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往生際の悪い絶滅の時を迎えた人類~世界は何でできているのか

最初に述べておこう。
今、世界中で猛威を振るっているコロナウイルスに関して言えば、私見ではあるが、相当数の死者をもってしてもその克服は困難を極めるであろう。

そうした中で、全国の知事が、9月入学制度への改革を提言した。東京都知事は、導入は、混乱を生ずるであろうが、現在の社会自体すでに混乱を極めており、変革は、そういう時ではないとできないと語っていたが、それは一部正解にすぎない。

今、私たちが変えなければならないのは、9月入学制度を含めた日本社会全体、すなわち、経済至上主義社会、常識(民主主義)が壊れてしまった社会そのものである。

具体的に、最も急を要する重要課題は、現在の視野狭窄した全てのおバカな与野党国会議員の入れ替え、財源移譲含めた地方分権の確立であるが、その前に、現在の国民の窮状の応急的な処置としての、社会変革までの期間、ベーシックインカムなどの個々人の最低限の生活保障制度(社会人、学生含めた様々な生活パターンに対応した)の導入が必要である。

変革とは、時間との闘いである。
おバカな国会議員を排除した上で、私たちが行わなければならないのは、自然との共生が可能な社会(原発廃止、自然エネルギー産業の育成、おバカな辺野古基地造成の撤回含めた防衛政策の抜本的見直しなど根本からの見直し等々)への変革である。

私たち人類が、現在の生活を何一つ変えないならば、私たち人類に残された時間はない。

現在のコロナウイルス感染は確かに大きな問題であるが、それ以上に、そのあとに待ち受けているものが私たち人類を確実に絶滅へと導くであろう。

現在生じているコロナ感染に関して言えば、私たち人類の免疫反応によって生じるコロナウイルスに対する抗体がどこまで有効であるかにかかっていると思われるが、ロシアを含めた各国で行われている治癒者の血清から抽出された抗体による治療効果は充分ではない。そのことは抗体を利用するワクチンの効果があまり期待できないことを示唆している。
現在、遺伝子解析がなされているが、先日明らかになった日本の女子学生の感染、治癒、退院後の再発、家族内感染は、体内におけるコロナウイルスの残存期間の長さ、言い換えれば、抗体が反応しにくい証左である。

最終的には、現在我が国を含めた各国でワクチンの治験が行われており、その結果が待たれるところである。

それらを鑑みた時、世界中で起きている都市封鎖、移動制限、通勤,登校の自粛を含めたあらゆる日常生活の自粛は、感染爆発を防ぐための多少の時間稼ぎのために必要であると思うが、いずれは、どこかのタイミングで、すべての人類一人一人が、覚悟を決めるしかないであろう。
世界中で、自分たちの身の回りで多数の人々が、感染し、発症し、亡くなってゆく中でも淡々と日常生活を送ってゆく覚悟、それしか選択肢はないであろう。

その昔、人類は、嵐や、凶暴な肉食獣などの自然から身を守るため、岩穴の奥に息をひそめ怯えることしかできなかった。
人類は火をおこし、道具を作り出し、手工業から産業革命を経て大量生産を開始し、市場経済の発生と相まって資本主義経済を作り上げた。科学を発展させ核兵器、細菌兵器、毒ガスなども作り出した。

人間は、自然への恐れや神からの束縛から解き放たれ、人類は進化したと自負してきた。
しかしどうであろう、今、科学の進歩を自負していた人類が、最終的に行っていることは、自宅に閉じこもっておくこと、マスクをすること、2メートルの間隔をあけること、それは、岩穴に閉じこもって、身を丸め災いが通り過ぎるのをただひたすら待つしかなかった太古の人類と何一つ変わってはいない。

都市封鎖によって新たな感染者が減少する中で、多くの先進国で段階的な都市封鎖の解除が行われている。運が良ければ、人類は何とか死者と、生存者とのバランスを取りながら、言い換えれば、世界中で依然として多くの死者が出続ける中、死の恐怖と戦いながら数年間はやり過ごすことは可能であろう。
しかし、その試みは失敗に終わるであろう。
何故ならば、自然の摂理に反しているからである。
私たちの社会は、今現在も何一つ変わってはいない。いや、変えようとしないのだ。
今、私たち人類が変えようとしていることは、人々が、如何にソーシャルディスタンスを保ちながら社会生活をしてゆくのか、マスク着用の是非等々、ウイルス感染予防対策だけである。そして経済社会を中心とした早急な経済活動の再開の試みだけである。
しかし、今回のウイルス感染によるパンデミックの真の原因は、コロナウイルスにあるのではなく、私たち先進国を中心とした人類の社会生活自体にある。

今回のパンデミックに伴う多くの人類の死は、地球規模での自然が自然を守るための自然によるより戻しに他ならない。偶然ではなく必然である。(たとえコロナウイルスが中国による生物学的兵器であったとしても)言い換えれば、何度も言うが、自然による私たちヒトという種の自然淘汰に他ならない。

今、地球規模で起きていることは、所詮、自然の摂理に過ぎない。
私たち現代人は、近代以降、ヒトという種からの視点でしか物事を見ることができなくなっている。多くの自然災害という自然からの警告を無視し、私たち人類は、自然破壊を推し進め、更なる地球温暖化を生じさせ、より戻しが不可能なレベルにまで地球環境を追いやってしまった。
自然は、私たちヒトという種も含めた多種多様な生物の生き残りのための地球規模での自然のより戻しを行っているに過ぎない。そして、今回、世界規模での地球温暖化の元凶である経済活動を停止させ、航空機や船舶による人の移動を止めることに成功させた。

私たち人類が、ヒトという種を超えた自然との共通感覚の下での真の想像力を持ちえない限り、何一つ、私たちの社会生活を変えない限り、自然は、私たち人類に新たな試練を与えるであろう。自然環境の破壊が進むだけ、それに比例したより戻しが行われるであろう。
恐竜が絶滅したようにヒトという種が絶滅するまで、そのスピードを加速し続けるであろう。

それは、人類が、ただ単に自宅にこもっただけでは、生存しきれない核戦争かもしれない、格差拡大の中で必然的に起こるテロや自然災害に伴う原子力発電所破壊なのかもしれない、オゾン層破壊に伴う放射能汚染であるかもしれない。
そして、いつの時代も最終的には、生き残りをかけた同一種内での共食いは不可避であり、おそらくヒトという同一種内においてもその共食い、戦争を含めた資源、物資の奪い合いは、熾烈を極めるであろう。

現在世界で多数の人々が亡くなられているが、その多くは、間違いなく経済至上主義社会の中での社会的弱者である。それは、かつて国策の下、満州や、樺太に移住し、切り捨てられた多くの人たちと重なり合う。

三密予防のためのニュースの中で、チューリップ園や藤園に人が集まるという、たったそれだけの理由で見ごろを迎え咲き誇る色とりどりの数万本ものチューリップの花や藤の花が、花の部分だけハサミで次々と切り落とされる映像が流れていた。
チューリップや藤も人間と同じ生き物である。人間の思いのままに他の生物を扱う人間の思い上がり以外の何者ではない。こうした行動を人間がとり続ける限りは、自然によるヒトの淘汰は終わることはないであろう。

世界を見てみれば、感染拡大の中での中国の海洋進出、そうした中でのベトナムとの衝突、アメリカの空母内感染が起きている中でのペルシャ湾でのイランとの対峙、北朝鮮国内での感染拡大が疑われる中でのロケットの発射実験、イラン国内での感染拡大の中でのロケット発射実験、そしてイエメン内線でのサウジアラビア、UAEとイランとの駆け引きが相も変わらず行われている。
中国でのコロナウイルス感染源に関しては、アメリカ、オーストラリア、ドイツが中国に対してとの究明、研究所における情報公開を求めている。

EU諸国の財政支援に対するEU債発行に関して、南北対立も生じている。財政と金融の分離の問題が根底にある。ドイツは共通通貨ユーロ導入の際、他国が赤字に陥っても決して救済はしないという非救済条項を入れることで反対する国民を納得させ導入したが、ギリシャ危機などにおいて結局それも反故にされてしまった経緯がある。
そもそもEU内における共通通貨問題には、その根底に経済的強者にとって有利な仕組みが存在している。
経済力に比べて共通通貨であるユーロが安いドイツにとって周辺国への輸出が有利である。ある意味でこれまでのドイツの莫大な利益は、周辺国による恩恵の賜物に他ならない。
そうした中で、経済格差が拡大したEU内において、経済的弱者であるイタリアやギリシャなどはその返済のいらないEU債の発行を求めているのに対して、ドイツやオランダはあくまでその返済を求めている。

日本においても日銀と政府の関係において同様の問題がある。日銀の黒田総裁は、金融緩和の追加を示唆する中で、長期国債の買い入れ枠80兆円を無制限とし、企業債権も大幅に購入するとしている。
私には、財政ファイナンスであると同時に市場経済の崩壊以外の何者でもないとしか思えない。
一方で私は、それが一概に悪いことではないとも思っている。
ただし、政府、日銀が何を目的にするか、その目的が問題である。ただ単に、現在の社会経済を維持するために行うのであれば、コロナ感染と同様に、格差社会を拡大させ、ひいては人類の滅亡への道を加速度的に突き進むだけであろう。そうではなく自然との調和を目的とする新たな社会へのための財政政策、金融政策とするのであれば、財政ファイナンス、日銀による市場経済のコントロールは、最大の転換としての武器になるであろう。
一方で、すべての国民への痛みは莫大なものとなる。
しかし、国民は耐えなければならない。耐えることは、決して悲しみではない。真の想像力を高めれば、喜びでもある。

世界中で多くの感染者、死者が出続けており、その終焉は見えない。
そうした中で、経済活動は停止し、人の行き来も停止している。その先に待ち受けているのは、現在すでに世界中で生じている大量のリストラによる失業者の増加、アルバイトや仕送りの減少による就学の継続困難な学生の増加などである。

何度も言うが、今回の感染、それによる死亡自体がそうであるが、その多くは社会的弱者である。弱肉強食社会における食物連鎖でいう底辺部分の崩壊である。
2000年以降、我が国においても総中流社会が崩壊し、派遣型社会へ突入していたが、その底辺の崩壊によって、残っていた中流部分も崩れ去り、結果として頂点の生物も生き残ることが困難な時代、社会全体の崩壊を見ることになるのは時間の問題である。

最初の哲学者とされるダレス、世界が何でできているかという問いに対して、彼は、水であるとしたが、現代の有識者は否定するであろう。しかし、私は、現代の有識者たちよりも彼の方が正しいと考えている。
観念論、唯物論、物心二元論、唯脳論、何れも人間を中心とした概念もしくは、人間から見た概念に過ぎない。
私が、ダレスに近いとするのは、進化論においても私たち人類は、海から進化してきている。他の天体観測においてもかつてそこに水が存在していたのかが、そこにかつて生物がいたことの証左として考えられている。

現在日本中で行われているコロナ感染対策としてのズテイホームという掛け声の中で、多くの人々がネットを見る機会が増えている。それを念頭において、一部の人たち、元ライフドア社長堀江氏、元大阪府知事橋本氏、現在の大阪府知事吉村氏などの発言が、毎日のように取り上げられている。彼ら自身もこの時とばかりと自らを際立たせ、目立とうとしている。
ただそれらを毎日のように見せつけられ感じることは、ただ彼らの稚拙さだけであり、ただ鬱陶になるだけである。

確かに彼らは、現代社会において、ある意味で、お勉強はできるかもしれない。
しかし、彼らには、真の意味での想像力がない。脳育的には、前頭葉を発達させているだけだ。
彼らは、人間という限られた世界でしか物事を見ることができない視野狭窄した人間でしかない。
しかし、それは、決して彼ら自身だけではない。
与野党含めた多くの政治家たち、多くの官僚たち、そして私たち多くの国民もそうなのだと思う。

今、私たちが、自然(コロナ)から学ばなければならないのは、与野党間、各政党内における権力闘争ではなく、誰が日本の政治的リーダーにふさわしいかではなく、世界における覇権争いでもない。

私たち日本国民一人一人が、世界中の一人一人が対峙しなければならない課題は、自然と人類の関係の再構築である。
そういった意味で、ネット上で、目立ちたがろうとする彼らより、水を世界の根源と考えたダレスの方が、真の想像力あふれた人間である。

世界中の医療崩壊した医療現場では、数多くの命の選択がなされている。
限られたエクモ、人工呼吸器、集中治療室を巡って誰が優先的に使用されるべきかが問われている。そうした中で、世界中で、それらの医療器具の増産が行われてもいる。
日本においては、それらを避けるべく、PCR検査を絞って行うという選択の中で現在に至っている。
しかし、私は思うのです。
誰も彼も救おうとすることは、結局不自然なことではないのか。
自然の摂理に反しているのではないか。

私は、種の保存のための命の選択は、自然の摂理であると思う。
先日の海外のニュースの中で、コロナウイルス感染で入院治療、人工呼吸器を装着された高齢の女性が、自分より若い人に使ってほしいと人工呼吸器を外されて亡くなられたことが報道されていた。

