従前たる党利党略に基づいた野党第一党を争う国民民主、自由党、立憲民主、社民党による数合わせなど何の意味もない。単なる稚拙な歴史の繰り返しにすぎず、おバカな捏造を繰り返す与党とおバカな数合わせを繰り返す野党による相も変わらないコップの中のくだらない政争にすぎない。
残り少ない世界終末時計の針を進めるだけの意味しか持っていない。

同様に、日ソ間における領土経済問題、日仏間におけるルノー問題、日韓間における様々な問題、EUとイギリスの問題、それらすべてに共通することは、1990年以降のグローバル化の中での、結果としての国家主権の台頭に他ならない。

私自身、確かに郷土愛や、愛国心は、人間にとって心のよりどころであることは理解できる。しかし、グローバル化の中での過度の郷土愛や愛国心は、歴史が証明しているように、行き着く先は、国家間の争い、国民への弾圧、即ち、現代立憲民主主義の否定でしかない。

このことは、ロヒンギャ問題、パレスチナ問題、イエメン問題、全ての民族、宗教紛争でも同じことが言える。
現在、世界中で生じている国境、民族、宗教問題は、グローバル化と絡み合って非常に複雑化している。複雑化している最たる原因は、グローバル化が、経済至上主義に基づいているからに他ならない。サウジアラビアへのアメリカ、フランスによる莫大な武器輸出など、その典型である。
また現在生じているファーエイ問題もグローバル化した経済進出と、国家による情報管理、個人への人権侵害、最終的には、現代立憲民主主義の否定につながる問題である。
結局、これらの問題を、解決できる唯一の術は、国家でもなく、グローバル化でもなく、制度としての民主主義でもなく、宗教でも、民族でもない。

その唯一の術は、国家や、宗教、民族を超えた個々人の公的側面である市民主義である。
1991年にソビエト連邦が崩壊して、資本主義が共産主義に勝利したが、それは、手段としての資本主義の勝利であって、一つの過程にすぎなかった。
今、世界はグローバル化経済の中で、結果的に歴史を繰り返そうとしている。しかしその先に待っているのは、二分後に待ち構えているのは、もはや二度と繰り返すことのできない世界終末に他ならない。

近代以降の科学主義に基づいた二項対立の中で、人間は、人間の存在そのものが自然であるにもかかわらず、自然と対峙してきた。核開発、ゲノム操作などの自然の摂理に反した行為、不必要な経済活動は、必然的に自然を破壊する。それは所詮自然の一部にすぎない人類の滅亡を意味している。

亡きホーキンズ博士が述べていた人類の地球からの脱出、それを現実的にいち早く行おうとしているのが中国による宇宙開発であり、月面での居住空間の建設なのであろう。当面ある程度の数の人類を運ぶとすれば月以外にはないであろう。そういった意味で中国含めた先進国の富を蓄積した者たちは、もはや地球の温暖化抑止など考えておらず、地球を見捨ててしまっている。

私自身、不必要な消費を促し、地球環境を破壊する経済至上主義、自然に反した、倫理に反したゲノム操作、それらが人類の発展に寄与すると洗脳されてしまっている現代社会の中で、それらを阻止し、人類が自然あふれた青い地球で生活し続けることは至難の業であるとは思う。

しかし、私たちは可能な限りの努力を為さねばならないと思う。
国家、民族、宗教を超えた自然との共存を図る生き方、市民主義に基づいた生き方のみがそれを可能とするであろう。
それ以外には術は無い。

    平成31年1月27日   文責   世界のたま

人間は、考える葦である

2018年ももうじき終わろうとしている。
今年も世界中で、様々なことがあった。年々思うことであるが、私たち人間にとって、そして、人間を含む全ての生き物にとって、私たちは、余りにも無駄で、意味のない時を、過ごしている。

「人間は考える葦である」パスカルの「パンセ」の中の言葉である
私は、改めて、この言葉を思う
大辞林によれば、人間は自然の中で最も弱い葦の一茎にすぎない。だがそれは考える葦であるとして、自然において脆弱だが思考する人間の本質を表現したものとしている。
百科事典マイペディアの解説では、考えることができることにその偉大さと尊厳があるとして、思考する存在としての近代人の精神をよく示す句としている。
日本百科事典の解説では、17世紀フランスの思想家パスカルの言葉で、広大無辺な宇宙に比べれば、人間は無に等しく、「一茎の葦」のごとく弱く悲惨な存在にすぎないが、それは「考える葦」であり、思考によって「宇宙を包む」ことができる。ここに人間の尊厳があり、偉大さがある。このような偉大と悲惨、無限と無という相矛盾した二律背反の中で揺れ動く人間の存在をパスカルは「考える葦」という言葉で象徴させているのである。なお、この句は聖書の「傷ついた葦」に由来するとしている。

