18歳、19歳の君へ贈る言葉

新たな有権者として、今回、衆議院議員選挙に臨む君たちに伝えておきたいことがあります。
これからは君たちの時代です。君たち自身が切り開いてゆくしかないのです。

昨年度の参議院議員選挙でもお話ししましたが、私は国会議員とは所詮、主権者たる国民のための道具にすぎず、それを選ぶ単なる手段が、選挙だと思っています。
しかし、今回行われた国会の解散、そしてその後の与野党含めた国会議員の離合集散を目の当たりにして思うことは、現実的には、多くの国会議員が選挙を、国会議員を、政党を、それ自体を目的にしてしまっている現実です。

日本国憲法の第一文、前文の冒頭に書かれてあることは、国政は正当に選ばれた代表者によって行われると謳ってあります。道具として間違っているのです。

道具に正当性がない以上、その道具を使って、如何に立派な家を建てたとしても何の意味もないのです。

私は、国家とは家のようなものだと思う。その基礎をなしているのが民主制であり、その上に立つ家が、憲法で保障されている私たちの自由だと思う。

民主制とは何だろうと考えた時、私は、説明責任と、人の話を聞く耳を持つことに尽きると思う。
たとえば、一般の会社などの経済社会においては、上司や、お金を持っている人が発言権を持ち、ある意味で彼らは説明責任や人の話を聞く必要はない。確かに問題はあるかもしれないが、我が国が資本主義社会である以上、それが現実であり、避けて通ることはできない。

しかし、政治の世界においては、それは許されないのです。

政治とは資本主義社会の中で取り残された社会的弱者も含めたすべての人の幸福追求権、自己実現を図るものなのだから。

私は、そのために必要なものが説明責任と、人の話に耳を傾けることだと思う。説明責任を不要とする資本主義社会の中で、取り残されてしまったいわゆる貧困層や、体の不自由な人たちなどの話に耳を傾け、しっかりとした説明をする。それが民主制であり、それなくして、すべての国民の幸福追求権は保障しえない。換言すれば、国家の存在意義もない。

今回の安倍首相、与党による臨時国会での冒頭解散は、説明責任なき解散で、民主制、すなわち民主主義の否定であり、主権者たる国民の代表者たる国会議員の一切の発言も許さない点において、国民主権の否定でもあった。

それらを考えた時、今回の選挙で問われているのは、決して、政権選択ではなく、誰が主権者であるかが問われているのだと、私は思う。

安倍さんの自民党や、小池さんの希望の党に期待している人には申し訳ないが、自民党の「自由民主」、希望の党の「希望」という言葉は、かつてナチスドイツが、数多くのユダヤ人の自由をはく奪したアウシュビッツ収容所の入り口に掲げられていた「働けば自由になる」という言葉で彼らを欺いた自由のない世界への入り口にすぎない。

もはや、政党は国会議員の集金、集票マシーンでしかなく、多くの国会議員も又、自己の言葉を持たないロボット議員か、何の理念も持たない自己保身議員でしかない。

君たちの夢を叶えるのは決して政党や、組織ではありません。
君たち自身の心の中にある一票です。それを信じて一票を投じて下さい。
最後に君たちに贈る言葉、「国民よ、主権者たれ」

     平成29年10月10日  文責 玉田憲勲(世界のたま)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です