一方で、自然との共通感覚、真の想像力を失った現代社会においては、肥大化した前頭葉と脳内コントロールを失い暴走した脳幹部によって過剰な自己防衛反応も生じている。
それらが、アウシュビッツ、人体実験、大量破壊兵器の開発使用、ウイグル、チベット、ロヒンギャなどの少数民族への迫害等々を引き起こした。

コロナウイルス感染による都市封鎖、医療崩壊の中で、私たちは命の選択を迫られ、そして、そのウイルスに対するヒトの抗体が充分に機能しないことが判明してきている現在において、私たちは覚悟をしなければない。
可能な限り感染爆発を起こさない中で、ある程度の感染は覚悟の上で、社会生活を再開し、学校も再開すべきである。
しかし、私たちは、今までの社会を作り直すことだけでは、種の絶滅から逃れることはできない。
新たな社会、それは、前回のブログでも述べたが、自然との共存を図れる社会でなければならない。原子力発電などの廃止、温暖化を推し進める産業から、温暖化を防止する省エネ産業構造への産業構造の変革、自給自足国家の構築(食糧の自給率の引き上げ)それらは、国民に大きな負担を強いるであろう。しかし、それを乗り切るための一時的であれ、資産課税含めた税制度の改革、ベーシックインカムの導入による低所得者支援などの早急な改革をしなければならない。
そのためには、国会の改革、地方分権の確立が不可欠であり、真の民主主義制度が大前提である。
自然(コロナ)によって今までの経済社会が停止した今でなければ、それらをなすことは困難であり、この機を逃せば困難ではなく不可能となる。何度も言うが、私たちに残された時間は少ない。

個の中に全体がある。

一人一人の個人の中に人類の歴史がある。地球の歴史がある。
個が変われば、国家が変わる、そして国家が変われば、世界を変えることが可能となる。
一人一人が、世界を変え、後世代の未来を救い、自然を救う先駆けとならねばならない。
私たち現代のヒトが変わらなければ、ヒトは絶滅危惧種になるだけである。

    2020年4月29日   文責  玉田憲勲

私は、人類に警告する!

私たち人類は、間違いなく間もなく自然淘汰されるであろう。
私は、今回のコロナウイルス感染によるパンデミックを言っているのではない。

 人類が、コロナ感染の拡大を、目の当たりにしても、現在のおバカな私たちの社会生活の在り方を見直さない限り
おバカな私たちが、政治、経済、科学に対する考え方を見直さない限り
おバカな私たち人間が、現在世界中で生じているコロナ感染が、一時的なものであり、もうじき元通りの生活に戻ることができると、楽観視し、元通りの生活に戻ることを目標としてさらなる経済至上主義を推し進めようとする愚か者である限り

おバカな主権者たる私たちが、従前たる自分たちの支持者のためにだけ目を向けることしかしない現在の与野党の国会議員を選出し続ける限り
おバカな主権者たる私たちが、おバカな国会議員に私的利益を求め続ける限り
企業が自分たちの利益のみを追い求め、社会的存在であることを忘れている限り
高所得者が、自分たちのさらなる資産の蓄積のみを考える限り
高齢者が、自分たちの年金や医療のことのみを考え、将来の国民の年金や医療のことを考えない限り
私たち有権者が、公文書改ざんや虚偽答弁を平気でする安倍や、麻生を選び続ける限り
私たち有権者が、おバカな河合夫婦のような国会議員を選び続ける限り
私たちが、公文書改ざんを強いられ、常識が壊れてしまったと自死した近畿財務局職員を目の当たりにしても、現在の常識が壊れた社会で平気で生活し続ける限り

私たち人類は、間違いなく、数年後に、現在遭遇しているコロナ感染以上の災いに見舞われるであろう。これは、自然の摂理であり、所詮、人類の力が及ぶものではない。

 現在、世界中で起きているトイレットペーパー、マスクの買い占め行動は、何度も述べているが、個の中に全体を見るという価値観に逆行した行為である。
自然から見れば、種としてのヒトの共食いに他ならない。
言い換えれば、自然界におけるヒトによるヒトという種の自然淘汰に過ぎない。

 400万人の難民を抱えるトルコ国境の開放、それに対するギリシャによる国境閉鎖、そしてEUもその受け入れには消極的である。それどころかコロナ感染の拡大の中、EU各国は、更なる国境閉鎖に動いている。
中東各国にもコロナ感染が広がっている中で、シリアのイドリブを巡り、トルコとロシアの反目はエスカレートしている。両国は和平交渉をしたにもかかわらず、アサド政権を支持するロシアは、空爆を続け、そうした中で難民は増え続けている。衛生状態の悪い難民キャンプの中で、コロナによる集団感染は広がり、多くの行き場をなくした難民の人々が、死の淵に追いやられるのは時間の問題である。
これらは、EU,トルコ、ロシア含めた全世界の国々による、人間による人間の虐殺行為以外の何者ではない。積極的な故意はなくとも、そこに未必の故意は明らかに存在している。
その未必の故意自体が、私は、自然界における他者を食い殺してでも自分が生き残るための自己防衛本能、同一種内での自然淘汰であり、ヒトも含めたすべての生物が有する脳幹部に起因する基本的な本能的行動であると考える。
それらの本能的行動を抑制し、コントロールするのが生物の中でヒトがもっとも発達させた前頭葉である。しかし、現代の稚拙な脳育の中で、脳幹部と、前頭葉の交通は遮断されている。いわゆる頭でっかちな科学的思考と、本能とが連携不全の中で暴走している。

 今、自然(コロナ)は、私たち人類を試そうとしている。

 自然が、私たち人類に、生き残るチャンスを与えようとしているにも関わらず、人類は争いを続けている。世界中で、マスクを奪い合い、トイレットペーパーを買いあさっている。便乗値上げや、ネット売買で値を吊り上げ、暴利をむさぼろうとしている。株価や為替、経済ばかりを注視し続けている。
 株価や為替の乱高下の報道に、オリンピックの延期、中止の報道に、おバカな多くの政財界の指導者、おバカなアスリート達は一喜一憂している。目の前にある自己の財産、名誉、地位の保全に目を奪われ、相も変わらないおバカな自己保身的な話し合い、愚行を繰り返している。
 今、国家やあらゆる分野の指導者に求められている本来の役割とは、一時しのぎの対策を考えることではない。
 コロナを含めた自然と戦うことではない。自然と共存し、自然との結びつきを強めることこそが彼らの重要な役割である。
 言い換えれば、私たち人類にとって近代社会がもたらした法の支配(民主主義社会)、科学主義、経済社会をもう一度見直し、作り直すことしか、私たち人類が生き残る道はない。

 現実に目を向けてみればいい
世界に目を向ければ、今回のコロナウイルスの感染源であり国民の言論統制、人権侵害、特定の民族の抹殺を図っている中国では党大会で習主席の無期限の在任を可能にした。同様に国民の言論統制を図っているロシアでも任期が切れるプーチン大統領の再出馬を可能にする憲法改正案を議決した。コロナウイルス感染によって国民投票は延期されてしまっているが、その改正は時間の問題である。
 国内に目を向ければ、おバカな安倍さんの国会での発言をきっかけに当時のおバカな財務省佐川理財局長指示のもと公文書が改ざんされた森友学園問題で新たな展開がみられた。当時、本庁からの指示に抵抗する中で、その改ざんをさせられ、罪を一身にかぶせられ、精神的に追い詰められた後、「常識が壊れてしまった」と自死された近畿財務局職員の奥さんが国、佐川を相手どって民事訴訟を起こした。そして同時に自死した夫の手記も公開した。
 それらを前にしても安倍や麻生は、再調査の必要はないと無視しており、佐川は刑事訴追の恐れもなくなった現在も何の説明責任を果たしてはいない。
 そして前回のブログでも取り上げた検察庁法に反した定年延長問題の渦中の安部のお友達である黒川東京高等検検事長こそが、公文書偽造に関して佐川を不起訴にした張本人に他ならない。

 それらの事実は、世界においても、国内においても、明らかに一部の権力者による統治が進んでいる事実である。言い換えれば、悪法でも法とする法治主義への後退であり、人権の尊重を使命とする法の支配の崩壊に他ならない。

今、私たちが緊急に取り組まなければならないことは、経済至上主義に基づいた現代社会によって失われしまった真の意味での法の支配の復活に他ならない。
現在、世界中で民主主義国家を名乗っている多くの先進国、アメリカ、ロシア、中国、日本、そしてEU諸国、すべの国家でいえることは、その程度の差こそあれ、法治国家ではあるが真の意味での法の支配に基づいた国家ではない。

 法治国家においては、たとえ悪法であったとしても法である。経済至上主義国家、及び、一党独裁国家、一宗教独裁国家においては、資産家、独裁政党、独裁宗教が自ら決めた有利な選挙制度の下で、議会において多数派を握り、どんな悪法でも法として議決可能である。
 どんな悪法によって、国民の生命、身体、自由が脅かされようが、それでも法治国家なのだ。
 私たちは、第二次世界大戦後、そして冷戦終結後、近代的な法治国家から、真の意味での法治国家、すなわち、法の支配社会へ変わるチャンスを得たが、グローバル化経済至上主義によって、再び単なる法治国家社会への逆走を始めてしまっている。
 
 そうした中で、おバカな私たちが最初にしなければならないことは、個の中に全体を見ることである。すなわち、上記に挙げた世界各国で、そしてわが国で生じている法の支配の崩壊、民主主義制度の崩壊に対して、世界を変えてゆくためには、我が国日本を、変えなければならない。そしてそのためには、おバカなあなた方自身を変えなければならない。
 第一に何をしないといけないのか。日本国憲法の前文第一行目に謳ってあるように私たち日本国民は正当に選挙された代表者を通じて行動しなければならない。そのためには、現在問題となっている河合夫婦をはじめとする正当な選挙によって選ばれていない与野党の国会議員をリセットしなければならない。我が国の民主主義、法の支配を取り戻さなければならない。

 経済社会においては、人間の物質的欲望を喚起し続けることをその経済原理とする拡大再生産社会、経済至上主義を推し進め続けている。
 しかし、今、私たち人類は、物質の拡大再生産ではなく、私たち人類が破壊し、失った自然の拡大再生産をしなければならない。

やまゆり園事件を起こした被告に対し、先日死刑判決が横浜地裁で下された。
被告は、自分自身が責任能力のあることを訴え、その上で、経済至上主義社会においては生産性のない重度障碍者は、生きる価値がないと主張し続けた。
そうした中で死刑判決が下された。

私は、二つの問題点があると考える。

一つは、経済至上主義社会の中で生活している私たちは、彼の考えを否定できるのか。
戦後の焼け野原から経済アニマルと世界から揶揄されながらも朝から晩まで国民は働き続け、1960年代には、GDPはアメリカに次ぐ世界第二位となり、国民は終身雇用制度の中で、企業は、福利厚生制度を充実させ、就職さえすれば、その能力は別に、生涯、労働者家族は保証される仕組みの中で、高度成長期を迎えた。
そうした中で、オイルショックを契機に高度成長期は終焉を迎え、グローバル化が進んだ2000年以降、正規社員から派遣社員の時代、世界の潮流へと巻き込まれていった。

企業は生き残りをかけ、企業から見て、余った人材、能力がないとされた労働者のリストラを進め、従わない者を窓際に追いやる露骨ないじめも盛んに報道された。一方で増え続ける派遣社員も、企業の論理で都合よく派遣切りされ、2008年のリーマンショック時には年越し派遣村も誕生した。
現代の経済至上主義社会の中で、私たちは、企業にとって、役所にとって役に立つかどうかで分別され、それによって、解雇されようが、就職ができなくても、そうした社会を受け入れている。生産性を重視する社会の中で、重度の障害を持った人は、明らかに、差別されることも、私たちは、認めている。
そうした結果として、現実的に障碍者雇用制度に関して、官公庁、大企業含めた障碍者雇用の水増し問題も生じている。

そしてもう一つは、死刑制度、遺伝子診断の問題である。
死刑制度は、先進国ではアメリカの一部の州を除いて廃止されている。
今回の横浜地裁による被告への死刑判決は、被告自身が他者を殺めたということに対する罰という意味合いもあるが、被告自身がこれ以上生きる価値のない人間であるという判断でもある。
このことは、被告自身が語っている人間による他者に対する生きる価値がないとする判断と、同じこととも言える。明らかな自己矛盾である。
同じように、科学という観点からの問題でもあるが、遺伝子診断も同様な問題がある。
出生前診断によって出産の是非を夫婦が考えること、出生後の遺伝子診断で、将来の病気がわかってしまうこと。
 それらは明らかに人間が他者の生きる価値を評価することに他ならない。
 ある哲学者が、哲学において唯一の問題は、自分が生きるに値する人間かを考えることであると語っていた。
 裏返すと、その人が生きるに値するかどうか、その命の選択は、その人自身でしかできないということである。
そうした中で、やまゆり園事件の被告は、数多くの人の生きる価値を判断し、横浜地裁は、被告の生きる価値を判断した。
一方で、近畿財務局職員は、その是非は別として、自分自身で、公文書改ざんの罪を背負ったまま生き続けることの是非を自分自身で判断された。