この言葉は、現代社会を如実に表している。
近代以降、私たち人間は、神によるから支配から解放されて、近代精神に基づいて、神から与えられた理性に基づいて生活してきた。
それは、人間中心的な考え方であり、科学的根拠に基づく思考である。

そうした中、政治的には、絶対君主制から、法に基づく政治に、経済的には、自由な交易に基づく市場経済を形成してきた。科学的には、様々な疾病を克服して、人間の寿命を延ばしてきた。

2018年現在、政治的には、民主主義が経済至上主義によって凌駕されている。何故ならば、富の蓄積の中では、説明責任は、必要とされず、必然的に民主主義は存在しえない。結果として、世界中の多くの国民は、思考停止し、科学主義の特徴である二項対立の中で、分断された社会が、国家間、国内いたるところで形成されている。アメリカにおける共和党、民主党の分断、ヨーロッパにおけるEU支持派と、独立派との分断、中東でのシリア問題を巡る分断等々である。
経済においては、市場経済の果てに、経済至上主義という世界を作り出し、現実の経済社会と乖離した記号化された為替取引の中で、ヘッジファンドによるアジア危機、記号化された商品取引の中で、リーマンショックを引き起こし、現実社会の中での貧富の格差は、日本国内はもとより、世界中で拡大している。
自然科学においては、中国人研究者によって行われた受精卵でのゲノム操作、ロシア、中国、アメリカ、北朝鮮などによる際限なき兵器開発、日本国内においても艦船の空母化、そしてもはや意味のない核燃料サイクル
それら世界中で起きている政治、経済、自然科学分野で生じている事象すべてはリンクしている。

2018年が終わろうとしている今、私は思う。
人間は、人間の偉大さと、尊厳さの中で、「理性」という思考によって、無を無限さと錯覚している
人間は、所詮「一茎の葦」にすぎない

そして今、その「一茎の葦」が、その生命の息吹を終えようとしている。

   平成30年12月30日  文責  世界のたま

砂上の楼閣にすぎない現代社会~人はキラキラ輝く純粋な瞳の輝きを失ってしまった

現代社会は砂上の楼閣である。
その中で、人は、純粋な瞳の輝きを失ってしまった。

平成30年11月24日未明、官民合わせて36億円かけた上で、2025年度の大阪万博開催が決定された。そのメインの開催場所である人工島夢洲は、昭和のバブル期にテクノポート大阪計画の一環として計画されたもので、バブル崩壊とともに、夢破れた人工島であり、日本全国で問題となった第三セクターによる税金の無駄遣い、ハコモノ行政の負の遺産である。
そうした中で、その後始末に考え出されたのが、東京オリンピックと同様に、これから数千億もの莫大な未知の予算を必要とする今回の大阪万博開催、そして具体的な内容を省令に丸投げした隣接地カジノを含む総合リゾート(RI)構想である。 
大阪府知事は、今回の万博誘致によって2兆円の経済効果を謳い、及び腰だった産業界も結果的に、それに便乗している。
バブルという経済至上主義社会における砂上の楼閣の中で、莫大な予算の中で作り上げられた人工島、そして更なる莫大な予算をかけて、人間は新たな砂上の楼閣を作ろうとしている。その中で、人々は本来何の価値も有していない交換価値にすぎない貨幣を賭けて一瞬の夢を買う。しかしその一瞬の夢の先に、人間にとって、現実的な意味での未来は、存在はしていない。
世耕弘成経済産業相は、未明行われた投票会場において、「世界中の人々の暮らしを守り、強靭にする実験室になる」とのあいさつを行った。
しかし、私は思うのです。彼は、現代社会そのものが人類滅亡の実験室であることを忘れている。
大阪万博、総合リゾート構想は、経済至上主義の中での蜃気楼、砂上の楼閣にすぎない。

日産自動車、ルノー、三菱自動車会長カルロス・ゴーンによる金融商品取引法違反すなわち有価証券報告書虚偽記載による逮捕、巨額な報酬に加えて、巨額な私的流用もマスコミによって盛んに取り上げられている。内部告発とされているが、実態は、報道でなされているように、フランス政府によるフランス国内のルノー労働者の雇用維持のための日産との合併要請に対する日産、日本政府の反発の中で生じたものであると思う。
しかし、真の実態は、所詮、経済至上主義というコップの中での争いにすぎない。富あるものが更なる富を求めての奪い合い、そうした中で、中国、ロシアなどでもよく行われている権力闘争の中での一部の者の吊し上げと同様な多くの国民の視線をそらし、留飲を下げるトリックにすぎないと私は思う。
消費税アップに伴うカード決済利用者に対するポイント制度、多くの識者からも指摘されているが、カード決済をする人の多くは、ある程度の資産を持った者であり、カードを使われる側の店舗も中小以上の企業である。資産のないもの、零細企業は、その対象外である。
しかし、最も重要であり問題なことは、税とは何なのか、何のための税なのか、それが理解されないまま今回消費税を、何故引き上げなければならないのか、何のために引き上げるのかということが忘れ去られていることにある。
今までのブログの中でも何度かお話ししているが、税の目的は、国民生活のための財源であり、もう一つの主要な目的は、所得の再分配機能である。
そうした中で、消費税を考えて見ると、国家の財源という点では、安定的な財源であり、現実的に、我が国においても消費税を導入して以降、財源としては、景気に大きく左右され難い最たる財源である。一方、所得の再分配機能、即ち、自由と、平等という観点から消費税を考えて見ると、富あるものも貧しきものも同じ税率で物を買えば徴収されるという点においては逆進性である。そうした中で、その是正として、非課税品目を様々取り入れたりしようとしているのであるが、一見正論のように思われるが、私は間違っていると思う。
そもそも今回、消費税を引き上げる目的は、1000兆円を超えた国家の負債、日銀によるGDPに近づくレベルの多量の国債の引き受け、株式の買い入れ、更なる赤字国債を発行しない限りやり繰りできない毎年の国家予算、特に増え続ける社会保障費用、それらの財源として、財政規律のための消費税増税であったはずである。このことは、国際機関からも警告されていることでもあり、待ったなしの緊急の課題である。
今回の消費税増税に伴う非課税品導入、ポイント制度は、消費税の持つ最大の特徴である景気に左右されない安定財源という特徴を損ない、その徴収額の莫大な損失は、緊急の課題である財政規律、安定した社会保障の充実という点においても愚策以外の何者ではない。
徴収するときはきっちりと徴収した上で、格差解消を含めて、充実した社会保障を行ってゆくべきである。
それこそが本来の消費税であり、あるべき税の姿である。
それがわかった上で、政府がそれらの愚策を行う理由は、非課税品目となることを求める経済界からの企業献金、複雑な税制度にすればするだけ必要となるそれらを調整、監督、監視する天下り団体、すなわち、政治家、官僚、そして所詮は、非課税品を最も多く購入できる高額所得者である。
そしてバカを見るのは、購入した非課税品によって免れたわずかな非課税額と砂上の楼閣にすぎない稚拙な社会保障制度を引き換えた私たち国民であり、複雑な消費税制度に対応できない零細企業である。
リストラ、低賃金の中で、大企業の内部留保は増え続け、その多くは、企業トップ、大株主、ヘッジファンドなどに流れているのが現実である。
企業が儲かれば、その利益は従業員に還ってくるというトリクルダウン理論、そして今回の消費税論議、すべて経済至上主義の下での砂上の楼閣にすぎない。

サウジアラビア政府に批判的な記事を書き続けていたアメリカ在住のサウジアラビア人記者ジャマル・カショギ氏がトルコにあるサウジアラビア領事館内で、暗殺された事件が起き、現在、サウジアラビアのムハンマド皇太子の指示が疑われている。
そうした中で、アメリカトランプ大統領は、関与したかもしれないが武器輸出に伴う経済優先を表明した。ヨーロッパでは、ドイツがEU加盟国に武器禁輸を呼びかけ、その結果、デンマークは同調したが、自由と平等を理念とするフランスは難色を示している。
経済グローバル化が進む中で、資源含めたそのパイには限界がある。その限られたパイを求めた自国ファースト主義、すなわち国家主権が世界中で強調される中で、自由と平等をその目的とする民主主義は存在しえない。
EUを見てもわかることであるが、世界中の人々は、国家主権を放棄することはないであろう。そうした中で、私たちが経済のグローバル化を選択し続けるならば、もはや現代立憲民主主義は砂上の楼閣にすぎない。

森友加計学園国有地売却問題に関して、会計検査院が、今春から進めていた追加検査の結果をまとめて国会に提出した。
その中で、会計検査院は、財務省近畿財務局が交渉中に学園側に価格情報を伝えていたことを「適切とは認められない」と指摘、財務省が決裁文書を改ざんし、会計検査院へ提出した行為、学園側との交渉記録を故意に提出しなかった行為は会計検査院法に反する違法行為であることを認定した。しかし、元理財局長佐川宣寿氏がすでに退職していること、提出文書の改ざんに主にかかわった職員らがすでに懲戒処分を受けていることなどから関係者の会計検査院法に基づく懲戒処分要求は見送っている。
このことは、前回のブログでも取り上げ、現在私が、広島高裁に控訴している控訴理由の核心部分の一つでもあるが、会計検査院がいうような単なる違法行為ではない。日本国憲法における財政民主主義、そして、公務員が全体の奉仕者であり、一部の奉仕者でないとする第15条、さらには公務員の憲法尊重擁護義務に反した違憲行為である。
前回のブログでも述べたが、我が国における現代立憲民主主義も、もはや砂上の楼閣にすぎない。