先日のコロナ感染に関する国内ニュースの中で、下記のようにいくつかのことが述べられていた。
国民が元の生活に戻さないのではないか、そうなれば、消費の回復が難しい。
国民は、元の株式相場、ダウ平均に戻ることをわかりながら、底が見えない不安の中にいる。
東日本大震災はインフラの破壊であったし、リーマンショックは金融システムの破壊であったが、今回の災害は、ウイルスが原因であり、社会基盤に何ら問題がない。

 しかし、私は思うのです。
意図的に不必要な欲望を喚起し続けることの善悪を省みることもしなかったリーマンショック、自然破壊、地球温暖化を招いている人類、そして自然すらも処理しえない原発事故を省みることもなかった東日本大震災、そして今回のパンデミック感染、自然が私たち人類に与えた最大の試練を前にしても、人類は、その社会的基盤に何の問題もないという理解しかしていない。

 科学主義においては、自然と闘う科学ではなく、自然と共存するための科学を推し進めなければならない。
ウイルスに関して言えば、抗ウイルス剤などの開発ではなく、ウイルスを拡散させ、地球温暖化を促進させる無意味な人類の移動を止めるなど、自然が人類に与えた想像力、理性を高めることが重要である。
 先日のフランスのニュースの中で、フランスのマクロン大統領は、国民に向かって、私たちすべての国民が考えるべきことは、科学を信じることと述べていたが、滑稽である。
 私たちが信じないといけないのは、自然である。科学とは、所詮、自然の中の人類が、生活するために作り上げた手段に過ぎない。

 今回のパンデミック感染の中、中国はコロナ騒ぎの中での感染者の発見のためと称したネットを通じた位置情報による個人の移動の把握、行政による管理を急速に進めている。
 世界各国で感染拡大防止のため行われている自宅待機の中、医療、教育のネット化も進んでいる。
 しかし、私は、ネット社会への変化は逆方向であると断言する。ある程度の手段としてのネット化は有意義であるが、そうしたネット社会への依存が結果的に今回のパンデミック感染を引き起こしている。
    
教育とは脳育であり、論理的思考を司る前頭葉と、生きる力を生み出す脳幹部とをしっかり結びつけることが教育の本質である。
 そのために必要なこと、それは、五感を鍛え、育てることが不可欠であり、その時期も幼少時期から学童期に決定付けられる。五感を鍛えるためには、人間同士の触れ合い、人間と自然の触れ合いは不可欠である。
 先生、友達、そして彼らを取り巻く学校、地域社会、通学道中を含めた自然との接触のない世界での脳育はあり得ない。ネット教育は、前頭葉のみを鍛えた頭でっかちの脳幹部のコントロールが効かなくなった切れやすく、視野の狭い、自己を防衛することのみに長けた現代社会に多く見られる自己中心人間の拡大再生産をするだけである。
 これらは自然からの解離、今回のパンデミック感染のような人類自らが自然の中で生きることのできない滅亡への道の選択に他ならない。
何の意味も持たない、単なる手段である科学への過信に過ぎない
パンデミック感染を目の当たりにしても、私たち人類は歴史を繰り返そうとしている。
  
 もう一度、私は人類に警告しよう。

 私たち人類は、政治、経済、科学すべての分野で考え直さない限り、間違いなく自然淘汰されるであろう。
 そしてその猶予はもうない。

      2020年3月30日  文責   玉田 憲勲
  

契約民主主義について(落合様)

メールがうまくいかないので投稿にて連絡させていただきます。
連絡いただきありがとうございます。
御返事遅くなって申し訳ございません。
落合さん難しすぎます(笑)
契約民主主義含めて読ませていただきました。正直申して、私のようなアナログ人間にとってわかりにくい点も多々あり、落合さんが言おうとしていることがどこまで理解できているのかわかりませんが、多少思うところを述べさせていただきます。

1)私自身、常々、形骸化した政党政治、現在の代表民主制に関して、その改善を模索し、訴えている点において、落合さんの述べる審議による意見投票は、一つの民主主義制度として興味深く思います。例えがずれているかもしれませんが、日本の裁判員制度のようなものだとも思えました(専門職の裁判官と任意に選ばれた裁判員による判決)。アメリカの陪審員制度のような専門家を入れない点、理解力テストを経ている点で、異なっているのだと思います。専門家に決議権はないのだと思いますが、裁判員制度と違った面白い点だといえます。
2)憲法の位置づけについては、審議による意見投票によって、改憲が可能であると思われますが、これはイギリスの不文憲法に近く、審議、提案による変更の集積、現在の判例の集積に近いものと思われます。
憲法が、国民に近くなるという点で、面白いですが、基本的人権保障、特に精神的自由権への侵害のリスクが危惧されます。
3)私自身、ブロックチェーンという言葉は知っていましたが、読ませていただいても今だもってはっきりしませんが、私が常日頃から考えている個の中に全体がある、そんなもののような気がして親近感は持ちます。原理的には非常に興味深く感じます。
法律の解釈変更、その流れ、それらに対する言い逃れ、現在の政権の持つ発言に対する責任回避、それらを含めた民主主義におけるもっとも重要な説明責任において有意義な仕組みかもしれませんね。
4)落合さんのこの提案は、民主主義制度に関するものではありますが、憲法や、世界を視野に入れるとするならば、私は、これらの仕組みのベースには自然との接点が不可欠だと思います。
人間そのものが、自然の一部に過ぎないという立ち位置をベースに入れない限り、如何なる仕組みももろく、壊れやすく、可塑性がありません。
5)正直なところ、落合さんの民主主義システムが、実現可能なのかわかりません。私自身理解できていない点が多々あると思いますし、ただ言えることは、今、世界にある民主主義制度は、破綻しており、自然との兼ね合いにおいても限界に達しています。残された時間もそんなにないと思っております。
最終的には、個々人の中にある公的な部分、それらをいかに引き出すのかにかかっていると思います。しかし、現在のお粗末な脳育の中で、形成される理性は真の意味での理性には程遠く、真の想像力を人々は失ってきています。
そうした中で、落合さん契約民主主義の提案は十分に検討に値すると考えます。

       2020年2月27日  文責  玉田憲勲

新型コロナウイルス(自然)が、私たち人類に伝えようとしていること

新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている。そうした中で、中国での生産が急速に減少し、サプライチェーン化したグローバル化世界経済は急速に減速し、ニューヨーク市場はもとより、東京市場でも連日ダウは大幅に下がっている。

また世界各国で、中国、韓国、日本など主要感染国への渡航制限が拡大し、結果的に、観光客は減少し、航空産業をはじめとする輸送産業、ホテル、旅館などの宿泊産業等々、様々な業種への経済的影響を及ぼしてきている。

私は、これまでもグローバル化した経済至上社会が人類にもたらすリスクを述べてきたが、今回の新型コロナウイルスに関しても述べておきたいと思う。

1) 自然と人間について
私たちが、まず認識しないといけないことは、今回のコロナウイルスの問題は、私たち人類と、自然との関係の問題であるということです。すなわち、私たち人類が対峙しているのは、コロナウイルスではなく、自然であるということです。
その上で、さらに私たちが忘れてはならないことは、私たち人類も、自然の一部に過ぎないということです。言い換えれば、所詮、ウイルスも人類も自然界においてどちらも優劣のないそれぞれが対等な一生物に過ぎないということです。

そうした中で、今回の新型コロナウイルスについて、私が思うことをいくつか述べておきたいと思う。

私たちはこれまでも新たなウイルスが出れば、新型という名をつけては検査、診断、治療を進めてきたが、これから先もこれらの新型ウイルスは、加速度的に発生すること、一方で、その診断、治療には限界があることを知らなければならない。
何故なら、私たち人類が、生物の進化の過程の中で最終的な生産物であるとするならば、生物が本来持つ多様性、可塑性に関して言えば、進化に半比例して極限にまで小さく弱くなってしまった生物に他ならないからである。
私たち人類が、その多様性、可塑性において、ウイルスに勝つことは原理的に不可能である。

それでは、そうした中で、私たち人類はどうしてゆくべきなのか。
上記に述べたように、多様性、可塑性において勝ち目のない人類が、取るべき手段は一つしかない。
それは共生である。共生以外、私たちがとるべき術はない。

普段の日常診療の中で、私が感じるのも、ウイルスに関して言えば、その種を残そうとするその生命力であり、その多様性、可塑性である。

インフルエンザウイルスに関して言えば、年々、そのウイルスの型は別にして、その診断、治療は困難になってきている。それは決して抗ウイルス剤が効きにくくなったり、ウイルスの引き起こす症状がひどくなっていることを言っているのではない。その逆である。ウイルスがその姿をわかりにくくしているのである。それは様々な生物が擬態して自らの命を守ろうとするのと同じことである。
年々ウイルスは、その発症様式を変え、最近は、高熱を出さない、それどころか平熱状態で発症、経過することも多くなってきている。又、咽頭痛、咳、痰などの呼吸器症状が主体であったが、下痢,嘔吐の消化器症状を呈するものも多くなってきており、季節性もなくなり夏場でも発症するケースも出てきている。
これらは全て、ウイルス自らが、その生命維持を一日でも多く図り、増殖する時間稼ぎをしているとしか私には思えない。

そうした点で、今回の新型コロナウイルスを考えてみた時、その発症様式もほとんど一般的な感冒症状と区別がつかない。そして人体での潜伏機関、罹病機関も今までの一般的ウイルスと違って長くなっていると思う。私見であるが、おそらく1週間から4週間はあるのではないかと思う。
そのため治療者からいうと、診断つけにくく、尚且つ治癒証明しにくい。例えば、今までの例でいえば、小学生が38度の発熱をして受診したケースであれば、発熱日から5日間、最終発熱日から2日間の条件をクリアすれば登校可としていたが、これらが不可能になったことを意味している。
風疹、はしか、おたふくかぜなど、インフル含めた今までのウイルス性疾患は5日間をその罹病期間、発熱などの症状継続期間と考えていたが、それらの公式が当てはまらくなってしまったことを意味している。
そして発症された中国や日本の一部の患者さんにおいてはいったん改善、陰性化した人が、再燃化されるケースも出てきていることを考えた時、その診断、治療、感染拡大予防は、困難を極めるであろう。
重篤化例が、高齢者を中心とした多疾患合併例、免疫力低下例を中心としていることは、幼小児などにとっては朗報ともいえるが、このこと一つとっても、ウイルスがその生命維持を図ろうとした結果であると思う。蓋し、宿主が死んだらウイルスにとっても死を意味するからである。

それらのことを考えた時、ウイルスは、彼らが持つ多様性、可塑性を最大限発揮してその生命維持を図ろうとしてきている。

そしてウイルスがその多様性、可塑性を最大限発揮させるきっかけを作っているのは、私たち人類、特に先進諸国の人間に他ならない。

今回の新型コロナウイルスに関しても中国の一地域を主たる発生源として瞬く間に世界中に広がっている。本来は地域の風土病として片付けられていたかも知れない。(一部の報道に細菌兵器との関連性を言っているものがあるが、所詮、核兵器と同様に殺傷という点のみを科学的に追求した科学の持つ善悪などの価値を伴わない人間の愚かさの点において何らその評価に変わりはない。)

グローバル化した社会の中で、多くの中国の人々が世界中を駆け回っている。また世界中の人々も中国を訪れている。その移動手段も今回の豪華客船などがよい例であるが、数千人単位での限られた閉鎖空間での移動である。
ウイルスからいえば、自らが移動したわけではない。人間によって、特に先進国の資産をある程度持った人々によって移動させられたわけである。

私たち人間は、他の生物に関しては、生態系バランスが崩れると称して、外来種が紛れ込むことを拒み、入ってきた外来種に関しては徹底的なせん滅を図る。しかし、入ってくる外来種の多くは、コロナウイルスと同様に人間が運んだものである。その責任は私たち人間にある。

私たち人間は、他の生物に対しては、自然淘汰を推し進めるが、自分たち自身については、人間中心主義の中で、自然淘汰にあらがおうとしている。私たち人間も所詮は自然界における一生物に過ぎないということを忘れてしまっている。所詮稚拙な道具でしかない科学という幻の中で錯覚している。

オリンピックに関しても私見ではあるが、中止すべきであると思う。
世界各国への感染の拡大を招く恐れがあるということ。確かに、オリンピックにかけた予算、それに伴う、海外、国内旅行客による経済効果の損失は、大きいとは思う。それらによって恩恵を受ける人々、国家の税収入のことを考えれば強行したい気持ちも理解はできる。

しかし中途半端な気持ちで事を進めること以上の愚かさはない。
以前から申し上げているが、今回の東京オリンピックはロゴに始まり、招致での接待贈収賄疑惑、会場設置のおける設計、開催地含めた様々な問題、疑惑の塊である。平和の祭典ではなく、お金、利権をめぐる悪の祭典以外の何者ではない。

本来、オリンピックとは、前回の東京オリンピックがそうであったように、その経済効果を狙うのであれば、発展途上国などが経済発展の起爆剤として用いるべきものであり、もはや経済発展した先進国が開催すべきものではないと思う。
又、オリンピックが真の平和の祭典であるならば、実際の紛争地域で開催すべきものであろう。難民に対する経済効果、戦後の復興、世界中の人々が紛争国を知るまたとない機会となるはずである。
現在のリビアが象徴的であるが、経済至上主義の下での武器輸出合戦に先進国がこぞって参加する稚拙なことを止めそうした地域でのオリンピック開催をもくろむべきである。

2) コロナウイルス感染と、法の支配、民主主義の破綻~高等検察庁検事長の定年延長事件
今回の新型コロナウイルスの各国の対応もさまざまである。
我が国に関して言えば、日本国政府、現政権にとって、今何が最も重要であるかといえば、オリンピック開催による経済効果がすべてである。それまで何とかごまかしてでもやり過ごそうとする作戦である。オリンピック開催に向けて世界中の国から渡航制限が出ることを恐れている。
そのためには、感染者が多数出てもらっては困るのである。感染者が増えること、厳密にいえば、世界に公表しなければならなくなる検査陽性の感染者が増えることを極力抑えようとしている。現政権にとって実際の感染者数などある意味どうでもよいのである。

先日のニュースの中でも取り上げられていたが、何故、日本政府は検査に消極的であるのか、意図的にそうしているとしか思えないと解説されていたが、まさしくその理由は、そこにあると私は考えている。
桜の会、森友加計学園などで明らかになっている現政権の公文書廃棄、改ざん、その延長線上で考えた時、検査して多数の陽性者が出た場合、改ざん、虚偽答弁するしかない。だから、はなから検査自体をしないことに方針を決めていると思える。検査しない限り公文書破棄、虚偽答弁のような問題が生じることもないのだから

私は、検査しないこと自体は、必要なケースに限って迅速にしさえすればよいとは思う。片っ端から検査したところで、国民の不安を仰ぎ、パニックになりかねないとも思う。上記に挙げた長期にわたる潜伏期、罹病期間を考えた時、検査自体にあまり意味がなくなっている。意味があるとすれば、ワクチンであろう。又、医療費負担の問題もある。自己負担、国民の税負担それらを合わせて考えた時、ありとあらゆるケースで検査することに意味はあるとは思えない。
しかし、その前に、そうした理由を国民にはっきりと述べなければならないと思う。そうした上で、我が国の方針はこうであると伝えるべきである。

民主主義にとって最も重要なことは何度も述べてきたが説明責任である。説明責任のない社会において、たとえその少数意見が正しかったとしても多数になりうる可能性はない。ありうるとすれば、軍事力、経済力を用いた上での少数者が多数者を封じ込めるしかないが、それはもはや民主主義とは遠い世界である。

森友加計学園問題での公文書偽造、破棄、国会の虚偽答弁、究極の説明責任の放棄した国会の冒頭解散、そして桜の会においても同じことを繰り返しているが、今回のコロナウイルスに関しての対応、問題そのものをなかったことにする手法は、説明責任の放棄を、通り越した完全なる民主主義の否定に他ならない。

森友学園問題で逮捕された籠池氏が保釈されたが、大阪地裁判決は、補助金詐欺のみで、大元の安倍総理夫妻が関与した国有地払い下げに関しては一切触れていない。逮捕当時、国策捜査であると述べられていたが、今まさに、我が国において法の支配が完全に破壊されようとしている。

現在、国会やマスコミで取り上げられている高等検察庁検事長の定年延長事件である。今月初めに定年を迎えた高検検事長を半年間閣議で延長を決定し、現在の検事総長が退官するであろう今年8月まで無理やり延長させ、お友達検事を検事総長にしようとしているというのである。

私がこの問題で最も危惧しているのは、森友学園で公文書改ざん指示、国会で虚偽答弁したおバカな佐川理財局長を国税庁長官に抜擢した人事、公職選挙法違反したおバカな河合杏里を公認し、その片棒を担ぎ200キロ以上のスピード違反もものともしないその夫であるおバカな河合克行を法務大臣に抜擢するなどのお友達を重要閣僚にするなどの人事も問題であるが、それ以上の問題は、我が国における法の支配の崩壊である。

法の支配の崩壊という点で、二点問題となると思う。

まず一つが、高検検事長の定年延長の法的根拠の問題である。今回の定年延長には法的根拠がない。検事は検察庁法によって検事総長は65歳、それ以外の検事は63歳とその定年が定められている。したがって今までその例外はなかった。
しかし、今回の定年延長は、閣議によって国家公務員法を解釈適用することを根拠になされた。これまでの政府見解では、検察に国家公務員法の適用はないものとしてきていた。
当たり前である。検察庁法に定年が盛り込まれているということは、国家公務員法とは別であるということを最初から想定している。私は、検察庁法はいわば、国家公務員法の特別法であると思う。法律の世界では、特別法は一般法に勝つという原則があるが、この原則を、一時の政権が、お友達のために破っているのである。その破り方も彼らが言う解釈変更すらも文書化されておらず口頭での解釈変更である。開いた口が塞がらない、子供の世界でも通用しないおバカなことをしている。
このようなことが許されるなら、単なる口頭での解釈変更で済むのであれば、無数にある他の特別法の法的効力が解釈によって否定されてしまうことを意味している。

もう一つが、この事案が検察庁という権力からの独立が最も要請されるべき準司法機関であるということです。検察は司法に準じて司法の一部である捜査、起訴をする機関である。如何なる事件も起訴されない限り、法的にはその事件は存在しなかったことにできる。
特に、行政府に対しては、総理大臣含めた国務大臣、そして立法府に対しては国会議員の起訴、拘留もできる力を持っている。逆に言えば、起訴されない限り、法的にはどんな悪事を働こうが、許されるということを意味している。

今回の人事は、検察のトップに絡んでおり、全国の検察官の人事に影響を及ぼし、例えば、おバカな河合夫婦の事件を担当する広島地検などへの影響も必至である。おバカな安倍さんの下で無数に行われている忖度人事、それがいよいよ司法にも及んできたことを意味している。出世をもくろむおバカな検察官は、おバカな安倍さんを忖度して起訴すべき人を不起訴にし、政権にとって邪魔な人間は、何らかの理由で起訴し、拘留できる時代に突入したことを意味している。

今回のおバカな政権によるコロナ感染対応と同様、説明責任を果たさないのではなく、説明すべき事案をなかったことにしようとしている。

今回の新型コロナウイルス感染問題は、私たち人類に多くのことを伝えようとしている。
前回のブログでも述べたことだが、自然は、人類が自然との調和の中で、生活することを要請している。

年々増え続け、世界中で巻き起こる自然災害は、多くの人の命、経済的損失を招いてきている。
そうした中で、今回のウイルス感染によっても多くの人がその命を奪われ、健康を侵害され、交通が遮断され、産業界を含め、日常生活、あらゆる経済活動の停止を余儀なくされている。
しかし、このことはあくまで、私たち人間から見た景色でしかない。

自然から見た時の景色は全く違うものである。
自然の一部でしかない私たち人間が、犯している経済至上主義の中での多くの自然破壊、他の生物に対する多様性の破壊、そうした中での、今回の新型コロナウイルス感染に伴う交通遮断、渡航制限に伴う人の行き来の停止、経済活動の停止は、自然から見れば、正当防衛的行為に他ならない。

人間は、これらの事象を前にしても、自らを省みることもなく、どこまでも幻の豊かさを追い求め続け、経済至上主義の暴走を許し、加速しようとしている。

近代以降、人間が作り上げた一人一人の人間のための手段としての法の支配、科学主義、それらを経済至上主義が破壊してしまっている。

私たち人類は気が付かなければならない。
自然からの警鐘、それは、自然の一部である人類を救うための警鐘に他ならないことを

   2020年2月27日  文責  玉田 憲勲

 
  

国家による犯罪が容認された社会~国家は何のために存在しているのか  

1)アメリカのトランプ大統領によるイラン軍指揮官殺害事件、中東和平案提示

先日、トランプ大統領が、イラク国内でイラン軍指揮官をドローンを使って爆殺したことを認めた。
この事件は、現代社会において、テロと国際法上の戦争行為との区別がつかなくなっていることを意味している。すなわち国家による戦争を、テロに対する正当な行為としている。
9.11後、ブッシュ大統領は、テロとの戦いを宣言した。それ以降のビンラディン殺害のための、アフガン侵攻、結果的に存在しなかった大量破壊兵器を理由としたイラン侵攻、そしてその後のイスラム国との戦い、そうした一連の流れの中で国家による戦争行為とテロ行為との区別がなくなっている。言い換えれば、国家とテロ組織との区別がつかなくなってしまっている。
先日カタールのアルジャジーラのニュースの中だったと思うが、ガザ地区に住む住民が、イスラエル軍は、24時間いつでもガザ地区を空爆できると語っている。
イスラエルは、パレスチナを国家として認めず、ヨルダン川西岸地区で入植地を拡大させる一方で、ガザ地区に対して国家としての軍事力を行使し続けている。
そうした中、トランプ大統領は、大統領選を控え、弾劾裁判中であることもあり、イスラエルとパレスチナに対して新たな中東和平提案を行った。しかしその内容は、パレスチナ国家を認める代わりにヨルダン川西岸地区の入植地をイスラエル領にすること、エルサレムを不分割のイスラエルの首都とすることなどとしており、パレスチナのアッバス議長は、エルサレムは売り物ではないと和平案を一蹴している。

2)日産事件でのゴーン被告のレバノンへの不法入国事件

私には、この事件は明らかに不可解としか思えない。
実際、どこまでの国家間、個人間の取引があったかは別にして、何らかの暗黙の了解が、日本、フランス、ゴーン被告の間であったとしか思えない。
かつて後に韓国大統領となった金大中氏が都内ホテルから韓国に拉致された事件があったが、あの事件も日本政府は、その事実を知っていた上で見逃し、容認していたといわれている。
今回の事件も元グリーンベレーが関与していたなどとされているが、私は、日本政府は黙認していたのではないかと思う。
黙認の最大の理由は、日本の司法、司法行政に対する国際的な批判の回避だと思う。未決拘留中での家族、弁護士含めた面会の制限、弁護士の立ち会わない取り調べ、自白の強要、未決拘留中の代用監獄制度などの不当性、又、今回の事件とは直接関係はないが、先進国の中では、一部のアメリカの州以外で廃止されている死刑制度などに対する国際的な批判である。
そして、もう一つは、そもそも今回のゴーン被告が日産から排除された日産とルノーとの間の主導権争い、それに関しては、私は間違いなく、日産という企業と、日本政府との連携があったと思う。
世界中で明らかになってきている資本主義社会の行き詰まり、限られたパイの奪い合いの中での権力闘争の一環に過ぎないと思っている。
そうした国際的な批判、裏事情などを総合的に勘案した上での判断ではなかったかと思う。裁判が継続された場合、長期化することは避けられず、森友加計学園問題、桜の会問題で明らかであるように、国内においてすら説明責任能力の欠如した現政権が国際社会の批判の中で、上記に挙げたゴーン被告や日本の司法制度に纏わる様々な問題に対して、世界が見守る裁判上でまともな反論ができるわけがない。
私には、アメリカのケツについてゆくしか能力のない現政権にとってゴーン被告を逃亡犯にした上で、すべての責任をゴーン被告に押し付けるのが得策と判断したとしか思えない。

3)郵政事業3社の社長の交代問題

高齢者に対する詐欺まがいの契約の押し付け、不法収益の責任を取って引責辞任した郵政事業3社の社長は、すべて民間出身者であったが、新たに任命された社長はすべて官僚出身である。
郵政民営化は、かつての小泉内閣が自民党をぶっ潰すと豪語し、全国の選挙区に刺客を送り込んだ劇場型選挙によって獲得した議席をもってなされたが、それは、その前のレーガン大統領、サッチャー首相、中曽根首相らが唱えた新自由主義路線が布石になっていたと思う。
金融の自由化などを柱とする政府の民間への関与の排除、規制緩和の流れの中で行われたものであったが、結果的に急速な正規雇用から派遣型雇用変更の流れを招き、非正規雇用の増大する中での派遣切り、それは、経済至上主義社会の確立を意味していたし、格差社会への急速な転換でもあったと思う。
そうした結果としての今回の官僚出身社長への交代劇は、結局、新自由主義路線、経済至上主義社会の行き詰まり以外の何者ではないし、高齢者含めた社会的弱者に対する国家的詐欺、弱肉強食社会に他ならない。