中国新疆ウイルグル自治区での多くのウイグル族が政治的再教育施設に収容されている実態が世界中で明らかにされてきている。
収容された経験ある人の話では、それらの施設では、ウイグル族やカザフ族などのイスラム教を信仰する10代から80代までの少数民族の男女が収容されている。早朝から深夜まで革命歌を歌わされたり、共産党の政策の学習をさせられる毎日、その中では拷問も行われ、施設内での死亡者も出ている。
私は、1960年代、かつて中国で行われた文化大革命を思い起こした。実態は毛沢東による権力闘争であり、その妻らの四人組によって行われた粛清、毛沢東に先導された学生含めた若者、紅衛兵による暴力統制、知識人を中心とした一般国民を強制的に連行、隔離した集団生活の中での労働を強制した下放運動、そうした中での死者は、何百万人、何千万人と言われている。その後、1970年代、カンボジアにおいて、毛沢東の行った文化大革命を模したポルポト政権下での同様の粛清においても何百万人の命が失われている。

話は変わりますが、スーパーボランティア尾畠春夫さんは、酒も飲まず、貯金もゼロ、野草を食べ健康保険証は11年間使ったこともないそうだ。そんな彼の初の書籍の刊行が延期された。印税もいらないとして、出版を希望する各社が足並みをそろえたら契約することだったようだが、おそらく、出版社との行き違いが生じたのだと思う。
私の推測であるが、元々、無償での行為を信条とする尾畠春夫さんと、所詮、企業利益を追求する出版社とは相反することは自明な事実であったと思う。
そうした経済至上主義の中で、尾畠春夫さんは、彼自身が、記号化されることを拒否したにすぎないのだと思う。

世界中で多くの人たちが、迫害され、戦禍で逃げまどい、難民として彷徨っている。そうした中で、多くの人たちが人身売買され、殺害されている。
私には、そうした多くの人たちは、記号化されてしまった人間だと思えてならない。
現在、国会で問題となっている入管法改正での外国人労働者受け入れ問題など、その典型例だと思う。
日本政府は、決して、受け入れようとする外国人労働者を一人の人権を享有した人間としては見てはいない。経済至上主義社会の中で記号化された対象としか見てはいない。

経済至上主義の下、私たち、多くの国民が、記号化されようとしている。
国会を見ていてもわかるが、すでに、多くの国会議員、大臣、官僚、さらに言えば多くの裁判官すらもが記号化されてしまっている。

そのような記号化された人間が作り上げる現代社会は、もはや砂上の楼閣にすぎない。
そこには、キラキラ輝く純粋な瞳を持った人間など存在しえない。

  平成30年11月25日  文責  世界のたま

国家賠償請求訴訟(広島高裁)口頭弁論を終えて~現代立憲民主主義の終焉

H30年10月11日、広島高等裁判所202号法廷にて私が提起している国家賠償請求訴訟控訴審第一回公判が開かれると同時に、追加の補充陳述、立証のために安倍内閣総理大臣、麻生太郎財務大臣、佐川宣寿前国税庁長官、太田充財務省理財局長、総理夫人安倍昭恵氏、安倍昭恵氏付き元職員谷査恵子氏(イタリア日本大使館一等書記官)ら6名の出廷要請、証人申請したが、却下され、口頭弁論終結、来る12月27日に判決となった。

今回の裁判は、第48回衆議院選挙に立候補し、選挙権行使した私の被選挙権、選挙権に対する公職選挙法第一条に反する違憲、違法行為を行った国、行政府に対する国家賠償法第一条に基づく国会賠償請求訴訟です。
(公職選挙法第一条)
 この法律は、日本国憲法の精神に則り、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする。
(国家賠償法第一条)
 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

第48回衆議院選挙は、安倍内閣による森友学園の土地賃貸、売買に関する財務省決裁文書の改ざん、それらの改ざん文書の国会、会計検査院への提出、財務官僚による国会での虚偽答弁、それらに関する安倍内閣の説明責任の放棄、そして、究極の説明責任の放棄たる第194回国会における主権者たる国民の代表者である国会議員に一言の反論も許さない冒頭解散、その結果として行われたものであった。

第48回衆議院選挙は国民をだまし、嘘で塗り固められた事実の下になされた選挙であった。

日本国憲法は、前文をはじめとして、正当に選ばれた代表者を通じた国家権力の行使を定めており、その日本国憲法の精神に則った公明且つ適正な選挙制度、選挙人の自由な意思表明を保障し、民主政治の健全な発達を促すとした公職選挙法第一条に明らかに反している。

国会議員選挙とは、国民の信を問う選挙である。
国民の信を問うために必要なもの、それは嘘偽りのない資料、答弁に基づく国会審議であり、会計検査報告である。そして民主政治にとって最も必要なものは、説明責任である。それらが存在しない状態での国会議員選挙は、目隠しをしたまま、耳を塞いだ状態での選挙以外の何者ではない。

第48回衆議院選挙は、説明責任を求める国会の臨時国会開催を、拒絶した上、ようやく開催された第194回国会を有無も言わさず冒頭解散した究極の説明責任の放棄の上になされたものであったことは厳然たる事実である。

第48回衆議院選挙は、日本国憲法が求める代表の正当性、公職選挙法第一条が定める公明性、適正性に明らかに反しており、その選挙の正当性はない。したがって、それによって選出された現在の国会議員、内閣総理大臣にもその正当性は有り得ない。

私の訴えに対して原審である広島地方裁判所での判決要旨が下記の通りである。

原審(広島地方裁判所)の判決事実
第48回衆議院議員総選挙において、原告の被選挙権や選挙権が侵害されたとは認められない。
原告は、第48回衆議院議員総選挙に立候補し、投票をした者である旨仮に、原告が主張する請求原因事実(改ざん、虚偽答弁など)が認められるとしても、そのことを自ら主張しているのであり、原告の被選挙権及び選挙権を行使する機会が保障されていたということができる。
原告は、第193回国会の審議等が改ざんされた公文書や虚偽答弁に基づいてなされたことをもって第48回衆議院議員総選挙の選挙自体の正当性や公明性・適合性が否定され、さらには原告の被選挙権及び選挙権が不当に侵害された旨を主張するが、原告独自の見解といわなければならず、採用することができない。
そのほか、本件記録によっても、原告の被選挙権や選挙権が侵害されたとは認められない。

原審の判決によれば、かつて我が国で行われた嘘で塗り固められた大本営発表に踊らされ、大政翼賛会が結成された下で行われた衆議院選挙すら肯定することを意味している。
国の答弁書においても、国会で官僚が虚偽答弁しようが、改ざん文書を国会や、会計検査院に提出しようが、国民にはなんら一切関係ないとしている。さらに、解散は国会議員のためのものであり、たとえ、私が、立候補者であれ、選挙権者であれ、何ら関係ないと断言している。

私は、控訴審第一回公判において、以下の陳述を補充、追加した。

H30年7月31日になされた国権の最高機関たる国会の大島衆議院議長の記者会見において、森友学園をめぐる財務省の決裁文書改ざん問題や、自衛隊イラク派遣での日報問題などについて、「立法府の判断を誤らせるおそれがあり、民主主義の根幹を揺るがすものだ。国民に大いなる不信感を抱かせる。」と発言したうえで「政府には、問題を引き起こした経緯や原因を早急に究明し、再発防止のための運用改善や制度構築を行うよう強く求めたい」と述べています。
さらに国権の最高機関たる国会に対しても「行政を監視すべき任にある国会も、責務を十分に果たしてきたかは検証の余地があるのではないか。国会として、正当かつ強力な調査権の、より一層の活用を心がけるべきだ」と述べています。
国権の最高機関たる国会の衆議院議長自らが、決裁文書改ざん問題は、立法府の判断を誤らせるおそれがあり、民主主義の根幹を揺るがすものだとしている。
そして、国民に大いなる不信感を抱かせる問題だと述べている。すなわち「国民の信」に直接関わる問題だと述べている。我が国の憲政史上、国権の最高機関たる国会の衆議院議長がここまで述べた事例はない。
国権の最高機関たる国会の衆議院議長自らが、改ざん問題は、国民の信、すなわち、まさにその信を問う国会議員選挙に重大な影響を及ぼすとしている。
しかし、被控訴人は、改ざん問題が、控訴人の選挙権、被選挙権と何ら関係ないとしています。
又、原審も改ざん問題が、控訴人の選挙権、被選挙権に侵害を与えたという主張を控訴人独自のものであるとしていますが、国権の最高機関たる国会の衆議院議長は、控訴人と同様な判断をしている。
しかも、これらの発言は、財務省による改ざん文書や交渉記録の開示、H30年6月4日になされた財務省決算文書改ざん等についての報告書の発表、H30年6月15日になされた改ざんに首相らの働きかけなしとする政府答弁の閣議決定以後になされている。
国権の最高機関たる国会の衆議院議長が、今年3月以降の政府による改ざん文書、交渉記録の開示、報告書の作成、首相らによる改ざん働きかけなしとする政府答弁の閣議決定をもってしても、国民の信に足る状況でないこと、今だもって、早急なその経緯、原因の究明が必要であるとしているのです。
すなわち、 国権の最高機関たる国会の衆議院議長が、行政府のみならず、国権の最高機関たる国会に対しても我が国の民主制度崩壊への警告を発しているのです。
司法権の独立もあり、直接明言されていないが、国会の最高機関たる国会に対して警告を発していることを鑑みれば、司法に対する警告であると控訴人は思う。
控訴人は、被控訴人に問いたい。国権の最高機関たる国会の衆議院議長の発言をもってしても、改ざん問題が、公職選挙法第一条が求める民主制の健全な発達を期するという条文に反していないと考えるのですか。
被控訴人は、国権の最高機関たる国会の衆議院議長の発言を、どう受け止めているのですか。
被控訴人は、憲法改正については盛んに論じているが、まず、現在ある日本国憲法を順守すべきことを、控訴人は強く望みます。
 