国家の存在意義が、国民の幸福追求のための手段であるとするならば、現在の日本社会、世界の流れは誤りである。

森友加計学園、海外に派遣した自衛隊の日報問題、桜の会問題などで明らかになった公文書の改ざん、隠匿、国会における虚偽答弁は、民主主義国家の否定であると同時に、もはや文字を発明し、文字によって歴史を残そうとした文明社会の否定以外の何者ではない。
近代文明の特徴である科学主義という点においても、科研によるスタップ細胞事件で論文の盗用、捏造が行われ自殺者まで出している。文書の正当性のない科学は、社会に何らの意味をもたらさない。
誰もが不信感を持つ社会、基本的な理念、信念のないうわべだけの薄っぺらい社会は、もはや国家の体をなしてはいない。

自然との関連でいえば、現在、世界中で問題となっている新型コロナウイルスが、ここまで問題となった理由は、グローバル化のために短時間で、数多くの人が世界中を行き来してウイルスを拡散させ、元来、風土病として扱われた疾患が、人間の責任によって世界的な問題を引き起こすようになったに過ぎない。裏返せば、コロナウイルスや自然に何ら責任はない。
そして最も重要な問題は、人間による環境破壊が、種の多様性を喪失させてきていることである。多くの生物は、行き場をなくしており、特に、宿主に寄生することでしか生きられないウイルスにとっては、致命的である。
今回問題となっているコロナウイルスも本来、人間以外の動物に寄生していたウイルスである。人間によって引き起こされている生物の多様性の喪失の中で、結果的に、彼らは、生き残るために仕方なく人間への寄生を、開始しているに過ぎない。言い換えれば、ウイルスという自然によるヒトという種の自然淘汰に他ならない。人間による自然破壊が加速度を増す中で、ウイルスという自然もその変異のスピードを上げるのも必然である。
多くの方から怒られることを覚悟して言えば、そうした中での感染治療対策、ワクチンなどの感染予防対策は、根本的には無意味なことであり、何らの解決をもたらすものではない。
何故ならば、ウイルスによるヒトへの侵害は、自然破壊し続ける人間を、淘汰しようとする試み、ウイルスが生き残ろうとする試みは、自然現象として正当なものであり、言い換えれば、人間が行っている感染治療、予防対策は、自然の一部である人間が、決して消すことのできない自らの影を一生懸命消そうとしている影踏みに他ならないからである。
私たちは、オーストラリアの森林火災や、東日本大震災、西日本豪雨災害と、今回のコロナウイルスを全く別なものと考えているが、自然を破壊する人間に対する自然による自然淘汰という点においては、まったく同じ現象である。

カジノ含むIRで問題となっている収賄罪、おバカな河合夫婦による公職選挙法事件、どちらも経済至上主義社会がもたらした申し子である。
特に、おバカな河合夫婦による公職選挙法事件では、公職選挙法の上限を超えた2倍の報酬の支払い、すなわち彼らが言う河合ルールに則た報酬の支払い、又、先日明らかにされた自民党本部からの1億5000万円もの選挙前の振り込み、これは他の一般の自民党議員の10倍もの選挙資金であるが、その原資の多くは、国民が負担している政党助成金、すなわち我々の税金である。
1億5000万円もの振り込みに関して、おバカな河合杏里氏は、国会内のぶら下がり記者取材に対して、受け取ったが違法ではないと語った。
私は、常々、おバカな安倍首相含めた与野党国会議員が、国会答弁の中でも、自慢げに違法ではないという言い方をする時、いつも思うのだが、そもそも彼ら国会議員が自慢げに言えるものなのかということである。
違法とは、法律に反することであり、法律とは狭義の意味では、国会で定立された法のことを指す。それは、誰が決めるのかと考えたとき、国会を構成している彼ら国会議員自らが決めたことである。間接的には国民が決めたことであるが、直接決めたのは彼ら自身なのだ。
間接的にしか関与していない国民が違法ではないと言うのならまだしも、自らが決めた国会議員が違法ではないという言い訳は通らない。彼らにとって、守って当たり前のことであり、疑われることすら許されないということが理解できていない大バカ者なのである。
そして疑われるだけではまだしも、検察に家宅捜索までされながら、おバカな河合夫婦は、関係者が迷惑でも何でもないと言っているにもかかわらず、捜査に支障が出るとして説明責任を放棄している。国会議員の最大の使命は、国民の権利、義務に関わる法律を作ることである。彼らが、違法でないという言い訳をしたいのであれば、法を作る側から、守る側に代わるべきである。すなわち、議員辞職するのが道理である。違法でないという言い訳をするおバカな彼らなどに立法能力は微塵のかけらもない。
ましてや、おバカな河合夫婦が問題となっている事件は、公職選挙法に関わる事件である。国会議員という国民の代表の正当性に関わる事件であり、違法性を超え、日本国憲法にも反している。

ロシアのプーチン大統領は、国民との直接対話の中で、強い大統領を中心とした政治が必要で、議会中心の政治手法は正しいとは思わないと述べていた。
その理由として挙げたのが、ロシアが、多民族国家であること。欧米の現在の政治の現状、すなわち、アメリカでいえば、民主党、共和党の相いれないまでになった対立、イギリスでいえば、EUをめぐる離脱賛成、反対での長期にわたる決めきれない政治空白、それらを例に挙げて述べている。

先日発表された世界終末時計は、20秒早まり、100秒になった。これは、1947年に刻まれだして最も短くなったことを意味している。
短くなった理由として、二つ挙げており、一つは、アメリカによる中距離核戦略撤廃条約からの離脱、イラン、北朝鮮の核兵器開発などによる核兵器の脅威の増大、そしてもう一つが、地球温暖化による自然破壊である。
 
近代がもたらした法の支配、市場経済、科学の発展、そのバランスは崩れ、市場経済の行き着いた先の経済至上主義が猛威を振るい、法の支配からお金による支配へ、人間にとって有益な科学の発展から核兵器、化学兵器、細菌兵器を生み出してしまっている。

そして最終的に人間の生存基盤たる自然破壊をもたらし、破壊された自然の中で、生き残った自然をも、観光資源として、売り出している。その結果として世界中から観光客が押し寄せ、その交通手段としての航空機により、地球温暖化に拍車をかけ、観光地として、数少ない自然も観光客の土足によって踏みにじられてゆく。
私たちは、自然破壊することによって、何とか生き残っている貴重な大自然を、経済至上主義社会の中で、その経済的価値を高めさせる中で、結果的には破壊するという自然破壊の悪循環を繰り返している。

国家の意思の決定方法に関して考えた時、先のプーチンの話は、ある意味で当たっていると思える。
確かに、ユーゴスラビア内戦、リビア内戦、アフガニスタン内戦、イエメン内線、シリア内戦等々、歴史を振り返った時、その中身がどうであれ、非民主的であったとしても、独裁者であったとしても、恐怖政治の中でも、国家としてある意味でまとまっていたかもしれない。

我が国においても、与野党が拮抗する中での、決めれない政治からの脱却の中で、現在の安倍政権が生まれたとも思える。おバカな安倍さんがよく言う決めれる政治である。
国際社会においても、最終的に発言力が大きいのは、軍事力のある軍事大国、経済力のある経済大国である。

力のあるものによる政治、しかし、それでは単なる歴史の繰り返しに過ぎない。

歴史を振り返ってみればいい。
現在の世界の覇権国家であるアメリカ自身も、元をたどればイギリスとの独立戦争を経て独立国家となったに過ぎない。その後、ヨーロッパ諸国、アメリカが、世界中に植民地を作り、我が国日本もそれに続いて、韓国、満州国を植民地化していった。そうした後に、第二次世界大戦後、植民地となっていた東南アジア諸国、アフリカ諸国は、独立を果たし、ソ連も冷戦の終結とともに崩壊し、多くの独立国家が作られた。

現在の世界は、いくつかの強国が、世界中の人々を支配していた時代を経てたどり着いた世界である。今や、多数の独立国家が世界を構成している。歴史を繰り返さないようにするため国際連合や、EUなどを作り、共存可能な社会を図ってきた。
しかし、経済至上主義の中で、空気や水などの自然や、石油などの天然資源も限界があり、残されたパイを巡って、人類にとって最終段階に入ってきている。

現状の世界は、歴史の経緯を忘れてしまい、各国、各民族、各宗派が、それぞれの主義主張を繰り返し、自国、自民族、自宗教中心主義へと向かっている。
自国、自民族、自宗教中心主義へ向かっているその要因は、何度も話しているが、経済至上主義による格差社会の中で、富ある者が、権力持つ者が、パイが小さくなっている中で、その富の拡大、維持を図ろうとしていることに尽きる。

私たちは、歴史を繰り返してはならない。
もし強い大統領が、強い国家が、すべての権力を持って、政治を行えば、うまくいっているのであれば、現在のような多くの独立国家が形成されることはなかったであろう。
今の私たちに必要なものは、全世界を束ねる覇権国家ではない。
今の私たちに必要なものは、世界を構成する一つ一つの国家自らが、全世界のために存在する国家となることである。
全体を個にするのではなく、個の中に全体を見出さなければならない。
個の確立以外、その術はない。

我々、人類の生存にとって必要なのは、覇権国家などではなく、他国を思いやれる国家である。
他国を思いやれる国家にとって必要なのは、経済至上主義国家ではなく、自然との共存を図れる、法の支配に基づいた民主主義的な国家である。
そしてそのような国家にとって必要なものは、個の中に全体を見ることのできる、自己を犠牲にしてでも他者を思いやることのできる人間である。

国家とは何のために存在するのか。
国家とは、世界中のすべての国々を、他国を思いやることができる国家へと自国を導き、すべての国民を他者を思いやることができる国民に導くための手段、媒体に過ぎない。

しかし、その媒体なくして、世界平和、人類の生存はあり得ない。

      2020年1月30日  文責  玉田 憲勲

現代社会は、瞳を閉じてしまっている~見えない、見ようとしない社会

アフガニスタンで、中村医師が銃弾に打たれて亡くなられた。
アフガニスタンといいう国は、帝国の墓場とも言われてきたように、その歴史は侵略との闘いの歴史である。古くは、ムガール帝国、大英帝国、モンゴル帝国、そして、近くでは、1978年、日米と中国との接近の中でなされた旧ソ連によるアフガニスタン侵攻、そして2001年9.11事件をきっかけとしてなされたアメリカによるアフガニスタン侵攻、そしてNATOとアフガニスタンとの闘いは、今現在も続いている。
そのような地で、中村医師は亡くなられた。

瞳は、心の窓といわれている。
私は、現代社会は、瞳が曇って見えない、心を閉ざした社会であると思う。瞳が曇り、心を閉ざしている原因は、私たち自身に刷り込まれた経済至上主義である。

私たち人間は、自然破壊をし続ける中で、数多くの種を絶滅させ、生物は、その多様性を失っている。そして私たち人間自身も、お互いを傷つけあい、そうした中で、ヒトという種内での多様性、又、文化の多様性をも失ってきている。

そして、その原因は、私たち自身にある。私たちは、心を閉ざし、瞳を曇らせ、その原因が見えていないか、たとえ見えていたとしても見えないふりをしている。

過去を、振り返ってみれば、第二次世界大戦前の、日本やドイツの国民の多くはある意味で情報が限られていたかもしれないし、それが原因で判断を誤ったのかもしれない。
しかし、情報があれば、より正しい判断、物事を見ることができるのかと考えたとき、私はそうではないと思う。現代の情報化時代、すべてが見えていると私たちは、錯覚をしている。
あの時代とは違うと、過信している。
私たち自身の瞳が濁り、心が閉ざされた中での情報は何の意味をなさない。

国内を見れば、先の桜を見る会問題、森友、加計学園問題、国外を見れば、ウイグル、チベット、ロヒンギャでの迫害、北朝鮮、香港、シリアなどをめぐる問題、様々な問題が存在している。それらの情報を、日本中で、多くの国民が、そして世界中でも多くの人々が、共有しており、その瞳にそれらが映っているはずであるが、心が閉ざされている限り何の意味もない。
如何に多くの情報があったとしても、その情報の氾濫の中で、自分自身が、自分の回り、最終的には自分自身しか見えなくなってしまっている現代社会において、人類は同じ過ちを必ず繰り返す。第二次世界大戦と同じ結果を招くだけである。

そうした中で、最も重要な問題は、人類が自然を破壊し地球環境を再生不能状態にしていることである。私たちは、将来の国民に対して、心を閉ざしてしまっている。

その主たる原因たる経済至上主義の中で、わが国日本は、経済発展し、一億総中流社会を作ってきたが、国内、国外でのパイは小さくなり多くの国民は、中流から脱落してその格差は広がってきている。他者を蹴落とし、生き残ろうとする社会、しかし、どこまで行っても、そこにいるのは、所詮、企業の駒でしかない存在、記号化された人間でしかない。

このことは、わが国に限ったことではない、イギリス総選挙が明らかにした問題、保守党が勢力を伸ばし過半数を獲得、一方で労働党が大幅に議席数を減らした。年明け早々にもEUからの独立問題が現実化してゆくが、北アイルランド問題、スコットランド独立党の躍進など、新たな問題を抱えている。この問題の特徴は、国内と、国外に対する一国中心主義に共通する問題である。すなわち国内的には自立を阻止し、国際的には自立を勝ち取ろうとする二面性である。
この二面性はトランプ大統領の一国中心主義以降、世界中で顕著になってきている問題であり、イギリスでも顕著になってきただけのことだ。中国での香港、ウイグル、チベットに対する弾圧、自立の阻止と他国に対する経済進出、アフリカ、アジア地域での自立に対する干渉という相対する二面性も同様な問題である。
インドでのカシミール問題、スペインでのカタルーニャ問題も同様な問題である。