 最終の事実審であることも踏まえて、国が答弁書の中で要求する具体的事実究明のためにも下記6名の出廷、証人申請も同時に行った。
 
 安倍内閣総理大臣 行政の最終責任者であり、自らも国会において、全責任は最終的に自らにあると述べている。
又、財務省が公表した調査報告書では総理が「私や妻が関与していたら総理大臣も国会議員を辞める」と国会で答弁したH29年2月17日以降に、政治家の問い合わせに関する記録の廃棄が進められたとしている。
又、H30年4月9日民進党の大島氏が、第48回衆議院選挙が、改ざんと隠ぺいに基づいた選挙でありその正当性について国会質問をしましたが、安倍総理は「決算文書を精読してもらっても今までの説明を覆すものは何ら入っていなかったと認識している」と改ざんや隠ぺいに対する控訴人や、国権の最高機関たる国会の衆議院議長の認識、及び、議長の行政府に対する要請と著しく異なった答弁をしており、出廷しての答弁が求められる。
さらに第194回国会冒頭解散の違憲性、違法性及び、公職選挙法第一条に基づく控訴人の選挙権、被選挙権侵害に関する答弁も求めたい。蓋し、菅官房長官も当時の解散前の記者会見で第194回国会の解散権は、総理の専権事項であると述べており、総理以外の人間には答弁能力がないと思われるからです。

 麻生太郎財務大臣 財務省の最終的な責任者である。
改ざんについて、H30年5月8日の閣議後記者会見の中で「どの組織でも改ざんはありえる。組織全体としてではなく、個人の資質が大きかったのではないか」「改ざんが組織全体で日常茶飯事で行われていることは全くない」と述べている。これは控訴人や国権の最高機関たる国会の衆議院議長の認識、及び、議長の行政府に対する要請と著しく反するものであり、改ざん問題の違憲性、違法性の認識に対する答弁を求めたい。
        

 佐川宣寿前国税庁長官 改ざん、廃棄がなされた当時の理財局の最終責任者
調査報告書では、何故改ざんされたのか「国会審議が紛糾するのを避けるため、当時の理財局の幹部職員が改ざんを進めた」と認定している。又、佐川前理財局長の国会で答弁した内容を踏まえ、誤解を生みかねない内容を極力含めないように改ざんを行ったとしている。その上で、国権の最高機関たる国会に対し決算文書の改ざん作業を行い、改ざん後の文書を提出したことはあってはならないことで、不適切な対応であったと総括している。
 それに対して、H30年3月に行われた証人喚問で、安倍氏、昭恵氏、麻生氏などの指示はないとする一方、佐川氏は、改ざんを、いつ、認識したのか、だれがどのような理由で改ざんを指示したのかなどについては、刑事訴追の恐れがあるとのことで40回以上も証言拒否している。
国権の最高機関たる国会の衆議院議長は、政府に対して、その経緯、原因追求を求めており、又、被控訴人自らも求めている具体的事実を明らかにするためにも佐川氏の出廷、答弁は不可欠である。

 総理夫人安倍昭恵氏、昭恵氏付け元職員谷査恵子氏  安倍昭恵氏が当時、森友学園名誉校長に就任していた。
 公表された交渉記録の中に、安倍総理の妻の昭恵氏付きだった谷査恵子氏が、財務省理財局に問い合わせた記録が含まれており、問い合わせた2日後の応接記録には、財務省の担当者とのやり取りが記されている。また、谷氏が問い合わせた結果を森友学園に伝えたこと、昭恵氏にも報告していたことが記されている。財務省職員による改ざん、廃棄などの違憲、違法行為への関与、違憲性、違法性の認識について答弁を求めたい。
 