経済至上主義がグローバル化する中で、一部の経済的勝者が一時的な生き残りをかけた戦いの結果、多くの国民は意図的に分断化され、迫害、弾圧されてしまっている。しかし、最終的にはっきりしていることは、結果として何も、そして誰も残らないということだ。私たちは間違えている。
私たちを待ち受けているもの、それは、勝者もいない世界である。

勝者もいない世界、言い換えれば、それは、私たち人類のいない世界である。
コップ25が閉幕したが世界がまとまることはなかった。
フィンランド、チェコは、原子力をクリーンなエネルギーに含める決議案に入らなかった。

この年末年始も世界中で多くの人々が海外旅行を計画しており、わが国においても過去最高の72万以上の人々が海外旅行すると思われる。移動するための航空機含めて、それらによって温室効果ガスは増大し、多くの小さな海洋諸島国はじめとする経済的弱者の人たちにそのしわ寄せは集中する。気候アパルトヘイト問題である。

経済至上主義がグローバル化する中で、一億中流社会が崩壊し、経済的な格差社会が生じているが、このことは、気候アパルトヘイトでも同様である。我が国においても阪神淡路大震災、東日本大震災、西日本豪雨災害など一部地域の自然災害、原発災害と考えているが、世界中のすべての地域でいつ起こってもおかしくない現実的な問題である。

コップ25では、気候アパルトヘイトによって迫害されている地域、諸国と経済大国すなわち経済至上主義に洗脳された迫害者との溝は埋まらなかった。

しかし、歴史は証明するであろう。今だもって南アフリカのアパルトヘイト問題は解決していないが、それらが過ちであったように、中流社会が崩壊したように、多くの世界中の人々が、環境破壊によって、その財産、生活、命を失った時、自らのこととして気づくのであろう。しかしその時では遅いのだ。

先日の国内のニュースで、男性国家公務員の育児休暇を一か月以上取ることが議論され、法制化の方向で検討されているようなことが報道されていたが、一方で、この年末年始も休暇を取ることすらままならないコンビニはじめとする中小零細企業の多数の労働者が存在している。

桜を見る会、森友加計学園、カジノを含むIR、東京オリンピック、センター試験などすべての問題はすべて共通している。

最終的な丁寧な議論はなされず、一部の者たちだけによる一部の者たちのためになされている忖度政治に他ならない。

忖度された結果が押し通されるのであれば、如何なる知識を得たり、如何なる学問をする必要性は何一つない。
今回のセンター試験における論文試験の導入問題は、一人一人の受験者の思考を問うものとしていたが、現代社会の中で、そもそも思考能力を問う必要性は存在していない。忖度政治の中では、思考する意味はないのだから

現代社会は、原因と、結果、そしてその過程がつながっていない社会である。
経済至上主義社会の中では、貨幣含めた経済的価値がすべてであり、経済的勝者にとっては、説明責任がいらない世界になってしまっている。一方で、経済的弱者は、その発言権を奪われている。コップ25での環境問題や国連総会での核兵器廃止問題で明らかであるように

説明責任のいらない社会においては、論理的思考や、知識など何の意味もなさない。
そしてその行くつく先は、経済的弱者はもとより、経済的勝者も生き残ることのできない世界である。

私たちは決して瞳を閉じてはならない。
決して心の窓を閉ざしてはならない。

  2019年12月30日  文責  玉田憲勲

政治とは治者と被治者の同一性を図ることである~おバカな国民から脱却せよ!

先日、ローマ教皇フランシスコ法王が来日された 
訪問した被爆地、広島、長崎で、彼は、核抑止力の否定、世界平和にとって核兵器は抑止力になり得ず、それを可能とするのは対話、相互信頼のみであると述べた。
ある識者によれば、それはキューバ危機の際、当時の教皇が述べた言葉でもあった。
       
その上で、彼が強調した核兵器保有自体の否定、核兵器禁止条約の締結は、その当然の帰結である

そうした中で、11月18日千葉で開催された世界最大の経済的利益のみを追求する武器見本市、それは、ローマ法王が世界唯一の被爆国である日本に求めた世界平和の使命の否定以外の何物でもない。
歴史を振り返れば、第二次世界大戦後に起きた朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連によるアフガニスタン侵略、イランイラク戦争、湾岸戦争、カンボジア内戦、ソマリア内戦、中東戦争、イエメン内戦、シリア内戦などにおける米ソを中心とした武器供与の事実。
そして冷戦以降も、先進国は、安全保障に基づく抑止力を建前として、経済至上主義に起因する人類にとって何の意味も持たない武器輸出合戦を繰り広げている。

そうした中,この期に及んで、それらに参戦しようとする我が国日本国政府、それを許す国会、日本国民のその稚拙さ、無知さ、想像力の欠如、思考停止したそのおバカさ加減は、それこそ世界一の笑いものであり、恥以外の何物ではない。。

国内に目を向ければ、安倍総理主催の桜を見る会への地元有権者、反社会的勢力らに対する優先的招待、公金支出、そして河合杏里参議院国会議員の参議院選におけるウグイス嬢や地方議員買収疑惑、それらの直接的な金銭、利益の提供は、経済至上主義に洗脳され思考停止した無知な人間たちによる説明責任の否定、すなわち民主制の否定に他ならない。

そして、桜を見る会招待客名簿のシュレッダーによる廃棄処分(野党による国会質問と同時)は、森友加計学園問題における公文書の改ざん廃棄、海外派遣自衛隊の日報の廃棄と同様な事実である。
先日の身の丈発言で中止された英語の大学入学共通テストの民間機関導入問題に関してもその導入を決めた審議過程すら彼らは、情報開示拒否を貫いている。
これらはすべて説明責任の否定、すなわち民主制の否定であると同時に、明らかな国家的、組織的犯罪以外の何物ではない。

ここであえて述べておくが、政府による国会、国民への説明責任の否定が、何故、民主制の否定につながるかということであるが、何度も述べているように民主制とは、少数者が多数になりうる可能性である。そのために求められることは話し合い、討論であり、そしてその前提は多数者による説明責任である。説明責任の放棄されたところに民主制は存在しえず、そこにあるのは多数者による絶対的な専制政治だけである。例えば、中国のウイグル自治区におけるウイグル人に対する強制収容所での100万人以上にも及ぶ不当な逮捕、拘留、拷問、思想教育、洗脳は、ナチスによるユダヤ人大量虐殺と同様、説明責任なき専制政治、そして、その結果としての末路である。

政治問題化されているそれらの問題は予算の支出を伴うものでもある。言い換えれば、国民の税金の支出に関わる問題なのだ。そうした点で、彼らの行為は日本国憲法が保障する財政民主主義にも明らかに反している。

オーストラリアで収拾がつかなくなっている大規模森林火災、インドの大都市を覆う大気汚染、それらによる二酸化炭素を中心とする温室効果ガスの増加、結果としての地球温暖化は、イタリアベネチア、東南アジア諸国における海面上昇による浸水被害を引き起こしている。

中国で需要が高まっている飼い主が希望する同一遺伝子を持つクローン犬、ついにはサルのクローンまで人間は作り出してしまっている。ある研究者は、遺伝子操作を自然界における突然変異と同一視しているが、私は間違っていると思う。何故なら、そこに自然時間は存在していないのだから。

先日BBCニュースの中でだったと思うが、グローバル化の中、長距離を結ぶ旅客機の開発のため、長時間飛行に合わせて人間の体内リズムの調整を行うような報道がなされていた。我が国においても夜行列車が一部を除いて廃止され、徐々に自然時間は私たちの回りから消えてなくなり、作られた時間へと変わってしまっている。

今、世界では、国家、民族、宗教を超えて紛争が生じている。

アメリカがイスラエルによるヨルダン川西岸地区での入植活動を容認、又エルサレムへの大使館移転も行った。これは多数者、権力者による力による弾圧に他ならない。

イランでは政府による石油価格引き上げに対して国民は怒り、各地で集会、デモを行なっている。それに対して政府はインターネットを遮断し、死者まで出してしまっている。イラクでも反政府集会、デモが各地で起き多くの死傷者を出している。又、レバノン、ボリビア、ベネズエラなどでも反政府運動が沸き上がっている。香港においても、民主化を求めるデモ、集会が起きており、先日行われた香港区議会議員選挙において、民主派議員が三分の二にも及ぶ議席を獲得した。

これらは経済至上主義の下で生じた経済格差(1989年ベルリンの壁崩壊、2011年アラブの春もそうであったように)を原因としている。過去のブログでも述べたことであるが、現代の安全保障制度の実体は、経済的強者にとっての自らが獲得した価値に対する脅威の不存在に成り下がっている。言い換えれば、現代の安全保障制度は、経済的強者による経済的弱者への弾圧以外の何物ではない。

現在、世界中で起きている紛争は、経済格差が根底に横たわった国家や宗教、民族を超えた紛争である。そうした中で、国家を前提とした経済的強者のための集団的安全保障制度など何の意味もなさないばかりか、逆に、経済的格差に起因する国家、民族、宗教を超えた横断的な闘いを分断させる役割すら担っている。

世界中のすべての人の自己実現、自己統治を図るために必要なこと、それは政治が、治者と被治者との同一性を図るためになされること。そして人間が自然との同一性を図ること、それ以外の選択肢はあり得ない。

そして現在の混とんとした社会を引き起こしている最大の原因は、一人一人の国民に真の想像力がないからに他ならない。要するに、一人一人の国民がおバカなのだ。そして一人一人の国民をおバカにしている、その最大の要因が、おバカな政治屋、企業家、官僚、学者、研究者などの専門家にある。おバカな彼らが、国民を騙し、錯覚に陥らせているからに他ならない。現代社会の中で、私たちは幼小児時期からコマーシャルなどの情報の洪水を浴びて、欲望を喚起させられ、高等教育の中で経済至上主義的思考を叩き込まれ、拡大再生産を使命とする経済至上主義社会のみが正義であると刷り込まれる。その結果、経済至上主義から離脱すれば大変なことになるという恐怖心が国民に植え付けられ、おバカになった国民が、子供たちをおバカにする、おバカな国民の拡大再生産をし続けている。
しかし、実際はどうであろう、現在世界各地で年中実際に起こっている通信が途絶え、電気や水道などのライフラインも寸断された自然災害の中で、人々は助け合い、そして世界各地の戦場の焼け野原、瓦礫の中でも人間は頑張って生き延びてきている。
現代社会において、国家、民族、宗教それぞれのカテゴリーの中での問題解決は、最早、絶対にあり得ない。蓋し、その根源は、経済至上主義に起因した経済格差なのだから
そして科学の発達や、如何なる知識、如何なる政党などの組織をもってしても、経済格差から派生する諸問題を何一つ解決することは、決して不可能である。
唯一解決することができる術、それは、治者と被治者の同一性、人間と自然との同一性の理念であり、信念である。
最後にもう一度、言っておこう。
私たちは、おバカな国民から脱却せねばならない。
現在開かれているおバカな稚拙で、幼稚なくだらない答弁を繰り返している国会を見てもわかるであろう。
私たちは、これ以上、おバカな総理大臣や、おバカな国会議員、おバカな官僚たちを選んではならないし、許してはならない。
私たちに残された時間は少ないのだから

     2019年11月29日  文責  玉田 憲勲

君は、記号化を止めないのか

戦争、テロ、震災、難民、香港やレバノンなどでの民主化運動、ミャンマー、ウイグル、チベット、スーダン、シリア、アフガニスタン等々での記号化された人たち

先日、イギリスでトラックのコンテナの中から39人のベトナム人を中心とする移民の遺体が発見された。彼らを運んだ者たちも、そして彼らによって運ばれていた移民たち自身も貨幣によって記号化された人間に他ならない。

我が国に目を転じれば、この度の相次ぐ台風によって亡くなり、負傷し、家屋を失った人々、農作物や家畜などの生活の糧を失った多くの人々も記号化されてしまっている。

そうした中で、二人の大臣の二つの発言が問題となっている。
一つは、萩生田文科省大臣の「身の丈」発言である。それは、2020年から予定されている大学入学共通テストにおける英語の民間テストの経済格差による不平等に関する問題である。確かに経済的豊かな受験生は、試験費用のかかる民間テストの模擬試験を何度も受けられることが可能であろうし、受験地までの交通費用も経済的に恵まれない受験生にとっては不利になることが予測される。

もう一つは、河野防衛省大臣が、講演の中で行った雨男発言である。自分自身が雨男であるとした上で、今回の三つの台風による雨を引っかけたのである。

彼らは、経済格差によって苦しむ人たちや、今回の豪雨災害そのものはもちろん、それらによって被災された方々を記号化してしまっている。
そうした彼らに、現実に存在している経済的弱者や、被災者一人一人の苦しみが届くことは決してあり得ない。