 最後に、総括として下記の陳述も行った。

 裁判官、控訴人は、主権者として、選挙、被選挙権者として日本国憲法、公職選挙法が求める民主政治の健全な発達を、現在、将来の国民のために、切に望んでいます。そのことが、日本国民の基本的人権を守る最後の砦だからです。このことは、国権の最高機関たる国会の衆議院議長も同じ思いだと思います。
 国権の最高機関たる国会に対して衆議院議長が、その任を果たしていないという発言は、日本国憲法における国会と内閣のチェックアンドバランス機能が機能していないことの証左であり、そうした中で、唯一残されたものが、主権者たる国民の権力的契機である選挙権、被選挙権であると思う。
 国権の最高機関たる国会の衆議院議長の行政府、立法府に対する警告は、我が国の民主政治がその崩壊の崖っぷちに立っていることを表しており、その発言はあまりに大きい。
 裁判官、控訴人は、司法府に、切に、適切で妥当な司法判断を求めたいと思います。

 我が国の現代立憲民主主義は終焉を迎えようとしている。
 しかし、このことは、世界各国で生じている事実でもあり、現実である。

    平成30年10月21日  文責  世界のたま

科学、経済至上主義の果て~想像力を失った人類に未来はない

私は、北朝鮮核問題が、日中米韓との間で解決しようが、イラン核問題が解決しようが、人類の滅亡のカウントダウンに何ら影響がないことを断言する。それらの稚拙な問題が解決したところで何ら意味はない。

一方で、現在世界中で猛威を振るっている自国ファースト主義、経済制裁の応酬、軍事力や経済進出に伴う威嚇は、人類にとって、その生存の否定以外の何者ではない。

そうした中で、国連総会が開かれたが、もはや集まることに多少の意義を見出だせるのみの政治ショーにすぎない。ニュージーランド首相の生後間もない子供もIDカードを作ってもらい国連総会に出席していたが、今この時間にも地中海の難民船上で、シリアで、イエメンで、ソマリアで、バングラデシュで、南スーダンで、命の灯火が消えかかっている生後間もない多くの子供たちも同じ生きる権利を持った一人の人間、一つの命に他ならない。

トランプはじめ各国首脳の演説、何一つとってもそこに真の世界平和、世界中の民一人一人の自己実現できる社会を想像し得ることはできなかった。

彼らが言う、愛国主義、貿易摩擦、北朝鮮やイランに対する制裁など、万が一それらの課題がすべて解決されたところで、現在の世界情勢が悪くなることはあっても、何一つよくなることはないことを、そして最終的に、地球上での人類の生存が間違いなく危機に陥ることを彼らは想像することができないでいる。
というより、彼ら自身の人生の残り少ない生存期間のことだけしか考えていない。そもそも自分たち以外興味はないのだから
自分たちが生きている間に国家が借財を積み重ね、地球環境を破壊し、資源を使い果たそうとも自分たちが、美味しいものをたらふく食べて、いい思いが出来さえすればいいのだ。
彼らが想像できる未来など、たかが自分たちの任期である数年レベルにすぎない。

同じ時代に生きる他国において、自分たちが経済至上主義の中で、生産し、売りつけた兵器によって、何人の子供をはじめとする民間人が死のうが彼らにとって知ったことではないのだ。
このことは、アメリカのみならず、ロシア、フランスをはじめ、代理戦争の後ろ盾となっているサウジアラビア、イランなど含めた数多くの他国の紛争に関与する国々、そして他国の環境、人権を無視した経済侵略を図っている中国でも結局、同様のことが言える。そして我が国自身もそれらに加担している。

世界の歴史を振り返ってみればいい、欧米諸国や我が国によるアフリカ、アジアでの植民地政策、その後の世界各地での独立戦争、東西冷戦下での大国による代理戦争すなわち戦後のギリシャ内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン内戦、カンボジア内戦、ハンガリー動乱、チェコにおけるプラハの春、シリア内戦、イエメン内戦、ソマリア内戦、イラク戦争いづれもアメリカ、ロシアを中心とした欧米諸国、そして我が国も戦闘、武器、戦費の供与に関与している。

現在の世界で起きているすべての問題の根源が何かと言えば、それは経済至上主義に尽きる。
確かに国境問題、民族問題など、表向きにはそれらが強調されているが、上記にあげたようにそれらの問題を、拡大化し、複雑化し、扇動しているのは、国家、国境、民族すらも記号化することによって経済的利益を上げようとする経済至上主義に他ならない。

1991年のソビエト連邦崩壊によるいわゆる資本主義の勝利は、戦後のトルーマンドクトリン、マーシャルプラン、ブレトンウッズ協定における金ドル本位制すなわちドルの国際基軸通貨化、アメリカ主導での世界銀行、IMF設立含めたありとあらゆる点でのアメリカ中心主義の幕開け後の集大成としての世界のアメリカ化に他ならない。

1990年代のヘッジファンドが引き起こしたタイ通貨バーツの暴落、その後のアジア危機、2009年のリーマンショックなど、それらすべては手段でしかない貨幣、金融システムを記号化、目的化させた経済至上主義が引き起こしたものである。

現在世界中で生じている様々の問題は、たとえそれが民族紛争であれ、核をめぐる問題であれ、宗教上の問題であれ、国境紛争であれ、その根底に存在しているもの、もしくはいったん生じた紛争の解決を長引かせ、泥沼化させているものは、経済至上主義以外の何者ではない。もはや、アメリカや、ロシアや、中国といった個々の国家が問題の本質ではない。私が過去のブログの中で、国家を対象とした現在の安全保障体制が全く意味をなさないと言っているのもそれが理由です。蓋し、経済至上主義は国家を超えてグローバル化しているのだから

私自身、市場経済社会は、私たちが生活する上で不可欠なものであるとは思う。しかし、拡大再生産を至上命題とする経済至上主義は、私たちにとってもはや不必要なまでの過度の欲望を生じさせ、人類の生存基盤たる自然を破壊し、そして残された自然すらもそれを記号化することによって、拡大再生産の対象としてきている。

人間の欲望は本質であり、それを抑えることは困難であるとの指摘もある。フロイトが言うように自我とは幻に過ぎず、人間は無意識によって束縛された存在にすぎないという見方、生来犯罪人説のように、生まれたときから人間はすでに決まった存在であると考える考え方もある。

確かに、資本主義社会の中で、人間が自由に理性的な振る舞いができるかと言われれば、それは困難な部分もあると思う。しかし、私はある一定の環境の中においては、自然や、他者との共存を図る理性的な行動を選択することは可能であると思う。

その一定の環境とは、人間の欲望のコントロールされた社会に他ならない。
それは、税制度で言えば、所得の再分配機能であり、企業でいえば、ワークシェアリングであり、車で言えば、カーシェアリングであり、電力消費で言えば、節電である。

そうした中で、私自身が考える近代以降、現代社会の中で、最も重要な人間の欲望のコントロールが、法の支配、現代立憲民主主義に他ならない。

私には、現代社会は、原子力、遺伝子操作をはじめとした科学主義や、上記にあげた市場経済を中心とした経済至上主義における歯止めの効かなくなった人間の欲望が、人類の生存基盤たる自然の修復能力を超えてしまってきているとしか思えない。それは間違いのない事実であり、現実である。

私は、そうした中で、それらの欲望の暴走を止めることができるのが、唯一、法の支配、現代立憲民主主義であると確信している。
近代以降、法の支配、立憲民主主義の下で、市場経済は発展した。
しかし、1990年以降、グローバル化、アメリカ化の下で、経済至上主義が猛威を振るい、本来は、人間の欲望、経済至上主義をコントロールすべき法の支配、現代立憲民主主義が、経済至上主義に飲み込まれてしまっているのが現代社会である。
そうした中で、近代以降、自然から乖離した人類は、経済至上主義によって、人類の生存基盤たる自然をも破壊尽くそうとしている。

法の支配、現代立憲民主主義の確立のみが、唯一、経済至上主義によって引き起こされている世界中の紛争や格差社会の中で失われている命、科学主義によって引き起こされている自然破壊の中で失われている命を救うことができると私は確信している。

私自身が、来月公判を迎える広島高裁における国家賠償請求訴訟も、我が国日本における現代立憲民主主義の存在を問うているのである。

私は、我が国日本の法の支配、現代立憲民主主義の確立こそが、沖縄問題をはじめとする国内の諸問題、そして世界における上記にあげた様々な問題を解決する唯一の術であると確信している。

自然を自ら破壊することのない他の生物は自然淘汰の中で、自然を守り、結果として生物を守ってきたが、近代以降、自然を破壊することが可能となった人類は、自らが生存できないほどの自然破壊をすることによって、その破壊された自然によって自らが淘汰されるのを待っている。そこには、もはや人類の生存は有り得ない。

人類は、科学主義の中で、科学という枠組みによって、種としてのヒトが、本来持っていた自然との共通感覚、無限の想像力を失ってしまった。

   平成30年9月28日   文責   世界のたま