貨幣とは、人々が物の交換性を高めるために、人々の生活を利するために作り出されたものである。それは、所詮単なる手段に他ならない。
現在、世界の億万長者の数に関して言えば、中国がアメリカを抜いて世界一に躍り出ており、日本はちなみにアメリカに次ぐ3番目に多い。又、我が国の企業の内部留保について言えば、500兆円に達しようとしている。
一方で、貧困層は増え続けており、人々の経済格差の拡大は、我が国において、そして世界中で進行している。

AI社会、それは人が対象を記号化し、そして自らをも記号化された社会にほかならず、それ自体が何の解決をもたらすものではない。
犯罪防止、抑止のための顔認証システムは、言論、出版、表現などの手段としての自由権を侵害し、人間にとっての核心である内心の自由をも侵害する。
そうした中で、現実的に日本国内では、名古屋での芸術祭での出展問題、又、映画祭での出品問題が生じており、海外でも香港においてデモ参加者へのマスク着用の禁止などの問題が生じている。

防災対策、自然災害予知、災害復旧廃棄物選別、各分野で最先端技術は進歩していると私たちは錯覚しているが、それらは、あくまでも人間が生存できる自然環境、地球環境を前提としている。その前提となる人間にとって検証困難なカオスな自然環境、地球環境に関しては、目に蓋をしたまま決して見ようとはしない。
それはまるで液状化現象が起きている土地の上に、液状化する現実には目をつむったままで、科学技術を駆使して一生懸命家を築こうとしているに等しい。

時は金なりという言葉が端的に物語っているが、現代社会における時間は、作られた時間である。効率よく利益を上げ、早く開発したものが高利益を上げる一方で、時間を買われたものたちは低賃金で、残業を強いられる。そしてそこで言う時間とは、所詮すべて記号化された時間に過ぎない。増え続ける派遣社員も記号化された人間に過ぎない
そうした中でも記号化し得ない自然時間は決して変わることなく、更なる記号化を推し進める人間社会を横目に見ながら、時を刻み続けている

AIによってもカオスなもの、カオスな現象への対応は困難であり、AIはどこまでいっても所詮、単なる手段にすぎない

大自然、人間を取り巻く環境はもとより人間含めた全ての生物もカオスな存在である。言語含めた文化、民族、宗教それらカオスなものに関わる問題を現代社会の経済至上主義、AI化という記号化の下で、解決することは不可能である。

私たちは何をすべきなのか
最も必要なことは、一人一人の人間、一個一個の生物、一つ一つの現象を自己投影し、自己のものとすることであり、それは一人一人の真の理性化である。

それらの前提は、一人一人の人間、一個一個の生物が、一つ一つの現象が記号化されないことであり、他者を記号化せず、自らも記号化されることのない生き方をすることである。

アメリカを中心とする国際社会は、今回のイスラム国指導者バグダディの殺害によってイスラム国の弱体化が進み、テロ抑止につながると合理的解釈している。

しかし、テロとは何なのか。 
個人、団体による自らの主義主張を通すための暴力的破壊行為であるとされるが、テロとは、所詮、カオスな行為である。民族、宗教、経済格差、国家体制などの違いなどをその要因として生じるカオスな行為である。

21世紀に入ってブッシュ大統領はテロとの戦いと称してアフガニスタン侵攻、イラク戦争に突入した。

今年に入ってからも世界中でいくつもの大きな収拾のつかない山火事が発生し、世界中でいくつのも洪水が発生している。我が国においても、今回の台風被害を考えればわかるが、ハザードマップの限界、ダムを含めた防災システムの限界を明らかにしている。
地震予知が不可能であるとしたように、アメリカの研究機関もパリ協定の基準が守られたとしても異常気象による被害人口は当初の予想を超えるとしているが、私は超えるというレベルのものではないと考えている。

人間は、すべてのものを、すべての事象を記号化してきたし、現在もその記号化の波は止まることをしらない。

カオスな世界において、記号化することに何の意味もない。
カオスな世界を前にして、記号化は無力である。

アメリカ、ロシア、中国、EU、日本など、そのうちのどの国が政治的、経済的、軍事的に超大国になろうと、記号化された社会であり続ける限り、現在、将来の世界中で生じるカオスな事象に対する答えを出すことは不可能である。

我が国においても、自民党が絶対多数を取ろうが、野党が多数を取ろうが、記号化された社会を変えない限り、カオスな事象に対する答えを出すことはあり得ない。

記号化された社会の末路は明確である。
カオスな事象に、間違いなく記号化された社会は、いとも簡単に飲み込まれてしまうであろう。

最後に、もう一度尋ねてみよう。
君は、記号化を止めないのか。

    
     2019年10月30日  文責  世界のたま
   

一人の少女は、学校より環境を選んだ~大人たちは、環境より経済を選んだ

毎日のように日本国内、国際社会で様々な出来事が起こっているが、何一つ心に残るものはない。そこにあるのは、空虚で、稚拙な事実だけである。

そんなくだらない出来事が連日報道される中、想像力を失った専門家と称する人々が、そして自分たちのことしか考えることのできない経営者たちが、未来を語る能力のない政治屋、元政治屋たちが、ネット、テレビなどを通じて稚拙な議論(彼ら自身は論理的思考に基づいた議論だと確信している)を展開している。

そうした中で、一人の少女が、想像力を失った大人たちによって与えられた学校へ行くことよりもっと大切なものがあると立ち上がった。そしてその輪は、瞬く間に、160か国以上の国々に広がり、立ち上がった少女はアメリカに渡った。そして、トランプ大統領に会って話す暇があるのなら環境破壊を食い止めるための集会に参加すると、トランプ大統領に会う意味はないと面会を拒絶した。

一方、どこかのおバカな総理大臣は、尻尾を振って、足元にすり寄り、能天気に御馳走を食べ、ゴルフをしている。

一人の少女と、おバカな総理大臣を筆頭とする上記にあげた多くの政治屋や、経営者、専門家たちと何が違うのか。

私は、近代以降、人間が他の生物と違って神から与えられた理性に基づいて行動するとしてきたその理性の変質にあると考えている。人間は理性に基づき、市場経済を発展させ資本主義社会を形成し、法による統治、立憲民主主義国家を形成してきた。

それは、脳における大脳皮質、特に前頭葉の発達に起因している。人間は、怒りや、自己を守る攻撃的防御などの本来生物が持つ脳幹部から幼小児期にセロトニン神経を伸ばし、前頭葉を含む大脳皮質を発達させている。それによって、前頭葉機能である合理的思考、短期記憶、空間認識機能、そして生物本来が持つ自己防御機能である怒りなどの本能のコントロールも行ってきた。

前頭葉機能の発達によって、人間は上記にあげた市場経済に基づく豊かな生活、医学の発達による疾病から身を守ることができるようになってきた。そして現代社会においても世界中でより一層の経済的、医学的専門性を追求し続けており、幼少期から英才教育を施そうとしている。我が国における小学校での英語教育の必須化などはその最たるものであろう。
私が述べる現代社会における理性の変質とは何かということであるが、その前に、本来、理性そのものがそもそも存在しているのかという問題がある。

かつてフロイトは、人間というものは、いかに理性的に行動しているとしても所詮は性衝動の抑制に起因する無意識によってコントロールされており、確立した自我などというものは存在し得ず、理性とは幻覚にすぎないと言っているが、私もある意味で当たっていると考えている。即ち、自己防御的行動や、子孫を残そうとする性衝動などは、本来、全ての生物が持っている本能的な機能である。脳幹部機能と言ってよいであろう。それは、様々な生物、人によりその強弱はあったとしても、全ての生物において無意識的に、反射的に表れるものだと思う。

しかし、私は、それがすべてかと言うと、そうではないと考える。それを調整する能力こそが、前頭葉機能であると考えている。

現代社会において、一般的に理性と言われているものは前頭葉機能として捉えられているのではないかと思う。私は、そうした考え方が間違っていると思う。

私は本来の理性とは、脳幹部、そして脳幹部から伸びたセロトニン神経を含めた大脳皮質全体が理性であると考える。変質した現代社会の理性は、前頭葉機能に限局しており、現代人は先に述べた様に、科学的合理的思考を鍛えること、そうした思考方法に基づく経済学的、政治学的、医学的専門性の発展こそが、理性的な社会形成に役立つものだと錯覚している。

即ち、現代社会における理性においては、本能的機能との関係性が欠落している。いわゆる頭でっかちの状態に他ならない。その結果現代人における理性は、非常にもろくなっている。何故ならば、本能的機能を有する脳幹部とのつながりが弱く、一見すると科学的、合理的な思考に基づいた行動であったとしても、本能的な生きる力と結びついていないがゆえに壊れやすい。結果として、現代人は、理性に基づいた行動をしているつもりでも世界中で、戦争や、テロ行為を繰り返し、自然災害を引き起こし、多くの人の命が失われている。そして全ての人類を破滅に追いやっている。

ところで、本能的な脳幹部は、本来深く自然と結びついている。それが過去のブログでも述べているような自然との共通感覚である。生物の生存は自然を前提としており、共通感覚無しに生物は、自然の中で生き抜くことは困難である。

現代人の変質した理性は、上記に述べた様に自然と密接につながっている本能的機能と乖離してしまっており、結果として自然との共通感覚も失ってしまっている。それが、今回の一人の少女が立ち上がざる負えなかった理由だと思う。

自然を破壊し続け、多種多様な生物、人類自らの生存基盤を破壊続ける現代社会

理性的とされる現代社会の大人たちへの断末魔の叫びに他ならない。
私たち人間は気付かなければならない。
現代人が理性としているものは本来の理性ではなく、変質した理性にすぎないことを
一人の少女の叫びは、全ての人間が持っている本能の叫びであることを
本来人間が持っている真の理性の叫びであることを
それは、人間を含めた大自然の断末魔の叫びでもあることを

理性という精神活動と物質との関連については、近代哲学の父と呼ばれたデカルトの有名な「我思うゆえに我あり」という言葉で代表される近代以降、物心二元論的考え方が主流になっている。
すなわち自然におびえ、全てを神に委ねていた人間は、自然から人間を切り離し、世界は何でできているのかという命題に対して、精神中心の観念論、物質中心の唯物論を捨て去った。
その後も様々な考え方が出ており、その中の一つに唯脳論という考え方もある。精神活動を脳の機能としてとらえる考え方であり、心臓と血流機能、肺と呼吸機能などと同様に精神活動を脳の機能として捉えるものだと思うが、私にはこの考え方には違和感を覚える。血流や、呼吸などは所詮、物理的な評価であり、それと精神活動は同じ尺度で評価することは困難であり、その思考は所詮、合理的思考に他ならず、合理的思考という制約の中での発想にすぎない。科学的ではあるが、物質的、有限的思考にすぎない。
結局、私は、精神活動と物質とは、先にも述べた様に、人間の本能的な部分である脳幹部と自然との共通感覚でつながった言わば、観念論と唯物論が合体したものではないかと思えてならない。本来の理性に近いものであろう。

今回の一人の少女の訴え、行動は、本来の人間の理性的思考、行動に合致している。少女の思考、行動は、現代社会に組み込まれている大人たちではなかなか理解できない。
何故ならば、少女の理性が本来の理性であるのに対して、大人たちの理性は、変質した理性だからである。
 少女の理性は、先にも述べた様に生きる力の源である脳幹部と強固にながっており、自然との共通感覚によって、自然ともしっかりつながっている。
一方、大人たちの理性は、脳幹部とのつながりが弱く、自然とのつながりが弱い。結果として、頭でっかちの思考になりやすい。核抑止論、経済至上主義の下での軍需産業の繁栄、アメリカ、ロシアによるサウジアラビア、トルコの国々へのミサイル輸出合戦、それらに加えて政治的な駆け引きがシリア、イエメン、ソマリア、アフガン等々で行われている。確かに、個々の問題に対して、経済的、政治的な合理的な思考からは、政治屋や専門家、経営者の考え方が一見、理性的であるとされるかもしれないが、しかし、それはどこまで行っても変質した理性にすぎない。大人たちの稚拙な理性の下では、自己中心的な自分が生き残ろうとする脳幹部と、合理的思考の問題点を抑止する機能が分離しているために働かず、結果的に多くの民間人の犠牲を出し、自然との共通感覚も欠如しているために際限のない自然破壊をし続け、自然による淘汰としての自然災害による多くの死者、被害者を出し続けている。

少女にとっては、大人たちが与える大人たちが理性とするものを教育する学校より、自分たちの生命のよりどころである自然との共通感覚が重要なのであるが、大人たちは、変質した理性を教育する学校を優先しようとする。大人たちの変質した理性を変えない限り、どこまで行っても平行線である。

最近日本国内で起きた問題を例に上げて考えてみよう。
新たに就任した小泉環境大臣が、福島を訪れ、30年先にも生きている自分が責任をもって政治に当たることができる政治家であるというようなことを述べたことに対して、橋本元府知事が、国民はポエムを聞きたいのではない現実に何をするのかが聞きたいのだと発言した。又、松井大阪市長は、大阪湾に福島でたまってきている放射能除去水を流すために引き受けてもよいなどと発言している。
 確かに橋本氏が述べているように、小泉氏の発言は何の意味もない稚拙な発言であるが、元々現在の自民党政権いや、日本政治、世界政治の中で、何の現実的な発言などできるわけがない。一方で、橋本氏や、松井氏が推し進めているカジノを含めたIR構想などは、海外からの多数の観光客を想定しており、移動手段として最も地球温暖化を推し進める飛行機の利用をさらに推し進める政策に他ならない。又、汚水水処理にしても大阪湾は、彼らのものではない世界にもつながっているのである。自然環境レベル以下であるとも述べているが、所詮、科学的、合理的思考の域を出ていない稚拙な考え方である。根元的な問題は、原発を、核をどうするかなのである。彼等も所詮、合理的思考という変質した理性に基づいたポエムにすぎない。
 又、ドイツの議会での党首発言が報道されていたが、その中でメルケル首相のエネルギー政策発言に対して、ある党首が、ドイツが環境保護オリンピックで優勝するかもしれないが後に続く国はいないと述べていたが、現在の世界中の理性的とされる人類の現実を如実に表していると思う。

 私は、現在の我が国、世界の政治的、経済的、ほか全ての分野でのリーダーたちでは今起こっている人類、多種多様な生物の危機を救うことは不可能であると思っている。
 私が今までなしてきた裁判を通じての様々な訴え、又、ブログや、国会議員選挙を通じての様々な訴え、おそらく多くの人々は、専門性のない、政治経験もない稚拙な、現実を見ていない絵空事と思われていると思う。

 しかし、私は思うのです。皆様に問いたいのです。
今、日本、世界で起きていること、将来起きるであろうこと、そしてそれらに対して日本で、世界で政治屋、グローバル企業経営者をはじめとする経営者、各専門家が行っていること、それらが真の意味で理性的なことだと思っているのですか。

 最後にもう一度言っておこう。
私たち人間は気付かなければならない。
現代人が理性としているものは本来の理性ではなく、変質した理性にすぎないことを
一人の少女の叫びは、全ての人間が持っている本能の叫びであることを
本来人間が持っている真の理性の叫びであることを
それは、人間を含めた大自然の断末魔の叫びでもあることを

    2019年9月23日   文責   世界のたま

多様性~私たち人類が生き残るための唯一の術である

私は、先月行われた参議院議員選挙期間中、そしてそれ以降も私たち人類にとって、今、そしてこの先、何が最も必要なことなのかを考えていた。

そうした中で、今、私が最も必要であると思うのは「多様性」である。「多様性」こそが、私たち人類が生き残るための唯一の術である。今までにもブログの中で、自然との共通感覚を大切にした自然との共存、他者との共存について述べてきたが、その中で最も重要な要素が「多様性」なのである。

現在、人類が生きている基盤、そして、生き続けるための基盤である大自然を考えてみてもわかることであるが、その多様性を失ったとき、人類含めたすべての生物は、存在し続けることは不可能である。何故なら、全ての生物は、あらゆる環境変化に応じて多様化する中で、その命を繋いできたのだから
多様化の停止、それは人類にとって死を意味している。蓋し、ヒトという種そのものも、多様化の中で生じた一つの種にすぎないのだから
そうした多様化を繰り返す大自然の中で、私たち人間は生活している。

現代社会における三つの要素、民主主義、国家主権、グローバル化についても考えてみた。

民主主義、特に現代立憲民主主主義に関して言えば、我が国において、そして世界中の国々においても、壊滅的危機的状況にある。その原因が何かと言えば、それは多様性の欠如に他ならないと思う。
私は、民主主義とは、少数者が多数者になりうる可能性であると考えている。そのための大前提は、社会における多様性である。多様性のないところにそもそも少数者も、多数者も存在し得ない。それらが存在しない社会、それはすなわち、思想、良心の自由の存在しない社会か、民主主義の存在しない社会かのどちらかである。しかし、どちらにしたところで多様性の存在しない社会に変わりはない。

上記のように、民主主義が衰退減弱する一方、世界中で国家主権は台頭している。アメリカにおけるアメリカファーストを筆頭に、中米関係、東南アジア各国の関係の中での中国、米ロ関係におけるロシア、EU離脱の中でのイギリス、EU領域内でのEU各国、日韓関係における日本と韓国、中東情勢の中でのイラン、イスラエルなど、世界中でみられている。

その要因は、国内においては、上記に述べた様に、国内政治における多様性の欠如に起因する民主主義の崩壊であり、国外においては、国際関係の中での国家間の多様性の欠如に他ならない。国際連合においては、特に常任理事国間での反目、核兵器禁止条約に関して言えば、核兵器保有国、そしてその傘に入っている日本をはじめとする国々の条約参加拒否、環境問題でのアメリカの京都議定書からの離脱に続いてのパリ協定からの離脱、イランの核問題におけるアメリカの核合意からの離脱、米ロ間でのINF全廃条約(中距離核兵器禁止条約)の失効等々、それらの要因は、国際関係における多様性の欠如に他ならない。
今回のフランスでのG7首脳会議でも開催前から首脳宣言は出さないとマクロン大統領は明言していたが、ロシアのサミット復帰も含めて紛糾し、サミットが始まって以来初めて首脳宣言は出されないこととなった。

グローバル化に関して言えば、1991年ソビエト連邦が崩壊し、特に1990年代以降、急速に広がったインターネットの普及とともに経済を中心としたグローバル化が起こったが、それは、第二次世界大戦後のアメリカを中心とした世界が形成されたように、東西冷戦で勝利したアメリカによる世界中のアメリカ化、それがグローバル化であったのだと思う。そうした意味でのグローバル化は、必然的に現代社会における世界各国の多様性の喪失につながってしまっている。

中国、ロシア、そしてイラン、EU各国とアメリカとの緊張状態は、アメリカファースト主義を公言するトランプ政権に起因すると考えやすいが、根底には、現代のグローバル化、即ち、多様性の否定そのものに原因があると思う。そういう意味において、中国、ロシア、イランなどの国々の言い分にも一理はある。但し、それらの国々における国内の多様性、民主主義に関して言えば欠如しているのも事実である。

そうした現代社会における三つの要素、全ての面で多様性が失われている現代社会においては、必然的に個々人の基本的人権など、特にその最たる人権とされる生命すらも最早風前の灯火となっている。

フランスでG7首脳会議が行われているが、その主要議題にアマゾンでの終わりの見えない大規模な森林火災が取り上げられている。アマゾンでは今年に入って7万か所以上で火災が発生しており、今現在も広大な原生林が火災によって失われている。地球温暖化の中で、アマゾン以外でもロシアを含めた世界各地で大規模な森林火災が生じており、そこで生活を営む人々を含めた多くの生物の生存が脅かされている。
特にアマゾンの熱帯雨林は、地球の酸素の20%を産出する一方で、多量の二酸化炭素を吸収する地球の肺である。酸素を産出するどころか、一酸化酸素や二酸化炭素を産出し続けている。火災によるその呼吸停止は、人類含めた地球上のあらゆる生物の生命の終焉を意味している。
又、海水温の上昇による温暖化によって、化学物質によって、放射能汚染によって、プラスチックの海洋投棄によるマイクロプラスチックなどの原因によっても、海洋生物のみならず、地球上全ての、人間を含めた多くの生物の生存が脅かされ、その多様性が失われている。このことは、国連も警鐘を鳴らし続けている。

先日ロシアで小型原子炉爆発事故があり、多くの人が犠牲になったが、ロシア政府は亡くなった方への弔いは、新型兵器開発を成し遂げることだと述べている。

香港では、中国への犯罪者引き渡し条例をきっかけに連日何万人ものデモが行われ、先日は一時期香港国際空港の機能が停止した。それに対して中国は軍隊を待機させ、天安門事件の再来が危惧されている。

日韓関係は、こじれにこじれて、貿易戦争、軍事情報協定破棄、そして竹島での韓国軍による軍事演習にまで至っている。

インドによるカシミール地方での自治権はく奪は、インド国内問題(カシミール自治区の住民の人権制限)を超えて、パキスタン、中国との国境の緊張を高めている。

南アフリカや北アイングランドにおいては、未だにアパルトヘイト、アイルランド紛争による壁が存在している。

アメリカによるINF全廃条約の失効に伴う海上中距離核弾頭の地上型へのミサイル実験、そしてルーマニアへの配備の合意は、かつてのキューバ危機の再来に他ならない。

アメリカ大統領によるデンマークの自治領であるグリーンランド購入の発言

ホルムズ海峡におけるアメリカの呼びかけによる有志連合へのイギリス、バーレーンについでのオーストラリアの参加表明

アメリカにおける宇宙軍の創設

先進国による産業廃棄物の東南アジア諸国などへの輸出

これら最近起きている一連の事象は全て国際政治における多様性の否定に他ならない。

国内政治においては、先の参議院議員選挙における個人の立候補を排除する政党中心の、特に多くの死票を生ずる多様性を否定する小選挙区制度、さらに、党首に強力な公認権を認める党内民主制の否定、それらは全て国内政治における民主制の否定、政治的多様性の否定に他ならない。

横浜市のカジノを含むIR誘致問題、大阪、和歌山、長崎に次いで横浜市長が誘致に名乗りを上げてきた。日本政府は3ヵ所を想定している。政府、地方とも堅実な財政政策をすることもなく安易な手段での税収入の確保、経済効果を狙った経済至上主義の権化に他ならない。

東京オリンピックが近づいているが、その誘致合戦、シンボルマークから会場建設まで、お金にまみれた経済至上主義の権化は、カジノを含むIRと同様に一時的な海外からの観光客含めた経済効果を狙っているが、民主主義の対極にある経済至上主義は、EUで問題となっている地球温暖化を移動手段として最も促進する航空機による移動をさらに促進するものである。

私は、オリンピックなどの世界の祭典は、経済的な発展がまだ途上にある国や、難民問題で行き詰まっている国、戦争によって破壊された国でおこなわれ、それらの国々の経済発展、政治的安定、それらの国々を介した世界平和のために行われるべきものだと考える。そもそも先進国と言われる国々が、産業廃棄物を押し付け、先進国の経済活動である軍需産業によって作られた兵器の使用による犠牲を出させている中で、それらの国々を押しのけ、裏金を出してまで選考委員を買収し、更なる利得を得ようとして開催すべきものではない。

私には、先進国首脳会議だとか、現在の先進国としている国々は、世界中で経済格差を生み出し、拡大し、環境破壊を推し進める詐欺集団国家としか思えない。恥を知るべきだと思う。

上記の事例で明らかなように国際的には、安全保障が問題となり、国内的には民主主義が問題となっている。そしてその根底には大自然の環境問題が横たわっている。

現在生じている国際的、国内的、そして大自然に関する諸問題において共通して言えることは、多様性の欠如に尽きる。そして、失われつつある多様性の確保のための手段として私たち一人一人が為さねばならないこと、それは、今まで何度も述べてきていることであるが、経済至上主義グローバル化の否定であり、経済至上主義国家の否定であり、所得格差の是正である。

そうした中で、私は、日本国憲法が、世界の憲法の中で、最も優れた憲法であると考えている。何故ならば、日本国憲法は、絶対的な相対性を持った憲法だからである。

日本国憲法は、日本国民に対して憲法を順守することを義務付けておらず、否定することすらをも許している。日本国憲法は、国民に対してその命すら投げ出しているのである。
そして戦争を放棄し、政党も規定していない。

私は、そんな日本国憲法が目指す国家、国民とは、絶対的な相対性を持った国家、国民であると思う。

それは絶対的な多様性のある国家、国民に他ならない。
私たち日本国民一人一人は、その日々の生活の中で、家庭生活、学校生活、仕事の上でも多様性を大切にして生活しなければならない。
そして、選挙における投票行為、裁判官の国民審査などの政治的行為においても、多様性という価値基準の中で考え、熟慮した上で判断しなければならない。
何度サミットを開こうが、各国間で首脳会談を重ねようが、何の意味もない。彼ら一人一人に、そして各国に、多様性がない限り、その解決はあり得ない。

各国が、多様性を持つためには、各国の国民一人一人が多様性を持たない限り、少なくとも多様性を持った代表者が選ばれない限り、国家が多様性を持つことは考えられない。

そのためには、国民一人一人が多様性を持った生き方をすること、それ以外の早道はない。そして何度も言うが、私たちに残された時間は少ない。大自然は、加速度的にその多様性を消失している

私たち日本国民は、絶対的な多様性を保障する憲法を有している唯一の国民である。
戦争放棄条文の改正や、政党の条文化、憲法擁護義務者としての国民の条文化など、多様性を否定する憲法改正は、愚の骨頂以外の何者でもない。

最後にもう一度言っておこう、私たち日本国民は、己を捨ててでも他者のために生きる絶対的な多様性のある人間であらねばならない。

    2019年8月26日   文責   世界のたま